満州国よ、永遠なれ(前編)

その他

 太平洋戦争で原子爆弾を投下し、22万人もの人命を奪ったアメリカをはじめとする戦勝国の評価は、戦勝国が正義で、敗戦国の日本国が不義非道であったという評価である。つまり世界の歴史から見れば、俺たち日本人がやって来たことは違反行為だというのだ。だがそれに従事した俺たちにとっては、それが正義の道だと思われた。救済を願う隣国の人たちを救済する為に、皇国の興廃を賭して、万里の波濤を越え、俺たちは大陸で、その守備に一身を捧げたのである。しかし、その過去は、日本国が敗戦国になったが為に、語つてはならぬ恥辱を受ける体験となってしまった。しかし俺は、老いぼれて余命幾ばくも無い今、秘密にしておいた自分の青春時代のことを書き残しておかねばならぬと思い立った。それは自分の体験した歴史のひとこまが、本当に悪逆非道のことであったのか、後世の人たちに検証してもらいたいが為である。記録に残しておかなければ、実在した正義が、実在しなかったことにされてしまうからである。それでは俺たちの人生は余りにも寂しく哀れ過ぎるではないか。

         〇

 俺が生まれたのは明治42年(1909年)7月13日だ。教師の父、吉田今朝次郎と母、喜久寿の長男ということで、一夫と名付けられた。俺の後に仙次という弟が生まれたが早世し、その後、喜代乃、利子、通夫と妹弟が生まれた。生まれた場所は、群馬県の碓氷峠に近い、横川の町から一つ山を越えた貧しい山村、土塩村だった。父の実家は新井村にある江戸時代からの材木商『木屋』で、農業のかたわら、材木の商売をしていた。母の実家は裕福な庄屋であり、祖父が村長をしている家であったので、山村に暮らしながらも、生きて行くのが精一杯の小作農のような苦しい生活では無かった。自慢では無いが俺は尋常小学校の時から、勉強が出来て、ずっと首席だった。尋常小学校卒業後、俺は中学に行きたかったが、中学に行かせて貰えなかった。妹たちがいるので、教員の給料だけでは高等小学校に行かせるだけで精一杯だったのだろうか。地域の名門の流れをくむ家系であるのに、何故、中学へ行かせて貰えないのか。父は安中中学を卒業し、群馬師範学校に入り、その後、早稲田大学で学んだことが有るのに、何故なのか。高等小学校の教員をしているのに何を考えているのか。俺は理由が分からず、口惜しくて口惜しくて何度も泣いた。俺は口惜しがり屋だった。俺は身長が低く、痩身であったが、負けん気の強い性分だった。日露戦争後の日本国民の困窮状態など全く分かっていなかった。日本は明治26年(1893年)、清国との冊封関係から脱却しようとする李氏朝鮮から泣きつかれ、李氏朝鮮を支援した為、清国に宣戦布告され、清国との戦争になり、明治28年(1895年)勝利したのは良かったが、ロシア、フランス、ドイツが、その時の講和条約で日本が清国から取得した遼東半島を清国に返せといちゃもんを付けて来た。日本は仕方なく清国に遼東半島を返した。結果、朝鮮は独立国となることが出来、台湾と澎湖島は日本の領土となった。そこまでは良かった。その後が悪かった。日清戦争で敗れた清国に欧米列強が入り込み、民衆の生活を圧迫した為、清国の民が外国勢力を国外へ追放しようと、『義和団』を結成し、欧米諸国を清国から追い出そうと反乱を起こした。それを日本を含めた八ヶ国連合軍が鎮圧した。かくて『義和団』の鎮圧が治まったのに、ロシア軍が清国に圧力をかけ、清国北方の遼東半島の大連と旅順を租借し、そのまま満州に居座ることになってしまった。前の三国干渉により、日本が手放した遼東半島を、ちゃっかりロシアに占領されてしまったということだ。更にロシア軍は満州と陸続きの北朝鮮にまで侵入を開始した。ロシアの侵攻に悩んだ朝鮮は今度は清国でなくロシアに宗主国になってもらおうと閔妃が活動した。閔妃はロシアの要求に従い朝鮮国内から日本の勢力を追い出す為に日本に加担している朝鮮独立党の粛清にかかった。その為、日本人も何人か殺された。閔妃の反日政策が激しかった為、日清戦争に勝利して勢いづいていた日本の大陸浪人が、独立派を支援し、閔妃を殺害した。閔妃の勢力が弱体化した朝鮮は独立派が独立門を建て、国民の独立精神の高揚に努めた。そして明治30年(1897年)大韓帝国と国号を変え、独立国であることを世界に宣布した。なのにロシアは宗主国になることを望み、満州と共に朝鮮半島を手中に収めようと侵略を続けた。そのロシアの南下政策を防ぐ為に、明治35年(1902年)、日本はイギリスと日英同盟を結ぶが、ロシアの大韓帝国への威嚇は治まら無かった。大韓帝国はこのままでは折角、独立したのにロシアの植民地にされかねないと恐れ、日本に宗主国になってもらいたいと泣きついて来た。独立して数年しか経たないのに何故、宗主国を求めるのか。この要請に日本側は戸惑った。日本では幸徳秋水、内村鑑三らが、かって福沢諭吉が心変わりする朝鮮には関わるなと忠告していたことを重視し、朝鮮加担の為の戦争をしてはならないと、朝鮮加担の反対をした。そこで伊藤博文はロシアと互いの権益を分け合おうと日露交渉を始めたが、日露交渉は決裂した。明治37年(1904年)、日本はロシアに宣戦布告を行った。日露両軍は激しい戦闘を行い、ロシア軍9万、日本軍7万の死者を出した。日本は東郷平八郎率いる日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を一方的に破り、日露戦争に勝利した。ここにおいて日本は、大韓帝国と日韓保護条約を締結し、宗主国的存在となった。日露戦争の結果は多くの死者を出し、莫大な軍事費を放出し、日本国民を困窮状態に陥れた。だが日露戦争後生まれの俺は、太平洋戦争後のお前たちとは違って、貧しくとも、日本国民としての誇りのような自負を教え込まれて育った。日露戦争の結果、日本はロシアが有していた満州と内蒙古の権益を獲得した。樺太の南半分も獲得した。大韓帝国の指導権も獲得した。しかし、そんなことで、困窮状態の日本国民の不満を解消出来る筈が無かった。そこで日本政府は明治43年(1910年)に日韓併合を行い、統治権を譲与されると、日本国内の多くの困窮者を朝鮮半島に送り込んだ。更に中国大陸への進出によって、貧しい人たちの生活を豊かにして上げようと画策し、満州鉄道関係者以外にも多くの人たちを満州に送り込んだ。このことにより、日本人の生活は次第に楽になり、日本は近代国家としての歩みを前進させ、大正元年(1912年)を迎えた。大正三年(1914年)になると、日本は英国政府からドイツの東洋艦隊の軍港でのある中国の青島を攻撃するよう要請があり、第一次世界大戦に参戦した。日本連合艦隊はここでも活躍。青島や南洋諸島に海軍を送り、成果を上げた。ヴェルサイユ条約で日本は中国の山東半島を支配することになった。日本は戦費を使いながらも、徐々に発展した。そんな矢先、俺が高等小学校2年、14歳の時の大正12年(1923年)9月1日、土曜日の昼時、関東大震災が起こった。俺たちは教室から校庭に逃げ出した。校舎がグラグラ揺れ、机の下に隠れる者もいたが、俺は黒板が音を立てて落ちたので、真っ先に教室の窓から外に跳び出した。激しい揺れは10分程で終わったが、余震が続くので、俺たちは直ぐに自宅に帰された。自宅に帰ると母は妹たちを抱かえ、ガタガタ震え、家を守っていた。自宅の被害は土蔵の白壁にひびが入ったり、食器が割れたりした程度だった。夕方、父が西横野小学校から帰宅すると、皆、ほっとした。

「震源地は相模湾らしい。東京では地震の直後にあちこちで火災が起こり、建物の倒壊の他、大火災になって、沢山の死者が出ているらしい」

「東京の知り合いの人たちは大丈夫でしょうか」

「うん。どうなっているか、心配だな」

 翌々日、9月3日、上毛新聞は《惨たり、帝都焼土と化す》などという見出しの新聞記事を掲載していた。母は、その新聞記事を読んで真っ蒼な顔になった。東京の親戚や知人はどうなっているのだろうか。父は一週間後、多量の米をリュックに入れて東京へ行った。そして戻って来て、焼け野原になった下町や倒壊した親戚の家の話をした。焼けただれた死体も見たという。俺は世の中には信じられぬ恐ろしい事が起こるものだなと思った。この大震災の惨状を知ったロシアのスターリンや中国の徐世昌や朝鮮の李範允ら抗日家たちは、大日本帝国に天罰が下ったと大喜びした。日本政府は山本権兵衛内閣のもと、この緊急事態に対応すべく、東京に戒厳令を敷き、軍隊と警察の協力で、被害者の救済と治安の維持に努めた。この震災によって沢山の人の命が失われた。その混乱が下火になると、日本人は逞しく復興へと立ち向かおうとしたが、全国的に出業者が続出する不況に陥り、日本中が混迷した。日露戦争後の財政難がやっと解消し、日本国民が困窮から抜け出し、欧米列強と肩を並べることが、漸く出来たと思えた矢先の不幸であった。この頃になって俺は日本国民の困窮状態というものが、どんなものであるか理解出来るようになった。

         〇

 大正14年(1925年)3月1日、俺は土塩村から新井村を通り、山を越え松井田駅まで歩き、汽車に乗って、高崎経由で前橋まで行き、前橋の知り合いの家に泊めてもらい、師範学校の入学試験に挑戦した。父も母も教師なので、俺も教師の道に進むのが当然の道であると考えていた。試験は2日間にわたって行われた。初日3月2日の月曜日は、算術と国語の試験で、ほぼ満点の自信があった。2日目の火曜日は午前中、口頭質問、午後、身体検査が行われた。俺は実感として、必ず受かると前橋の知り合いにお礼を言って家に帰り、両親にも、その自信の程を語った。ところが2週間後、不合格通知が届いた。原因は身体検査の結果、色盲が判明したとの理由であった。俺は勿論のこと、祖父や両親や妹たちも愕然とした。何故、村で神童と言われていた俺がと思った。俺は自分が色盲であることを知り、強い劣等感を抱いた。俺は両親が近親結婚であるのが原因だと親子喧嘩をして家を跳び出した。色盲の人間は本当に使い者にならないのか。俺の反抗心には困ったものだ。わざと画家の道に進もうと決心した。東京に横山大観という気鋭の画家がいると知って、上野に出かけた。だが、尋ね人は不在で会うことが出来ず、何処へ行ったら会えるかと聞くと、長野の高井村に行けば会えるだろうと言われた。俺は慌てて、故郷に引き返し、自宅には寄らず、母の実家へ行って祖父に会い、借金して、長野へ向かった。そんな俺のことを、村の人たちは、金が無くなって、せびりに来た吉田家の放蕩息子と笑い、噂し合ったらしい。俺は松井田駅から汽車に乗り、碓氷峠を越え、信州中野まで行って下車した。そこから千曲川を渡り、高井村にいた横山大観先生に会った。横山先生は民家に泊り、桜の絵を描いていた。俺は民家の庭に跳び込むと、不躾とは思ったが、横山先生に声をかけた。

「横山先生。横山大観先生ですね」

「何んだ、お前は?」

 横山先生は俺を見て、難しい顔をした。俺はドキッとしたが、勇気を奮って言った。

「先生の弟子にしてもらいたくて、群馬からやって来ました。弟子にして下さい」

「藪から棒に何だよ。俺は弟子はとらん。それより見てみろ。綺麗だろう、高山の桜は・・・」

「は、はい。我が村に咲く庚申桜と違う美しさです」

「ほほう。お前の村にも綺麗な桜の木があるのか」

「はい。四百年以上の桜の巨木です。もう散ってしまったと思いますが」

「じゃあ、頭に入れておこう。庚申桜だな」

 横山先生は、そう言うとにっこり笑い返して、再び絵に向かった。高井村は樹齢百年以上の桜が競うように咲き誇り、実に見事だった。俺が帰らないで横山先生のいる民家の庭先の石に腰掛け座っていると、民家のおばさんが、お茶を淹れてくれた。

「そんなとこに座ってねえで、縁側でお茶のみなさいよ」

「良いんですか?」

「遠慮などしなさんな。遠くから来たお客さんじゃ」

 俺は、その言葉に甘え、縁側に座らせていただきお茶をいただいた。野沢菜の漬物が出されると、横山先生も絵を描くのを中断して、俺のいる縁側に来て一休みした。

「これから群馬に帰るのか」

「いえ。まだ先生の弟子になる夢を諦められないですから、ここにいます」

「駄目だ。俺の弟子などになったら、人生終わりだ。止めとけ。それより、もう直ぐ夕方だ。今夜はここに泊って行け」

 俺はびっくりした。泊って行けなどと言われるとは思っていなかった。俺は跳び上がって喜んだ。弟子にしてもらえるのではないかと思った。ところが、そうでは無かった。民家のおばさんが夕食の準備を終えると、近所の村の名士が二人やって来て、飲み会となった。横山先生は大酒飲みだった。俺は、それに付き合わされた。俺は、その飲み会の席で、村の名士に高山村に来た経緯を話した。自分が色盲の為、師範学校に入れなかったことも告白した。

「この3月、俺は教師になろうと師範学校を受験したんだけど、色盲の為、不合格となっちゃいました。これから何をすれば良いのか、お先が真っ暗になっちゃいました。でもここで人生を終わらせる訳には行かないと、小さい時から絵を描くのが好きだったので、絵描きになろうと決心しました。絵描きになって色盲でも、素晴らしい絵が描けることを証明したいと思いました。それで横山先生の所へ来たんです」

「へえっ。師範学校不合格になったんか。それは残念だったな」

「それにしても、こんな山奥まで先生を追っかけて来るなんて、えれえ勢いだな」

「だがね。先生のようになるには芸術的才能がないといけないんだよ。村に帰って野良仕事に精出し、親孝行するんだな」」

 村の名士、西沢、久保田両氏は師範学校に入れなかった俺を慰めると同時に、才能が無いのだから、諦めて親元に帰れと忠告した。俺はムカッとした。

「言われる通り、才能が無いかも知れません。でも失敗しても良いから挑戦してみたいのです。ようやくここまで辿り着き、引き返すことは出来ません」

「気持は分かるが、冷静になって考えねえと。まあ、飲みねえ」

 話は酒を飲みながら、俺のことで盛り上がった。俺は横山先生と村の名士にさんざん飲まされながらも、弟子入りをお願いした。

「兎に角、先生に一目お会いして、弟子にしてもらうことを、ひたすら神仏に念じて汽車に乗って、ここまで来たのですから、何とかなりませんか?」

 俺が目から涙をこぼし訴えるのを目にして、横山先生は呆れ返って言った。

「分かった。分かった。お前の熱心なのは分かった。だが俺は、お前だけに泣きつかれても、お前を弟子にする訳にはいかぬ。お前は両親のもとに戻り、親の許しの書付をもらってから、俺のところへ来い。親にとって、我が子が自分勝手に人生の道を選ぶのは不幸なことだからな」

「そうだ、そうだ。お前は長男だから、親の許しを貰わずに勝手に進路を決めたら、親不孝者になるぞ」

 俺は横山先生や村の名士に説得され、村に帰り、両親の許しを得ることを考えた。それから横山先生が高山村にいる間、のんびり高山村で過ごした。横山先生が写生をするのに同行し、画材道具を運んだり、横山先生と温泉につかったり、滝を観に行ったり、魚釣りをしたりして楽しんだ。そして5月初め、横山先生が東京に帰るのに合わせて、俺も同じ上野行きの汽車に乗って、途中、松井田駅で下車して、駅のホームで横山先生を見送った。

「先生。いろいろ有難う御座いました。両親を説得し、必ず東京へ行きます。そしたら弟子にして下さい」

「良かろう。ではまた会おう」

 俺は上野行きの汽車が、白い煙を吐いてスイッチバックして行くのを見送った。駅の改札口から出ると『広栄亭』の女将が俺を見つけた駈けて来た。

「お坊ちゃん。何処へ行っていたのです。先生や村長さんが、ずっと探し回っていましたよ。早く家に帰らないと」

「そうですか」

 俺は祖父や父たちが、血眼のなって、自分を探しているのを知って、こっ酷く叱られることを覚悟した。俺が松井田の町から天神峠を越え、家に帰ると、母は奥の間で臥せっていた。隣りの蝶おばさんが、母の看病をしてくれていた。妹たちは母のことを心配しながら台所仕事をしたり、幼い弟の面倒を見ていた。俺は蝶おばさんに訊いた。

「お蝶さん。母さんが病気になったんですか?」

「はい。カズちゃんが村からいなくなってから体調が悪化して、寝たっきりなんです」

 蝶おばさんの言葉に、俺は次の言葉が出なかった。家出したまま家に帰らず、心配をかけた責任を感じ、俺は落胆した。そんな俺に妹の喜代乃が追い討ちをかけた。

「兄ちゃんが家出なんかするもんだから、お母ちゃんが病気になっちゃったんだ。今まで、何処へ行っていたの。小柏の御祖父ちゃんだって、忙しいのに心配して、さっきまで、ここに来ていたのよ」

「そうか。心配させて悪かった」

「兎に角、お父ちゃんが帰って来たら、こっ酷い目に遭うから、覚悟しておいた方が良いわよ」

「承知している」

 俺は妹たちに、そう答えて笑ったが、不安になった。夕方になると父が自宅に帰って来た。流石の俺も緊張した。父は俺を目にするなり、俺が喋ろうとする前に俺の襟首を掴んで往復ビンタをくらわせ、怒鳴り散らした。

「カズ。おめえは一体、何を考えていやがるんだ。今、我が国は日露戦争、山東出兵、シベリア出兵による損失と関東大震災の困窮から抜け出そうと、国民が一致団結して、頑張っているんだ。村では皆が関東大震災からの復興に向けて、被災者を迎え入れ、誰もが豊かになるよう、必死になって頑張っているんだ。それを何だ。おめえは師範学校に不合格になったくらいで、やけになってぐれるとは、大馬鹿野郎だ。俺は教師として、おめえのような息子を持ったことが恥ずかしい。情けない。何で戻って来た。この大馬鹿野郎!」

 父は尚も俺を殴った。初めのビンタは我慢出来るが、父の暴力の執拗さに、流石の俺も顔が蒼ざめ、両親たちを心配させた反省の気持ちなど、何処かへ吹き飛んでしまった。俺は父の怒りに対抗し、激昂した。

「ああ、俺は大馬鹿者だよ。親が親だからな。そんな大馬鹿野郎、家にいて欲しくないと思っていたんだろうから、家を出て暮らしていたのさ。また出て行くから安心しな」

 俺の反抗の言葉に、父は顔色を変えた。

「何を言っているんだ。お前は、この家の長男だ。お前には教師以外に、この村でやることがある。お前は村の人たちが、より良い人間らしい生活が出来るように、村の青年たちと手を取り合い、心血を注ぎ、村に尽くすことを、自らの宿命であると心得よ」

 父の言葉は意外だった。出て行けと蹴飛ばされると思っていた。しかし、父は俺を引き留めた。俺は父に丸め込まれてはならないと思った。

「俺は東京の有名画家の弟子にしてもらえることに、なったんだ。それを伝えに俺は戻って来たんだ。俺は東京へ行く」

「戯れ事を言うんじゃあねえ。お前は、この村を豊かにし、大陸に出て行っている日本人たちを支援する為に、頑張らなければならないんだ。今まで国内で貧しい生活を強いられ、大陸に移住せざるを得なかった人たちの為に、国内にいる俺たちが応援してやらなければならないんだ。そんな時に、絵を描いて過ごそうなんて考えは我が家の恥だ」

「俺には関係ねえ。俺は東京へ行く」

 俺がきっぱり東京行きを断言すると父は溜息をついた。その様子を見て、奥の間で寝ていた母が起きて来て、俺に泣きついた。

「一夫。東京へ行くなんて言わないで、私の側にいておくれ。お前がいなくなったら、私は生きていられるかどうか・・・」

 俺は父に殴られ鼻血をぬぐう俺の足にすがって涙を流す母親を見て、大人しく親の言う事を聞くしか仕方ないと思った。俺は父母の庇護のもと成長して来たのに、それを無視して、父の世間的立場も考えず、勝手放題なことをして、母を苦しませてしまった愚かさを、病身の母の泣き顔を見て反省した。かくて俺の画家になる夢は、呆気なく消え去った。

         〇

 俺は村に残り家業に専念することにした。まずは農作業に取り組んだ。自分を含めた二男二女を養う為に働く親の苦労を少しでも楽にしてやろうと、頑張った。吉田家は新井村の『木屋』吉田家の分家ではあるが、一応、地域の名門の流れであり、教育者の家柄であった。なのに不思議と山林や田畑があった。父は吉田本家から坊地と養地の田んぼの他、養地と塩沢の山林を分与されており、母は上原本家から、鍛冶屋村の宅地、田畑、寺前の田んぼと信濃道の山林を分与されており、野良仕事や山仕事の手伝いに春吉、奈加夫婦を雇っていた。俺はこの夫婦に野良仕事や山仕事を教えて貰った。自宅二階部屋での養蚕については、母と妹たちに任せた。村には五つの製糸工場があり、自宅近くの『西九十九組』と奥土塩の『共明組』などが原市の『碓氷社』に生糸を納品していた。俺は母方の祖父、上原宇三郎が組合長をしている『共明組』が生糸を出荷する時など、人手に困っている時、奥土塩まで出かけて行って、伝票作りなどの事務仕事を手伝った。そんな俺の姿を見て、両親は一安心したようだった。俺も『共明組』の仕事にも慣れ、その行き帰りに出会う娘と親しくなった。器量の良い中島綾乃という娘だった。俺はいずれ綾乃を嫁にしたいなどと考えたりした。ところが東アジア情勢は日々刻刻と変化していた。日本軍がシベリア出兵から撤退したことにより、ロシア帝国滅亡後に生まれたソビエト共産党政権と大日本国政府の間での国交正常化の為の二国間条約が締結された。それと共に朝鮮では大日本帝国の植民地的支配を止めさせようとする独立運動が頻繁に起こった。かって20年前、李朝に反旗を翻した会員100万人の『一進会』が大韓帝国の高宗皇帝や李完用首相へ、日本と韓国の対等合併を目指す『日韓合邦』の請願書を提出したが、これを承認すれば朝鮮は日本の指導保護から解放され、再び中国やロシアの餌食になるであろうと、大日本国の初代統監、伊藤博文が、大反対した。伊藤博文の考えは大韓国が大日本国の支援を受け、近代化をやり遂げ、やがては大日本国と共に東亜に並び立つ一等国に成長することが願いであった。その為、伊藤博文は明治38年(1905年)、日露戦争後も太平洋進出の野望を捨てていないロシアから朝鮮半島を守る為、高宗皇帝や、李完用首相の承認を得て『日韓併合』に踏み切ったのだ。なのに伊藤博文はハルピン駅にて、朝鮮の若者に暗殺されてしまった。それから時代が過ぎ、大韓国は、またもや他国との服属関係を破棄しようと、大日本国の保護指導から離脱しようと、大正11年(1922年)ロシアからソビエト連邦に名を改めたソ蓮の力を借り、独立運動を開始した。また中国では直隷派と奉天派による指導権争いの内戦が繰り返された。そこに国民党の孫文が北上宣言を行ったものであるから中国大陸は大混乱となった。俺は当時、孫文の『大東亜主義』に感銘を受けていた。

〈大アジア主義の中心は東洋文明の仁義道徳を基礎としなければならない。アジア諸国は仁義道徳をもって連合提携して、欧州からの圧迫に抵抗すべきである〉

 俺は、そんな東アジアの情勢を新聞で読み、日清、日露に続く戦争が起こるのではないかと危惧した。小学校教師である父は、俺以上に大戦争が勃発するのではないかと危惧していた。その為、父は小学校児童生徒たちに、国防上から軍備増強の重要性を語った。日清戦争は朝鮮を清国からの独立させる為の戦争であったと説明した。また日露戦争は弱体化した清国の北方、満州をロシアが占領した為、我が国は朝鮮半島をロシアに支配されかねないと危惧し、イギリスと日英同盟を結びロシアに対抗した戦争であったと説明した。また大国ロシアに勝利出来たのは、江戸幕府の英傑、小栗上野介が、日本海軍を強化して於いてくれたお陰だとも話した。父は家に帰って来ても、俺たちに戦争の話をした。乃木大将の話、日本海海戦の話、秋山直之の名言、水師営の会見など、さながらそこに従軍したかのように熱弁を振るった。俺は母や妹たちと、またかと顔を見合わせて笑う、毎日を過ごした。

         〇

 大正15年(1926年)の暮れ、12月25日、数年前から健康状態が悪化していた天皇陛下が47歳で、お亡くなりになり摂政をしていた26歳の長男、裕仁親王が天皇に即位し、大正が昭和と改元された。そして年が明けると直ぐに、もう昭和2年(1927年)だった。俺より8歳年上で、関東大震災以来、不景気が続く日本国内と大陸の権益と居留民を守らねばならぬ天皇の責務を思うと、今、自分が群馬の山村を豊かにする為に齷齪していることが、ちっぽけな事のように思われた。日本の危機防衛は若くして聖徳太子のように摂政を務めて来た聡明で温厚な天皇の双肩にかかつているのだと思うと、それに協力せねばならぬという気持ちが増幅した。春吉夫婦と農作業をしたり、製糸工場の帳簿づけをしたり、村の青年たちと酒を飲んだりしていることは、この国難の時に生きている俺に相応しくないとことだと思われた。そんな時、俺は豊橋に歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校創設の勅令が下され、入学希望者を募集していることを耳にした。俺は、それを知り、軍人の道に進むことを決断した。俺は両親に自分の決意を伝えた。

「父さん、母さん。今、日本は日清、日露の戦いなどで手にした大陸での権益を共産主義国の煽動や未熟な民族主義者の暴動によって、折角、大陸に根付いた我が国の発展の芽を紡ぎ取られようとしています。多くの日本人居留民が大陸で財産を手にしたのに、引き上げを余儀なくされ、苦しんでいます。そのような時に俺たち若者がのんびりしていることは、頑張っておられる天皇陛下に対して許されぬことです。俺は軍人になることに決めました」

 俺の告白を聞いて両親はびっくりした。この前は画家になると言って家を跳び出し、今度は軍人になるなどと言い出し、どういうことか。父は厳しい顔をして俺を睨みつけた。

「お前は軍人になれるなんてことが出来ると思っているのか?」

「やってみなければ分からぬことです。豊橋に陸軍教導学校が出来ることになったので、俺はそこに入ります」

「俺は反対だな」

 父は反対だったが、俺はここで引き下がる訳にはいかないと思った。恐れずに言った。

「この前、俺が画家の道に進もうとした時、父さんは、下らぬ画家なんかにならず、大陸に出て行っている貧しい日本人たちを支援する為に頑張らなければならないと言ったではありませんか。学童たちにも、そう教えているのでしょう。その訓導の息子が、軍人になるのは誇らしいことです。俺をこの村に埋もれさせるようなことはしないで下さい」

 父は俺の言葉に、何とか止めることが出来ないかと、真正面から俺に向き合い説教した。

「村はこれから養蚕で忙しくなるというのに、お前は本当に軍人になるつもりか。宇三郎祖父さんも、お前が組合の仕事に就いてくれて、ほっとしている。なのに軍人になるというのか」

「申し訳ありません。我が国を取り巻く環境は、欧米の食い物にされ、愚かな中国人や朝鮮人が、反日運動を繰り広げ、欧米列強の思いのままになろうとしています。この国難に対処すべく、我ら若者は力を合わせ、我が国からの援軍によって大陸に慰留している人たちの汗と涙の結晶を守ってやらねばならぬのです」

 俺の言葉に、父は溜息をついた。息子が目指そうとしている道は正しいのであろうか。自分に似て、頑固者の息子は今度は考えを曲げないであろう。父は、これ以上、説得しても無駄と思ったのであろう。俺を説得するのを諦めた。

「困った奴じゃ。これ以上、言っても聞き分けてくれそうも無いので、俺は、もう止めん。お前の人生だ。好き勝手にせい」

 その父の言葉を聞いて、側にいた母が泣きそうな声で俺に訊いた。

「一夫。お前は本当に軍人になろうと志願するのですか?」

「はい。父さんの言う事が正しいかも知れませんが、俺は自ら信じた道を歩きたいのです。許して下さい」

 俺の意志の固さに、母もついには諦めた。

         〇

 昭和2年(1927年)7月、俺は豊橋の陸軍第15師団の駐屯地に行き、陸軍教導学校の入学試験を受けた。筆記試験、口頭試問、身体検査も師範学校の試験より簡単で、色盲も問題なく合格となり、8月に入学した。陸軍教導学校の初年度は、校長、武田秀一大佐のもと、まず基本教練から始まった。基本体操などにより、機敏に戦闘体勢に入れるように身体を鍛えた。鉄棒体操以外は、何とかこなすことが出来た。剣道、柔道なども、少年時代、チャンバラごっこをして過ごした俺には楽しかった。しかし、宿舎での生活は自由がきかず大変だった。そんな時、俺に困ったことが起きた。母が癌にかかって、高崎の佐藤病院に入院したが、思うように行かず、板鼻の知り合いの荒木先生にお願いして、東京の本郷にある東京帝国大学附属病院に入院したということであった。俺は9月4日の日曜日、担当教官に外出届を提出し、豊橋駅から汽車に乗り、東京まで行き、本郷の病院に入院している母に会いに行った。病室には母の具合を心配する祖父と父と妹の喜代乃と叔母の文代がいた。母をはじめ祖父たちは、軍帽、軍服、短靴姿の俺を見てびっくりした。俺は敬礼して部屋に入り、母に近づき声をかけた。

