第四章「玉造小町」

2020年7月31日
幻の花

わが背子を 都にやりて 塩釜の まがきがしまの 松ぞ恋しき

 貞観七年(八六五年)三月、小町の父、小野良実は出羽郡司に任ぜられた。良実はこの藤原権勢を気にしての朝廷の処遇に、心中、甚だ穏やかでなかった。彼にとって出羽は陸奥と併せた大国であり、他国の郡とは自ら趣きを異にしているとはいえ、一介の郡司として辺境の出羽に赴任されることは、全くもって面白くなかった。愛する妻や娘たちを都に残して、北の果てまで行って、蝦夷の襲撃を防ぎ、そこの統治をすることは、高齢の良実にとって、実に耐え難いことであった。良実は若き友人、在原業平を自宅に招き、別れの酒を酌み交わし、業平に言った。

「業平殿。それがしは何故、かくも太政大臣に憎まれなければならないのでしょうか。それがしは敏達天皇の後胤、征夷副将軍、従五位下陸奥守、小野永見の曽孫であり、従四位下参議、小野岑守の孫なのです。父は語るまでもなく従二位東宮学士、左大弁参議、小野篁なのです。また実家、坂上家よりすると、それがしは征夷大将軍、贈二位大納言兼右大将、坂上田村麻呂の曽孫なのです。なのに朝廷は、それがしのことを一体、何とお思いになっているのでしょう。それがしは、口惜しくてたまりません。 しかし反抗したところで、どうなる訳でもなし、それがしは大人しく出羽郡司として辺境、出羽国へ赴きます。それにしても、都に残していく妻や娘のことを思うと、気がかりでなりません。肉親者にも頼んでおきましたが、貴殿にも、それがしの家庭 のことを、よろしくお願い申し上げる」

 業平は自分のような若造にまで、家族のことを依頼する良実の姿を見て、気の毒に思った。そして良実は何故、妻や娘たちを都に残して行くのだろうと思った。多分、良実の妻、妙子が都にて二人の娘に貴族女性としての知識教養を身につけさせることを願ったからであろう。

          〇

 出羽への出発の前夜、小野良実は、二人の娘を部屋に呼んだ。滅多にあることでは無かった。深更に及ぶまで長々と喋った。そして翌日、数人の家来を連れ、孤影寂然と旅立って行った。

「良く聞いて欲しい。もしかしたら、今度の別れが、今生の別れとなるかも知れない。このことは、お前らも覚悟していることと思う。母上の言うことを良く聞いて、都にて貴族女性としての知識教養を充分、身につけなさい。これといって、お前らに言い残すことが、これ以上、無いので、今夜は、ある女性の物語をしよう」

 その女性の物語とは、以下のようであった。

          〇

 その女性は小町と同じ名の女性で、玉造小町という。彼女の父は四十七代、淳仁天皇の天平宝宇八年(七六四年)に謀反を起こし正一位、藤原仲麻呂の一族で、江州高島の敗戦から、ようよう難を逃れ、世にひそみ隠れて暮らしていた従四位下、藤原朝臣今川の息子、正六位上、藤原清名である。清名は四十九代、弘仁天皇の時代に陸奥介に任ぜられ、桓武天皇の延暦八年(七八九年)、紀古佐美の蝦夷征伐に、一子、大滝と共に参戦したが、蝦夷の奇襲攻撃に敗戦し、一時、出羽の国へと後退した。そして再び時期の到来を待つ間、奥州外ヶ浜、青森の娼女、玉造と深い関係になった。延暦九年(七九〇年)閏三月、桓武天皇は蝦夷との大決戦の為の周到なる準備を企てた。駿河国以東の東海道諸国と信濃国以東の東山道諸国に、皮の甲などの武具、二千領、相模の国以東の東海道諸国と上野国以東の東山道諸国に軍糧、十四万石を準備させ、更に翌四月、大宰府に鉄冑二千九百枚の製造を命じ、十月には全国の国司に、士民、浪人、王臣の財産を調査させ、その能力に応じ、尚、武具を作らせた。翌十年(七九一年)の正月になると、朝廷は百済俊哲と坂上田村麻呂を東海道に、藤原真鷲を東山道に派遣して、兵士の簡閲と武具の調査を行った。七月になると朝廷は大伴弟麻呂を征東大使に任命し、坂上田村麻呂、百済俊哲、多治比浜成、巨勢野足を副使に任命した。続いて鉄甲三千領の修理が開始され、十月には東海東山二道の諸国に、矢、三万四千五百余本を製造させ、十一月には坂東諸国に前年の分に加えて、尚、軍糧十二万石を用意するよう命を下した。このように周到な準備を桓武天皇が命じたのは、前の蝦夷征伐に懲りてのことであった。延暦十一年(七九二年)、藤原清名は大伴弟麻呂が蝦夷征伐の為に、坂上田村麻呂、百済俊哲の諸大軍を引率して下向して来るという噂を耳にした。そして、この機会を逃してはならぬと決心した清名は、都に帰ると偽って、既に懐妊している玉造を捨て、多賀に向かったのである。延暦十二年(七九三年)二月、いよいよ坂上田村麻呂が陸奥に下って来ると、軍事行動は直ちに開始された。蝦夷の必死の抵抗は依然として熾烈を極めた。延暦十三年(七九四年)正月三日、坂上田村麻呂は塩釜大明神に詣で、時の征夷大将軍、大伴弟麻呂より、天皇からの節刀を賜った。そして戦局の悪化を憂え、塩釜大明神に戦勝祈願をした。その帰り、坂上田村麻呂は松林の中で幼児の泣き声を聞いた。声をたよりに訪ねると、紅衣を被った三歳くらいの童女が、この歌と共に捨てられていた。

