『風の多吉』 

2021年1月10日
歴史小説

 中仙道の傳馬継手の頭領、新井信五郎の子分に、武井多吉という男がいた。彼は安中藩主、板倉勝明の発案による『兵法は足にあり』から始まった駅伝大会の領民の部に出場し、抜群の成績を上げた。坂本宿から碓氷峠、熊野神社までの最終道程を走り、ぶっちぎりで優勝した。以後、彼は風の多吉と呼ばれるようになった。嘉永五年(1852年)の春、その多吉の前に土塩村の組頭、藤巻右衛門の娘、澄が栄次を連れて現れた。諏訪神社の境内だった。澄は自分が一緒になろうと願う相手を、幼馴染の多吉に一目、見てもらおうと考えたに相違なかった。その栄次は、多吉に会うなり、ぴょこんと頭を下げた。

「小俣村の栄次にござんす」

 多吉は澄の恋人、栄次を見て、びっくりした。眉目秀麗、何という男ぶりであろうか。鼻筋の通った美しい顔をしている。月代をのばし、紫の着流しを着て、優しく笑った姿は、十六歳の澄が夢中になるのも無理は無かった。

「おめえら、夫婦になろうっていうのかい?」

「へぇ」

「それは良かったな。しかし家の者は承知してくれているんだろうな」

「それが・・・」

 栄次が顔を曇らせた。どうしたことか。栄次が溜息をついた。

「うちの親に反対されているんです。家の格が違うって・・・」

 澄の言葉に多吉は、その仔細を窺い知ることが出来た。百姓にもいろいろの格があるのだ。庄屋、名主、組頭、年寄、百姓代、平百姓、小前、出前、つぶれといった格である。多吉は、ちょっと真剣な表情をして、澄に答えた。

「それじゃあ、夫婦になれねえじゃあねえか。周囲の了解があってこそ、はじめて一緒になれるというもんだ」

「そこを何とかして欲しいんです」

「多吉さん。お願い。うちの親を説得して欲しいの」

 澄の哀願に多吉は困り果てた。何と返答をすれば良いのか。多吉にとって澄は、将来、嫁にしたいと思っていた相手だった。それに澄の選んだ目の前にいる小俣村の栄次は、確かに美男であるが、着ている物が、どうも遊び人風で、言葉に堂々としたところが無く、自信の無さそうな男であった。可愛い妹のような澄を、このような男に託して良いものなのだろうか。多吉は頭を振った。

「それは難しい話だ。右衛門小父さんは、俺のいうことなど、信用したりしねえ」

「そんなことはありません。父様は多吉さんの規律正しい毎日を、誉めております。野良仕事のかたわら、安中城下の『造士館』に通い、学業の成績も良く、駅伝では一等で走り、これからが楽しみの若者だと、何時も多吉さんのことを誉めています」

「俺のことを誉めているからといって、俺の発言を信じてくれるかどうかは分かりません。それよりも栄次さんが直接、右衛門小父さんに会って、お澄ちゃんを嫁に欲しいと口説き落とすのが、一番だと思うが。出来るかな、栄次さん?」

 多吉の厳しい眼光に、栄次は視線を逸らせた。多吉の顔を正面から見ることが出来なかった。こんな男に、澄を任せるのは心配だ。栄次はすかさず、答えた。

「何とかやってみます」

「やってみるか。そうと決まったら、善は急げ。直ぐに動くんだ。さあ、お澄ちゃんの家へ行こう」

 三人は諏訪神社の境内から石段を降り、その足で組頭、藤巻右衛門の屋敷に向かった。多吉たちが屋敷に入ると右衛門は奥座敷に座り、年貢の帳簿をつけていた。多吉の訪問に気づくと、右衛門は縁側に顔を出した。庭の松の緑が美しい。多吉と一緒に娘の澄と一人の若者が突っ立ている。右衛門は娘の顔つきを見て唖然とした。

「何かあったのか?」

「右衛門、小父さん。俺の友だちを連れて参りました。こ奴は小俣村に住む栄次と申しまして、俺の友だちです。御覧の通りの優男ですが、仕事に熱心で、頭脳明晰。お澄ちゃんのお婿さんに、どうかと思いやして・・・」

 まずは多吉が口火を切った。栄次は何か喋らなければと思いはしたが、言葉が直ぐに出なかった。その栄次の尻を澄がつっ突き、栄次がようやく口を開いた。

「小俣村の栄次でござんす。本日は、お澄ちゃんを嫁にいただきたく、お願いに上がりました。あっしらが夫婦なることを、どうか認めておくんなさい」

 栄次は、そう言って庭に這いつくばり、右衛門にお願いした。それを見て、澄も慌てて庭に這いつくばり、父親にお願いし、その返答を待った。右衛門は松の緑を見やってから、答えた。

「初めて御目にかかるが、中々の器量じゃあねえか。あんたのことは幾度か、お澄から聞いている。しかし、二人が一緒になることは了解出来ねえ」

「何故でござんすか?」

「お澄の婿は、村内の者と決めている。それに、あんたの小俣村での評判は、余り良くねえ。評判に逆らって、可愛い娘を泣かせたとあっちゃあ、世間の笑い者になるのは、この儂じゃ。わざわざ土塩くんだりまで出かけてもらって申し訳ねえが、帰っておくんあせえ」

「そんなこと言わないでおくんなせえ。あっしは真面目に働きます。なんでしたら、土塩村に住んでも構いません。お澄ちゃんを幸せにします。お澄ちゃんと世帯を持ちてえんです」

 栄次は粘った。栄次の熱心さに、澄は涙をぽろぽろ流し、父親に哀願した。

「お父っあん。お澄からも、お願いします」

 何とか夫婦にさせて欲しい。しかし右衛門は首を横に振って、二人の願いを聞き入れようとしなかった。その理由は、栄次に関する下調べが充分になされていたからである。右衛門の使用人、新助の調査では、栄次の家は小俣村の出前百姓で、父親が数年前に自殺し、栄次は母親と二人暮らし。栄次は野良仕事が嫌いで、家に寄りつかず、酒と女と博打に明け暮れ、決められた年貢も納められず、村の厄介者だということであった。それ故、右衛門は栄次の発言に聞く耳を持たなかった。栄次は澄との付き合いを右衛門から、きっぱりと断られた。人の好い多吉は、そんな栄次を気の毒に思った。自分の家に連れて帰り、酒を飲ませた。二人で酒を酌み交わし、世の中の不公平さを嘆き、飲み潰れる程に酔った 

          〇

 数日して澄が村から消えた。村中、大騒ぎになった。澄が男と逃げたことは、右衛門にも分かっていた。右衛門は組内の多吉に新助と一緒に小俣村に行って、栄次から澄を取り戻すよう依頼した。すると新助が恐る恐る言った。

「旦那様。栄次は悪賢い奴です。二人は小俣村にはいませんよ」

「だったら、何処へ逃げたっていうんだ」

「いるとすりゃあ、高崎か熊谷あたりかも」

「あるいは桶川あたりまで行ったかも。下手をすれば、江戸まで逃げて行ったかも?」

 二人の言葉を聞いて、右衛門は息を呑んだ。

「そんなに遠くまで・・・」

 苦悩する右衛門を見て、多吉が提案した。

「栄次はどうか知らねえが、お澄ちゃんは栄次に夢中だ。一緒になる為に、俺たちの手の届かない、遠い所へ逃げて行きますぜ。早く捕まえないと・・」

「どうすりゃあ良いんだ?」

「もしかすると二人は逃げる道中、悪い連中にかどわかされているかも知れません。いざという時のことを考え、俺は城之助さんを助っ人に連れて行きてえ。小父さん。新助さんにはここに残ってもらい、城之助さんに俺の助っ人を頼んで下さい。それと念の為に、二人の道中手形を準備しておくんなせえ」

 右衛門は、この多吉の申し出を受けて、土塩村山口の山田勇吉の家に行き、娘の捜索の助っ人に、勇吉の息子、城之助を出して欲しいと依頼した。だが勇吉は、行田村の原甚平の長女、久楽を妻にしたばかりの息子を出せないと断った。ところが、その話を聞いていた城之助が言った。

「親父。何を言うんだ。右衛門さんが、こうして頭を下げてお願いに来たんだ。俺と多吉が行けば直ぐに、お澄さんは見つかるよ。人助けだ。行かせてくれ」

 城之助の言葉に勇吉は眉根を寄せて考えた。それからちょっと身をすくめ、右衛門に返事した。

「息子本人が、こう言っておりますので、私の事は気にせず、どうぞ息子をお使い下さい」

 こうして山田城之助の助っ人が決まると、右衛門は乾窓寺に行き、方丈に多吉と城之助の道中手形を作って貰った。

          〇

 道中手形を受け取った武井多吉と山田城之助は、旅立つ前に隣村の『新井組』の親分、新井信五郎を訪ねた。新井信五郎は、高崎から信州上田までの中仙道の宿場町を取り仕切る傳馬継ぎ手『新井組』の頭領であり、多吉や城之助の両親とも親しくしていたので、気楽に相談することが出来た。多吉は藤巻右衛門の娘、澄が小俣村の栄次と逃げたことを内密にしてくれと言って信五郎に話した。すると信五郎は栄次が安中でも悪事を働いている与太者だと知っていて、顔をしかめた。

「それは面倒臭えことになったな。早いうちに二人を探し出さないと、厄介な事になるぜ」

「二人を探し出すのに良い手立ては無いでしょうか?」

 信五郎は腕組みして考えた。小俣組の栄次が逃亡しそうな所は何処か。多吉も城之助も考えた。己が栄次であったなら、何処へ逃げるだろうか。多吉はふと思い出した。

 あれは一昨年の十二月二十一日のことだった。からっ風が肌に染みる寒い日だった。この信五郎親分に案内されて、六人ほどで隣の増田村を経て、薄雪の地蔵峠を越えた。権田村から榛名山を右に眺め、大戸の関所近くの谷間にある平地に向かった。その六人が到着したそこの平地は既に刑場になっていて、広場には重罪人、国定忠治の磔の刑を一目、見ようと、沢山の人たちが集まっていた。忠治の子分たちが、忠治を取り戻しに来るのではないかと、役人や守備兵が、槍や鉄砲などを装備し、物々しい雰囲気であった。磔にされようとしている忠治の白装束姿に、手を合わせて祈る人、ヤジをとばす人、竹矢来を揺する人、泣き声を上げる人、黙って観察する人、涙ぐむ人、怒る人、いろんな人が集まっていた。処刑は凄まじかった。役人の合図で、忠治の胸に長槍が突き刺さると、忠治がにっと笑った。何という笑顔か。こちらを向いて笑っている。信五郎が隣にいた自分の肩を、ぎゅつと抱きしめた。忠治は信五郎が頷くのを見て、安心したかのように瞑目した。と思う間に忠治の胸に刺さった長槍が引き抜かれ、鮮血が薄雪の広がった刑場に飛び散った。誰もが目を覆った。戒めの為とはいえ、磔の刑とは余りにも残酷過ぎた。

 まさか栄次が、お嬢さん育ちの若い澄を連れて、あの地蔵峠を越えたとは思われぬ。となると、二人は九十九川に沿って、安中方面に向かったに違いない。しばらく考えてから信五郎が言った。

「まずは栄次の母親に聞くことだ。儂は街道筋を洗ってみる。まあ、いるとすりゃあ、高崎か玉村付近だろう」

「熊谷や江戸へ逃げるということは無いでしょうか?」

「それは無いだろう。二人が夫婦になろうという考えなら、家族と離れ、不案内な土地へは行くめえ。熊谷や江戸へ行く時は売られる時だ」

 信五郎の言葉に多吉は不安を覚えた。澄が売られる。そんなことはあってはならないことだ。だが栄次は遊び人。それは無いとは限らない。栄次を自分の家に連れて帰った日、多吉は栄次に誓わせた。どんな苦難に出くわしても澄を仕合せにすると・・・。