「びっくりしました。帝大病院に入院したと聞いて、外出許可をいただき、やって参りました」

「まあっ、一夫。遠い所から来てくれてありがとう。母さんはもう大丈夫よ。心配しないで。立派な軍人さん姿になったわね」

「まだ体力強化を始めたばかりで、ヒヨッコです」

 すると祖父、宇三郎が俺の肩を叩き、嬉しそうに言った。

「いや、見違える程、立派になったぞ。今、外地ではソ蓮の南満州進出や朝鮮人の抵抗集団や支那革命のとばっちりを受けて大変らしい。陸軍学校での訓練に打ち込み、早く大陸の師団に入り、満州や朝鮮にいる親戚や村人たちの為に、貢献するよう頑張ってくれ」

 祖父は母のことで頭の中がいっぱいの俺に、一時も早く優秀な軍人になり、成果を挙げるよう激励した。祖父は心底、師範学校試験に不合格になり、自宅で野良仕事をしたり、村の製糸工場で事務仕事をしたりしていた孫が軍隊に入り、活躍することを願っていた。父は祖父の言葉に頷くだけで何も言わなかった。母は痩せ衰えた手を病床の中から俺に伸ばして、弱々しく俺の手を握ると、俺に言った。

「一夫。私にはひとつだけ気になることがあります」

「何ですか、母さん」

「軍隊に入ったら、どんな危険が待ち構えているか分かりません。お前は一途だから、目的の為には命を投げ捨てようとするでしょう。しかし、そこで死のうなどと思ったりしたら駄目ですよ。貴男の命は、貴男のものででなく、懸命になって貴男を育てて来た、お父さんや御祖父さんや私たちのものなのですから・・・」

 すると父や妹が俺をジロリと睨んだ。俺は冷静に答えた。

「分かっています」

「生きるのよ。どんなことがあっても生きるのよ」

 母の言葉に俺は唇を噛んだ。俺が頷くと母はもう一度、俺の手を弱々しく握り直した。俺は短時間の見舞いを終えると病室から見送りに出た赤羽の叔母に、お願いした。

「母さんをよろしくお願いします」

 すると叔母は明るい声で、俺を励ますように言った。

「心配しないで。私が毎日、付き添っていますから。陸士の勉強、厳しいらしいけど頑張ってね」

「はい。では失礼します」

 俺は野口文代叔母に深く頭を下げ、東京帝国大学附属病院から、湯島の坂を下り、上野に出て、そこから市電に乗り、新橋に行き、新橋駅から汽車に乗り、豊橋の陸軍教導学校に戻った。それから一ヶ月も経たぬ10月1日の土曜日、訓練を終えて仲間と一緒に自分たちの寮に戻った俺のところに電報が届いた。

〈母シス。家ニ直グ帰レ。父〉

 俺は、その電報を手にして手が震えた。

「母さん」

 そう呟いた俺に白鳥健吾が声をかけた。

「どうしたんだ、吉田?」

「母が死んだ」

 母の死を白鳥たち仲間に話した途端、悲しみが一気に涙となって溢れ出し、抑えようとしても抑えきれなかった。そんな俺を見て角田武士が怒鳴った。

「お前、泣いている場合じゃあないぞ。教官の所へ行って電報を見せて、直ぐに家に帰るんだ」

 俺は仲間にうながされ教官から外出許可をいただくと、汽車に乗って豊橋から新橋に行き、そこから上野駅に移動し、駅近くの旅館に一泊した。そして翌朝6時、上野発、直江津行の汽車に乗って、郷里に向かった。松井田駅に10時に到着し、11時前に家に帰った。母の遺体は本郷の『金子商店』の車で東京から土塩村まで運ばれ、俺の家の奥の間の床の間の前の木棺の中で眠っていた。実に穏やかな安堵した寝顔だった。父は愛妻を失い、その奥の間の片隅で呆然として座っていた。俺は父に挨拶して葬儀の手伝いをしようと庭に出た。すると、近所の宮下酉松組長が俺に言った。

「カズちゃん。葬式のことは総て俺たち組内の者がするんで、じっとしていて下さい。親戚の人たちのお相手だけ、お願いします」

「はい。分かりました。よろしくお願いします」

 俺はそれから隣りの蝶おばさんや手伝の房江さんが用意してくれた昼食を妹たちといただいた。午後になると近所の人たちが集まって来て、葬式の準備を始めた。男衆は来場者の待機場所、受付の机やテントの設置、花環並べなどを行い、女衆は料理作りを勝手で始めた。本家側からは父の兄弟たちがやって来て、宇三郎祖父と室内の花飾りや座布団などの準備をした。祭壇は葬儀社の人たちが綺麗に組み上げてくれた。そうこうしているうちに告げの人たちも帰って来た。夕方になると遠くの親戚の人たちや母の知人や、父の学校教育関係の人たちが集まって来て、家の中の部屋の隅から隅まで人がいっぱいになり、廊下にまで人が溢れた。更に屋敷の庭にも人がいっぱい並び、隣りの豆腐屋の庭先まで行列が続いたので、俺はびっくりした。祖父は詰めかけた人たちからのお悔やみの挨拶に対応し、俺は父の隣りに座り、頭を下げながら、時を待った。やがて『乾窓寺』の和尚たちが見え、お通夜が始った。俺たちはお経を聞きながら、焼香し、母の冥福を祈った。焼香と読経が終わり、和尚たちが帰ってから、俺はお通夜に来てくれた親戚や近所の人たちと、料理を口にし、酒を飲んで、悲しみを紛らわせた。10月3日の母の告別式は余りにも大勢の人たちが訪れて、悲しんでいる暇など無かった。ほとんどの人が本家や母の実家の遠縁の人、あるいは父の教員仲間、母の昔の教員仲間、祖父の役場や仕事関係の人たちであった。昨日と同じ、『乾窓寺』の足利方丈をはじめとする和尚たちが座につき、母の木棺に向かって読経した。そして一旦、お経が止むと、村の代表や教育関係者の弔辞が読まれた。その母に送られた美しい弔辞に多くの人たちが涙した。俺も泣きそうになったが、涙を堪えた。弔辞が終わると、また読経が始った。南の縁側に設けられた室外の香炉から立ち昇る焼香の煙が陽の光に紫色に染まり、天空に昇って行くのが、部屋の中から見えた。やがて焼香も終わり、出棺の仕度が始った。母の眠る木棺が庭に運び出され、父が会葬御礼の挨拶をした。その後、父が母の遺影を手にして進む後を、御位牌を持って、墓地に向かって歩いた。木棺を担いだ親族の若者たちや、花篭を振る人たちが、坊地の墓地まで、行列となって歩いた。近所の子供たちは竹篭から紙吹雪と共にこぼれる小銭を拾いながら行列を追った。そして墓地に到着すると、既に村内の人たちによって掘られた墓穴に母の眠る木棺は埋葬された。その墓穴の木棺の上に俺たちは周りの土を投げ入れた。俺は母親が墓地に埋葬されたのを見届けるや、父に断って墓地から、そのまま松井田駅まで歩き、上野行の汽車に乗った。上野に行くまでに俺の涙は枯れ果てた。上野に着いてから新橋に行き、名古屋行きの汽車に乗り換え、夜中に豊橋陸軍教導学校の宿舎に辿り着いた。

         〇

 豊橋陸軍教導学校に戻った俺は、母の死の悲しみを紛らす為、下士官養成の為の訓練や軍事知識を身につける為の修練に専念した。また日清、日露などの戦争によって獲得した大日本帝国の権益が、どんな状況になっているのか、関東大震災後の金融恐慌が、農民や低所得者層にどのように波及しているのかなどを、教官に尋ねたりした。すると田島教官が教えてくれた。

「今、我が国は関東大震災後の不況で苦しんでいる。頼りは日清、日露戦争によって獲得した大陸各地の日本人居住者たちからの利益還元である。それ故、我が陸軍は支那の山東や満州に進出している日本資本の工場や、そこで働く人たちを守る為、5月に山東に出兵した。支那の国民革命軍から、日本人現地居留民を、何としても保護せねばならぬからだ。守るべきは、山東だけではない。満州や朝鮮にいる日本人たちも守ってやらねばならない。外地で働く人たちの大陸での収益が日本本国にもたらされないなら我が国は欧米の餌食になる」

「日本が欧米の餌食になるのですか?」

「そうだ。欧米の国々、イギリスやアメリカは、関東大震災で苦境に陥っている我が国や分裂状態の支那に食い込み、属領を増やそうとしている。ソ蓮も北から入って来ようとしている。これらの動きを放置していたら、我が国も奴らの属領にされてしまうということだ」

 田島教官の話は成程と思えた。それは翌昭和3年(1928年)中国国民党の蒋介石がソ連のヴァシーリー・ブリュヘルの下で北伐を開始したことで、良く分かった。蒋介石率いる国民革命軍は済南に迫った。日本政府は山東半島を守る為に、またもや山東出兵を余儀なくされた。それに伴い、内地にいる日本陸軍も傍観している訳にはいかなかった。高度国防国家の建設を目指して、有能な軍人と陸軍の高性能装備の増強を早めようと計画していた。その計画は当然のことながら、豊橋陸軍教導学校にも伝達された。それに加え、元陸軍大将、田中義一が、前年、首相になったことから、国内の混乱に終始した幣原喜重郎らによる協調外交を進めて来た若槻内閣と異なる正反対路線を積極的に推し進めることになった。大日本帝国繁栄の為には山東は勿論のこと、我が国の二倍以上の広さを持ち、石炭、鉱石、羊毛、大豆などの産物を豊富に産出している満州を、何としても守らなければならぬと考えた。この田中義一内閣のもと、日本陸軍は大陸における日本の力を見せつけなければならないと奮起活躍した。ところが今まで親日派であった馬賊出身の張作霖が、秘かに日本離れをしようとする気配を見せた。そこで関東軍や吉田茂奉天総領事らは張作霖を支援し、北京に於いて張作霖を中華民国の主権者に選び、満州の共産化を断ち切った。なのに張作霖は北伐を進めている蒋介石の〈山海関以東の満州には侵攻しない〉という言葉に騙され、北伐を進める国民革命軍に攻め込まれ、北京から脱出することになってしまった。そして6月4日、張作霖を乗せた特別列車が奉天近郊の京奉線と満鉄線の立体交差地点を通過中、上段を走る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた爆薬の爆発によって、脱線大破し、炎上した。列車に乗っていた張作霖は両手両足を吹き飛ばされ、一緒だった警備、側近ら17名も死亡した。この事件発生により、日本は反共の防波堤として考えていた重要人物、張作霖を失い、田中義一首相や白川義則陸軍大臣は愕然とした。結果、国民革命軍の蒋介石は、堂々と北京に入城し、北伐を終了させた。二十代の若き日、大日本帝国陸軍で学んだ蒋介石は、日本軍の駐留する万里の長城以北の満州まで、侵攻しようとはしなかった。田中義一首相は事件の真相を掴もうと、済南にいた陸軍中将、松井石根を奉天に送り、事件の実態を調べさせた。最初、ロシア製爆弾が使用されたことから、ソ連の特務機関の犯行と思われたが、何と、その実行者は関東軍の河本大作大佐たちであると判明した。それを聞いて田中義一首相たちは慌てた。何てことをしてくれたのだ。河本大作らは、張作霖が蒋介石と密約し、満州から日本軍を追い出す計画を進めていたから張作霖を始末したと答えた。俺たちは、この事件が満州で起こったことを聞いてびっくりした。

         〇

 昭和4年(1929年)になると張作霖爆殺事件の影響により、日本と中国との関係悪化の度合いが深まった。張作霖の息子、張学良の怒りは、秘かに日本に向けられた。彼は北京に行き、蒋介石に会い、国民革命軍との関係を深めた。豊橋陸軍教導学校の武田秀一校長は、そういった大陸の状況を俺たち見習兵に弁舌した。

「諸君。我が校が新設されてから、間もなく二年になる。その間、大陸は大変なことになっている。明治維新以来、実力を蓄積して来た我が国は、一貫して実力無き支那や朝鮮を防衛せんと治安維持軍を派遣し、崇高なる聖戦を行って来た。ところが今や支那や朝鮮で今までの我が国の正義の道を理解出来ない者たちが暗躍し始めている。米英が我が大日本帝国の大陸での台頭を好ましく思わず、影で日支の離間策に全力を注いでいる。米英は蒋介石及び張学良を支援し、大陸で活躍する日本人居留民を、父祖の鮮血によって得られた大陸の地から追放しようとしている。このようなことは、許されて良い筈がない。よって諸君には一時も早く、この教導学校歩兵科を卒業し、大陸に行って、現地の治安を安定させて欲しい。それが尊皇愛国の心情を第一とする諸君の使命であることを頭から忘れるな」

 俺たちは武田秀一校長の訓辞に従い、体力強化に努め、武器の分解組立、射撃練習、乗馬練習などに燃えた。また地理や歴史を学び、戦闘作戦などの軍事学も学習した。若さ漲る俺たちは、見習士官になる為、競争に競争を重ねた。厳しい訓練の毎日であったが、懸命に頑張った。師範学校に不合格になり、家の手伝いの春吉夫婦に野良仕事を教えてもらったり、製糸工場で帳簿付けなどの事務仕事をしていたことが、嘘のように思われた。尊皇愛国。それはまさに父が学童たちに教え込もうとしている精神そのものであった。俺たち見習兵は一致団結し、ひたすら訓練を重ね、軍人の道を学んだ。そして7月末、陸軍教導学校を卒業した。それから直ぐに隣接する歩兵18連隊に移り、高師原や天伯原で、蟹江冬蔵連隊長の指揮の下で実戦訓練に入った。この訓練は非常に厳しかった。それだけではない。一同の前で戦術問題などを出され、それに答えなければならず、四苦八苦した。また軍人としての精神論を植え込まれた。忠君愛国。軍紀遵守。捨生求義。大和魂の発揚などの他、新渡戸稲造の『武士道』まで学ぶことになった。そんな訓練に明け暮れしている10月1日、俺たちは7月に首相を辞任した田中義一陸軍大将の死を知った。何でも自決したという話だった。俺たちは教官の中村中尉に、何故、田中義一大将が自決しなければならなかったのか質問した。すると中村教官は、こう説明した。

「田中義一大将は、張作霖爆死事件の計画者、河本大作大佐を軍法会議で処罰せずに、左遷し、停職処分にしようとしたことから、天皇陛下の御叱責を受けられた」

「天皇陛下からの御叱責を・・・」

「そうだ。天皇陛下は仰せられた。事件の責任を明確に取るにあらざれば許し難し」

 その話を聞いて、俺たちは驚いた。中村教官は更に語った。

「御即位して自信を深めた天皇陛下は御親政を目指しておられる。統帥権を完全に手にして、真の王政を望まれておられる」

 中村教官は首相が総辞職した場合は与党から、後継の首相を出す憲政の常道により、浜口雄幸内閣が発足したのだと、その経緯を語ってくれた。田舎者の俺たちには中央政府のやっていることが、余り良く分からなかった。天皇陛下に叱責を受けたから自決するとは、それが武士道か。良く分からなかったが、俺たちは上官たちについて行くより仕方無かった。そうこうしているうちに年末になった。年末には正月休みということで人事係に届けを出し、実家に帰省することが出来た。実家に戻ると父や妹や弟も喜んだ。父は俺の軍服姿を見て、立派になったと認めてくれた。隣りの豆腐屋の蝶おばさんや手伝いの秋山房江たちも俺の事を煽てた。

「随分、男前になったじゃない」

 俺は何故か軍人の道に進んだことを誇らしく思った。

         〇

 昭和5年(1930年)正月のお節料理をいただき親戚回りをしている途中、村の娘たちや子供たちから、兵隊さんだと声をかけられ、良い気分になった。2日の夜には、友だちの家に泊るからと家族の者に嘘を言って、中島綾乃と磯部温泉で一夜を過ごした。俺たちは抱き合い、いずれ結婚し、ずっと仲良く暮らして行きたいと夢を描き合った。綾乃に元気をいただいた俺は、短い正月休みが終わると、再び豊橋の第19師団の歩兵連隊に戻った。軍隊の生活は相変わらず厳しかったが、慣れて来ると何故か同じ繰り返しばかりで惰性的になり、余分な事を考える余裕が出来た。家族の事や綾乃のことを思ったりすることがあった。そんな、余裕の軍隊生活の間にも、世界の情勢は日々刻々、変化を続けていた。欧米は東アジアで軍事力を増す大日本帝国に警戒を始めた。ロンドンで軍縮会議が開催され、日本は4月、海軍軍縮条約に調印した。インドではマハトマ・ガンジーがインドの独立を目指し活動を始めた。大陸では蒋介石派と反蔣介石派の内戦が起こり、朝鮮でも独立運動が強まった。そんなこともあって、7月末、俺たちは朝鮮75連隊に入隊することになった。75連隊は歩兵73連隊から76連隊の4個連隊の中の一つで、朝鮮北部の警備に当たる第19師団の歩兵連隊であった。連隊の上には歩兵第38旅団があり、俺たちは名古屋城内の連隊で、朝鮮に関する歴史、地理などの教科の他、酒匂宗次郎連隊長の指揮のもと恵那山や犬山に登る訓練をした。頭に鉄兜を被り、背嚢を背負い、飯盒、水筒を吊るし、腰に軍刀を下げ、手に銃剣を持ち、足にゲートルを巻いて山を登るのは厳しかったが、子供の頃から山に行って薪運びをしていたので他の者より頑張れた。また木曽川や長良川の渡河訓練も大変だった。泳ぐことは出来るのだが、故郷の小川と違うので苦労した。そんな訓練に明け暮れしている11月14日、陸軍の演習視察に出かける途中、浜口首相が、東京駅のプラットホームで23歳の青年にピストルで撃たれた。犯人は取調に対し、こう供述したという。

「浜口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」

 浜口首相は死には至らなかったものの経過は思わしく無く、不安な状態が続いた。この原因は鳩山一郎の『統帥権干犯論』に触発された青年を煽り立てた野党政友会にあった。このことにより、海外とのバランスを保って来た日本は狂い始めた。だが俺たちには政治の事は分からなかった。ただひたすら、いろんな訓練をした。各務原に行って、野戦砲撃の訓練をしたり、飛行機に乗せて貰ったりした。三菱重工の名古屋工場に行って、戦闘機の説明を受けた時、俺より5歳位上の藤岡出身の堀越二郎というアメリカ帰りの飛行機設計士に会ったのには、びっくりした。飛行機見学の時、俺の質問する言葉が上州弁なので、彼には直ぐ、俺が群馬出身だと分かったという。親しみを感じた俺は質問した。

「先輩は何故、中島飛行機に行かなかったのですか?」

 すると堀越設計士は笑って答えた。

「大学の教授に、ここに行けって言われたからさ。君だって、これから上官に言われて、何処かへ行くことになるんだ。そこが自分の活躍すべき場所と思って頑張るんだな。そしたら生き甲斐が見つかるよ」

「はい、分かりました。頑張ります」

 俺は、そう答えて敬礼した。群馬から名古屋の工場に来て張り切っている郷土の人を見て、俺は感心した。俺たちの毎日はラッパ号音によって行われた。起床、点呼、食事、集合から寝る時の消灯まで。自分勝手は許されず、総てが統制されていた。だが、その圧迫された日常は、上官たちのストレスから暴力に移行することもあった。『シゴキ』と言って、私的制裁が行われ、俺も仲間と一緒に何度もビンタに見舞われた。そんな『シゴキ』は数分間で済む事だった。だが真冬の訓練は、そんな甘いものでは無かった。俺たちは酒匂宗次郎連隊長に連れられ、雪の関ヶ原まで出かけ、雪中訓練をした。吹雪の中をラッパの音を聞きながらの行軍の訓練は夏の恵那山の訓練や木曽川の訓練などと比較にならぬ命懸けの訓練だった。地吹雪で目の前を覆いかぶされ、遠くが見えない状態での雪中行軍は、慣れるのに大変だった。

「何をぐずぐずしているのだ。こんなことぐらいで、モタモタしていたら朝鮮の寒さに、遭遇した時、死んでしまうぞ」

「おい、吉田。しっかりせい。眠ったら死ぬぞ」

 沢田曹長たちが、大声で俺を鼓舞した。そんな風に上官たちに鍛えられながら、年末を迎えた。俺は去年同様、人事係に外出届を提出し、実家に帰省した。家では手伝いの秋山房江さんが、父の女房気取りで、家族をまとめていた。父は酒に酔うと思わぬ事を言った。

「一夫。お前は我が家の跡取りなんだから、戦地に赴くことは可能な限り避けろ」

 その言葉に、俺は憤慨した。

「父さん。何を言うんだ。俺は軍人です。軍人になったからには、御国の為、戦地に赴くのは当然のことです。自分には大日本帝国を拡大繁栄させる使命があります。この使命を忘れて、何処に自分の存在価値がありましょう。俺は軍人です。戦士です。大陸に進出し、いやが上にも神国、大日本帝国の偉大さを、世界に誇示するのです。俺のことは諦めて下さい」

 父は俺の言葉を聞いて仰天した。軍人教育により、自分の息子がかくも変わるものかと、びっくりした目で俺を見た。

「お前の気持ちは分かるが、命あっての物種というではないか。命を軽んじてはならないぞ。どんなことがあっても生きるようにと母親に言われたことを、忘れてはいまいな」

「はい。そのことは良く承知しております。心配なさらないで下さい。さあ、もう一杯、飲みましょう」

 俺は酒好きの父と盃を交わしながら、家族の者たちと再会し、厳寒の中でのぬくもりを感じた。

         〇

 昭和6年(1931年)正月元日、俺は実家で新年を迎え、家族の者たちに新年の挨拶をした。

「明けましておめでとうございます。今年もよろしく」

 それから房江さんや妹たちが用意してくれたお節とお屠蘇を戴き、皆でお祝いをした。年末に父がついた餅の雑煮は、餅がほんのわずか焼かれていて、鶏肉と人参、ゴボウ、蒲鉾などの具が加わり綺麗だった。それに芹や柚子の香りが何とも言えず、とても美味しかった。その後、俺は友達と初詣に行くと言って家を出た。中島綾乃の家の脇を通ると、待ってましたとばかり、綾乃が出て来たので、二人で神明神社にお参りに行き、それから松井田駅から汽車に乗り、高崎の柳川町へ行った。高崎城の近くから少し歩くと、通りの両側に二階建ての遊郭や旅館や蕎麦屋などが、軒を並べて建っていた。俺たちは『立花』という蕎麦屋の二階に上がった。それから、老婆が運んで来た温かいキノコ蕎麦を二人で向合い美味しくいただいた。蕎麦を食べ終わると綾乃が、俺の顔を覗き込むように訊いた。

「一夫さん。貴男は何時になったら、製糸工場に戻れるの?」

「綾ちゃんは何も分かっていないんだな。俺は兵隊になったんだ。いいか良く聞け。俺は朝鮮75連隊に配属になり、これから朝鮮へ派遣されるんだ。派遣されたら何年か外地勤務になる。日本には戻れん。だから、良い縁談があったら嫁いで良いよ」

「それじゃあ、去年と約束が違うじゃあない。私はいやよ。貴男のお嫁さんになるんだから」

「俺たち軍人は、御国の為に身を捧げることを優先しなければならないんだ。もし戦死するようなことになったら、綾ちゃんを裏切ることになる。綾ちゃんは俺に縛られず、自由に生きれば良いんだ」

「そんなのいや。私、待ってる」

「勝手な事ばかり言って申し訳ないけど、俺たちは今日でお別れだ」

「いやよ。いやよ」

 綾乃は、目に涙を浮かべて、俺の胸を叩いた。俺はそれを押さえ、綾乃を抱きしめた。俺たちは、まるで喧嘩しているかのようにもつれ合った。時間はあっと言う間に約束時刻になり始めていた。俺たちは身を整えるや『立花』を出た。高崎駅まで会話もせずに急いだ。そして汽車に乗り、松井田駅から薄暗くなり始めた田舎道を俺は綾乃の家近くまで、綾乃を送り届けた。俺がさよならを言うと綾乃は明るく無理に笑った。俺は、それから家に戻り、友達と高崎に行って来たと話し、夕飯を食べ、父と酒を飲んだ。妹たちはみかんを食べながら、カルタ取りを楽しんだ。そんな正月休みを終え、朝鮮75連隊の名古屋兵舎に戻ると、俺は同部屋の白鳥健吾、佐藤大助、角田武士らと故郷の話をした。ところが軍隊では、かような甘ったるい考えは五十嵐准尉や沢田曹長には通用しなかった。五十嵐准尉は怒鳴った。

「貴様ら、何を考えている。我が国は今、米英仏ソから軍縮を迫られ、日清、日露や日英同盟で得た権益を返還せよと要求されている。奴らは世界の主役は白人であり、アジア人の出る幕では無いと主張しているのだ。そんなことを受け入れてなるものか。我々は大陸における多くの日本人たちが必死になって築いて来たものを守ってやらねばならんのだ。その時は迫っている。その為に鍛えて、鍛えて、鍛え抜くのだ」

 それに付け加えるように、沢田曹長が俺たちに言った。

「五十嵐准尉殿の申される通りだ。去年、東京駅でピストルで撃たれた浜口首相は、死に至らなかったものの、経過は思わしく無く、政情が混乱し、不安定な状況になっている。その隙を狙って欧米の支援を受けた蒋介石率いる国民革命軍と長沙ソビエト紅軍とが、勝手に競っている。彼らはフィリピンを植民地にしているアメリカと香港を植民地にしているイギリスが、支那を植民地化しようとしていることに気づいていない。アジア人は団結せねばならない。そうしないと日本は台湾や山東半島や朝鮮、樺太、満州をも失うことになる。それを防ぐには、我々、大日本帝国軍の力がより強力であらねばならぬ。よって我々、朝鮮を守備する連隊は一日も早く、現地に行かねばならぬ。よって我々は正月早々であるが、ソビエトと戦争状態に入った時の事を想定し、厳寒積雪の関ヶ原に行って、零下数十度でも戦える為の訓練を行う」

 俺たちは以上の上官の命令に従い、去年の暮れと同様、関ヶ原に出かけて、雪中行軍の訓練を実施した。また雪が少なくなり、春めいて来ると乗馬の他、トラックの運転の練習もした。そうこうしているうちに、俺たちに命令が下った。3月25日、酒匂宗次郎連隊長は、こう話された。

「おめでとう。諸君に軍司令部からの命令が出された。朝鮮駐屯地への出動命令である。よって諸君は四月早々、朝鮮及び満蒙を擁護する為、忠勇なる皇軍として大陸に向かう。この出動は全国民の熱誠なる要望に沿うものであり、諸君は大和民族の正義に立脚し、アジアの安寧平和の為、渡海することになる。よって諸君は明日、26日から、一時帰省し、3月31日、ここに戻って来い。それから朝鮮へ向かう。以上である」

 俺たちは、またもや帰省出来ると喜び合った。俺が実家に帰ると父は顔をしかめた。

「お前も、遂に行くことになったか」

「はい。その報告に参りました。行く先はソ連と満州の国境に近い朝鮮の会寧です。朝鮮と満州の治安を守る為の出動です」

「そうか」

「そう心配そうな顔をしないで下さい。俺たちは戦争をしようとして行くのでは無く、ロシア国境の治安維持の為の派遣軍として行くのですから・・・」

「それは分かっている。我が国の民の生活を豊かにしようと政府が考えているのは分かるが、多くの日本人が大陸に進出して、他国の領土を勝手に動き回るのは慎まねばならぬと思うのだが・・・」

 父の言う事は正当だとは思うが、日清、日露の勝利で、台湾、朝鮮、樺太を文明国として成長させようとしている日本人に、父の考えが分かるかどうかは疑問だった。父にとって海洋国家、日本が、台湾や樺太の島国を治めるのは良いとしても、大陸に新天地を求めることは、整合性に欠けるとの判断だった。俺は家族に朝鮮行きを報告した後、中島綾乃に会って別れを言おうと思ったが、正月、彼女に別れを告げているので、会うのを止めた。俺たちの恋は所詮、むくわれぬものであるから、また会ったら未練が募る。会わぬ方が良い。その方が、彼女も安らかに過ごせる。俺はそう思いながら四日程、実家で過ごし、父や妹弟、親戚縁者に見送られ、30日、名古屋の兵営に戻った。それから、白鳥、佐藤、角田ら選ばれた仲間と朝鮮へ行く準備を開始した。

         〇

 4月5日、俺たちは名古屋の連隊を離れ、敦賀に移動し、翌6日の午後、敦賀港から北日本汽船の『伏木丸』に乗って北朝鮮の清津に向かった。船が敦賀港から離れて、凪いだ海を進む。若狭や福井の山脈や島々が次第に遠ざかって行く。その風景を眺め、俺は日本から海を隔てて離れるのかと、何故か複雑な気持ちになった。光る海は悠々と彼方まで広がっている。潮の匂いが鼻を突いた。佐藤大助が溜息をつくと、角田武士が『我は海の子』の歌を唄った。その最後を俺も白鳥健吾たちと大声で唄った。

「いで軍艦に乗組みて、我は護らん、海の国!」

 俺たちは甲板に立って、本土を振り返りながら、元気だったが、その本土が見えなくなり、船のあたりを飛び交っていた海鳥たちの姿が消えると、ふと寂しさに襲われた。群青色の海に白波を立てて、『伏木丸』は進む。見渡す限りの海原に夕陽が沈み、夕暮れが近づくと尚更、寂しくなった。俺にとって初めての船旅であった為、船酔いするのではないかと心配したが、それ程でも無かった。俺たちは夕食を終えてから、裸電球のぶら下がる三等室に降りて、北朝鮮や満州に新天地を求めて行く人たちと一緒に、畳の上でリュックを枕にゴロ寝した。背中が痛くて、良く眠れなかった。船が傾くたびに目が覚めた。そんな半眠半覚状態の中で一夜を過ごし、翌朝5時、俺は白鳥健吾に起こされた。俺たちは直ぐに食堂に行き、朝食を済ませ、海を見た。波また波が続いていた。

