倉渕残照、其の一

その他


 安政5年(1858年)4月23日、彦根藩主、井伊直弼は将軍、徳川家定の推挙により老中から大老役を拝命し、大老に就任した。時代は清国と戦争している欧米諸国が、日本の開国を要求して来ている最中で、徳川幕府内は攘夷派と開国派に分裂し、混乱していた。時の天皇、孝明天皇は、この神の国を野蛮な外国人に汚されてはならぬと、条約の勅許を許さなかった。京から出たことの無い孝明天皇や公家たちは、天狗のような顔をした異国の連中との接触を嫌った。ところが6月中旬、米国のハリスがやって来て、清国との戦争に勝利した英仏連合艦隊が日本に来航し、前年に結んだ下田条約より厳しい内容を要求して来るであろうから、速やかに米国と条約を結び、英仏連合に備えるべきだと条約の調印を迫った。条約の内容は目付の岩瀬忠震と下田奉行、井上清直が交渉し、ハリスに草案を作成させていたので、直弼は御使番、小栗忠順等を引き連れ、岩瀬忠震、永井尚志、水野忠徳、森山多吉郎らに命じ、6月19日、アメリカ軍艦、ポーハタン号上で調印のサインをさせた。ハリスは大喜びし、礼砲を鳴らさせた。この勅許無しの条約に幕府内で反対する者もいたが、直弼は7月10日、オランダと、7月18日、イギリスと、8月19日、ロシアと、9月3日、フランスと修好通商条約を結んだ。その途中の7月4日、第13代将軍、家定は、直弼に後事を託し、在位5年で病死した。続いて和歌山藩主、徳川慶福が、名を家茂と改め、第14代将軍となり、将軍職を狙った攘夷派の水戸一橋派は直弼により、政治から遠ざけられた。紛糾していた外国との条約問題は、その内容に問題はありはしたが、こうして決着した。だが直弼の勅許無しの外国との条約調印に反発し、京都に行き、孝明天皇に訴え、幕府を攻撃する水戸の者や学者に直弼は痛烈な弾圧を断行した。水戸の徳川斉昭は謹慎、徳川慶篤と一橋慶喜は登城禁止、公家たちの謹慎、幕臣の反論者の謹慎又は隠居、民間志士、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らを捕縛。その他、検挙者を切腹、死罪、遠島など、安政の大獄を行った。井伊直弼は御使番の小栗忠順にぼやいた。

「日本国と徳川幕府維持の為には尊王攘夷論者を排除しないことには、やっていけない。どのように批評されようが、徳川幕府は世界に目を広げ、国民が豊かに平和に暮らせるよう努力せねばならない。水戸の京都びいきには困ったものだ。そなた等、若者には世界を闊歩し、日本国の発展の為に頑張って欲しい。朝廷は権威を口にするだけで、武力も無ければ、知識も資金も無い。我々は、開国し、海外の文化文明を導入し、修好通商条約を結んだ国々と比肩する国家に日本国を作り上げなければならない。それが徳川幕府の使命だ。その為に、私は、有能な若者を海外に派遣するつもりじゃ。どうであろうか?」

「恐れ入り奉ります。世界に目を広げ、幕府主導で国家を牽引するお考えに、私も同感です」

 忠順は直弼の顔色を窺いながら、恐る恐る答えた。すると直弼は嬉しそうに頷いた。

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 井伊直弼は自分の考えを実行した。人事も直弼の思いのままだった。第14代将軍、家茂は直弼に頼りっきりだった。安政6年(1859年)に入ると井伊直弼の弾圧は厳しさを増した。その為、水戸、尾張、越前をはじめ、全国からの不平不満が高まった。江戸や横浜はまだ安政2年(1855年)10月2日の大地震から完全に復興しておらず、町人や農民たち住民が困窮していた。そんな中、外国の使節などが、江戸や横浜にやって来て、重要な寺院や邸宅に逗留し、我がもの顔で動き回っているので、国民たちは、幕府は何をやっているのだと陰口をたたいた。特に長逗留している外国商人が、景色の良い所に華やかな邸宅を構え、日本人女性を囲い、日本人男性をこき使っている様子は、若者たちには我慢ならなかった。外夷撃つべし。幕府倒すべし。その不満の動きは直弼にも届いていた。だが直弼は、外国との交渉に力を入れた。進歩的な若者に言われるまでも無く、日本国の文化文明は欧米諸国に遅れていた。国の指導者は何も分からぬ天皇や公家の意見や世論に惑わされること無く、国家の理想を求め、未来を築かなければならなかった。直弼は小栗忠順に、こう言った。

「欧米諸国は、アジアの征服、植民地化を画策している。今は、大人しく近寄って来ているが、いずれ本性を現す。よって我々は、その前に彼らから多くの技術を学び、我が国の経済力と工業力と武力を構築せねばならぬ。我が国の自立自衛の為に、まずは彼らの模倣をすることだ」

「仰せの通りで御座います。海外に有能な若者を送り込み、海外の技術知識を一時も早く習得させるべきです」

「そなたが、亡き家定公に、海外との貿易なるものは座して待つべきものにあらず。我から進んで海外に渡航し、通商貿易を成すべきものなりと提言した事、家定公より、さんざ聞かされた。またその為には北前船のような船でなく、欧米のような三帆柱船が必要であり、大型船の製造の禁を解き、大いに航海を奨励すべしであると具申したとか」

「はい。我が国は四方が海ですので、造船に力を入れないことには始まりません」

「そうだよな。オランダ海軍の伝習を受ける為に、幕府は勝驎太郎を長崎に遣わしたが、何を気に入ったか、奴は九州をうろつき回っていて、戻って来ない。船乗りとしての経験も出来ただろうから、そろそろ江戸に呼び寄せ、軍艦操練所で海軍技術の指導と造船計画をさせようと思っている」

「それは良い考えに御座います」

 小栗忠順は、大老、井伊直弼の決断の速さと、その行動力に感心した。このような直弼との関係もあって、9月12日、忠順は本丸御目付、外国係役を仰せつかった。そして同日、井伊大老の他,老中列席の『芙蓉の間』に於いて、日米修好通商条約批准の為、渡米することを命じられた。当然ながら、その為に用意すべき仕度をするよう言い渡された。忠順の心は躍った。このことを妻の道子に話すと信じられ無いと言って笑われた。道子は夫の渡米を直ぐに弟、日下数馬に話し、六歳の数馬の娘、鉞子を見立養子に決めた。海外へ行く忠順との間に子供がいなかったので、万一の事を考え、家名断絶の無きよう養子の届出をする為であった。12月1日、西の丸の『白書院』にて将軍、家茂より、直接、アメリカ派遣を命ぜられ、金十枚と時服羽織をいただいた。12月24日、アメリカ派遣の正使、新見正興、副使、村垣範正及び木村喜毅と共に横浜に赴き、ポーパタン号に乗船し、ジョサイア・タットノール提督と渡米についての詳細打合せを行った。

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 万延元年(1860年)小栗忠順ら、アメリカ出張使節の一行は、慌ただしい正月を迎えた。日米修好通商条約の批准書の交換をする為、使節団メンバーの全員が、アメリカ軍艦、ポーパタン号に乗船することになっていたが、同艦の随伴艦として、咸臨丸を練習航海も兼ねて,派米することになった。この咸臨丸には副使兼司令官の軍艦奉行、木村喜毅の他、艦長の勝海舟、通訳の中浜万次郎、航海アドバイザー、ブルック大尉、オランダ語通訳、福沢諭吉などが乗り込み、1月19日、浦賀を出航した。正使、新見正興、副使、村垣範正、監察、小栗忠順ら六十余人は1月18日、築地講武所より、品川沖に停泊中のポーパタン号に乗船し、横浜に4日停泊した後、2月13日、サンフランシスコに向けて出港した。小栗忠順の従者は吉田好三郎他、八名だった。小栗忠順は船が横浜を出ると、前方に大海原が広がり、白雪を被った美しい富士山が自分たち一行を見送っているのを振り返って眺めた。そして一人呟いた。

「行って来るぞ」

 そうは呟いたものの、もうこのまま日本に戻ることが無くなるのではなどと、不安に襲われた。ポーパタン号が陸地から遠ざかるに従って、早くも望郷の念を覚えた。船旅は簡単なものでは無かった。途中、海が荒れ、船が大きく揺れる日が続いた。忠順は船酔いして吉田好三郎たちに面倒を見て貰った。それでも異国の地を踏めるかと思うと、忠順の胸は期待で膨らんだ。小さい船はもっと揺れるらしいが、咸臨丸は大丈夫だろうかと、忠順は心配した。

「咸臨丸の木村たちは大丈夫だろうか?」

「大丈夫ですよ。勝艦長が指揮しておられるのですから」

 ポーパタン号は2月14日、ハワイのホノルルに到着。途中、激しい嵐に遭遇し、石炭を使い過ぎたので、石炭補給の為、ホノルルに寄港。18日、ハワイ国王カメハメハ4世に謁見。2月20日、ホノルルを出航、3月9日にサンフランシスコに無事入港した。先にハワイに寄らず、サンフランシスコに直行した咸臨丸の連中に会うと、彼らは2月26日にサンフランシスコに入港したとのことであった。久しぶりに会った軍艦奉行、木村喜毅は忠順の顔を見るなり言った。

「小栗さん。心配しておりましたよ。良かった。良かったです。10日も経つのに、やって来ないから、嵐で船が沈没したのではないかと心配しておりました」

「うん。凄い嵐に遭遇して、船から放り出されそうになったよ。死ぬのを覚悟したよ。それに石炭を使い過ぎてな。ハワイ島に一時、避難した。その為、遅くなってしまった」

「そうでしたか。我々も大変でしたよ。嵐になり、船が大揺れして、肝心な艦長の勝さんが船酔いにかかり、操縦が出来なくなり、ブルック大尉に助けてもらったよ。ブルック大尉は勝さんのことを、役に立たない人だと言っていた」

「そうですか」

「ブルック大尉は、我々が乗船して来て良かったと、日本海軍の航海の未熟さを笑っていたと、万次郎が言ってました」

「勝さんが船酔いとは、困りましたな」

 忠順が、そう答えると、木村喜毅はため息をついた。サンフランシスコで合流した日本人使節団一行は、サンフランシスコ市民の熱烈な歓迎を受けた。それから咸臨丸はサンフランシスコの工場で破損個所を修理して、帰国することになった。忠順は親しくしている木村喜毅に言った。

「ハワイは良い所だぞ。帰りはハワイに立ち寄り、慌てず、ゆっくり、楽しんで帰った方が良い」

「はい。そうします。では、小栗さんも、気をつけてワシントンへ行って下さい」

「ありがとう。ではまたな」

 日本使節団は咸臨丸一行と別れると、3月18日、再びポーパタン号に乗ってパナマまで行き、下船し、ポーパタン号の人たちと別れ、汽車に乗って大西洋岸、アスピンウォールに出た。そこで米艦ロアノークに乗船。25日、ワシントンに到着した。ワシントンでの市民の歓迎ぶりはこれまた凄かった。小栗忠順は使節団の重役なので、四頭馬車に乗り、徒歩の従者と共に、ウイラードホテルに入った。それから数日、休養し、3月28日、ホワイトハウスで米国のジェームズ、ブキャナン大統領に謁見。国書奉呈の儀があり、忠順は正副使同様、狩衣、鞘巻太刀姿にて式に参列した。そして4月3日、条約文書交換の為、国事館に行き、アメリカの国務長官、キャスとの間で、日米修好通商条約批准書の交換を行った。忠順も署名をした。批准書の交換を無事終え、重役三人はほっとした。4月5日、ワシントンの海軍造船所を訪問。フランクリン・ブキャナン提督と会談後、工場見学。忠順はこの海軍造船所の様子を頭に刻み込み、ホテルに戻ってから吉田好三郎と絵にまとめた。またワシントン市内に滞在した数日間、街の風景をスケッチした。4月20日、ワシントンを出発。ボルチモアに行き、歓迎を受け一泊。21日にボルチモアを出発し、フィラデルフィアに着き、コンチネンタルホテルに宿泊。翌日、金貨製造所へ赴き、米国の金貨と日本の金貨を比較し、割合相場の確認を行った。4月28日にはニューヨークに入り、市民の大歓迎を受けた。またニューヨーク州陸軍師団八千の閲兵を行った。5月8日、九階建てのメトロポリタンホテルにて歓迎舞踏晩餐会が催され、一万人以上、出席の祝賀会となった。妙な料理とアメリカ人男女の踊るダンスに、日本使節団の男たちは目を回した。また製鉄工場なども見学し、ボルト、ナット、ネジ、ワッシャー類を見せてもらい、忠順は感心した。ニューヨークでいろんな事を学んだ後、5月13日、使節団一行はウィリアム・マッキーン大佐の指揮する米艦、ナイアガラ号に乗って大西洋を越え、アフリカに向かった。地球は円いというが、本当にこのまま東方へ向かって大丈夫だろうか。ニューヨークを出港してから、目の前にあるのは来る日も来る日も果てしない海。真っ赤な太陽が海面から浮かび上がり、一日中、照りつけ、夕方、海に沈んで行く。その後は漆黒の海。船室内での睡眠。眠りから覚め、起床すると、まだ大海原の上。海面から太陽が浮かび上がって来る繰り返し。そんな船旅は時々、大荒れしたりしたが、何時しか皆、慣れっこになっていた。そして6月7日、ようやく着いたのが、アフリカ西端、サン・ビンセント島のポルト・グランデで、ポルトガル人が真っ黒い身体をしたアフリカ人をこき使っているのを目にした。数日休んでから、また乗船し、アフリカ南方に向かい、6月22日、ルアンダに到着した。ここでもポルトガル人が活躍していた。鉄砲好きでポルトガル語を学んでいた忠順の家臣、木村浅蔵は物品を手に入れるのに役立った。ルアンダで物資を積み込むと、ナイアガラ号は7月11日、喜望峰を回り、アフリカの東岸、モザンビークに立ち寄り、7月20日、インド洋を東に一直線、ジャワ島に向かった。海上での余りの暑さに、頭がボーッとなった。空も海も、風も、雲も、小舟も、海鳥たちも、物珍しく無くなった。早く陸地に辿り着きたいと思った。8月16日、ようやくジャワ島に到着。翌17日、日本使節団一行はバタビヤに入り、オランダ総督の所に挨拶に伺った。オランダのヨハネス総督は美しい庭園の池の向こうの白亜の殿堂『ボゴール宮殿』で正使、新見正興、副使、村垣範正、監察、小栗忠順、勘定方、森田清行、外国奉行、成瀬正典と塚原昌義の日本人使節六人と面会し、意見交換を行った。ヨハネス総督は日本人一行を心から歓迎饗応してくれた。またオランダの東方貿易の拠点としてバタビアがどのように重要であるかを説明し、管理している農地を案内してくれた。そこでは、コーヒー、サトウキビ、タバコ、茶、藍などが栽培され、ジャワ人が安い労賃で、上半身裸になって働いていた。オランダ人役人、アルデルトがオランダ語の得意な三好権三に、こっそり話したところによると、ジャワ人たちは、従来、自分たちが稲作をして来た農地が、商業作物栽培の為に奪われ、食糧に困っており、餓死者も出ているという。小栗忠順は、それを聞いて、植民地にされることが、如何に恐ろしいことであるかを知った。ジャワで十日ほど過ごした一行は、8月27日バタビアを出航。9月10日、香港着。香港の町を見物し、3日後に出発。東シナ海を北上し、9月28日、左厳に出迎える藍色の富士山を眺めながら横浜着。翌29日、品川海軍所より、江戸に上陸。8ヶ月ちょっとの世界一周だった。忠順が帰宅すると、妻の道子を初め一家の者が大喜びしてた。懐かしかった。

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 10月2日、小栗忠順は正使、新見正興、副使、村垣範正らと共に将軍御座間に召され、帰国報告をした後、若き将軍、家茂より、金十枚、時服三の恩賞をいただいた。また上州多野郡森村、小林村の二百石を加増された。忠順は皆と共に帰国の成果を喜んだが、一番、喜んでくれる筈の大老、井伊直弼が自分たち一行が不在中の3月3日、桜田門外で殺され、この世にはおらず、残念でならなかった。井伊大老の不幸は、帰国途中の香港で耳にし、愕然としたが、本日、若き将軍に、これからも日本国の為に尽力するよう仰せつかり忠順は直弼の分まで、自分が精励しなければならないと思った。そんな忠順の所へ多くの若い幕臣たちが、世界の動向を知りたくて、集まって来た。アメリカに行く時、咸臨丸の司令官を務めた軍艦奉行、木村喜毅もやって来た。

「小栗さん。日米修好通商条約批准のお役目、御苦労様でした。小栗さんに言われた通り、我々はハワイに立寄って帰国しました」

「それは良かった」

「ところが、帰国したら、井伊掃部頭様が雪の桜田門外で暗殺されて、国内は大騒ぎの最中。国民の多くは朝廷と一緒になって、攘夷一点張りの雰囲気で、私も勝さんも、どうしたら良いのか、迷いました。アメリカから帰国した我々に攘夷派の者たちが攻めかかって来ようとする勢いでした」

「なんという愚かな連中だ。それで、どうされた?」

「勝さんが、そいつらを怒鳴りつけました。俺たちは咸臨丸に乗ってアメリカに行ったが、その目的は、アメリカと通商条約を批准する為に出かけた連中と違う。俺たちは幕府海軍を強化する為の太平洋横断訓練に出かけたのじゃ。我が国の海軍を強化しようと励んでいるその俺たちに刃向かおうとは、何を考えているんじゃ。てめえらはめくらかってね」

「勝さんが、そんなことを」

「そしたら攘夷に燃えている連中は、御見それしましたと言って、深く頭を下げて退散したよ」

「それは見物だったな」

 忠順は、木村喜毅の話を聞いて、勝先輩らしいなと笑った。すると急に木村の声が変わった。真剣な目つきをして、囁くように言った。

「そんな訳で攘夷論者からの咸臨丸組に対する襲撃は阻止されたが、小栗さんたちに対する尊王攘夷派の怒りは激しく燃え上がっている。身辺警護の護衛を増やし、用心することを、お勧めします。それを伝える為に、本日、お伺いした」

「ありがとう。木村さんの言われる通り、注意しよう」

 そう言われると忠順は大きくうなずいた。それから妻、道子に酒を用意させ、木村喜毅と二人でアメリカ渡航の思いで話に花を咲かせた。そこへ元小栗家の中元だった関口松三郎が名を三野村利八と変え、忠順の外遊話を聞こうとやって来た。忠順は利八を仲間に加え、酒を楽しんだ。利八が金貸業をやっているので、アメリカでは金の価値が日本の三倍すると利八に話してやった。すると利八は天保小判を買い集めると儲かるかななどと冗談を言った。道子は、そんな仲間たちと話す忠順の笑顔が好きだった。

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 小栗忠順は尊王攘夷の過激派を恐れた。若い時から怖いもの知らずの忠順であったが、木村喜毅の忠告を聞き、身辺を警戒するべきだと思った。それは小栗家の家族及び従者の為を考えてのことであった。そこで忠順は、「海保塾」の根岸忠蔵に言って、かって父、忠高の用心棒をしてくれていた山田城之助に、数人の強者を小栗家の警備人として選び、江戸に連れて来るよう依頼した。その依頼を受けた城之助は悩んだ。誰を出そうか。いろいろ志望者を募ったが、異国人の出入りする江戸行を希望する者はいなかった。城之助は命の恩人の依頼とあって、傳馬継ぎ手『新井組』の仕事を子分、清水平七に任せ、自ら江戸へ行くことを決めた。まだ若い横川村の島田柳吉がお伴をしますと言ってくれたのは有難かった。攘夷に燃える憂国の志士を語る過激派の連中から、小栗家への襲撃を阻止することは、自分が今まで経験して来た博徒集団との出入りとは規模が違うに違いなかった。危険だった。城之助は江戸へ向かう道々、考えた。途中、強そうな奴がいたら、仲間に加えようと目を光らせた。高崎を越え、新町宿で一泊し、翌朝、しばらく行った所ですれ違った百姓が木刀を持っていたので、何処へ行くのかと訊いたら、今から『尾高道場』へ剣術修業に行くところだと答えた。城之助と柳吉は、その百姓と『尾高道場』へ行った。安中の『根岸道場』とは全く違う、小さな村の道場だった。師範代、尾高新五郎が剣術だけでなく、思想的な講義を行っていた。その師範代が、拳を上げ、弟子たちに向かって、午前中から幕府の政治批判をしているので驚いた。

「暗殺された、井伊大老の開国路線を積極的に推し進めているいる安藤対馬守は尊王攘夷の敵である。我が国を夷敵から守る為には、安藤対馬守、暗殺を急がねばならぬ」

 城之助と柳吉は、尾高新五の弁舌を聞いて、これは自分たちが、これからお仕えする外国帰りの小栗の殿様とは正反対の考えをしている連中だと気付いた。強そうな奴もいたが、仲間に加えるのは危険だと思った。残念がって晩秋の空を眺めると、秩父の山の上に丸い雲が浮かんでいた。その雲の形が、あの根岸友山の屋敷で出会った秩父の田代栄助の顔に似ていた。城之助はかって桶川まで行く途中、栄助を褒めたことを思い出した。

「おめえの腕は大したもんだ。俺たちが人探しを終えて、上州に戻ったら、秩父のおめえと、何かでっけえ仕事をやりてえな」

「そういつは面白れえな。何時でも声をかけておくんなせえ」

 そう言って答えた田代栄助は秩父にいるだろうか。城之助は笑みを浮かべた。

「秩父へ行ってみべえ」

「江戸へ行くのに遠回りになりますぜ」

「良いことを思いついたんだ。秩父へ行くぞ」

 城之助は中仙道から右に折れ、秩父山の麓にある熊木村に向かった。裸の桑の木畑の中の道を寄居まで行き、そこから荒川沿いに武甲山を目指して進んだ。途中、村人に訊くと、村人は田代栄助の家を詳しく教えてくれた。田代家は忍藩の名主を務める家柄で立派な門構えの家であった。城之助が尋ねると、栄助は抱き合うようにして、城之助を迎えた。八年ぶりの再会を喜び合った。栄助は根岸友山のもとで修業をした後、家に戻り、妻を娶り、父、勇太郎から村の役目の指導をしてもらい、のんびり暮らしていた。城之助は、八年前、武井多吉と江戸に向かってから、小栗忠順に助けてもらった話など、自分の過去と、今度の江戸行きの話をした。そして、小栗家の用心棒に相応しい気骨のある奴が秩父にいないか、尋ねた。すると、栄助は目を輝かせた。

「面白れえ話だ。だが田舎者の俺たちに江戸のお侍のお相手が務まるだろうか」

「大丈夫だ。俺が出来たんだから心配はいらねえ」

「じゃあ、井上類作に話してみよう」

 栄助は、そう言うと下働きの弥助に、井上類作を呼びに行かせた。その間、田代家の女衆が、城之助たちの為に夕餉の仕度をして、酒と肴を載せた盆を客間に運んで来た。そこへ栄助の父、勇太郎も加わり、世間話をした。勇太郎は息子の遠方からの客を喜んで迎え、酒を勧めた。城之助は、芋と蒟蒻の煮付けをいただきながら、あたりさわりのない話をした。そして井上類作が現れたところで、江戸行の話をした。井上類作は商家「丸井」の息子で、精悍な栄助の顔と異なり、顔は笑っているが慎重だった。

「江戸のお武家様の用心棒とは、どのようなお役目になりますか?」

「小栗家江戸屋敷の警備や小栗様が外出される時の警護のお役目が主な仕事になります。後は、剣術、弓術、砲術の稽古と儒学の講義を受けるくらいかな・・・」

 この城之助の説明に栄助と類作は目を輝かせた。若い二人は江戸に興味があった。特に類作は、家業が商家とあって、江戸や横浜で、どんな外国との物品の売り買いがされているのか、直接、確かめたかった。

「勤務の無え時は、自由に外に出られるんかな?」

「ああ、大丈夫さ。許可を申し出れば良いんだ」

「横浜にも行けるんか?」

「横浜に書類を届ける仕事もあるんじゃあねえのかな。小栗様は世界一周して来た偉いお方だ。異人とのやりとりも成されるに違いねえ」

「それは面白えな。そんじゃあ、親父を説得し、お武家様の手伝いをしてみるか」

「本当か。本当に行ってくれるか」

「滅多にねえ話じゃあねえか。剣術を身に着け、学問を習えて、異人と交流出来るなんて、良い話だ。小栗様を狙う無法者など、俺は怖かあねえ」

 井上類作は乗る気になった。城之助は仲間が増え、秩父に来て良かったと思った。だが栄作は思案中だった。酒を飲み、類作と城之助の話を羨ましそうに聞いていた。勇太郎は、黙りこくっている息子、栄助の気持ちを読んだのだろう、じれったくなって、栄助に訊いた。

「栄助。お前も行きてんじゃあねえのか?」

 栄助は父親の顔を見て、酒をぐっと呑み込み、父親に質問した。

「そうは言っても、俺がいなくなったら、田代家のお役目は、どうなるんだい。それじやあ、大変だんべ」

「なあに。心配することはねえ。俺はまだ若い。それに弟たちもいるじゃあねえか。心配無用じゃ。お前を見込んで、はるばる、友がやって来たんだ。行きたければ行くが良い」

「本当に良いのかい」

「ああ、良いとも。但し二年じゃ。二年なら『丸井』の旦那も許してくれるだろう」

 勇太郎は、そう言って、含み笑いをした。村の若い二人が、旗本の屋敷に奉公出来るということは、村の将来に役立つに違いない。城之助は、栄助の父、勇太郎の懐の大きさに感激し、床に手をついて礼を言った。