   わが背子を 都にやりて 塩釜の

   まがきがしまの 松ぞ恋しき

 この歌は藤原清名を追って来た玉造が詠んだものであった。坂上田村麻呂は進軍中であったので、塩釜明神の社司、従六位下、藤原忠淑に、この可哀想な童女の養育を依頼した。延暦十四年(七九五年)一月二十九日、坂上田村麻呂らは遷都されたばかりの初めて見る平安京に帰った。そして第二次討伐の経過報告を行った。それは斬首、四百五十七人、捕虜、百五十人、獲馬八十五頭、焼却した村落、七十五ヶ所という貧しい戦果であった。しかし二月七日の論功行賞で、田村麻呂は従四位に進んだ。更に延暦十五年(七九六年)一月、桓武天皇は田村麻呂に陸奥出羽按察使と陸奥守を兼任させ、十月二十七日には、鎮守府将軍を命じた。ここにおいて田村麻呂は、陸奥における行政軍事を一身に担う重要な位階についた。延暦十六年(七九七年)田村麻呂は征夷大将軍に任命された。この間、蝦夷は平定され、藤原清名は再び陸奥介に返り咲いた。清名は陸奥介になると、身辺の安易逸楽に馴れ親しんでしまい、もうかの愛人、玉造のことなど、全く忘れてしまった。延暦十九年(八〇〇年)、清名の油断に乗じて、達谷窟の高麻呂、悪路王が蜂起し、国府は逆襲に燃えた蝦夷人たちに、たちまちに掠奪され、兵士、百姓が多数、殺略された。散々に打ち破られた清名は息子の大滝と一緒に、一目散、出羽国へと逃亡した。戦えば必ず負けるこの清名親子は神経脆弱で、武人としては不適格者あったようだ。ことを知った桓武天皇は大いに怒った。そして第三次の蝦夷攻略を考えた。今や蝦夷攻略は、桓武天皇の執念になっていた。天皇は田村麻呂の実績をかい、延暦二十年(八〇一年)二月、第三次蝦夷攻伐の節刀を田村麻呂に授けた。田村麻呂は平安京の人々の期待を一身に背負って遠征の途についた。田村麻呂はたちまちにして蝦夷の首魁、高麻呂、悪路王を破り、長年、朝廷が目標として来た胆沢への突破口を開いた。田村麻呂の率いる大軍は怒涛の勢いで、胆沢の盆地をひとのみにした。蝦夷の集落は焼き払われ、逃げ遅れた婦女子は無惨に侵され、馬をはじめ沢山の財宝が奪取された。今まで抗戦して来た勇猛な蝦夷にとって、それは魔人の荒れ狂う日々であった。そんな蝦夷を田村麻呂は執拗に追い続けた。今や官軍は血に飢えた野獣のようであった。蝦夷の酋長、阿弖流為は泣き叫ぶ集団を、遠く閉伊村へ退却させ、最後の抵抗続けた。田村麻呂は、その閉伊村まで進撃を加えた。流石の蝦夷の酋長、阿弖流為も田麻呂に抵抗し難いと悟り、母礼と共に同族五百余人を率いて、田村麻呂に降伏を申し出た。かくして再び蝦夷は平定された。延暦二十一年(八〇二年)田村麻呂は、かって塩釜明神の社司、藤原忠淑に養育を頼んだ童女を引き取りに出かけた。童女はもう十一歳の少女に成長していた。同年七月十日、田村麻呂は蝦夷の酋長、阿弖流為と母礼とを引き連れ、凱旋帰京した。まさに輝くばかりの帰京であった。この時、少女は田村麻呂と一緒であった。田村麻呂の妻はこの少女を玉造と呼び、その利発な性質と天成の美貌を寵愛すること限りなかった。延暦二十三年(八〇四年)春、三月、桓武天皇の勅命により、宮中に伺候する際、田村麻呂は玉造を一緒させた。桓武天皇は、その十三歳の少女を見て、びっくりした。その麗美の程は筆舌に尽難かった。天皇はじめ、居並ぶ王侯諸臣が茫然とした。この世に、こんなにも美しい女性がいるとは、まるで夢を見ている心地であった。桓武天尾は即刻、玉造に采女の役を命じた。そして田村麻呂に仰せられた。「汝、よく養育せよ。成長の暁には、朕が皇子の配しよう」