「多吉さん。あっしを信じておくんなせえ。あっしはお澄にどうしようもねえ程、惚れておりやす。もし、あっしが、お澄を不幸にしたら、あっしを殺しておくんなせえ」

 栄次の言葉に嘘は無い筈である。しかし多吉は何故か不安を覚えた。真剣に考えて込んでいる多吉の肩を、信五郎が、ポンと叩いた。

「そう難しい顔をするな。豊岡に達磨の伊三郎という親分がいる。儂の紹介だと言って訪ねてみるが良い。高崎近辺のことは、何でも掴んでいる筈だ。行くなら早いうちが良い」

「では、これから二人、村を離れます。後の事はよろしくお頼み申し上げます」

「後の事は任せておけ」

 信五郎は胸を叩いて笑った。流石、『新井組』の親分、頼りになると、二人は思った。多吉と城之助は新井信五郎の屋敷を出ると、小俣村の栄次の家に行った。栄次の家は今にもぶっ潰れそうな茅葺きの家だった。栄次の母が、小さな庭で豆うちの仕事をしていた。白髪の老婆は、多吉の訪問に気づくと、辛そうな顔をした。

「また栄次が何か悪さでも、しでかしたんでしょうか?」

「お澄という娘を連れて逃げた。栄次はここに立ち寄らなかったか?」

 老婆は首を横に振った。栄次は全く家に寄りついていないらしかった。このことは右衛門の使用人、新助の調査で既に分かり切っている事であったが、念の為、老婆に多吉が訊ねた。

「栄次さんの為だ。親しくしている行先があったら、教えてくれねえか。娘さんが戻れば、栄次さんは、お咎め無しになるんだ。頼む。教えてくれ」

 老婆は多吉の目を見た。優しさの有る多吉の目に安堵してか、老婆はこう答えた。

「玉村の親分に聞けば分かると思います。倅は高崎に近い玉村の佐十郎親分の世話になっているから、安心しなと、何時も口癖のように言っていますから・・・」

「有難うよ」

 それを確かめると、多吉と城之助は玉村の万屋佐十郎の所へ向かうことにした。

          〇

 多吉と城之助は小俣村から安中城下に出た。しばらく旅に出る可能性もあるので、途中、城之助の通う『根岸道場』に挨拶に伺った。『根岸道場』の荒木流師範、根岸宣徳は手甲脚絆、長脇差に三度笠の股旅姿をした弟子たちを見て驚きの声を上げた。

「突然、どうした。その恰好は?」

 『根岸道場』の三羽烏の一人、山田城之助が、突如、旅に出るとは、宣徳には信じられぬことであった。城之助は自分が旅に出なければならぬ経緯を説明した。

「身内の者が行方知れずとなり、何としても探し出さねばなりません。何が起こるか分かりませんので、あっしら若手が遠くを捜すことになりまして、こんな姿で挨拶に参りました。しばらくの間、暇をいただくことを、お許し下さい」

「それは困ったことになったな。しかし、おぬしとて身内のこととあっては、捨ておく訳には参るまい。忠蔵を江戸にやってしまい、師範代が不足しておる時に、おぬしまでが居なくなるとは辛いことだ」

「中島新八や吉田重吉がおります。二人がいれば大丈夫です」

 城之助の言葉に宣徳は微笑した。『根岸道場』の剣士として旅に出すのも修業のひとつ。そう思えば城之助に暇をやることも、忠蔵を江戸の『海保塾』に修業に出したのと同じこと。宣徳は城之助の休みを許可することにした。

「分かった。もし江戸まで行くようなことがあったら、『海保塾』に立ち寄るが良い。『海保塾』は本郷弓町にある。おぬしも知っておろうが、道場主の海保帆平は千葉周作に師事して、北辰一刀流の奥義を極めて、今は水戸の藩士である。彼は、かって我が門人であった男だ。厳格な男であるが、会っておいて損は無い。それに、おぬしに可愛がってもらった忠蔵も、そこで修業している。もし江戸へ行ったら、寄ってみてくれ」

「はい、分かりました。お暇をいただき誠に有難う御座います。もし江戸へ行くようなことになりましたら、若にお会いしましょう」

「旅も修業じゃ。行く方知れずの人を探し出し、無事、帰って来い。待っているぞ」

「ははあーっ」

 師の心の籠った許しと紹介状を『根岸道場』師範、根岸宣徳からいただくと、山田城之助は深謝した。その挨拶を終えると、多吉と城之助は中仙道を東に向かった。板鼻を越え、豊岡の伊三郎を訪ね、その屋敷に泊った。達磨の伊三郎は新井信五郎の仲間で、二人を歓待してくれた。

「多吉さん。玉村の佐十郎には気を付けねえと、いけませんぜ。あいつは二足の草鞋をはく悪党だ。あんた方が探している栄次というのは、多分、佐十郎か三国屋勝造の手下でさあ。磨けば玉になる百姓娘を探し出し、手籠めにした挙句、江戸の岡場所に売りさばいたり、自分のところで囲ったり、つぶれ百姓の娘を買い上げ、飯盛女にするなど、やることが悪辣」

 伊三郎の話は世間で良く聞く話であった。しかし、幼馴染の澄が、もし、その渦中に巻き込まれたとしたら大変な事だ。近所五人組の責任になり、どんなお咎を受けるか分からない。伊三郎は心配する多吉たちと飲食をしながら、最近、あった話をした。

「この間なんざあ、佐十郎の奴、江木村の弥三郎が死んだのを良い事に、そのかかあと娘を村から連れ出し、そのかかあのお紋を自分の妾にしようとしたらしい。確かにお紋は片田舎には稀な別嬪で、色気があり、見た者は誰でも、一度は寝たいと思う良い女だ。しかし、連れ出された村の名主は、たまったものじゃあねえ。お紋を取り戻そうと佐十郎と掛け合い、三十両を佐十郎に支払い、お紋と娘を村に連れ戻したらしい。村にとっては、ひでえ銭の持ち出しになったちゅう話だ」

「何と汚ねえことをする野郎だ」

 多吉と城之助は伊三郎の話を熱心に聞いた。多吉は明日、尋ねる万屋佐十郎とどのようにして会談するかを考え、腕組みして悩んだ。あの栄次が、そんな悪党の一味であるとは、全く考えたく無かった。

          〇

 玉村宿は中仙道と日光例幣使街道が分岐する宿場町であった。翌日、多吉と城之助が『万屋』を訪ねると、店の奥から出て来た佐十郎は二人の素性を聞いてニヤリとした。

「栄次を捜しているんで御座んしょ。栄次は、ここにはいませんぜ」

「栄次が何処へ行ったか、御存じでしょうか?御存知でしたら、その行先を教えてくんなせえ」

 すると佐十郎は周りにいる子分たちを見てから、笑って言った。

「そう急ぐこともあるめえ。この玉村宿で、ゆっくりなすって、おくんなせえ。丁度、賭場が開かれておりやす。ひとつ遊んで行って下さいまし」

 万屋佐十郎は多吉と城之助を賭場に誘った。二人は誘われるままに、裏通りの一軒家に顔を出した。そこにはかなりの人数が集まっていて、栄次の姿は見当たらなかった。

「これはこれは、お二人さん、ようこそお出で下さいました。どうぞこちらへ」

 多吉と城之助は指定された場所に座った。脇差を腰から抜いて、左膝の下に敷いた。背中に不動明王の入れ墨をした壺振りの男が、甲高い声で叫んだ。

「さ、張った、張った!」

「丁と張った!」

「半だ!」

 それぞれが思い思いの目を張った。二十人近い遊び人の目が盆皿の上に集まる。多吉と城之助は、その熱気に固唾を飲んだ。

「勝負!」

 壺振りが壺ににじりより、皆の顔を眺めてから、さっと壺を引く。

「半!」

 多吉の張った半目が出た。多吉は興奮した。予想が当たるという事は嬉しいことであった。ましてや、このような興奮の坩堝と化した鉄火場での勝ち運は、多吉の中に潜んでいた博徒の血流を喚起させた。城之助は多吉が博打にのめり込むのを恐れた。まずは二分をせしめ、次の勝負で取り返され、三番目で一両になって、倍になって戻って来る。この繰り返しにより、城之助は負けたが、多吉は勝った。

「流石、新井組の若い衆。良い血筋をなされてやんすね」

「まぐれ、まぐれでさあ。城之助さんと合せると、二両、負けたことになる」

「いやいや強うござんすよ。何、今日は負けたとて、明日という日があります。多吉さん。玉村で数日、遊んでいっては如何です。そうすりゃあ、栄次の行方も知れましょう」

 堅気の者を賭博の深みへと誘い込もうとする佐十郎の言葉は巧みであった。多吉はもう一泊して、明日、もう一度、勝負しても良いと思った。だが城之助は反対だった。

「しかし今日、一泊して、明日の勝負で、更に負けたら、すかんぴん。村に帰れなくなる。無宿人になる訳には参りません」

「なあに、あなた様たちの腕筋なら、負けることがあっても、直ぐに取り戻せますよ。元手が足りなくなれば、あっしが御用立て致しやす」

その誘いに乗りかけた多吉を城之助が制した。

「あっしらは、栄次と一緒のお澄を見つけ、村に連れ戻さなければなりません。お澄という娘の所在が分かりましたら、新井組の信五郎親分に知らせておくんなせえ。お礼はたんと致しやす。楽しい盆を有難う御座いました」

「どうしても行かれなされるのですか。では道中、お気をつけて・・・」

「有難うござんす」

 多吉と城之助は深々と頭を下げ、『万屋』を出た。『万屋』を出てから城之助が言った。

「あの佐十郎親分の俺たちを引き留めようとする熱心な態度からすると、俺たちがここへ来た時、栄次たちは、まだ玉村にいたのかも知れねえ・・・」

「すると、栄次たちを逃がす為に、あっしらを賭場に誘い、時間稼ぎしたというのか」

 城之助が頷いた。多吉は城之助の言葉に、自分たちが玉村宿に訪れるまで、栄次と澄が玉村宿にいたに違いないと確信した。なら、まだ、そんなに遠くには逃げていない筈である。向かうは本庄。二人は中仙道を急いだ。神流川の手前に茶店があった。二人は、そこに立ち寄り、栄次と澄の二人が、ここ通過しなかったか尋ねてみた。すると、そんな駆け落ち組は通らなかったと、親父の答えが返って来た。

「でも、十人程の若い男衆と女衆が、一刻程前に、ここを通って行きましたよ。もしかすると、その中に・・・」

 茶店の娘が団子を運びながら、通行人のことを喋ってくれた。

「その中に目のぱっちりした丸顔の娘は、おらなかったか?」

「いました。女衆五人は、みんな別嬪で・・・」

「男衆は、どんな連中だった?」

「男衆も五人で、一人が紫の着流しの良く似合う男前でした。以前にも見たことのある男なので、良く覚えています」

 紫の着流し。栄次に相違なかった。

「有難うよ」

 多吉は茶店の娘に礼を言った。それにしても何故、十人もで旅をするのか。旅芸人の仲間にでも加わり、江戸にでも行こうとしているのか。いずれにせよ、茶店の娘の話は、二人を歓喜させた。二人は手がかりを掴めたような気がした。