「有難う御座います。二年間、栄助さんたちを、お借りします。その間、よろしくお願い致しやす」

「良いですとも。お武家様に奉公して、いろんなことを伝授していただければ、めっけもんさ」

 勇太郎は城之助と柳吉に、笑顔で酒を注だ。城之助は、城之助は、その酒を有難く盃で受けた。柳吉もまたぺこりと頭を下げ、勇太郎の酒を受けた。秩父への訪問は、こうして成功した。

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 10月末、小栗忠順は懐かしい山田城之助を小栗家に迎え、城之助が連れて来た三名を城之助と共に、二年間、召し抱えることにした。このことにより、過激派への備えが整って、気分的に少し楽になった。この頃、隣国、清では英仏軍に北京を占領され、乾隆帝時代の繁栄を象徴する離宮、『円明園』を焼き払いわれ酷いことになっていた。英仏公使は、清朝の咸豊帝の弟、恭親王と天津条約の批准書の交換と北京条約の調印を行った。このことにより、清国は天津の開港、香港島の対岸、九龍の割譲、苦力の海外労働の公認、賠償金支払いなど、無茶な要求を約束させられた。またロシアは黒竜江以北の領土及びウスリー河東岸を手に入れた。この隣国の出来事を知るや忠順は日本国が危機的状況にあることを痛感した。国内を固め、一刻も早く世界列強に伍する体勢を整えないと、日本国は欧米人たちの植民地にされてしまうと危惧した。そのことは日米修好通商条約批准の為に、世界を見て来た使節団の報告により、徳川幕府も充分に理解していた。無知な朝廷など、あてにしている時では無かった。それ故か11月8日、小栗忠順は外国奉行に任じられた。早速、諸外国との交渉を開始した。そんな矢先、12月4日、外国人殺傷事件が起きた。芝赤羽のプロイセン王国使節宿舎からアメリカの公使館の置かれた善福寺への帰途、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳官、ヒュースケンが、攘夷派の薩摩藩士に斬られ、翌日、死亡した。この為、小栗忠順は直ぐに吉田好三郎、塚本真彦、山田城之助らを引き連れ、善福寺に駈けつけ、総領事、ハリスに詫びた。ハリスは条約を結んだというのに、何でこんなことにと嘆き悲しんだ。忠順はハリス総領事と話し合い、ヒュースケンの慰労金、4千ドル、ヒュースケンの母、ジョアンナへの扶助料、6千ドル、合計1万ドルを弔慰金として幕府から支払うことで事件を落着させることにした。ヒュースケンの葬儀は12月8日、、各国外交官列席のもと行われた。忠順は新見備前守、村垣淡路守、高井丹波守、滝川播磨守ら外国奉行と共に葬儀に列席した。善福寺は土葬が禁じられていた為、忠順の指示により、ヒュースケンの亡骸を善福寺から白金よりの土葬が可能な光林寺へ移すことになった。小栗家の家臣たちが、その移動を行った。田代栄助がプロイセンが用意した棺箱を担ぎながら城之助にぼやいた。

「初めっから、こんな仕事かよ」

「大変なのは、これからだ。襲撃した奴らを捕まえないとな」

 城之助は、栄助たちに笑って答え、棺箱を覆うアメリカ国旗を抑えながら、プロイセンの軍楽隊の音楽に合わせ、プロイセンの水兵やオランダの水兵たちの隊列と共に白金に近い光林寺へ向かった。忠順は、家臣を増やしておいて良かったと思った。そして、12月14日、忠順はヒュースケンに通訳してもらっていた、プロイセンとの修好通商条約をプロイセンの全権大使、オイレンブルグ伯爵と老中、安藤信正、外国奉行、村垣範正らと共に調印した。目まぐるしい忠順の一年はこうして暮れた。

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 万延2年(1861年)、新年になると、ヒュースケンが殺害されたことにより、アメリカ軍が攻めて来るのではないかと噂され、朝廷は不吉を恐れ、万延の元号を改元しようかと検討を始めた。だが朝廷が恐れていたアメリカは南北戦争の為、国内が乱れ、それどころでは無かった。その代わりにロシア軍艦、ポサードニック号が2月3日に対馬の尾崎湾に来航。対馬を占領した。それは太平洋側にロシアの不凍港を確保する為のものであった。朝廷は不吉を消そうと、2月19日、急遽、検討していた元号を文久と改めた。そんなことで、国難を防ぐことは出来ない。対馬藩主、宗義和はロシア軍艦に速やかに退去するよう抗議したが、難破して寄港したので、修理工場と食料及び遊女を要求した。3月4日には芋崎に上陸し、無断で兵舎の建設を開始した。さらに船体修理工場、練兵場なども建設した。4月3日には、海岸にロシア国旗を掲揚した。朝岡譲之助、大浦教之助、平田茂左衛門らがポサードニク号退去を通告したが、退去の気配無く、紛争に発展しそうになった。藩主、宗義和はロシアとの紛争を避ける為、藩内住民には軽挙を戒め、一方で、長崎奉行、岡部長常に救援を求めた。事件を知った松平春嶽は、この危機を救うには朝廷が中心になり、軍備を充実し、強力な兵器の開発を進め、徳川将軍などをあてにせず、天皇が諸藩を率いて外敵に立ち向かう、尊王攘夷の行動をせねばならぬと、公卿たちに吹きかけた。だが如何にしてこの救国行動をとるべきか、京都の朝廷で、分かるものはいなかった。結局、徳川将軍に外国軍討伐を頼るしか方法が無かった。幕府はこのロシア軍の暴挙を阻止させる為、函館奉行、村垣範正に命じ、函館駐在のロシア総領事、ヨシフ・ゴシケービッチにポサードニック号の対馬からの退去を要求した。また外国奉行、小栗忠順を対馬に派遣し、事態の収拾にあたらせることにした。忠順は、この命を受け、アメリカに派遣された時、特に親しくなった軍艦奉行、木村喜毅に依頼し、咸臨丸を対馬に出してもらうことにした。木村は忠順の依頼とあって、部下の小野友五郎を艦長として咸臨丸を対馬に向かわせる手配をした。5月7日、忠順は、日本国にも軍艦があることを、ロシア軍に示す為、目付、溝口八十五郎と共に、家来六十人程を連れて、対馬に向かった。5月10日、咸臨丸で対馬に到着した忠順は、早速、ポーサドニック号の艦長、ビリリヨフと会見した。この第一回の会見で、ビリリヨフ艦長は、対馬藩主,宗義和にロシアからの贈物があるので、宗義和藩主への謁見を強く求めた。オランダ語の出来る三好権三の通訳で何とか、交渉が進み、忠順は、対馬藩主との謁見を許可することにし、対馬藩主と日程を調整すると答え、時間稼ぎをした。そして対馬藩主、宗義和と相談したが、ロシアが対馬北端の芋崎地区の租借を求め、強引に建物を建てたり、食糧を強奪したり、狼藉を働き、ロシア軍の無法ぶりは許せぬ行為であると知った。5月14日の第二回目の会見で忠順は、対馬藩主と面談した結果、ロシア兵の無断上陸と不法行為は条約違反であり、ロシア兵をポサードニック号に直ちに戻すよう抗議した。だが、話がこじれると三好権三の通訳では不十分だった。その為、忠順は安政5年(1858年)ロシアのアコリド号が下田に来航し、船員10人程が病気になり、稲田寺で看病させた折、ロシア人監督を担当させた志賀浦太郎を急遽、呼び寄せ、5月18日、第三回、会見を行った。忠順は対馬藩主の謁見を認めることは、ロシア軍の対馬居留を認めることになるとの理由を言わず、対馬藩主との謁見は不可能になったとビリリヨフに回答した。ビリリヨフは、感情を露わにした。

「小栗。お前は対馬藩主との謁見を許可したではないか。何故、謁見出来ないのか。その理由を言ってくれ」

「それは申すまでも無く、前回の会見で、艦長に伝えたことが、実行されていないからである。艦長の部下たちの島民への乱暴は使節である艦長への信頼を失い、あなたを使節として、お迎え出来なくなったと、御理解下さい」

「小栗。お前は一旦、約束した事を、反故にするのか。我々は日露修好通商条約をもとに対馬藩と交流する為にやって来たのだ。それこそ、条約違反ではないか」

「何を申されても、信用を失った艦長と対馬藩主との謁見は出来ません。一旦、ロシアにお帰り下さい」

「ならば、こちらは居続けるだけだ」

「ビリリヨフ。私はあなたを使節と認めない。私はあなたの相手をせず、江戸に戻る。私が気に喰わなければ、私を射殺しても構わないぞ」

 外国奉行、小栗忠順は、そう言って、交渉を打ち切り、対馬藩家老、仁位孫一郎、長崎奉行、岡部長常や副奉行、永持亨次郎、肥前の代官、平田平八に対馬藩主の守備を頼み、5月20日、対馬を離れた。

         〇

 江戸の戻った忠順は、老中、安藤信正や久世広周らに、相手は、対馬の芋崎の租借を狙っており、交渉を打ち切って帰って来たと説明した。そして、対馬を幕府直轄領にすること、今回の件は、ロシア総領事を通し、正式な外交形式で行う事、また彼らの暴挙を国際世論に訴える事、更に。いざという時の事を考え、軍艦をはじめとする軍備の増強を幕府が行うよう提言した。しかし、老中らは、この意見を受け入れなかった。一方、小栗忠順に帰られてしまった対馬藩では長崎奉行もあてにならず、ビリリヨフとの謁見をせざるを得なくなった。5月26日、ビリリヨフはポーサドニク号を対馬の南部にある厳原の府中港に回航させ、部下の兵を従え、藩主、宗義和と謁見した。そして短銃、望遠鏡、火薬及びウズラなどの家禽類を献じ、対馬に長逗留させてもらった恩を謝した。その上で、ビリリヨフは芋崎地区の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進呈及び島の警備協力などを提案した。それに対し、宗義和は通訳、志賀浦太郎に、激怒して江戸に帰った外国奉行、小栗忠順を通じ、幕府と直接交渉しないと、何事も進展しないと、何度も答えさせた。ところが海軍士官ビリリヨフ艦長はロシア皇帝アレクサンドル二世の了解を得て行動しているロシア海軍大佐、リハチョフに、イギリスに対馬を奪われてはならないと、命令されているので、対馬から離れようとしなかった。外国奉行、小栗忠順は、これらの状況を一時も早く、解決させなければならなかった。そんな文久元年(1861年)5月27日、イギリスの駐日総領事、ラザフォード・オールコックが、香港から江戸に戻って来た。忠順は、それを知り、高輪の東禅寺にあるイギリス公使館に斎藤大之進、吉田好三郎、塚本真彦、大井磯十郎、福地源一郎、佐藤銀十郎、山田城之助、田代栄助ら引き連れ、挨拶に伺った。そして、その席で、ロシアの軍艦、ポーサドニク号の暴挙について、如何にすれば解決するか相談した。忠順の困った顔を見て、オールコックが笑って答えた。

「ミスター・小栗。その話は香港で耳にした。そこで私はインド艦隊司令官、ジェームス・ホープに言って、2隻の軍艦で対馬に偵察に行かせた。対馬の様子は十分に理解している。その解決方法は、我々イギリスの艦隊が行けば済むことだ」

「どうすればイギリス艦隊を対馬に派遣していただけますか」

「条件がある。イギリス軍艦の横浜常駐だ。ミスター・小栗、どうだろう?」

「私は了承したいですが、老中が、了解しないと思います」

「あなたが同席すれば、説得出来よう」

「いや。ミスター・オールコック。私が、同席しない方が、良いのです。私は、老中たちから信用されて、おりませんから」

 するとオールコックはニヤリと笑った。忠順も笑った。それからイギリス公使館で、15人程の親睦晩餐会を行った。オールコックは長崎から瀬戸内海を船で移動した後、危険を顧みず、兵庫港から陸路で江戸に戻ったと自慢話をした。また去年、富士山に登った時の自慢話をした。その話を聞いて吃驚した城之助は興奮の声を上げた。

「俺も登っていねえのに、すげえや!」

 城之助の発言を通訳されると、オールコックは良い気分になった。まさに日英の親睦の宴だった。そして、そろそろ、お開きという頃になって、一同が席から立ち上がって、握手して別れる時だった。突然、公使館の外から叫び声が上がった。

「うわっ!人殺しだ。逃げて下さい!」

「オールコック様。大変です。ライド・バイ・ザ・サムライ!」

 その叫び声に一同が凍りついた。次の瞬間、部屋のドアを突き破り、鉢巻きと襷がけした連中が、刀を振りかざし、駈け込んで来た。

「異人ども。皆殺しだ!ウォーッ!」

 その連中の前に小栗忠順が立ちはだかった。

「な、何ごとだ?お前らは何者だ!」

「邪魔立てするな。我等は攘夷の者である。そこをどけっ!」

「どかぬ。公使館の方々を傷つけてはならぬ」

「なら、お前から死ねっ!」

 そう叫んで、暴徒が忠順に斬りかかった。

「やあっ!」

 その上段からの刀を、忠順は、抜刀し、横に払った。相手は、すかさず、後退し、直ぐに突きに来た。忠順は、それを躱し、相手の顔面を斬った。

「ゲーッ!」

 忠順に斬られた男は、奇声を上げて、ドサッと仰向けに倒れた。賊の人数は二十名程であった。忠順は斎藤大之進と福地源一郎にオールコック公使を守らせ、吉田好三郎、塚本真彦、大井磯十郎らと共に賊と戦った。イギルス人の書記官、オリファントは勇敢で、乗馬用の鞭で、敵に対峙した。長崎領事、モリソンは襖の陰に隠れて、敵がオールコック公使に接近しいないよう斎藤大之進と共に防戦した。忠順は攘夷派一味と激しいやり合いとなったが、実戦に慣れている山田城之助たちを警護に連れて来て良かったと思った。敵は公使館の守備員の連中の中に任侠者のような恐ろしい気迫溢れる狂人的暴れ者が、数人いるので、驚愕し、腰砕けになった。攘夷派の浪士は、思わぬ日本人の強敵がいたので、イギリス人公使らの殺害に失敗し、逃走した。城之助らが斬り捨てた三名は、捕縛した榊鉞三郎を折檻し、水戸脱藩浪人、有賀半弥、小堀寅吉、古川主馬介であると判明した。公使館襲撃が鎮まると、忠順は駆けつけた郡山藩士、西尾藩士らと自分の部下、斎藤大之進、吉田好三郎、大井磯寿郎、佐藤銀十郎、山田城之助ら上州組に後の守備を任せ、オールコック公使に日本人の無礼を詫び、塚本真彦、池田伝三郎、多田金之助らと公使館から引き上げた。

         〇

 翌日、イギリス公使、オールコックは徳川幕府に対し、公使館襲撃事件を強く抗議し、イギリスの御殿山公使館新規建設、イギリス軍兵士の公使館駐屯の承認、日本人警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いを約束させた。この事件により、幕府内は混乱した。外国奉行、小栗忠順は、対馬事件といい、東禅寺事件といい、大問題が多すぎると、老中、安藤信正、久世広周から叱責を受けた。そして長引いている対馬問題を解決する為、6月28日、函館に出張することとなった。函館では、アメリカとの通商条約批准の時、同行した村垣範正が待っていた。忠順は、自分の目で確かめて来た対馬のポーサドニク号の艦長、ビリリヨフ海軍士官の狼藉行為を村垣範正と共に、ロシア函館領事館の駐日領事、ゴシケーヴィチに訴えた。ゴシケーヴィチ領事は、その訴えに対し、暴走しがちな海軍の連中には困ったものだと、ビビリヨフに注意すると約束した。だが忠順には信じられ無かった。忠順が困っていると、函館で地域医療や牧畜事業を行っている栗本鋤雲が、ゴシケーヴィチ領事の夫人を口説くと良いと教えてくれた。そこで忠順は通訳、志賀浦太郎を使い、ゴシケーヴィチ領事の妻、エリザヴェータ夫人にロシア人の信用を失うようなことをさせないで欲しいと依頼した。そうでないと、イギリス兵が函館にもやって来て、貴女方は殺されると嚇した。妻から日本人の強い願いとイギリスの動きを聞き、ゴシケーヴィチ領事は驚愕した。ゴシケーヴィチ領事は思案し、海軍大佐、リハチョーフを越え、コンスタンチン・ニコラエヴィチ太公に日本側の申し出を知らせ善処すると、村垣、小栗の外国奉行に返答し、幕府への返事とした。その頃、イギリス公使、オールコックは小栗忠順が函館から江戸に戻るちょっと前であることを見計らって、対馬を見て来たイギリス海軍中将、ジェームス・ホープを幕府に連れて行き、対馬が危機的状況であると報告し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦の追放を提案した。この提案に乗った老中、安藤信正は函館から帰って来た忠順に、このことを函館奉行、村垣範正に伝え、ロシア領事に再度、抗議させるよう命じた。そして7月23日、イギリス東洋海隊の軍艦、エンカウンター号とリンドーブ号の2隻が対馬に回航し、上陸中のロシア軍に対し、ホープ中将が、他国への無許可駐留は国際違反であると強く抗議を行った。ロシアのビリリヨフ艦長は震え上がった。そこへ函館のゴシケーヴィチ領事が対馬に送った使いの軍艦、フルチニック号が現れ、すったもんだした挙句、8月15日、ポサドニック号はフルチニック号と共に対馬から退去した。結果、小栗忠順は外国奉行職を罷免されることになり、対馬の事後処理を外国奉行、野々山兼寛が行うことになった。

         〇

 徳川幕府が諸外国の対応に追われている時、薩摩藩は島津斉彬の下で、藩の債務整理、砂糖の専売制の強化、琉球貿易の拡大などを調所広郷を中心に実施し、財政を好転させ、様式軍艦や藩営工場や反射炉の建設を推進し、養女、篤姫を第13代将軍、徳川家定の正継室するなどして来たが、その斉彬が亡くなると、藩主、忠義の実父、島津久光が実権を握り、徳川に代わる程の実力をつけ、朝廷から高い位をいただこうと動き回っていた。彼は兄にならい、外国人を指揮官として薩摩藩兵士からなる洋式鉄砲隊などを整え、財政、軍事面でも徳川幕府に比肩する程になったと確信していた。そんな自信から、島津久光は、外国との条約の勅許をいただこうと三条邸などの有力公卿邸に出入りしていた松平春嶽と兄、島津斉彬が親しくしていたこともあり、松平春嶽に近づいた。そして今の幕府の実力は外国に対抗出来るもので無いと春嶽に強く印象付けた。久光は幕府はこの際、春嶽と親しい朝廷と手を結び、この難局を乗り越えるべきだと力説した。確かに諸外国が容赦なく隣国、清などの各地を占領しているという情勢から考えれば、久光の言う通りであった。今の幕府と朝廷が別々に政令を出している現状は、国内を混乱させるだけであり、国家として問題であった。最早、日本は幕府と朝廷が一体になり、政令を一ヶ所から発令するようにせねばならなかった。その為には何を成すべきか。公武合体による国論統一である。春嶽は、久光から得た日本国の実情と改善方法を老中、安藤信正に提案した。その春嶽の提案を安藤正信が老中首座、久世広周に相談すると、久世広周は顔をしかめた。

「それは井伊大老が考えておられた、和宮様、ご降嫁案じゃあないか。その計画は既に断ち切れ、和宮様は熾仁親王様と婚約されている筈。そんな無理を帝が許されるとは、考えられん。春嶽も、たわけたことを言うものじゃ」

「京では水戸の尊王攘夷派や長州毛利の過激派が、尊王に尽力することを約束し、帝や公卿たち朝廷の者を有頂天にさせているようじゃ。そして朝廷の者たちは国政の場を江戸から京に戻そうと計画しているとのことじゃ」

「それは、まずい。二百五十年以上続いている徳川幕府から政権を奪い取り、我が国を治めようなどと、世界知らずで軍隊も持たない朝廷に出来る筈が無い。それこそ日本国が異国に奪われてしまう。あってはならないことだ」

「尊王攘夷論者は井伊掃部頭の安政の大獄より、急速に倒幕に向かって走り出している。このままだと、春嶽が言うように、本当に政権を朝廷に奪われてしまうかも知れないぞ」

「こうなったら春嶽の提案通り、幕府の武力と朝廷の威光をうまく組合せて利用するしか無いな」

 こうした経緯から、幕府は皇妹、和宮を将軍、徳川家茂へ降嫁を希望する書簡を、京都所司代より、関白、九条尚忠に提出した。九条尚忠から報告を聞いた孝明天皇は久世広周が予想した通り、和宮は有栖川熾親王に輿入れが決まっており、妹と共に、幕府の希望を拒否した。このことを知った下級公家、岩倉具視は「和宮様御降嫁に関する上申書」を天皇に提出した。関白、鷹司政道の下で、岩倉具視が学習院の人材育成などに尽力していることを知っている孝明天皇は、岩倉具視を召して諮問した。岩倉は待ってましたとばかり、考えを述べた。簡単にまとめると、幕府の狙いは朝廷の威光によって幕府の権威を取り戻すことが目的であり、日本国を異国からの危機から救う為に、天皇は涙して和宮の降嫁を承諾し、以下の三案を確約させるべきであるという語った。

 一、皇国の危機を救う為、内乱にならぬよう,「公武一和」を天下に示す。

 二、政治的決定は朝廷が行い、その執行は幕府が担当する。

 三、今回の幕府との縁組は、異国との条約破棄及び攘夷を条件とするものである。

 孝明天皇は、この岩倉具視案を採用し、幕府に書面でぶつけた。関白、九条尚忠からのこの朝廷側の幕府への返事は、無茶だと知りつつ、四老中連署により、下記の付帯条件を加えて幕府は確約した。

  付記:破約、攘夷については7年から10年以内に外交交渉、場合によっては武力をもって決行す。

 こうして政略結婚が公表されると、尊王攘夷の志士の中には、これを勘違いし、憤慨する者も多かった。水戸藩の西丸帯刀、住谷寅之介らと長州藩の桂小五郎、松島剛蔵らは水長の盟約を行い、連帯して反発行動を起こすことにした。和宮は泣く泣く有栖川熾仁親王とのご婚約を破棄し、10月20日、桂御所を出立された。

 惜しまじな 君と民との為ならば

 よし武蔵野の露と消ぬとも

 和宮の歌に和宮の付き人は皆、涙した。行列は安全を考え途中の川幅も狭い中仙道を進んだ。お車の警護十二藩、沿道の警備二十九藩に命令し、関わった人員二万五千人、馬五百頭の多数をもっての進行だった。特に関東に入る碓氷の難所に至っては、総数三万人に達する程の人足になっていた。11月9日、お車は坂本宿に到着した。それから10日板鼻、11日、本庄、12日、熊谷、13日、桶川、14日、板橋、15日に江戸に到着し、江戸城内の清水屋敷に入った。これを機会に岩倉具視がやって来て、孝明天皇の質問を伝え、将軍、家茂の千種有文及び岩倉具視宛ての誓書を求めた。将軍、家茂と老中は数日、検討の上、誓書を岩倉に提出し、京へ帰した。また長州の毛利敬親と長井雅楽もやって来て、「航海遠略策」を建白して、公武の強固な結びつきが重要だと建言した。そして和宮は12月11日には江戸城本丸の大奥に入られた。そんなこんなで、この頃の小栗忠順は外国奉行を離れたが、幕府の雑用に追われた。特に、アメリカ公使、タウンゼント・ハリスとのヒュースケン殺害補償の処理とフリゲート艦1隻、コルバット艦1隻、ライフル銃5千挺の発注作業だった。ハリスはそれを手土産に、来春、帰国するつもりだと忠順に話した。また函館奉行だった大先輩、竹内保徳たちに遣欧使節として海外を回るのに、どんなことを注意したら良いか、質問された。忠順はアメリカからアフリカ、ジャワを回って帰って来た時の経験を話すと共に、イギリス、フランス、ポルトガル、オランダ、プロイセンに行き、鉄道、造船、産業機械などの技術を勉強して来て欲しいと伝えた。また、渡米経験のある福沢諭吉も同行させるので、福沢を活用すると便利だと説明した。更に東禅寺のイギリス公使館のオールコック公使の所へ竹内保徳、松平康直、京極高朗らを連れて行き、日程等の調整をした。そして12月22日、竹内保徳ら遣欧使節団が英国海軍の蒸気フリゲート、オーディン号に乗って欧州に向かって品川沖を出航するのを、オールコック公使らと見送った。かくして小栗忠順にとって厳しい一年が終わった。

         〇

 文久二年(1862年)、老中、安藤対馬守信正は和宮の降嫁が進み、ほっとして正月を迎えた。そした1月15日、午前8時過ぎ、老中、安藤信正が駕籠に乗って登城する為、坂下門外に差しかかった時だった。何者かが直訴を装い、行列の前に跳び出して来て、駕籠を銃撃した。弾丸は老中の乗る駕籠から逸れて、小姓の足に命中した。その発砲を合図に襲撃者六人が、登城の行列に斬り込んで来た。

「何者だ?」

「問答無用!安藤くたばれっ!」

「何をする!」

「殿が危ない!」

 警護の者が息を呑んだ。その混乱状態の隙をついて、平山兵介が家老の乗る駕籠に刀を突き刺した。駕籠の中にいた信正は背中を斬られ、激痛と恐ろしさに血の気が引いた。信正は狼狽し、駕籠から跳び出し、背中を押さえ、一人、城内へ逃げ込んだ。井伊大老の例もあるので、安藤信正の警護は厳重だった。警護の行列の者が50人以上もいたので、老中の暗殺を実行した6人は全員、目的を果たせず、その場で討死した。警護側でも十数人の負傷者を出したが、幸い死者はいなかった。坂下門の老中暗殺未遂事件の報せは、小栗家にも直ぐ届いた。この事件は開国を推進する小栗忠順たちにも、不安を抱かせる暗い出来事だった。年始の挨拶に知行地から江戸に来ていた中島三左衛門に忠順は冗談まじりに言った。

