名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花 われ落ちにきと 人に語るな
小野良実は二人の娘に、美貌であったが為に薄幸に終わった玉造小町の例を出し、お前たちも気を付けるようにと言って、都を去って行った。小町の一家は、父、良実だけを出羽に赴任させて、都から離れることをしなかった。それは出羽国がまだ蝦夷との戦いなどがあり、不安定で危険であったことと、小町の母、秋津の娘、妙子が、二人の娘に貴族女性としての知識教養を身につけさせたいと考えていたからであった。ところが娘二人は父の言ったことなど、軽く考えていた。空海の『玉造の文』を読み、玉造小町を哀れに思いはしても、それを自分の身に置いて考えるということをしなかった。美しい二人の娘は世の不穏にも気づかず、恋に酔った。太政大臣、藤原良房の病により、人心が大きく動揺する中で、二人の娘は甘美な夢を追い続けた。
〇
藤の紫の花房が風に揺れて、実に芳しく香る日のことであった。在原業平は四条のあたりを通りながら、一人の美女とすれ違った。業平は、その美女を何処かで見たような気がした。しかし、彼女が何処の誰の娘であるか思い出せなかった。そこで彼女の後を追いかけて行って、彼女が入って行った屋敷の門標を確認した。屋敷は藤原朝臣有陰の屋敷であった。業平はすぐさま、手紙を書いて、自分の側近の少年に、あの女に渡すようにと伝えた。少年は有陰の屋敷に忍び込み、その手紙を女に渡した。女が受け取った手紙には、こんな歌が書かれてあった。
花陰を 通ひすがれる 汝を見て
風にぞ揺れる 藤の花房
女は恋人、藤原有陰の屋敷で、見知らぬ男からの恋文を受け取り、戸惑った。相手の男が名前も書かずに寄越したので、その場で返事を書かなければならなかった。女は業平が折って寄越した一本の藤の花枝を眺めながら、返歌を書き、手紙を持って来た少年に持たせて返した。
名もいわで 思ひを告げる 忍ぶ草
また来む 風に なびくとぞ思ふ
業平は、その歌を読んで、憎らしいことを書く女だと思った。だが彼女が何処の誰の娘か一向に分からぬままでいた。女は時々、藤原有陰の屋敷に通っていた。業平はその度に使いの少年に手紙を持参させた。少年は必ずといってよい程、返事を持ち帰った。業平は彼女と文通しながらも、会って秘かに語り合うということは無かった。何処の誰の娘であろうかと、心中、怪しむままに、彼女に恋文を送り続けた。彼女も彼女で、名も知らぬ男から素晴らしい恋文を受け取ることを楽しみにするようになった。そした或る日のこと、業平の側近の少年が、息を切らしながら業平の所にやって来た。
「業平さま。例の美女が加茂川のほとりの離屋にいらっしゃいます」
「何だと。それは真か?」
「本当です」
「そうか。なら直ぐに出発じゃ」
業平は今ぞ絶好の機会とばかり、加茂川のほとりに出かけた。少年の案内に従い、その離屋に近づこうとすると、その離屋の持主である老婆が現れ、離屋に近づくことを禁じた。
「何故、近づいてはならぬのじゃ」
「藤原有陰様の御命令で御座います。今日は、あのお人を訪ねて、有陰様がいらっしゃる日なので御座います。それにしても何時もになく有陰様のお越しの遅いこと。宮中の仕事が、お忙しいので御座いましょうか」
「そうかも知れぬな」
「早く来れば良いのに。余り待たせたりすると、あの人はまたお怒りになって、帰ってしまいますというのに」
「ほほう。そんな事があったのか。では有陰様が来られたら、女は帰ったと申してくれぬか。どうしても彼女の耳に入れておかねばならぬ重大な用件があって来たのじゃ」
「でも何時もお世話になっている有陰様に嘘は申せません」
「そこを何とか」