          〇

 二人は中仙道を急いだ。神流川を渡り、本庄に入ろうとした時のことであった。街道の林の中から、突然、四人の男が現れた。

「誰だ?」

「待っていたぞ」

「何者だ?」

 無論、答える筈が無い。四人が刀を抜き払った。城之助が多吉を庇うように一歩、前に出て四人に向かって叫んだ。

「てめえら。名も名乗れねえのか。追剝かごろつきか、何か知らねえが、無一文の俺たちをいじめたところで、一文にもならねえぜ」

「俺たちが欲しいのは、銭じゃあねえ。お前たちの命が欲しいのさ」

「死ねっ!」

 一人の浪人風情の男が激烈な気合を発し、突っ込んで来た。多吉と城之助は手にしていた三度笠を天空に放り投げ、その突きをかわした。六人の刀をもった影が、街道脇の林の中で跳躍し、乱れ合った。多吉も城之助も身軽だった。風のような男、多吉。煙のような男、城之助。二人は宙を舞った。城之助が浪人者とやくざ者の二人を相手にした。

「さあ来い。ごろつきども」

 城之助がそう言うと、浪人者が、またもや叫んだ。

「行くぞ」

 次の瞬間、城之助が宙に跳んで、長脇差の刃が光った。

「斬る!」

 城之助は正面から迫って来た浪人者を、顔から胸にかけて、上から猛然と切り裂いた。

「うわっ!」

 荒木流『根岸道場』の師範代、山田城之助の一撃を受けて、浪人者は鮮血をほとばしらせ転倒した。その浪人者に向かった城之助を一人のやくざ者が背後から城之助を刀で突き刺そうとした。その瞬間、城之助は、くるりと振り向いた。そして振り向きざま、下段に構えていた刀を、敵の喉元めがけて斬り上げた。

「げえーっ」

 やくざ者は血飛沫を上げて倒れた。それから城之助は一旦、正眼にしていた刀を下段に戻し、多吉と戦っている二人に駆け寄った。仲間がやられたことに気づくと、二人は腰を抜かし、おじけづいて後退した。わなわなと震えて叫んだ。

「助けてくれ。俺たちは頼まれただけだ。頼んだのは、あの連中だ!」

 震える男の指す方を見やると、十人ほどの男女が、こちらの戦況を見詰めていた。その中に栄次と澄の影があった。

「お澄ちゃん・・・」

 遠方に気を取られている多吉に、一人の男が、斬りかかった。城之助がすぐさま、それに気づき、ひらりと割り込み、飛び違いざま、その男の首を斬った。

「わあっ!」

 男は絶叫を上げ、自分の首を求めて草むらにうっ伏した。荒木流免許皆伝の城之助に刃向かって勝てる筈が無い。残った一人が、三人の死体を見て、完全に腰を抜かし、這い蹲って、命乞いをした。多吉が男に迫った。

「おめえらに仕事を頼んだのは誰だ?」

「先程、俺たちの斬り合いを眺めていた連中です」

「名を知らねえ訳はあるめえ。何処のどいつだ!」

「俺は知らねえ」

「白状しねえと、首がすっ飛ぶぞ!」

 多吉が喋ろうとしない男の首筋に白刃を当てた。男は震え上がり、口をガクガクさせながら、依頼人の名前を口にした。

「そ、其れは『三国屋』の勝造親分です。追手を切り殺すよう、うちの親分に依頼して来ました。連中は娘たちを連れて、江戸へ行くところです」

「江戸へ?」

「そうです。年に数度、百姓娘を売りさばきに、吉原や品川という岡場所へ出かけるんです」

 成程。それで十人連れの理由が分かった。矢張り、澄は売りさばかれるのか。すると栄次は澄を騙したことになるが。多吉は怯えている男に確かめた。

「栄次という男は一緒か?」

「一緒です。奴は勝造親分の子分です。他に土屋源之丞と中村虎之助という浪人も一緒です。連中を追うのは止めた方が良い」

「何故?」

「宿場宿場に連中の仲間がおりやす。幾人、追い人が殺されたことか・・・」

 それを聞いて、多吉は、緊張した。だが城之助は笑った。その城之助の不気味な笑い顔を見て、男はぞっとした。殺されるのではないかと、慌てて逃げ出そうとしたが、腰が抜けて動けない。男はうろたえ、更に喋った。

「しかし、兄さんたちなら大丈夫です。うちの用心棒、寺田伸之進を倒したのですから・・・」

 多吉は城之助が、顔から胸へかけて、一刀のもとに斬り裂いた浪人の死体を見て、こ奴が噂に聞いていた寺田伸之進かと改めて眺め直した。城之助は、そんな男のことなど気にせず、先程、放り投げた三度笠を拾い、その一つを多吉に渡した。

「行くべえ」

 多吉は城之助から三度笠を受け取ると、それを頭に載せた。男が立ち去ろうとする二人に声をかけた。

「お名前を?」

 だが多吉も城之助も名乗ることはしなかった。人を殺して、自分の名を告げることもあるまい。兎に角、先を急がねば・・・。

          〇

 二人は本庄に泊ることを止め、深谷宿に泊まることにした。深谷宿に到着した刻限が遅かったので、飯盛旅館に泊まることにした。飯盛旅館は女郎屋を兼ねた旅籠で、平旅籠と違い、遅い時刻でも泊りの申し込みが出来た。勿論、宿泊代もその分、高い。多吉と城之助は、二階の相向かいの部屋に通された。多吉は自分の部屋に城之助と自分の晩飯を準備させ、交替交替で風呂に入り、それからゆっくり二人で酒を酌み交わした。多吉が城之助に聞いた。

「連中も、この宿場に泊っているんでしょうか?」

「そうかも知れねえ。女連れだ。この宿場か岡部で精いっぱいだろう」

「油断、出来ませんね」

「なあに、もう襲って来ることはあるめえ。むしろ、襲わねばならないのは、こっちの方だ」

 城之助は何時、連中を襲うべきかを考えていた。彼らが娘たちを売りさばくのは江戸である。江戸に入る前に澄を取り戻さなければならない。そんな考えをしているところへ飯盛女が、部屋に入って来た。

「お客さん。お酒がすすみませんね」

 飯盛女が、そう言って酒を注いだ。小肥りの女が二人、二人に愛想よく語りかけ、晩飯の面倒を見てくれた。多吉と城之助は、ほどほどのところで、酒を切り上げ、晩飯を食べた。腹が満たされると、本庄での斬り合いの疲れが、全身に回って来た。

「そろそろ切り上げるか・・」

「そうですね。じゃあ、明朝、何刻に?」

「そうだな。辰の刻前に帳場で会おう」

 城之助は多吉と、明朝、帳場で会うことを約束して、部屋から出て行った。多吉は部屋の食膳を片付けてもらい、飯盛女にからまれたが、三国屋の勝造が、何時、子分を殺された仕返しにやって来るか心配で、落ち着くことが出来なかった。一方、相向かいの部屋に戻った城之助は、飯盛女に足を揉ませた。足が相当に疲れている。斬り合いの時、激しく跳躍した為であろう。足を揉ませながら城之助は、女に訊ねた。

「お姉さんは、何処の生まれでござんしょう?」

 すると飯盛女は得意になって、自分の身の上話をした。

「あたしは越後塩沢の生まれのお時。口べらしの為、十三の時、高崎の旅籠で働くことになり、泣く泣く三国峠を越えて来ましたっけ。あの頃はまだ幼くて、世間のことは何も知らず、旅籠での見習いから始めましたっけ。見習い早々、旅籠の主人に蔵に入れられ、蔵の中の畳部屋で、否応も無く丸裸にされ、女にされてしまい、数日、主人の相手をさせられましたよ。でぶっちょの主人が、よだれを流し、あたしにのしかかって来るのを、目を閉じて、じっと我慢していたあの頃は、自分を産んだ親を憎み、世の中を恨んだものさ。それから客取りをするようになり、あたしゃ、変わりました。乱暴な人。優しい人。若い衆。旦那衆。お武家様。渡世人。いろんな人がわたしの上に乗って行きましたよ」

「それはご苦労なことで・・・」

 城之助は飯盛女のことを気の毒に思った。しかし飯盛女は、そんな自分の過去を、ちっとも暗く思わず、芝居の主人公にでもなった気分で、明るく喋り続けた。

「そのうち、佐野の春吉さんが、あたしの所へ頻繁に通うようになり、寒い冬の夜、あたしは春吉さんと駆け落ちしたんだ。あたしは越後の生まれ、寒さなんか、ちっとも気にならなかった。でも春吉さんは途中、岡部村に入った所で動けなくなり、拾われたのが、この旅籠。春吉さんは病気になり、翌年、早々、死んじまった。ここの旦那さんは親切な人で、春吉さんのお墓を建ててくれました。あたしは旦那の優しい心に感謝し、ここで飯盛女として働きたいと申し出たんだ。旦那さんは納得して下さった。それから、あたしはずっと、ここにいるって訳・・・」

 飯盛女の物語。何処から何処までが真実で、何処から何処までが虚偽なのか、城之助には分からなかった。城之助は話題を変えた。

「この宿場で何か変わったことは無いか?」

「変わった事は毎日あるけど、小さなことばかりで、大したことは無いよ」

「それでも何かあるだろう。何か?」

「そうだねえ。この頃、お客さんくらいの若い衆が、この宿場に増えたわねえ。お陰であたしたち年増でも、もてもて。旅籠『寿屋』は大繁盛ってゆうところかしら・・・」

 そう言いながら足を揉んでいた時は、城之助の横にすり寄った。次の行為に移ろうと、熟した肉体で、城之助を温かく包み込もうとした。ところが城之助は、この宿場に何故、若者が集まって来ているのか、気になって仕方無かった。

「何故、この宿場町に若い衆が、集まって来るのか、その人気が分からねえ?」

「お客さんて、渡世人にしちゃあ、田舎者だねえ。今、世の中は大きく変わろうとしているんだよ。異国から、いろんな人たちがやって来て、徳川様に新しい進んだ知恵を教えていらっしゃる。お客さんたちは、もう、剣術など覚える必要が無いんだってさ。その代わりに砲術というものを習わねばならねえってことらしいよ。その砲術で有名な高島秋帆先生という人が、この近くの岡部にいらっしゃるので、若い衆が、砲術を習いに、ここら辺に集まって来ているって訳・・・」

「成程、そういうことか・・・」

 城之助は自分の無知蒙昧を反省した。安中の『造士館』で優秀な成績を上げ、『根岸道場』で免許皆伝の腕前を認められたとはいえ、世の中の大きな動きに全く疎過ぎた。飯盛女にも劣る自分の視野の狭さに、城之助はひたすら恥入った。高島秋帆なる人物は、もと長崎の役人で、オランダ人から西洋砲術を学んだ砲術家で、異国人との私的交流を咎められ、岡部藩に幽閉されているらしい。時の話に頷く城之助に時が甘ったるい声で言った。

「もう良いでしょう・・・」

 時はすねるように言いながら、寝床の中に城之助を横倒しにすると、そのまま添い寝し、城之助にからみついた。城之助は、今頃、久楽はどうしているだろうと、妻のことを思った。

          〇

 翌朝早く、多吉たちは深谷宿を出発し、熊谷、吹上など中仙道の宿場宿場で男女十人の一行を見かけなかったかと尋ね歩いた。だが、それらしき情報は得られなかった。もしかすると、自分たちが先になってしまったのかも知れないと、多吉は焦った。

「あっしらが急ぎ過ぎたのでしょうか。引き返しましょうか?」

 すると城之助は鼻をふんと鳴らした。

「何、慌てることはねえ。連中にとっては追手のあることを知っての旅だ。道中の茶屋茶屋に口封じして江戸に向かっているに違いねえ。江戸が上がりの道中双六。先に行って待っているのも、乙じゃあねえか」

「そう言われれば、その通りで・・・」

「それに、ちょっと寄らなければならぬ所がある。街道から外れるが、丁度、良い」

 二人は吹上村から中仙道を右にそれて、荒川を渡った。荒木流師範、根岸宣徳から紹介状を貰っている胄山村の根岸友山の所に、今晩、厄介になる予定にしていたからだ。根岸友山は国学和歌を好み、宣徳と縁戚ということであり、二人の恩師と交流のある文人であった。その友山の屋敷は立派な門構えの屋敷であった。縞の合羽に三度笠の二人が、その門を潜ろうとすると、突然、体格の良い大男から声がかかった。