「自分も何時か、安藤様のように襲われ、井伊様のように殺害されるかも知れないな。だが、首を刎ねられても、首と胴は一緒でいたいものだ」

「お正月から、不吉なお話をなさらないで下さい」

「そうだな。ところで村の者は、元気か」

「はい。皆、元気でやんす。去年、山林を開墾して造った桑畑が、今年、桑の葉を付けるのを、皆で楽しみにしてやんす」

「いやいや、御苦労、御苦労」

 忠順は知行地の連中が、自分の意見を聞き、熱心に働いてくれることが嬉しかった。今年は自分にとって良い年になるような気がした。2月11日、江戸城内では将軍、徳川家茂と和宮内親王との盛大な御婚儀が行われた。家茂も和宮も共に十七歳。その様子は今までの将軍たちの婚儀とは異なっていた。和宮内親王が将軍より高い身分での嫁入りの為、和宮が主人で、家茂が客分といった逆転の婚礼の式となった。忠順もこの式に列席したが、何故か日本の政治を行使している徳川幕府の頭領が朝廷から派遣された内親子の下であらねばならぬのか、疑問を感じた。朝廷の前に幕府は無力なのか。アメリカの大統領制のようには成らないのか。忠順には考えられさせることが多々あった。老中、安藤正信の引退も、その一つだった。坂下門外で、尊攘志士に襲撃されて負傷したとはいえ、老中から退く意向を示すとは信じられ無かった。3月15日、和泉守、水野忠精、周防守、板倉勝静が老中に昇格した。これを受けてか、小栗忠順も御小姓組番頭を命ぜられた。この職は親衛隊的戦闘部隊の隊長職で江戸城内の将軍警護が主務だった。この役職に就任すると忠順は諸外国で目にして来た軍隊の良いところを採用し、号令厳明、開合自在などの訓練をもって大隊を指揮し、部下を驚かせた。このことが老中や将軍、家茂に達したのか、5月18日、忠順は御軍制御用取調役の任を命じられた。これは、如何にしたら幕府の軍備力を強化し、陸海軍の兵士を増強出来るかという検討委員会のようなものであった。若き将軍、家茂は軍制改革をせねばならぬと考えていた。

「我が国が、諸外国と修好通商条約を結び、鎖国の制度から一変したからには、軍制もまた一変させねばならぬ。よって如何に変革したら良いか相談し、近々、その方策を建言せよ。その為に選抜された各人は一致して力を尽くし、神君以来の御武威を内外に流布し、一段と励めよ」

 この仰せのもとに幕府の俊英11人が選ばれた。その中に勝驎太郎や木村喜毅のような熟練者もいれば大関増裕のような若手もいて、いろんな意見が出された。そこで勝驎太郎は、陸海軍の人員を増強し、献身的人材育成を優先すべきだと論じた。忠順は軍事力、特に海軍力を強めないと日本は滅びると力説した。そして海外から軍艦を購入するのでは無く、造船所を建設し、軍艦の国産化を進めるべきだと主張した。またその資金を得る為に、日本の産物を輸出し、資金を稼ぐべきだと語った。また積極的に国内の物品を輸出港に運ぶため、鉄道を建設する計画を進めるべきだとも語った。それとアメリカで金の価値が日本の三倍もしているので、外国の銀貨、洋銀との交換比率を変更すべきだと説明した。それには銀行が設ける必要があるとも語った。この滔々と語る忠順の弁論は、幕閣上層部にまで届くほど立派なものであった。それ故にか幕政改革が行われ、忠順は6月5日、勘定奉行勝手方に任ぜられ名を上野介と改めることとなった。徳川幕府のこの積極策により、忠順は、これからいろんなことが出来ると胸を膨らませた。ところが世の中、思うように行かなかった。特に京や西国で尊王攘夷の名の下に、各所で志士が跋扈狼藉を働いた。長州の毛利敬親や薩摩の島津久光が朝廷にすりより、幕府に代わり、政治指導をしようと画策していたし、4月8日には、忠順の知る中浜万次郎や山田馬次郎をアメリカ派遣した忠順が尊敬する土佐藩の参政、吉田東洋が暗殺されたり、4月23日、伏見の旅館「寺田屋」で薩摩藩の尊王派志士が京都所司代を襲撃しようとして、島津久光により弾圧されたり、読めぬ事件が多発した。また江戸では5月29日、東禅寺のイギリス公使館警備の松本藩士、伊藤軍兵衛が夜中、代理公使、ジョン・ニールを殺害しようとして、イギリス兵、二人に発見され、二人を斬殺し、自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃したという事件が発生した。その為、公使館及びイギリス兵二人への賠償の件で幕府は一苦労した。オールコックがイギリスに帰国したままであり、日本人交渉者は交渉に行き詰まり、ジョン・ニールを知る忠順が関与せざるを得なくなり、無事、事件の始末を決着させた。その間、薩摩藩主、島津久光は朝廷に「朝旨三事の策」を奏上した。その三項目は次の内容だった。

 一、安政の大獄で処罰された公家、青蓮院宮、近衛忠熈、鷹司政通、鷹司輔熈の謹慎を解くこと

 二、一橋慶喜、松平春嶽の謹慎を解くこと

 三、妄言、虚説をほしいままにする志士、浪人を取り締まること

 この久光の幕政改革推進案は、久光が行った自藩の暴挙者粛清という過激な行動に衝撃を受けた朝廷によって、承認され、久光は勅使の護衛役として、そのまま藩兵を引き連れ、江戸に向かった。

         〇

 6月7日、島津久光は勅使、大原重徳と共に江戸に入った。翌朝、久光は浅草橋の福井藩邸を訪ね、兄と昵懇だった松平春嶽に会った。春嶽は島津斉彬亡き後、島津とのやりとりを、西郷吉之助と行っていたので、久光から伝えられた好意を素直に喜ぶことが出来なかった。官位の無い久光が、幕閣の諸大名と関係を深める為、自分を利用しようと考えていることは、今までの書面でのやりとりでも十分に分かっていた。6月10日、勅使、大原重徳中納言は、将軍、家茂に謁見した後、老中、板倉勝静、脇坂安宅、水野忠精らに、薩摩の軍事的圧力を背景に、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁に任命し、幕政に参加させることを勅許として認めさせることを迫った。そして一時も早く汚らわしい異国人を追放する攘夷を決行して欲しいと要望した。これには幕府も直ぐに返事が出来なかった。老中たちが悩んでいる間、勅使、大原重徳は何度も何度も勅諚の履行を督促した。老中たちは悩みに悩み、朝廷の意を受け、先ず松平春嶽を赦免して、春嶽に意見を聞いた。春嶽は中根雪江に相談して、答えた。

「まあ、私たちのことは別に御配慮いただき、遠くから勅使様がやって来られたのですから、勅諚を無視する訳には参りません。和宮様をお迎えしたこともあり、ここは勅命を奉じ、公武一体を示すべきかと・・・」

 これを聞いて6月29日、大原重徳が江戸城に登城すると。老中、板倉勝静らは、ようやく「朝旨三事の条」を受け入れと返答した。更に7月1日、重徳が五度目の登城をすると、将軍、徳川家茂が奉答書を提出した。そして幕府は7月6日、一橋慶喜に将軍後見職を命じ、松平春嶽に政事総裁職への就任を命じた。このことを確認した島津久光は8月21日、意気揚々と江戸を立ち、京へ向かった。その幕府を承伏させた主人の威張った態度は、当然のことながら、さながら凱旋行列のように、その先端まで伝播していた。そのことが思わぬ事件を引き起こしてしまった。400人程の行列が横浜に近い生麦村にさしかかった時、川崎大師に向かって乗馬を楽しんでいた騎馬のイギリス人たちと遭遇した。行列の先頭を行く薩摩藩士は騎馬の4人に脇により、馬から降りろと命令した。日本語の良く分からぬ騎馬の4人は、行列の先頭の者が何を怒鳴っているのか分からなかった。そのまま行列の脇を平行して進行した。久光の駕籠近くの供回りの薩摩藩士、奈良原喜左衛門が叫んだ。

「無礼者!馬から降りろと言うのが分からぬのか!」

「アイ、ドント、ノウ?ワット、ユーアー、トーキング、アバウト?」

 イギリス人たちは下馬する発想など無く、引き返せと言われたと受け取り、馬の手綱を引き、馬を回転させた。その馬の尻尾が薩摩藩士の顔に当たったからたまらない。薩摩藩が激怒した。

「行列の邪魔する無礼者!死ねっ!」

 騎馬のイギルス人4人は驚いて逃げようとしたが、時すでに遅し。上海から横浜見物に来ていた商人、リチャードソンが片腕を斬られ、深手を負い、料理屋『桐屋』のちょっと先まで逃げて落馬した。それを捕まえ、海江田信義がとどめを刺した。

「今、楽にしてやっど」

 リチャードソンの始末が終わると近習番、松方正義は久光に報告した。

「外国人たちが行列を邪魔し、只今、一人切り、他の三人を追い払いました」

「そうか。御苦労。行列を進めよ」

「ははーっ」

 薩摩藩主、島津茂久の父、島津久光の行列は何事も無かったように再び今日に向かった。一方、横浜在住の生糸商人ウイリアム・マーシャルとチャールズ・クラークは深手を負った。マーシャルは傷を押さえながら、上海から来ていた従妹のマーガレット・ボロテール夫人に叫んだ。

「傷を負った私は、お前を助けることが出来ないから、ただ馬を飛ばして横浜へ逃げて、助けを求めなさい」

 ボロテール夫人は帽子と髪の一部を刀で飛ばされただけで、無傷だったので、真っ先に横浜の居留地に駈け戻り、救援を訴えた。マーシャルとクラークは流血を堪え、馬を走らせ、高島台の本覚寺にあるアメリカ領事館に駆け込んだ。二人はそこでジェームス・カーティス・ヘボン博士に傷の手当てをしてもらい命拾いをした。ボロテール夫人から事件を聞いたイギリス公使館付の医官、ウイリアム医師は、その話を聞き、騎馬に乗り、事件現場に駈けつけた。イギリスの神奈川領事、ヴァイス大尉も騎馬護衛隊も、薩摩藩士の行列の脇を突っ走り、ウィリアム医師に追いつき、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。薩摩の久光の一行は、神奈川宿に宿泊することになっていたが、イギリス騎馬隊とすれちがったこともあり、横浜居留地の外人部隊の報復を恐れ、横浜より先の保土ヶ谷まで行って宿泊した。翌朝、事件の報告を聞いた神奈川奉行、都築峰暉が久光一行に使者を派遣し、事件の報告を求めると、海江田信義が報告書を提出した。

 届出:薩摩藩の行列進行の途上、浪人3,4人が外国人を1人討ち果たして、消えたるを目にす。事件は薩摩藩とは無関係の事なり。

 そして神奈川奉行の引き取めも聞き入れず、そのまま京へと向かった。当然のことながら、事件は幕府に届いた。老中、板倉勝静は薩摩藩江戸留守居役に事件の詳しい説明を求めた。事件の実態を知らない留守居役は、また訳の分からぬ虚偽の説明をした。その為、事件は紛糾した。イギリス人を殺害したことを何とも思わず、そのまま旅を続けた久光の行為は、当然、大きな国際問題になった。この生麦事件は朝廷からの勅諚により、7月6日、将軍後見職になった一橋慶喜と7月9日、新設の政事総裁職になった松平春嶽を悩ませた。

「何という男だ」

 松平春嶽は、島津久光の犯した生麦事件の為、幕閣からの政事総裁職の任命があったが、一旦、辞退し、慶喜より3日、遅れていやいや承諾した。理由は徳川御家門の筆頭である自分が、徳川の番頭のような仕事や大老のような役職をすることを好まなかったからであった。しかし、かって慶喜を将軍職にと応援した過去を考えると、ここで水戸斉昭の息子、慶喜の後押しをしない訳には行かなかった。水戸斉昭にはいろいろと御指導を賜った。

 一、朝廷、幕府への忠節を第一とすべし

 二、我が国古来の国学、神道を根本に儒学を補助とし、文武一致を目指すべし

 三、武道を振興し、調練を行い士気を高めるべし

 四、事に当たっては衆議にはかり決定し、決定したからには藩主も、それに従うべし。

 五、重役の使い方に留意し、言路洞開心掛けるべし

 六、民は国の宝。民を愛すべし

 このことを、今度は自分が慶喜に指導しなければならないと思った。まず,政事総裁職になってしなければならないのは、島津久光が起こした生麦事件の対応と老中、若年寄の優柔不断さの改質であった。春嶽は老中たちに早急に、イギリス側の状況及び考えを調査するよう指示した。また朝廷に対し、事件の事情説明に幕閣を派遣することを命じた。しかし、幕閣は指示を受けるだけで行動を起こさなかった。これでは結果として、幕府は何も変わらず、何も変わらない。生麦事件はイギリス側の不満がつのるだけで、何も進まなかった。春嶽は行き詰まり、馬鹿らしくなって登城を止めた。すると今まで動かなかった一橋慶喜が、用人、中根長十郎を使い、行動した。中根長十郎は元外国奉行だった小栗忠順の屋敷を訪問し、イギリスとの交渉を依頼した。忠順は勘定奉行になり、いろいろとやりたい計画を始めていたので、それを断った。すると、8月25日、勘定奉行勝手方を外された。そして8月25日、江戸町奉行に任じられ、8月29日、生麦事件について如何すべきか、松平春嶽邸に行くよう慶喜に命じられた。慶喜は、どこから聞いたのか、忠順の優秀な外交能力を知っていたようだ。

         〇

 8月29日、小栗忠順は常盤橋の福井藩の江戸屋敷、松平邸に訪問した。そこでは政事総裁、松平春嶽、大目付、岡部長常、浅野氏祐と松平総裁の助言者、横井小楠が忠順を待っていた。春嶽はじめ一同は、島津久光が起こした生麦事件の解決に苦慮していた。春嶽は笑顔を作り、忠順を迎えると、こう言った。

「わしは島津殿の家臣が異国人を殺害した事が残念でならない。だが、それ以上に老中たちが、その処置に迷い、動かないのが遺憾でならない。イギリスとの問題解決を一橋殿に相談したが、それは家老たちのすることだと、突っぱねられた。わしは政事総裁になったのに、自分が大小の刀を取り上げられた丸裸の武人と同じだと思った。もはや何も出来まいと登城を止めた。ところが一橋殿がそなたらに相談せよと、人選手配をしてくれた。有難い事だ。こうされては、わしも動かざるを得ない」

「なるほど、一橋様は類まれなる才能に恵まれた優れた人物とお伺いしていますが、良く分かっておられますな」

 横井小楠は、その場の雰囲気を和らげようと口をはさんだ。すると春嶽は、一息ついて本題に入った。

「そこで、まずは生麦事件の解決方法であるが、如何すればよろしいと思うか」

 忠順は大目付二人の答えを待った。ところが岡部長常、浅野内祐の二人は首をひねり、一向に案を出さなかった。すると春嶽が笑い、忠順を見詰めて言った。

「小栗上野介。そなたは東禅寺事件等、外国との事件解決に貢献したというが、何か良策はあるか?」

 忠順は、ちょっと考えたふりをしてから、余裕たっぷりに自分の考えを述べた。

「ことは簡単です。函館から戻って来たての外国奉行、津田正路にだけ解決を一任していては駄目です。イギリス代理公使、ジョン・ニールを私は良く知っております。私にお任せ下さい。彼を連れ出し、説得するしかありません。しかし、賠償金を支払うのは幕府になります。何故なら、徳川幕府が日本国の代表だからです」

「賠償金を支払うべきは薩摩藩では?」

 岡部長常が口出しした。その長常を、忠順は鋭い目で睨みつけた。

「他国との外交というものは、国の代表機関、政府が行うべきものです。それが分らずして国家をお守りすることは出来ません。賠償金の支払いは幕府からお願いします。もと勘定奉行勝手方の私には、幕府の財政が、どれ程、厳しいか分かっております。だがやりようによっては、幕府の財政も豊かにすることが出来ます。賠償金など直ぐに回収出来ますから、兎に角、幕府から賠償金を支払って下さい」

「分かった。では上野介、そなたに任す。イギリス公使との交渉、やってみよ」

「ははーっ」

 忠順は畳に手をついて命令を受けた。春嶽は幕府には、打てば響く意欲溢れる同年輩の男たちがいることを改めて感じた。春嶽はこれから幕政を担うにあたって、本日の会議のメンバーに、これからの幕府の政治をどのようにすれば良いかを問う良い機会だと思い、三人の意見を聞いた。大目付、岡部長常はこう発言した。

「列強諸国の連中は有色人種である東洋人を野蛮人と決めつけているように思われます。今回の薩摩のような品行の悪さは、その意識を深めるものであり、改めさせなけれなりません。国民は攘夷、攘夷と言いますが、殺し合いは良くないことです。戦争をせず、外国との友好により、新しい知識を習得し、国力をつけ、万民を豊かにすることが肝要です」

 すると春嶽は笑みを浮かべて言った。

「そうか。それが国を栄えさせることになるのか。日頃、政治顧問の小楠がわしに言っていることに近いな。浅野伊賀守は、これからの政治をどのようにすれば良いと思うか」

 大目付、浅野氏祐は少し考えてから発言した。

「私は今回、将軍後見職になられました一橋慶喜様の父君、水戸斉昭様の国学から導き出された尊王の絶対化と日本国第一主義に賛同し、国家の思想統一を行うべきだと思っております。それによって国民の教育、納税、兵役を義務付け、民を富ませ、国を豊かにし、国の和平を保つべきかと・・・」

「成程。これも小楠の説く、民富に似た考えだな。面白い」

「真実、それがしの考えに似ているかも知れません。そうなると、それがしの出番は無くなり、ますな」

 小楠が嬉しそうに笑った。すると浅野氏祐は慌てた。

「横井先生、私は、そんな積りで申したのでは御座いません」

「伊賀守、慌てるな。小楠は私の師。懐刀じゃ。そう簡単に手放すものか。ウッハハハハハ」

 何時もになく春嶽が大声を出して笑ったので、小楠は驚いた。そして春嶽と一緒に黙っている忠順を見た。だが忠順は黙ったままだった。春嶽は忠順の顔を覗き込んで言った。

「おい、どうした、上野介。次はそなたの番だ」

「はっ。私の番で御座いますか。何を申しても構いませんか?」

「構わぬ。わしの悪口でも何でも良い。天下を良くするにはどうすれば良いか申してくれ」

「では、遠慮なく申し上げます。私は、勘定奉行勝手方になって、幕府の台所事情を知りました。幕府の蓄えはどん底状態です。国の政事を司る幕府が貧乏では日本国の存続が危ぶまれます。幕府は、もっと倹約すべきです。儀式や将軍や大奥に使う費用をはじめ、無駄を無くさねばなりません。参勤交代も無くし、その費用を幕府に納付させるべきです。そんな時に無駄な大名行列を行った愚か者の所為で、外国に幕府が賠償金を支払わなければならないのは、涙が出ますが、これは我慢するしかありません。しかしながら、倹約だけでは幕府を富ませることは出来ません。諸外国に我が国の産物を輸出し、他国の良い物を輸入し、その収益で幕府を富ませるのです。今まで幕府は、それをして来ませんでした。横浜に外人が来て、ようやく絹糸などを輸出するようになりました。幕府は外国との貿易を禁じていましたが、薩摩藩や佐賀藩は堂々と外国との取引で富を得、大砲や鉄砲の購入を進め、富国強兵に努め、造船、反射炉、溶鉱炉の建設からガラス製造までの事業を始めています。また琉球王国を介し、清国との往来も頻繁に行っています。長州藩とて、同じことです。先年、私が対馬に行った時、ロシアの軍艦が退去しなかったのは、対馬藩がロシアや朝鮮と長州藩の貿易の仲介をしていたからです。幕府はこれらの密貿易を監視監督出来ないでいるのです。その為、外様の各藩が幕府より裕福になり、朝廷に媚を売り、大口をたたくようになったのです。今回の薩摩の上洛、江戸への多人数での行列も、薩摩藩の財政が豊かであるから出来たことです。まず政事総裁が為さねばならるのは、諸藩から国税を徴収し、幕府の財政逼迫を解消することです」

「成程。財政逼迫の解消か」

 春嶽は、ううむと唸り、苦い顔をした。多弁な忠順は尚も喋った。

「従って、幕府は開国を進めるべきです。貿易を通じて外国の資金を導入し、物造りに努めるべきです。造船、鋳砲、汽車、石炭採掘、ガラス製造、水力利用など、欧米の物造り技術、学術を吸収し、国産化を行うことが急務です。それらの製造が日本国内で出来るようになってこそ、初めて我が国が列強国の仲間入りが出来たと言えるのです。そうでなくして、攘夷などと、愚かしい事です。戦争をすれば負けること必定です」

「破約攘夷か?」

「更に言わせてもらえれば、幕府が朝廷の不安を和らげる為に、諸範に近畿防衛の指令を出したことは誤りです。その防衛の為、諸藩は大阪、芦屋、堺にあたりに、こぞって駐屯陣営を設置し、軍備力を強めております。江戸は丸裸、京は万全。こんなことで良いのでしょうか。浅野伊賀守様には申し訳ありませんが、尊王の絶対化には反対です。水戸斉昭さまが、神道を重んじ行動するのは勝手ですが、ロシアの戦艦に怯えて、京に尊王攘夷を訴えたのは、これまた誤りです。今、我が国に求められているのは佐幕開港です。いや、それ以上のことでありましょう」

「それ以上の事とは?」

 春嶽は小楠と共に首を前にして確かめるように訊いた。忠順は幕府の重役を前に、意気軒高と恐れることなく、自分の考えを申し述べた。

「こんな事を申し上げて、御手打ちに合うかも知れませんが、思い切って申し上げます。それは我が国の天皇君主制を廃止して、大統領制に改めるべきであるという事です。天皇や将軍が政治の執行者であってはならないということです。極端なことを申せば、政事総裁に選ばれた越前様が、大統領に御就任し、国事を行う、中央集権の政治体制を進めるべきです。私はアメリカのホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見し大統領制度というものを学びました。大統領制度は大統領を国家元首とする政治制度で、世襲ではありません。決められた期間だけ国民から選ばれた者が大統領に就任し、その期限が切れたら、国民投票によって、また次の大統領が選ばれる仕組みです。大統領は好きな部下を選べます。身分などアメリカにはありません。有能な人物を大統領が採用して仕事をさせます。悪政を行った大統領は、次の大統領に選ばれません。善政を行った大統領は再選されます。まさに国民の心に寄り添い政治を行った者が頂上に立ち、国家を富ませる仕組みです。つまり大統領制国家は世襲者による個人的国家では無く、国民全員の国家であるということです。大統領制をやってみては如何でしょうか?精神論だけでは国家は成り立ちません。列強を相手にするには、越前様が先頭に立つべきです」

「こりゃあ、たまらん。アメリカ帰りとあって、突飛なことを言う。参考にしておこう。だが、天皇君主制廃止などと、二度と言うで無いぞ。このことは聞かなかったことにしておく。そうでないと、本当に御手打ちになるかも知れんからな」

 春嶽は、そう言って笑った。忠順は聞き上手な春嶽に随分、喋ってしまったと反省した。春嶽は春嶽で、忠順たちの意見に耳を傾け、得る所があったと感心した。その会議が終了すると、春嶽が酒席を考えたが、忠順は断った。

「折角の機会ですが、遠慮させていただきます。うかうか調子に乗ってこれ以上、喋りまくると首が飛びそうですので」

「そんなことは無い」

「私は今からイギリス公使館に行き、どうすれば生麦事件を決着出来るか交渉しませんといけませんし・・・」

「そうであったな。では御苦労だが頼んだぞ。そなたが頼りじゃ」

 春嶽は辞去する忠順を見て、からりと笑った。横井小楠は護衛と共に去って行く忠順に深く頭を下げた。

         〇

 8月30日、小栗忠順はイギリスのニール代理公使、ヴァイス神奈川領事、アーネスト・サトウ秘書官及び津田正路外国奉行を連れて、霞が関の老中、板倉勝静邸に伺った。そこで忠順が仲介に入り、老中、板倉勝静と水野忠精らとイギリス側との折衝を行った。最初、ヴァイス領事が津田正路との会談でもめた理由を訴えた。

「6月初めの勅使の行列については、通行日時の連絡があったのに、何故、島津久光の行列の通行日時の連絡をしてくれなかったのかと質問したら、ミスター・津田は伝える必要が無かったからと答えた。我々に伝えてもらっていたら、こんな残酷な事件は発生しなかった。伝えてくれなかった理由を我々は納得出来ない」

 それを聞いて、板倉勝静が津田正路に訊いた。

「連絡出来なかったのか、津田奉行?」

「はい。我々にも神奈川奉行所にも島津様の行列が通過するという刻限の連絡がありませんでしたので、伝える術がありませんでした」

「むむっ。そうか」

 それを聞いて板倉勝静は、愕然とした。何故、島津久光は、行列の日程を伝えなかったのか。突然、派手な行列を民衆に見せて、薩摩藩の威厳を示そうとしたのか。勝静は溜息をついた。津田正路と板倉勝静のやりとりが分からぬヴァイス領事はいらついた。

「ミスター・津田はこう理由を述べた。勅使は天皇の使者であり高貴だが、島津は幕府に来た地方の身分の低い者で、その通行を居留地に知らせなかった。これまでも、地方大名の行列の通行を居留地に通知せずとも問題は起こらなかった。上海から来たリチャードソンが、面白半分に馬で行列に突っ込み殺されたのだから、リチャードソンが悪いと言う。その一点張りの答えが気に喰わぬから、我々は怒っているのだ」

