今はとて わが身 時雨に ふりぬれば 言の葉さへに うつろひにけり
初恋の相手が誰かと問われた時、誰もが本当は誰だったのだろうかと、思い質すに違いない。小野小町の初恋の相手は、在原業平であるかもしてないと言ったが、それは上京した八歳の少女が初めて感じた素敵な男性という程度のもので、初恋とは言えないだろう。ならば小町の初恋の相手は誰であろうか?そんな相手の一人に小野貞樹という男がいた。彼は小野氏であるが、小町とは同族ではない。岩見王の子で、嘉祥二年(八四九年)、時の皇太子、道康親王に仕え、東宮少進となり、翌年、道康親王が文徳天皇として即位すると、彼は従五位下に叙せられ、刑部少輔となった。続いて仁寿二年(八五二年)二月に甲斐守となり、同地に赴任した。同地での彼の詠歌がある。
みやこ人 いかにと問わば 山高み
晴れぬ雲居に わぶとこたへよ
天安二年(八五七年)になると、貞樹は太宰少弐となり、都に戻った。小町と深い仲になったのは、この頃である。小野貞樹は、肥後方面の役職に任ぜられることを知って、肥後に長年いた小野良実の家に訪問し、そこで種々、肥後国のことを教えてもらった。小野貞樹は何度も良実の家に通ううちに、その家にいた美しい少女小町に 心奪われた。彼女の清純な瞳の奥に潜む妖しい艶美な眼差しが、貞樹の欲情を誘い、小町を犯させてしまった。とある春の日、貞樹と小町は桜の花見に出かけた。その折、貞樹が小町の身体を求めた。もともと小町自身も山で鳩がつるんだり、庭で犬がかかったり、野良で百姓の男女がもつれ合うのを見たりしていたので、小野貞樹の要求を、それ程、拒みはしなかった。しかし、最後の一線を越える時には流石に逆らった。小町は貞樹に抱かれ、揺れながら唇を噛んだ。貞樹は容赦なく小町から処女を奪った。以上のことから小町の処女喪失は十五歳頃のことと思われる。それからというもの、二人は機会があれば、愛欲を楽しんだ。貞観二年(八六〇年)、そんな二人に別れの時が来た。その年の正月、小野貞樹は肥後国守に任ぜられた。肥後守となった小野貞樹は、肥後国生まれの小町を、肥後に同行するよう誘った。すると小町は次の歌を貞樹に送った。
今はとて わが身 時雨にふりければ
言の葉さへに うつろひにけり
この歌はこんな歌意に取られがちである。
「私が年取ってしまったので、、今、貴男が私に寄せる言葉は昔と変わってしまったのですね」
しかし、そのように解釈してはならない。次のように解釈すべきであろう。
「私の愛する貴男様は、若い私との情交がありましたのに、貴男様ご自身が降るように老いたので、今が別れの絶好の機会とお思いになって約束した言葉までも、木の葉の色が変わるように、変わってしまわれた感じが致します」
つまり、この歌は、この年の秋、小野貞樹が肥後国に赴任するにあたって、小町を肥後国に同行しようと誘ったことに対する返事の歌である。それは小町が自分が失恋したように見せかけて、肥後に同行しないという、下向断りの歌であった。この歌に対し、貞樹はこう返歌した。
人を思う こころ 木の葉にあらばこそ
風のまにまに 散りも乱れめ
下向する貞樹の怨恨の歌である。
「この私のそなたを思う心が、木の葉のように軽々しいものであるなら、風のまにまに散り乱れることもあろうが、この私の心は決して変わりはしないでいるから、そなたを肥後まで誘ってみたのではないか」
下向する貞樹にとって、愛技を教え込んだ美しい小町を連れて肥後国に赴任することは夢であった。しかし、そんなこと小町の父、小野良実が許す訳がなかった。また小町も、四十八歳の小野貞樹と鄙びた肥後国に下向することを好まなかった。心の何処かに官位を剥奪された東下りの美男子、在原業平のことが、ちらついていたのであろうか。結局、小野貞樹という小町の初恋の男は、小町に男女の恋を教えながら、自分が四十八歳という年齢故に、お払い箱になってしまったのである。肥後国に赴任した小野貞樹は肥後守という重責にありながら、美麗な小町のことが心配で、心配で、仕事が全く手につかなかった。そして一年も経過しない、その年の十一月狂い死にしてしまった。小町は、その話を聞いて驚愕した。なぜ、貞樹が死んだのか想像することが恐ろしかった。貞樹の後の肥後守には藤原政数が就任した。