業平が懇願したが、老婆は、そんな嘘は言えないと言った。業平は新しい衣服を与えるから、どうか、そうして欲しいと老婆を口説いた。強欲な老婆は新しい衣服と聞いて、業平の願いを了承した。業平は直ちに少年を女物の衣服を取りに帰し、例の女のいる離屋に向かった。業平は彼女のいる部屋の窓辺に近づくと、何と囁こうかと思案した。その時、藤原有陰が川辺にやって来た。業平は慌てて離屋の裏に隠れた。老婆も慌てて有陰を引き止め、彼女が怒って帰ってしまったと嘘をついた。
「まだ追いかけて行けば間に合いますよ」
「左様か」
有陰は残念そうな顔して、これまた慌てて引き返して行った。有陰が行ってしまうと、業平は一安心。通い窓の所へ行って、小さな声で囁いた。
「中のお人よ。お手紙でしか語ることの出来なかった私は、有陰殿が来られないことを知り、今こそ貴女様にお会いしようと、やって参りました。私は今、貴女様にこんなに近づけた嬉しさと恥ずかしさの入り混じった気持ちの為に、こっそりとお部屋に忍び込むことが出来ません。もし私の身が、自由に何処までも吹き通うことの出来る風であったならば、貴女様の簾の隙間からでも忍び込んで、貴女様とお会いし、貴女様を確認出来るのですが、中々、恥ずかしくて入る気にもなれません。でも私も男。勇気を出しますので、入室をお許し願います」
業平は流暢に喋ってから中の様子を窺った。すると女は直ぐに答えた。
「まあ何と恥ずかしいと仰有りながら図々しいこと。たとえ貴男様が手に掴むことの出来ない風であっても、この簾の内にだけは、私の承諾なしで、お入れすることは出来ません」
女は業平の心をじらす如く返答して来た。業平は有陰の恋人の返答に、これはいけると思った。強引に行けば男を知った有陰の恋人など、簡単に我が物に出来ると思った。業平は彼女の言葉の返答もせずに、突然、離屋に入り込むや、部屋の奥の簾の中に分け入った。女は驚き、ああっと叫んだ。しかし業平は構わず踏み込んで女を抱いた。抱いてから業平は女を見詰めて驚いた。何と業平の抱いた女は、小野良実の娘、寵子ではないか。ここ数年、まともに見ていなかったので、気づかなかったが、彼女は女として立派に成長し、完全に成熟した大人になっていた。流石、藤原良房が横恋慕した文屋秋津の娘、妙子の子だけあって、美しい女だった。業平は寵子を抱いてしまった今、いくら知友、小野良実の娘だからといって、離す訳にも行かず、寵子を抱いた。それにしても、仁寿二年(八五二年)、良実に連れられて、はるばる肥後国からやって来た十歳になったかならぬかの、あの可愛かった少女が、こんなにも髪長く、こんなにも色やかに、こんなにも美しくなろうとは、夢にも思わぬことであった。寵子は業平に抱かれながら言った。
「業平様。寵子には総てが悪夢かと思われます。しかし業平様の寵子への思いが、ゆきずりの恋で無く、真の恋であるなら、寵子は悲しみなど致しません。私の総てを業平様に捧げます」
「本当かな。ならば有陰殿は、どうするのじゃ」
「あの人は才無き人に御座います」
業平は寵子の言葉を聞いて、冷酷な女だと思った。恋人、藤原有陰のことを、そっちのけにして、今、自分に抱かれて歓ぶ、この寵子を心から恋慕している有陰のことを思うと、有陰が気の毒でならなかった。かくて小野寵子は父の知友、在原業平と深い関係になってしまった。寵子と親しくなった業平は、太政大臣、藤原良房を桜の花に譬え、渚の院でこんな歌を詠んだなどと得意になって喋った。
世の中に 絶えて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
その業平の大胆さに寵子は恍惚となった。寵子は業平に夢中になってしまった。プレイボーイと知りながら、業平を素直に受け入れた。
〇