「待て待て、何処へ参る?」

「今晩、お屋敷に御厄介になろうと思いまして・・・」

「ここは旅籠ではない。ここは、おめえたち渡世人の来る所ではない」

 大男は門前に来た二人を叱責した。多吉は身なりで相手を判断しようとする若者に怒りを覚えた。だが多吉は我慢した。

「あっしらは、ある剣術師範の先生より、紹介状をいただき、御屋敷に御厄介になろうと思いましてやって参りました」

「何だと。ここの用心棒になろうという魂胆なら、俺と勝負せい。相撲で俺に勝ったら、ここを通してやる」

 多吉は思わず後退りした。代わりに城之助が男のそばへ歩み寄った。

「良かろう。やってやろうじゃあねえか」

 城之助が笑って答えた。そして城之助と若い男の相撲が、根岸家の門前で始まった。二人とも顔一面に闘志をみなぎらせ、互いに左四っの恰好になり、激しくぶつかり合った。多吉は二人のもつれ合う熱の入った動きを、息を呑んで見詰めた。だが簡単に勝負は決まらなかった。多吉は城之助を応援した。

「城之助さん。そこ、そこを押すんだ!」

「ところが、そうも行かねえんだ」

 相手が、城之助の腕を取った。城之助は、ありったけの力で、それを振り払った。それから相手の股間に頭を突っ込んだ。

「な、なんでえ、こりゃあ!」

 男は片足を上げ、城之助の突き倒しをよけた。その騒ぎ声を聞いて、沢山の人たちが集まって来た。根岸家の主人、根岸友山も現われた。丁度、その時であった。男が主人の方を見た瞬間、城之助がいきなり身体を開いて打った下手投げが、ものの見事に決まった。相手は頭から地面に強く叩きつけられた。それを見た根岸友山は拍手喝采して喜んだ。

「うはははははあ。栄助、どうした。日頃の腕自慢はどうした。立てい。立って、もう一度、取り組んでみい!」

 その友山の言葉に栄助と呼ばれた男は、フラフラと立ち上がり、再び城之助に突進した。城之助が軽く煙のように身をかわし、栄助を突き飛ばすと、栄助は門脇の植木の中に頭を突っ込んだ。その様を見て、見物人一同が爆笑した。その無様な男の首を城之助が掴んで、植え込みから引きずり出して言った。

「まだやりますか?」

「まいった。降参でござる。あんたさんのお名前は?」

「上州碓氷の郡、土塩村の山田城之助にござんす。わが師、安中藩御指南役、根岸宣徳様の御紹介により、一宿一飯のお世話になりたく、お伺いしました。友山先生に御取次のほど、よろしゅうお願い申し上げます」

 そう言って城之助は懐中から恩師より預かった書状を取り出し、栄助に渡そうとした。すると主人の友山が近寄って来て、その書状を取り上げ、懐中にしまった。

「私が根岸友山です。どうぞ中へお入り下さい」

 多吉と城之助は友山に案内され屋敷に入り、客間に通された。客間は、まるで武家屋敷のそれのように広かった。友山は根岸宣徳の書状を読み、口を開いた。

「人探しの旅、御苦労なことです。私どもに出来ることでしたら、何なりと、お申し付け下さい。ここら一帯のことでしたら、お役に立つ知らせも耳に入りましょう」

 友山の言葉に多吉は、同じ村の娘、澄を探している事情を語った。このような事件は胄山村でも起きているという。悪い遊び人が、うぶな娘たちを、江戸に売り飛ばし、それで得た金を賭博に注ぎ込んでいる話は、上州に限ったことでは無いらしい。全国、至るところで、このようなことが起こっていたのだ。友山は客間で多吉たち二人と夕食をしながらいろいろなことを語った。

「我が国は西洋諸外国より、五十年、遅れている。我が国民は同じ人として生まれながら、身分制度という悪弊に、誰もが縛られ、汲々としている。私は人は武家であろうが、百姓であろうが、商人であろうが、職人であろうが、皆、平等でなければならぬと思っている。男女においても平等でなければならぬ。人の身を売り買いするようなことなど、あってはならない事だ」

「へえ。仰有る通りで・・・」

「だからといって、我が国のことを情けない国だと、諦めることは無い。世の中はまもなく変わる。我が国に異国人が頻繁に交流を求め、幕閣の有識者たちは、外交が重要であることを理解し始めている。開国は間近じゃ。国民が異国の文化文明に触れれば、人身を売買するようなことも無くなるであろう」

 友山は多吉と城之助に熱弁をふるった。深谷宿の飯盛女が城之助に言った通りだ。世の中は今、大きく変わろうとしている。多吉たち二人は時代の変化に無関心であったことを恥ずかしく思った。二人にとって友山の語ってくれる異国の話は総てみな、耳新しかった。

「我が国には優秀な若者たちが大勢いる。異国の学問に興味を持ち、積極的にそれを吸収しようと活動している若者が増えている。故に我が国は旧套を守り、鎖国を続けるべきでは無い。世界の道理に基づき、異国と共に、互いの好みを通じ合い、見識を広めるべきである。私は貴男方若者に期待している」

 友山は床の間に飾ってある地球儀を指し示し、アメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、ロシアなどの国々の話を、深更になるまで語ってくれた。そして日本人を筆頭に東洋人は目覚めるべきだと強調した。

          〇

 胄山村の朝は藤や桐の紫の花が咲いて爽やかであった。多吉と城之助は根岸友山に厚く礼を述べ、別れの挨拶をした。別れ際、友山が、笑顔で言った。

「昨夜は面白かった。また遊びに来て下さい。目的をうまく果たせるよう祈ってます」

「有難う御座います」

「ああ、そうだ。栄助、桶川まで、二人を送って行きなさい」

「へい」

 栄助は友山から道案内の駄賃をいただき喜んだ。三人は根岸友山の屋敷を出ると、まずは吉見に向かった。吉見の百穴などを左に見て、桶川に向かいながら多吉と城之助は栄助にいろんなことを訊いた。

「栄助。おめえは、友山先生に何時から仕えているんだい?」

「十六の時、修業の為、秩父の実家から友山先生の所に出されてよ。それから今まで、武芸学業、野良仕事、用心棒など、いろんなことを経験したよ。だが長男なので、今年いっぱいで、秩父の田代家に戻ることになっているんだ」

「そうなんだ。じゃあ、実家に戻ったら、立派な跡取りだな」

「おだてるない」

 栄助は照れ笑いを浮かべ、多吉の肩をポンと叩いた。城之助も話に加わり、栄助に言った。

「おめえの腕は大したもんだ。俺たちが人探しを終えて、上州に戻ったら、秩父のおめえと、何かでっけえ仕事をやりてえな」

「そいつは面白れえな。何時でも声をかけておくんなせえ」

 三人は、そんな会話をしながら、けらけら笑い、田代栄助の案内で、桶川へ出た。桶川の茶屋で一服し、多吉と城之助は、そこで田代栄助と別れた。二人はそこから中仙道を大宮に向かった。大宮へ行く道すがら、男女十人の一行を見かけなかったか、人々に訊ねた。

「そういえば昼時、十人ほどの女衒の一行が通りやんした」

 街道筋で草刈りをしていた百姓が教えてくれた。二人は先を急いだ。連中は大宮に泊るに違いなかった。多吉と城之助は、大宮の宿場で連中に追いついた。連中がそろって旅籠『吉野屋』に入ったのを確認して、宿泊先も分かったので、自分たちも、近くの旅籠に泊ることにした。部屋に案内されると、城之助が先に風呂をいただくことになった。その間、多吉はこっそり部屋を抜け出し、澄たちが宿泊している旅籠に忍び入った。ところが警戒が厳しく、女たちに近寄ることが出来なかった。城之助が風呂から出て、多吉が部屋にいないので、茫然としていると、多吉が部屋に戻って来た。多吉は城之助に、『吉野家』を偵察して来たことを話した。城之助はびっくりした。

「おいおい、危ない真似をするんじゃあねえよ」

「申し訳ねえ。つい気が急いてしまってよ。あの旅籠の庭の植木の蔭から女部屋を覗いたら、お澄ちゃんがいたよ。明るい顔をしてた。何処へ連れて行かれるのか、全く分かっていねえみてえだ」

「男に惚れた女は盲目だ。何処へ連れて行かれようが関係ねえ。ずっと一緒にいられたら仕合せだと思っている」

「浪人二人が、部屋の外で見張り番をしていたよ」

 その様子を聞いて、城之助は思案した。浪人、土屋源之丞と中村虎之助が栄次たちと交代交替で見張っていては、女たちを逃亡させることは不可能である。こうなっては明日、江戸に入る前に、民家の無い場所を選んで待ち伏せするしか方法はない。城之助は明日の明け方、多吉と一緒に澄たちを救出する予定でいたが、考えを変更した。

「決着は、明日の昼前に変更しよう。急いては事を仕損じる。明日、森の多い街道筋で連中と勝負しよう」

「明日の朝、旅籠『吉野家』を襲うんじゃあねえのかい?」

「旅籠も連中の仲間だということもある。用心には用心を重ねえとな・・・」

 城之助は慎重だった。敵は五人である。それも武士が二人。どんな剣の使い手か分からぬ。恩師、根岸宣徳に教え込まれた人生訓が、頭に浮かんだ。《人の命は只一つ。無闇に戦うことなかれ。活人は善であり、殺人は悪業なり》と。城之助は出来得るれば、敵を傷つけずに、澄たちを救出したいと願った。その為には明るい場所での救出が最適であると思われた。多吉は深夜に旅籠に忍び込み、そっと澄に近づき、澄だけを助けようと考えているようだったが、城之助は、その危険を嫌った。城之助は多吉の盃に酒を注ぎながら言った。

「何も急ぐことはない。明日の日は長い。ゆっくりやろうじゃあねえか」

「城之助さん。やけに覇気がありませんね。何か悩み事でもあるのですか?」

「五人の女たちを救出してやることが、女たちにとって、果たして仕合せなことであるかどうか、悩んでいる。お澄ちゃんにしても、そうだ。好きな栄次に夢中になり、女衒の一行に混じって江戸へ逃げる。その道行きは、お澄ちゃんにとって、この上ない喜びであるかも知れない・・・」

「そんな馬鹿な!」

「俺たちに追いかけられていることは、お澄ちゃんにとって、迷惑なことかも知れねえ」

「そんなことは無いよ。あっしらは、お澄ちゃんを女郎にしてはならねえんでさあ」

 言われてみれば多吉の言う通りである。澄の父親、藤巻右衛門は娘の不幸を望んでいない。娘が不幸になることを恐れて、多吉と城之助を追手に差し向けたのである。多吉たちにとっても同じことだ。澄がまともな祝言を挙げ、真面目な男と世帯を持ち、仕合せになってくれることを望んでいる。

「栄次は本当に、お澄ちゃんを女郎屋に売るつもりなんだろうか?」

「当たり前でさあ。早く助け出さねえと、とんでもないことになっちゃうよ」

 多吉は泣きそうになった。その顔を見て、城之助は、明日は是が非でも、澄を救出せねばならぬと思った。そこで城之助は多吉に言い聞かせた。

「多吉ちゃん。敵は五人だ。余程、手際よく動かねえと、こちらがやられる。兎に角、多吉ちゃんは、お澄ちゃんを捕まえて逃げるんだ」

「分ってる」

「そこでだ。俺がまず刀を抜いて、男五人に襲い掛かる。多吉ちゃんは、その隙を見て、お澄ちゃんを連れて江戸方面へ逃げてくれ」

「分かった。でも城之助さん、男五人を相手に大丈夫ですかい?」

 すると、城之助は少し酔いが回ったのか、目を細めて言った。

「大丈夫だ。多吉ちゃんが刀を抜かなければ、連中は俺だけを倒そうと、俺を狙って来る。逃げ惑う女たちには目もくれぬ筈だ。その隙を見て、お澄ちゃんを連れて逃げてくれ。向かうは本郷弓町の『海保塾』だ。根岸忠蔵がいる筈だ。忠蔵がいなければ、海保帆平先生を尋ねてくれ。必ず匿ってくれる筈だ」