「まだかなあ」

「うん、まだのようだ」

「角田は大丈夫か?」

「佐藤がついているから大丈夫だ。昨日、はしゃぎ過ぎ、船酔いしたんだ」

 そんな話をしながら潮風を受け、白鳥と話していると甲板の船首に立って双眼鏡をのぞいていた石川繁松曹長が俺たちに言った。

「おうっ。島が見えて来たぞ。朝鮮だ。朝鮮の島だ!」

「本当ですか?」

「本当だとも。良く見ろ。この先だ」

 石川曹長は大声を上げて指で示した。言われた通り、石川曹長の指先に方向に目をやると、海上はるかに青い帯状の島らしいものが、かすかに見えて来た。やがて小船も見えて来た。『伏木丸』がボ、ボ、ボーと汽笛を鳴らした。すると三等室で寝ていた佐藤たちや移民団の人たちが、汽笛を聞いて、甲板に出て来た。皆が口々に叫んだ。

「ああっ、陸が見える。朝鮮半島だ!」

「あれが高秣山だ」

 俺はついに朝鮮の大地に立つことになるのかと思うと、胸が高鳴った。『伏木丸』は貨物船や軍艦が浮かぶ清津港に堂々と入港し、倉庫が並ぶ桟橋に横づけされた。桟橋では、俺たち陸軍兵を出迎える軍人たちや移民団を迎える工場の人や開拓団の人たちが、いっぱい集まっていた。俺たちは下船すると桟橋を渡りきったところの広場に集められ、全員そろっているかの点呼を行い清津駅から汽車に乗り、古茂山駅を経由して、会寧駅で下車した。俺たちの連隊が所属する第19師団の司令部は反対方向の羅南にあると石川曹長が教えてくれた。俺たちは朝鮮の地を踏んで驚いた。清津や会寧の町に何と日本人が多い事か。まるで内地と変わらないではないか。朝鮮語や満州語の他に日本語が飛び交っている。俺たちは沢山の人たちの中を会寧駅から朝鮮75連隊の駐屯地へ三列縦隊となって向かった。歩いて間もなく連隊の兵営の正門に到着した。正門入口左側にロシア風の門衛所があり、正門右側のレンガ部には歩兵第75連隊と彫られた石板が嵌め込まれていた。門衛が俺たちに敬礼した。俺たちが胸を張って門内に入り、兵舎前に進んで行くと、隊列の前方から号令がかかつた。

「全体止まれ!」

 俺たちは一斉に止まった。すると暫くして前方壇上に野口純一連隊長が上がって、俺たちに歓迎の挨拶をした。

「歩兵75連隊の諸君。内地より大海原を渡り、会寧までご苦労様。ここは朝鮮第75連隊の会寧駐屯部隊、諸君の勤務地である。自分はここを統括する野口大佐である。諸君を新しい仲間として迎えることが出来、とても嬉しく思っている。知っての通り、この地は日ソ両国が戦争状態に入った時、最も防衛せねばならぬ所である。また朝鮮武装組織や満州馬賊が、頻繁に襲撃をかけて来ており、何時、開戦が始まるか分からなくなっている状態であると言わざるを得ない。そんな時に諸君が来てくれて、我が連隊として、実に心強い。初めての外地での駐屯に不安があると思うが、自分たち先輩たちの指導、経験を良く聞き、漲る若さを充分に発揮し、活躍して欲しい。大いに期待している。以上」

 その歓迎の言葉をいただいてから、俺たちはそれぞれの兵舎に案内された。各室の左右に二段の寝台が置かれ、先輩二人が、俺たち十二人の指導についた。一人は栗原勇吉伍長、もう一人は鈴木五郎上等兵だった。二人とも厳しい顔つきをしているが、何処か村の仲間の顔に似ているところがあり、馴染めそうだった。俺は白鳥健吾や佐藤大助、角田武士、磯村喜八らと同室なので一安心した。俺たちは荷物を部屋に置いてから、夕食をいただき、その後、別棟にある大きな入浴場に行き、短時間の入浴を済ませ、部屋に戻り、先輩の話を聞き、10時に点呼消灯し、ぐっすり眠った。室内の暖房がオンドルであったので、、そう寒くは無かった。

         〇

 翌朝からは内地にいた時と同じく、起床の点呼から始まった。まず部屋の掃除を行い、食事を済ませ、兵舎前に整列し、全員で体操をした後、三八式歩兵銃や双眼鏡、鉄兜、弾入れなどを、各自、先輩から渡された。先輩の栗原勇吉伍長が、俺たちに言った。

「これらの支給品は日本国民の血と汗によって、我々に提供された物である。それと同時に貴様等の命を守る物である。家族から渡されたお守り同様、大切にしないと、酷い目に遭うぞ。分かったな」

「はい」

「よおし」

 栗原伍長は部下が出来て張り切っていた。それから栗原伍長の教えに従い、兵器の手入れを行うと、もう正午だった。食事ラッパが鳴ると、俺たち六人が、鈴木上等兵と共に炊事場へ食事を取りに行き、残りの六人が兵器の手入れをしていた机の上を片付け、食卓の準備をした。俺たちは炊事兵から兵食を受け取ると、それを持って部屋に戻り、皆で美味しくいただいた。オムレツとオニオンスープの昼食。朝鮮の連隊では、こんな贅沢をしているのかと、びっくりした。食事の後、炊事場手前の洗い場に行き、食器やスプーンなどを洗い、炊事場に返却した。それから小休止。午後1時半かた永井岩吉少尉からの新人兵の教育が始まった。内容は内地にいた時と、ほとんど似ていたが、駐屯地から自分たちが今、朝鮮の何処にいるのか具体的に教えられると、自分たちが朝鮮人をはじめ、朝鮮に移住している日本人たちを、どう外敵から守らなければならぬかが良く分かった。東は豆満江、西は白頭山、北は図們、南は羅南だと、周囲の景色を見ながら、頭に埋め込んだ。ここが俺たちの第二の故郷になるのか。永井教官の授業は三時過ぎに終了した。その後は部隊の駐屯地から出て、会寧川まで、200人程で走って往復した。ぐったりしたところで、兵舎に戻り、部屋掃除。一段落したところで夕食の準備。片桐重吉たち六人が鈴木上等兵と共に炊事場へ食事を取りに行った。俺たちは机の上を片付け、テーブル掛けを敷き、食事が運ばれて来るのを待った。夕食は御飯と肉野菜イタメと味噌汁で、結構、美味しかった。夕食が終わると、栗原伍長と鈴木上等兵は、友達の所へ行って来るからと、出かけて行った。俺たちはそれから自由時間を過ごした。俺は朝鮮75連隊の写真ハガキに父親宛ての伝文を書いた。

〈ご機嫌いかがですか。小生は無事、会寧の連隊に入り、いろんなことを学んでいます。この前、帰省した時の父上の教えを、しっかりと心にとめ、気を抜くことなく、自分の役目を果たすべく、頑張っています。妹や弟たちにも元気でいると、お伝え下さい〉

 写真ハガキであるので長文を書くことが出来なかった。また外部への手紙は内地の連隊にいた時と同様、軍事郵便として検閲を受けるので、問題になるようなことは書けなかった。ハガキ書きが終わってから、皆で洗濯をした。そこへ栗原伍長と鈴木上等兵が戻って来て、スルメをくれた。そのうち点呼消灯のラッパが鳴り、俺たちは自分の寝台の毛布にくるまり睡眠することになったが、俺は直ぐに眠ることが出来なかった。父の事や亡くなった母のことや、製糸工場の帰り、逢引した中島綾乃のことを思った。村の日常は、どうなっているのだろうか。

         〇

 その頃、日本では浜口雄幸首相の病状が悪化し、4月14日、岩槻礼次郎内閣が発足した。だが数年前から始まった世界恐慌の波をかぶった日本経済を立て直すには、満州、内蒙古地域を植民地化して国益を獲得するしか方法が無いと考えた。そんな矢先、6月27日、日本陸軍参謀、中村震太郎大尉とその部下3名が、対ソ蓮作戦の軍用地調査の為、満州北部、興安嶺方面で偵察任務中、国民革命軍、張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺されるという悲劇が起きた。更に7月2日、長春北西の万宝山に中国から土地を借りて入植しつつあった朝鮮人と排日感情の強い中国人との間で、発砲騒ぎが起こった。これに対し、日本の長春領事館は武装した日本の警察を送り、朝鮮人を保護した。大陸における中国側とのいざこざは各地で多発した。浜口元首相が没した8月末、関東軍参謀、石原莞爾中佐は、満蒙問題の解決は、大日本帝国が同地方を領有することによって、初めて成功すると、『満蒙領有計画』を立案し、満州に赴任し、その計画を実行に移すことにした。そして9月18日の夜、部下数人を奉天の北部8キロの柳条湖付近に行かせ、満鉄線の上下線を爆破させた。その被害は1メートルたらずで、ほとんど無かったが、実行させた石原莞爾は関東軍独立守備隊の島本正一中佐に、中国軍の仕業だと発表させ、中国軍を攻撃せよと命じた。19日、島本中佐や川島大尉は、部下に人道に反する中国軍の横暴だと伝え、中国の張学良軍の兵営や奉天城の攻撃を開始させた。翌20日に関東軍は奉天、長春、営口を占領。21日には吉林まで進出した。このままでは中国軍との戦闘が拡大してしまう。奉天総領事館の森島守人領事は戦闘の拡大を恐れ、関東軍高級参謀、板垣征四郎に、外交交渉で事件を平和的に解決したいと申し入れたが、走り出してしまった関東軍を止めることは出来なかった。森島守人領事は直ぐに日本政府に電報を送った。事件を知った若槻礼次郎首相や外務大臣、幣原喜重郎は頭をかかえ、9月24日、事変不拡大方針を伝えた。この9月18日の柳条湖事件は朝鮮北部警備にあたる第19師団にとっても、この事件に乗じて、ソ連軍や中国共産党メンバーによって構成されている抗日パルチザン組織や満州馬賊たちの活動が活発激化するのではないかという不安を抱かせた。その為、俺たちに与えられた国境守備強化はより、厳しいものとなった。俺たちはトラックに乗って、国境線、豆満江沿いの慶源や阿吾地や雄基といったソ連国境の守備についた。短い夏が終わり、銀杏やポプラが美しい。会寧の兵舎から離れての監視所での一週間ごとの交替勤務にも慣れ、俺たち栗原班は雄基の監視所の朝鮮人兵士、三人とも仲良くなった。李志良、金在徳、尹義善は地元出身の傭兵で監視所を自宅の一部のように使っていた。朝、昼、晩の食事も、彼らの女房たちが家から運んでくるので、温かく有難かった。俺は栗原伍長に見回りに行って来いと言われると、三人のうちの一人を連れ、佐藤大助と三人で豆満江方面へ自転車を走らせた。豆満江の川べりに立ち、双眼鏡で対岸や周辺を眺めた。時々、百姓らしき人たちが働いているだけで、異常は無かった。夕方、監視所に引き返し、栗原伍長に報告した。

「吉田組、只今、戻りました。豆満江河口方面異常なしです」

「ご苦労。屈浦里も異常なしじゃ。では夕飯にするか」

 そう栗原伍長に言われ、俺たちは鉄兜を外し、三八銃を降ろし、背嚢を棚に置き、食卓についた。何と今日は朝鮮人のオモニたちが釜で茹でて持って来てくれた毛ガニが食卓を飾っていた。

「いただきます」

 俺たちは夢中になって毛ガニを食べた。今まで食べた事の無い毛ガニだった。それに地酒も朝鮮の人たちが差し入れしてくれた。角田武士が栗原伍長に訊いた。

「こんなに美味しいものを戴いてよろしいのでしょうか?」

「いいのだ。その代わり、俺たちは極東ソ連軍や満州の盗賊団から朝鮮の人たちや日本人居留民を守っているのだ。だから、この地は戦闘が絶えない満州ほど、物騒ではない」

 栗原伍長は満悦だった。連隊にいる時は上官たちに、ペコペコしているのに、ここでは大将気分だった。そんな見張りの一週間が過ぎると、次の班と交替になった。トラックに乗って連隊に戻ると、またラッパの一日が待ち受けていた。その一週間が過ぎた日曜日、栗原伍長が外出許可届を出し、俺たち仲間四人を会寧の町に連れ出してくれた。角田、佐藤、白鳥は、俺同様、ルンルン気分になった。栗原伍長は行きつけの『高嶺亭』に俺たちを連れて行き、焼き肉を食べさせてくれた。牛肉の他、羊や犬の肉もあったので、俺たちは驚いた。皆が精力をつけたのを確認し、店主に支払いを済ませて、店を出ると、栗原伍長は更に張り切って俺たちに言った。

「行くぞ。突撃だ!」

 俺たちは何処に行くのか直ぐに分かった。この前、片桐や阿倍が連れて行って貰ったという遊郭に違いなかった。歓楽街、会寧面に入って行くと、栗原伍長は得意になって説明した。

「ここが会寧の花街だ。あの『徳川』という遊郭は連隊長や参謀長が利用する所で、俺たちには入れない。ずっと向こうに安い朝鮮女のいる朝鮮妓楼があるが、汚くて不潔だから、利用する所ではない。俺は馴染みの『菊水』に行くが、誰か二人、『更科』へ行け」

「何故ですか?」

「一度に5人も行ったら混んで時間がかかる。一時間後、『博文館』の前で落ち合おう」

「分かりました。自分と白鳥の二人で『更科』に参ります」

「よし、了解」

 俺と白鳥は張り切って『菊水』に入って行く栗原伍長ら三人を見送り、白鳥と『更科』に入った。三階建ての遊郭『更科』の楼主は、日本人で、相手をしてくれる女も長野、新潟、秋田などの寒冷地出身の女が多く、白鳥や俺には馴染み易かった。俺の相手は玉枝、白鳥の相手は桃代だった。彼女たちは親が借りた金を返済したら、羅南で飲食店を始めるのだと張り切っていた。稼ぎは俺たちの月給が20円なのに彼女たちは月200円程、稼いでいると自慢した。俺たちはそれでも満足した。俺たちが、そんな呑気な朝鮮北方守備の毎日を過ごしている間も、満州では戦闘が続いていた。南京国民政府の蒋介石は、〈満州での動乱は日本の不法な侵略行為である〉として国際連盟に提訴した。ところが国際連盟は日本が国際連盟の常任理事国であるということで、直ぐに動きを見せなかった。当時、北京で病気療養中の張学良は、戦争の拡大を避けるよう不戦を指示した。蒋介石もまた対共産党軍作戦に追われ、軍隊を北上させる余裕が無かった。これらの状況から日本の関東軍は調子に乗り、不拡大の方針をとっていた日本政府の考えに離反し、進軍を続けた。事件の真相を知らぬ日本世論は関東軍を指示した。関東軍の武力侵略が進行すると、国際連盟も、中国の提訴を何時までも無視する訳には行かなくなった。国際連盟もようやく腰を上げ調査団の派遣を決定した。

         〇

 あっという間に秋も終わり、厳しい冬がやって来た。まさに酷寒、零下数十度の中での国境の監視はきつかった。外の出ると、余りの寒さに手がかじかんで、良く動かない。射撃練習など、うまく行かなかった。そんな酷寒の中、同じ会寧で暮らす日本人たちも頑張っていた。鉄道建設関係者、炭鉱関係者、病院関係者、学校関係者、銀行関係者、食品工場関係者、白杏仁酒造業者、陶器業者、牛乳加工業者、牧場主、農園経営者、農業指導者、銀座通りの商店主など、沢山の日本人が、信じられ無い程の寒さの中で、生き生きと働いていた。俺たちも駐屯地では、あえて猛吹雪の中での訓練を受けたりした。耳覆いのある軍帽を被り、重い防寒外套を着て、三八銃を手に持って走る行軍練習はきつかった。無駄口をたたく余裕など全く無かった。思うように進めず、ゴム長靴を脱ぎたいくらいだった。だが内地にいた時の関ヶ原での経験があるので、何とか対応することが出来た。このような兵営にいる時の厳しい出動訓練に較べ、雄基の監視所に行って、ストーブをガンガン焚いて喋繰り合っている方が気が楽だった。それでも何度か交代で歩哨としての見回りをしなければならなかった。約4時間、見回りするのであるが、俺たちは李志良、金在徳、尹義善たちと交替でスキーに乗って出かけ、朝鮮人の家で寒気をしのぎ、暇をつぶした。ある時など、金在徳の知り合いの朴立柱がやって来て、彼の妹、英姫と俺を結び付けようとした。松茸を沢山出され、醤油をつけて食べながら迫られた。

「アナタノ松茸、一度、見テミタイヨ」

 俺は酔わされ、英姫の温かな身体を抱かされた。日本人の軍人と親戚になりたいという朴立柱の目論見と英姫の意志が共通であったことから、俺は思わぬ落とし穴にはまってしまった。自分の任務が国境警備であるのも忘れ、何ということを。俺が落ち着きを取り戻した頃を見計らって、金在徳が迎えに来た。

「ワタシノ友達ノアガシ、スキニナッタカ?」

「うん。温かい女だった」

「友達ノアガシヲ、嫁ニモラッテクダサイヨ」

「それは無理だ。俺には内地で待っている女がいる」

「ホントカナ。ホントカナ?」

「本当だ」

 金在徳に、そう答えたが、あの中島綾乃とは、はっきりと結婚を約束していなかったので、俺の返事は嘘ともいえた。俺が朴立柱の妹、英姫を嫁にしたりしたら、父は勿論であるが、親戚中が、蜂の巣をつついたように騒ぎ立てるであろう。俺は朝鮮女には用心しなければいけないと思った。4時間の見回りを終えて、監視所に戻ると、栗原伍長が怒鳴った。

「貴様ら、その臭いは何だ。また酒を飲んで見回りしていたな」

「申し訳ありません」

「悪い癖だぞ。油断していたら、敵に殺されるぞ」

「申し訳ありません。以後、気を付けます」

「何をボーッとしている。こっちに来て、ストーブに当たれ」

 栗原伍長は屋外の歩哨としての見回りが、足指の感覚が無くなるほど厳しい事を知っていた。だから俺たちを叱りはしたが、大切にしてくれた。そして一週間の監視所の仕事が終わると、俺たちと会寧面の花街へ行った。俺と白鳥は何時の間にか『更科』の馴染み客になっていた。白鳥は新潟の塩沢出身の桃代と親しくなり、俺は長野の飯山出身の玉枝と親しくなった。俺は玉枝が出してくれた茶菓子をいただきながら、何故、ここに来たのかと訊いた。すると玉枝はこう話した。

「お父ちゃんが、雪崩で亡くなって、いっちもさっちも行かなくなり、あたいが犠牲になって、家の危急を救うために、ここに来て内地に送金しているの」

「それは大変だな」

「でも、貴男のような人に出会えたから、あたい、仕合せだよ」

 そんな話をしてから、玉枝は浴衣姿になり、俺を布団に誘った。不思議な事に玉枝はこんな世界にいながら、目だけが澄んでいた。俺は褌の脇から自分の物を出して玉枝に握らせた。すると玉枝は滅多に見せぬ情欲の高ぶりを見せ、ああっと擦れた声を上げ、俺の物を彼女の奥へと導いた。俺は夢中になり、玉枝を玩具のように翻弄した。俺が朝鮮で、こんな攻撃をしている間も、満州では関東軍が敵対する中国軍やソ連軍や馬賊を相手に攻撃を続けていた。その為、日本国内の若槻内閣の戦争不拡大方針は国民や軍部を抑えられず、指導力を発揮することが出来なかった。更に内務大臣、安達謙蔵が『挙国一致』を言い出した為、閣内不一致となり、若槻内閣は進退窮まり、12月11日、総辞職するに至った。そして犬養毅内閣が発足し、陸相に荒木貞夫が就任した。朝鮮にいる俺たちには予想もつかぬ分からぬ事ばかり、内地や大陸で起こった。

         〇

 昭和7年(1932年)1月7日、日中両国の争いを問題視して、アメリカの国務長官、スチムソンが不戦条約に違反する行為を承認しないという戦争不承認の見解を日中両国に通告した。なのに翌日8日、関東軍は天皇から次の勅語を賜り狂喜した。

「満州事変ニ際シ、関東軍ニ賜ハリタル勅語」

 曩ニ満州ニ於イテ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上、関東軍ノ将兵ハ果断神速、寡克ク衆ヲ制シ、速ニ之ヲ芟討セリ。爾来、艱苦ヲ凌ギ祁寒に堪ヘ各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ、克ク警備ノ任ヲ完ウシ、或ハ嫩江、斉斉哈爾地方ニ或ハ遼西、錦州地方ニ、氷雪ヲ衝キ、勇戦力闘、以テ其ノ禍根ヲ抜キテ、皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ。朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉ス。汝将兵、益々堅忍自重以テ、東洋平和ノ基礎ヲ確立シ、朕ガ信倚ニ対ヘムコトヲ期セヨ

 この詔勅によれば、関東軍が『統帥権干犯』という罪を犯しているにもかかわらず、天皇みずから、関東軍の行為を承認し、賞賛する文言であり、関東軍は一層、自信を深めた。正月早々、1月3日に張学良の本拠地、錦州を占領し、また1月18日には上海で日本人僧侶5人が中国人に襲われ、1人が死亡するという事件が起こった。これをきっかけに、上海の日本人居留民が憤慨し、村井倉松上海総領事が、呉鉄城上海市長に謝罪を要求した。上海市長はそれを受諾したが、それに中国広東の19路軍が納得せず、共同租界に攻撃を開始した。これに対し、国際都市である上海の租界を脅かすとは世界の公敵であると、上海の日本陸戦部隊が出動した。この軍事衝突を受けて、日本海軍も上海に出動した。更に犬養首相は、金沢第9師団及び混成24旅団を上海に派遣した。一方、国民党軍は、この戦闘に加わり、抗日を核とした勢力拡大を策謀した。こうして全世界の目が上海に集中した。2月22日、日本軍は廟鎮に築かれた敵陣に突入する為、独立工兵第18大隊の江下武二、北川丞、作江伊之助の3名に爆弾をかかえて突入させた。それにより鉄条網の破壊に成功したが、3名はこの突入で爆死した。俺たちはこの3人の勇士の話を上官から聞いて驚いた。彼らは〈帝国万歳〉と叫んで突入したという。その壮烈無比の勇ましさを我々は見習わなければならぬと、野口純一連隊長に教え込まれた。犬死した3人は『爆弾三勇士』と呼ばれ日本中で知らない者がいない程、有名になった。俺たちはこの時になって、大変な事になって来たと自覚した。日本政府と国民党政府の軍事衝突は、フィリピンにいるアメリカ軍、香港にいるイギリス軍、マカオにいるポルトガル軍、広州にいるフランス軍やソ連軍などの外国軍の支援により、拡大化する恐れがあった。その世界の目が上海に向いている間、関東軍は2月に哈爾濱を占領し、わずか5ヶ月で満州全域を軍事占領下においた。そして3月1日、満州人、張景恵が委員長を務める東北行政委員会が満州国の建国宣言を行った。更に9日、日本特務機関の土肥原賢二の手で、秘かに清朝最後の皇帝、溥儀と鄭考胥を天津から連れ出し、満州国の執政につかせ、満州国が名実ともに樹立した。ここにおいて、陸軍少将、板垣征四郎や陸軍大佐、石原莞爾らが望んだ中華民国と完全に分離独立した民族複合国家が出来上がった。その出来立てホヤホヤの満州国周辺を守備するには、現在の関東軍の兵力では安心で出来ないとし、陸軍の増強が迫られた。その満州国樹立の情報が俺たちにも入って来た。だが俺たちはあくまでも朝鮮北部に移住している日本人と現地朝鮮人をソ連から防衛保護する為に派遣されているのであって、満州の事は余所事であった。それよりも、その満州国と中華民国との争いの隙間をぬって、ソ連軍が、朝鮮に攻め込んで来るかも知れないので、厳しい監視強化を命じられた。その為、俺たちは零下30度近い豆満江の警備をより一層、厳重に行うよう行動した。そうしたこともあって、日本人と同様の気魄と忠誠心のある朝鮮人志願兵を沢山、現地採用した。監視所の三人の他に申益宣、張富夫、崔茂林の三人が監視所に加わることになった。巡回監視に日本人兵と朝鮮人兵が二人組になって、より深く豆満江の向こう側まで監視偵察するのが目的であった。俺の相手に申益宣が選ばれた。彼は李志良と同じ部落の出身で、背が高くて、細っこい男だった。何処か冷たいところがあった。申は地元、屈浦里や造山里の朝鮮人と顔馴染みで、彼の知り合いは、何故か彼に良くしてくれた。或る日、彼は俺との歩哨を命じられると、造山里の柳在俊の家に立ち寄った後、豆満江の川岸の藁小屋を越えて、更に向こう岸まで、偵察に行こうと張り切った。俺は申兵士に確認した。

「向こう岸に行って大丈夫なのか?」

「ダイジョウブ。ワタシ、イッタコト、アル」

「だが、危険だ」

「ソリョンニ、イツテミタイト、オモワナイカ?」

 俺に向けられた、その質問に俺の気持ちはドキドキ高鳴った。ソ連とは、どんな所か。行くのが怖いという気持ちと、行ってみたいという気持ちが半々、だった。

「広い豆満江を、どうやって渡るのだ」

「ウン、アルイテイクヨ」

「歩いて?」

「イマハ、トウマンガン、コウリヨ。アルイテイクヨ」

「そうか。じゃあ行ってみよう」

 俺たちはスキーで川岸の藁小屋に行き、豆満江の水辺に降りて、銃床部分で川面が凍結しているかを確認した。すると川面がコツコツと音を立て、完全に凍結していることを俺たちに教えてくれた。

「スグチカクダカラ、ランプイラナイネ。バンノケシキ、クラクナイヨ」

 申益宣の言う通りだった。鼠色に凍った豆満江の表面を時々、地吹雪のような風が吹き荒れるが、白く濁った空の上に月でも出ているのであろうか、辺りをボンヤリであるが、眺めることが出来た。長靴の中に藁と唐辛子を入れ、毛皮の手袋をはめているが。ソ連との国境の寒さは耐え難かった。俺は氷の上を転ばぬように、歩兵銃を杖に、ゆっくりと歩いた。時々、滑って、申益宣に起こしてもらった。足の感覚がしびれて、おかしくなり始めた時、申益宣現地兵が、突然、口笛を吹いた。俺は驚き、故知れぬ恐怖を感じた。すると川向う、百メートル程の所で、ランプの灯りが揺れるのが認められた。俺が思わず声を上げようとすると、申兵士が言った。

「オドロカナイデヨ。ワタシノソリョンノチインタカラ」

「ソ連に知人がいるのか?」

「ハイ。アッタラ、ショウカイスルヨ」

 俺は、申兵士にそう言われても警戒した。こんな薄暗い凍結した豆満江の場所で、敵に襲われたらどうするのだ。申兵士を信じて良いのだろうか。やがて俺たちはランプが揺れる近くに到達した。すると前方からやって来る人の気配がした。

「申氏、ドーブライヴェーチエル」

「ドーブライヴェーチェル、ユリア」

「ヤポンスキーは、この人か?」

 俺は突然、現れたソ連兵士二人が、女性であり、日本語を口にしたので驚いた。一体、何者なのか。申は女性兵士に答えた。

「ハイ。ヨシダ一等兵テス。ヨロシクオネカイシマス」

 俺は申に紹介されたので、彼女に挨拶した。

「吉田です。よろしくお願いします」

 すると彼女は薄暗いランプの灯りの下で、笑って俺に言った。

「私はユリア、セメノビッチです。私はこれから申氏と打ち合わせがありますので、、ここにいるイリーナと、そこの竪穴小屋で待っていて下さい。打ち合わせが終わりましたら、申氏が迎えに上がります」

「分かりました」

「ではダスヴィダーニア」

 女性兵士、ユリア、セメノビッチは申兵士の先に立って去って行った。俺は去って行く二人を呆然と見送った。

「さあ、入って」

 俺は不安になったが、イリーナという若い女性兵士に従うより方法が無かった。イリーナに案内された竪穴小屋は盛り土で覆われており、その中は狭いが温かかった。ベットと机と椅子と食器棚があるだけの、簡素な部屋だった。俺が用心深く部屋の中を見回しているのを見て、イリーナが言った。

「緊張しないで。私、イリーナ、シェルバコワよ。よろしくね」

「日本語が上手ですね。私は吉田一夫です。日本語、何処で覚えましたか」

「私は浦塩で生まれ、日本人の子供たちと遊びました。だから日本語上手なの。18歳で浦塩の女性ソ連部隊に入り、波謝の監視部隊に配属され、ここで監視の仕事をしているの」

「成程」

「貴男は?」

 俺は、その質問に答えるべきか迷ったが、相手のことを教えてもらいながら、こちらの事を説明しないのも、まずいと思い、会寧の連隊に所属し、河向こうの監視所に一週間交替で来ていると話した。彼女は俺の説明を聞くと、黒パンとブドウ酒を出してくれた。それから日本の歌を唄ってと要望した。俺は『さくら、さくら』を唄った。彼女は反対に『黒い瞳』を唄った。そのうち酔い始めている自分に気づいた。何故か不安になって来た。

「申兵士が迎えに来ないが、どうなっているのかな」

「心配いらないわよ。もう直ぐ戻って来るわ」

 そう言って、イリーナは俺にキッスした。どうしようか。そう俺が悩んでいる時、申益宣が小屋のドアをコンコンと叩いて迎えに来た。俺とイリーナは抱き合いそうになっていたが、慌てて離れ、ドアを開け、それからイリーナにさよならを言った。俺と申益宣は再会すると、凍結した豆満江を渡り、自分たちの監視所に引き返した。