田村麻呂は娼女、玉造の私生児であるこの美しい少女を、宮中にそのまま入れることを不都合に思った。そして従四位下、蔵人頭、小野岑守を仮りの親とし、衣服調度など万端整えた上、坂上田村麻呂の養女として、この少女を采女町に送った。爾来、彼女は玉造小町と呼ばれるようになった。彼女は采女町にて、音曲、舞踊、和歌を学び、美貌に加えて知見を備え、申し分のない女性に成長した。田村麻呂の妻、尊子は、この掌中の花を、皇太子、安殿親王の妃に奉ることのみ願い、彼女の事となると夢中になった。玉造小町は、この栄耀栄華に気が遠くなるほどであった。君臣の子孫が、婚姻を日夜、競ったが、小町はそんなことと関係なかった。富豪が沢山、贈り物を届けたが、そんなもの全く相手にしなかった。そんな小町も何時しか義姉、春子を憧れるようになった。春子は田村麻呂の実娘で、桓武天皇の後宮となっていた。延暦二十五年(八〇六年)三月二十五日、桓武天皇は七十歳の生涯を閉じた。同年五月十八日、安殿親王が大極殿にて、平城天皇として即位した。元号は大同と改められた。田村麻呂の妻、尊子は可愛い小町を后妃に奉るのは今である夫をを説得し、田村麻呂は、その旨を平城天皇に奏上した。平城天皇は美しい小町の話を聞くと大いに喜んだ。ここにおいて田村麻呂の妻、尊子の宿願は叶えられたかと思われたが、それは果たされなかった。平城天皇の寵愛する尚侍、薬子の阻止にあったのである。薬子は平城天皇に言ったという。

「万一、坂上家より小町を宮中に召されるようなことがあれば、薬子は直ちに宮中を下がって、尼になります。坂上井手子はよろしいにしても、小町だけは宮中に召されるべきではありません」