 ヴァイス領事の言葉をアーネスト・サトウが通訳すると、老中たちは困った顔をした。どうすれば良いのか。彼らは日本側に謝罪と反省と後悔が無いと言うのだった。忠順は目上の老中に、頭を下げて詫びるように伝えた。老中たちは忠順に言われ、くそっと思ったが我慢して、両手を床について詫びた。

「誠に申し訳ありません。以後、気を付けます。島津を厳しく叱責致しますので、どうかお許し下さい」

「私からもお願いします」

 忠順はニール代理公使やヴァイス領事を見詰め、家老たちと頭を下げた。するとニール代理公使が口を開いた。

「おかしくありませんか?頭を下げて済むことではありません。善良なイギリス人、一人が殺され、3人が負傷したのです。頭を下げられて問題解決するなど、とんでもない話です」

「では、如何すればよろしいでしょうか?」

「天皇の御使者より、薩摩藩の威張った通行の方が問題を起こす可能性が高いことを、幕府は気づいていたのではありませんか。薩摩藩は幕府を倒そうとしています。兎に角、薩摩藩の犯人を我々に差し出して下さい。我々が犯人を処罰します。本事件の貴国への賠償要求金額については私には決められません。後日、イギリス本国からの指示を待って、お伝えします」

「分かりました。薩摩藩に早急に犯人を差し出すよう命じます。賠償金のことはよしなに」

 板倉勝静は日本側代表として、真剣な顔をして、ニール代理公使に答えた。ニール代理公使は笑った。

「ミスター・板倉。そう固くならないで下さい。もう私たちはミスター・小栗を通じて友人です。リチャードソンにも日本の儀礼や習慣や法律を犯す無礼があったのです。これからはこのような不幸な事件を起こさぬよう互いに国民の教育に努めましょう」

 ニール代理公使はそう言うと板倉勝静はじめ、周囲にいた者に握手して話を終わらせた。こうして、直ぐに結論は出ないまでも、イギリス側と徳川幕府の話し合いは明るく終わった。

         〇

 松平春嶽は翌日、老中、板倉勝静から、イギリス代理大使、ニールとの交渉結果を聞き、小栗忠順の優秀な外交能力に感心した。そして先先日の忠順たちの考えにも感銘し、その内容を盛り込み、横井小楠と「国是七条」なるものをまとめた。

 一、天皇を尊崇し、将軍上洛を先務とする。

 二、諸侯の参勤交代を廃止する。

 三、諸侯の妻子を江戸から国許に帰す。

 四、外様、譜代の区別なく、有能な人物を登用する。

 五、言論の場を大いに開き、天下万民と共に政を行う。

 六、日本国海軍を諸侯と別々で無く合体して構築する。

 七、海外交易を諸侯と協力して行う。

 春嶽はこの七ヶ条を政事総裁、松平春嶽の幕政改革の骨子として、大目付、岡部長常に渡し、老中に見せ、検討するよう伝えた。板倉勝静、水野忠精、脇坂安宅は、その卓越した内容を読み、感心した。直ぐに将軍後見職、一橋慶喜に、これを伝えた。一橋慶喜は、一読して喜び、一時も早く政事総裁、春嶽に登城するよう書状を送った。それに従い、春嶽は小楠を連れて登城し、翌日、将軍、家茂臨席のもとで、会議を行うことになった。将軍を筆頭に将軍後見職、政事総裁職、老中、大目付、外国奉行、寺社奉行、勘定奉行、軍艦奉行、町奉行が集まっての大会議だった。この会議に南町奉行、小栗忠順も出席した。会議では、生麦事件の対処、春嶽が提出した「国是七条」などについての論議が行われた。この会議は一日で、終わらなかった。数日かけて決定したことは、将軍の上洛前の京の治安確保、イギリスへの賠償金の幕府負担、参勤交代の緩和、諸侯妻子の国元帰省許可、海軍創設、学問所増設、百姓の士分抜擢などの改革であった。忠順は、この会議に出席し、ただ黙って決定の成り行きを窺った。時々、政事総裁、春嶽や大目付らが忠順に視線を送ったが、忠順は気づかぬ振りをした。彼らは忠順の意見が幾つか採用されたことで、忠順の反応を確認したかったのであろう。これらの会議が終了すると、小栗忠順は、南町奉行の仕事をほったらかしにして、軍艦奉行、木村喜毅に会い、海軍工場建設計画を急ぐことにした。二人は太平洋横断以来の親友であり、専守防衛の為の軍事力強化を考え、軍艦、火砲の製造が最優先であると考えた。忠順は自分と共にワシントンの造船所や製鉄所を見学し、多くの技術記録やスケッチをして来た吉田好三郎、三村広次郎らを木村喜毅と創設した富国計画研究所『開明研』に派遣し、自分たちの目標に沿って行動させた。今年、軍艦訓練所からオランダに派遣した榎本武揚たち留学生や船大工が帰国した時に、直ぐに、その技術を盛り込み、造船に着手したかった。そんな忠順であるから、奉行所での評判は悪かった。与力や同心たちは前任の黒川盛泰と違い適当に部下に任せる忠順のことを陰で批判していた。北町奉行の小笠原長常からも注意されたが、忠順は気にしなかった。数寄屋橋御門の役所は与力たちに任せて、斎藤大之進、大井兼吉、山田城之助、田代栄助ら私的見回り組を、江戸市中に放ち、様子を探った。江戸の町では攘夷と開国が共存していた。そんな多忙の中にありながらも、忠順は江戸の公使館のことも気に留めていた。ある秋の日の午後、東禅寺のイギリス公使館に訪問した。柿の実の光る明るい午後だった。忠順はイギリス代理公使、ニールに、その後、イギリス本国からの連絡があったかを聞いた。イギリスでは大名行列というものがどんなものであるか、良く理解出来ず、まだ沙汰無しとのことであった。それから、建設中の外国公使館の話になり、忠順は家来を連れて、ニール代理公使らと品川の御殿山へ建設中の建物を見学に行った。魚籃坂を登り、高輪山の上を通り、御殿山に行くと、幕府作事方大棟梁、辻内左近が一生懸命、大工職人に指示し、江戸湾を見下ろせる西洋風公使館を建設していた。辻内左近はニール代理公使と一緒なのが、南町奉行、小栗上野介と気づくと、走り寄って来て挨拶した。それから高台に立って、この後方周辺にイギリス公使館の後、フランス、オランダ、アメリカの公使館を建設するのだと説明してくれた。ニール代理公使は完成するのが楽しみだと喜んだ。御殿山の建築現場の様子見が終わると、ニール代理公使に夕食を誘われ、東禅寺の公使館に戻り、見回り組の連中、6人と洋食をご馳走になった。初めての洋食に戸惑う使用人もいた。そんな部下と、公使館の通訳、アーネスト・サトウは仲良く話した。それが忠順には嬉しかった。酔いが回って若者たちの声が大きくなり始めたところで、忠順はニール代理公使との会話を終わらせ、公使館から辞去した。通りは月明りだけであった。7人で古河橋を通り、芝方面へ向かう途中だった。暗がりを歩く山田城之助から声がかかった。

「殿。ご用心を・・・」

 そう言われ忠順は足を止めた。暗闇を良く見ると、前方から数人の人影がどやどやと、こちら目掛けて走り込んで来た。

「死ねっ、天誅だ!」

 先頭に立って突っ込んで来た男が声高に叫び立てた。忠順は抜刀して跳び下がった。入れ替わりに、山田城之助が前に出て、叫んだ。

「てめえら、何者だ。名を名乗れ!」

「攘夷派の者だ。名乗る必要は無ちゃ!」

「そうか。じゃぁ、てめらは名無しの権兵衛で死ねっ!」

 城之助が一歩踏み出し、振り上げた刀を振り下ろすと、先頭の男の着物は切り裂かれ、胸と腹から、鮮血が飛び散った。

「ゲーッ!」

 喉が引き裂けるような悲鳴が上がった。そのあまりもの凄まじさに、敵は一歩退いた。城之助は更に一歩踏み出した。敵は恐怖にいたたまれなくなり、ブルブル震え、城之助以外の者を狙おうとした。だが忠順の従えている者は海保帆平の道場『振武館』で鍛えられた武人たち。これを待っていたかとばかし、敵を斬りまくった。叶わぬと見て敵が逃げ去ったのを忠順が確認した時、道路に倒れている者は全員、絶命していた。襲った者たちは襲って来たのに素っ頓狂な声を上げて逃げて行った。

「助けてくれちゃ。死にたくねえじゃ」

 その姿を見て斎藤大之進はじめ、忠順の従者は、ドッと笑った。忠順は事件に気づいてやって来た同心や岡っ引きに死体を片付けさせて、数寄屋橋御門の奉行所へ戻った。

         〇

 南町奉行所に戻った小栗忠順は、与力、同心に自分を襲った者が何者か調べさせた。結果、長州藩の者らしいということが、分かった。小栗忠順は部下が止めるのも聴かず、日比谷にある長州藩江戸屋敷に行き、長州藩重役、周布政之助に面会し、長州藩の者が、自分を襲ったがどういうつもりなのか問い質した。すると周布政之助は気まずい顔をして答えた。

「まことに江戸奉行殿を、長州藩の者が、襲ったと言っちょるのですか。証拠はあるちゃ?」

「斬り殺された男が、死に際に逃げる仲間に叫んだ。頼むちゃ、長州の為じゃと・・・」

 すると周布政之助はため息をついた。側にいた桂小五郎と高杉晋作に向かって、政之助は確認した。

「お前ら、そんないけん事をしちょる者を知っちょるか」

「いんにゃ、知っちょらんちゃ。本当に、あんたを襲った賊がそなんこつ言っちょったですか」

「そうだ。長州の為じゃと」

 忠順はきつく答えた。すると周布政之助は忠順に厳しい表情をして言った。

「それが本当なら、えらいこっちゃ。犯人を探し出し、見つけなけりゃー。見付け次第、くくりつけて、奉行所に行きちょるじゃけぇ、今日のところは勘弁してくれさんせぇ」

「よかろう。江戸は国家元首、徳川家茂様のおられるところ。江戸八百八町での狼藉は、この南町奉行、小栗上野介が許さぬ。愚か者の集まる血なまぐさい京とは違うのじゃ。心して日々を過ごされたい。ではこれにて失礼する」

「ははーっ」

 周布政之助は、部下の桂小五郎、高杉晋作と共に頭を下げた。それを確かめると忠順は、伴回りの斎藤大之進、山田城之助、佐藤銀十郎に声をかけた。

「では帰るぞ」

 四人は長州藩江戸屋敷の門に向かって歩いた。丁度、その時、門を潜り抜け、前方からやって来る若者がいた。彼ははっとして立ち止まると、無言で頭を下げた。忠順たちも頭を下げて通り過ぎ、屋敷の外に出た。そこで銀次郎が言った。

「あの者は最近、千葉道場に戻って来た土佐の坂本龍之介です」

「そうか。土佐の者も、出入りしているのか」

 忠順は、長州藩江戸屋敷から戻ると、常盤橋の北町奉行所に行った。北町奉行、浅野長祚に会い、自分が長州の暴漢に襲われた事と、江戸市中に薩摩、長州、土佐の連中が増え始めているので、御身注意するよう伝えた。そんなこともあってか、その後、大きな事件は起こらなかった。忠順は『開明研』に行き、吉田好三郎に仕事の進み具合を確認した。そして自分が暗い夜道で暴漢に襲われたことを話し、石炭ガス設備の開発と夜道を明るく照らすガス灯の設置を考えなければならないと伝えた。それから数日してのことだった。小栗邸にその吉田好三郎の兄、重吉が尋ねて来た。忠順は、たまたま自宅にいたので、『開明研』に好三を呼びにやった。その間、忠順は重吉と話をした。

「安中藩の仕事で、深川の材木商『冬木屋』さんに寄った帰りに、弟の様子を見に伺わせていただきました。突然、不躾な訪問をして申し訳ありません」

「なあに。兄弟に会いに来たのだから、遠慮することは無い。政五郎さんは元気かな」

「はい。至って元気です。来年の春になったら江戸に上がりたいと申しておりやす」

「それは楽しみじゃ。世の動きは不穏であるが、上州はどうですか?」

「うちの方は山奥ですので、のんびりしていますが、途中、高崎、深谷界隈から水戸藩士が憂国の志士を集めて動き回っています。何をおっ始めようとしているのか、皆目分かりませんが、随分の盛り上がりようでござんす」

「そうか。武州や上州でものう」

 忠順は考え込んだ。水戸藩士には困ったものだ。長州藩士と変わらぬではないか。薩摩、長州、水戸が攘夷の立場を明確にし、尊王攘夷運動が、日本各地で高まれば、日本国はどうなってしまうのか。本当に諸外国を相手に戦うのか。無茶だ。そこへ見回りを終えた斎藤大之進たちが帰って来た。吉田重吉を見て城之助はびっくりした。

「重吉さん。重吉さんじゃあありませんか」

「おおっ、城之助。こちらにお世話になっていると聞いたが、本当だったんだな。元気そうだな」

「ああ、お殿様のお陰で、こんなに元気だ」

 明るく話す城之助と重吉を見て、忠順は何がどうなっているのか分からなかった。

「二人は知り合いか」

「はい。安中の『根岸道場』の剣友です」

「そうか。『振武館』の根岸先生の御実家『根岸道場』の門弟か」

「はいそうです」

「その若者もそうか?」

「いえ、彼は安中藩江戸屋敷の者です。あっしをここまで案内してくれやんした」

「安中藩江戸屋敷の新島敬幹と申します。以後、よろしくお願い申し上げます」

 若者は礼儀正しく、忠順に挨拶した。そんなところへ、吉田好三郎、三村広次郎が『開明研』から戻って来て、更ににぎやかになった。忠順は部下が集まるのが楽しくてならなかった。そこで妻、道子たちに食膳の用意をさせた。にぎやかな酒宴となった。話がはずみ、忠順や好三郎たちの日米修好通商条約の話から、世界一周の話になった。何度か聞いている城之助たちには、またかという気分だったが、吉田重吉や新島敬幹は異国の話に目を輝かせた。そんな若者たちの眼の輝きを見ると、忠順は嬉しくてならなかった。また城之助は重吉と好三郎が兄弟であると知って驚いた。好三郎は五歳の時に神田の親戚、吉田家へ養子に出されたのだということだった。

         〇

 小栗忠順は、吉田重吉の訪問を受けて、城之助の家族が、城之助を田舎に帰してもらいたくて重吉を派遣したのではないかと推測した。考えてみれば、もう約束の2年になる。城之助は若き日の恩義を感じて、口に出すことも出来ず、居残っているに違いない。帰してやらねばならぬ。そんなことを考えている時、京では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が行われ、その為、和宮降嫁を勧めた公武合体派の前関白、九条尚忠や岩倉具視らは幕府に通じる者として暗殺の刺客を送られるはめとなり、京から逃げ出した。そして10月、孝明天皇は朝廷内の尊攘派に突き動かされて、江戸幕府に攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使、三条実美中納言、姉小路公知少将を派遣する決断をした。その勅使護衛の命が土佐藩主、山内豊範に下った。山内豊範は土佐勤王党の武市半平太を選出し、その護衛役として江戸へ向かわせた。10月28日、勅使一行は江戸に到着した。勅使一行は、翌日、江戸城に訪問すると、将軍後見職、一橋慶喜と政事総裁職、松平春嶽に面会した。正使、三条実美、副使、姉小路公知、付添人、武市半平太は攘夷督促と御親兵設置を迫った。将軍後見職の一橋慶喜はこの要求をあらかじめ予想していたので御親兵設置については、政事総裁職、松平春嶽に自分と同年輩の会津藩主、松平容保を新設する京都守護職に着任するよう口説かせ、その就任を決めていた。だが、将軍、家茂は会津藩家老、西郷頼母から、北の守りが疎かになり、我が国にとって、とても危険だと言われていたので、松平容保の京都駐在には反対だった。しかし、慶喜は将軍、家茂の意見も確認せず、直ぐに御親兵設置についての回答をした。

「御親兵設置については、京都所司代、若狭小浜藩主、酒井忠義に代えて、新しく京都守護部隊なるものを設置し、会津藩主、松平容保を守護職に着任させますかた御安心を」

 その答えを聞いて、勅使たちは、ほっとした。だが用件の回答は半分でしかなかった。三条実美は幕府重臣たちに更に迫った。

「もう一つのご返事項目である攘夷決行期日は何時になりますしゃろか?」

「それは目下、検討中です」

「我々は、何時、攘夷を実行していただけるのか、はっきりした返事をもらわないことには、京に帰られまへんえ」

「本件については幕府内部の意見をまとめないと回答出来ませんので、数日、お待ちください」

「そうでっか。なら、お待ちしてますでぇ」

 勅使は一応、納得して初日は帰って行った。勅使が帰ってから将軍後見職、一橋慶喜は将軍、家茂臨席のもとで老中、大目付、奉行ら重臣を集め、対策会議を実施した。政事総裁職、松平春嶽が司会をした。

「本日、勅使が参り、攘夷決行を督促された。これに関し、諸侯の意見をお伺いしたい。内容の是非を問わぬので、どうしたら良いか、意見を出してもらいたい。何か良い方法がありますか」

 その問いに対し、御側御用取次の大久保忠寛が意見を述べた。

「私はかって外国奉行を務めたことがあり、異国人がやって来ることを悪いと思っていません。彼らは我が国との交易により利益を得ようとやって来ているのであって、異国人全てが我々に危害を与えるとは思えません。従って異国人を人食い人種と思い込んでいるような帝や公卿を教育すべきです。攘夷などといって異国人を攻撃したら、我が国は、あっという間に全滅させられ、隣国、清のように植民地にされてしまいます。私は攘夷に反対です」

 すると忍藩の松平忠国が反論した。

「我々、忍藩は安房、上総の沿岸警備をしております。警備隊員が言うには、異国人が蒸気船から小舟を降ろし、房総海岸にやって来て、盗み、暴行をしており、漁民男女が数人殺されたとのことです。国を平和にし、民の命を守るのが幕府の役目です。あ奴らを野放しにしておいたら、それこそ清のように異国の支配下に入れられてしまいます。一時も早く、攘夷を決行すべきです」

 続いて軍艦頭取、勝海舟が発言した。

「我が国は今、開国か攘夷で揺れ動いていますが、何故、開国か攘夷なのです。まず開国解放か鎖国継続か決めるべきでしょう。その答えはアメリカを見て来た私には語るまでも無く、我が国が行うべきは開国解放です。束縛されない異国との交流、国力の向上です。その為に、攘夷を経験することも良いでしょう。異国の軍備力の怖さを知らぬ連中には攘夷もよろしいでしょう。人は手に火が触れて、初めて熱いと気付くのです。我々、幕府は火が熱い事を知っています。良いじゃあないですか、京へ行って攘夷を行えば、京は火の海です。我々は、江戸を火の海にしてはなりません。攘夷の決行は京に行ってやるべきです」

 勝海舟の暴言に皆、驚いた。そんなことになったらどうなるのか。これは徳川幕府に代わって政権を握ろうとしている連中の罠だ。その罠をかける為に、誰が自分を将軍後見職にしたのか。慶喜は考えた。やってみようじゃあないか。慶喜は攘夷を決断する前に、アメリカというより、世界を一周して来た男、小栗上野介の意見を聞きたかった。

「そう言えば軍艦頭取と共にアメリカを見て来た南町奉行、小栗上野介の意見を聞きたいが、どうかな」

 一橋慶喜に指名され、忠順は自分の考えを述べた。

「皆さんの知る通り、黒船来航の嘉永以前の我が国は外国の存在を知ってはいても何とも感じていませんでした。無知だったのです。しかし、南国の外様諸藩は、密貿易を行い、相手国の国情や武力を学習し、藩を富ませて、海防、教育、時勢に即応する設備に経費を投入し、幕府をしのぐ力を付けてしまいました。そして、これら諸藩有志は尊王攘夷を旗印に、今までお飾りだった京都朝廷を持ち上げ、国政を自分たちのものにしょうと画策を開始し、勅使が江戸に来る現状を作り上げたてしまいました。まさに京の朝廷と徳川幕府が国政上の決定権を持つ、二元政治の体制を作り上げてしまったのです。二元政治は国民にとって最悪状態です。外国人からすれば、日本国は東と西に政府がある二重構造の国です。これは良くないことです。中には徳川将軍は国家元首で無く、何の役にも立たない飾り者だと思う外交官もおります。また武力的に南国諸藩に劣る幕府は、果たして将軍家といえるかどうか、疑問を持つ武士も現われています。そういった誤解を払拭する為に、今は徳川幕府の威厳を見せる時です。幸い、横浜を開港し、関東の貿易による利益確保が急上昇しております。今は、じっと我慢し、造船、製鉄、兵器製造、輸出品製造など盛んにし、交易を増や資金を増やすことです。我が国は島国です。今、何よりも急ぐべきは軍艦を国産化する為の造船所を建設し、軍艦を百隻や二百隻、保有することです」

 すると勝海舟が笑って忠順の意見に割り込んだ。

「お言葉ながら上野介殿。馬鹿な事、仰有いますな。そうなるには、あと五百年もかかりましょう。イギリスの海軍が当今のように強大になっているのも三百年の年月を経て、今日に至つているのです。造船所など建設せず、その費用で外国から軍艦を買えば良いことで御座らんか」

「善は急げと申します。兎に角、我が国の軍備の国産化を進言致します」

「それは分かった。問題は攘夷に賛成か反対かじゃ」

 慶喜は、忠順に答えを迫った。忠順は答えた。

「外国奉行を務めた私は、岩瀬忠震様や井上清直様の黒船来航時の御苦労、あるいは川路聖謨様、堀利熈様の外国との条約締結交渉が如何に大変だったかを知っております。この先輩方の努力により、日本国は世界の国々に国家として認められ、世界の優秀な国とお付き合い出来る仲間になれたのです。ここで再び国の扉を閉めたら、我が国には新しい風は入らず、国内は黴て腐り果てます。先輩方の苦心を無駄にしてはなりません。外国との条約破棄などあってはなりません。国は信用が第一です。従って攘夷には反対です。しかしながら、国内事情を考えますれば、帝や公家たちの意見に従い攘夷でしょう」

「じれったい。一体、上野介の考えは、どっちなのじゃ」

「それは攘夷決行です。勝海舟様が申されたように、京に行って、ちょっと火遊びをして帰って来れば良いのです。京が戦場になれば、帝も目が覚めましょう」

 忠順は、ここで、徳川幕府は帝や京都朝廷から委任された政権では無く、神君、徳川家康公が創設した我が国の自立した政権であると言いたかったが、水戸学の将軍は天子様から委任された役職であるという考えに同調している者もおるので、そこまで言うのは止めた。将軍、徳川家茂、将軍後見職、一橋慶喜、政事総裁職、松平春嶽、家老、板倉勝静らは、以上のような幕臣たちの意見を聞き、どうすれば良いかを検討した。京都町奉行、永井尚志からの報告よれば、京は薩摩、長州に牛耳られていて、まるで江戸幕府関係者は外様扱いであるという。慶喜はそこで土佐藩の江戸屋敷にいる土佐藩前藩主、山内容堂などに相談して回っている春嶽と相談し、考えを少し修正して勅使に返事した。

「御勅使方に幕府の返事を致します。目下、京にありて、浪人者など暴力集団が窃盗殺人を繰り返し、京都町奉行では対応出来ない程の大混乱になっているとのことです。それについて、薩摩藩が、幕府の提案する京都守護職を引き受けると朝廷に申し出たとか。よって幕府は京都守護職、松平容保の派遣を保留致します。攘夷決行の期日については、来春、将軍上洛の上、ご返事致します」

「何と、御親兵設置については、保留するというのでごじゃるか」

「薩摩が代行するというのであればでござる」

「分かった。では幕府の攘夷決行については来春、将軍自ら上洛し、帝に御返事致すというのでごじゃるな」

「左様に御座います。当然のことながら、帝のご命令をいただいてからとなります」

 すると勅使は、京都の守りは幕府又は薩摩の京都守護職派遣で分かったが、海防についてはどう考えているか知りたいと追求された。そこで慶喜は軍艦頭取、勝海舟に命じ、幕府の軍艦操練所を見学さ、摂津警備及び神戸操練所の計画なども説明させた。勅使たちはこれらを見学し、大満足して京に帰った。京の勅使が戻り、南町奉行、小栗忠順はほっとした。これで江戸も少しは落ち着くだろう。忠順は、また木村喜毅と『開明研』の仕事が出来ると思った。その前に、用心棒として働いてもらった山田城之助たち4人を故郷に帰すことにした。帰すにあたって、忠順はこっそり、城之助を部屋に呼び、こう伝えた。

「二年間、御苦労様でした。危険を顧みず、随分、助けて貰った。心より感謝している。厚く御礼申し上げる」

「そ、そんな。こちらこそ、いろんなことを殿様に御指導いただき、感謝しております。また何か御用がありましたら、遠慮なく声をかけて下さい」

「そこで、お願いだが、次の事を引き受けてくれ」

「何で御座いましょう」

「秘密だが、来年、幕府から一橋様が京に赴き、攘夷を決行する」

「ええっ!」

「これからが本当の秘密だ。誰にも漏らすな。一橋様が京に行き、異国人との戦さを始め、その戦さが京、大阪近辺で治まれば良いのだが、関東にまで波及することも考えられる。下手をすると幕府が崩壊するかも知れぬ。結果、我が国は異国の植民地にされるかも分からない。私はアフリカやジャワの植民地を見て来たが、植民地にされた国民は牛馬のように酷使されている。日本人が異国人に酷使されて良いわけがない。その時にこそ、本当の攘夷を行わねばならぬ」