「分かった。その手筈で行こう」

 二人は、その他、想定されることを種々、語り合った。計画通りになるかどうか分からないが、二人は明日が勝負だと覚悟して、酒を飲んで寝た。

          〇

 翌日の午後、多吉と城之助は戸田の渡りを越え、板橋の手前、志村の森にて、男女十人の一行を待った。いろんな連中が森の前を通過して行く。武家の一行、商人、飛脚、旅芸人、虚無僧、巡礼、馬方、百姓、不斗出者、大工職人等々。そして申の刻、ようやく一行が前方に現れた。栄次と大作が飛び跳ねるように笑みを浮かべ、先頭をつとめ、その後を五人の女たちがぞろぞろ歩いてやって来る。足の痛そうな娘たちも、何とか我慢しながら、頑張って追従している。それから少し間隔をおいて、土屋源之丞と中村虎之助と金久保の長吉が後方からやって来る。と、突然、前方の森の中の松の根方に腰を降ろして座っている渡世人、二人を発見し、栄次と大作が立ち止まった。栄次が踵を返そうとするのを見て、多吉が声をかけた。

「おっと栄次さん。ここまで来て、引き返すのかい?」

「何だ、多吉さんじゃあねえか」

「栄次さん。どちらに行かれるつもりなんです?」

 多吉が問うと栄次は空を仰いで顔をしかめた。

「何処だって良いじゃあねえか」

「小俣村で、お澄ちゃんと世帯を持つ積りじゃあなかったのかい?」

「うるせえ!」

 すると栄次は、人が変わったように叫んだ。多吉の家で酒を飲み交わしたあの栄次とは、全くの別人であった。多吉は執拗に訊いた。

「何処へ行くつもりなんです?教えてくんなせえ」

「決まっているじゃあねえか。吉原だよ、吉原」

 栄次に代わって大作が答えた。その大作の言葉を聞いて、澄たちの顔色が急変した。澄は栄次と江戸見物の後、江の島参りをして、深川で世帯を持つ予定だったし、他の女たちは江戸の大名屋敷へ女中奉公に上がるのだと聞いていたのに、吉原へ行くとは、一体、どういうことか。

「そんな話、嘘でしょう。嘘でしょう。どうなの栄次さん」

 澄が目の色を変え、真剣な顔で、栄次に訊ねた。だが栄次は冷淡だった。取りすがって訊く澄を突っ撥ねて言った。

「嘘じゃあねえ。本当だ!」

 それを聞いて、澄は発狂しそうになった。

「いやーっ。私、栄次さんと深川で世帯を持つつもりで、ついて来たのよ」

「嘘をついて悪かったな。申し訳ねえが、そんな甘い話は、この世にはねえのさ」

「畜生!私を騙したのね」

 澄は奇声を上げ、栄次に殴りかかった。栄次は黙って、澄の為すがままにさせた。澄の瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちるのを見て、多吉が叫んだ。

「お澄ちゃん、止めろ!」

 多吉は、そう叫んで、澄の手を摑まえると、澄を連れて一目散に走り出した。昨日、城之助と打ち合わせした通り、本郷弓町なある『海保塾』に向かって突っ走るのだ。

「あっ、何をするんでえ!」

 逃げて行く二人を捕まえようと、栄次と大作が走り出そうとするや、その前に城之助が立ちはだかった。厳しい形相をしている。栄次と大作は慌てて長脇差を抜いた。城之助も長脇差を抜いた。それに気づき、後方から来た土屋源之丞、中村虎之助、金久保の長吉が走って来た。土屋源之丞が薄笑いを浮かべて言った。

「おぬし一人で、我ら五人を相手にしようというのか?」

「あたりまえさ」

「だったら、行くぞ!」

 そう言うや、土屋源之丞が上段から城之助に向かって、太刀を振り下ろした。城之助はさっと後ろに跳びすさって、太刀をかわした。城之助に太刀が振り下ろされるたびに女たち四人が、悲鳴を上げた。大作が源之丞に向かって太刀をよける城之助の背後を狙って、突っ込んで来た。城之助は咄嗟に体を左にかわし、突っ込んで来た大作の両腕を切り落とした。

「げえっ!」

 切断された大作の両手首が、長脇差を握ったまま、地面に転がった。それを見て、栄次が蒼白になった。その栄次に城之助が、何か言おうとした時、中村虎之助が、わめきながら斬りかかって来た。

「死ねっ!」

「てめえこそ死ね!」

 城之助が薙ぎ上げた刀は、容赦なく中村虎之助の顔面をとらえた。虎之助は顔面から血を噴き出し、顔面を抑えながら、そのまま地面に突っ伏した。その無残な虎之助を見下ろす城之助を、源之丞が背後から斬りつけた。城之助はその太刀を避けきれず、右肩口から背中にかけて斬られた。鋭い痛みが背中を走った。不覚だった。傷口に汗が沁み込んで痛い。このままでは源之丞に殺される。城之助は栄次に目をやって言った。

「栄次、また会おうぜ!」

 そう言うや、城之助は、自分の心臓部に次の切先を突き刺そうとする源之丞の太刀をかわし、もう風のように街道を走り出していた。

「何と素早い奴か」

 土屋源之丞は城之助を茫然と見送った。金久保の長吉が息を呑んで言った。

「あいつが噂の煙の城之助でさあ」

 二人が城之助を見送っている間、栄次は鮮血に染まり地面に突っ伏している中村虎之助と大作が、動かずにいる姿を眼前にして、狼狽していた。長脇差を両手で握ったまま、膝をガタガタさせ、ガタガタが止まらないでいた。もう辺りは黄昏になり始めていた。

「あの傷では、あいつは助かるまい」

 源之丞が、そう呟いて、懐紙で太刀を拭いていると、板橋の元締め、梅屋六兵衛の子分たちが、事件を知って、駈けつけて来た。栄次は顔馴染みの伊助の顔を見て、漸くほっとし、震えが止まった。栄次はすぐさま伊助に虎之助と大作の介抱と女四人の監視を依頼した。そして、梅屋六兵衛に会って、多吉たち逃げた連中を探し出し、捕縛することを、六兵衛に願い出るつもりでいると、土屋源之丞に話した。

          〇

 本郷三丁目の『海保塾』に駆け込んで来た多吉と澄の話を聞いた海保帆平は、根岸忠蔵ら三名を、板橋方面へ走らせた。安中の『根岸道場』師範代の山田城之助に万一のことがあってはならぬ。忠蔵ら三名は板橋に辿り着くと、城之助の安否を確認しようと、縁切り榎木辺りをうろつき回っている板橋の元締め、梅屋六兵衛の子分たちに、それとなく質問した。

「このあたりで、渡世人が喧嘩していると耳にしたが、喧嘩の場所が何処か知っているか?」

「喧嘩はもう終わりましたよ。渡世人の男二人と娘一人が逃げたんで、あっしらは、そいつらを捜しているんですよ」

「そうか。喧嘩は終わったのか」

「うちの親分の知り合いの腕利きが二人も斬られたので、何としても、そいつらを捕まえないと・・・」

 根岸忠蔵は梅屋六兵衛の子分たちの話を聞いて、逃げたという男女が、『海保塾』に駆け込んで来た多吉と澄であると確信した。ならばもう一人の男、山田城之助は何処にいるのか?忠蔵は『根岸道場』の先輩、山田城之助がどうなっているのか、気が気でならなかった。更に六兵衛の子分に確かめた。

「そいつらは、どっちに逃げた」

「志村の森からこっち方面へ逃げて来たので、ここら近辺に隠れているんじゃあねえかと、思うんだが・・・」

「そうか。斬り合いは、そんなに激しかったのか?」

「男一人と娘一人は、斬り合いの最中、先に逃げたらしい。風のように早い野郎と娘だったとか・・」

 忠蔵は男女二人のことは分かっているので、城之助がどうなったかを確かめた。

「じゃあ、残った男一人が親分の知り合いの腕利き二人を斬ったのか?」 

 忠蔵たちは乱闘騒ぎの状況がどうであったのか、興味津々だった。すると六兵衛の子分は得意顔で答えた。

「聞いた話だが、もう一人の男が、直心影流の中村虎之助先生と女衒の大作さんを、めった斬りしたらしい。ところが、そいつは小野派一刀流の土屋源之丞先生に背中を斬られて、逃げたという。きっと何処かでくたばっているに違いねえ。あっしらは闇にまぎれて分からねえ、その死体と逃げた奴らを捜さなければならねえんだ」

「捜したら銭でも貰えるのか?」

「あっしらは何も貰えねえが、あんたたちなら、貰えるだろう」

「そうか。ならば、そいつらを捕まえたら、我らに知らせよ。お前たちの代わりに、俺たちが、親分から銭を貰ってやる。そして互いの酒代でも稼ごうではないか」

「分かりやんした。そうしましょ。そうしましょ」

 六兵衛の子分たちはニンマリと笑い、目を皿のようにして、逃亡者捜しに奔走した。忠蔵ら三名も六兵衛の子分たちと一緒になって城之助を捜したが、戌の刻になっても、城之助を発見することが出来なかった。三人は仕方なく、『海保塾』に戻った。海保帆平は驚かなかった。

「あの城之助が、土屋源之丞なる者にやられたというのか。そんな筈はない。明日には訪ねて来るであろう」

 帆平はからから笑うと、奥に引っ込んだ。忠蔵は心配する多吉と澄を励ますように言った。

「海保先生の仰有る通りだ。明日、明るくなったら、もう一度、皆で捜すから、今夜は、ゆっくり休んでくれ」

 忠蔵に案内され、多吉と澄は寝床に入ったものの、城之助のことが、心配でならなかった。夜もすがら気になって気になって眠れなかった。そして翌日、海保帆平は、城之助が現れるまで、多吉と澄が、『海保塾』に滞在することを許可した。しかし、数日、経っても、城之助は『海保塾』に現れなかった。そこで帆平は忠蔵に多吉と澄の二人を上州へ送り届けるよう指示した。

          〇

 傷を負って横寝入りしている城之助が目を開くと、若い娘が、顔を寄せて、城之助の顔を覗き込んだ。城之助が目を開いたのを見ると、彼女はニッコリと笑った。

「お気づきになられましたでしょうか?」

「痛ててっ。ここは何処です?」

「鉄砲持組の小栗家の屋敷です。もう安心です。血は止まっておりますから・・・」

 そう言われて城之助は、慌てて跳び起きようとしたが、右肩と背中の傷が痛んで、直ぐに起き上がることが出来なかった。城之助は、土屋源之丞に背後から斬られた時のことを思い出した。その時の恐怖が再び蘇って来た。このままでは殺される。城之助は走った。暗闇の中を走った。多吉や澄は大丈夫だろうか。幼い時から風のように早い二人だ。誰も捕まえることは出来ない筈だ。兎に角、多吉と澄のいる本郷弓町の『海保塾』へ行かねばならぬ。城之助は傷の痛みを堪えながら無我夢中で走った。走りながら血が退いて行くのが分かった。そして失神した。その後の事は覚えていない。