 最愛の薬子から口説かれては、平城天皇もどうにもならなかった。噂に聞く玉造小町を、一目でも見たいと思ったが、それは叶えられなかった。大同三年(八〇八年)、坂上尊子は、その悲憤の余り、死去してしまった。十七歳の小町は、この母の死に号泣した。大同四年(八〇九年)四月、平城天皇は病を機に退位した。そして皇太弟、神野親王が嵯峨天皇として次の天皇になった。弘仁二年(八一一年)五月二十三日、養父、坂上田村麻呂が死去した。五十四歳の生涯であった。多くの人々が田村麻呂を惜しんだ。嵯峨天皇も田村麻呂の死を傷んで、喪に服した。二十七日、田村麻呂は天皇に従二位を贈られ、山城国宇治郡栗栖村に葬られた。不幸が、小町を一度に襲った。弘仁四年(八一三年)、義兄、坂上広野麻呂は桜花爛漫とした中に、何処からともなく放たれた遠矢に当たって死んだ。弘仁六年(八一五年)には、義弟、坂上伊奈麻呂が山州東山の乱闘で討死にした。かくて蝶よ花よと可愛がられた玉造小町も、全くの一人ぼっちに なってしまった。何時しか、奴婢童僕も小町から去って行った。小町は荒廃した館の扉に凭れ、紅涙をひそかに流し、遠い陸奥の国を懐かしんだ。そして、あの塩釜明神の人々や自分を生んだ青森の娼女に会いたいと思った。小町は門戸の崩れ落ちた草、茫々の館を後にし、自分の生まれたという奥州へと向かった。奥州は遠かった。しかし、そこに亡くなった養母、尊子に似た母がいるような気がしてならなかった。足の苦痛を堪え、空腹に耐え、小町は歩き続けた。旅の風景が美しかった。小町はやっとの思いで奥州津軽外ヶ浜というところに辿り着いた。そこは青い海と青い空だけが眼前を両断している単純な浜であったが、それだけに立ち返る白い波や松林が美しく眺められた。小町はそこで、休息した。と、眩暈が小町を襲った。小町は松の根方に倒れ伏した。そこへ一人の漁師がやって来た。漁師は市女笠の女が倒れているのを見て、駆け寄って来た。そして疲れ果て痩せ衰えた小町を哀れに思い、自分の家に連れて帰った。その男は藤原大滝という男であった。小町はその大滝の家にて数日を過ごした。大滝の父親も大滝の妻も、この哀れな小町に種々と尽くしてくれた。また小町も年老いた病気の大滝の父親、清名の面倒をよく看たので、病人をかかえて忙しかった大滝一家は随分、助かった。そして小町に長年ここにいることを勧めた。春も過ぎ、夏も終わりになった或る日の夕方、大滝は思いかけずも、小町が谷川で水浴をしているのを見てしまった。見てはならないと思ったが、小町の美しい裸身を見るや、もう大滝は自分の情欲を制御しきれなかった。大滝は谷川に跳び込むや、たちまちにして、小町を犯してしまった。やがて二人の関係は大滝の妻に感づかれた。大滝の妻は大滝と小町の間に漂う艶めいた様子を恨み呪い、そのことを老父に訴えた。しかし、この二人の恋着の炎は、もう、どうすることも出来なかった。消そうと思えば思う程、それは火に油を注ぐようなものであった。かくして小町は懐妊した。小町の解任を察知すると、大滝の妻は大いに発憤した。彼女は突然、小町の腹を蹴り上げると、外ヶ浜を駆け回り、やがては山奥へと逃げ込んだ。そして二度と戻って来なかった。流石の小町も、自分の過失を罪深く思った。小町は大滝と離別するべきであると考えた。小町は大滝が狩猟に行って留守の時、病気の父親に涙ながら、このことを告げた。父親は別離を知ると泣いた。

「腹の中に子供がいるというのに、何処へ行くというのだ。大滝が帰ってきたら、私は何と言ったら良いものか。私もかって、お前のように身籠っている女と別れたことがある。今ではその時のことを、とても罪深いことをしたものだと後悔している。離れ離れになってから会おうと思っても、中々、会えるものではない。今、出て行こうとするお前を見ていると、昔のことが思われてならない。あの青森の娼女、玉造は一体どうしてしまったのだろうか」

 小町は驚いた。今、聞いたのは確かに母の名であった。間違いなく老父から漏れた言葉は、母の名であった。小町は老父に駆け寄った。そして実母の歌を詠んだ。

  わが背子を 都にやりて 塩釜の

  まがきがしまの 松ぞ恋しき

                  玉造

 まさにそれは、老父、藤原清名が、かって捨てた女の歌であった。藤原清名は、この出来事に驚いた。あの時、玉造の腹中にあった自分の子供が、今、眼前にいる。そしてその娘、小町は息子、大滝の子供を懐妊している。何という巡り合わせか。何という恐ろしいことか。清名は自分の犯した罪に気も狂わんばかりであった。小町はその清名を残して旅に出た。藤原清名が自殺したのは、それから数日後であった。しかし、その噂は小町の耳に入らなかった。その後の玉造小町の消息は皆無である。

          〇

 この良実が娘に語った玉造小町の話は、弘法大師、空海作『玉造の文』の物語である。江戸時代の国学者、塙保己一が、それを『玉造小町壮衰書』として解説していることでも知られている。この玉造小町は本書の主人公、小野小町ではない。