「ごもっともで」

「だから私は万一の時のことを考え、危機対応を始める。まずは幕府に気づかれぬよう倉渕に軍事物資を送るので、それを何処かの山中に隠して欲しいのだ。江戸から上州迄の輸送を含めてのことだが、藤七とうまくやってくれ」

「ははーっ。分かりました。先日、ここにお伺いした好三郎さんの兄貴、重吉さんは、材木を江戸まで運んでおりますし、俺は傳馬継手が本業ですので、運搬はお手のもんです。任せておくんなせえ。それに隠し場所は藤七さんと相談しますので、品物の準備が出来ましたら、お知らせ下さい。直ぐに跳んで参りやす」

「では達者でな」

 忠順は山田城之助、田代栄助らを帰郷させると、何故か寂しい気分になった。南町奉行の仕事が無かったら、城之助たちと一緒に倉渕に行きたかった。

        〇

 山田城之助たちが小栗屋敷からいなくなってから、小栗忠順は南町奉行から外されることになった。何故かというと、一橋慶喜や松平春嶽からの呼び出しが多く、奉行職が疎かになり、11月末、外国奉行の先輩、井上清直と南町奉行職を引継がなければ、ならなくなったからだ。井上清直は川路聖謨の弟で、外国語が堪能で公使館との付き合いも上手にやってくれるだろうと、忠順は安心した。一橋慶喜や松平春嶽の呼び出しというのは、軍艦奉行、木村喜毅に国防の相談をしたところ、勝海舟以外に小栗忠順の意見を聞くべきだと言われたということだった。『開明研』で時々、会う木村から、日本国の陸軍、海軍を如何にすべきか上層部と検討中だと聞かされていたので、忠順は、アメリカ出張時、吉田好三郎たちがスケッチした写しを持って登城することにした。11月初め、忠順が登城すると、案の定、一橋慶喜が、こう口火を切った。

「木村軍艦奉行と勝軍艦操練所頭取と相談し、海軍の全国配置を考え、神戸に海軍操練所を作ることにした。そこで、今度は陸軍だ。二人に陸軍の相談をしたら、自分たちはアメリカのサンフランシスコとハワイに行っただけで、海の事は分かるが、陸のことはさっぱり分からんとの回答だ。木村摂津守が言うには、小栗奉行に相談した方が、良いというのだ。薩摩に訊く訳にはいかぬからな」

「確かに薩摩に訊く訳には参りません。私が思うに、島津久光様は徳川幕府から政権を奪おうと画策しているのではないかと想像されます。薩摩は琉球王国を通じ、密貿易を行い、その利益で洋式兵器を購入し、藩兵も異国人から洋式訓練を受けているとのことで御座います。幕府は、海軍操練所だけでなく、木村軍艦奉行と我々が提案している、造船所、製鉄所の開設を急ぐべきです。勝軍艦頭取のいう軍艦操作、大砲の訓練、沿岸警備だけでは国は持ちません。我が国は四方を海に囲まれています。沢山の軍艦が必要です」

「それは分かった。造船所の建設などの計画は木村軍艦奉行と、そなたに任せる。本題は陸軍だ。どうすれば良い」

「私はアメリカに行き、ニューヨークでアメリカ陸軍師団八千の閲兵を行い、駐屯場、軍事工場、砲撃訓練場などを見学させていただきました。彼らは陸軍本部の下に師団、旅団、連隊などと多くの階層を設け、教練を実施しています。武器操作は勿論、敵情視察、輸送係など、軍人の役割を細かに決めております。我が国が今、成すべきは、アメリカかフランスの将校を日本に招聘し、教育していただくのが、賢明かと存じます」

「成程。その階層の分け方は、どのようにして行っているのじゃ」

「アメリカは合衆国です。州の総体の上に政府があり、軍があります。我が国も西から西海道、南海道、山陰道、山陽道、畿内、東海道、北陸道、東山道、北海道と九地方からなっております。この地区に師団を配置するのです。その下に信濃旅団、甲斐旅団、武蔵旅団、相模旅団などといった旅団を配置します。更にその下に連隊を置きます。連隊は歩兵隊、砲兵隊、騎兵隊、輸送隊からなっています。このような連隊を津々浦々まで配置された国軍は強力です」

「うむ。海軍の沿岸警備隊と同様、各地区に分けて軍隊を配置するというのか」

「左様に御座います。当然、地区の政治政策も、この地区に分けて行われます。現在のような藩や幕府直轄領や知行地別の政治などという細切れの政治は行われておりません。我が国もかくあるべきです。我が国の陸軍強化を考えるなら、まず藩を無くし、幕府に陸軍本部を置き、陸軍総裁職を設け、政事総裁職と共に幕府を引っ張っていく車の両輪として国を守るべきです。当然のことながら、陸軍にも海軍同様、大砲、鉄砲、爆薬などの国産化が必要です」

 忠順は言いたいことを言った。そして持参したスケッチを見せ、アメリカの兵舎や軍事工場、練習場などの説明をした。これらの説明に一橋慶喜も松平春嶽も側にいた平岡平四郎も横井小楠も目をまるくした。忠順は笑って言った。

「帝が異国人を天狗のように思って恐れているようですが、それと同じです。何事も実物を見なければ理解出来ないことです。折あらば、御殿様方も外国に訪問し、外国の実力を知る事です。もっとも攘夷を実行すれば分かる事ですが・・・」

「小栗上野介は何時も勝手な事を言うが、実に参考になる。越前殿、朝廷とのもめごとが解消されたら、私たちもアメリカへ行ってみようか」

「誠に左様に御座います」

 一橋慶喜と春嶽たちは、大声を上げて笑った。その次に京都守護職派遣の話になった。春嶽は慶喜に進言した。

「先日、勝軍艦頭取が、土佐の坂本龍太郎を連れてやって来ました。坂本が言うには、京に戻る勅使、三条実美たちが、坂本と顔馴染みの武市半平太に、薩摩の島津久光を、京都所司代の上の京都守護職に就けようと申していたとのことです。彼らは、上野介の言う通り、幕府の役目を奪うつもりのようです」

「それはまずい。会津を直ぐに派遣しよう」

「それが良かろうかと思います。坂本龍太郎は長州藩邸にも出入りしている男です。彼からの情報なら真実です。急ぐべきです」

「いろいろと忙しいのに御苦労であった。他に何か助言はないか?」

「話は変わりますが、大殿が上洛し、攘夷するにあたって、上野介に提案があります」

「何じゃ」

「大殿は御立腹なされるかも知れませんが、攘夷を開始する時は、大殿にイギリスの海軍大将のような将軍服を着用されて、出向かれることを、お勧めします。私がアーネスト・サトウに頼んで作らせますので」

「それは面白い。帝や公家たちを驚かせてやろうというのだな。直ぐに手配してくれ」

 かくして保留になっていた会津藩主、松平容保の京都派遣は確定した。一橋慶喜と松平春嶽は、遠慮勝手なく意見を述べる小栗忠順を12月から勘定奉行兼歩兵奉行に任命した。このようにして、小栗忠順たちの意見を聞きながら、一橋慶喜と松平春嶽と家老たち幕閣は幕府の政治を進めて行った。

         〇

 毎年のことだが、江戸は師走になり、慌ただしくなり始めた。幕府から命を受けた松平容保は12月9日、千人の会津藩兵を従え京に向かった。忠順は、それを芝の会津藩中屋敷前まで行って見送った。忠順は勘定奉行兼歩兵奉行になり南町奉行より、閑になった。歩兵奉行の方は三崎町の講武所などに行き、諸々、検討し、まず兵賦金制度を発表し、来年、本格的に行動を開始すれば良いと思った。12月12日には『開明研』から帰って来て、塚本真彦と将棋を楽しんだ。それから、酒を飲んで真彦が帰ると、ゆっくり布団に入り、道子と子作りに励もうかと考えた。そんな夜のことだった。半鐘が鳴ったので、急いで跳び起きると、江戸城の南の方の夜空が真っ赤に染まっていた。半鐘が連打された。家事だ。この間まで南町奉行をしていた忠順は火事が気になり、直ぐに奉行衣装に着替え、駆けつけて来た江幡祐蔵と馬に乗った。

「様子を見に行って来る」

 忠順は妻、道子や娘、鉞子と家臣に、そう言って、馬を南に走らせた。南町奉行所に行くと、南町奉行、井上清直は既に現場に向かったという。現場が何処か尋ねると、泉岳寺あたりだという。忠順は祐蔵と現場に向かった。増上寺の前を走り抜け、札ノ辻を越えて、忠順は真紅に夜空を染めている場所が、泉岳寺より更に向こうの御殿山であると気付いた。忠順は血相を変えた。高輪から品川に向かって、人が沢山、走っている。

「邪魔だ!邪魔だ!」

 祐蔵が大声を上げ、道を開けさせた。燃えているのは何と、御殿山の上に完成したばかりの、イギリス公使館だった。現場に着くと江戸の火消し鳶が大勢集まり火消しを行っていた。崩れ落ち燃え続けている公使館の現場を南町奉行、井上清直と火消し装束の新門辰五郎が見ながら、火消しの指示をしていた。

「御出で下さったか。折角、完成させた公使館が、何者かに焼き打ちされた。近所の者に確認したら、爆発音がして、跳び起きたら、公使館に火の手が上がっていたという。多分、爆薬を使っての放火だ。年内の引っ越しを考えていたというのに、酷い事をする奴らだ。多分、薩摩か長州の連中だろう」

「何てこった。ひでえ奴らだ。あいつらはこの世の破壊しか考えていない大悪党だ。辻内近江棟梁が心を込めて建設した二階建ての立派な洋館が、あっという間に消されてしまった。放火犯を捕まえたら、火あぶりにするんだな」

「ああ、そうしよう。辰五郎親分、犯人探し頼んだぜ」

 側にいた新門辰五郎は荒い声で即座に答えた。

「がってんでえ。わしらに任せておくんなせえ。捕まえて火あぶりにしましょう」

 そうしているところへ、イギリスのニール代理公使やアーネスト・サトウたちがやって来た。彼らは焼け落ちてまだ赤く燃え残っている丸焼けの公使館を見て愕然とした。

「ホワイ・イズジス・ハプニング?」

 南町奉行、井上清直と小栗忠順たちは、日本人のこの悪行を何度も頭を下げて謝った。その頃、犯人、長州藩士、高杉晋作と久坂玄瑞たちは芝浦の妓楼で、燃え盛っていた御殿山の火が下火になって行くのを眺めていた。その翌日であった。小栗家に思わぬ客人があった。何と福沢諭吉と福地源一郎の二人だった。諭吉についてはアメリカに行った時、一緒だったので、気心の知れた良き後輩であった。福地源一郎は外国組頭、柴田剛中の部下で、諭吉と一緒にヨーロッパから帰国し、諭吉の帰国報告に一緒について来たとのことであった。忠順はこの若い二人の来訪を喜び、吉田好三郎、塚本真彦などを呼んで、ヨーロッパ事情を聞くことにした。諭吉は今回の遣欧使節団の正使、竹内保徳から、小栗上野介に詳細報告をして来いと命令され、訪問したと前置きして、イギリス軍艦『オーディン号』に乗って、品川を出港し、長崎、香港、シンガポールまで行き、そこからセイロンに行き、インド洋を越え、アラビア海を経て、イエメンに着き、紅海に入り、スエズで船を降り、カイロ迄行き、カイロから汽車に乗りアレクサンドリアに行ったまでを語った。その後、アレクサンドリアを『ヒマラヤ号』で出港して、地中海のマルタ島を経由し、サルデーニャ島の沿岸を通り、フランスのマルセーユに到着したと、福地源一郎が説明した。それから二人はフランス、イギリス、オランダ、プロセイン、ロシア、ポルトガルの話をした。各国との覚書締結の話、ロンドン万国博覧会、鉄道と駅舎、海軍工廠、造船所、鉄器工場、公共施設、病院、学校、教会、博物館、銀行、貨幣、造幣局、郵便局など、事細かに話してくれた。また議会制度、郵便制度、徴兵制度、議会制度の話もした。忠順は諭吉たちが、ヨーロッパで沢山、見て来た物を自分たちに語り、我が国でも、それを実現させたいと希望に目を輝かせているのが分かった。帰国は、ポルトガルのリスボンから出発し、ヨーロッパとアフリカの境界のジブラルタル海峡を通過し、地中海に入り、スエズからフランスの軍艦『ニユーロッペン号』に乗りシンガポールで降り、シンガポールからは小型エコ船に乗り、往路とほぼ同じ航路を辿り、約一年間の旅を終えて、無事帰国出来たと説明した。フランスではナポレオン3世、オランダではウイレム3世、ロシアではアレクサンドル2世に謁見出来たと話した。ロシアにはヤマートフと名乗る日本人、増田甲斎がいて、交渉がうまく運んだという。また今回の訪欧では特に、忠順の知る元駐日公使、オールコックにお世話になり、小栗によろしくと言っていたとのことであった。忠順は、一日では聞き足りないので、小栗家に時々、来るよう二人に伝え、帰国祝の酒宴を催した。二人は小栗家の歓迎を受け、大喜びした。12月18日には忠順に登城命令があり、陸軍の軍制改革を行い、陸軍総裁職、蜂須賀斉裕、陸軍奉行、大関増裕を任命した報告があった。両人とも、任命されたことを喜び、忠順の陸軍本部構想をもとに、これから計画を進めて行くと忠順に挨拶した。この頃、忠順がアーネスト・サトウに依頼した洋式将軍服が出来上がり、忠順がそれを届けに行くと、慶喜は大喜びして、平岡円四郎と忠順の前で着て見せた。御立派な雄姿だった。それから数日して、京都守護職、松平容保の率いる千人の幕府兵が12月24日、御所の東、金戒光明寺に着陣したとの知らせを受けた。これで将軍後見職、一橋慶喜の着任により、徳川幕府が積極的に動き、朝廷と世間が望む公武合体、攘夷実行の期待を持たせて一年が暮れるのかと、忠順はほくそ笑んだ。それにしても、小姓組頭、勘定奉行、南町奉行、歩兵奉行と任免の激しい一年であった。アメリカをはじめ世界を一周して来た経験から、己の信念をもって邁進し、上の者に直言してはばからぬ自分の提言が、幕府にとって重要な新知識として採用されつつあることは、忠順に来年への希望を抱かせた。

         〇

 文久三年(1863年)正月の三箇日は、親類、近所、幕臣たちが朝から晩まで新年の挨拶に来訪し、小栗忠順は接客に追われた。来客が少なくなると、忠順は一橋慶喜の所へ挨拶に出かけた。その慶喜は何時の間にか京に出かけ、不在だった。そこで忠順は留守居をしていた平岡円四郎を連れ、政事総裁職、松平春嶽に会いに行った。忠順は、歩兵奉行になり、旗本や御家人に対し、500石に1人、石高に応じ領内から頑丈な体格の良い者を選び幕府に供出し、兵賦金を支払うよう命令したが、評判が悪く、歩兵を集めるのに一苦労しており、講武所の連中の他に浪人、百姓、商人、職人を採用した非正規兵を集めることを許可して欲しいと要望した。すると春嶽は、皮肉っぽく言った。

「そんな状況ですか。上野介の言う事をきかぬ我侭な奴がいるとは。人を動かすのは難しいことだ、それなら上野介の望む百姓たちを非正規兵として、集めてみてはどうであろうか。のう平岡さん」

「は、はい。確かにそれは良い考えで御座います。そういえば、この間、武州の百姓が根岸の私ん家に来て、攘夷の為に一橋家の家来にして欲しいと、お願いに参りました。殿にもしものことがあれば、命を投げ打って働きますと申しておりましたが、突っ帰しました」

「ほぅ、そんな勇ましい百姓がいるのですか。一度、会って見たいものだ。私たちは程なく会津の容保殿と共に、京で働かなければならぬ。となれば、我々にも京での家臣がいる。その数は多い方が良い。その者を雇ってみては如何ですかな」

「良いのですか。攘夷を熱望する連中ですぞ」

「面白いじゃあないですか。慶喜殿は上野介のいう火遊びに京に行っているのじゃ。そういう連中の方が扱いやすいと思われるが」

「そうですか。承知しました。また来たら雇います」

 平岡円四郎は、忠順の顔を見て笑った。すると春嶽が円四郎に言った。

「そうだ。平岡さん。あなたが建白した清河八郎の『浪士組』の結成を急ぎ、上野介と血の気のある百姓たちを集め、『浪士組』に入れ、優秀な者を歩兵隊に採用したら、上手く行くのではないか」

「成程。それは良いお考えに御座います」

「有難う御座います。上野介、平岡殿と『浪士組』の人集めをさせていただきます」

 忠順は、しめたと思った。『浪士組』結成は農民兵の活用になる。神君、家康公以来、代々の将軍、徳川政権の努力により、戦さが無くなり、平穏な時代が続き、足軽が少なくなっている現状から、足軽歩兵の増強は、国家として急がねばならぬ事であった。忠順は平岡円四郎と共に松平春嶽に深く礼を言って、福井藩邸から辞去した。こうして、忠順の政事総裁職、松平春嶽と将軍後見職、一橋慶喜の用人、平岡円四郎への新年の挨拶は終わった。忠順は『浪士組』の増員許可をいただくと、直ぐに老中、小笠原長行の屋敷に伺い、老中とそこにいた陸軍総裁、蜂須賀斉裕、陸軍奉行、大関増裕にことの次第を報告した。三人ともこの計画に賛成した。これにより、日本国陸軍の計画はその一歩を踏み出した。忠順は挨拶回りを終え、屋敷に帰ると、塚本真彦たちを集め、『浪士組』の人集めをするよう伝えた。すると、年始の挨拶に江戸にやって来ていた佐藤藤七と人見惣兵衛が言った。

「村に帰って、威勢の良い奴らを集めて参りましょう」

「誰が良いだんべえか?」

 考えている二人に忠順は念押しした。

「村の者は『浪士組』に入れてはならぬ。連れて来るな。それと山田城之助にはこのことを秘密にしておけ。あ奴は話したら、大事な役目を放ったらかし、一目散にやって来そうだ。秩父の栄助や類作なら構わぬ」

「分かりあんした。帰りに秩父に寄って参りやす」

 そう言って佐藤藤七たちが小栗家の知行地に帰って、三日後、田代栄助が、5人程連れて江戸にやって来た。忠順はその5人と面会した。皆、武州の連中だった。その中に一人、年寄がいるので、忠順はびっくりした。

「栄助。こんなに集めて来てくれたか。礼を言う。全部で6人だな」

「いえ、5人です」

「そうか。そこの年配者が付添人で来てくれたんだな」

「いえ、違います。私が付添人でして、5人をお届けしたら、私は秩父に帰ります」

「おぅ、そうか」

 忠順は、田代栄助が帰ると聞いて、少し寂しい気持ちになった。すると、忠順が気にしていた年寄が挨拶した。

「私は武州胄山村の根岸友山と申す田舎者です。若き日、江戸で武芸を身に着け、故郷に戻り、自宅で、この田代栄助たちに学問と剣術を教えて来た百姓です。この度、栄助から、将軍、家茂様の上洛の護衛役募集を依頼され、応募者を募ったのですが人数が集まらず、この老体でも少しは役立つのではなろうかと参上致しました。一度の人生。お世話になって来た徳川様に挺身するのも良かろうかと思いまして・・」

「成程。面白い御仁じゃ。気に入った。剣術は何処で学ばれた?」

「北辰一刀流『千葉道場』です」

「では清川八郎、山岡鉄太郎の先輩じゃな。あいつらを大いに指導してやってくれ」

 忠順は田代栄助が連れて来た根岸友山、遠藤丈庵、清水吾一らを直ぐに浪士組に採用した。根岸友山は『浪士組』というのは格好が悪いので自分たちは『新武組』だと名乗った。武州『新武組』の連中は、即日、清川八郎の献策した『浪士組』に編入された。『浪士組』は鵜殿鳩翁が取締役としており、同年輩の根岸友山が加入したことをとても喜んだ。また忠順は鉄砲鋳造の為の溶鉱炉を日本で最初に築造した江川英龍が鉄砲製造所として使用していた『湯島大筒鋳立場』を利用する傍ら、関口水道町に、新しく新工場を建設し、砲腔に螺旋状の溝を切る施条機などの機械をオランダやフランスから輸入して設置した。その工場を『関口製造所』と名付け、その頭取に同年輩の武田斐三郎を任命し、製造技術者として友平栄などを登用した。

         〇

 この頃、京では、幕府から派遣された京都守護職、松平容保が1月2日から参内して、小御所で孝明天皇に初めて拝謁し、恩詔をいただき、君臣の地位名分に尽力していた。しかし京都朝廷は、外様の長州藩によって指導されていた。幕府から派遣された松平容保なのに朝廷の政界に参加しようとしても、参加は許されず、長州藩の激烈な尊王攘夷論のもとに政治が動かされていた。このようなことを予見してか、年末、京都町奉行、永井尚志から、京の情勢は長州藩が主導権を握り、長州過激派の者が開国派とみるや、殺害を繰り返し、治安が乱れているので、将軍後見職、一橋慶喜、政事総裁職、松平春嶽に、将軍、家茂様の上洛の前に上京して欲しいとの悲鳴に近い出張要請があった。慶喜と春嶽は京都守護職を年末から駐屯さたのに、駄目なのかと溜息をついた。状況を知るに予定を早め、先発するより仕方あるまい。短気な一橋慶喜は年末の用事があるのを無視して江戸を出発。1月5日、陸路で入京した。そして東本願寺に宿泊し、松平容保、永井尚志らから京の事情を聞いた。京の現実は長州藩が完全に朝廷を牛耳っていた。長州藩の尊王攘夷論が支配的で、小栗上野介が言っていた、二元政治状態であり、京は長州藩の誘導のもとに動いていた。伊吹山を境とする西国は徳川幕府と隔絶した独立政治地帯になっていて、まさに幕府存亡の危機といえた。慶喜が引き連れて行った水戸家の原市之進、梅沢孫太郎たちも、天下に誇る徳川家が軽視されている現実を知って驚いた。1月8日、慶喜は関白、近衛忠熈と議奏、伝奏の公卿の屋敷に挨拶に出かけた。慶喜はこの時こそ、京の人々を驚かせようと考えた。京都守護職、松平容保の行列の時の乗物は大名行列同様、駕籠であったが、慶喜の一行は違った。それは小栗上野介から教えて貰った陸軍騎兵隊の隊列であった。慶喜は立派な洋鞍の騎馬に乗り、イギリスの将軍服で着飾り、昨年より新規に編成した洋式騎兵隊を率い、共の奥向、若年寄などの幕臣たち総てを騎乗させ、五十騎ばかりで、都大路を馬蹄をとどろかせて移動した。これには関白、近衛忠熈はじめ公卿、武士、町人、女子供、犬までもが仰天した。この輝いた人物はただ者では無い。これが噂の神君か。その評判は畿内だけでなく畿外にも及んだ。慶喜は関白、近衛忠熈に迫った。

「中納言、一橋慶喜として近衛関白殿に訊きたい。我が国は、徳川幕府始まって以来、帝の下に朝廷があり、その下に幕府があり、徳川幕府が国事を司って来ております。その国事を司っている徳川幕府を無視して、薩摩や長州に朝廷が、いろんな許可を出していることが、上洛して、はっきりと分かりました。この現実は如何なる理由で生じたのか、御聞かせ下さい。その答えによって、幕府にも考えがありますので」

 この慶喜の言葉を聞いて、近衛忠熈は仰天する思いだった。攘夷より、朝廷に戦争を仕掛けて来る勢いを感じた。

「そ、それは薩摩の島津久光候が上洛して、幕府に代わって京の治安を守ってやると、帝に申し出たのが原因でごじゃる。そしたら、長州の毛利敬親候が、薩摩は江戸と同じく遠国なので、長州が夷狄を討伐すると申して、薩摩に代わり、京に藩士を送り込んで来ているのでごじゃる。幕府が攘夷親征を実行しないなら、長州がそれを実現すると言うてるのでごじゃる」

「だからと言って、幕府の派遣している京都所司代、牧野忠恭を軽んじることはないでしょう。それに幕府は勅使、三条実美卿、姉小路公知卿の要請内容に従い、京都守護職まで派遣しているのです。直ちに長州藩の者を帰藩するよう、朝廷より沙汰して下さい。それに従っていただけないなら、将軍の上洛は叶いません」

 何と言う男だ。将軍後継に担がれたことのある英明勇猛な人物だけあって鋭い。近衛忠熈は怯えた。

「ほな、宮中にて検討致しやす。それまで待っておくれやす」

 慶喜は、はっきりせぬ、せせら笑うような公家言葉が気に喰わなかったが、言うだけ言うと、大手を振って近衛邸を辞去した。慶喜は一仕事を終え、堂々と騎馬に乗り、東本願寺の宿舎に戻った。多くの人が東本願寺に向かう騎馬隊の後を追いかけた。東本願寺に入った慶喜は、そこで待っていた政事総裁職、松平春嶽の家臣、中根雪江が待っていた。彼は慶喜に、こう伝えた。

「現在、江戸では我が殿が蜂須賀陸軍総裁や大関陸軍奉行、小栗歩兵奉行と兵を集めており、月末には兵を連れて上洛するとのことで御座います。それまで辛抱して欲しいとのことで御座います」

「左様か。春嶽殿も心配しすぎじゃ。分かったと伝えてくれ」

 慶喜への報告を終えると、中根雪江は急いで帰って行った。京の夕暮れは寂しい。

         〇

 数日後、慶喜のいる東本願寺の宿舎に長州藩邸から4人の若者がやって来た。その者たちは朱鞘の刀を差し、ポックリ下駄を履き、長髪を流し、浪人風だった。その頭領らしい男が門兵に言った。