         〇

 俺は豆満江の結氷により、ソ連領に足を踏み入れ、ソ連に興味を抱いた。極寒で豆満江の川面が凍結しているとはいえ、所々、氷の薄い所があり、危険であったが、俺は相棒の申益宣のお陰で、ソ連の国境警備隊所属の女性兵士と知り合いになることが出来た。俺は会寧の連隊に戻った時、連隊内にある酒保で買い物をして、それを土産に、時々、情報交換に、ソ連領の波謝の河原に行き、ユリアやイリーナと会った。彼女たちからの報告によれば、ソ連はもと朝鮮人パルチザンの朝鮮共産党革命軍に日本陸軍を攻撃させて、その革命の潮流を読んで、有利と思ったら、朝鮮及び満州に大軍を送り、侵攻する計画でいるということであった。その朝鮮人の首領は呉成崙という男で、神出鬼没だという。俺たちは、その反対に日本軍の情報を求められたが、俺はあくまでも日本軍は朝鮮人保護と日本人移民の保護の為の自衛が目的で駐留しているのであって、ソ連領へ侵攻し、ソ連の領土を実効支配しようなどとは考えていないと説明した。そして日ソ間での戦争が起こらずに、互いに友好が続けば、自分たちも良い関係でいられると、自分たちが平和を願っていることを伝えた。イリーナは情報交換を終え、竪穴小屋の部屋で二人っきりになって、ブドウ酒で、ちょっと酔うと、必ず『黒い瞳』を唄った。俺は『カチューシャの唄』や『ゴンドラの唄』などを唄った。イリーナも『ともしび』などを唄い、肩を寄せ合い、身体を左右に揺らした。何時の間にか、俺たちはキッスし合い、遂には互いの身体を好きなだけ貪り合うような間柄になった。何処か憂いを含んだイリーナの瞳。白い肌。金色の髪。細いのに何故かぽっちゃりとして柔らかい身体。小屋の中に、普段、うずくまっている彼女なのに、俺に会うと、信じられ無い程、濡れて光り、燃えた。

「リュビームイ、チェビヤー」

「クラサー、ヴィツッア。イリーナ。君は誰よりも美しい」

 俺は彼女の乳首を吸い、総攻撃をかけた。彼女は固く瞳を閉じ、歓喜の声を上げ、俺の上になって、弓をひきしぼるように激しく反り返った。

「スービエル、スービエル!」

 俺は冷静だった。俺の上から降りて死んだように身体をしびれさせているイリーナを見詰めながら、急いで軍服を身に着け、帰り支度をして考えた。俺たちは何故、敵同士であらねばならぬのか。一時間半ほどすると、申益宣が俺は迎えに来た。その申益宣とイリーナが出してくれた高粱スープを飲んで、身体を温めた。それから凍結した豆満江を渡り、雄基の監視所に戻った。一週間の仕事を終え、会寧の連隊に戻ると、俺たち日本兵は永井岩吉少尉、野田金太郎准尉、石川繁松曹長たちに、栗原伍長らと、全員、会議室に集められた。そこで朝鮮武装組織やソ連軍の動きがどうなっているのか質問された。不思議にもどの小隊の伍長たちは自分から現状報告をしなかった。その為、各曹長たちが答えざるを得なかった。慶源の監視所の報告は、満州にいる抗日武装団の朝鮮人隊員が時々、監視所に攻撃を仕掛けて来て、危険な状態であるとの報告だった。阿吾地の監視所の報告は、炭鉱労働者組織の結束が固く、自主防衛隊もあり、敵が近づかないでいるとの説明だった。俺たち雄基の監視所の報告は阿吾地同様、緊張するようなソ連軍の動きは見られないと、石川曹長が説明した。だが、これらの説明に、永井岩吉少尉は満足しなかった。

「俺たちが知りたいのは、ソ連軍の動きだ。誰か分かる者はいないか」

 俺は思わず立ち上がっていた。石川曹長はびっくりして俺の顔を見た。それから喋って良いと合図した。俺は言った。

「吉田一等兵、答えます。ソ連軍はソ満国境に朝鮮人からなる赤旗団を配置し、支那に義烈団という共産主義者を送り込んでいます。ソ連軍は朝鮮人の抗日闘争が有利になった時を好機とみなし、宣戦布告する計画とのことです。従って我々は、この二つの暴徒集団、赤旗団と抗日武装団を根絶する必要があります」

 永井岩吉少尉は、俺の話を聞くと、頷いた。すると他の伍長や兵士たちも俺も俺もと喋り始めた。永井少尉は、それらの話を聞き終えてから、こう語った。

「ソ連軍の状況は分かった。我々の存在によって、朝鮮とソ連の国境は今のところソ連軍の脅威は無さそうである。問題は、3月に樹立した隣国、満州国の防衛力である。俺に言わせれば、満州国は張学良政権から離反した満州人と日本の関東軍によって、偶発的に生まれた国家である。生まれたばかりで、心許ない。何時の日か、我々が応援せねばならぬ時が来るかも知れない。我々は、その日の為に、日々、訓練を怠らず、一丸となって、更に一層、努力せねばならぬと心得よ」

 それは、今の関東軍だけの力では満州国の治安を維持することは難しいという考えに他ならなかった。その永井少尉の心配は3月中旬、現実的なものとなり、俺たちの朝鮮会寧駐屯地での任務が急転回することになった。しばらくすると俺たち朝鮮派遣隊の兵士を満州の守備につかせるという噂が流れた。何故、朝鮮の守備の役目を目的に派遣されている自分たちが、満州に移動せねばならぬのか。疑問を持った栗原伍長が、野田金太郎准尉に、その理由を訊くと野田准尉は俺たちに説明した。

「それは満州人の有力者たちが蒋介石政府からの離脱を要望し、関東軍に支援を頼み込んで、満州国が出来上がったからだ。それに日本内地が不景気な為、朝鮮だけでなく、満州にも日本の商売人や開拓者、失業者たちが、満鉄の人たちを頼りに沢山、入って来ているからだ。これらの人たちを守る為に、朝鮮の人たちを援助教育して来たと同様、我等、経験ある朝鮮の師団兵が、満州に差し向けられるのだ。良いことでは無いか」

 野田金太郎准尉が、俺たちに説明しているのを聞いて、永井岩吉少尉がやって来て付け加えた。

「犬養首相は出来てしまった満州国の治安が更に乱れ、拡大することを恐れている。その為、荒木貞夫陸軍大臣に、朝鮮軍19師団、20師団の優秀な者を、これから内地からやって来る二等兵らと共に送り込むよう指示されたらしい。従って今のうちから、その時のことを考え、覚悟しておけ」

 俺や同期の仲間たちは永井少尉の言葉を聞いて、満州に派遣される日は近いと感じた。この頃の俺の頭の中は、監視所の任務とロシア女、イリーナ、シエルバコアのことでいっぱいだった。だから俺は直ぐに申益宣と凍結した豆満江を渡り、イリーナに会いに行った。

「イリーナ。お前の好きな饅頭を持って来たよ」

「まあ、嬉しい」

 彼女はちょっと恥ずかしいような顔をして笑う。それから、ジャガイモノスープを温めて出してくれた。二人で饅頭とスープを口にしながら話した。イリーナが先に、こう言った。

「もし、私たちの間に赤ちゃんが誕生したら、どんな顔をした赤ちゃんでしょうね」

「うん、そうだな。金髪で色が白く、黒い瞳をした賢そうな子供かも」

「そんな平和な時が来ると良いわね。でも、そろそろ豆満江の氷が解けちゃうから、お別れね」

 俺はイリーナの言葉に救われた。満州に派遣される予定となり、別れをどのように告げようかと悩みもがいていたが、イリーナの方から、別れの季節の話が出て、ほっとした。

「なんだか別れは辛いけど、また会うことが出来ると良いね」

「大丈夫。ちゃんと季節は巡って来るから」

 彼女は楽天的だった。俺はイリーナを愛しく思った。俺たちは全身の血を燃やし、激しい情欲に突き動かされ、獣のように愛し合った。別れは辛かった。これが最後の別れになろうとは、彼女は全く気づいていなかった。

         〇

 俺たちの満州移動は現実のものとなった。3月中旬、俺たちの後輩の初年兵が部隊の兵舎に入って来ると、俺たちは初年兵と一緒に訓練に励み、俺はその教育に当たった。室内教室で、軍服を着て教壇に立ち、第19師団司令部のある羅南の町や豆満江に近い会寧の朝鮮75連隊の説明や、ロシアに近い雄基等の地理を教えた。俺は永井岩吉少尉に目を懸けられていたものであるから、監視所の役目を解かれ、北朝鮮とソ連国境のことや、余り詳しくない満州のことまで初年兵に教授した。ふと父、今朝次郎も磯部尋常高等小学校の校長として、詳しく分からない、『爆弾三勇士』や『満州国』の話を学童生徒に誇らしく語っているに違いないと想像した。この間、イリーナのことや『更科』の玉枝のことが気になったが、俺は教官らしく、良からぬ行動を自粛した。初年兵たちに精神訓話もした。それは今まで上官たちから教えられて来た訓話だった。

「我々、アジアの民は江戸時代後期から欧米人たちにより、植民地支配の餌食にされようとして来た。だが我が日本国は徳川幕府の英傑、小栗上野介がその基礎を作った横須賀海軍や習志野陸軍をもとに明治維新により、その軍事力をもって、列強にアジアの地を侵食されぬよう、ふんばって来た。苦悩する朝鮮を保護国にし、支那人にもアジア人が一致団結し、欧米諸国に対抗しようと呼びかけ、辛亥革命を成功させることが出来た。言うまでもないが、その主導者、孫文は日本に亡命し、犬養毅首相の御世話になり、漢民族の独立をさせた人である。そして我々アジアの地は日本人が中心になり、欧米による東アジア植民地政策に待ったをかけ、アジア人の共存共栄の為に、心血を注ぎ今日に至っている。だが欧米諸国はまだアジア諸国を隷属下におこうと、あれやこれや策略をめぐらしている。我が日本国は、それを防衛する為に、日本軍の威力を示すべく、一部の兵を満州に派遣することを決定した。よって選ばれた者は、日本人としての誇りを持ち、正々堂々と我が連隊の威信を示すべく行動せねばならない」

 俺は初年兵の教育を行いながら、国衙小学校の校長を経て磯部小学校の校長をしている父になったが如く、得意になって弁舌した。また緊張している初年兵を目の前にして、彼らの緊張感を解く必要があると思い、皆で『荒城の月』、『水師営の会見』などを歌わせた。すると、その時、立ち会っていた石川曹長に、『75連隊の歌』も歌わせろと命じられ、『75連隊の歌』も皆で大声で歌った。

北満州の連山に吹き荒む風のいと寒く

ここ国境の会寧に豆満の流れ悠々と

東将軍後慕ひ九年の十月十五日

光栄ある軍旗拝受して我が連隊は建てるなり

時しも起こる間島の不逞の輩打ち払い

君が稜威の旗風に靡くや異国の草もかも

かかる誉れの連隊の雪より清き潔白と

竹割る如き率直は是ぞ吾等が主義なりき

励むや健児二千人君の御為、国の為

軍旗の下に集ひつつ護境の任を果たすなり

かくて閲する日と共に礎固くいやまさり

白頭の雪、消ゆるとも功績は高し千代八千代

 1番から6番まで何とか歌い終えて、胸が高鳴った。特に5番が勇壮なので好きだった。だが4月が近づいて来ると、俺の心は落ち着かなかった。満州へ行く前に、もう一度、遊郭『更科』に行って、丸山玉枝に会っておきたかった。白鳥健吾に声をかけると、奴は俺をからかった。

「珍しいな。お前の方から声をかけるなんて」

「まあ、たまにはな」

「玉、玉ちゃんか」

 俺たちが『更科』に行くと、女将が火鉢の向こうに座って、煙管を叩きながら言った。

「ヨッちゃん、久しぶりだねえ。お待ちしてましたよ」

 女将は直ぐに玉枝を都合してくれた。久しぶりに会う玉枝はいくらか痩せた感じだった。俺が何から切り出そうかと戸惑っていると、玉枝の方が先に、寂しそうな顔をして言った。

「近じか、満州へ出動なさるのですってね」

「うん、そうなんだ。だから別れを言いに来た。今度の任務が終わったら、俺は内地に帰るつもりだ。お前も借金を返済したら、羅南で飲食店など開かず、内地に戻り、長野の善光寺あたりで店をやれ」

「長野に戻ったら、店に来てくれる?」

「ああ、行ってやる」

「死なないでね。私も頑張るから・・」

 玉枝はそう言って、くすんと笑った。それから俺が玉枝を抱きしめると、彼女は嗚咽の声を漏らした。喘ぐような玉枝の息が俺を興奮させた。玉枝の柔軟な身体は、狂おしい程に悶え、トロトロになって、喜悦の声を上げた。これが玉枝との最後の別れになるのかも知れないと思った。

         〇

 4月4日、月曜日、俺たち選ばれた第五、第六中隊、250名は会寧からスチームの入った汽車に乗り、翌5日朝、南朝鮮の京城師団のある京城駅に到着した。北朝鮮護衛部隊から離れて眺める南朝鮮のハゲ山の景色は何故か殺風景だった。京城駅の駅舎で朝食を済ませ、小休止した後、今度は、そこから満州の奉天駅行きの汽車に乗り換えた。俺たちを乗せた汽車が京城から沙里院を経て平壌の緑地帯を走り、清川江を越えて、新義州まで行くと、車窓に鴨緑江が現れた。そこの鉄橋を渡る前に永井岩吉少尉が俺たちに言った。

「ここで朝鮮とは、おさらばだ。これから満州の安東に入るぞ。周りの景色を良く見とけ」

 俺たちは初めて見る満州の景色に目を丸くした。鳳凰城を過ぎると、トンネルが続き、びっくりした。煙くてたまらない。皆でワイワイ騒いでいるとトンネルが終わり、本渓湖に着いた。あたりはもう夜中だった。俺たちは汽車の中で夜食のパンを食べ、それから眠った。汽車にコトコト揺られ、奉天駅に着いた時は翌6日の朝だった。奉天駅には森島守人奉天領事の部下の中村慎治職員たちが出迎えに来ていてくれた。中村職員たちが俺たち一行を奉天の観光案内に連れて行ってくれるというので、びっくりした。奉天駅はドーム型の屋根が中央にあり、東京駅にとても似ていた。俺たちは汽車移動で相当に疲れていたが、折角、案内してくれるというので、中村職員たちの後について行動した。まずは、ちょっと遠い所にある北稜公園へ行った。そこには清朝第2代皇帝、皇后の陵墓があり、公園正門から皇帝の陵前まで、直線の参道があり、参道の両側に石獣が対をなして並んでいるのには感動した。門を潜って行くと立派な楼閣が幾つもあり、その色彩の艶やかさに目を奪われた。広い公園を歩くと、俺たちはクタクタになった。そこで中村職員は、俺たちを広い食堂に案内してくれた。朝鮮と違う中華料理を俺たちは夢中になっていただいた。満腹になった後、中村職員たちに再び案内されて、奉天駅方面へ引き返し、清朝の初代皇帝、ヌルハチと第2代皇帝、ホンタイジが北京に遷都する前におられた王宮、故宮を見学した。中村職員たちは、俺たちに大政殿、大内殿、文遡閣など、こと細かに教えてくれた。だが俺たちは目にした建物などに感動するものの、疲れていて、説明が余り良く頭に入らなかった。故宮を見終えてから、奉天駅近くの『奉天ヤマトホテル』に連れて行かれ、またまた、そのホテルの建物の巨大さと豪華さに驚かされた。満鉄が西洋人客を宿泊させると共に、満鉄の迎賓館として横井謙介と太田宗次郎に設計させ、『清水組』が建築施工をしたとのことであった。兎に角、廊下が広く、天井の高い、その高級ホテルの素晴らしさに、俺たちは圧倒され、満州に於ける日本人の活躍を実感した。俺たちは三人一組で一部屋に泊ることになり、俺は角田武士と磯村喜八と同部屋になった。夕食の時刻になると、中村職員たちが、俺たち一行を大食堂に招待し、森島守人奉天領事が挨拶された。

「皆様。長い汽車での移動、お疲れ様でした。この度の満州国建国によって、我々日本人は今まで以上に、このホテルを経営する満鉄の人たちや、多くの在満日本人を保護してやらねばならぬ状況に追い込まれております。もと満鉄の副総裁だった松岡洋右先生は、満州こそは、日本の生命線であり、宝の山だと、日頃、仰有っておられました。その宝の山が、今、ソ連や欧米の工作員によつて煽動された抗日ゲリラの武装攻撃に脅かされているというのが、出来立てホヤホヤの満州国の実態です。その為、これらの抗日武装組織から日本人を守る為に皆様を朝鮮から、移動していただいたという訳です。奉天領事の私としては、兎に角、満州国が平穏であることを願っております。皆様におかれましては攻めるのではなく、祖国防衛の為に頑張っていただきたいと思います。ささやかではありますが、当ホテルの得意の中華料理を用意しましたので、お召し上がりいただき、奉天の夜をお楽しみ下さい」

 その挨拶を終えると森島奉天領事は姿を消し、中村職員たち主導の大宴会となった。二時間ほどで宴会が終わると俺たちはホテルの部屋に戻り、宿泊した。俺は久しぶりに父への手紙を書いた。

〈祖国を離れ、大陸に来て、早や一年が経ちました。自分は今、奉天におります。明日は新京に向かいます。満州は広大で、夕陽のとても美しい国です。その満州に今、続々と日本人が集まって来ています。彼らは権益の拡大と一攫千金を期待して、はるばる海を越えて渡って来ているのです。しかし不安定なこの満州に、日本人がよってたかって何をしようというのでしょうか。何を得ようというのでしょうか。自分は軍人なので確信ありませんが、何も得られないような気がするのです。自分は至って元気です。来月にはアカシアが美しい白一面の花で、満州を飾ってくれるでしょう。日本はこれから花冷えの体調を崩しやすい季節になります。気を付けて下さい。妹や弟にも、よろしくお伝え下さい。また、お便りします〉

 この手紙が検閲で問題になるかも知れなかったが、移動中の投函なので、追求されることは無かろうと、何時もより、長文を書いた。それから、フカフカのベットで、ぐっすりと眠った。

         〇

 4月7日の朝、俺たちは『奉天ヤマトホテル』で朝食を済ませ、奉天駅に行き、奉天領事官の中村慎治職員たちに見送られ汽車に乗った。奉天の町を離れると、車窓から満州中央部の風景が目に跳び込んで来た。畑地や牧草地が続き、新緑が美しい。俺たちは満州の広大な景色を見て、心を躍らせた。何と広いのだろう。汽車に乗ること、4時間ちょっとで、俺たちは新京駅に到着した。まだ一部、長春表示の看板が掛かっている。俺たちは駅に出迎えに来た『大林組』の皆川成司社員に案内され、『長春ヤマトホテル』まで列を作って腕を振り行進した。道路を叩く軍靴の響きが歩いていて心地良かった。『長春ヤマトホテル』は直ぐ近くだった。『奉天ヤマトホテル』に較べ小ぶりだが、堂々とした洋風ホテルだった。ホテルの玄関前広場に到着すると、永井中隊長が号令した。

「全員、歩調止め!」

 俺たちは号令に従い静止した。ホテルの正面玄関から三人程の軍服の胸に沢山の勲章をつけた陸将たちが『大林組』の皆川社員に案内され現れた。一人の若手の将校が言った。

「只今より、作戦参謀長からのお言葉をいただきます。石原参謀長。よろしくお願いします」

 俺たちは参謀長と聞いて、緊張し、背筋をさっと伸ばした。参謀長はホテル玄関の石段の上から、俺たち一同を眺めてから喋った。

「朝鮮から御苦労である。自分は関東軍作戦参謀の石原莞爾である。この度の満州国の誕生に戸惑っているが仕方ない。生まれてしまったものであるから、放っておく訳にはいかない。我々、日本国を親とするなら、台湾が次男、朝鮮が三男、満州が四男となる。長男が四男の面倒を見るのは当然の事である。だが長男だけの力ではどうにもならない時もある。そこで直ぐ側にいる三男に四男のお守りの手助けを願った次第である。この満州国は御存知のように、満州人、朝鮮人、日本人、蒙古人、支那人らが暮らしている。この国の平和を実現する為には、五族協和が必要である。その為には北伐を考える滅満興漢の輩と四男を完全に分離させなければならない。ソ連はこのひよっこ国家の誕生を機会に満蒙の権益を取り戻そうと狙って来るであろう。我々はこの危機を何としても振り払わなくてはならない。またアメリカやイギリスは北伐を諦めぬ蒋介石国民党の後押しをして攻め上がって来るであろう。アジアはそんな欧米軍の思惑によって掻き回されて良いのか。良い筈が無い。従って満州国の国防は、関東軍と朝鮮軍の双肩にかかっている。生まれてしまった満州国を、王道楽土にするのは、我々である。それ故、満州に応援に駆けつけてくれた諸君には、命を賭して、頑張って貰いたい。よろしく頼む。以上」

 俺たちは関東軍参謀長、石原莞爾中佐の熱弁に圧倒された。何と迫力に溢れ、情熱的な人であろうか。石原参謀長の言葉を戴いてから、俺たちは『長春ヤマトホテル』の宿泊手続きを終わらせ、部屋に荷物を置き、遅い昼食を済ませた。それから奉天の時と同様、長春領事館の井上職員と『大林組』の皆川社員が、新京市内を案内してくれたが、市内には、それ程、歴史物らしい物は無かった。その代わり、新京という新しい国都の体裁を整えようと目覚ましい勢いで、道路工事、建築工事が始まっていた。そんな中で、ロシア風建物や伊通河近くの南湖公園の造成予定地の風景はエキゾチックで素晴らしかった。それらの市内見学を終えてから、俺たちは部屋で夕方まで休息した。夕方になるとホテルの大食堂に集まった。そこで領事館の井上職員や関東軍の下士官及び『大林組』の皆川社員らから、明日の行く先と行動予定の説明を受けた。その後、昨夜同様、歓待の夕食をいただいた。井上職員の司会で、昨夜と同様、長春領事館の田代重徳領事が挨拶された。

「皆様。ようこそ、満州国の首都、新京にお越し下さいました。長春領事、田代重徳、心より皆様を歓迎申し上げます。皆様もご存知の通り、満州人の努力と満鉄を守る関東軍の皆様のお陰で、満州国の建国の夢が叶いました。しかしながら、ソ連や支那からの圧力及び匪賊らが猛威をふるい、誕生したばかりの満州国は不安定な情勢の最中にあります。また一方、内地では経済変動による、不況が続き、経済的立て直しが国家的急務となっております。その為には、新生、満州国との交流を深め、満州国の石炭や鉄などの資源を活用し、日本国経済を発展させることが重要であります。我々は、この重要課題に取り組んで参ります。現在、満州国と隣国、朝鮮との物資輸送や人的移動手段は、丹東経由で南朝鮮へ連結する南満州鉄道の1本しかありません。我々は、ここ新京が満州国の首都になった事を機会に、満州の首都から、日本人が多く入植している北朝鮮へ連結する鉄道建設の推進に取り組むことを決定し、実行して参ります。皆様には、その鉄道建設の施行の支援をしていただき、一時も早く、新京と北朝鮮の清津港間の鉄道貫通を実現していただきたいと願っております。今回、皆様に会寧から一山越えれば満州の間島に入れるのに、新京まで遠回りしていただいたのは、満州国の首都の今後の発展と我々の意気込みを肌で感じ取っていただきたかったからです。これを機会に皆様が新生、満州国の首都の今後の栄光を念頭に描き、我々に、ご支援ご協力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます」

 田代領事の挨拶が終わると、石原莞爾参謀長が乾杯の音頭を取った。

「只今、田代領事からお話のあった満州国発展の為に、我々、陸軍一丸となって、その任務にお応え出来るよう総力を挙げて頑張ることを誓い、乾杯!」

 その後、賑やかな宴会が始った。俺たちは豪華な料理に、満州は朝鮮より豊かだと思った。酒好きの仲間が多く、中国の強い酒でも平気だった。俺たちは新京に来てみて、初めて自分たちの使命が何であるか理解出来た。酒が入ったからであろうか、石原参謀長が、俺たちのところにも、廻って来たので驚いた。

「お前らは何処の生まれだ?」

 その言葉にテーブルに座っていた俺たちは立ち上がって答えた。

「はい。自分は長野生まれです」

「自分は群馬生まれです」

「自分は新潟出身です」

「そうか。俺は山形だ。こんな遠い所まで、御苦労だな」

 その目尻の下がった石原参謀長の笑顔を見て、佐藤大助が言った。

「内地から、ここへ来るより、会寧から汽車で、ここまで来る方が大変でした。皆川さんの話だと、俺たちの駐屯する所は、延吉だという話ではありませんか。白頭山を越えた反対側なのに、こんな遠回りするなんて、何か時間の無駄と感じました」

「うん。言われてみれば、その通りだな。だが田代領事が申された通り、お前らに満州の奉天や新京の賑やかな様子を、直に見せたかったからさ。また白頭山越えして八甲田山での遭難のようなことを起こされては困るしな」

「申し訳ありません。石原参謀長殿。こいつは酔っています。こいつの無礼をお許し下さい」

 俺は慌てて石原参謀長に、佐藤大助の無礼を詫びた。すると石原参謀長は笑って答えた。

「何、気にすることは無い。この者の言う事は真実を突いている。俺たちは今、満鉄の敦図北回線と北朝鮮鉄道の連結を急ぐよう進めている。そうすれば満州奥地と北朝鮮の日本海側が繋がり便利になる。山形にも新潟にも船で一直線だ。面白いと思わないか。ウワッハハハ」

 俺たちは酒席での石原参謀長の言葉を聞いて、石原参謀長の信奉者となった。宴会は2時間ちょっと過ぎると、田中荘太郎副領事の三三七拍子で終了した。こうして、新京『長春ヤマトホテル』での夜はふけた。

         〇

 4月8日、俺たち朝鮮75連隊、永井中隊は、『大林組』の皆川社員の部下、原島社員たち道案内人に先導してもらい、旧長春、新京から敦化へ向かった。広い緑の平地の中を汽車は汽笛を鳴らして走る。汽車の中で小麦パンと茹でジャガイモと茹で玉子の昼食をしていると、案内人の原島社員が、あれが松花江だと説明してくれた。停車した駅名を確認すると、吉林駅だった。汽車はそれから吉林を出発すると、山間部へと向かった。麦畑は青々として、畑地で百姓たちが何かを播いていた。高粱だろうか。車窓の景色は次第に淋しくなって来た。そのうち太陽が赤く目立ち始めた。何故か内地のことを思う。家族の者は元気だろうか。中島綾乃は、どうしているだろうか。

「おい、吉田。敦化に着いたぞ」

 俺は磯村喜八に声をかけられ、ハッとした。その驚いた俺の顔を見て、角田や白鳥たちが笑った。敦化駅で下車すると、敦化に駐留している第8師団の人たちや日本人駐在員たちが、出迎えに来ていた。俺たちは駅を出ると関東軍の兵営に案内され、またまた歓迎を受けた。何と、そこに関東軍の西義一中将がおられたのには驚いた。胸にいっぱい勲章を付けた西義一中将が第8師団兵士の前で、朝鮮の連隊から派遣された俺たちのことを紹介した。それから『大林組』の建設した兵舎の部屋に入った。俺のいることになった部屋は鈴木班の部屋で、鈴木五郎伍長が班長になり、俺が上等兵として、部下5人の監督役となった。部下たちは豊橋陸軍教導学校の後輩たちだったので扱いやすかった。夕方6時、俺たちは兵舎内の集会所に集められ、夕食の前に、西義一中将から、俺たちの敦化での任務についてのお言葉をいただいた。西義一中将は、こう話された。

「諸君。遠い所を良く来てくれた。諸君がここへ来る前に、私はここら一帯を視察した。どの程度、匪賊がいるかを確認した。だが匪賊は農民たちの中に潜んでいて、その根城も良く分からぬ。私たちが探索に行っても、何事ですかと、匪賊など、そ知らぬ顔で訊いて来る。全く捕らえ難い。だから諸君には農民だからといって安心しないで欲しい。私は諸君の上官、朝鮮司令官、林鉄十郎中将と相談し、諸君を満州と北朝鮮境界の守備の為にお借りする約束をした。その理由は、今、ここ敦化では王子製紙がパルプ工場建設を進めている。その他、敦化と図們とを結ぶ鉄道工事を『鹿島組』が進めている。新京で石原中佐らから聞いたと思うが、この鉄道工事によって、諸君がいた北朝鮮の会寧と敦化を鉄道で連結し、日本海側との輸送を円滑にしようとしているからだ。しかしながら、それを汪清県あたりにいるソ連共産党の影響を受けた抗日パルチザン組織の活動家が邪魔し、夜襲をかけて来たり、強盗など悪逆非道なことを繰り返す為、第8師団の分隊だけでは対応しきれず、難渋して、諸君の応援を林鉄十郎中将にお願いした次第である。それ故、これから諸君には、対ソ防衛の役割を果たすと共に、敦化から局子街に至るまでの鉄道工事の守備安全と抗日反乱分子の討伐に尽力してもらいたい。これは、この地域の近代化を計り、満州を平和に導く為の治安維持工作である。私は明日の午後、長春に戻るが、諸君はこの敦化と会寧を結ぶ地域が、反乱軍によって侵されぬよう頑張ってくれ。よろしく頼む。では飲もう」

 西義一中将が杯をかかげると、永井中隊長も杯を上げ、俺たちに言った。

「では、頂きましょう」

 俺たちは待っていましたとばかり、夕食の酒と料理に向かい、何人かの第8師団の人たちと会話した。第8師団の人たちは、弘前31連隊の徳島大尉を尊敬し、第8師団に入隊したのだと自慢したが、俺たちには自慢するものが何も無かった。だが今から自分たちで作り出せば良いと思った。