「無理をされてはなりません。ゆっくり休んで傷を回復させて下さい」

「かたじけない。でも、ゆっくりしている間が無いんです」

「気にかかることが、おありなのですね」

「はい。行かねばならぬ所が・・・」

 その城之助の声を耳にして、家の者が現れた。鋭い眼光の中にも、優しさのある若い男だった。男は笑いながら話に加わった。

「気づかれたか。もう案ずることは無い。浅岡促庵先生に手当してもらって、二日程になる。その後、道がつきっきりで看てくれている」

「それは、それは有難うござんす」

「私の名は小栗剛太郎。狩の帰りの夕暮れ、血まみれのお主を発見し、馬に乗せて帰った。そして浅岡促庵先生に直ぐに手当てしていただいた。お主は上州無宿か?」

 剛太郎の問いに城之助は憮然とした。確かに縞の合羽に三度笠と手甲脚絆の股旅姿は、どう見ても上州無宿の渡世人に見えても仕方なかった。

「国は上州ですが、無宿人ではありません。故あって、江戸に参りました。俺の名は山田城之助。この御親切は生涯忘れません」

「そんなに大袈裟に考えなくても良い。人間、お互い様だ。困っている時に助け合う。それが人間ではないか」

 剛太郎は明るく豪快に笑った。剛太郎の妻、道子も静かに微笑した。城之助は二人を見て、多吉と澄のことを思った。

「ところで本郷弓町は、ここから遠いのでしょうか?」

「ここからは目と鼻の先じゃ。そこにお主を殺傷しようとした者でもいるというのか?」

「いいえ。殺されそうになった俺の仲間が、無事、辿り着いているか知りたいのです」

 城之助は『海保塾』に厄介になっているであろう多吉と澄のことを、剛太郎夫婦に語った。すると剛太郎は驚いた。

「何とお主は『海保塾』と関係があるのか。私も北辰一刀流千葉道場に通う者。海保先生も根岸殿も存じておる」

 城之助も驚いた。命を救ってくれた恩人が、海保帆平や根岸忠蔵をご存知とは。と思うと、城之助は自分が不覚にも負傷した事実を、『海保塾』の者に知られたく無いという気持ちに襲われた。城之助は思わず溜息をついた。

「それは困った。『根岸道場』の師範代の俺が、素浪人に斬られたと知られちゃあ、俺の面目が立たねえ。俺を死んだことにして、そっと多吉とお澄の様子を調べておくんなせえ」

「お主を死んだことにして良いのか?」

「負傷して寝込んでいるという惨めな話より、死んでしまったという話の方が、ずっとすっきりしまさあ」

 城之助が、そう言って苦笑するのを見て、剛太郎と道子が笑った。武芸の達人、城之助が、己の不覚を隠そうとする気持ちは二人にも充分、理解することが出来た。

「では、お主のことは一切、知らぬことにして、『海保塾』を当たってみよう。多吉さんとお澄さんがどうなっているか、心配で御座ろうからの」

 剛太郎は、その日のうちに、多吉と澄がどうなっているか、出入りの者に調べさせた。結果、二人は無事に『海保塾』に辿り着き、海保帆平や根岸忠蔵に会い、昨日、根岸忠蔵と富岡新太郎を用心棒にして、上州に引き返して行ったという。城之助はそれを聞いてほっとした。多吉と澄の安否がはっきりし、城之助が安堵したところへ、小栗家の当主、小栗忠高が顔を出し、城之助に言った。

「城之助殿。仲間が無事で良かったの。一安心したであろう。この際だ。江戸見物でもして、ゆっくりされるが良い。傷を完治させてから上州に戻れば良い。江戸で剣術の修業をしている旨の書信を送れば、無宿人にはなるまい」

「それが良い。それが良い。ここから『海保塾』へ通えば良い」

 剛太郎は父、小栗忠高の言葉に賛成した。

「で、でも・・・」

 城之助が戸惑っていると、再び忠高が笑って言った。

「遠慮することは無い。それがしは鉄砲持組の主任、剛太郎は西の丸の書院番。二人とも将軍様の親衛隊の御役目で、屋敷を留守にすることが多い。そなたが我が家の用心棒として、屋敷にいてくれれば有難いのだ」

「良いのですか?」

「良いってことよ。お互い様だ」

 城之助は小栗忠高、剛太郎親子の言葉に甘えることにした。小栗家の用心棒をしながら、ゆっくり、江戸の生活を体験したり、『海保塾』に通うのも愉快ではないか。

          〇

 一方、小俣村の栄次は板橋の梅屋六兵衛の世話になり、梅屋六兵衛に依頼し、大怪我をして使えなくなった中村虎之助と女衒の大作を始末してもらった。そして娘たち四人を吉原の『和泉屋』と『大黒屋』に売りさばき、一仕事を終えた。それから数日して、栄次と土屋源之丞と金久保の長吉は、多吉と澄たちが中仙道を引き返したことを知り、江戸遊興をほどほどにして、手甲、脚絆、草鞋を新しく備え、連中を追った。しかし追いついて連中と斬り合いするつもりは無かった。何故なら多吉と澄には、城之助より強そうな武家が二人、同道しているからであった。土屋源之丞は、城之助を倒したことがあるので、自信満々であったが、中村虎之助と大作が斬られた時の有様が、まだ目の裏に焼き付いている栄次にとっては、道中での斬り合いは危険極まりない事であった。こうなっては親分、三国屋勝造の所に飛脚を走らせ、神流川を渡り、上州に入った所で待ち伏せし、連中を捕まえるのが、一番だと思った。玉村の佐十郎親分も裏で助けてくれに違いなかった。飛脚によって栄次からの知らせを受けた三国屋勝造は、用心棒、寺田伸之進と子分四人を殺して逃亡し、更に中村虎之助と大作を斬り殺したという多吉たちを捕まえ、八つ裂きにしたかった。だが調べによれば、多吉と澄に同道しているのは、安中藩剣術師範、根岸宣徳の嫡男、根岸忠蔵と江戸の名剣士、富岡新太郎だというではないか。これでは流石の勝造も十手持ち、万屋佐十郎の止めておけという意見に逆らって四人を襲う気にはなれなかった。しかし、勝造の気持ちは治まらなかった。そんなこととは知らず、多吉たちは安中の『根岸道場』に立ち寄ってから、土塩村の組頭、藤巻右衛門の家に辿り着き、中庭に入った。澄を見つけるや母の文が目を丸くして叫んだ。

「お澄。お澄じゃあないか。帰って来たんだね」

「おっかさん!」

 澄は母親の喜ぶ顔を見ると、それ以上、口がきけなかった。涙が、涙がこぼれ落ちた。庭の騒ぎを聞いて、右衛門が家から跳び出して来た。澄と多吉と男二人がいるのを目にすると右衛門はびっくりした。

「おとっつあん。ごめんなさい!」

 右衛門は取り付いて泣く娘を抱きしめて、目に涙をにじませた。

「良かった。良かった。無事で良かった」

 それから右衛門は、澄を離し、向きを変え、多吉たちに深く頭を下げた。

「皆さん、有難うございました。さあ、家に入っておくんなせえ」

 右衛門は大喜びして、澄を連れ戻してくれた三人を屋敷に入れ、歓待した。酒と食事をいただきながら、多吉は今までの経緯を右衛門に語った。右衛門は娘や多吉が栄次に騙されていたことを知ると共に、多吉の助っ人として同行させた山田勇吉の長男、城之助が行方知れずと聞いて苦悩した。溜息をつく右衛門に忠蔵が言った。

「心配することはありませんよ。『根岸道場』の城之助さんは不死身ですから。そのうち、笑顔で帰って来ますよ」

 忠蔵の励ましの言葉を聞いて、右衛門は苦笑いして、三人に酒を注いだ。

         〇

 安中の『根岸道場』の根岸忠蔵と江戸『海保塾』の富岡新太郎が、多吉と澄を土塩村に送り届けて、江戸に戻ると、三国屋勝造は、直ちに仇討ちの行動を開始した。先ずは豊岡の元締め、達磨の伊三郎を村から追い出し、百姓たちに無理難題を持ち掛けた。上間仁田村では、夫を亡くした素の娘、考を栄次に誘惑させた。考は澄と同様、眉目秀麗な栄次の男振りに惚れて、村を跳び出した。考の面倒を見ていた伯父の次郎吉は、責任上、仕事を捨てて、考を捜し回り、組の仕事はそっちのけとなり、村は荒れた。こうして高崎、板鼻、安中、松井田、坂本、軽井沢、追分、小諸、田中、上田と広範囲にわたって、伝馬継手の仕事を仕切っている『新井組』の親分、新井信五郎を困らせようというのが、勝造の狙いだった。その理由は勿論、勝造の用心棒、寺田伸之進や子分たち数人を新井信五郎の子分、武井多吉と山田城之助に殺されたからである。仇の一人、城之助は土屋源之丞が始末したというが、もう一人の多吉は、吉原に売り飛ばそうとした娘を連れて堂々と帰郷し、まるで英雄気取りになっているとか。勝造には我慢ならぬことであった。それに娘の澄を取り戻した藤巻右衛門は、関東取締出役に、三国屋のことや栄次の悪業を訴えるに違いなかった。その前に事件の一切を知る多吉と澄を始末する必要が、勝造側にあった。村人を困らせ、助郷人足を減らし、伝馬継手の新井信五郎を窮地に立たせ、その隙をついて、多吉と澄を殺害する。その計画の為には栄次が可愛がっている考を使い、関東取締出役に籠訴をさせ、上間仁田の連中を入牢させて、上間仁田村から助郷人足を一人も出さないことで、信五郎の信用を失墜させることが得策であると考えた。人集めに奔走する信五郎を攪乱させ、それにかこつけ、信五郎の縄張りである安中、松井田、坂本に出向いて行って、その賭場を押さえ、信五郎の碓氷の縄張りを、勝造の縄張りにしてしまうことだ。押込み強盗、放火、辻斬りを行い、人心を不安にさせ、信五郎の信頼をつぶし、治安を乱す策であった。それは浪人や渡世人やちんぴらを沢山かかえている三国屋勝造にとって、いとも簡単なことであった。

         〇

 嘉永六年(1853年)二月、関東取締出役、中山誠一郎が、角田駒四郎を案内人にして、高崎に近い飯塚村を巡察している時、孝が籠訴を行った。玉村の万屋佐十郎の子分、辰五郎らに差し添われての籠訴であった。その訴えは、正月八日、鷺の宮村から上間仁田村に連れ戻される途中、上間仁田村の若い衆に、孝が暴行されたという訴えであった。中山誠一郎は田舎にはまれな美人の孝の涙を見て、これを集団暴行事件と取り上げ、上間仁田村の若者六人を江戸送りにしようとした。事件を知った新井信五郎は、案内人、角田駒四郎と裏金を使い交渉し、上間仁田村の若者を十一人を、六ヶ宿預けにして貰った。そして孝の貰い下げについては、上間仁田村の総代たちに交渉させることにした。村の総代たちは駒四郎と交渉した。だが交渉は、そう簡単では無かった。

「お孝を返して欲しいと言われても、お孝本人が村に帰りたくねえと言っている」

「そこを何とか説得いただいて・・・」

「そうは言われてもな、ひどい目に遭ったらしいからな・・・」

「でも返してもらいませんと・・・」

 村の総代たちは、孝に許してもらい、息子たちを解放してもらいたい一心で、駒四郎にお願いした。もし若者たちが江戸送りになれば、村は働き手を失い、立ち行かなくなってしまう。聞けば辛い話だ。駒四郎は頷いた。