一方、小町は太政大臣、藤原良房の腹心、大納言、伴善男の息子、右衛門佐、伴中庸と恋をしていた。この二人の出会いは、小町の父、小野良実が出羽に赴く時、故小野篁と伴善男が親しかったことから、伴善男が、その篁の息子、良実宛てに餞別の贈り物をしたことに始まる。その餞別の贈り物を小野家に届けたのが、善男の息子、中庸なのだ。中庸には既に妻子がありはしたが、美麗な小町を見るなり、彼女に一目惚れしてしまった。小町も小野貞樹と別れてしまい、父の知友、在原業平に相手にされず、男が欲しかった時期でもあり、この右衛門佐、伴中庸に惚れ込んでしまった。二人は秘かに道ならぬ恋を味わった。その小町と中庸の恋が人に知られるようになったのは、初秋の日のことであった。二人は空が清く遠くまで晴れ渡った日、馬に乗って、有名な交野に出かけた。交野の草深い中で、互いの将来について語り合っていると、遠くから人声がして来た。何だろうと思って中庸は、その人声のする方へ馬を走らせ、様子を見に行った。そして中庸は小町をそこに置いたまま、中々、戻って来なかった。小町は心細くなって、泣き出したくなった。と、その時、草を分けてこちらにやって来る馬の足音がした。小町は中庸が戻って来たのだと思って、立ち上がって、手を振った。すると馬に乗ってやって来たのは中庸で無く、目のぎょろりとした、華やかな僧衣を纏った僧であった。小町は慌てて草の中に隠れた。そんな小町を僧が見逃す筈が無かった。僧は草の中に隠れている小町を発見するや、馬上から声をかけた。
「如何したのじゃ。そこの女子よ」
小町は見つかってしまい、仕方なく起き上がり、僧を見上げた。その小町のちょっと涙ぐんだ顔は、僧の目にまぶしく映った。うるんだ瞳。爽やかな黒髪。白い耳たぶ。丹花の唇。それ惟喬親王や在原業平と一緒に交野まで狩りにやって来ていた僧都、遍昭の心を奪い、気が遠くなる程、遍昭をうっとりさせた。比叡山に登り、三業不犯を誓った遍昭も、その小町の美麗な面輪と姿態とに、もう、どうする術も無く心乱され、ついには馬から落下してしまった。その際、遍昭は腰を打ち、小町を抱きしめる気力も失ってしまった。小町はそんな遍昭を見て、突然、笑い出した。遍昭は今まで泣いていたのに、もう笑っている小町を見て、小町のことを恨んだ。遍昭はその心情を草の中で、小町に送った。
名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花
われ落ちにきと 人に語るな
流石、承和の頃から、業平と歌を競ったところの良岑宗貞だけあって、その当意即妙の遍昭の歌は素晴らしかった。小町は恥ずかしくなって野を駆け出した。小町はあっという間に、遍昭の前から姿を消した。そこへ在原業平がやって来た。
「どうしたのだ。落馬などして?」
遍昭は、業平の奴、見ていたなと思った。それで美しい娘がいたので、馬上から飛び付こうとして失敗したと、ありのままを語った。業平は大声で笑った。そして業平は愛する男のもとへ駈けて行った娘を見やりながら、遍昭に言った。
「見給え。あの娘には恋人がいたのじゃ」
遍昭は業平の指さす野の彼方を見はるかした。そこには馬に乗った青年の影があった。青年は今、駈けて行った幻のように美しい娘を馬に乗せていた。
「そうだったのか。あの可愛い娘はこの野原で、あの男と逢引きしていたのか。それにしても、あんな可愛い娘の恋人とは、どんな野郎なんだろうか」
「容姿心情とも中々、秀逸な青年だ」
「そなたは、あの男を知っているのか。知っているなら、教えてくれ。そして、あの娘の名も」
業平は僧侶のくせに遍昭が娘に一目惚れしてしまったと感じた。それで娘の恋人も既に妻子ある男なら、遍昭がそれに代わっても悪い筈はなかろうと思い、青年と娘の名を遍昭に教えてやった。
「男は正三位行大納言兼民部卿、皇太后大夫、伴善男殿の息子で、中庸という国学詩歌に通じる二十三歳の青年だ」
「して娘の方は?」
「娘は今年の三月、出羽郡司に任ぜられた小野良実殿の次女で、その名を小町という」
業平は遍昭に小町の名を教えてから、小野良実に悪い事をしてしまっただろうかと思った。面倒を頼むと言われた娘に色好みの友人を紹介するとは、何ということだろう。しかし考よれば、多くの名だたる友人に良実の娘たちを紹介し、宮仕えの糸口を掴ませることは、良実を喜ばせることでもあった。こうして小町と中庸の仲は人に知られることとなった。