         〇

 俺たち朝鮮75連隊から派遣された永井中隊は、豆満江の中流地帯が抗日パルチザンや満州匪賊の襲撃を受け、酷い有様になっているということを知らなかった。敵は日本人、満州人、朝鮮人という人種とは関係なく、アジア人居住者たちを、この地域から除外しようとするソ連軍の手先だった。スローガンは民族独立、農民解放、帝国主義打倒など、組織によってまちまちであり、後ろにいるソ連軍によって、満州に押出されて来ている感じだった。現地に足を踏み入れて、初めて、それを感じた。従って、以前、万宝山事件のようなことが起こったことも分かった。事件を起こしたソ連の共産党軍に洗脳された朝鮮人が、敵であることは悲しかったが、俺たちはソ連軍の手先の彼らと戦わざるを得なかった。まず俺たちが始めたのは『鹿島組』の鉄道レール敷設の為の監視所での守備任務だった。鉄路に沿った新駅の設置場所に、『大林組』に監視所を建設してもらい、出来上がった監視所で、俺たち派遣兵が交替で監視任務についた。俺たちが軍用トラックで運ばれ、配属された監視所は、敦化より、局子街に近かった。俺の任地である朝暘川は大きな盆地のような所だった。豆満江の支流にある平地で、朝暘川と布尓哈通河が合流し図們方面へと流れている場所の監視所だった。その監視所を栗原勇吉分隊長以下、鈴木班、小谷班、小高班からなる30名程で管理した。8時間、3交替の監視は、会寧にいる時と変わらぬと思っていたが、抗日パルチザン組織の動きは活発だった。俺たちが敦化を離れた後、敦化の西、松花湖近くの横道河子で、関東軍が敵に襲われ、日本兵が数人戦死したと知らされた。反乱集団の暴行は無差別だった。彼らは日本人や満州人だけでなく、耕作に励む朝鮮人をも襲った。それは満州国のスローガン『五族協和』の政治に対する反逆行為であり、俺たちにとっては、許されざる暴挙であった。俺たちは何時、襲って来るかも知れない抗日パルチザン部隊や匪賊の監視に専念した。そんな或る日、突然、朝鮮75連隊の池田信吉連隊長が、局子街から朝暘川監視所に現れた。栗原勇吉分隊長は、野口純一連隊長の後を引き継いだ池田連隊長の来訪に緊張した。

「やあ、諸君。元気でやっているか」

 俺たちは永井岩吉中尉がペコペコしているので、池田信吉大佐だと直ぐに分かった。栗原分隊長が質問に答えた。

「はい。日夜、朝暘川周辺の監視に務めております」

「そうか。だが油断して、川ばかり眺めていては駄目だぞ。王徳林率いる抗日軍や匪賊や泥棒が局子街や図們で暴れ回っている。その実情を確かめる為、局子街までやって来た。近くに諸君が勤務していると聞いて、様子を見に来た。諸君が元気な顔をしているので安心した。だが呉々も注意してくれ。3月、寧安に移動中、天野六郎閣下は抗日軍に襲われ、まだ回復していないようだ。兎に角、抗日軍には特に注意してくれ」

「ははーっ」

「福沢諭吉先生ではないが、朝鮮人の反乱者たちは、民度が低い。どうして今、反日を掲げなければならないのか。日本国のような独立国になりたいと、清国の隷属から逃れる為、日清戦争を日本に起こさせ、そのお陰で独立出来たというのに、今度はロシアの属国になろうとする者が現れた為、ロシアの属国になりたくないと、また日本に泣きつき、日露戦争を起こさせた。日露戦争で日本が勝利し、独立国を保持出来たかと思えば、今度はロシアの脅威が消えないので、日本との併合を望み、日本との併合が決まれば、今度は反日を掲げ、ソ連とくっつく。全く一本筋の通ったところが無く、信じ難い。朝鮮人とは親しくなったと思っても、決して心を許してはならぬ。満州人の方が、信用出来る。今、我等の連隊が急がねばならぬのは、満鉄の吉会線、つまり東満州鉄道の完成である。鉄道工事会社の作業員と共に、頑張ってくれ」

「ははーっ」

 俺たちは池田信吉連隊長に深く頭を下げた。池田連隊長は、それだけ言うと、近くに止めてあった愛馬にまたがり、永井中尉ら部下たちと、局子街の方へ戻って行った。俺たちはその勇ましい姿を呆然と見送った。俺は転属させた部下の勤務状況を視察する為に会寧から国境を越え、やって来た池田連隊長のことを立派だと思った。また、この朝暘川監視所が、危険な場所であると、池田連隊長の言葉によって、改めて認識させられた。

         〇

 朝暘川監視所近くの人たちは、皆、俺たちに親切で、のどかな環境だった。日本人はお餅を持って来てくれた。朝鮮人はキムチを持って来てくれた。満州人は餃子を持って来てくれた。どの人たちも親切であったが、人柄が違った。日本人は勤勉だった。朝鮮人は悪賢かった。満州人はいい加減だった。その中で朝鮮人は頻繁に監視所にやって来て、何やかや、俺たちに言い寄って来た。俺たちには池田連隊長の言葉が頭の中に教え込まれていたので、用心した。俺は朝鮮の雄基監視所に勤務していた頃、金在徳の知り合いの朴立柱の妹、英姫と親しくなり、彼らの仲間に入れられそうになったことを思い出した。貧しい彼女たちを不憫だと思う気持ちが心の奥にあって、俺たちは時々、朝暘川監視所に顔を見せるカタコトの日本語を話す朝鮮人の一般女性には甘かった。日本人で、監視所にやって来たのは、大陸に進出に夢を抱いて、この草茫々の未開地で、一旗揚げようとする気骨のある男たちであった。彼らは日本人会を組織し、皆で一体になって町造りから農地拡大を目指して励んでいた。皆、苦労人で、祖国、日本を離れ、新天地を求めてやって来た人たちだけに、しっかりしていた。俺たちは、その日本人移民団の水田造りに感心し、故郷のことを思い出し、鉄道工事の監視の合間に、農作業を手伝うこともあった。満州人で俺たちに優しくしてくれたのは、ロシア嫌いの人たちだった。彼らは清朝時代の、どちらかというと富裕層の連中で、ロシア人の兇悪集団による強盗、乱暴に手を焼いている人たちが多く、俺たちの守備により、治安が良くなることを望んでいる人たちだった。ところが俺たちが駐留しているからといって、安心出来る状態では無かった。俺たちが着任して直ぐに、王子製紙の工場近くで、関東軍の日本兵たちが、抗日軍によって殺されたいた。その為、俺たちは5人1組になって巡回した。俺は鈴木五郎班長に監視所に残ってもらい、清水、筒井、山内、渡辺と鉄兜を被り、軍刀と三八銃を装備して、朝暘川周辺を監視して回った。そんな或る日のことだった。俺たちは朝暘川神社の森に向かった。午後2時からの巡回なので、のんびりしたものだった。田園を歩きながら筒井恒夫が『ふるさと』や『丘を越えて』の歌を唄った。所々に見える朝鮮人の土壁の家では、鶏などが駆けまわっていて、内地のことを思い出させた。渡辺松太郎が俺たちを笑わせることを言った。

「兎、美味し、かの山って言うが、ここらの野兎も美味しいんだろうか?」

 俺は渡辺の言葉に笑った。だが清水卓司が渡辺を叱りつけた。

「渡辺。お前は馬鹿だな。兎おいしとは、兎を追いかけたことを言っているのだ。作詞した。高野辰之先生に叱られるぞ」

 清水にそう指摘され、渡辺は真っ赤な顔になった。

「そうなんだ。俺はてっきり、兎の肉が美味しいという歌だと思っていたよ」

「それで良く軍隊に入れたな」

 筒井恒夫が、渡辺の肩を叩いた。山内邦男は、俺同様、ただ笑っていた。しばらく進むと、プゥ~ンと、嫌な臭いがして来た。朝鮮人の趙忠山爺さんが婆さんと庭先に出て来て挨拶した。

「ミマワリ、コクロウサンテス。ヨロシク、オネカイシマス」

「異常は無いか?」

「イサンナイヨ」

 俺たちは急いで趙爺さんの家の前を通り過ぎた。通り過ぎてから、渡辺松太郎が言った。

「あの家の息子、運信は雑貨売りをしているらしいです。結構、いろんな情報を持っているとか」

 渡辺の言葉を聞いて、俺は趙運信という男に興味を持った。

「渡辺。お前は何故、そんな奴のことを知っているんだ?」

「地獄耳で御座います」

「是非、その運信とやらに会って見たいが、会えるか?」

「会えると思います。玉子売りの運信の妹、知英に話してみます」

 そういえば、渡辺は監視所に時々、玉子売りにやって来る娘、趙知英と親しくなっていた。

「お前は、あの娘が好きなのか?」

 そう俺が訊くと、渡辺は頭をかいた。俺たちがあちこちを歩き回り、朝暘川神社の森に近づくと、あたりが薄暗くなり始めた。俺たちは朝暘川神社の境内に行って、腰弁当を食べた。握り飯を口にしながら、故里の神社での御祭りの様子などの思い出話をした。天狗、狐、鬼、獅子、龍、オカメ、ヒョットコなど、出身地の神社によって、その踊りの様は種々多様であった。そんな祭話に笑い転げていると、神社の裏手でガサッという音がした。

「シーッ」

 清水卓司が俺たちに静かにするよう合図した。俺たちは耳をそばたてた。神社の裏の森の木陰に、人の気配を感じた。俺は小さな声で、各自、神社の石灯篭の陰に散らばるよう命じた。そして神社の裏の森に目を凝らした。確かに人がいる。相手は、そこにしゃがんだまま、じっと動かない。俺たちはじりじりして来た。堪えきれず、筒井恒夫が暗闇に潜む相手に向かって叫んだ。

「誰だ。そこにいるのは。出て来い!」

 しかし、相手は動かず、返事をして来ない。少し不気味になった。俺は部下に石灯篭の窓に銃口を突っ込み、構えるよう指示した。そして俺だけ地べたに這って、恐る恐る森の方へ近づき、境内の砂を手に掴んで、茂みめがけて投げつけた。すると相手が俺たちに向かって、銃弾を連発して来た。ババーン、パンパン、ババーン、パンンパン!神社の森に銃声が轟いた。俺たちも負けずに撃ち返した。バン、バン、バン、バン!一瞬にして片が付いた。敵がどのくらいいたのか分からなかったが、十分もせずに、敵は暗闇の中を逃げ去って行った。俺たちは足を怪我した男、二人と腕に弾が食い込んでいる男一人を捕らえた。俺たちは銃声の止んだ境内で、俺たちに銃弾を連発したのに、不覚にも負傷してしまった三人を、紐で縛り上げ、監視所に連れて行った。栗原勇吉分隊長や鈴木班長たちは、俺たちが暴徒を捕らえて戻ったので、吃驚仰天した。俺たち五人が無傷で、捕縛者が負傷している。栗原分隊長は長谷川浩軍医に依頼し、捕縛者三人の傷口から、弾丸を取り出してもらった。それから捕縛者三人の取調べをした。彼らは日本国と朝鮮の併合を嫌って、満州に脱出して来たものの、生活に困り、王徳林部隊に加入した朝鮮人三人であると分かった。負傷した彼らには気の毒だったが、石灯篭を盾にした俺たちには、彼らの弾丸は一つも当たらなかった。また灯篭の窓を銃口の支えにした俺たちの命中率は高かった。十人程で神社に放火しようとしていたらしいが、俺たちに遭遇して、犯行に失敗したという。栗原勇吉分隊長は、鈴木班長らと、彼らを徹底的に調べ上げ、いろんなことを白状させた。一人の男は、こう自白した。

「自分の親は安重根によって伊藤博文韓国統監が殺されたことにより、日韓併合となってしまったが為、日本人による朝鮮人弾圧が始まるのではないかと、北朝鮮から満州へ逃げ、亡命者となった。ところが移住開墾を始めた満州の土地をめぐって、満州人との争いになると、日韓併合により、日本軍が関与して来たので、親たちは朝鮮に連れ戻されるのではないかと、自分たち家族を連れて、ソ連に逃亡した。俺たちはソ連でマルクス・レーニン主義を学び、労働者政権と共産主義社会の実現を目指すことを教えられた。そして自分は親兄弟をクラスキノに残し、琿春に戻り、汪清の王徳林の反日義勇軍に加入した。反日義勇軍の兵士たちの大部分が農民や労働者なので、自分たちの未来に懸ける情熱は、自分と一致した。そして王徳林軍の金俊悦隊長の下について朝暘川襲撃に来た。だが残念なことに、こんな無様なことになってしまった。悔しいが仕方ない。殺すなら、早く殺してくれ」

 俺たちは辛泰賢の話を聞き、何故、朝鮮人が故国を捨てることになったのか、何となく理解出来た。安重根による伊藤博文韓国統監の暗殺が原因であると何となく理解出来た。辛泰賢の親は、他国に行って生きる事の方が大変なことであると分からなかったのであろうか。このようなことは朝鮮人だけでない。日本人にも、同様な考えをする人がいるのではないか思えた。如何に日本での生活が苦しいからといって、具体的目的も無く、他国に移住して仕合せを掴むことが出来るのであろうか。また、その仕合せを掴む為に、強盗や人殺しのような事をして良いのだろうか。俺には理解出来ぬことばかりであった。俺たちは反日義勇軍の朝鮮人三人を捕縛したことにより、池田信吉連隊長から手柄を褒められ有頂天になった。

         〇

 ところが、物事は、そう簡単では無かった。4月18日、未明、延吉警備司令部が100人近い賊軍に襲撃され、苦戦しているとの連絡が入った。俺たち朝暘川監視所の者は栗原勇吉分隊長の命令を受け、20人程で延吉の局子街に駆けつけた。そこで永井岩吉中尉率いる第5中隊に加わり、賊軍を退治すべく硝煙うずまく延吉司令部に向かって出動した。そこへ行く途中、俺たちは布尓哈通河付近で、司令部を襲撃した賊軍と遭遇した。彼らはソ連製の武器を手に、河の向こうで、俺たちに対抗姿勢を示した。賊軍の隊長と思われる男が、大声で叫んだ。

「俺は反日義勇軍の『東満紅兵隊』の勇士、孟革強だ。捕えている我々の仲間を返せ。さもないと、街を焼き払うぞ。それでも良いか」

 すると永井岩吉中尉が言い返した。

「何をほざく。その前にお前らこそ、降参し、間島から消え失せろ!」

「間島は満州人や日本人の土地ではない。もともと朝鮮人とロシア人の共有の土地だ。お前たちこそ消え失せろ」

「ソ連に騙され、都合の良い嘘をつくな。お前たち無法者に逮捕命令が出ている。武器を捨て大人しく観念しろ」

 永井中隊長の叫び声が終わらぬうちに、敵が一斉に、俺たち目掛けて発砲して来た。永井中隊長は俺たちに叫んだ。

「撃てっ!」

 俺たちは永井中隊長の撃ての命令に、負けじと一斉に発砲した。激しい銃撃戦となった。バンバンバンバン、バンバンバンバン・・・。銃声が朝靄の河原に響き渡った。敵に攻撃され、田中伸次郎、小莱博らが、敵弾をくらって、草むらに転倒した。俺は大きな石の陰に隠れて銃口を向け、銃弾を発射させた。バンバンバンバン。敵兵がよろめきながら叫ぶ声が聞こえた。

「撃つな。撃つな!やめてくれ!」

 襲撃を先に仕掛けて来て何という奴らだ。永井中隊長は、そんな声を聞いても、手を緩めなかった。

「撃てっ、撃てっ!敵が退却するまで撃ちまくれ」

 敵は俺たちの攻撃にバタバタ倒れた。俺たちは、それでも撃ちまくった。勇猛果敢に敵対姿勢を示した。軍事力の差は歴然としていた。そして俺たちの撃った一発が、敵の首領、孟革強の顔に命中した。孟革強は片目を押さえて、部下に命じた。

「退却だ!」

 それを待っていたかのように賊軍は逃亡した。俺たちは共匪を捕らえるべく、賊兵を追った。河を越え、土手を這い上がり、山に向かって逃げる敵を追った。彼らの向かっているのは王徳林のいるソ連方面だった。俺たちは2日程、彼らを百草溝あたりまで追跡し、延吉に戻った。この戦いで敵の8人が死亡し、15人程が捕虜となった。味方では飯野周一、久保田広寛、宮内任の3名が死亡し、足や肩に負傷した者が10人程いた。かくて戦いは終わったが、俺は殺された人たちの死体を目にして、その残酷さに背筋が凍った。敵の死体は山林の土中に埋め、仲間の死体は火葬を行い、陸軍墓地に埋葬した。4月24日、この凱旋勝利を、延吉警備司令部の吉興司令官たちは喜んでくれたが、俺たちは残酷な死闘を経験し、心から喜ぶことが出来なかった。

         〇

 そんな時、内地ではとんでもない事件が起きていた。5月15日、犬養首相が暗殺されたというのだ。原因は犬養首相が満州国承認を躊躇しながらも、荒木貞夫陸相に指示し、参謀総長として皇族の閑院宮載仁親王様をお据えになり、陸軍を優遇し過ぎているという事だった。その政府の陸軍びいきに不満を持った海軍将校が、政党政治を廃止し、尊皇攘夷を押出そうと実行したのだという。首謀者は海軍軍人、古賀清志で、海軍の革命組織『王師会』の青年将校を中心に、軍閥内閣を樹立しようと、首相官邸を襲撃したという。それは、日本のようなちっぽけな国は、その発展の為に、植民地を多く占有している英国や米国、フランス、ソ連などをアジアから排除し、日本を中心とした大東亜連合を組織せねばならず、その為には天皇を奉じて、海外に進出する大改革を行わなければならないという、大東亜共栄圏構想による革命であった。俺たち軍人は、この軍部勢力を中心にした国粋主義者たちに感銘を受けた。日本国の陸海軍が中心となってアジアの平和の為に一致協力してアジア各国を牽引して行く。それは何と輝かしいことか。日本国は大東亜の太陽にならねばならぬ。その為には、まず現在直面しているソ満国境にはびこる抗日武装勢力を一掃しないことには、上手くいかない。このような流れを読んで、内大臣、牧野伸顯や、その秘書官長、木戸幸一らは次の首相は政党人からではなく、軍部から選出すべきであると天皇に進言した。それに元老、西園寺公望が反対したが、若き天皇は年老いた西園寺公望を遠ざけ、若き木戸らの意見を採り入れ、軍部から信頼されている予備役の斎藤実海軍大将こそが適任者であると、斎藤実を犬養首相の後継に指名された。このことについて、公卿たちの代表、近衛文麿も西園寺同様、反対したが、受け入れられず、斎藤実内閣が5月26日発足した。海軍軍令部は政党内閣を葬って海軍内閣を成立させ大喜びしているという。荒木貞夫陸軍中将は海軍内閣になり、大臣から外されると思っていたらしいが、そのまま陸軍大臣を任され、軍部政権の誕生に大喜びしているという。そんなこともあって、俺たち満州にいる連隊には、共産党匪賊を一時も早く討伐し、満州国を近代国家にする為に尽力せよという命令が下された。池田信吉連隊長は関東軍の本庄繁司令官からの指示に従い、俺たちが捕らえた朝鮮人三人の情報をもとに、汪清の王徳林率いる反日義勇軍の壊滅作戦を計画した。それに対し、王徳林は吉林護路軍総司令、丁超と談合し、関東軍を挟撃することを計画した。俺たちは内地の現職の内閣総理大臣が暗殺されるという不祥事の後の内地のことを心配しながら、自分たちが置かれている状況に緊張して時を過ごした。5月末日のことだった。俺たちのいる監視所に、渡辺松太郎の好きな玉子売りの娘、趙知英と友達の果物売りの李善珠がやって来た。筒井恒夫が門衛をしていて、彼女たちに声をかけられると、建物内にいる渡辺松太郎たち仲間に声をかけた。

「お~い。松ちゃんたち、コケコッコのお姉ちゃんが来たぞ」

 その声を聞くと、渡辺松太郎が一番先に監視所の部屋から外に駆け出し、監視所の門前に行った。数人の若い兵卒が監視所の門前に集まると、趙知英は顔をしかめて筒井恒夫をからかうように言った。

「ネエ、キョウノムンジキ、オカシイヨ。ワタシノコト、コケコッコ。ワタシノナマエ、チョン・イエヨ」

「ふうん。チョン・イエか。分かった。チョン・イエ、覚えておく」

「ニワトリノナキコエモ、オシエルヨ。コケヨー、コケヨータヨ」

 知英の鶏の鳴き声を聞いて、俺たちは笑った。清水卓司が言った。

「もう一度、鶏の鳴き声、聞かせてくれ」

「コケヨー、コケヨー」

「じゃあ、猫は何て鳴くんだ?」

「ヤオン、ヤオンタヨ」

「じゃあ山羊は?」

「ウンメー、ウンメータヨ。ワカッタラ、タマコトクタモノ、カッテヨ」

 彼女たちは茹で玉子と果物を、俺たちに売り込んだ。俺たちは、これから夕勤に出かけるので、茹で玉子と枇杷の実を買った。彼女たちは茹で玉子と枇杷の実を買ってもらうと、深く頭を下げた。知英が渡辺に、こっそり訊いた。

「コムパム、トコイク?」

「うん今晩は烟集河あたりまでかな」

「アラッソ」

 知英は、そう言うと、妖しい目つきで渡辺を見詰めた。渡辺は少し赤くなり、嬉しそうに笑ってから、彼女たちに背を向けた。門衛の筒井は、そこで小谷班の高橋重雄と門衛を交代した。俺たちは建物に入り、昼食を済ませ、夕勤巡回の準備を開始した。鈴木五郎班長は満州国政府が開始した保甲制度による集団部落状況が、どのように進捗しているか、目で確かめて来るよう、俺たちに命令した。午後2時、俺たちは監視所を出た。わりと平坦な土地を東方向へ向かっての巡視を始めた。朝暘川から局子街方面へ続く地域は畑や田んぼが点在し、満州人、朝鮮人、日本人が農作業をしていた。皆、巡回する俺たちに笑顔で挨拶した。俺たちは彼らに共産党ゲリラ対策の為の集団部落の建設計画は順調に進んでいるかを確認した。すると彼らは農作業もあるので、中々、進んでいないでいると答えた。自分の耕作地に近い所に家があるのが、何事をするのにも便利なのだ。俺も内地で百姓仕事をしていたので、彼らの考えは良く理解出来た。彼らは俺たちに守備してもらっていれば、商店街のような集団部落を建設しなくても安心で平和でいられるのだ。だが日本人開拓民は満州国政府による保甲制度の目的を良く理解していて、集団部落の建設に積極的だった。百軒ほどの日本人家族を集め、住宅団地を構成し、団地の周囲を有刺鉄線を幾重にも張り巡らせた柵で囲い、四方の門に守衛を置き、住宅団地内には、集会所や学校を建設して、互いの安全に努めた。局子街方面には、そんな日本人部落が出来始めていた。俺たちが顔を出すと、佐々木市衛門団長が、今年は日本の大学の先生の指導を受けて、田植えをしたので、米が沢山、収穫出来そうだと笑顔を見せ、俺たちを集会所で休ませてくれた。そこで飲んだ日本茶は何ともいえず美味しかった。そこで情報交換しているうちに、何時の間にか夕暮れが迫っていた。俺たちは佐々木長老に頭を下げ、日本人部落を離れ、鉄道工事現場の確認に行った。『鹿島組』の鉄道レール敷設工事の作業員たちが、一日の仕事を終え、引き上げるところだった。工事管理者の田口福太郎監督と警備員の岡田三平が俺たちに声をかけて来た。

「ご苦労様です」

「いや、皆さんこそ、日中、御苦労様です。随分と進みましたね」

「はい。皆、吉会線を完成させ、朝鮮の清津港に、一時も早く結びつけようと頑張ってくれています」

「工事を邪魔しようとする者が現れたりしませんか?」

「大丈夫です。俺たちが腰にピストルをつけて、苦力や鮮工を見守っていますから」

 岡田三平が腰のピストルに手をやって答えた。俺はその姿を見て、笑って言ってやった。

「油断は禁物です。何かあったら、俺たちの監視所に連絡して下さい」

「はい。分かっています。その時は、よろしくお願いします」

 田口福太郎監督と岡田三平警備員は、丁寧に挨拶をして、『鹿島組』の飯場へ引き上げて行った。俺たちは工事現場の連中が帰って行くのを見送ってから、烟集河近くまで出かけた。川面を渡る夕風が涼しく、心地良かった。しばらく進んで行くと、川向うから若い娘たちが、こちらに向かって声をかけて来た。

「アンニョンハセヨ。ノルヨ!」

 相手は昼間、監視所にやって来た茹で玉子売りの趙知英たち三人だった。仲間の一人、李善珠は果物売りだが、もう一人は何をしている娘か分からなかった。渡辺松太郎が俺に言った。

「吉田組長。知英たちが、俺たちに遊びに来いって手を振っていますよ」

 それを見て、清水、筒井、山内もニンマリした。三八銃を担いで笑い合う部下を見て、俺は彼らに巻き込まれてはならないと思った。俺は渡辺を叱り飛ばした。

「何を言っているんだ。俺たちは任務中だぞ。遊んでなんかいられるか。あの大柄の女、見たこと無いが、お前、知ってるか?」

「吉田組長。あの女に興味ありますか。あの女なら俺、知ってます。煙草売りの曺叔貞です。彼女たちのまとめ役で、美人なのにきつい女です」

「良く知っているな」

「知英に教えてもらいました」

「兎に角、今の俺たちには遊んでいる暇は無い。色目を使われても相手にするな」

 そう俺が言うと、渡辺たちは、俺の言葉も聞かず、川向うの三人に手を振った。

「またな」

 知英たち娘三人は、俺たちが相手をしないと知ると、河岸から消えた。俺たちは、そのまま局子街手前まで行って引き返した。蛙が啼き、あたりが薄暗くなり始めた時、俺たちは河の向こうに、はっきりと人影を見た。数人の男たちが、俺たちを眺めている。その視線は何故か鋭い感じだった。俺たちは吃驚して身構えた。すると男たちの一人が言った。

「おい。お前たち。この前、俺たちの仲間、三人を連れて行っただろう。三人は今、何処にいる。教えろ。教えないと痛い目に合わせるぞ」

 その言葉に俺の部下たちは、ギョッとして、俺の顔を見た。俺は組長として、相手に答えなければならなかった。固唾を飲んでから答えた。

「俺たちには分からん。延吉警備司令部に連れて行かれた。お前は金俊悦か?」

「ああ、そうだ。本当なら今、ここでお前たちを撃ち殺したいところだが、朝暘川の軍医に仲間を助けてもらったらしいから、撃ち合いは止めにしておく。また会おう」

 金俊悦は、そう言い捨てると、仲間を引き連れ、向こう岸の土手の陰に消えた。筒井恒夫ガ、カッとなって俺に言った。

「組長。奴らを捕まえましょう」

「止めとけ」

 俺は戦闘を好まなかった。負傷者を出して良い事は無い。金俊悦たちに攻撃を仕掛けようと猛る筒井や清水を制した。三八銃を土手の向こうに発射しようとする二人の構えを止めさせた。俺たちはまたあいつらが、朝暘川神社に放火するのではないかと心配し、それから朝暘川神社まで巡回してから、監視所に戻った。

         〇

 ところが、その夜、俺たちが朝暘川監視所に戻ってからのことであった。反日義勇軍の金俊悦をリーダーとする精鋭20人程が延吉警備司令部を襲撃しているという知らせが入った。彼らは気勢を上げ突然、襲って来ると、銃弾を発射しながら司令部の建物に侵入し、司令部の地下の留置場に入れられていた仲間三人を救出して、馬に乗って逃亡したという。更に十数人が残って、司令部の警備兵と撃ち合いをしているという。その知らせを聞いて、栗原勇吉軍曹が、俺たちに、局子街監視所の応援に行けと命じた。鈴木五郎伍長は佐藤大助たちにトラックを出させ、俺たちと一緒に延吉警備司令部へと向かった。現場に駈けつけると、局子街監視所の連中が、司令部の警備兵と一緒になって、敵と撃ち合いをしていた。敵も仲間を増やしたらしく、激しい戦闘状態になっていた。鳴り響く銃声は、まるで花火の音のようであった。足を撃たれて動けない者、腹を押さえて倒れる者などを目にして、俺は恐れ慄いた。普段、大人しい鈴木伍長は勇ましかった。

「敵は銃の使い方もろくに分からぬ愚連隊だ。相手を引き寄せ、狙い定めて撃つのじゃ。撃って撃って撃ちまくれ!」

 その号令に俺たちは暗闇の中から撃って来る敵に向かって、凄まじい闘志をみなぎらせて、三八銃を撃ちまくった。銃弾が飛び交い、敵の叫び声や、味方の倒れる音を耳にしながら、俺たちは死に物狂いで戦い続けた。流石の敵も、これ以上、戦っても不利と思ったのであろうか、首領の命令を受け、一斉に逃げ去った。この戦いで敵、四人が死に、二人が生け捕りになった。味方では警備司令部の満州人三人と局子街監視所の日本人二人が負傷した。結局、金俊悦たちは三人を取り戻しに来て、六人を失い、俺たちは五人の負傷者を出したという相打ちに近い結果となった。この出来事は正直なところ、手足が震え、死ぬのではないかと、心臓が破裂しそうになった恐ろしい体験だった。局子街監視所の青野泰吉軍曹は、生け捕りにした二人を拷問し、反日義勇軍の情報を自白させた。その青野軍曹の取調べの報告書によれば、襲撃したのは反日義勇軍の金俊悦を指導する洪範図と白山義勇軍の李振鉄とが共謀し、延吉警備司令部の吉興司令官の命を狙わせたのだという。李振鉄の本拠地は瓶峰山近くにあり、通化の組織とも通じているという。その報告を聞いて、延吉警備司令部の吉興司令官は激怒した。