「将軍後見職、一橋慶喜殿に謁見をお願い申す」

 門兵が断ると、彼らは長州藩の名札を出し、謁見を迫った。江戸では将軍家一族である慶喜に対し、幕臣でも、そう易々、謁見を許されるものでは無かった。ましてや外様の不良姿の武士が、藩主の紹介状も無しに、宿舎に近づくことも許されなかった。それが京では守られず、無秩序状態であった。井伊大老亡き後、京は激烈な尊王攘夷論が猛威を振るい、朝廷はこれに従い動いていた。武力を持たない京の公卿たちを相手にして来た過激派の連中にとって、帝以外、恐れる者が無かった。身分など関係無かった。自分たちが朝廷を支配しているのだと思い込んでいた。そして訪ねて来た過激派の頭領は今は亡き『松下村塾』の吉田松陰の弟子、久坂玄瑞たちだった。慶喜は、その者たちの来訪を知ると、京に徘徊する若者たちの心理を把握したいと思った。

「通せ」

 だが側近、幕府の大目付、岡部長常が、謁見を思いとどまるよう、慶喜を説得した。

「一橋様。長州藩の者と称しても、相手は浪人風勢の乱雑不潔の連中です。刺客かも知れません。ここは用心して、奥でゆっくりしていて下さい」

 慶喜は相手の者が浪人風勢の者であろうと驚かなかった。とはいえ、将軍後見職を殺害しようという目的の連中なら、将軍、家茂が上洛するまで、会わぬ方が賢明であると思った。慶喜は、大目付、岡部の意見に従った。

「分かった。駿河守のよきに計らえ」

 大目付、岡部長常は部下に、連中を突き返せと命じた。部下は、将軍後見職様は御病気で謁見されることは不可能ですと、帰るよう命じた。ところが久坂玄瑞たちは玄関から去ろうとしなかった。そこで仕方なく岡部長常は玄関脇の小部屋に4人を入れ、応対した。

「私はもと長崎奉行、幕府大目付、岡部長常である。一橋後見職に代わって、用件を聞こう。その前に、それぞれの名を聞いておこう」

「わしは長州の久坂玄瑞。この者は、長州の寺島忠三郎、こちらは肥後の轟武兵衛と河上彦斎という者でがす」

「して用件とは」

 岡部長常は鋭い目をして、頭領、久坂玄瑞に訊いた。すると玄瑞は白い歯を見せて笑うと、こう言った。

「今、日本国各地で異国人が暴れまくっている。日本国の危機存亡の時である。我々若者、特に長州、水戸、薩摩、土佐の若者はそれを憂いておる。吉田松陰先生は、獄中より我等に異国を討てと言い残されて、幕府に処刑された。我が友、高杉晋作は去年、5月、藩命で五代友厚らと一緒に、幕府使節随行員として、長崎から清国の上海へ行き、上海が欧米の植民地になって死体が累々と転がる現場や、清朝軍と太平天国軍の国内戦の状況を目視して来て我等に残酷だったと話した。イギリスをはじめとする欧米諸国は清国の内戦を燃え上がらせ、清国の力を弱め、清国全土を植民地化しようとしていると。日本国は清国のようになって良いのか。良い筈はない。それ故、幕府は我等と共に速やかに攘夷決行の期日を決め、帝の御心を安んじ奉るべきである」

「とは申されても、京がこのような内乱状態では、それこそ異国の思う壺です。清国の内戦状態と同じではありませんか。幕府以外のそなたたち他藩の者こそ、京から退却すべきだと思うが・・」

「何を言うか。そう言って、お茶を濁すつもりであろうが、そうは問屋が卸さぬ。我等の言う事を訊かないと違勅の賊として、帝のお怒りを受けるであろうよ。そう一橋卿に伝えよ」

「成程、左様ですか。そのような請願があったことをお伝えしておきます」

 このやりとりを小部屋の外で、平岡円四郎が聞いていた。大目付、岡部長常との面談を終えて帰る久坂玄瑞が言い捨てた。

「将軍後見職とあろう者が、病気だと言って逃げやがったぞ。何ということか。たとえ将軍が上洛しても、後見職の一橋卿が、このざまでは、幕府に攘夷決行の意思なき事、明白である。このこと『学習院』に行って、皆に伝えよう」

 慶喜は、この一部始終を平岡円四郎から聞いて、確信した。彼ら尊王攘夷派の本心は、攘夷を煽り、欧米諸国と幕府を戦わせ、弱った幕府から政権を奪い取ろうする倒幕が狙いであることに相違なかった。乗ってはならない。慶喜は岡部長常、平岡平四郎らからの報告を聞いて、倒幕を狙っている連中の根城が何処であるかを知った。それは京都御所建春門外にある公家の子弟を教育する学校『学習院』だった。調査によれば、ここは去年から朝廷の公卿の国事掛が、御用部屋として建物の一部を使っているということであった。これを牛耳っているのが三条実美と姉小路公知とのことであった。慶喜は憤慨した。1月13日、慶喜は突如、将軍服に着替えた。驚いた平岡円四郎に言った。

「今から『学習院』へ行く。騎馬隊を用意せい」

「ははーっ」

 慶喜は大目付、岡部長常が、長州藩の久坂玄瑞に嚇されたこと以上に、幕府を軽んじられた事に立腹していた。腹の怒りが治まらなかった。またもや五十騎ほどの騎馬隊が都大路に繰り出したものであるから、京の住民たちは驚いた。その勇ましい姿を見て手を叩いて歓迎する大人、子供もあった。騎兵にライフル銃を持たせ、馬蹄をとどろかせて、北へ進む騎馬隊は、さながら御所を襲撃するかのように思われた。『学習院』に騎馬隊が入ると、何の前触れもなくやって来た慶喜たちを見て、公卿やそこにいた者たちはたじろいだ。

「な、何事にてお越しやすかいな?」

 そこにいた三条実美が怯えながら質問すると、慶喜は毅然として答えた。

「先日、ここの者が我が宿舎に挨拶に参った。私は、その時、体調を崩し、伏せっていた故、挨拶出来なかったので、挨拶に参った。その者はいるか。『学習院』の久坂玄瑞とか名乗ったそうだ」

「久坂玄瑞は居りません。外出中です」

「では三条卿。姉小路卿。あなた方とじっくり、攘夷について語り合いたい。我が宿舎に来た者は、清国の異国との戦闘について喋って帰られたという。清国の戦場の惨状は異国に砲撃され、死体が累々と転がっていたという。多分、我が国も、そこいらじゅうが、同様になる筈だ。特に国の代表のいる京は異国によって砲撃され、何万という死者が出て、人肉を犬があさるであろう。だが徳川幕府は、勅命をいただいた以上、攘夷を行わなければならない。その期日は将軍が上洛次第、決定する」

「それはそうでっしゃろ。麻呂らは、その日を待っておじゃる」

「帝やあなた方は、異国の軍艦や大砲や軍隊を見たことがおありか。背の高い天狗のような異国人と握手したことがおありか。その者らと死闘を行うのじゃぞ。あいつらは逆らう者を容赦しない。一人残らず全滅させる。あなた方の首などチョンのチョンだ」

「まさか帝や公卿たちまで殺すことは無かんじゃろ」

 三条実美たちは顔を蒼ざめさせて、反論した。

「なら手始めに幕府が実行する前に何処かの藩にやらせて見るが良い。夷敵の力と思惑が分かるであろう」

「一橋卿は何を仰りたいので、ごじゃるか。本音を仰られよ」

 姉小路公知が、震えて言った。慶喜は深い目の色をして、『学習院』の者たちに大語した。

「私は徳川将軍の武臣である。攘夷が徳川将軍の命令とあらば、身命をかけてこれにあたる。海外の列強を敵にする為、銃声砲煙は六十余州に響き渡り、死者が京は勿論のこと日本国の山野に満ちるであろう。時にあなた方、公卿は、この攘夷発令の張本人である故、夷狄に一番、狙われるものと覚悟せよ。その時になって、夷狄の砲撃に恐怖し、遁走なさらぬよう、今から心掛けておいて欲しい。砲弾によって手足が吹っ飛ぶこともあろう。特に『学習院』の面々は覚悟しておいて欲しい。それを伝えに来た」

 慶喜は、そう言い終わると、部屋の者、一同をぎょろりと見回した。慶喜のその気魄に皆が、身の毛を逆立たせて震えた。その自分に嚇された公卿たちの顔を確認すると、慶喜は『学習院』の部屋を出て、愛馬にひょいとまたがり、騎兵を連れて東本願寺に向かった。

         〇

 江戸では、京での攘夷開始に備え、陸軍総裁、蜂須賀斉裕、陸軍奉行、大関増裕、歩兵奉行、小栗忠順が、清川八郎をはじめとする講武所の松平忠敏、鵜殿鳩翁、中条金之助、山岡鉄太郎といった教授らを取締役にし、将軍警護の為の訓練を繰り返していた。忠順は、ここで団体行動の規律の重要さを解き、砲術訓練など、近代的軍事訓練も実施させた。武州『新徴組』の根岸友山たちも、この『浪士組』に参加し訓練を重ねた。幕府の政事総裁職、松平春嶽はこれらの進行状況を確認すると、1月22日、海路にて京への出発を決めた。品川沖から、艦長、勝海舟の指揮する軍艦『順動丸』にて、まずは大阪に向かった。船中、勝海舟は薩摩、長州、土佐の話をした。それらの情報は、築地の軍艦訓練所にいた勝海舟の弟子、坂本龍太郎、改め龍馬から得たものだと海舟は語った。彼は土佐の脱藩浪士で、これから、神戸の海軍操練所の指導者として張り切ってもらうという。春嶽は、その話を聞いて、もしかしてその者は、吉田東洋を殺害した、あの武市半平太一味ではないかと心配した。春嶽は船中、坂本龍馬に注意した。『順動丸』は1月29日、大阪に着いた。大阪にて宿泊中、春嶽より先に入京していた中根雪江がやって来て、京の状況を春嶽に説明した。

「長い船旅、お疲れ様でした。御体調は如何でしょうか」

「問題無い。ただ京のことがどうなっているのか心配じゃ」

 すると中根雪江は京の状況を話した。

「京は昨年まで、長州や薩摩の連中が闊歩しておりましたが、京都守護職、松平容保様や将軍後見職、一橋慶喜様が上洛されて、少しづつ、治安が安定して来ております。しかしながら、1月22日、儒学者、池内大学様が山内容堂様と打合わせを終えて帰る途次、自宅近くで殺され、その首を難波橋に晒されるという事件がありました。また23日には何を恐れたのか関白、近衛忠熈、青蓮宮ら穏健派の公家が国事御用掛を辞し、鷹司輔熈右大臣が関白となられました。2月1日には一橋慶喜様の宿舎の東本願寺の太鼓楼に幕府派と目された公家に仕える者の生首が白木の三方の上に乗せて置かれると言う生臭い事件もありました。焦る京都尊攘派の過激度が増しております」

「愚かな。攘夷派は見境が無くなって来ているな。国民が一丸となって外国から国を守ろうとしているというのに、同じ国民の殺戮を繰り返すとは」

「彼らが過激な行動になっているのには、別の目的があるのだと思われます」

「多分、毛利の豹変であろう。島津に感化されて国権を手中に収めようという野心が芽生えたのであろう」

 松平春嶽は、これから京で待ち受けている苦難に如何に対処すれば良いのか悩んだ。2月4日、春嶽は悩みを抱きながら二条堀川の藩邸に入った。すると先に上洛していた土佐の山内容堂が春嶽上洛を知り、藩邸に訪ねて来た。二人は早速、酒を汲み交わし、世相を嘆いた。

「京の都は、滅茶苦茶じゃ。正月十日、宇和島の宗城殿は京の宿舎、浄行寺の門に、〈悔悛しなければ朝令違背により、攘夷の血祭りに致す〉と張り紙をされたそうだ。それに先月末、池内大学殿が私の屋敷から帰る途中、殺された。私らも気を付けないと、危ないぞ」

「容堂殿は、そう言われるが、坂本龍馬の話では土佐の攘夷派が世情を搔き乱しているのだと、申していたぞ」

「武市半平太のことですな。あ奴は、土佐藩にとって大事な吉田東洋を暗殺した憎い男じゃ。いずれ腹を切らせる」

 容堂は辛そうな顔をした。春嶽は話題の方向を変えた。

「ところで慶喜殿の動きはうまく行ってますかな?」

「まあっ、びっくりしている。慶喜殿は先月、『学習院』に騎馬で乗り込み、公卿や長州藩士を怒鳴り飛ばしたそうじゃ。実は私も先日、三条実美卿の屋敷に怒鳴り込んでやった。三条家は姻戚であるので、少しくらい乱暴を言っても問題あるまいと思っての」

「何を言われた?」

「最近、とみに攘夷を煽るが、帝は本当に攘夷を怖がっていないのだな。お側に仕える公卿たちが、長州の尊攘浪士に操られ、勝手に幕府に戦争を開始させようとしているのではないだろうな。いざ異国との戦争になったら、西洋と日本の武器の性能の差は大きい。帝の首が幾つあっても足りないぞ。そう言ってやった。すると実美の奴、腰を抜かしおった」

「三条卿は、それでどう対処すると答えられた?」

「確かに帝は、異国との軍事力の差をご存じあらしゃりませぬ。されど、帝に真実を説明すれば、麻呂は浪士たちに殺されまする。分かって下されよ、容堂殿と言うのじゃ。三条卿はそう言って、何度も何度も、私に手を合わせて拝むのじゃ」

 山内容堂は、そう言って笑った。春嶽はそれは本当かと合わせ笑いをした。その後、春嶽は幕府軍の新歩兵部隊『浪士組』が近々、京に向かって出発し、攘夷意欲の満々である事を示し、京で暴れまくることになるぞと話した。

「そうか。そうなると毛利候が京での人気を取り戻そうと反撃して来て、内乱に発展するかも知れぬな。兎に角、長州の連中は、あの獄死した吉田松陰の思想を誤解している。松陰は開国国防を解いたのに、毛利は密貿易を行いながら、鎖国攘夷を叫んでいる。その思想が宮中にはびこってしまっているのであるから、始末が悪い。どうしたら良かろう」

「いずれにせよ。家茂様の上洛前に、慶喜殿を中心に会議を開催しよう」

 二人は一橋慶喜が、国運に関わる重大事をどのように処理しようとするのか、知りたかった。

          〇

 2月19日、将軍後見職、一橋慶喜、政事総裁、松平春嶽、京都守護職、松平容保、京都所司代、牧野忠恭、参与、山内容堂、参与、伊達宗城、東町奉行、永井尚志、西町奉行、滝川具知らが二条城の北側、京都所司代上屋敷に集合し会合を行った。議長を政事総裁、松平春嶽が務め、口火を切った。

「将軍、家茂様が上洛する前に我々は世情を確認し合い、幕府の今後の方針を決めておきたい。各々方のご意見を、遠慮なく述べて欲しい」

 すると先ず、京都守護職、松平容保が意見を言った。

「私は京に来て驚きました。京に来て初めて、朝廷が長州の者に牛耳られ、自分たちが朝敵になっていることを教えられました。何なんです。容堂殿。朝廷を守護するように三条卿と姉小路卿を、江戸城に連れて来た武市半平太という男は?幕府を京に引きずり出す為に来たとしか思えません。騙しです。朝廷での薩摩、長州、土佐の威信を高め、徳川家をそれと並列の位にしようとする企みではないですか。それは豊範殿の企みですか」

「それは、誤解じゃ。山内家は一豊候以来、徳川幕府の大政を重んじて参った。だからして、ここに私がいるのではないか」

 普段、笑顔の容堂が、眉を吊り上げて怒った。春嶽は、苦い顔をして、容保に注意した。

「容保殿。それは、ちと言い過ぎではあるまいか」

「申し訳ありません」

「いずれにせよ、長州藩士や薩摩藩士の京での勝手な振舞いに、京の住民も困り果てております。京から逃げ出す者も増えています。我々、京都所司代としても頑張って来たのですが、現状でも人が足らず困っています。もっと警護兵を増員していただきたいです」

 京都所司代の牧野忠恭が泣き面をして訴えた。それについて、春嶽が答えた。

「それについては、もう歩兵奉行、小栗上野介らが教育訓練指導した『浪士組』が京に向かって出発している筈じゃ。10日もすれば、到着するであろう」

「それは有難い話です」

 春嶽は頭を下げる忠恭を見て、頷いてから、宇和島藩主、伊達宗城に目を向けた。宗城はそれに対し、笑顔で応じた。

「朝廷は、慶喜殿を将軍後見職、春嶽殿を政事総裁職に据えたのですから、お二人が京の二条城に常駐して、成務を行えば良いのではありませんか?」

「成程、それは良い考えかも。さすれば、二条城で政事を決め、江戸の了承を得て、帝に奉じれば、万事、解決する。如何ですかな慶喜殿?」

 春嶽はじろりと慶喜を睨んだ。すると慶喜は春嶽を睨み返した。

「まずは長州人を京から追放することじゃ。御所の護衛役をしている長州藩士と幕府御家人とを入れ替えなければ事は始まらない。すべては、それからじゃ。『浪士組』到着次第、長州藩の者を京から追い出す」

 春嶽はそれだけで、総てが治まるとは思わなかった。幕府に与えられた攘夷の仕事をどのようにして結着させるかを討議せねばならなかった。

「それについては、『浪士組』が到着次第、実行させましょう。だが京のこの混乱は国家の政令が京と江戸の二ヶ所から出されていることに起因しています。政令は一途にすべし。この際、将軍、家茂様より政権が幕府にあることの念押しを朝廷にしていただきましょう。朝廷が政治を行うのか、幕府が政治を行うのか明確にしない限り、日本国の治安は安定せず、国難に対処出来ません」

「同意でござる」

 春嶽の言葉に対し、容堂があっさり同調した。

「同じでござる」

 伊達宗城も、それに同意した。他の者も頷いた。だが慶喜は同意の態度を示さなかった。容堂が慶喜に確認した。

「慶喜殿。帝に確認してもらいましょう」

 すると慶喜は、ゆっくりと答えた。

「念押しをするということは、幕府みずから、政治能力の低下を認め、朝廷に大権委任を請願するということになりますまいか。まずは、帝が大政の移譲を望んでいるのかを確認するべきでしょう。ここで将軍みずから、二百数十年、泰平の世を継続して来た徳川家の政事を放擲することは出来ぬ。我等は代々、徳川将軍家の家臣であることを忘れてはならない。今、我々が試されているのは徳川幕府の気概だ」

 慶喜は、政令の出し所は確かめるでも無いと、春嶽たち先輩方の意見を突っぱねた。その剣幕に春嶽は二の句が出なかった。その様子を見て容堂と宗城は見ていられず目を閉じた。容保は慶喜の意見を最もだと思った。こうして京都所司代上屋敷での会合は終了した。それから数日後の2月23日、江戸から、『浪士組』の200名程が、京にやって来た。春嶽に攘夷の断行、大赦の発令、天下の英材教育の急務三策を提唱し、『浪士組』を許可された清河八郎、山岡鉄太郎ら勇ましい連中である。一行は洛西壬生村に分宿した。京に着いた翌日の夕方、隊長、清河八郎は壬生の新徳寺に一同を集めて演説した。

「皆に伝える。我々は、第14代将軍、徳川家茂様の上洛の露払いを行い、京にやって来た。そして、数日後にやって来る将軍上洛後の警備に当たるのがお役目である。だがそれはあくまでも名目であつて、『虎の会』の精神、尊王攘夷を踏襲する我々は天皇守備の先鋒であるのだ。従って我々はこれから、朝廷に、その旨を上書し、将軍警護では無く、天皇警護を行う朝廷直属の親衛隊となる。そして我々は只今から朝廷の命令に従い行動する」

 この演説を聞いた鵜殿鳩翁、芹沢鴨、近藤勇、根岸友山たちはびっくりした。自分たちの目的は将軍警護ではなかったのか。この違約を聞いて、壬生村の宿舎に戻った鵜殿鳩翁、芹沢鴨、根岸友山、近藤勇たちは相談した。

「我々は、将軍護衛の兵として、陸軍奉行、大関増裕様、歩兵奉行、小栗忠順様の教導のもとに、京に派遣されたのに、清河隊長の話はおかしい」

「京にのぼり、頭がおかしくなったのではないでしょうか」

「俺たちは帝の警護をする為に、江戸からはるばる京にやって来たのではない。将軍様の警護をする為に江戸からやって来たのだ。帝を守るなら、京の奉行と近在の武士で役目を果たせることじゃ」

「清河隊長は、日本の諸国を漫遊して来たと、自慢していたが、何処かで、勤王思想を植え込まれて来ているのではないか」

 それぞれが、いろんなことを言った。しかし、この清河八郎の上申書は24日、『学習院』の三条実美から、関白、鷹司輔熈に提出され、27日、認可された。その認可の条件は、久坂玄瑞らの意見により、江戸での尊王攘夷運動を激化させる事であった。清河八郎は朝廷直属の部隊として、江戸に派遣されることになり、雀躍した。28日、清河八郎は『浪士組』200名程を新徳寺に集めて、上申結果を報告した。

「皆に伝える。我々は本日、帝より、朝廷直属の軍隊としての勅命をいただいた。その命題は江戸にて尊王攘夷をやることである。我々は、この勅令に従い、江戸に明日、引き返す。脱退したいと思う者は江戸に戻らずとも良し。共に帰る者は明日、五ッ半、ここから出発する。遅れるな。以上」

「ウオーッ!」

 『虎尾の会』の連中、山岡鉄太郎、松岡万たちが、奇声を上げた。清河八郎は英雄気分だった。しかし、『浪士組』を引率して来た鵜殿鳩翁は納得出来なかった。壬生寺から八木邸に寄宿している、根岸友山、近藤勇たちの所に出かけて、意見を聞いた。すると近藤勇が答えた。

「我々の目的は将軍警護。幕府権力の維持だ」

 その意見に、そこにいた『試衛館』の連中、土方歳三たちや、『新武組』の連中、根岸友山たちが、賛成した。『浪士組』を脱退して江戸に戻ることをせず、京に残り、将軍や幕府の重臣の警護に努めることを約束した。

         〇

 3月1日、清河八郎率いる『浪士組』は京から江戸へ向かった。これを知った将軍後見職、一橋慶喜や、京都守護職、松平容保は激怒した。追いかけて行って清河八郎たちを誅伐しようと思ったが、間もなく将軍、家茂が上洛するので、『浪士組』を追うのを止めた。松平春嶽も『浪士組』の江戸への引き上げを聞いて、愕然とした。平岡円四郎が躊躇していた『浪士組』結成の推奨をした自分を責めた。困った事になった。ここで幕府が後退せねば、江戸は尊攘派の妄動の渦に巻き込まれてしまう。焦った春嶽は3月3日、将軍、家茂を大津に出迎え、京が尊王攘夷を掲げる長州藩士によって攪乱されている現状を説明した。そして、この際、朝廷に大政を奉還し、攘夷を行わず、江戸に帰還されてはどうかと言上した。それを聞いて、家茂は目を丸くした。家茂はしばらく考えて答えた。

「越前のその話、聞かなかった事にしておこう」

 春嶽は大政奉還の意見を否定され、どうすれば良いか、自分の処遇を考えた。福井にいる横井小楠が言うように、徳川の政事総裁職を辞し、福井に戻り、兵を整え、挙藩上洛し、政令を一途にするしかないのか。こうした不安を抱きながら、将軍、家茂は3月4日早暁、老中、水野忠精、板倉勝静、若年寄、田沼意尊、稲葉正巳ら、3千を率いて京の二条城に入った。その知らせは江戸にも入った。二条城に入つた将軍、家茂がお疲れなので、3月5日、将軍後見職、一橋慶喜が将軍に代わって参内した。小御所において、関白、鷹司輔熈、前関白、近衛忠熈、大納言、二条斉敬、中川宮が侍座する中、慶喜は孝明天皇に謁見した。平伏する慶喜に、天皇は玉座からお言葉を発せられた。

「将軍職の儀、これまで通り申しつける。政事は総て委任致すを以って、攘夷の挙に忠誠を励めよ」

 慶喜は、このお言葉を頂戴すると、急いで二条城に戻り、この内容を家茂に申し上げた。これを聞いて、春嶽は顔を曇らせた。大政奉還の考えなど、二人には無かった。そして、7日、将軍、家茂が初めて参内し、孝明天皇に謁見すると、天皇が玉座から発せられたお言葉は慶喜に発したと同じお言葉であった。朝廷から下された勅書には攘夷を督促する文面に加えて、政において、事柄によっては天朝より、沙汰するとあった。それは春嶽の求めて来た政令一途に反する内容であった。二元政治の継続であった。これで国をひとつに纏めることが出来るとは思えない。3月9日、松平春嶽は将軍、家茂に政事総裁職の辞表を提出した。3月11日には孝明天皇の攘夷を祈願する賀茂神社への行幸があり、関白、公卿百官と共に、将軍、家茂、一橋慶喜以下、これに供奉することになった。これにより、万一、異国との開戦となった場合を考え、歩兵奉行、小栗忠順は軍事訓練の強化に専念した。忠順は西洋の軍服姿で、講武所に出向き、歩兵訓練、剣術訓練、砲術訓練、伝令訓練、遊泳訓練などを行わせた。春風が吹く中の訓練は心地良かった。福沢諭吉や福地源一郎にも訓練状況を見学させ、西洋との違いを確認した。そんな矢先、京へ送った筈の『浪士組』が、江戸に戻って来て、尊王攘夷運動を開始したという噂を耳にした。どうなっているのか。日本国は狂っている。諸国から江戸に次から次へと志士や浪士が、集まって来ている。将軍、将軍後見職、政事総裁職が不在の江戸は物騒、そのものであった。警戒せねばならなかった。そんな用心せねばならぬ時に、元麻布、善福寺のアメリカ公使館からの呼び出しがあり、忠順は塚本真彦、荒川佑蔵、多田徳次郎、塚越富五郎を連れて善福寺に行った。善福寺に着くと、ロバート・プリュイン米国公使らが、一同を出迎えた。