「ならここんところで、お孝と手を打つんだな。となりゃあ、詫び料としての銭が必要になる」

「ええっ!とんでもねえ。わしら水飲み百姓に銭などありゃあしねえ」

「だったら、若い衆が江戸送りにるが、それで良いか?」

 駒四郎の言葉に総代たち三人は真剣な顔で仲間と顔を見合わせた。代表の一人、次郎吉が駒四郎に訊いた。

「お孝の奴、何を考えていやがるんだ。一体、幾ら詫び料が欲しいんだ?」

「金三十両、欲しいと言ってるんだが、どうする?」

「角田の旦那。それはちょっと、ひどいんじゃあ有りませんか?うちの倅はお孝にやらせてもらっていないんでさあ。その上、銭をよこせなんて」

 もう一人の代表がそう言うと、総代も駒四郎に向かって強く出た。

「皆の言う通りだ。若い衆は誰一人、お孝を手籠めにしたりしていねえ。こっちの申し立ても訊かねえで、中山様の手先と名乗る十手持ちに、若い衆をしょっぴかせるとは、ご無体な話にござんす」

「というと、お前らは中山様が悪いと言うんだな。お上を恐れぬお前らの言い分、良く分かった。若い衆を江戸送りにするまでだ」

 駒四郎の言葉に総代たちは慌てた。駒四郎の足を捕まえて総代が言った。

「待ってくんなせえ。言い過ぎました。村の衆と相談し、何とか銭の工面を致しやす」

「仕方あるめえ。金三十両、持って来な」

 村の総代たちは仕方なく村に帰って、若い衆の身内から銭を集めた。そして準備した三十両を駒四郎に渡し、若い衆を釈放して貰い、事件が決着し、一安心した。 そこへ隣村の名主、源兵衛がやって言った。

「お孝の噂を耳にしたよ。次郎吉さんには悪いが、お孝は質の悪い女だ。村の人別に置いておくのは良くねえ。申し訳ねえが、村方から人別を除いちゃあくれめえか」

「そう言われても、お孝には母親、お素がいるんで・・・」

「今後、また近隣の男を騙し、盗みや人殺しをされちゃあ困るんだ。村の人別に入れておいても、何の役にも立たねえ。悪い事は言わねえ」

「じゃあ、お孝を何処の人別にすりやあ良いんだ?」

「もう玉村宿に行ったっきりだという話じゃあないか。玉村の人別に入れて貰えば良いさ。悪い事は言わねえ。厄介者を人別から外し、遠くへやってくれ」

 結果、村の総代たちは、隣村にも迷惑をかけるかも知れないと判断し、孝を村の人別から外すことにした。すると数日後、玉村の辰が上間仁田村の次郎吉の所へ、孝の世話代を出せと要求しにやって来た。

「次郎吉さん。お孝を人別から外すらしいが、ついちゃあ、お孝を匿っていた諸雑費三十両を『万屋』の親分に支払っておくんなせえ」

「そ、そんな」

「いう事が訊けないと言うんかい。じゃあ、お孝と与太郎を村に送り込むぜ」

「ま、待ってくれ!」

 孝の伯父の次郎吉は、事件がこれ以上、こじれるのを恐れ、泣く泣く『万屋』の要求に応じた。それを知った信五郎は悩んだ。関東取締出役、中山誠一郎、その手下、駒四郎、玉村の万屋佐十郎、倉賀野の三国屋勝造たちは、どう見ても百姓たちを苦しめる悪党たちの集団であった。信五郎は自分たちの縄張りに侵入して来て悪事を働く、三国屋勝造と万屋佐十郎の不正を何とか止める方法は無いものかと思案した。信五郎の悩む姿を見て、子分の多吉が堪えきれずに言った。

「親分。三国屋勝造たちが、親分に喧嘩をふっかけて来ているのは、あっしらの所為です。あっしらが寺田伸之進や勝造の子分たちをやっちまったもんだから、親分に喧嘩を売って、あっしらを引きずり出そうとしているんです。しかし、こっちだって、城之助さんを殺されたんですから、あいつらを許すことは出来ねえ。兎に角、栄次の奴を、痛めつけねえことには、気が済まねんでさあ。それに次郎吉さんを苦しめている玉村の辰も気に喰わねえ。こうなったら、あっしが出て行って、あいつらを懲らしめてやりましょう」

「それは止めておけ。我慢するのだ」

「馬鹿は痛めつけねえと分からねんでさあ」

 何時も冷静な多吉にしては、目を怒らせての珍しい発言であった。多吉は信五郎が止めるのも聞かず、清水平七、島田柳吉、上原亀吉たち仲間数人を引き連れ、玉村の辰の家に押し入った。寝ていた辰と孝を叩き起こし、散々に痛めつけた。そして傷だらけになった玉村の辰と孝を、素裸のまま家の大黒柱に縛り付けて村に帰った。発見された玉村の辰が、大恥をかいたこと語るまでもない。結果、武井多吉は三国勝造たち悪人の標的となった。勝造たちとって、何としても多吉を血祭にしなければ納まりがつかなかった。

         〇

 春になり、上州の博徒、『倉賀野一家』の三国屋勝造と『新井組』の新井信五郎の対立が表面化した。倉賀野の三国屋勝造は、玉村の万屋佐十郎の支援を得て、板鼻、間仁田、安中、秋間一帯にいる『新井組』の子分たちを金で丸め込み、その縄張りを確実に自分たちのものにしようと企んだ。そして新井信五郎に、子分の多吉を出せと迫った。だが信五郎は動じなかった。

「可愛い子分を渡す訳にはいかねえ」

 信五郎は使いの者に、きっぱりと断った。そして思案の末、多吉と澄を行田村の原甚平の所に隠した。いざという時は、入山峠から和見峠を経て、信州へ逃亡させる計画であった。多吉と澄の二人は、江戸から帰って結ばれて、全く夫婦同然だった。組頭、藤巻右衛門も二人を一緒にさせるつもりでいた。片時も離れず、二人は周囲も羨やむ程の深い仲になっていた。そんな二人を不幸にさせてはならない。原甚平は信五郎から預かった二人を、自宅に隠し、大事に面倒を見た。人に気づかれぬよう、屋敷の中の土蔵に住まわせ、城之助が行方不明になったことで、実家に帰って来ている娘の久楽に食事を運ばせた。ところが何処から漏れたのか、多吉と澄が、行田村にいることが、勝造たちに露見してしまった。磯部から妙義神社へ向かう往還を渡世人、六人が急ぎ足で屋敷に向かってやって来るのを発見して、久楽が土蔵にいる多吉と澄に知らせた。多吉と澄は日頃、準備しておいた荷物を小脇にかかえ、原家の裏山に逃亡した。渡世人は屋敷に入って来るなり、久楽に訊いた。

「甚平はいるか?」

「お父っあんは、年貢のことで、名主さんの所へ出かけています」

「おお、そうか。ところで、おめえんちに、多吉とお澄がいるという知らせがあったが、二人は何処にいる?」

 渡世人の頭目、観音の松が、久楽の顎を右手の指で持ち上げ、嫌らしく訊ねた。それを見て、居間にいた久楽の母親が怒鳴った。

「お久楽。そんな奴は、うちにいねえと答えな!」

 すると渡世人たちの視線が、久楽の母親に走った。騒ぎを知って、手伝いの参吉が庭に跳び出して来て言った。

「お嬢さんに何するんでえ!」

「倉賀野の寺田伸之進と大作を殺した多吉を、ここへ出しな。出さねえと痛い目に合うぜ」

 観音の松が参吉を威嚇した。その時、裏山から大声が上がった。

「多吉がいたぞお!」

 その大声を聞いて久楽は、はっとした。次の瞬間、観音の松たちが、裏山に向かって駈け上がった。久楽も参吉と一緒になって裏山に走った。多吉は澄と一緒に裏山から桑畑へ逃げ出し、渡世人たちと睨み合った。多吉は叫んだ。

「てっめえら、大作のように叩っ斬られてえのか?」

 多吉の構えに、三人の渡世人が一歩、後退した。寺田伸之進や大作を斬ったという風の多吉の腕前を、あなどるわけにはいかぬ。玉村の辰が怯む連中に発破をかけた。

「怖がるんじゃあねえ。こ奴が、そんなに強い訳がねえ」

 そこへ観音の松たち三人が駆け寄り、多吉と澄は六人に囲まれてしまった。凶暴な面構えの一人の男が、突然、獣みたいな鋭い眼を光らせ多吉に躍りかかって来た。多吉は澄を参吉と久楽のいる方へ突き飛ばし、待っていましたとばかり、長刀を下から上へと斬り上げた。それが相手の顔面をとらえ、鮮血が霧となって飛び散った。

「うわあああーっ!」

 余りの凄まじさに、玉村の辰は狼狽した。多吉は真実、強いのかも知れない。そういえば安中の『根岸道場』の門下生だったとも聞く。玉村の辰は顎をガクガクさせて奇声を発した。

「や、やりやがったな!」

「おめえら、そんなに死にてえのか?」

 多吉は血刀をぶら下げ、他の五人に迫った。相手は一歩、一歩、後ずさった。突如、その時、多吉に後方から声がかかった。

「多吉。死ぬのはお主だ!」

 多吉が声のした方を振り返ると、参吉の首ねっこをひっ捕まえた土屋源之丞が、栄次と出っ歯の忠太郎を従え、三人そろって不気味に笑っていた。多吉は蒼ざめた。参吉の泣きそうな顔を見て、慌てた。その隙をついて、観音の松が突っ込んで来た。多吉は大きく飛び跳ねると、観音の松の首筋に太刀を振り下ろした。多吉の白刃を受けて、観音の松はつんのめるように桑畑の土の上に顔面から倒れた。それを見て、土屋源之丞の形相が鬼のように変わった。激昂する剣鬼、土屋源之丞に睨まれ、その恐ろしさの余り、多吉の総身に氷のような冷汗が流れた。このままでは殺される。九人が相手では勝てる見込みなど無い。こうなっては逃げるより方法が無い。逃げるが勝ち。多吉はそう判断すると、白刃を振り回しながら、桑畑の中を転げ這い蹲りながら、妙義山の方へと逃亡した。土屋源之丞と忠太郎がそれを追った。多吉は桑畑を抜け、原っぱを黒い風となって突っ走った。その早いこと早いこと。流石、風の多吉。その速さは疾風の如くで、『倉賀野一家』の連中が追いつける速さでは無かった。風の多吉を捕り逃がした『倉賀野一家』の連中は、仕方なく、澄と久楽と参吉を縛り上げると、多吉を誘き出す為、三人を人質として妙義の町へ連れて行った。

         〇

 多吉は碓氷川を越え、新井信五郎の所へ逃亡した。多吉は『倉賀野一家』の連中が、九人もやって来て、原甚平の屋敷を取り囲み、澄たちが捕らえられてしまったと、信五郎に報告した。さしもの新井信五郎も、これには困ってしまった。一家をあげての抗争はしたく無かった。だが相手は徹底的に自分が取り仕切っている『新井組』を潰しに来ている。それも堂々と『新井組』の縄張りに踏み込んで来ての乱暴である。こうなっては『倉賀野一家』との出入りは好まぬが、戦うしかあるまい。そう信五郎が決断した時、行田村の原甚平が、敵の挑戦状を持ってやって来た。その文面はこうであった。

《口上。この度、多吉の女房、お澄と城之助の女房、お久楽と使用人、参吉を預かり候。三人を返して欲しくば、明日午刻、妙義神社の境内に信五郎、多吉、甚平の三人で来られよ。来たらば多吉と交換に三人を返すゆえ、必ず参上するよう申し付くべく候。新井信五郎殿。土屋源之丞》