「何という不逞朝鮮人たちであろうか。多分、何処へ行っても馴染めない屠殺人か墓守に違いない。ようやく念願の五族協和の満州共和国が樹立されたというのに、何故、それに反対するのか。中国から万里の長城を隔てて分離独立した満州共和国に対し、誤った民族的自覚により、反満抗日運動を展開するとは許せない。こういった朝鮮人は満州国から消えてもらうしかない。ロシア革命の成功という言葉に洗脳された朝鮮人のゲリラ攻撃は、折角、訪れた満州の春を乱すものである。我等、満州警備隊は、奴ら反満朝鮮人を許してはならない」

 そして吉興司令官は関東軍と俺たち朝鮮75連隊にも吉会鉄道警備の他に、共産党ゲリラの撲滅に協力してもらいたいと要請して来た。それに対し、局子街監視所の青野泰吉軍曹は、今回の戦闘で部下の谷中金次郎上等兵を失った事により、吉興司令官の要請を受け入れ、俺たち朝暘川監視所にも、治安対策の強化を計り、共産系朝鮮人パルチザンの掃討作戦に徹底的に尽力するよう伝えて来た。それにしても今回の戦闘で負傷し、病院に担ぎ込まれた同期の谷中金次郎が、野蛮な連中に乱射され、命を落とした知らせは俺たちにとって衝撃だった。

         〇

 昭和7年(1932年)6月になると、昨年、国際連盟が派遣を決めた『リットン調査団』が、満州にやって来た。俺たちはその話を永井中隊長から聞いた。その調査団はイギリスのリットン伯爵が団長をつとめ、フランスのクローデル将軍、イタリアのアルドロヴィアンデイ伯爵、ドイツのシュネー博士、アメリカのマッコイ陸軍少将とアメリカの専門家、ブレイクスリー教授とヤング博士の合計7名で、中国から顧維釣外交官と日本から吉田伊三郎外交官が随行して来たという。彼らは本庄繁関東軍司令官と奉天で会う前に、錦州の東北交通大学に訪問し、満州の鉄道事情と治安状況、国民感情、経済的発展性などについて調べていたという。果たして中国政府が国際連盟に提訴したことの結果がどうなるのか心配だと、永井中隊長が話されたが、俺たちは共産党ゲリラや匪賊からの脅威を満州国から取り除き、国家の治安維持に専念することが、新国家発展の為には最重要であると、自分たちの役割を最優先した。満州の発展の為には、同期の仲間、谷中金次郎を死に追いやったような無法者たちを退治しないことには始まらないと思った。俺たちは満州警備隊の吉興司令官らの情報をもとに、武装反乱組織の討伐を計画し、76連隊とも連絡を取り合いながら、共産匪賊の跳梁を阻止した。その努力もあって、間島省一帯の住民たちは、異民族同士でありながらも、共存共栄の雰囲気を醸成し始めた。それでも反乱は時々、起こった。反乱軍は突然思いついたように襲撃して来た。その戦闘は無知蒙昧な小集団との戦いで、義挙の為に一命を投げ捨てよとか、金を上げるから夜襲に加われとか、共匪、洪範図たちに唆された連中が多かった。ほとんどの者が戦闘訓練をしておらず、いざ血なまぐさい戦闘が始れば慌てふためいて逃走する視野の狭い連中ばかりだった。俺は、そんな烏合の衆を始末せねばならぬ立場であったが、部下に対しては、彼らを禽獣扱いせず、命を奪うことだけは自粛せよと命じた。俺が暴徒に向かって撃てと叫ぶと、部下は賊の足を狙って撃った。従って俺たちが捕らえた共産匪賊の数は、他の中隊より多かった。そのほとんどが朝鮮人農民や労働者で、政治的な事を理解せず、強盗団に近かった。捕えた者の中には、日頃見かけていた農作業をしていた者や豆腐などを売ったりしていた行商人たちがいたので、愕然とした。調べによると、どうも煙草売りの美人、曺叔貞たちも関与しているかも知れないとのことであった。そんなことから、永井中隊長から、女たちには気を付けろとの、お達しが出た。俺は渡辺松太郎に、茹で玉子売りの娘、趙知英たちに用心するよう言い聞かせた。

「渡辺。良く聞け。あの煙草売りの曺叔貞は共匪らしいぞ。彼女たちに騙されたら、山奥に連れて行かれ、一晩で、海蘭河に浮かぶことになるぞ」

 だが渡辺は俺の脅しに耳を向けなかった。反対に俺に言い返して来た。

「だったら俺が彼女が本当に共匪の密偵か調べます。オトリになって、彼女らの正体を突き止めます」

 俺は呆れ返った。何という考えをする男か。

「お前は正気で言っているのか。相手は説得して言う事を訊く奴らでは無いぞ。お前は怖くないのか?」

「馬鹿にしないで下さい。怖いものなど、何もありません。共匪を捕まえたら、小隊長だって、良い気分でしょう」

「そりゃあ、そうだろうけど、永井中隊長の言う事を聞かず、行動したら許されないぞ」

「吉田組長。長い時間でなくて良いです。知英の所へ行かせて下さい」

「駄目だ!」

「そこを何とか」

「駄目と言ったら駄目だ!」

 俺は渡辺松太郎を叱り飛ばした。渡辺が彼女に会いたい気持ちは分からぬではないが、永井中隊長の命令に逆らおうとする行為を無視するわけにはいかない。そんな俺と渡辺のやりとりを聞いていた部下たちは、渡辺の恋煩いの様子を察して腹をかかえて笑った。俺に叱られた渡辺は、仲間の笑い声に、ハッと気づき、顔を赤くして、渋々、引き下がった。俺はホッとした。ちょっとした心の緩みで命取りになることだってあるのだ。俺たちが共匪に用心して過ごしている間、『リットン調査団』は満州国の現況を細かく調査した。国際連盟の調査団が満州に来ていることを知ってか、ソ連の手先の共匪たちも鳴りを潜めた。ソ連からの指示に相違なかった。7月に入るや、その『リットン調査団』は満州を離れ東京に戻った。『リットン調査団』は、満州国を承認していなかった犬養首相が殺された後の斎藤実首相が、満州をどのように考えているかの確認を行った。そのリットン団長の問いに対し、斎藤首相は、こう答えたという。

「満州問題は満州人やそこで暮らす人たちの問題であって、私たち他国が云々する問題ではありません。満州国でなされていることは満州国内の問題です。満州国を承認してやる以外、解決の道は無いと思います」

 その答えは犬養首相とは異なる満州国承認の言葉であった。『リットン調査団』は、それから中国に移動し、北平にて、国民党の蒋介石と会談した後、『リットン報告書』をまとめた。『リットン調査団』に会った斎藤実首相は『リットン報告書』を予想して、満州国にいる関東軍の本庄繁司令官と作戦参謀長、石原莞爾たちを、日本国内に引き上げさせた。俺たちは、その知らせを聞いて愕然とした。

「どうなるんです、満州国は?あの『長春ヤマトホテル』でお会いした石原参謀長殿たちが、北伐を考える中国と満州を完全に分離させ、五族協和の王道楽土の国家を築くのだと言っていた夢は?」

 俺に続いて、白鳥健吾が野田金太郎小隊長に訴えた。

「そうです。満州人と関東軍によって樹立したヒヨッコ国家は、我が国の兄弟国家として、本庄司令官殿や石原参謀長殿のお陰で、確実に成長の羽根を伸ばし始めています。なのに、その途上で、関東軍の主幹の有能な人たちを交替させるなんて、日本政府の考えが理解出来ません」

 俺たちが信奉している関東軍のトップの交替に関する不満をぶつけると、野田金太郎小隊長は、こう答えた。

「俺も貴様たちと同様、この人事に不満を抱いている。海軍内閣のやりそうなことだ。奴らは鳩山一郎の『統帥権干犯論』に乗じて、今まで内閣が保持して来た統帥権を天皇にお返しし、陸軍の上に立とうと、新しい統帥権機関を作り上げ、海軍を拡大しようとしている。そして大陸から本庄司令官殿たちを追い出し、自分たちのやりたい放題に、我が国を操縦しようとしている」

「そんな事で良いのでしょうか?」

「良い筈がない。海洋の軍事に関わって来た海軍大将たちに、大陸での困難に処する資質があるとは思えない。大陸のことは陸軍に任せないと、とんでもないことになる」

 俺たちは野田金太郎小隊長の言わんとすることが、何となく想像することが出来た。日本の政府は政党政権から軍部政権の内閣になり、若き天皇の取り巻きたちが統率する海軍による領土拡大戦略に移行しようとしている。実に危険極まりない気がする。そんな時に俺たちが成すべきことは何か。それは日本の3倍以上もある広い土地と資源豊富な満州国をソ連や中国から完全に分離独立させ、鉄道、道路、電気、水道等を行き渡らせ、石炭や鉱山の開発、製鉄所、製糸工場、セメント工場、肥料工場、食品工場の建設、ダム建設による原野の水田化、都市建設と医療、教育機関の充実などを管理運営して行かねばならない。その手助けをする為に満州国の治安維持に尽力することが、俺たちの使命だ。その為に、まず急がなけれなならいのは、日本の『鹿島組』が進めている満鉄の吉会線工事の完成への全面協力と極東ソ連軍から満州国を防衛する為の共匪の掃討作戦だ。それにしても分からないのは、これから満州国が発展するというのに、何故、鉄道線路の破壊や電線の切断、橋梁の破壊、建造物放火、食糧の略奪、殺人暴行などを繰り返し満州の発展の邪魔をするのか。俺は部下に疑問を投げかけた。すると珍しく清水卓司が、こう言った。

「吉田組長。この前、趙爺さんがぼやいていましたが、趙爺さんは、仲間に日本人の支配下に苦しむ朝鮮にいるより、満州へ行って、荒れ地を開墾すれば、それが自分のものになり、大地主になれると教えられ、朝暘川にやって来たそうです。ところが開拓した土地は満州人の所有地だと満州人が集団で脅迫や弾圧を行い、土地使用料を要求するなど卑劣なことをするので、息子、運信は農業をせず、雑貨売りなどをしているようです。そういった朝鮮人の不満分子が、ソ連共産党軍の失地回復の抗日軍として教育され、朝鮮流民たち家族が暮らす村落が日満の協力によって近代化を進めているという事も理解せずに、その近代化を破壊するという蛮行を働いているのです。愚かなあいつらを教育しないことには、治安を守ることは出来ませんよ」

「成程。教育か」

 俺は部下から暴徒の悪業の心理を教えられた。それは破壊こそが正義だと信じている人間がいるということであった。

         〇

 一方、日本国内では満州国が、関東軍や満鉄のお陰で繁栄を始めていると耳にした困窮者たちが、満州に新天地ありと、満州への移民を希望した。だが満州に日本人を移民させるということは、日本人を満州国民にするということでもあった。日本政府にとって、それは望ましいことでは無かった。そこで日本政府は満州開拓団として日本国民を満州に送り込むことを検討した。昭和恐慌下からの立ち直りに苦しんでいる農民を広大な満州の大地に送り込むことは、満州国での日本人の人口比率を高める上でも有益であると考えた。この考えに逸早く跳び付いたのが、満州国軍吉林省警備軍事務官、東宮鉄男少佐だった。その東宮少佐が夏の青空の澄み渡った日、突然、馬に乗ってやって来たので、永井岩吉中尉以下、俺たち分隊の連中は慌てた。また何事か大事件が起こったのであろうかと緊張した。すると、そうでは無かった。東宮少佐は、図們の独立守備隊の駐屯地から間島の景色を眺めに来たということであった。会議室の中央の席に座ると禿げ頭の東宮少佐は、俺たちを見回した。この人が、あの張作霖事件に関与した勇猛果敢な熱血漢だと思うと、俺の心は躍った。開口一番、東宮少佐は永井中隊長に言った。

「朝暘川は中々、良い所じゃあないか」

「はい」

「共産党ゲリラに苦労しているようだな」

「はい。この度の御視察は、そのことでありましょうか」

「いや。朝暘川の分隊の活躍は、独立守備隊から聞いている。今日、俺がやって来たのは、間島一帯の農業が、どのようになっているか、この目で確かめたかったからだ。ここ数年来、内地の農民たちは冷害による大凶作で苦しんでいる。その農民たちを救済する為に、満州への移住を希望する人たちが、満州に移住した後、まともに生活して行けるか、俺たちは検討している。俺はその調査に来た」

「左様でありますか」

 永井中隊長がそう答えると、東宮少佐は、俺たち一人ひとりの顔を見まわしてから、永井中隊長に訊いた。

「そこでだ。試験的に、この間島地方に、疲弊する内地農民を移住させようと思うが、どうだろう。この地に駐留監視している諸君の意見を聞きたい」

 そう訊かれて永井中隊長は困った顔をした。東宮少佐の質問を野田金太郎准尉に振った。

「どう思う、野田准尉?」

「こういうことは石川曹長が詳しいのでは。自分は東京育ちですので」

「石川曹長はどう思う?」

 石川曹長は、うろたえながらも答えた。

「自分は誠に良い考えだと思います。日本人が増えることは有難いです。朝暘川が賑やかになります」

 その答えを聞いて、東宮少佐は眉をしかめた。

「そうか。それは分かるが、俺の求めている答えになっていない」

「と申されますと?」

「俺は農民が満州にやって来て、問題無く農作業をやって行けるか、どうかを質問しているのだ」

 すると石川曹長は、さらっと言った。

「それなら、吉田に訊くと良いです。吉田は山里育ちですから」

 石川曹長は会議室の隅っこにいる俺を指差した。俺はびっくりして、心臓が止まりそうになり何も言えなかった。東宮少佐は何も言わず、俺をじっと見詰めた。沈黙が流れると、野田准尉が怒鳴るように言った。

「どうなんだ。吉田?」

 俺は立ち上がって自分の考えを言った。まずは朝暘川で日頃目にしている農民たちの姿を頭に浮かべて、感じるままを口にした。

「自分は朝暘川をはじめとする間島地区に、日本人農民を招き入れることには反対です。何故なら、この地区には朝鮮人農民が明治時代から入植しており、満州人と土地争いをしている場所です。それに既に朝鮮に移住した日本人も入つて来ております。当然のことでありますが、ここらには個々人の土地の所有権も存在し、日本人農民の立ち入る余地はありません。我々が彼らの所有する土地を奪い、日本人を入植させたら、それこそ国際的大問題になります」

「成程」

「ですが、この地でない、未開の所であるなら、その余地は充分あると思われます。日本国には優秀な農業指導者がおります。まずは、そういった先生方を満州にお連れして、農業可能な場所を探すべきです。間島地区への農民移民は不適切です」

「ほう、そうかね。中々、面白い。仲間にも聞かせてやりたい。永井中隊長。夕刻、この者ら四、五人を連れ、局子街の領事館分館に来てくれ」

「ははーっ」

 永井中隊長が深く頭を下げると、東宮少佐は笑って立ち上がりながら言った。

「じゃあ、夕方、局子街で待っている。今日は良い天気だ。俺は乗馬を楽しみ、先に帰る」

 それから東宮少佐は、会議室を出て、広場に休ませていた馬に乗り、部下5名程と手綱を引いて走り去って行った。その後、俺たちは午後4時半過ぎ、小型トラックに乗って、朝暘川から局子街へ向かった。夕方5時過ぎに局子街の領事館分館に着くと、昼間、東宮少佐と一緒に来た和田直之曹長が待っていた。彼は永井中隊長と石川繁松曹長、白鳥健吾、佐藤大助と俺の5人を領事館分館から局子街の料亭『銀閣』へ案内した。俺たちは永井中隊長に従い、ゲートルをつけたまま東宮少佐のいる部屋に入った。その座敷の部屋では十人程の部下に囲まれ、東宮少佐が酒を飲んでいた。部屋に入るなり、永井中隊長が言った。

「遅くなって申し訳ありません。只今、到着しました」

 すると盃を手にした東宮少佐が、床の間を背に、笑顔で永井中隊長以下、俺たちを見て頷いた。

「おお、来たか。まあ、こちらに座って、一杯やってくれ」

 俺たちは言われるままに東宮少佐の左前側に設けられた席に座り、同年輩の青年兵から酒を受けた。盃に酒が行き渡ったのを見て、東宮少佐が言った。

「今日は、お疲れさん。乾杯しよう。乾杯!」

「乾杯!」

 乾杯が済むと俺たちは少しほっとした。懐かしい日本料理などを口にして喜んでいると、東宮少佐が、俺たちに局子街分館の田中作主任の隣りに並んで座っている背広姿の三人を紹介した。

「朝暘川の諸君。紹介しよう。俺が昼間、話した諸君の話をきかせてやりたいと言った俺の仲間だ。三人とも農業学校の先生で、こちらから、加藤完治先生、小針庄吉先生、山崎芳雄先生だ。早速だが、昼間の続きをやってくれ」

 そう言われて永井中隊長が口火を切るのかと思ったら、永井中隊長は、何も言わなかった。それを見て、加藤完治先生が、きりっとした姿勢で、俺たちにお願いした。

「我々は満州に移住を希望する農民たちが、満州に来て、立派にやって行けるか、その調査に内地からやって参りました。東宮少佐殿にお話しされた話を、もう一度、お願いします」

 加藤先生に鋭い目で見詰められ、永井中隊長は、たじろいで、俺に向かって叫んだ。

「何をしておる、吉田!」

「は、はい」

 俺は指名され、跳び上がった。すると東宮少佐が笑った。

「何も立ち上がらなくても良い。昼間、話した間島地区への日本人農民招致の反対の続きを話してくれ」

「は、はい。間島地区の土地は朝鮮人と満州人が所有しており、日本人が一部、買い上げて所有しております。そこに内地の日本人がやって来て土地を買い上げるとなると、高額になります。従って内地の農民が間島地区に入植する余地は無いと、昼間、説明しました。そして日本の優秀な農業指導員をお招きして、農業可能な新天地を求めるべきだと話しました。自分は、群馬の山村育ちです」

「おおっ、貴様も群馬か。俺と同じじゃ。それは頼もしい。続けてくれ」

 東宮少佐が群馬県出身だと聞いて、俺はびっくりした。またそれが俺には後通しになり、心強かった。

「自分の村では荒れ地や山林を開墾して、田んぼや畑にして、農地を広げている人がいました。従って、既に満州人や朝鮮人によって耕作されている、この吉林省の土地ではなく、ここより北方の牡丹江や佳木斯、海倫のあたりに行って開拓するのが良いのではないでしょうか。但し、ここ同様、共匪の襲撃も考えられますので、自衛団と医師をそろえる必要があります」

 俺の話を聞いて、東宮少佐たちは頷いた。それから、また飲めと言った。そして芸者を呼んで、ドンチャン騒ぎとなった。俺たちは帰りが遅くなるとまずいので、9時に料亭『銀閣』を出た。永井中隊長と石川曹長は東宮少佐に泊って行くよう言われて、俺たちを先に帰した。多分、永井中隊長たちは、『銀閣』の裏通りにある遊郭『銀水』へ行って、二次会を楽しむのではないだろうか。朝鮮人商売人に加わり、日本人商売人も局子街に増えているので、鉄道の発展は、多くの人を呼び寄せるものだなと俺は思った。

         〇

 8月、満州から、関東軍の本庄繁司令官と石原莞爾参謀長が内地に戻って行き、武藤信義大将と小磯国昭参謀長がやって来た。本庄、石原体制の下で始まった満州の動きが、武藤、小磯新体制に代わって、どうなるのか、俺たちには気掛かりだった。内地での第六十三臨時議会では内田康哉外相が〈日本国を焦土にしてでも、満州国承認を通すことにおいて、一歩も譲らない〉と発言されたという。そんなニュースが入って来た真夏の夜、銅仏寺の監視所から救援要請があった。『鹿島組』の鉄道工事宿舎の連中が賭博を楽しんでいる最中に、馬賊軍が襲って来て、賭け金を奪い、鉄パイプやレール付属金具、配線材、工具類などを持ち帰ろうとして、巡回中の銅仏寺監視所の偵察組と遭遇し、戦闘状態になったという。盗賊団は偵察組に気づかれるや、暗闇から狙撃を始め、『鹿島組』の数人が負傷し、まだ戦闘が続いているという。それを受けて、俺たちの組と磯村組の10名がトラックに乗って銅仏寺へ急行した。ガタゴト道を気持ちが悪くなる程、揺られて駈けつけると、まだ銃撃戦の最中だった。相手は何時もに無く、しぶとい連中だった。敵の首領たちは既に盗品を馬に乗せて逃げ去っており、その部下たちが、土手の向こうから銃弾を撃ち込んで来ていた。『鹿島組』の作業員たちは体格が良いのに怯え切っていた。俺は銅仏寺監視所の上田啓次郎小隊長に言った。

「朝暘川より、応援に参りました」

「かたじけない。敵は軍服を着た馬賊のようだ。何時もより執念深い」

「安心して下さい。機関銃を持って参りました」

「それは心強い」

 俺は上田啓次郎小隊長と二言三言話すと、部下に命じた。

「機関銃の準備開始!」

 俺の命令に応じて部下たちは機関銃を草地に設置し、眼鏡照準具に目をやり、俺に答えた。

「準備完了。敵位置確認完了!」

「ようし、撃て!」

 俺の部下と磯村の部下は待ってましたとばかり、一斉に機関銃を発射した。バババババババババババ!その連射に敵は危険を察したらしく、銃撃を止めた。俺や磯村の部下たちは異様な快感に満たされ、機関銃を撃ちまくった。暗闇の中で悲鳴が上がるのが聞こえた。敵が死傷者を残し、負傷しながら逃亡して行くのが分かった。

「山の方へ逃げて行くぞ」

「逃がすな!」

「追えっ!」

 部下たちは大声を上げ、賊を追った。だが相手は必死で、殺されまいと、俺の部下たちでは追いつけそうもない速さで、脱兎の如く逃げ去った。それでも負傷している二人を捕らえた。二人とも武装しており、容易ならぬ敵だと分かった。上田啓次郎小隊長は敵の死体を部下に片付けさせてから、俺と磯村と一緒になって、捕縛者の尋問を行った。俺たちの取調べに対して、一人が、こう喚いた。

「我らは黒龍義勇軍の革命兵士である。日本の軍事力によって作られた満州国は張学良政権が引継ぐべきものであり、日本軍や中国の国民党軍が統治する国ではない。満州国は満州人の国であり、満州人の土地だ。もともと満州は明国とは万里の長城によって国境が仕切られており、日本とは海を挟んで隔てられていて、他民族が入って来る土地では無かった筈だ。だから我らは、他民族を満州から追放する為に戦っている。殺せ、殺せ。どんなにお前らが頑張っても、我らの血の沁み込んだ土地の上に立派な国を建てる事は出来無い。お前らが、どんなに我らの仲間を殺そうとも、我ら満州民族は戦い続ける」

 彼は手首を縛られ窮地から逃げ出すことも出来ず、死を覚悟していた。もう一人は俺たちに鞭を打たれ、こう供述した。

「我々、黒龍義勇軍『黒龍会』の頭領は丁超将軍であり、張学良殿下を国王にと考えておられます。張学良殿下の後ろにはイギリスがついております。従って、我々を甘く見ると、日本はイギリスと戦争になります。お前たちは我々を解放し、イギリスとの戦争を回避すべきです。『黒龍会』の革命兵士の戯れ事と軽視したら、とんでもないことになります。我々を解放しないと、後悔することになります」

 俺たちは、そう言われても捕縛者たちを逃がす訳にはいかなかった。トラックで二人を延吉司令部に送り、収監してもらうことにした。結果、上田啓次郎小隊長と野田金太郎小隊長は表彰され、俺たちに感謝した。

         〇

 本庄、石原体制から武藤、小磯体制になった関東軍は満州国の国防軍という、新たな資格を獲得することになった。そこで頭角を現したのが、日本に帰されず、満州に残った陸軍少将、板垣征四郎だった。本庄、石原体制下ではやや目立たなかった板垣征四郎は満州国執政顧問になり、本庄、石原が考えていた満州共和国でなく、満州帝国の成立を目指した。板垣は特務機関の土肥原賢二や甘粕正彦を使い、清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を天津から満州に連れて来て、満州国の執政として招いたのは自分であるという自負でいっぱいだった。それ故、自分が国家元首の側近執政顧問となり仕えているからには、何としても、清朝の故地、満州国において、溥儀を宣統帝として、踏襲させて上げたいと願った。勿論、満州国での二番目の地位を望んでのことである。このような動きの中で、9月15日、日本の斎藤実内閣は『日満議定書』に調印した。日本国側の全権は武藤信義陸軍大将、満州国側の全権は鄭孝胥国務総理が務め、協定の前書きには満州国の承認が明記された。

〈日本は満州国が住民の意志で成立した独立の国家である事を確認した。また満州国は、これまで中華民国が諸外国と結んでいた条約、協定を可能な限り、満州国にも適用することを宣言した。その為、日本国政府と満州国政府は、日満両国の『良き隣人』としての関係をより強め、お互いに、その領土権を尊重し、東洋の平和を確保しようと、次のように協定する〉

 そして協定内容では、日本の満州国領域内での権益は中国と日本の間で締結されていた内容を認める事とし、日本軍が満州国の治安の為、駐屯する事を認める2項目が記され調印された。ところが、10月1日、『リットン調査団』は日本政府に満州に関する報告書を提出した。その内容は不毛の荒地を開拓し発展させている日本の地域貢献は認めるものの、満州事変は日本による中国主権の侵害である。よって日本政府は満州に於ける中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む、日中両国の新協定を締結すべきであると日本に勧告するものであった。それに基づき国際連盟は、〈11月16日までに日本は一旦、満州国から撤退すべきだ〉とする決議を採択した。その報告書内容が公表されると、その内容について、野田金太郎小隊長から、俺たちに説明があった。

「本日、司令部から『リットン調査団』の報告が公開されたとの知らせがあった。その知らせによれば、『リットン調査団』の報告は満州国を認めず、中国の一部としての強い自治権を持たせた新政府の建設の必要性を提案したそうだ。また一方で、日本の満鉄の権益や経済上、国防上の満州の治安維持、近代化への努力を尊重し、満州の改革について、日中間の相互協力を促進させ、問題を解決するよう考えを示したそうだ。それに対し、国連は日本軍の満州からの撤退を決議したという」

「ええっ。何故です。誕生したばかりの満州国は、我々、日本軍に支えられているのではありませんか?」

 白鳥健吾が不満の声を上げた。野田小隊長は頷いてから、また言葉を続けた。

「勿論、その通りだ。内田康哉満鉄総裁は、先月、9月15日、満州国の鄭考胥国務総理と、日本国の全権大使、武藤陸軍大将が交わした『日満議定書』を重んじ、国会で、満州国承認を一歩も譲ってはならないと熱弁を振るったという。もともと国際協調的外交官の内田満鉄総裁の怒りは天皇陛下をはじめ、斎藤首相らが跳び上がる程、びっくりさせたらしい。お陰で日本軍が満州から撤退することは無くなった。俺たちはこの満州国を、石原莞爾参謀長が申されていたように、ヒヨッコ鳥から、世界に羽ばたく鳳凰にせねばならない」

 野田小隊長の言う通りであった。俺たちの頭の中には、あの『長春ヤマトホテル』でお会いした石原莞爾参謀長の『ヒヨッコ国家防衛論』がこびりついていた。満州共和国の誕生を喜び、五族協和を願い、欧米列強に支配されているアジアから脱し、アジア人の為の大東亜共栄圏を実現させる夢。この考えは俺たちを奮い立たせた。元来、極東アジアに血縁も所縁も無い欧米の調査団によって、アジア諸国が差配されてはならない。アジアの発展の為、アジアの平和の為に、日本人や中国人が中心になって、アジアを守らなければならないのだ。若き日、日本で教育を受けた国民党の蒋介石も欧米列強に対抗する為、アジアの主役、日本と中国がどのように団結しなければならないか分かっている筈だ。だから北伐を止め、日本に満州の治安保護を任せているのだ。俺たちは監視所内にいる時、武器の手入れ、炊事、洗濯をしながら、日本の政治経済から満州国の未来について語り合った。自分たちでは何も出来ないのを知りながら、偉そうに夜中まで語り合った。そんな話で盛り上がっている時に、突然、共匪の夜襲があった。慌てて部下を集めると、二、三人がおらず、殺られたのではないかと、俺たちは蒼白になって、弾丸を詰め替え、敵に向かって撃ち返した。俺たちの武器の威力に圧倒され、敵はドンパチを止め遁走した。そのドンパチが終わつた頃、監視所に筒井恒夫、渡辺松太郎、山田三郎が戻って来た。俺はカッとなって、部下たちに往復ビンタをくらわせた。

「貴様たち。さっき、ここで何があったか分かっているのか。何処へ行っていた?」

 俺に殴られ、部下たちは唇のあたりに血を滲ませ、何の返答もしなかった。それを見ていた栗原勇吉分隊長が怒鳴った。

「貴様ら、見てみろ。敵の銃弾の痕があるのを。俺たちは監視所を守る為、必死になって戦ったのだぞ。吉田は銃を撃ちながら、お前らの事を心配していたんだ。この馬鹿野郎ども!」