「ハロー、小栗サン。ウエルカム」

「ご無沙汰しております」

 まず、プリュイン公使と小栗忠順が握手し、それに続き、それぞれが握手、挨拶してから、会議室に入り打合せとなった。プリュイン公使が呼び出しの用件を話した。

「実は以前、御注文をいただいていた砲身用中ぐり盤とライフル銃5千挺が横浜港に到着致しました。どう致しましょうか」

「ああ、その件でしたか。それは別室で二人で話しましょう」

「分かりました」

 プリュイン公使は忠順と小栗家の通訳、多田徳次郎を別室に案内した。二人が密談する間、塚本真彦たちは会議室で、アントン・ポートマンと紅茶を飲みながら片言の英語と日本語で会話した。プリュイン公使と忠順の打合せは、アメリカ人通訳、リチャード・ヤンガーが加わり、順調だった。

 一、入荷物は、江戸の材木商『冬木屋』が横浜港へ引取りに行く。日時については『冬木屋』と相談して連絡する。

 二、代金は幕府が『三井組』を通じて、荷物受取後、支払う事とする。

 打合せが終了すると、日米の懇親会が行われた。日米の関係は5年9ヶ月、日本に駐在したタウンゼント・ハリスのお陰で、実に友好的だった。懇親会が終了すると、あたりは暗くなっていた。善福寺を出て、古川の一ノ橋から京極佐渡守の屋敷前を通り、中ノ橋の柳道を北門前町に向かって行くと、突然、先頭を行く塚越富五郎が提灯を手から落とした。黒い影が10人程、跳び出して来た。覆面をしている。

「何者だ!」

 塚本真彦が叫んだ。すると相手は静かに答えた。

「尊王攘夷の者だ」

「名を名乗れ!」

「名を名乗る馬鹿が何処にいる。外国かぶれの小栗上野介のお命、頂戴致す」

「人殺しは止めろ!人殺しをしても、平和は訪れぬ」

「うるせえっ!」

 相手は、忠順たちを取り囲んだ。忠順の家臣、四人が忠順をかばい、四方に向かって抜刀した。その四人の構えに隙は無かった。

「何をぐずぐずしてやがる。早くやっちまえ!」

 敵の頭領らしい者が怒鳴ると、一人が忠順めがけて突進して来た。その剣先を塚本真彦が撥ね退け、真上から相手の顔面を斬りつけた。相手は血飛沫を上げ、夜空に吼えて倒れた。斬り合いは、いずれも剣術を学んでいる者たちと見え、手ごわかった。忠順は、こんな時に城之助がいたらと思った。忠順は叫んだ。

「無駄だ!こんなところで命を落とさず、攘夷の戦さに命を懸けよ!」

「我らは勤王の志士だ。幕府の者を誅伐する!」

「あっはっはは。それで分かったぞ。お前たちの正体が。許さぬ!」

 忠順は右にすっ飛び、向かって来た男の足に足かけしてよろつかせると、背中から袈裟掛けに切った。男は地べたにうつ伏せになり、もがいた。さらに背中から襲って来た暴漢の大刀を右手の小刀で受け、振り向きざま大刀で相手の胴をを払った。忠順たちが強いので、敵は逃げ腰になった。

「ひるむな。幕府の連中、何するものぞ。やれっ!やれっ!」

 暴漢の頭領は声をからして叫んだ。騒ぎを聞きつけ、人が集まって来た。そこへ幕府見回りの者たちが現れた。

「動くなっ!火付盗賊改方、大久保忠恒である。大人しくしろ」

 すると暴漢たちは、一斉に狸穴方面に逃亡した。大久保忠恒は、襲われたのが小栗上野介だと知ると、馬から降り、事情を訊いた。忠順はアメリカ公使館の帰りを狙われたと説明し、各国の公使館の見張りを強化するよう依頼した。それから倒れている者を捕まえ、主犯が誰であるか白状させた。主犯は『浪士組』の清河八郎だった。それから数日後、3月29日、江戸日本橋の高札所に小栗忠順に関する張り紙が掲示された。

〈小栗豊後守役人中。此節に到り、猶、井伊、安藤の意を請継候もの多く、残らず採索致し可加誅伐之所・・・云々〉

 これは小栗忠順が、異国との交流を深め、軍制改革の急先鋒となり、西洋の軍服で兵賦金制を主張し、諸藩士や浪人たちが、陸軍歩兵隊になりたくて、続々と江戸に集まって来ていることの批判に相違なかった。このことは関西でもいえることであった。軍艦奉行、勝海舟が神戸軍艦操練所を設立し、坂本龍馬を塾長にして、航海練習生を集めていた。日本の陸軍と海軍の始まりであり、小栗忠順と勝海舟の競争でもあった。また京に残留した『浪士組』の水戸組、試衛館組、新武組は会津藩預かりとなり、『壬生浪士組』と名乗り、京の治安を守る為、長州勢を追い払うなど、団結して頑張った。小栗忠順は、江戸に戻って来た清河八郎率いる『浪士組』の実態を把握する為、岡田周蔵、神戸六郎、猿谷千恵蔵、早川仙五郎を密偵として『浪士組』送り込んだ。その密偵たちの調べによると、江戸へ帰還した『浪士組』の160名程は本所三笠町の小笠原加賀守の屋敷と旗本、西尾主水邸を浪人組屯所にしているが、馬喰町の旅館、羽生屋、井筒屋、山形屋にも分宿しており、清河八郎は『浪士組』本部の小笠原屋敷に居ることが少なく、鷹匠町の山岡鉄太郎の家にいることが多いという。清河八郎は、幕府討伐を計画しており、盗み強盗を働き、軍資金集めをして、神田柳原の武具商『梅田屋』から、槍や刀を購入、横浜の外商から武器弾薬を調達しいるという。これを聞いて放っておく訳にはいかない。忠順はこのことを、老中、水野忠精と脇坂安宅や小笠原長行、陸軍総裁、蜂須賀斉裕たちに話し、清河らを処罰しようとした。4月9日、『浪士組』取扱、中条金之助、高橋泥舟を呼びつけると、反対に高橋泥舟が、幕府が偽浪士を使い、『浪士組』の悪評を流す為、浮浪の徒を集め、富豪への押込み強盗、吉原の無銭飲食、辻斬りなどを行い、江戸を騒がせているのではないか。その張本人は小栗奉行ではないかと、食ってかかって来た。忠順は、それを聞いて激昂した。

「何を根拠に、嘘八百を並べるのか。北門前町で私を襲った者が、清岡八郎一味の悪業を白状している。早急に清河八郎一味を逮捕せよ」

「分かりました。戻りまして再調査致します」

「偽浪士がいるなら、そいつらを捕まえ南町奉行に引き渡せ」

「ははーっ」

 高橋泥舟は、納得しないまま、引き下がった。それから泥舟は、『浪士組』本部に戻り、清河八郎や義兄、山岡鉄太郎に、幕府からの命令を伝えた。すると清河八郎は笑って答えた。

「それは、もう済んだ」

 泥舟はあっけにとられた。八郎の傍にいる者たちは蒼ざめた顔をしていた。偽浪士、二人の仕置きが、八郎の部下によって本部の庭で済んでいた。石坂周造が岡田周蔵を斬首し、村上俊五郎が神戸六郎を斬首したという。八郎の部下はその晩、その二人の首を両国橋西詰の米沢町に晒し首にして、高札を建てた。

 〈神田六郎、岡田新吉、両名儀、報国志士の名を騙り、市中を騒がせ、無銭飲食、金銭を貪り取り候段、不届き至極につき、天誅を加え差出し候〉

 翌4月10日、早朝からの両国の騒ぎは直ぐに、忠順のもとに届いた。忠順は、それを聞いて、唇を噛み締めた。

「やりやがったな、清河八郎。許るせぬ」

「どう致しましょう」

「決まっているじゃないか。仲間の血が流れたんだ」

 塚本真彦は頷いた。塚本真彦は直ぐに猿谷千恵蔵、早川仙五郎を呼び、清河八郎の動静を探らせた。すると清河八郎は横浜外人居留地焼討の極秘の打合せ後の13日、出羽上山藩の金子与三郎に会うとの情報が入った。真彦は直ぐに幕府講武所の佐々木只三郎、窪田泉太郎を呼び寄せ、猿谷千恵蔵たちと合計6名で、清河八郎を捕縛するよう指示した。その日、清河八郎は、真木和泉の天皇専制政治論と安藤信正の公武合体政治論のどちらが、今後、日本の為に有益であるかを金子与三郎と論じ合った。充分に話し終えて上山藩の屋敷から石坂周造たちと出ると、あたりはもう暗かった。先月、小栗上野介を襲撃した北門前町を過ぎ、赤羽橋にさしかかろうとした時のことだった。突如、待ち伏せしていた佐々木只三郎、窪田泉太郎、猿谷千恵蔵らが清河一味を襲った。八郎は雄叫びを上げ、抜刀し、立ち向かったが、一緒にいた石坂周造たちは悲鳴を上げて逃げた。八郎は6人に滅多斬りにされて死んだ。このことにより『浪士組』は朝廷からの任務を失い、幕府から新たに『新徴組』と名付けられ、江戸市中取締役の庄内藩預かりとなった。一方、京では4月11日、攘夷の成功を祈願する石清水八幡宮への行幸が行われた。此の数日前、長州、土佐の過激派が行列に斬り込む噂を慶喜は耳にし、将軍、家茂に行幸供奉を欠席するよう進言した。すると家茂は慶喜を睨みつけて叱るように言った。

「それは不忠になる」

「とは申されても、将軍後見職として申し上げます。国家、徳川幕府継承の為、参加してはなりません」

 それに対し、松平容保が反対した。

「いいえ。上様の仰せられる通りです。たとえ如何なる暴漢が襲おうと、この容保、一命に賭けて、帝と上様を守護致します。徳川家は武門の棟梁でござる。私は京都守護職です。長州や土佐の過激派連中の勝手は許しません。暴漢に怯えて欠場しては幕府の威厳を失います」

「何を言う。命あっての物種という言葉があるではないか。君子危うきに近寄らずだ。我等は死しても、上様をお守りせねばならぬ」

 慶喜の強い口調に松平容保や幕閣も、慶喜の意見に服し、家茂は風邪による高熱を理由に欠席することになった。当日、慶喜は石清水八幡宮の行幸に、諸大名を連れて供奉した。慶喜もまた石清水まで行ったが、急に腹痛がすると言って、山の麓の寺院で休養し、予定されていた攘夷の節刀授与を受けなかった。そんな中、清河八郎とのゴタゴタがあってか、4月23日、小栗忠順は歩兵奉行兼勘定奉行の職を解かれた。

         〇

 5月になった。京では将軍、家茂はじめ、将軍後見職、一橋慶喜、京都守護職、松平容保をはじめ、町奉行所の兵士、『新選組』隊士たちが駐在し、着々と治安が鎮まりつつあった。江戸も清河八郎が消えて、尊王攘夷運動が少し下火になった。小栗忠順は4月末から暇になり、幕府の中ぐり盤を設置した滝野川の『開明研』に出かけたりしていた。ところが、江戸城内は悩み絶えず、混乱ていた。イギリスのジョン・ニール代理公使から生麦事件の賠償についての具体的な要求が、幕府に提示されて来たからだ。幕府の老中たちは、将軍と将軍後見職が不在なので、返答出来ないでいた。政事総裁賞、松平春嶽も職を辞し、福井に戻ってしまっている。そこで老中、小笠原長行が小栗忠順に判断を求めた。忠順は登城し、脇坂安宅と小笠原長行に言ってやった。

「オールコック公使が帰国して賠償金の請求が来たか。それに謝罪文を提出せよだと。多分、ロンドン万国博覧会の収支が芳しく無く、困っているのでしょう。上洛している方々に相談したとて、どうにもなりません。ここは戦争にでもなったら大変ですから、払っちゃっいましようか」

 将軍はじめ、将軍後見職がいなかったので回答が遅れており、ニール代理公使がむくれているに違いなかった。そこで5月3日、賠償金11万ポンドの手形と謝罪状を準備して、忠順は小笠原長行、竹本正雅とイギリス公使館に訪問し話し合った。ニール代理公使は幕府が要求通り対応してくれるというので感謝した。ニール代理公使は小笠原長行、竹本正雅、小栗忠順に信頼出来る友よと言い、三人の手を固く握って喜んだ。幕府は5月9日、『三井組』を経由して賠償金を支払う約束をした。後はフランスのベルクール公使からも同様の話があるかも知れないので、酒井忠眦に対応させるよう、小笠原長行に頼んだ。これで忠順の幕府の仕事は一休み。アメリカから輸入した中ぐり盤も『冬木屋』に頼み、横浜から滝野川の『開明研』に運び、据付が完了した。中ぐり盤の部品試作運転も『開明研』で進み、同時に輸入したライフル銃3千挺も江戸城の武器庫に無事、納入することが出来た。休職中に出来る事は済ませておこうと、忠順は知行地に行くことにした。村に災害は無いか、今年の作柄はどうか、もめごとは無いかなど確認することが多々あった。何より重要なのは『冬木屋』の蔵にあるライフル銃2千挺の権田村への移動だった。幸いにも、吉田好三郎の兄、『木屋』の重吉が『冬木屋』に来たので、取敢えず、ライフル銃千挺を木箱に入れて船便で江戸川から利根川経由で倉賀野河岸まで、運ぶよう伝えた。倉賀野からは傳馬継手の山田城之助と相談し、権田村の屋敷に届けるよう依頼した。そして自らは、塚本真彦ら5人と中仙道を上州権田村に馬で向かった。権田村では権田村の名主、佐藤藤七や中島三左衛門たちが待っていた。忠順は屋敷に村人を集め、世界の動きと清国の状況、日本の現状と幕府の動きを説明した。そして、大戦になれば、死者が増え、亡国の危機に陥ると語った。従って権田村の民は今日から危機に備え、生活せよと訓示した。翌日には安中藩主、板倉勝殷を訪ねた。勝殷は忠順の突然の来訪に驚いた。忠順は幕府の役目を外されたので、これを機会に放ったらかしにしておいた知行地の様子見に来たと伝えて、迷惑をお掛けしたと詫びた。それから、周知の通り、家茂将軍や一橋卿が上洛し、現地に滞在し、攘夷運動の鎮圧をしている最中であると報告した。しかしながら、長州藩をはじめとする青年たちの攘夷への熱情は高まるばかりで、異国との戦争にもなりかねないと悩んでいることを伝えた。そして異国との開戦となった場合、旧来の槍や刀では異国人に勝てないと説明した。それ故、大砲や鉄砲を作る為の鉄が必要なので、小栗家領地の住民も手伝うが、安中藩の住民にも、国家存亡の危機に対処する為、鉄山の採掘に協力して欲しいと要請した。すると板倉勝殷は胸を叩いて答えた。

「言われてみれば、国家の一大事である。大砲や鉄砲がなければ戦さに勝てぬ。して、ここら辺りの山に鉄があるだろうか?」

「私の知る者に金や銀、鉄、銅を探し回っている山師がおります。その者に調べさせますので御協力の程、よろしく願います」

「お易い御用です。鉄山らしき山を見付け次第、一緒に掘りましょう。もし、それが見つかれば、我が藩も豊かになります」

「このことは他藩に漏らさぬようお願いします」

「勿論です。うまく成功させましょう」

 二人は胸を弾ませた。板倉勝殷と打ち合わせし、知行地回りをしていると、江戸から荷物を運んで来た『木屋』の重吉一行と、山田城之助たちが、権田村にやって来た。倉賀野河岸の関所通過が心配だったが、重吉と城之助の顔で、書面だけで通過出来たと、二人に自慢された。忠順は、ライフル銃の入った箱を屋敷の土蔵に格納させ、ほっとした。その夜は、宴会となった。久しぶりに山田城之助や島田柳吉も加わり、賑やかになった。藤七が女衆に料理と酒を運ばせ、お祝い気分だった。その夜、城之助たちは小栗屋敷に泊った。そして翌日、忠順は、吉田重吉を新井村に帰した後、藤七と城之助と柳吉と密談し、安中藩主、板倉勝殷と鉄山採掘の話をして来たと説明し、その穴掘りに協力するよう依頼した。

「掘る山は三っだ。大桁山、妙義山、角落山の三山だ。鉄鉱石を掘るのであるが、金や銀に出くわすこともあるかも知れぬ。大桁山については、わずかながら鉄の採掘を始めている。そこで私が三名にお願いするのは、三山に兎に角、穴を掘る事だ。鉄鉱石が出て来ようが出て来なくても良い。入口が狭くても穴の中が大きて広い横穴を掘って欲しいのじゃ」

「どういうことですか。そんなに大きな洞穴を掘って?」

「我が国は異国との大戦争を起こすことになるかも知れぬ。その時のことを考え、その洞穴の中に武器弾薬、軍資金を準備しておくのだ。時は待った無しじゃ。洞穴が完成したら、いずれかの洞穴内に、昨日、運んで来たライフル銃も搬入しておくのじゃ」

「分かりました。でも本当に、そんな大掛かりの戦争になるんでやんすか?」

「考え過ぎかも知れぬが、危機対応は予め行っておかなければならない。それが生き残る秘訣じゃ」

 忠順は、そう言って笑った。それから二日後、忠順は江戸へ引き返した。江戸に着くと、江戸城の老中たちは、慌てふためいていた。久しぶりに登城した忠順は、びっくりした。まずびっくりしたのは将軍後見職、一橋慶喜が江戸城に帰って来ていることであった。それと長州藩が攘夷決行の日、5月10日の夕刻、関門海峡を通過しようとしていたアメリカの商船『ペンブローグ号』が強風と潮流の逆流を避けて、豊前国田野浦沖に錨を降ろしたところ、三田尻方面から下関に向かってやって来た長州藩の軍艦『庚申丸』と『癸亥丸』が、それを見付け、暗夜に乗じて、『ペンブローグ号』を砲撃したという事件だった。長州の久坂玄瑞が、幕府に先駆けて攘夷の火蓋を切ったというのだ。不意打ちを喰らった『ペンブローグ号』は慌てて錨を引き上げ、長州藩の軍艦の追跡を振り切って逃走したという。

「何と言う事を。先に長州にやられましたな。これで江戸幕府は民から不評を受けることになるでしょうな」

 忠順がそう言って一橋慶喜を睨むと、慶喜は膨れっ面をして答えた。

「上野介が、火遊びをして帰って来いというから、帰って来たのじゃ」

「なら、上様を置き去りにして帰って来ることは無かったのではありませんか?」

「天下の軍事兵馬の権は徳川幕府にある。なのに将軍である上様が京を離れ、不在となれば、攘夷無視、将軍職否認となってしまうではないか。だから上様をそのまま残して来た。それに文句があるか。私は大戦準備の整えをする為に関東に戻って来たのだ」

 忠順は呆れ果てた。何を考えているのか。英明にしてすこぶる胆略ありと言われている英雄、一橋慶喜が、これで良いのか。長州によって攘夷の火蓋は切られてしまったのだ。慶喜は老中、若年寄、勘定奉行、外国奉行などを招集し、5月10日、攘夷開始の勅諚があったことを皆に伝え、攘夷実行の手配を開始するよう幕閣諸氏に命じたという。号令を受けた重臣たちは困惑し、武装準備に奔走していた。忠順は執拗に慶喜に迫った。

「ならば攘夷決行の為、私にも具体的指示を下さい」

「その必要はない。総ては上様が決めること。私は将軍後見職を辞職している」

「知らないのか。上野介が知行地に行っている間、朝廷に辞職届を提出した」

「理由は何と?」

「関東に戻ったら攘夷反対の意見が多く、閣老、諸藩より攘夷実行にかこつけて、一橋が天下を奪おうと軍備を進めるのだという噂が立った為、その誤解の中、攘夷実行の勅旨を貫徹することが出来ぬ故、将軍後見職を辞し蟄居すると、関白、鷹司卿に提出した」

「成程」

 これが、火遊びをして帰って来た一橋慶喜の演技であるのかと、忠順は感心した。開国を願う慶喜は、自分と同様、世界を見ていると思った。

「我が国の統帥権が帝にあると誇示する以上、帝は総ての責任を負わねばならぬ。朝廷に騙されて将軍後見職になったが、初めから辞退するべきであった。今や私も春嶽殿も朝廷から与えられた職を辞した。後は老中たちが、将軍を援助するだけだ。そのように心得よ」

 慶喜は忠順にそう言って笑った。慶喜の将軍後見職後に江戸幕府を守る家老、脇坂安宅、小笠原長行たちは困惑するばかりであった。当然ながらそんな所へロバート・プリュイン米国公使から、『ペンブローグ号』が砲撃されたことへの抗議があった。江戸幕府は、プリュイン公使に対し、それは江戸で指示したことで無いので京都朝廷に確認すると返答して、プリュイン公使の訴えを躱した。そして京にもアメリカ公使館から抗議があり、リンカーン大統領が京を攻める指示を出すかも知れないと伝えた。朝廷では、本件についてどの様に対処すべきか会議をもった。朝廷では、帝、公卿、将軍、諸侯らが集まり、対処法を協議した。この席で、将軍、家茂に随行した元老中、板倉勝静は、外国との戦争をしてはならないと、死を覚悟して訴えた。

「長州は幕府の先鋒でも無いのに、アメリカの商船を砲撃し、アメリカを怒らせてしまいました。アメリカのリンカーン大統領は、南北戦争を終わらせ次第、日本を攻撃すると叫んでいるとのことです。外国公使を襲撃したり、公使館を焼き払ったり、我が国と友好を結び、交流を深めたいと希望している国々と卑怯な戦さをして何になるのでしょうか。武士道からすれば恥ずかしき行為です。知っての通り、オランダや清国としか交流の無かった我々は、世界列強の軍事力の恐ろしさを知っておらず、無知蒙昧な長州によって、戦さをすることになってしまった現状を深く分析するべきです。長州が戦さを開始したことにより、外夷の敵は幕府では無く、朝廷になってしまったのです。この責任を毛利候はどう始末するおつりですか?」

 将軍、家茂に代わって発言した板倉勝静の言葉に長州藩主、毛利敬親が答えた。

「我が藩は徳川幕府将軍が決めた攘夷決行日に戦闘開始したまでである。我が長州藩の『庚申丸』と『癸亥丸』の久坂玄瑞ら長州藩士は勇猛にも攘夷の火蓋をきったのだ。それが何故、悪い。褒めるべきことではないか」

「攘夷決行日は、開戦の日ではありません。開戦準備開始の日です。将軍後見職、一橋卿は、その準備の為に江戸に戻られたのです。その準備が完了せぬ前に、幕府より先に攻撃をしかけるとは何事ですか?」

 勝静が追求すると、毛利敬親は、せせら笑った。

「我が藩は前から攘夷の実行計画を推進し、外国から船や鉄砲などの買入れをしておる。それだけで無く、それらの藩内製造も進めて来た。また洋式軍制を導入し、外夷との戦闘訓練を繰り返し、今や外夷に負けぬ実力を持っておると確信している。国防を怠っていた幕府とは違う」

 それに対し、勝静は執拗に訴えた。

「毛利候は、オランダのことしか知らないのであろう。アメリカ、イギリス、フランス、ロシアの軍事力はオランダをはるかに上回るものだとの欧米から帰国した者たちの報告です。毛利候は上海に視察に出かけた高杉晋作から異国に攻撃されて、滅亡するかも知れない清国の悲惨な状況を聞かされていないのですか。欧米の砲撃に合い、死者累々の山だというではありませんか。そのようにならない為にも、ここはアメリカの怒りを鎮め、オランダ同様、友好を深めて、戦争を回避すべきではないでしょうか。でないと、攻撃の発信源が京にあるとみなされ、京は砲火により、火の海となります。狙われるのは江戸では無く、京の朝廷です。アメリカの軍事力をみくびってはなりません。美しい京に死体が転がり、その人肉を犬が食べてる光景などにしてはなりません」

「ああっ、恐ろしや」

 板倉勝静の言葉に公卿、姉小路公知も動かされ、開国思想に考えが変わった。姉小路は異国の戦力の恐ろしさを勝海舟からも教えられていたので、板倉勝静の言う通りだと思った。孝明天皇も勝静の言葉に動揺した。諸外国は攘夷の意志は天皇にありと理解し、攻撃して来るというのか。帝は一同に問うた。

「京を守る方法は無いのか?」

「こうなったら毛利候が、アメリカに詫びるしか方法が無いのではないでしょうか。毛利候、あなたがアメリカ公使館に使者を送り、問題を解決して下さい」

 怖くなった姉小路公知が、毛利敬親に言った。敬親は、姉小路公知を睨んだ。

「それは出来ません。我々は賀茂神社、石清水八幡宮の行幸に随行し、外夷との戦いに積極的に挑むことを宣誓したのです。我が藩にお任せ下さい」

 毛利敬親が頑張ったが会議は、アメリカの公使館に幕府から詫びを入れ、アメリカの動行を様子見することに決まった。会議が終了するや、将軍、家茂は板倉勝静、松平容保らと、二条城に引き上げた。残った公卿たちは5月20日、夜半まで朝議を行った。その帰途、姉小路公知は京都朔平門外の猿ヶ辻で3人の刺客に襲われた。公知は扇を振るい、一人の賊の刀を奪うなどして奮戦し、撃退したものの、頭と胸に深い傷を負い、翌、21日未明、自宅にて死去した。犯人は京の治安維持の為、薩摩の島津久光に姉小路公知が上洛を勧めていたのが原因ではないかというが、定かではない。