 何と卑怯な奴らであることか。文面を読み、信五郎は唸った。敵の背後に、どんな罠があろうが、どんな仕掛けがあろうが、信五郎は、自ら多吉を連れて、相手の指定する場所へ出向いて行くしか方法が無いと思った。堅気の女たちを巻き添えにするわけにはいかぬ。信五郎は滝下の幸衛門と西見寺の弥八に命じ若い衆、二十人を集めることにした。そして翌朝、松井田宿で作戦会議を開き、子分二十人、それぞれの役割分担を決め、役目を指示した。その後、信五郎は鎖帷子を着て二本刀を持ち、早昼飯を食べ、四ッ半に妙義神社に向かった。午の刻前、一行が妙義町に入って行くと、鳥居下の茶屋や旅籠の連中は、物々しい『新井組』の出立ちに、びっくりして家の中に逃げ込んだ。参詣者、商人、巡礼、遊山客たちは道の脇によけて、一行が通り過ぎるのを見送った。信五郎は鳥居前で、子分たち二十人と別れた。それから風を切って三人で進み、鳥居を過ぎ、神社の石段を登った。その信五郎と多吉と甚平の三人を、『倉賀野一家』の連中、三十人程が、総門脇の桜の樹に、澄と久楽と参吉を縛り付け、見降ろすように待っていた。信五郎たちが石段を登り切り、広場に立つと三十人程が、三人を円く囲んだ。その連中をひと睨みして、『新井組』の親分、新井信五郎が口火を切った。

「多吉を連れて来ましたぜ。まずはお澄たち三人の縄をほどいてくんなせえ」

 すると玉村の辰が答えた。

「分かった。その代わりに多吉の刀を、こちらに寄越せ。三人を返すのは、それからだ」

 それを聞いて、多吉が腰の長脇差を外すと、玉村の辰が、出っ歯の忠太郎に合図した。それを受けて忠太郎と片眼の哲と栄次の三人が、三人の縄をほどく格好をした。

「多吉。腰から外した刀を、こちらに投げろ!」

 多吉は言われるままに、腰から外した長脇差を、玉村の辰の前に放り投げた。すると『倉賀野一家』の子分たちが信五郎たち三人を遠巻きにする形になって身構えた。三十人近い人数に囲まれても、信五郎はびくともしなかった。信五郎は澄たち三人の縄がほどかれたのを確認すると、玉村の辰にお願いした。

「三人を早くこちらに返してくれ」

 信五郎の要求に玉村の辰が薄笑いを浮かべて言った

「信五郎親分も、刀をちらに寄越しておくんなせえ」

「親分。騙されちゃあならねえ。刀を渡しちゃあ駄目だ!」

 多吉が、そう叫んだその時、『倉賀野一家』の子分たちの外周を、『新井組』の連中、二十人が取り囲んだ。人数が若干、少ないが、外側から囲んだということは効果的であった。それを見て、玉村の辰が激昂した。手がぶるぶる震えているのが分かった。

「てめえら。刃向かおってえのか。こうなったら仕方ねえ。先生、よろしく頼みます。片っ端から叩き斬っておくんなせえ」

 玉村の辰が背後に控えていた用心棒、土屋源之丞に声をかけると、源之丞は待っていましたとばかり、不気味に笑い抜刀した。その目は殺意に満ちていた。多吉が放り投げた長脇差を取り戻そうと、しゃがんだ瞬間、源之丞の刀が閃き、多吉の小手を打った。多吉は握りかけた刀を落とし、小手を庇って、そこに崩れて、呻いた。源之丞は、多吉の小手を斬り落としまではしなかったが、その刃先は、完全に多吉の腕先の骨にまで達していた。

「多吉っさん!」

 澄が多吉に駆け寄った。そこに目をやった信五郎に片眼の哲が、信五郎を狙って突っ込んで来た。信五郎は跳び退って、それを躱し、上段から刀を振り降ろした。

「ぎやっ!」

 片眼の哲が血を噴き上げ、仰向けに倒れた。西見寺の弥八と出っ歯の忠太郎の刀が、音をたてて嚙み合った。忠太郎が足をからませ、弥八を突き倒した。弥八は、転がって逃れた。甚平は娘の久楽と傷ついた多吉を助け、澄と共に神主のいる屋敷に逃げ込もうとした。それを倉賀野の由蔵たちが追いかけた。その前に清水平七や上原亀吉たちが立ちはだかった。信五郎も一緒になってそれに加わった。すると土屋源之丞が信五郎に挑みかかった。信五郎は源之丞の発狂したような刀身を受けて後退した。それを後ろから栄次が狙った。

「ああっ、信五郎親分、後ろから、危ねえ!」

 子分、島田柳吉の絶叫に、信五郎が振り返ったと同時に、源之丞の鋭利な刀身が、信五郎の右肩に振り下ろされた。信五郎の着ていた『新井組』の羽織が裂け、鎖帷子の首ねっこ近くから、血が飛び散り、その血が石畳の上に生々しく流れた。信五郎は右肩を押さえ、うずくまった。負傷した信五郎を滝下の幸衛門が庇った。その幸衛門と信五郎に、土屋源之丞が気味悪く笑って言った。

「信五郎親分には、死んでもらうぜ」

 信五郎を斬り殺そうとする源之丞を見上げた幸衛門の目は、怯えきっていた。絶対絶命。誰もが息を呑んだ。強い者が弱い者に勝つ。これが自然の流れだった。信五郎は覚悟した。玉村の辰が叫んだ。

「先生。早くやっておくんなせえ」

 辰の言葉に頷くと、土屋源之丞は残虐な笑いを見せ、血に染まった刀身を振り上げた。その時である。石垣を背にして逃げられぬ信五郎と幸衛門の頭上をかすめ、何かがビューツと走った。その閃光を放った物が源之丞の振り上げた手首に当たった。

「ああっ!」

 良く見ると、手裏剣が源之丞の手首に突き刺さっていた。源之丞は手首の痛さを堪え、手裏剣の主を見やった。

「何者だ。名を名乗れい!」

 源之丞が睨んだ石垣の上に縞の合羽に三度笠の男が、笑って立っていた。それを見て、源之丞は名状し難い絶叫を上げた。

「わ、おおっ!て、てめえは・・・」

 源之丞は、手首に刺さった手裏剣を左手首から引き抜くと、石垣の上にいる男めがけて投げつけた。男は、それを軽く躱し、抜刀して跳び上がった。その男の抜いた鉄剣は虚空でうなり、一瞬、煌めいたかと思うと、虚空に舞った。男は石垣から飛び降りざま、上を向いた源之丞の喉元を斬り飛ばした。

「げえっ!」

 源之丞の首が信五郎の前にゴロゴロと転がった。余りもの凄惨さに誰もが仰天し、恐怖に慄いた。男の一刀で源之丞は即死した。石垣から飛び降りた男は、静かに三度笠を外し、右肩首を押さえている信五郎に駆け寄り挨拶した。

「親分。山田城之助、只今、帰って参りやした」

 信五郎はその城之助の顔を見て、呆然とした。死んだ筈の城之助が、何故、ここにいるのか。幻影ではないだろうか。土屋源之丞に殺された筈の城之助が、今、眼前で、土屋源之丞の首を斬り飛ばし、その源之丞が血だらけになって死んでいる。夢か現実か。信五郎は思わず感嘆の声を上げた。

「城之助。無事であったか」

「城之助は不死身にござんす」

 そう答えて信五郎と手を取り合おうとした城之助に、出っ歯の忠太郎が斬りかかった。それに気づき、すかさず払った城之助の刀と忠太郎の刀が、音を立ててぶつかり合った。城之助は強引に刀で忠太郎を突き飛ばした。忠太郎は、その強引さに刀でよけながら、後ずさった。次の瞬間、城之助の刀身が真直ぐに伸びて、忠太郎の顔面をとらえた。

「きえーっ!」

 城之助の叫び声と共に、忠太郎の顔面にスーッと一筋、細い血の糸が流れ出た。それが見る見るうちに激しく広がり、忠太郎は自分の顔を手で押さえ、己の手に着いた血を見て、失神卒倒した。更に城之助は、後続の二人を斬った。『倉賀野一家』の連中は、向かう者を片っ端から一人残らず殺傷して行く城之助の凶刃に驚愕し、恐怖の余り、ガタガタ足を震わせた。このままでは全員やられると思ったのか、玉村の辰が信五郎に言った。

「信五郎。これ以上、子分を失くしては、お互い詰まらねえ。今日のところは、これで引き上げるが、『倉賀野一家』としては、多吉を生かしておく訳にはいかねえんだ。おめえが多吉を匿っている間は、今日のようなことが、たびたび起こると考えてくれ。それが嫌だったら、多吉を『倉賀野一家』に差し出すんだな。よおく考えて、答えを倉賀野の勝造親分の所に持って来な」

 信五郎は何も答えなかった。敵が去ってくれれば、それで良かった。玉村の辰と栄次と子分衆は、負傷した者や死んだ連中をそのままにして、逃げるように引き上げて行った。

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 夏の初め、信五郎は青空を行く流れ雲を目にして、多吉と澄と女房、志津を連れて、女房の郷里、信州小野山の石井清吉の所に行くことにした。十手持ちの玉村の佐十郎と関わりのある『倉賀野一家』の連中を手にかけてしまった以上、凶状持ちとして、この地を離れる以外、生きる道が無かった。信五郎が松井田の伝馬継手を上原亀吉に託し、松井田を離れると、信五郎が予想した通り、玉村宿の万屋佐十郎は、関東取締出役、中山誠一郎に訴え出た。手下の玉村の辰が、屋敷を襲われ、更に妙義神社に誘い出され、佐十郎の手下、数人が殺傷されたとの訴えであった。手先頭の佐十郎の訴えとあっては、中山誠一郎も、これ放っておく訳には行かなかった。聞けば武井多吉は、国定忠治の忘れ形見とか。中山誠一郎は激怒して、新井信五郎、武井多吉、上原幸衛門、三名の逮捕状を佐十郎に渡し、その召捕りを命じた。万屋佐十郎は中山誠一郎の命を受け、『万屋一家』と『倉賀野一家』の子分衆を連れて、『新井組』の信五郎ら三名の召捕りに松井田に向かった。その情報は、安中の角田駒四郎の手下から、『新井組』に密かに漏らされており、召捕りの一行が松井田に現れた時には、信五郎と多吉と澄は、五料村から中木村へ抜け、入山峠を越えていた。向かうは信五郎の女房、志津の故郷、信州小県郡であった。信州は関東取締出役の手の届かない権限外の地で、その道々の元締め、追分の仙吉、小諸の文蔵、加沢の権八、岩下の徳次郎、上田の久太郎たちは、新井信五郎の信奉者であり、三人を温かく迎えてくれた。滝下の上原幸衛門は山田城之助と下仁田街道を大仁田、水之戸を抜けて、十石峠、梅峠を経て甲州へと逃亡した。関東取締出役、中山誠一郎が案内人、角田駒四郎に案内されて、松井田宿に訪れた時には、『新井組』の首領、新井信五郎は、その後目を煙の城之助に譲って、国を出てしまったと、伝馬継手を引き受けている上原亀吉が語った。その『新井組』の後目を継いだという城之助も、行方不明になっていて、調べようが無かった。万屋佐十郎からの報告を聞いて、『新井組』の新井信五郎と国定忠治の倅に逮捕状を出したものの、地元に踏み込んでみると、博徒同士の縄張り争いによる私闘と分かった。中山誠一郎は愕然とした。私闘により、死人、怪我人を多数出したことは相互に罪があるとし、中山誠一郎は、『倉賀野一家』の玉村の辰と小俣村の栄次に入牢を申しつけた。『新井組』の頭領、新井信五郎と後目の山田城之助が逃亡した『新井組』については、組の解散を命じて、事件を締めくくった。結果、新五郎は女房、志津の故郷にて、小野山信五郎と名乗り、上州に戻ることは無かった。風の多吉と澄は、自分たちを救ってくれた信五郎の暮らす村で世帯を持ち、仲睦まじく夫婦となって暮らすことになった。多吉と澄の二人は、信五郎が亡くなるまで、信州小県郡にあって、信五郎に仕えたという。

 『風の多吉』終わり