 そう言った途端、栗原分隊長は、俺よりも強く、彼らの頬に張手をくらわし、軍靴で彼らの脚部を蹴った。筒井らはよろけ、足をさすりながら謝った。

「申し訳ありません。悪くありました」

「以後、気を付けます」

「当たり前だ!」

 栗原分隊長は、膨れた顔をして、分隊長室に引き上げた。俺は、その分隊長の後を追って、分隊長室に行き、謝った。栗原分隊長は俺を叱責した。

「お前の甘さが、あいつらの気を緩ませている。遊びたい気持ちは分かるが、ここは戦場だということを、厳しく吹き込め!」

「分かりました」

 俺は栗原分隊長に深く頭を下げて、部屋を出た。それから筒井恒夫たちが、何処へ行っていたのか確かめた。筒井たちは、朝鮮人女に誘われて外出していたと白状した。俺は筒井たちに注意した。

「その女たちは共匪の手先だ。お前たちを呼び出し、監視所が手薄になったのを見計らって、襲撃して来たのだ。何度、言ったら分かるのだ。朝鮮人には気をつけろ」

 俺の忠告に部下たちは身震いして背筋を伸ばした。それにしても、共匪たちは執拗だった。それは俺たち同様、純粋に心から、仲間の為に、抗日運動に命を捧げようと志願している者たちだからかも知れなかった。その狂信的な青年たちを育成しているソ連軍を俺は恐ろしいと思った。だからといって負けてはいらねなかった。関東軍を中心にした日本軍が満州国を支援して上げないことには、満州国を自立させることは不可能であった。とはいえ、広大な満州国の隅々まで日本軍の守備を行き渡らせることは不可能であった。9月27日、満州北西部ホロンバイルで『東北民衆救国軍』と名乗り、部下の給料を着服し、満州国から解任された蘇炳文が満州里で挙兵するという事件が発生していた。満州里の山崎領事は邦人保護の為、ソ連のフィルノフ領事と交渉し、ビザ申請を行いソ連領への邦人の避難を行った。満州里一帯を占拠した蘇炳武文はホロバイン独立宣言を行い、満州里特務機関長、小原重孝大尉、宇野国境警備署長や満州人、日本人、朝鮮人などの民間人ら数百名を人質にし、日本政府に宣戦布告を行った。日本政府は関東軍に対し、張学良の息のかかった蘇炳文を説得せよと関東軍に交渉させたが、交渉はうまく進まなかった。関東軍は交渉を打ち切り、第14師団を現地に差し向けることにした。

         〇

 満州里の戦闘も気になったが、俺たち満州東部でも抗日ゲリラの活動は絶え間なかった。10月16日、延吉の細鱗河付近を巡察していた日本軍憲兵と通訳、朱瑞方の三人が、共匪に襲撃され、憲兵二人が射殺され、朱が連れ去られるという事件が起きた。俺たちは、その犯人が、共匪であることは分かっていたが、彼らを捕らえることが出来なかった。反対に共匪の拷問を受けた朱瑞方が、組織内で働く『民生団』の宋養民たちが、吉興司令官に送り込まれた密偵であると自白した為、『民生団』の20名程が、宋老人とともに抗日遊撃隊に処刑された。このような状態にあって、関東軍は、満州国から、撤退する訳には行かなかった。結果、日本政府は11月16日までに関東軍を満州から撤退させず、11月21日、国際連盟に『リットン報告書』の内容を受け入れられないとする意見書を提出した。やがて雪と吹雪の厳しい満州の冬になった。その影響でだろうか、馬賊や共匪の襲撃も減少した。気温が氷点下になっても、俺たち日本軍の兵隊が、寒さに強い地方の出身者の多い軍隊であると分かったらしい。共匪の中には食料が無くなり、投降して来る者もいた。俺たちは、そういった連中を始末しても良いと言われていたが、延吉警備司令部に連れて行き、吉興司令官らに、彼らの転向を勧めるよう説得して欲しいと依頼した。そんな或る日、局子街の司令部基地から、野田金太郎小隊長がやって来て、俺たちに言った。

「おい、お前たち。何時も吉興司令官らに、逆賊の更生をお願いしてばかりしていてどうする。たまには自分たちで、逆賊を説得してみろ」

 俺たちは命じられれば、逆賊たちの説得に挑戦してみますと答えた。すると吉興司令官も、それは良い考えだと、俺たちに収監している共匪たちの説得を行わせた。俺たちは延吉警備司令部の凍るような拘置所に行って、一方的に説得した。俺は延吉警備司令部の林徳源主任に通訳を依頼し、まるで小学校の校長をしている父になったが如く、拘置所内の連中を集め、こんな説得をした。

「私は関東軍の兵士では無く、朝鮮北方連隊の者である。本来、この地に駐在する筈では無かったが、人々が平和を求めて一生懸命働いているこの地に、お前らのような悪党が跳梁跋扈するので、この地の治安維持の為に、朝鮮からここに派遣された。俺にはお前たちのことが分からない。俺は日本の貧しい農村の生まれであり、百姓の苦しみも分かっていれば、豊作の喜びも分かっているつもりだ。従って、お前らが何故、食料強盗、殺人、鉄道破壊、建物放火などの乱暴を、行うのかが理解出来ない。この地で暮らす人たちが収穫したり、作り上げて来たものは価値のある貴重な物だ。それを暴力で奪い取るとは無慈悲ではないか。誰かにそそのかされてやったのであれば、目を覚ませ。お前たちは働かずして、不満を抱いているのではないのか。金が得られない。生活が苦しい。食べる物がない。嫁をもらえない。そういったことを、自分で努力せずに、誰かのせいにしているのではないだろうか。日本軍が悪い。満州の政治が悪い。大地主、大金持ちら素封家が悪い。総て他人のせいにしていないだろうか。この中には朝鮮に住んでいたのに、朝鮮を捨て満州に逃げて来た者もいると思う。お前たちは満州に新天地を求めてやって来たが生活が以前よりも苦しので、ソ連軍の手先になって活動しているのではないのか。ソ連軍に洗脳され、自分たちの親たちが汗水たらし、作り上げて来た貴重な物を、お前たちは、盗んだり、破壊しているのではないのか。そのような繰り返しが良い事だと思っているのか。そんな人生で良いのか。その人生の道を選んでいるのは誰か。それを選んでいるのは日本軍でも、満州政府でもなければ、俺たちでも無い。お前ら自身が選んで来た道なのだ。総ての事は他人のせいでは無く、自分自身のせいなのだ。だから今、ここにいるお前たちは、これからの自分自身の道を自分で選択出来る。一度しかない人生だ。良く考えろ。日本国は台湾、朝鮮、満州、支那の平和を切望している。欧米から搾取されているインドやタイやフィリピンのようにならぬよう、東亜の平和と団結の為に、建設的活動をしている。俺たちが今、急いでいるのは東満州鉄道の完成である。この鉄道が完成すれば、この間島地区はより豊かになる。お前たちは破壊こそ正義だといって、ソ連が言うがままに俺たちが建設を急いでいるものの破壊行為を続けているが、何が正義なのか分かっているのか。ソ連共産党に騙されるな。共産とは上に立つ者を極力少なくし、どん底の者を最大限に増やし、国民を酷使する偽善思想である。いわば独裁である。我々、日本軍が行っているのは満州発展の為の建設だ。お前たちはこれから、ここにおられる吉興司令官殿の教えに従い、満州国の建設の為に尽くせ。破壊は正義ではない。建設こそ正義だ。これからは、こそこそせずに満州国の建設の為に堂々と生きよ。人生は自分次第だ。自分たちの明るい未来は建設によって築かれる。頭を冷やし、吉興司令官の下で働け」

 俺の説得を延吉警備司令部の林徳源主任が通訳してくれたが、それが、どの程度、正確に拘置所にいる収容者たちに伝わったか、俺には分からなかった。結果は吉興司令官も野田金太郎小隊長も、中々、良かったぞと褒めてくれたので、ある程度、良かったのであろう。だが俺は嬉しくは無かった。通訳の林徳源が俺の演説が終わって、事務室に戻ってから、こんなことを言ったからだ。

「寒い冬になって、悪い事を行い、ここにやって来る連中は、厳しい冬を拘置所内で過ごす為にやって来るのです。ここに来れば食事がもらえ、寒さをしのげるからです。彼らは何度、説得しても、ものが理解出来ない愚か者たちです。期待しては駄目です」

 俺は林通訳の言葉を聞いて、愕然とした。どうなっているのか、大陸の教育は?

         〇

 昭和8年(1933年)、俺たちは極寒の満州の間島地区で、正月を迎えた。俺は父と妹と弟たち四人の家族が、どのような正月を迎えているのだろうかと、内地の正月を想像した。父は酒を飲み過ぎているのではないか。妹たちは正月の晴れ着を着ることが出来たであろうか。弟か書初めをちゃんと書けただろうか。あの中島綾乃は元気だろうか。嫁に行ってしまったのではないだろうか。雪と寒風の吹きすさぶ景色を眺めながら、故郷のことを思っていると、お屠蘇を飲んで、ちょっと酔っぱらった白鳥健吾が寄って来て、俺の肩を、ポンと叩いて言った。

「おい、吉田。お前、飲まないのか。内地でも恋しくなったか」

「うん。まあな」

「彼女のことでも気になっているのか?」

「いや」

「分かっておる。ここ数年、会ってない彼女が、嫁に行ってしまったのではないかと心配しているのだろう」

 白鳥は俺が何を考えているか、お見通しだった。俺は、ちょっと照れて答えた。

「まあ、そんなところだ」

「俺は『更科』の桃代のことが気になっている。早く会寧に帰りてえな」

「うん」

 元気の無い俺の返事に白鳥は、俺を励まそうとした。

「大丈夫だって。お前は色男だから、彼女は、お前の帰りを待っているよ」

「そうだと良いのだが・・・」

「もし彼女が待っていなかったら、俺の妹をもらってくれ。美雪っていうんだ。妹で無かったら、俺が嫁にもらいたいくらいの美人だぞ」

「本当か。本当に良いのか」

「本当だとも」

 白鳥は迷わずに頭を振った。そして俺を新年を祝って酒を楽しんでいる仲間の所へ連れ戻した。局子街の基地からやって来た石川繁松分隊長を囲んで、栗原軍曹以下、朝暘川監視所の連中は、ご機嫌だった。こんな時に共匪の襲撃があったらどうなるのか。俺は自分だけでも、しっかりしていなければ駄目だと思った。正月気分に酔っているのは日本人だけだった。満州人にも朝鮮人にも、日本人が祝う新暦の正月は、他国人の正月でしかなかった。彼らにとって、春節が新年だった。俺は石川分隊長に酔ったふりをして質問した。

「石川分隊長。去年の春節は第二師団の多門師団長の指示で、敵陣攻撃をしましたが、今年も馬占山軍との戦闘が指示されるのでしょうか」

「今年はあるまい。年末、大興安嶺で第14師団の荒木克業中尉が亡くなられたが、ホロンバイルの反乱軍の蘇炳文らはソ連へ亡命し、今や抗日軍はバラバラにされ、あちこちに孤立しており、こちらから攻撃する必要が無くなっている。馬占山将軍は存在感を示しながらも、満州国の成り行きを見守っている。小競り合いして来るのは、目先のことしか考えない愚連隊だけだ」

「でも愚連隊が優秀な指導者によって連結を広めたなら大きな力になります」

「心配することは無い。奴らの行動は関東軍飛行隊によって、絶えず空から監視されているのだ」

「とは言っても、彼らは決して屈しない馬占山の義侠心に惚れこんで、命懸けでやって来る連中です」

 俺が石川分隊長と、そんなやりとりをしていると、突然、吉興司令官が現れ、笑って俺に言った。

「確かに、そういう奴らもいます。だが心配いりませんよ。馬占山は自分の手で大統領にして上げようと考えていた張学良元帥が、阿片中毒になっているのを知って、がっかりしている頃でしょうから・・・」

 俺たちは吉興司令官からの話を半信半疑で聞いた。それも束の間、武藤信義関東軍司令官と小磯国昭参謀長は、満州国の治安を確保する為には、北平に近い熱河を確実に守備範囲に治める必要があり、正月早々、まずは山海関を攻略した。俺たちには何故、関東軍の第6師団が正月初めなのに戦闘を開始したのか理解出来なかった。理由は元日の夜、山海関の日本憲兵分遣所に手榴弾が投げ込まれ、翌日、中国軍が不法射撃を始め、児玉利雄中尉が戦死したことから始まったという。それに対し、関東軍は陸海空から中国軍を攻撃し、中満国境は正月から戦闘が続いているという。また第10師団も歩兵第8旅団の園部支隊を出動させ、牡丹江の東、綏芬河のソ満国境で、吉林自衛軍と戦い、敵の将軍、李延禄や丁超らをソ連領に撤退させた。王徳林と孔憲栄はソ連に逃げ去った。そんな山海関や磨刀石での争いが治まると、満州国は賑やかな春節を迎えた。去年の春に始まった五族協和の満州国は、ここ一年で鉄道が発達し、新京が生まれ、都市の近代化が進み、満州人以外の朝鮮人、日本人、蒙古人をはじめ、支那人までが、満州国に集まって来た。明治維新により文明開化を成功させた日本が指導力を発揮し、新国家発展に協力している満州国は国際的にも注目を浴びている。その満州国は、ある者にとっては、未来に輝く大陸の星、眩い五色の国であった。街には五色旗がはためき、爆竹が鳴り、いろんな衣装を着た大人や子供たちが行き交った。一年目の春節は、関東軍の多門二郎中将の率いる第2師団と馬占山の率いる黒竜江軍が対峙し、どうなるかと思っていたが、馬占が春節に合わせ関東軍に帰順した為、若干、緊張感は緩みはしたものの、ピリピリした春節であった。しかし、今年は違った。俺たちが局子街をはじめとする間島地区で目にする今年の春節の雰囲気は、日本の正月以上の盛り上がり様であった。とはいっても、俺たちは油断してはならない状況だった。何故なら去年の初め、満州国に一旦、従属した馬占山が去年の4月には満州国軍から離脱し、抗日救国軍と称し、『黒龍会』や『大刀会』、『紅槍会』を加えて、未だ反抗を計画しているからであった。正月、延吉警備司令部の吉興司令官が、心配はいらないと言っていたが、俺たちは最前線で駐留している部隊である。故に反乱軍の攻撃が、ゼロということは在り得ない。どんな小さな戦闘でも、誰か負傷者が出る。油断をすれば死ぬのは自分だ。南西方面では山海関から始まった戦闘が続いて、戦死者が増えているという。満州の東北を守備する俺たちとしては、春節だからといって、一般住民たちにように気を緩めてはならなかった。だが俺の部下たちは、相変わらず呑気だった。あのタバコ売りの曺叔貞の下で働いている趙知英や李善珠を追いかけまわし、青春を楽しんでいた。俺もその仲間に加わり、遊びたいところであるが、彼女らは危険であるし、自分の組を纏めなければならなかった。俺は栗原軍曹や鈴木伍長らと一緒になって、春節気分の抜けない部下を叱責した。

「お前たち、まだ春節気分が抜けんようだな。少し、ぶったるんでいるぞ。俺たちは幸運にも命を長らえているが、何時またあの烏吉密河に参戦した時のような恐ろしい危険に襲われるか分からないのだ。ここが未だ戦場であると認識せよ。山海関を占領した第8師団は今、熱河作戦を開始し、裏切り者の湯玉麟を満州から追い出し、万里の長城線を確実に統治しようとしている。この満州国の領土範囲を明確にする為の関東軍の進撃は、満州国民にとっての願いであり、何としても成功させなければならぬ行軍である。そんな命懸けの戦いを仲間がしている時、お前たちは敵を追いかけず、女の尻を追いかけているとは何事だ。前にも注意した筈だ。曺叔貞は共匪の仲間だ。俺たちが守らなければならないのは、彼女たちが付き合っているソ満国境の共産党の抗日組織の連中を討伐することだ。分かっているか」

「分かっております」

 部下たちは一斉に答えた。すると鈴木伍長が栗原軍曹を真似て、軍靴の音を立てて、一回りしてから、言った。

「よし。分かっているなら一般人との交流には気を付けろ。敵は朝鮮人、満州人、そればかりか、日本人の中にも潜んでいる。だが本当の敵は、そいつらで無く、その背後にいるソ連軍だ。ソ連の連中は、人道に反する卑怯な方法で攻めて来る。俺たちは馬占山の『黒龍会』や『大刀会』に注目しているが、東寧に逃げた王徳林の反日義勇軍の方に、もっと目を向けなければならぬ。あいつらは執念深い。油断は禁物じゃ」

 鈴木伍長は『黒龍会』より、王徳林軍の残党、呉義成たちの逆襲を心配していた。彼らはソ連軍同様、女兵士を起用し、女にだらしない男たちを篭絡して来るのだった。そんな男たちを狙って、朝鮮妓楼も延吉で商売を始め、俺たちは日々、賑やかさを増して行く酷寒の満州の不思議に目を白黒させた。満州国はどうなるのか。人がどんどん集まって来る。憧れの鉄道が延長されて来ている。俺たちは憧れを抱いて満州に集まって来る人たちの為に、満州の治安維持に、より一層、全力を尽くさねばならなくなった。

         〇

 俺たちが白銀の満州の東北部でこごえながら守備している間、スイスのレマン湖のほとり、ジュネーブでは、国際連盟の総会が行われていた。その総会で『リットン報告』を受けつつも、日中間で小競り合いを続けている満州問題に外国の批判が高まり、日本軍の満州からの撤退と満州国承認の可否についての審議が行われた。この時の日本代表首席全権大使は松岡洋右だった。松岡洋右は田中義一内閣の時、満鉄副総裁を経験しており、出席している誰よりも、満州の事を理解しているという自信でいっぱいだった。それに日本政府は昨年、すでに満州国の独立を承認していたので、『リットン報告書』が何をいわんやであった。更に松岡洋右は満州問題を詰問され、困った時の助っ人として、兵器本廠付きとなっていた石原莞爾を随員として連れて行っていた。二人とも情熱家であった。松岡は論じた。

「あなた方はアジアの歴史を知らない。三国志の話をしても、チンプンカンプンだろう。清国以前の歴史を辿れば、あなた方が言う中国は、三国以上の国々だった。そのような歴史から清国とロシアの板挟みになっていた満州の人々が、もともと独立国家に近い状態で、結束して、満州の大地を守って来たことは、お分かりであろう。その満州の人たちが、近代化を目指し、独立国として、産声を上げたのだ。それを何故、あなた方は認めようとしないのか。何故、我々、日本国のように、素直に認めてやれないのか。何故、我々の満州国への協力が、侵略に値するのか。何故、国として定まっていない無政府状態の中国と、新条約を締結せねばならぬのか。こんな状態で満州の近代化に尽力投資して来た我々に、満州から撤退せよとは道理から外れている。そんな乳飲み子を見捨てるような国際連盟であって良いのか。清国滅亡後、未だに定まっていない中国の治安維持の為に日本を大陸から追い出し、欧米諸国連合で共同管理するのだなどと、訳の分からぬ提案をして、型を付けようなんてことは、あってはならぬ事だ」

 石原も論じた。

「満州国は、もともと満州人、蒙古人、朝鮮人ら北方民族が暮らして来た土地である。最近、支那人が入って来ているが、それは清国が滅亡してからのことである。日本がロシア帝国から、満州の土地を満州人たちに取り戻してやらなかったら、黒髪の美しい人たちの故郷は枯草のような髪をした人たちの世界になってしまったに違いない。そうならぬよう、我々、黒髪の美しい日本人は、満州人を応援して来た。朝鮮王朝は自分たちの保身の為、日本の保護国では無く日本国との併合を希望し、日韓併合となったが、それは朝鮮国民の総意で無かったと、併合してから後になって判った。満州人の中には日満併合を願う人たちもいるが、我々は同じ失敗をしてはならぬと、独立国家を希望する満州の人たちの生活向上の手助けをして来た。その黒髪の美しい人たちを愛する我々を、枯草のような髪をした欧米の連中が、自分たちが満州を管理するから、我々に出て行けというのだ。おかしいとは思わないか。我々が資本を投資し、充実させた満州の鉄道、道路、電気、水道、鉱山、工場、公共施設などをどうするのか。我々が後押しして来た五族協和の共和国は、アメリカやロシアが理想とする君主を置かない共和体制の国として出発したのだ。それを国家として認めないのはおかしい」

 かかる考えの二人が会議に臨んだのであるから、会議が上手く進む筈が無かった。だがイギリス、フランス、アメリカ、ソ連をはじめ、多くの国々が寄ってたかって日本に満州国承認を取消すよう迫った。それに対し、日本代表首席全権大使、松岡洋右は欧米の要求に応ずることなく弁舌した。

「皆さんの意見にお応えする。そもそも、議題の極東問題の根本的問題は清国滅亡後の中国大陸の無政府状態に起因している。長年の間、中国は主権国家としての国際的義務を疎かにして来た。隣国である日本は、最大の被害者である。もし、皆さんが、この『リットン報告書』の意見を採択すれば、内乱を起こしている中国に免罪符を与えることになる。中国が日本を侮辱し続けても罰せられないと印象づけるであろう。本来、日中は友人であり、互いの繁栄の為に協力すべき間柄である。それなのに、日本国の満州国からの撤退を要求する報告書を国連が採択すれば、日中両国の民を救うことは出来ない。そうなれば日中両国民は、互いを傷つけ合うことになってしまう。極東平和と世界平和の為に、皆さんに、この報告書の意見を採択しないよう、心からお願いします」

 そして2月24日、国連の議長により『リットン報告書』の意見に対する賛否の投票が行われ、その結果が発表された。44ヶ国のうち42ヶ国が賛成、1ヶ国が棄権、日本1ヶ国が反対という結果になり、日本の満州政策が非難された。その結果を受け、松岡洋右全権大使は激怒し、発言を行った。

「この投票結果に対する日本政府の声明をお伝えする。我々はこの投票結果に愕然としている。とても残念でならない。言うまでも無く日本国の基本理念は国連の純潔なる望みに基づく、極東における平和の保障及び世界平和維持への貢献である。しかしながら日本は断じて、この国際連盟の勧告の受け入れは納得容認し難く、拒否する。日本は、これ以上、国際連盟に協力することは出来ない」

 松岡洋右の弁舌に会議場内は静まり返った。松岡洋右は声明を終えると、石原莞爾たちに言った。

「帰るぞ」

 石原莞爾たちは、その松岡に従い、直ちに総会の席から退場した。その胸を張って退場する姿は、まるで凱旋する将軍たちのようであったという。俺たちは、その話を伝え聞いて、興奮し、喝采を送った。東アジアの未来を欧米諸国に掻き回して欲しくない。大東亜共栄圏の夢は、日中が協力して果たさなければならない未来なのだ。

          〇

 ところが3月3日、日本を困らせる事件が起こった。岩手県釜石町の東方沖、約200Kmを震源とする大地震が発生し、沢山の死傷者が出た。そんな内地のことを知らず、国際連盟に同意しなかった日本軍は、満州国から撤退せず、満州国をより確実な国家にする為に、山海関攻略に続いて、内蒙古の熱河制圧に着手した。3月4日には承徳を占領した。この疾風の如き関東軍の戦闘勝利は、騎兵部隊や歩兵部隊の死を覚悟した勇気と牧野飛行部隊の活躍によるものだった。関東軍の武藤司令官と小磯参謀長は、飛行部隊の有効性を高く評価し、その増強を計画した。そこで俺たちが守備する布爾哈通河の南にも飛行場を作ることになった。その為にまた局子街の人口が増え、俺たちは忙しくなった。憲兵隊がいるものの、反乱分子も増加し、春に向かうにつれ、共匪の夜襲も多くなった。馬占山軍や反日義勇軍が、各地で暴れ回った。彼らの反抗が強まれば強まる程、関東軍は兵力を増員し、進撃して、万里の長城線まで侵攻した。この時点において日本を代表して内田康哉外相が、3月28日、国際連盟の脱退を表明した。このことにより満州国は自立し、国際連盟の権威は傷つけられ失墜するに至った。アジアを欧米の勝手にさせないぞ。それがアジアの覇王である日本の矜持であった。それにしても、合衆国制度を自慢するアメリカが何故、アジアの合衆国化に反対するのか、俺たちには理解出来なかった。それは欧米人の自己中心的な難癖に思えた。無政府状態になっている清朝滅亡後の中国大陸を、和をもって統制させようとしている日本を排除しようとする反対勢力は、武力をもって制圧するしか無いように思われた。満州国は日本国の国際連盟脱退により、その存在感が高まった。その為、満州国を充実させようとする日本人や満州で一儲けしようとする韓国人や、内戦の続く中国から平和を求めて逃げ込んで来る支那人が、満州に雪崩れ込み、満州国は活況を呈した。中にはソ連の共産主義政権を嫌い、満州に逃れて来る白系ロシア人もいた。このようであるから雪解けが始ると、朝暘川あたりでも人流が増え、監視するのも大変だった。俺たち日本軍人は、一部の人間を除いて、多くの人たちから一目置かれた。また日本国籍を嫌がっていた朝鮮人たちの中にも日本人名を名乗り、優越感を示す者が増えて来た。何処から聞きつけて来たのか、あの朴立柱の妹、英姫が俺の所に尋ねて来た。日頃、部下たちに、女の尻を追いかけるなと言っている俺としては立場が無く、困惑したが監視所長の栗原軍曹は大目に見てくれた。

「折角、金在徳の知り合いがやって来たのだ。局子街の焼肉屋にでも、連れて行ってやれ」

 俺は有難く栗原所長の許可を得て、局子街の繁華街へ行った。そこの焼肉店『松杉食堂』に入ると、食堂内に立ち込める煙と焼肉の匂いが、何ともいえなかった。

「オソオセヨ」

 店主が英姫に向かって満面の笑みを浮かべて言った。俺はテーブルに座っている面々を見渡して、英姫に訊いた。

「皆、知り合いか?」

「ハシメテヨ」

「遅いじゃあないかと言っていたじゃあないか」

「ワスレタノ、ハングル。イラシャイマセヨ」

 そう言われれば、そうだ。俺はそう言われて、少し平静になった。カルビと石焼ビビンバを註文し、それを食べながら近況を話し合った。彼女は図們の親戚の所へ来たので、ついでに延吉まで足を伸ばしたのだという。そして兄と一緒に雄基で待っているからと言った。俺は朝鮮の連隊に戻ったら訪問するからと答えて、彼女と別れた。俺は彼女と別れてから、近くの席で話していた関東軍の一等兵たちの話が気になった。

「トラックに武器を積んだまま、行方不明になっているが、匪賊に襲われたのだろうか?」

 俺は局子街から朝暘川の監視所に戻りながら、俺たちの知らない事件が起きているのだと想像した。真剣な顔をして考え込んで監視所に戻った俺を見て、部下たちはニヤニヤと笑った。

         〇

 満州の春は冬の零下何十度の気温が、まるで嘘であったかのように温かく、沢山の花が咲いた。この時期になると、小便が氷柱になることも無く、手袋をせず、素手で銃を持っても手の皮が剥がれずに済んだ。俺たちは元気を取り戻し、あの『長春ヤマトホテル』で聞いた石原莞爾参謀長の満州国への大義に向かって、ひたすら励んだ。満鉄が進める吉会線の鉄道レール敷設工事は『鹿島組』によって順調に進められ、局子街の飛行場や官舎も『間組』が手掛け、関東軍の駐屯兵舎も、『松村組』によって、建設が行われて、間島省の全域が近代化に向けて盛り上がった。勿論、同様に新京や吉林にも、『大林組』や『清水組』が入り、建設工事が進行していた。従って満州の街に日本人の数も増え、楽しみが増した。俺たち同期の者は、上司が昇格し、部下が入って来たことから、それぞれ格上げになり、俺は伍長になった。そして4月初め、局子街の分隊に鈴木班、小谷班の仲間と一緒に移動となった。朝暘川監視所には小高班が残り、木下忠治班と迫田照男班が、会寧からやって来た。局子街の分隊には野田金太郎准尉や石川繁松曹長などの他、独立守備隊の連中もいて、独立守備隊は石島竹二郎少尉の指揮のもと、既設鉄道の守備を行っていた。両部隊が互いに連携し、間島一帯の交通の安全と治安維持の為に昼夜、頑張っていた。従って、このあたりでは今までのように匪賊が現れず、敵と戦うことは、ほとんど無いと、石島竹二郎少尉は威張っていた。ところが4月5日、灰幕洞の図們駅監視所と『鹿島組』の宿舎が何者かによって奇襲され、放火されると言う急報が入り、俺たちは目の色を変えた。トラックに乗ったり、馬に乗ったり、走ったりして現場に駈けつけると、駅周辺の建物から炎が燃え上がっているのが見えた。敵は灰幕洞を占領しようとしていたらしく、鉄道守備隊や『鹿島組』の建設守備隊に向かって、滅茶苦茶に発砲して来ていた。俺たちは直ぐに陣を構え、敵に向かって撃ち返した。だが敵は怯むことなく抗戦を続けた。弾丸が頭上をかすめて通過する音に身震いした。撃たれて死ぬかもしれないと思った。

「ああっ!」

 側にいる者が撃たれて声を上げた。俺は叫んだ。

「怯むな。撃て、撃て!」

 俺たちは恐怖に怯えながらも必死になって敵に向かって発砲した。機関銃を含めた俺たちの勇ましい反撃に、敵は逃走し始めた。俺は部下を引き連れ、闇の中を走り、逃げ遅れた数人を取り囲んだ。俺たちの撃った弾丸が当たって、足に傷を受けた仲間を助け出そうと、モタモタしている連中だった。ビッコを引き引き苦しんでいる男は、自分を捨てて逃げるよう、仲間に叫んでいたが、その男の仲間、三人は逃げようとしなかった。俺たちはその四人を捕らえ、麻紐で繋いで局子街の分隊に連れて行った。分隊には我々、朝鮮75連隊と独立守備隊に捕らえられた敵兵20人程が集められていた。彼らの奇襲で、俺たち75連隊には死者は出なかったが、独立守備隊の5人と民間人3人が犠牲になった。かって銅仏寺や頭道溝や安図での戦闘を経験したが、今回の奇襲は、今まで以上に激しく、馬賊の襲撃とは何処か違っていた。捕縛者たちは何時ものように延吉警備司令部に送られ、吉興司令官の部下たちの尋問によって、犯行組織の情報を白状させることとなった。だが相手はしぶとく正義は必ず勝つと言っているという。毎回、襲撃されるたびに思うことであるが、話し合いは出来ないのであろうか。地域発展の為に農作物を栽培したり、交通路や街の施設を建設したりしているものを、盗みに来たり、破壊しに来ることが、本当に正義なのか。この地で暮らす、満州人や朝鮮人たち、自分の縁者たちの生活が向上することを彼らは良いと思っていないのだろうか。五族協和の満州国の発展が、満州の地で暮らしながら不都合だというのか。ならば、満州で乱暴狼藉などせず、別の国に行けば良いではないか。なのに何故、満州に居残り、血を流す。俺は殺し合いを好まぬ。満州国は五族協和の楽土でなければならぬ。俺が、そんなことを考えている以上に、今回の灰幕洞の戦いで、とんでもない事が判明した。戦死者が出たことだけではない。捕えた者の中の数人が、女性だったからだ。その中の一人、金恵里という共産党朝鮮人が『女子赤色革命軍』に属し、日本人の恋人の仇を討つ為に、灰幕洞を襲撃したと白状した。何と、その日本人の恋人というのが行方不明になっていた独立守備隊の伊田助男だというのだ。それを聞いて、石島竹二郎少尉は卒倒しそうになった。伊田助男が歩兵銃と弾薬を満載したトラックに乗って、彼女の住む馬家大屯に行き、射殺されたというのだ。金恵里は伊田助男が自分宛てに書いた手紙に、こう書かれてあったと手紙を示した。

:親愛なる金恵里様。先日はいろいろのことを教えていただき、有難う御座いました。お陰様で、冬の間、縮こまっていた身体が活力を増し、元気を取り戻しました。貴女が愛国主義者、国際主義者の共産党の遊撃隊に入った理由を聞かされ、感動しました。自分は貴女たちの仲間に加わり、自分たちの未来を切り開く為に、共同の敵を打倒したいと思っております。自分は今、帝国主義の連中に囲まれていますが、この帝国主義の波に呑み込まれること無く、逸早く新たな未来を掴む為に、自らの命を懸け、200挺の三八銃と5万発の弾薬を、貴女たち遊撃隊に贈ることに決めました。多分、武器輸送担当の自分がいなくなれば、自分の所属部隊の連中が、自分を追いかけて来るでしょう。その時は、日本の攻撃隊を狙い撃ちにして下さい。自分は死んでも貴女たちの為に、命を捧げます。貴女の仲間と共に戦いながら、共産主義国を、この地に実現させたいです。万が一、その途上で自分が命を落とすようなことがあっても、自分の革命の精神は生き続ける事でありましょう。神聖なる共産主義社会の一日も早い到来を、共に果たそうと願っております。

 関東軍間島日本輜重隊

      伊田助男

   昭和八年三月三十日  :

 その伊田助男を射殺した者が、独立守備隊の者であり、自分は伊田助男が提供してくれた武器を持って、仲間を引き連れ、復讐にやって来たのだと、金恵里は石島竹二郎少尉を睨みつけて言ったという。俺は、この伊田助男の話を聞いて、局子街の焼肉店『松杉食堂』で関東軍の一等兵たちが、行方不明になっていると噂していた男が、伊田助男であると知った。また伊田助男の恋人の女性が、男の形をして、軍服姿で攻めて来たことには驚きであった。そういえば朝鮮の雄基の監視所にいた時、氷結した豆満江を渡り出会ったユリア・ソメノビッチもイリーナ・シェルバコワも女なのに軍服姿だった。ソ連軍に洗脳された『女子赤色革命軍』の女たちには、男も女も無いのだ。この灰幕洞の夜襲事件は大問題になった。独立守備隊の井上忠也中将の命令で、独立守備隊から、中山陽吉大尉がやって来た。朝鮮75連隊からは斎藤春三大佐が乗り出して来て、間島一帯を守備する俺たちは大目玉を食らった。そして敵の隠れ家を徹底的に調べ上げ、共匪を討伐するよう命令が下った。この命令を受けて、石島竹二郎少尉は、延吉警備司令部の吉興司令官と一緒になって、拘置所にいる逮捕者を追求した。時には拷問を行った。結果、敵は東寧にいるロシア人が支援している『赤色遊撃隊』で、李延禄の部下、朴聖吉が隊長だと分かった。また尹哲順や曺叔貞が女子革命軍を率いているとのことであった。その為、渡辺松太郎が親しくしている趙知英や李善珠や姜敬愛が警備司令部に呼び出され、取調べを受けた。だが深い関りは露呈されず、釈放された。俺は少なからず、彼女たちが共匪の密偵であると疑っていた。何故なら趙知英の兄、運信はあの崔令叔の妹、崔永叔と恋仲と聞いていたからだ。独立守備隊の中山陽吉大尉は、石島竹二郎少尉に、赤色革命軍の本拠地を突き止め、二度と立ち上がれぬよう、敵の全滅作戦を指示し、自ら俺たちの中隊長、永井岩吉少尉や延吉警備司令部の吉興司令官に声をかけ、共同作戦の計画を進めた。

         〇

 我々、日本軍部隊は治安攪乱を繰り返すソ連共産党軍の支援を受ける赤色革命軍の本拠地が、ソ連に逃亡した筈の王徳林がいた汪清村であると突き止めると、直ぐに作戦計画を練った。各部隊間の打合せにより、独立守備隊が東方の十里坪方面から、満州警備隊が龍岩村方面から、俺たちの朝鮮75連隊が百草溝方面から、三方攻撃を仕掛けることにした。また歩兵39連隊の竹本宇太郎少尉とも連絡をとり、北方の警備を依頼した。4月15日、土曜日の早朝、日本軍と満州軍の連合軍は5千名の軍勢にて、ソ連共産党配下の赤色革命軍の本拠地、汪清村めがけて出発した。騎兵隊を先頭に、歩兵隊、野砲隊、トラック輸送隊と続く行軍の姿は間島地区の町民や農民をびっくりさせた。住民に見送られ、歌好きの角田武士が、『朝鮮国境守備隊の歌』を唄い出すと、俺たちもそれに合わせた。すると栗原軍曹が、俺たちに向かって怒鳴った。

「馬鹿者!そんな大声を出して向かったら見つかってしまうではないか」

 俺たちは慌てて唄うのを止めた。それを見て、馬上の永井岩吉中隊長が笑って言った。

「栗原軍曹。まあ良いではないか。こんなに大勢で行くんだ。歌を唄わなくったって気づかれるよ」

「それじゃあ、敵に逃げられてしまうではありませんか」

「逃げられたって良い。残った者を捕らえれば良いのじゃ。我々の仕事は、稲を荒らす雀を追い払うようなものじゃ」

 俺は、その永井中隊長の言葉を聞いて驚いた。独立守備隊の中山陽吉大尉に永井中隊長の発言を知られたら、問題になると思った。兎に角、俺たちは、かねての手筈通り、烟集川方面から百草溝を経て汪清村の西側に進んで、陣を張った。そして正午のラッパと同時に汪清村部落に突入した。先ずは発煙隊が発煙弾を撃ち込み、敵を追い出した。すると民家の中から敵が一団となって跳び出して来て、俺たちに応戦し、銃撃戦となった。中には弾丸の恐ろしさも知らず、竹槍などを持って、突進して来る者もいた。俺たちの奇襲の効果が上ったのは最初のうちだけだった。敵側の人数も次第に増えて来て、攻勢に転じた。赤色革命軍は普段から訓練しているのか、女、子供までもが戦闘に加わった。女たちも銃を持ち、刃向かって来た。子供たちは丘に登り、赤旗を振って、革命兵士激励の声を上げた。俺は前もって女、子供を撃つなと命じていたが、いざ戦闘になると、その約束が守られているかどうか分からなかった。頭の上を弾丸が飛び交い、味方が撃たれ、血を見ると、身体が震えた。死んではならぬ。死んではならぬ。その頃合いを見計らってか、俺たちが前に出て誘い出した敵を機関銃部隊が一斉に射撃した。すると敵の一角が崩れ始めた。およそ小半時余り経ってからだった。俺たちに向かって攻撃していた敵が浮足立って身を翻し、逃げ去った。東方から独立守備隊が、南方から満州警備隊が駆けつけて来て、敵は三方から包囲される形になり、尖山や天橋岭、張家店といった北方へ後退した。その敵兵に向かって野砲隊が三八式野砲を撃ち込んだ。あたりには硝煙が棚引き、まるで夏呀河に、靄がかかっているようだった。その野砲隊の攻撃が終わると、銃声も止んで、あたりは静まり返った。暫くすると、村の農民たちが手を上げて降参して来た。彼らの多くは赤色革命軍に拘束されていた農民たちで、奴隷のように強いられた生活から解放され、喜んだ。独立守備隊の中山陽吉大尉は馬から降り、農民たちに安心するよう伝え、死体の埋葬を手伝うよう依頼した。銃声に驚き、牧場から逃げ出し、乱走していた牛たちも、また元の場所に戻り、何事も無かったかのように、草を食み出した。老爺の山々と夏呀河の流れと青空。何と素晴らしい土地であることか。討伐隊は汪清村の東北と西北に陣を構え、露営を決定し、翌日も天橋岭、張家店へと後退する活動家たちを追った。活動家たちは、深夜に何度も襲って来たが、満州の連合守備隊に勝てる筈が無かった。翌々日、独立守備隊をはじめ俺たちは三日間の行軍を終え、それぞれの隊に戻った。後は満州警備隊と航空部隊に監視を一任した。この戦いでの朝鮮75連隊の死者は2名、負傷者は20名程であった。この汪清村攻撃で捕らえた赤色革命軍の多くは、農民、労働者、学生などで、満州国政府は、その者たちを一般国民に復帰させる為の思想改革収容所を開設していた。俺はその為、その間島特設収容所に行って、満州国の明るい未来について語って欲しいと頼まれた。延吉警備司令部の吉興司令官や俺の上官たちは、俺が延吉の拘置所で、何度か逆賊の更生教育の手伝いをしたことがあるので、時々、俺に講義を要請して来た。俺は上官の命令により、特設収容所に行き、反乱者に自分の思いを語った。

「俺は満州国の治安維持の為に、ここに派遣された一兵卒である。何故、俺が親や兄弟と離れ、海を渡って、わざわざ満州に来ているのか時々、考えたりする。果たして俺がここに来る必要があったのか。だが、この美しい満州の大地を見て、俺は自分が派遣されたことの意義を知った。それは、かってこの地にはロシアと清国の板挟みになり、荒らされ続けて来たという不幸な歴史があり、今なお、それが解消されていないという現実を目にしたからである。日清、日露戦争に勝利した我が国、日本は、そこでこの不幸な満州の地の近代化を進め、この地で暮らす人たちが平和で共に手をたずさえ、共に楽しく過ごせる世界を作ってやろうと、国費を投じ、満州人や周辺の人たちと努力を開始した。満州国の経済が今後、更に発展するよう鉄道を敷設し、道路を整備し、鉱山開発を行い、農地開拓を進め、沢山の人たちが豊かな生活が出来るよう、心血を注いでいる。満州の人たちは今や西は万里の長城、北は呼倫湖から流れ出る黒竜江を境にして、国境を明確にして生活を始めている。それなのに、お前たちは何だ。熱心に働く農家に押し入り、暴力を奮い、ソ連軍の手先の活動家の言うがままになっている。彼らの論ずるソ連の共産主義とは、まやかしである。各人が所有する財物や生産物を共同所有し、階級や搾取の無い、万人の平等を目指す社会を築く政治思想だと。それは真っ赤な嘘だ。そんなことが出来る筈が無い。絵空事だ。自分自身を良く見よ。自分自身に置き換えて見よ。お前たちには祖父母や両親や兄弟がいるであろう。その家族の一人一人を平等にしてみよ。一家の者が皆、平等なら誰が一家の差配をするのだ。差配する者がいなければ家族は崩壊する。又は家長だけの差配で物事が決められてしまう。それは話し合いの無い、一方的な支配だ。それを容認するのか。良く考えろ。人間社会というものは、いろんな役割の人がいて成り立っているのだ。お前たちは総ての物が共同所有の物だというが、その所有物を個人に分配するのは誰か。当然の事、分配者が必要であろう。そうなれば総てが平等で共同所有といっても、分配者と受給者という階級が自ずと生まれて来るのだ。その分配者が共同所有物を独り占めして受給者を支配することになるのだ。独裁だ。共同所有によって万人が平等などという考えは全くの絵空事だ。このまやかし思想が独裁的分配者を生み出すことは明白である。このままお前たちが共産主義に傾倒し、その世界に没入したなら、お前たちは、その独裁者の奴隷となってしまうのだ。良く考えろ。お前たちは偽善者たちに騙され、暴力を奮い、他人の物を奪い、大事な物を破壊し、美しい満州を血まみれにして来たのだ。お前たちは、それでも、自分たちが生まれ育った満州の大地を更に血まみれにしようと考えるのか。それはしてはならないことだ。ソ連の活動家に騙されてはならない。この特設収容所で、多くの事を学び、人間性を高め、満州国に貢献することを早く見付け、万民の為の力になるのだ。お前たちにとって、この特設収容所で学び、経験することは、この先にやって来るお前たちの未来に、とても大事なことだ。マルクスやレーニンといった個人的崇拝は、独裁者を生み出し、革命の名において、この世を破壊するものである。お前たちが今までやって来た破壊の数々が、それを証明している。これからのお前たちには、愚かな信仰から抜け出し、心を改め、暴力による破壊では無く、満州国の平和を守る仲間になって欲しい。逸早く悪夢から覚め、満州国の五族協和の夢に応えて欲しい。出来る事なら、満州国軍に入隊し、無法者を追い払って欲しい。そうしてくれれば、俺は国に帰れる」

 俺の弁舌を林徳源が通訳してくれたが、毎回のことであるが、どの程度、収容所で服役中の連中に理解してもらえたかは分からない。だが石島竹二郎少尉は俺の講義を、涙して聞いてくれた。

「ご苦労さん。良かったぞ。兎に角、何度も何度も、同じことを繰り替えし説教し、彼らの頭に叩き込むしかないのだ」

 石島竹二郎少尉は沢山の部下を殺され、大量の武器を奪われ、収容所の連中を皆殺しにしたい気持ちでいるに相違なかった。その石島少尉の憎悪と慚愧の気持ちは痛い程、分かるが、だからといって収容所の連中を殺す訳には行かない。彼らを説得し、何が正義の生き方か教え込み、彼らを自ら転向させるしか方法は無いと、石島少尉は考えていた。その石島少尉の涙は俺の胸を打った。

         〇

 昭和8年(1933年)4月20日、何度も匪賊によって、鉄道建設を邪魔されて来た敦化と図們間の敦図鉄道工事が完了し、龍井村の駅前広場で、その開通式が行われた。独立守備隊と共に、俺たち朝鮮75連隊の鉄道守備兵も、満鉄社員、『鹿島組』社員、その他の工事業者、間島地区住民らと共に、その式典に参加した。林博太郎満鉄総裁は現れなかったが、山崎元幹満鉄総裁代理や『鹿島組』の鹿島新吉社長や松井真吾所長などが、遠くからやって来て、盛大な開通式となった。この日をもって吉敦鉄道の延長工事は完結し、東満州鉄道が日本海まで通貫し、間島に春がやって来た。しかし残念なことに、石島少尉の率いる独立守備隊間島中隊は井上忠也中将によって解散させられた。こうして敦図線が開通すると、新しい延吉駅周辺に、旅館、飲食店、理髪店、食料品店、衣料品店、薬局などの人たちが進出して来て、人口が増加し、多くの変化が見られた。俺はそんな環境の中にあって、時々、内地のことを思い出し、望郷の念にかられたが、めまぐるしく変わる満州の日常は、俺たちをゆっくりさせてくれなかった。5月になると俺たち伍長以上の幹部は、新京の関東軍からの呼び出しを受け、5月10日、延吉駅から新京に向かった。老爺嶺をはじめとする幾つかのトンネルを過ぎると、広い田園に出た。車窓に並走する国道にはトラックや馬車に乗って、上半身裸の男たちが、楽しそうにしていた。敦化からは畑地が目立った。車窓の風は心地良かった。やがて松花江の緩やかな流れが見え、吉林駅に到着した。俺たちは永井岩吉中尉の指示に従い、汽車から降り、一旦、駅から外に出て、駅前のいくつかの食堂に分散して、昼食を取った。俺たちは食事をしながら、今度は黒竜江の畔、黒河に移動になるのではないかと心配した。だが『鹿島組』の社員が、食堂などの手配をしてくれていたので、また『鹿島組』と別の鉄道工事現場には派遣されるのではないかと、予想する者もいて、どうなるのか、良く分からなかった。食事が終わって、駅前の集合時間まで余裕があったので、俺たちは吉林の街を歩いた。松花江沿いにある街は、延吉のような建設工事の活況は見られず、時間が止まっているようだった。午後2時前、俺たちは駅前に集合し、新京行き汽車に乗り込んだ。汽車が走り出し、車窓から眺める広々とした緑の景色は、満州国が如何に大きな可能性を秘めた国であるかを感じさせた。列車が松花江の支流、伊通河を越えると直ぐに満州国の首都の新京駅に到着した。改札口を出ると、第8師団の隊員たちや『鹿島組』や『大林組』の社員が、俺たちを出迎えた。その出迎えを受けた俺たちは、一年前同様、軍靴の音を立てて『長春ヤマトホテル』まで行き、まずは入館手続きを済ませ、夕方6時、大食堂に集合した。俺はあの石原莞爾参謀長に出会った時のことを思い出した。俺たちが直立して待っていると何と、あの西義一第8師団長、独立守備隊の井上忠也中将はじめ、俺たちの連隊長、斎藤春三大佐、林博太郎満鉄総裁、山崎元幹満鉄理事など、錚々たる顔ぶれが入場して来て居並び、まず西義一中将が壇上に立ち、話された。

「去年4月、諸君に進行中の敦図線の鉄道工事の守備と対ソ防衛の為の抗日パルチザンの討伐を依頼してより一年が経過した。工事担当の『鹿島組』や『大林組』の皆さん、及び、守備兵諸君の血の出るような尽力のお陰で、本年4月20日、念願の敦図線を短期間で開通することが出来ました。これはひとえに諸君の忠烈なる奮闘の成果によるものであると思っている。心より感謝申し上げる。言うまでも無く、鉄道は国の経済活動を支える重要な交通手段である。我々は、この満州国の交通手段を、もっともっと発展させようと思っている。満州は狭隘にあえぐ日本と違って広大で、河川も多く、開発を勧めれば利便性の良い場所になり、近代国家の理想実現には最良の場所である。満州国の活発なる発展を見詰めつつある現在、更に経済活動を促進させる為に、我々は満州国から次の鉄道の新設を望まれている。その為に、我々は諸君の更なる協力を切望してやまない。このことを伝えたく、敦図線完成の御礼方々、諸君との祝賀会を開いた次第であります。我々の計画実現の為、今後とも奮励されますようお願いして、私の挨拶と致します」

 俺たちは西義一中将の挨拶で次を読むことが出来た。次に壇上に立った林博太郎満鉄総裁の話は敦図線に続いて、図佳線工事の着工とその守備の実行の依頼だった。それは朝鮮国境の図們と牡丹江より北方の佳木斯とを鉄道で結び付けようという壮大な計画だった。俺たちは林満鉄総裁の話で、今回の関東軍からの新京への呼び出しの目的が何の為であるかを知った。その後、数人の挨拶と乾杯があり、大食堂での立食パーティとなった。俺たちは洋食のパーティとやらに胸を弾ませた。『鹿島組』の松井所長や『大林組』の皆川社員たちが挨拶に来た。俺たちは斎藤連隊長に挨拶したかったが、斎藤連隊長の方が、西義一中将や林満鉄総裁たちの相手をしていて、近づくことが出来なかった。反対に思わぬ人物が白鳥健吾のところにやって来た。

「やあ、白鳥君。お久しぶり。昭代ちゃんは元気ですか?」

 その人物は満州国軍の軍服を着て、腰にサーベルを吊った男女みたいな軍人だった。その人物に声をかけられた白鳥は、真っ赤な顔になり、グラスをテーブルの上に置き、直立不動になって答えた。

「はい。姉は元気です。男の子の母となりました」

「まっ、それはおめでとう。君も頑張っているようだね。困った事があったら、僕の所へ来なさい。昭代ちゃんによろしく。ではまた・・・」

 白鳥は、そう言って去って行く相手を見送り、胸を撫で下ろした。俺たちが、今の風変りな満州の軍人は誰かと訊くと、白鳥は、松本に嫁いでいる姉の旧友、川島芳子だと答えた。俺たちは、あの男女のような軍人が、清朝の王女、愛新覚羅顕子だと知り、仰天した。

         〇

 『長春ヤマトホテル』に一泊した俺たちは、翌日の午前中、新京の市内観光を許された。満州国の成立により、新京と名付けられた長春の街は、めざましい勢いで満州国の首都らしく変貌しようと、あちこちで建設工事が進められていた。俺たちは新京駅前から南へ向かう直線道路を散歩した。百貨店、公園、学校、病院などが出来始めていた。満州国の国務院も、この辺りに建設予定しているという話だった。更に歩くと伊通河の支流に出た。柳が美しい。そこの上流に池があるというので行って見た。池のある所は美しい庭園になっていて、中華風の優雅な趣を備えていた。そこで俺たちは計らずしも、昨夜の祝賀会で目にした人たちに出くわした。俺たちがかしこまって挨拶すると、『鹿島組』の松井所長が声をかけて来た。

「市内観光ですか。一年前と随分、変わったでしょう。これから、もっともっと変わりますよ」

「はい。びっくりしています。すごい発展ぶりですね」

 すると一緒にいた三人も近寄って来た。そのうちの一人が昨夜と同じ軍服姿の川島芳子だったので、俺たちは驚いた。

「まあ、白鳥君。また会っちゃったね。君たちと昨夜、お会いした満鉄の理事、山崎元幹さんと林顕蔵さんです」

「朝鮮75連隊の白鳥健吾と同期の仲間たちです。この度は、自分たちを新京にお招きただき心より感謝しております。次のお役目、必ず成功させます」

「うん。よろしく頼むよ」

 山崎元幹理事が満足そうに頷いた。それから、また白鳥が川島芳子に目をやると、彼女は、偉そうに言った。

「実はね、白鳥君。僕たちは満鉄の公共的価値を満州国の大衆に理解してもらう為の映画製作会社を、ここらに建設しようかと、下見に来ていたところさ」

「そうですか。それはそれは素晴らしいですね。出来上がるのを楽しみにしております」

「謝々。では君たちも満州国の為に頑張ってくれたまえ」

「はい」

 俺たちは一斉に敬礼して、その場から離れた。満鉄のお偉いさん方や川島芳子に出会って興奮した俺たちは、それから満鉄の線路伝いに新京駅に向かい、『長春ヤマトホテル』に戻り、早めの昼食を済ませた。そして午後1時、俺たちは新しい役目を仰せつかって、満州国の首都、新京から豆満江方面へと東方に向かう汽車に乗った。車窓に移り変わっていく景色を眺めながら、これから延吉に戻って、どうなるのだろうかと想像し合った。人生は、他人によって思わぬ方向へと変化して行くものだ。局子街の分隊に戻ると、夜遅いのに、部下たちが起きていて、新京からの呼び出しが何であったかを訊かれた。俺は敦図線が開通したので、今度は図佳線の鉄道工事が始まることになり、新しい特別守備隊がやって来ると話した。部下たちは、また新しい特別守備隊がやって来て、共匪との戦闘が拡大するのではないかと心配した。そこで俺は、この前の汪清村での赤色革命軍の討伐で、敵が黒竜江の上流方面に移動しているらしいと部下に説明した。それから数日後の5月20日、俺たちの新しい任務先が決定した。俺たちの分隊は、局子街から琿春の北方特務機関本部と一緒の駐屯所勤務となった。この移駐は、間島、琿春地区を、朝鮮に併呑しようかという計画でいるかのように思われた。兎に角、日本国政府が、ソ連国境の朝鮮の共産化とソ連軍の侵攻を阻止する為に、神経を尖らせていることには間違い無かった。俺たちは5月末までに移動すべく活動した。特に間島の満州国軍憲兵隊の吉興司令官と林徳源主任には、間島特設収容所に服役中の者たちが更生した時、満州国の為に貢献出来る職場に配属してもらうようお願いした。また敦図線の駅関係者と飛行場工事の関係者に守備担当を外れる旨の挨拶をして回った。俺の部下たちも、知人に挨拶して回った。渡辺松太郎や筒井恒夫は趙知英や李善珠と別れるのが辛そうだった。人により、立場により、移駐に対する思惑はいろいろだった。だが、この任地変更は満州国の発展を進める為の対ソ戦備強化に相違なかった。関東軍が中国軍と対峙している時、背後からソ連軍に襲われたら、折角、誕生した満州国が、壊滅の危機に瀕するからである。

         〇

 俺たちはソ連軍の動きに重点を置き、ソ満国境の守備を固めて来たが、中国との関係も気がかりでならなかった。関東軍は熱河作戦で満州国に攻め入ろうとする中国国民政府軍を万里の長城以南に追いやったのであるが、国民政府軍が再び大軍を差し向け、万里の長城から満州に攻撃をしかけて来た。その為、関東軍は満州国軍と共に万里の長城を越え、北平近くまで迫った。日本の振武学校で学び関東軍の力を知っている蒋介石は、日満連合軍との戦闘を好まなかった。それより、中国の内乱を鎮圧する方が優先課題だった。その為、満州国には、そのまま静かにしていてもらい、先ずは江西省をはじめとする共匪の反乱を制圧することが重要であると考えた。これらの考えから蒋介石は5月31日、日本と塘沽停戦協定を締結し、華北問題を結着させた。それは日中間において満州事変が事実上、解決した形となった。結果、満州国は日々、その存在を世界に顕示し、中国の隣国としての輝きを増した。だが蒋介石は分離した満州国に負けてはいられなかった。何としても中国の内乱を鎮圧せねばならなかった。その為、アメリカから五千ドルの借款を受けることにし、ソ連軍に後押しされた『反蒋抗日組織』の撃退に力を注いだ。それに対し、ソ連もソ満国境に主力部隊を集中している日本軍を回避し、上海から瑞金に移動した共産党地下組織を拡大させる為に、蒙古方面から支援した。ソ連やアメリカにとって、支那人は御しやすかった。金銭や食料を与えれば、直ぐに仲間を裏切った。国民党軍の指揮官でも、共産党軍の指揮官でも、欲しい物を与えれば、言う事を聞いた。孫文の教えに感激し、日本に留学しフランスでも学んだというのに、ソ連の口車に乗って、共産党軍に加わった周恩来のような男もいた。兎に角、中国は松岡洋右全権大使が国際連盟の会議場で発言したように、清国滅亡後の無政府状態から抜け出せず、内乱が続き、平和に暮らしていた支那人までが満州国に逃げ込んで来る有様であった。このような状況が世界に気づかれない筈がなかった。困っている世界の人たちが、五族協和を提唱する満州国を目指した。迫害されず、安心して暮らせる土地を求めて、あのユダヤ人までもが、キリスト教徒の少ない満州を目指してやって来た。その満州国の発展の様は欧米諸国やソ連に羨望を抱かせた。このままではアヘン戦争以来、中国を植民地化しようとして来たイギリス、フランス、アメリカ、ポルトガル、ソ連は日本の力によって、中国が日本の連合国になってしまうのではないかと危惧した。その為、イギリスとアメリカは国民党軍を懐柔することを企んだ。ソ連は共産主義を信奉する毛沢東を前面に押出し、蒙古に支援軍を駐留させた。こうした動きはスイスのジュネーブ軍縮会議に出席したことのある軍事参議官、松井石根たちには簡単に分かることであった。松井石根は、この状況にどのように対処すべきか、学者、中谷武世、中山優や政治家、広田弘毅や軍人、本庄繁、荒木貞夫、本間雅晴らを集め、『大東亜協会』なるものを発会し、アジアの平和を招来するには、どうすれば良いかを議論した。そこでの議論内容は、世界はイギリス、フランスを中心にしたヨーロッパ圏、東欧を含むソ連圏、カナダ、ブラジルを含むアメリカ圏、エジプトを中心にしたアフリカ圏、日本、中国、タイ、インドを中心にしたアジア圏の五大ブロックに分別されており、各ブロック内での諸問題は、そのブロック内で解決されるべきであるという世界観で一致した。インドやインドネシア、セイロンを植民地にしているイギリス、フランス、オランダのように、自国の国益しか考えないで、他のブロックに入り込み、武力をもって平和を攪乱することは、如何に列強国といえども許されることでは無いと、蒋介石にも理解させなければならないという意見が出た。それはアジアブロック各国が一つにまとまるという大東亜共栄圏の構築と日中親善論の発想だった。この考えは満州の片隅に駐屯している俺たちのところにも流れて来た。果たして、この考えが塘沽停戦協定によって結ばれた満州と中国の武力衝突の再発を防止出来るかは、はなはだ疑問に思われた。何故なら多くの中国国民が、蒋介石の中満問題の解決策の協定を、弱腰と叫んでいるからであった。この満州国軍と日本国軍連合から蒙った恥辱を、強気の蒋介石が、名誉挽回の為に、何時かひっくり返そうとするのではないかという懸念は、満州を守備する俺たちには心配でならなかった。御年三十一歳の若き天皇が、日本国の国際連盟脱退という世界での孤立を覚悟して決断をし、独立を承認した満州国である。是非とも繁栄して欲しい。俺たちは中国と満州国の相互が、ただ慎重であることを願うばかりであった。

 「満州国よ、永遠なれ」前遍終了