         〇

 外国との戦争に敗れた場合、その敗戦と国家廃滅の責任は朝廷となるので、これ以上、外夷を攻撃してはならないと反対を唱えた姉小路公知は暗殺された。というのに、朝廷は、長州藩に褒勅の沙汰を出したものであるから、長州藩志士の意気は大いに盛り上がり調子に乗った、5月22日、長州藩の長府の物見が横浜から長崎へ向かう途中のフランスの通報艦『キャンシャン号』が長府沖に停泊しているのを発見した。その情報を得た長州藩は翌朝、『キャンシャン号』が長府を出発し、関門海峡内に入ったところで、壇之浦をはじめとする各砲台から一斉攻撃を加えた。その数発が命中し、『キャンシャン号』は損傷した。『キャンシャン号』の艦長は事情が分からず、攻撃相手と交渉させる為、小型ボートを降ろし、書記官を乗せて陸へ向かわせたが、長州藩兵はそれを銃撃した。書記官が負傷し、水兵4人が殺された。『キャンシャン号』の艦長は急いで書記官を助け、海峡を通り抜けた。これを『庚申丸』と『癸亥丸』が追いかけた。『キャンシャン号』は負傷しつつも追跡を振り切り、長崎に到着した。続いて5月26日、オランダの外交代表、ポルスプルックを乗せたオランダ東洋艦隊の軍艦『メジューサ号』が横浜に向かうべく下関海峡に入って来ると長州藩は砲台や『庚申丸』や『癸亥丸』から猛烈な攻撃を加えた。その為、軍艦『メジューサ号』はメインマストや煙突が破壊され、死者4人、重傷者5人を出しながらも、1時間程、交戦し、周防灘から豊後水道に逃れた。オランダ外交代表、ポルスプルックは、オランダは他国と異なり江戸幕府始まってから長い友好関係があり、長崎奉行所の通行許可証を受領しており、幕府の水先案内人も乗艦しているので、攻撃はされまいと思い込んでいた。だが、それが違った。そんな大事件が起きているのに、朝廷では姉小路公知の殺害者が誰であるか追求した。現場に残された証拠品の刀から、薩摩藩の田中新兵衛の仕業だと判断され、田中新兵衛が逮捕され、取り調べ中に新兵衛は自殺した。結果、薩摩藩は5月29日、御所の警護から外された。この姉小路殺害事件で、薩摩藩は、朝廷の政界から排除され、朝廷は長州藩の独走状態になった。折角、沈静化していた長州の過激派の活動が強まり、天皇の攘夷と御親政及び倒幕の思想が、真木和泉によって、煽り立てられた。だが、幕府はこの状態を黙って見ている訳には行かなかった。将軍、家茂と板倉勝重は京都守護職、松平容保と相談し、朝廷から排除された薩摩藩が秘かに手を握ろうと接近して来ているのを利用して、長州征伐を実行しようと計画した。事は上手く運んだ。5月26日、横浜停泊中だったアメリカの軍艦『ワイオミング号』が横浜を出港し、6月1日、下関海峡に入った。艦長のデビット・マクドゥガルは、『ペンブローグ号』と異なり、長州藩の砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦、『庚申丸』、『壬戌丸』、『癸亥丸』を見つけ、砲撃を加えた。不意を打たれ、『壬戌丸』が先ず逃走すると、『ワイオミング号』は、『壬戌丸』を追いかけた。性能遥かに勝る『ワイオミング号』は直ぐに接近し、容赦なく『壬戌丸』を撃沈させた。『庚申丸』と『癸亥丸』が救援に向かうが、『ワイオミング号』はこれを返り討ちにし、『庚申丸』を撃沈、『癸亥丸』を大破させた。『ワイオミング号』は報復勝利すると、堂々と瀬戸内海を経て横浜へ帰還した。貧弱だった長州海軍は、壊滅状態になり、長州藩の陸地も、『ワイオミング号』の艦砲射撃を受け、甚大な被害を被った。6月5日、今度はフランス東洋艦隊の『セミラミス号』と『タンクレード号』が報復攻撃に下関海峡に侵攻した。まずは『セミラミス号』が35門砲の大型軍艦の威力を発揮し、前田、壇ノ浦の砲台に猛攻撃を加え、長州藩兵士を後退させ、陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠した。長州藩兵士は防戦するが敵わず、敗走した。フランス兵は民家を焼き払い、砲台を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが、軍艦からの砲撃に阻まれ、フランス陸戦隊兵の乱暴を止めることが出来なかった。フランス東洋艦隊のジョレス艦長は、これまた勝利し、汽笛を鳴らし、横浜へ帰還した。アメリカ、フランス艦隊の攻撃により長州藩は手痛い敗北を喫した。長州藩の毛利敬親は震え上がった。しかし、長州の下級武士や農民は、攘夷の精神を失わなかった。高杉晋作たちが、農民や町人を加えた『奇兵隊』を結成し、軍備を整え、なおも強硬な姿勢を崩さなかった。アメリカやフランス艦隊が長州に砲撃を加える計画は、アーネスト・サトウから小栗忠順のもとに逸早く届いていた。忠順はその状況から、京にいる長州藩兵たちが、京で勝海舟たち神戸軍艦操練所の連中を利用し、暴走するのではないかと心配した。このような状況にあって、元将軍後見職、一橋慶喜は小石川邸に引籠ったままで動きそうで無かった。忠順は急いで登城し、老中、脇坂安宅と小笠原長行に諫言した。

「長州藩とアメリカ、フランスとの戦争が始まります。このまま上様を上洛させたままにしておくことは危険です。人質状態の上様を一日でも早く、江戸に連れ戻さなければなりません。一時も早く上様お迎えの手配をお願いします」

「手配をお願いしますと言っても、どうすれば良い」

「横浜から軍艦で大阪に直行すれば済むことです」

「誰を派遣したら良かろう」

 脇坂安宅が忠順に訊いた。忠順は訊くまでも無いだろうと思った。

「お二人のいずれかがお迎えに上がらないと格好がつきません。軍艦の手配は軍艦奉行、木村喜毅殿に私から伝えましょう」

「分かった。私がお迎えに行こう」

 普段、大人しい家老、小笠原長行が毅然と答えた。忠順は、長行の即断に感心するや軍艦奉行、木村喜毅と相談し、船の手配の相談をし、イギリスのニール代理公使を口説き、軍艦を借りることにした。5月25日、家老、小笠原長行は、小栗忠順と木村喜毅がイギリスのニール代理公使に依頼して準備した2隻の汽船を含む5隻に千数百名の兵を乗せ、横浜から大阪に向かって出港した。小笠原長行一行は6月1日、大阪に到着した。それから二条城に迎えの使者を送ると、小笠原長行の行動は何を考えているのかと在京幕閣の猛反対に合い、将軍、家茂が長行の上京を差し止めた。だが家茂は嬉しかった。6月9日、京を出発、大阪に移動し、小笠原長行を交えて老中たちと打合せした。結果、長行は褒められるどころか水野忠精らによって、6月10日、老中職を罷免された。将軍が義兄をお守りしているのに何故、迎えに来たのかと長行の行動は理解されなかった。だが下関で長州とアメリカとの戦争で聴長州軍が一方的に砲撃された知らせが入ると、このままでは京が戦場になると、将軍、家茂らは小笠原長行の乗って来た軍艦に乗り、6月13日、大阪を出港し、6月16日に江戸に戻った。和宮は夫の帰りを涙して喜んだ。

         〇

 イギリス代理公使、ジョン・ニールは将軍、家茂が無事、江戸に戻ったのを確認すると、5月9日、イギリスに賠償金を支払った小笠原長行が老中を罷免されたと聞き、薩摩に行って、生麦事件の賠償金を要求し、小笠原長行の正統性を幕府に認めさせようと決断した。その動きをアーネスト・サトウから耳にした小栗忠順は、登城して、将軍、家茂に謁見し、状況説明を行った。

「江戸への御帰還、心よりお慶び申し上げます。京にて万一の事があったらと幕臣一同、心配しておりました。本日はイギリスの代理公使が、薩摩に出かけると聞いて、お知らせに参上致しました」

「そうか。して何故にイギリスの代理公使が薩摩に行くのか」

「その理由は、薩摩に生麦事件の賠償金請求に行かれるのです。5月9日、幕府では小笠原様がイギリスに賠償金の支払いを済ませ、長州のように江戸が砲撃されずに済みました。江戸が火の海にならなかったのは小笠原様のお陰です。それに上様を救出に大阪に出向かれたのも、小笠原様です。小笠原様は立派なお方です」

「何が言いたいのじゃ、上野介。余が老中、小笠原壱岐守を罷免したことか」

「左様に御座います」

「その理由は元外国奉行、水野忠徳や南町奉行、井上清直らを壱岐守が連れて来たので、老中、水野忠精が、何故、開国派の年配者を連れて来たのかと公卿や長州藩の者と怒ったからじゃ。だから罷免した」

 忠順は顔をしかめた。呆れて次の言葉が出なかった。

「どうした上野介。不服か?」

「それには訳が御座います」

「何じゃ。話してくれ。その訳を」

 忠順は厳しい表情で答えた。

「神戸操練所には勝海舟殿が、おられます。長州は坂本龍馬という操練所の教官を通じ、勝殿を長州に引き入れようとしております。もし勝殿が長州の要望によって、下関の異国の軍艦を攻撃するようなことがあってはならないと、小笠原様は勝殿を説得出来る水野様と井上様を同道されたのです。二人は勝殿の先輩です。勝殿が『順動丸』で下関に行かぬよう釘を刺したのです」

「そうであったか。そう言えば4月末、勝安房守の指揮する『順動丸』に乗せてもらい大阪湾を巡回した時、調子の良い安房守の腰巾着のような坂本という教官いた。彼奴が長州と通じているというのか」

「坂本は土佐の脱藩浪士で、勝殿の尽力により、山内容堂様より脱藩を赦免されたばかりの男です。土佐も長州のようになるのではないかと心配しております」

「そうか。成程な。土佐が、そうならぬようにするには如何すれば良いと思うか?」

 将軍、家茂に意見を聞かれ、忠順はためらう気持ちがあったが、自分の思っていることを具申した。

「以前にも申し上げたと思いますが、幕府と朝廷の二元政治は良くありません。ましてや長州による偽勅は良くありません。上様は公武合体を成されたのですから、この江戸から総ての政令を発信すべきです。その為には、帝に江戸への遷都をお願いするべきです。江戸は徳川幕府の本拠地であり、地理的にも我が国の中心です。黴臭い京と異なり、平和で発展的であり、異国からの攻撃にも時間がかかります。この安全の地に帝をお招きし、御政道を行うべきです。京まで行かなくても勅許を得られます。土佐や薩摩、長州が京に接近するのは、江戸に来て幕府の許可を得なくても京で勅許を得れば済むからです。帝に遷都をお願いするべきです」

「まことに面白い考えじゃな。次に上洛の時あらば、その旨、帝に相談してみよう」

「お聞きいただき誠に有難う御座います。この小栗上野介、上様の望まれる政事が上手く行くように、微力ではありますが、粉骨砕身、尽力させていただきます」

「うん、頼むぞ。そなたは余の守り刀じゃ」

 家茂は、そう言って笑った。自分より9歳年上、36歳の小栗忠順は若き将軍にとって頼りがいのある先見力、知力、実践力のある家臣であった。この将軍、家茂と小栗忠順の会談から数日後の6月22日、イギリス代理公使、ジョン・ニールは薩摩と生麦事件の賠償金交渉の為、イギリス東インド艦隊司令長官、レオポルド・キューバー少将率いる7隻の艦隊と共に横浜を出港した。紀伊、土佐沖を通過し、6月27日に鹿児島湾に到着し、鹿児島城下の南方、谷山郷沖に停泊した。このイギリス艦隊の到来に薩摩藩はびっくりし、総動員体制に入った。イギリス艦隊は、翌日28日に更に艦隊を前進させ、鹿児島城下の前ノ浜に投錨した。何事かと艦隊にやって来た薩摩の使者に対し、ニール代理公使は、国書を提出、生麦事件の犯人の処罰及びイギリス人遺族への妻子養育料として2万5千ポンドを薩摩藩に要求すると伝えた。これに対し、薩摩藩は回答を保留し、翌日、鹿児島城内で会談するよう提案した。6月29日、ニール代理公使は城内での会談は危険だと判断し、城内での会談を拒否。早急に回答するよう求めた。これを受けた島津久光は先代の島津斉彬公のもとで兵制の近代化を培った実力をもってイギリス軍の攻撃を阻止出来ると判断し、イギリス側の要求を拒否した。イギリス艦隊は鹿児島城下から一旦、離れ、桜島の横山村、小池村沖に移動し、飲料水、薪、食料などを補給した。そして7月1日、ニール代理公使は薩摩藩の使者に対し、要求が受け入れられないようであるので、武力行使に出ると通告した。薩摩藩主、島津茂久と後見役、島津久光は鹿児島城がイギリス艦隊の砲弾の射程距離内にある為、西田村の千眼寺を本営と定めて、そこに移動した。7月2日、夜明け前、イギリスの軍艦『バール』、『アーガス』、『レースホース』、『コケット』、『ハボック』の5隻は脇元浦近くに停泊していた薩摩の軍艦『天祐丸』、『白鳳丸』、『青鷹丸』に接舷し、50~60人近いイギリス兵を乱入させた。薩摩の乗組員が抵抗すると銃剣で殺傷し、薩摩の乗組員全員を、陸上に追いやり、薩摩の3隻を奪取し、『天祐丸』の五代才助や『青鷹丸』の松木弘庵らを捕虜として拘禁した。そしてイギリス軍は奪った3隻を曳航して、桜島沖まで運ぼうとした。これを薩摩藩はイギリス艦隊の盗賊行為として、7ヶ所の砲台から砲撃を開始した。イギリスのキューバー提督は待ってましたとばかり、戦列を整え、奪った薩摩の軍艦3隻に一斉砲撃を加え、炎上沈没させた。それからイギリス艦隊はアームストロング砲を用いて、各台場をを砲撃した。これに薩摩も砲台、台場から応戦した。イギリスの精確な射撃は薩摩の大砲を破壊した。ところが急に荒天となり風雨が強まった。薩摩兵は神風の到来と闘志に燃えた。弁天波戸砲台からの弾丸一発が、旗艦『ユーライアラス号』の甲板に落下。軍議室が破裂し、そこに居合わせたジョスリングー艦長とウイルモット副長などが爆死した。怒ったイギリス兵は反撃しようと砲撃をしたが、イギリス戦艦は折からの強い波浪により、大きく傾き座礁したりした。それでもイギリス艦隊はひるむことなく大砲やロケット弾を用いて、薩摩の近代工業工場地帯を攻撃破壊した。間違って停泊中の琉球船まで攻撃してしまった。琉球使節として薩摩に来ていた琉球の与那城王子は薩摩の伝馬船に乗って逃げ出し、難を逃れた。夜の8時頃には鹿児島城下ではイギリスのロケット弾などによる艦砲射撃により、民家、侍屋敷、寺院、神社などの多くが炎上焼失した。7月3日、イギリス艦隊は、前日の戦闘で戦死した艦長や副長など11名を錦江湾で水葬してから、また鹿児島の町や両岸の台場を砲撃した。7月4日、イギリス艦隊は弾薬や石炭燃料等を消耗し、多数の死傷者を出したので、薩摩から撤退することにし、薩摩を離れた。7月11日、全艦隊は横浜に帰着した。朝廷は、この薩摩藩の攘夷実行を称え、島津家に褒賞を与えた。しかし、将軍、家茂は下関戦争や薩摩戦争で西洋軍艦と西洋軍隊の威力を見せつけられ、攘夷戦が如何に難しいかを理解した。これらの事から、幕府は軍備の増強を更に推進せねばならないと判断し、7月28日、小栗忠順を陸軍奉行に任命した。

         〇

 下手をすれば、江戸は戦場になる。忠順は陸軍奉行となり、焦った。幕府に武器調達を申請したが、通る物と通らぬ物があった。だが通らぬ物は『三井組』の三野村利左衛門を通じ、アメリカから輸入し、『冬木屋』を通して、上州権田村の蔵に運ばせた。また兵賦金制度を推し進め、兵を集めた。農民や町人が幕府兵として入隊した。しかし、愚かな長州藩は、下関の敗戦を反省することもなく、真木和泉と次の策を考え、徳川幕府が攘夷を実行しないことを理由に、天皇が大和の春日大社に行幸し、攘夷親征の祈願を行い、倒幕の計画を立案した。この計画は三条実美をはじめとする尊攘派公卿の強烈な説得によって孝明天皇も反対出来なかった。8月15日、孝明天皇は秘かに国事御用掛の尊融入道親王を呼び悩みを漏らした。

「朕は攘夷の為に自ら出向くことなど出来ぬ。ましてや妹、和宮の嫁いでいる幕府を討つことなど考えられない。公武合体が、朕の強い願いなのじゃ。どうすれば良いと思うか?」

 相談された尊融親王は妹を思い、戦争の先頭に立つ恐怖を抱く孝明天皇の心中を察した。尊融親王は孝明天皇の苦悩を払拭してやろうと、近衛前関白のもとに走り、どうすれば良いか密談した。その対策は熱狂的な攘夷派の公家や長州の連中を朝廷から追放することであった。結論は京都守護職、松平容保と御所の警護役を解かれている薩摩の連中を組ませ、長州系公卿二十余人に禁足を命じる勅旨を出すことであると決まった。この妙案を尊融親王が上奏すると、孝明天皇からのお許しが出た。8月18日の早朝、会津藩と薩摩藩が手を結んで、御所の九門を総て固め、合図と共に長州藩の堺町御門警備を解いた。朝議に参加しようとした長州系公卿二十余人は、この日の勅旨により、御所に入ることが出来なかった。会津藩と薩摩藩は長州勢を御所の周辺から一掃した。当然のことながら、この政変警備に『壬生浪士組』の近藤勇たちも会津藩の指示に従い活躍し、その働きを評価され、『新選組』という新たな隊名を賜った。そしてこの日、行われた朝議では大和行幸の延期、尊攘派公卿の免職、長州藩の堺町御門の警護役解雇を命ずるなどの決定がなされた。こうして長州派の公卿朝臣たちが朝廷から締め出され、京は会津藩と薩摩藩によって守られ、長州藩はこの日を境に京における勢力を喪失した。長州藩兵の怒りは発狂せんばかりであった。今まで朝廷の最高護衛藩として、京で威厳を誇って来たのに、一夜にして朝敵扱いになっていた。その長州藩兵の憤怒と逆襲心を、長州藩の京都藩邸の桂小五郎、久坂玄瑞、寺島忠三郎、品川弥次郎らが必死になってなだめた。

「我慢じゃ。我慢じゃ。朝敵にされてはならぬ」

「堪えろ、堪えろ。薩摩の罠にかかって、賊軍になってはならんのだ。撃ちたいのなら、この弥次郎を撃て!」

 桂小五郎たちは、こうして、やっと長州藩兵を鎮静させ、東山の妙法院に引き上げた。そして官位を剥ぎ取られた公卿朝臣たちと都落ちすることを決めた。8月19日、早朝、二千の長州藩兵は中納言、三条西季知、三条実美ら七卿を守りながら、雨の中を泣きながら長州へと向かった。当然のことながら、8月17日、先走りして幕府の出先機関、大和の五条代官所を襲撃し、代官、鈴木源内らを殺害した『天誅組』は長州軍と同じ反乱軍と見做されることとなった。尊融親王は8月27日、還俗し、中川宮の宮号を名乗ることになった。8月末、これらの京の状況を耳にして、江戸の一橋慶喜、小栗忠順らは笑った。火遊びが、ついに大きな炎になったようだ。神戸海軍操練所では、勝海舟が坂本龍馬に質問されていた。

「勝先生。桂小五郎殿は今後、どうなされますかいのう」

「そんなこと分かるかい」

「そろそろ春嶽候の上洛をお勧めしては如何ですかいな」

 うむ、と海舟は腕組みをして、海を睨んだ。どうしようか。龍馬は長州藩に同調している土佐藩の仲間に長州藩と共に決起すべきだと煽られているのかも知れない。危険だ。

         〇

 9月、会津藩と薩摩藩による公武合体派の軍事行動による政変によって、江戸幕府の勢力巻き返しは成功した。これを見て、土佐の山内容堂は、9月21日、長州の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らと交流したり、三条実美らと幕府に攘夷督促を要求したり、『天誅組』に挙兵させたりしていた土佐過激派の武市半平太らを、京師の沙汰により、処罰するとし、捕縛投獄した。時代の流れはふたたび幕府に味方しているかのように思われた。だが一橋慶喜や小栗忠順には悩みがあった。それは下関攻撃をしたジョレス艦長率いるフランス東洋艦隊や鹿児島を砲撃したキューバー提督の率いるイギリス艦隊が横浜港に駐留したままであり、小栗忠順は、その交渉に当たった。アメリカのプリュイン公使は横浜鎖港など信じられ無いと言った。

「長州のことも気になるが、横浜での両国の輸出入はどうなるのだ。ミスター・小栗。あなたも武器を輸入出来なくなり、困るのではないか?」

 言われてみれば、その通りであった。イギリスのニール代理公使に相談すると、彼は、こう答えた。

「まだ薩摩との戦争が終わっておらず、横浜に艦隊を駐留させている。また薩摩が江戸を襲撃せぬよう、護衛をかねて軍艦を停泊させている。幕府にとっても横浜開港継続は海の守りとして重要であると思うが・・・」

 皆、横浜開港は幕府にとって有益である筈と似たようなことを言った。このように横浜港閉鎖を告げると各国の公使が反対した。一番、困ったのはフランスのベルクール公使との交渉だった。それは9月2日、横浜の井土ヶ谷地区の居留地警備の為に馬に乗って程ヶ谷宿に向かったフランス陸軍のアンリ・カミュ少尉と士官2名が浪士3名に襲撃され、カミュ少尉が死亡、同行した2名は逃亡し救われたという事件があったからである。神奈川奉行並、合原猪三郎が犯人捜査に当たったが、犯人追跡が困難を極め、犯人逮捕は難しいと、外国奉行、竹本正雅と共に説明したが、納得いただけなかった。そこで竹本正雅は、小栗忠順に同行してもらい、再度、交渉した。フランス海軍のジョレス提督は不満であったが、何故かフランスのベルクール公使は理解を示した。

「小栗さん。君の悩みは分かる。井土ヶ谷事件の賠償金や横浜鎖港については私には決められないので、日本から横浜鎖港談判使節団を派遣したらどうだろうか。了解は得られなくても理解してもらえると思うが」

 忠順は、このことを竹本正雅と共に幕府に報告した。幕府は直ぐにフランスへの使節団派遣の返事をしなかった。9月末には、薩摩島津家の重野厚之丞、岩下佐次右衛門と佐土原島津家の樺山舎人、熊勢二郎左衛門などが横浜にやって来て、薩摩とイギリスの和睦交渉を行った。イギリス代理公使は今回の薩英戦争は、生麦事件の解決に薩摩側が応じなかったからとし、薩摩側はイギリス戦艦が薩摩の汽船を掠奪したからと言い合い、紛糾決裂した。これに対し、幕府に両社から仲裁の依頼があり、また竹本正雅と小栗忠順が担ぎ出された。結果、談判は10月4日、5日と続き、島津家が幕府から2万5千ポンドに相当する6万300両を借用し、イギリスからの軍艦購入時にイギリスから扶助料を出してもらうことで決着した。この事を函館から江戸に戻った栗本鋤雲に話すと、薩摩に金を貸して、大丈夫かと心配された。一方、京では、八月十八日の政変を機会に公武合体派の支柱であった諸侯を京に集め、団結を固めようという公卿たちからの意見があり、一橋慶喜は将軍後見職を辞任している筈なのに、将軍後見職として二度目の上洛を要請された。慶喜は待ってましたとばかり、10月26日、築地沖から幕府汽船『蟠竜丸』に乗って京へ向かった。八月の政変で過激派公卿と長州藩が退去した京は慶喜にとって居心地が良くなりはしたが、長州藩に代わって、イギリスと戦争した薩摩藩が主役格になろうと登場して来ていることが気に入らなかった。噂によれば、島津久光は、イギリス艦隊を追い払ったと薩摩藩の武力を自慢しているという。慶喜は京に入ってから神泉苑町の若狭酒井家の空藩邸を居所とし、この場所に越前の松平春嶽、伊予の伊達宗城、薩摩の島津久光を招き、しばしば会議をした。土佐の山内容堂は、何があってか、余り会議に参加しなかった。この会議は『後見邸会議』と名付けられた。慶喜はこの『後見邸会議』を政治団体とし、朝廷に臨もうと考えた。しかし朝廷は帝が最も信頼している中川宮、近衛忠熈前関白、関白、二条斉敬の三人が、薩摩藩から生活費を支援されていて、徳川排除の傾向に動いているように思われた。その薩摩の活動が目立ってくると、『後見邸会議』は霧消した。朝廷の動きはイギリス艦隊と戦った薩摩の経験談から秘かに開国論に転じていた。このことに一橋慶喜も松平容保も気づかなかった。だが二条城駐在の老中、酒井忠績は、その動きを感知していた。それを酒井忠績から聞いて、慶喜はびっくりした。

「雅楽頭。親王、公卿たちが開国に傾いているのであれば、都合が良いではないか。いっそ幕府から開国論を帝に奏上してはどうだろうか」

 慶喜が、そう提言すると酒井忠績が首を振った。

「それはなりません。もし幕府が開国論を提唱すれば、攘夷を捨て、薩摩の意見に従うことになります。我々が薩摩に誘導されることになります。幕府は誘導されてはならないのです。方針を貫き通すしかありません。そうでなければ朝廷は薩摩の意見を重視し、幕府を軽んじるでありましょう」

「酒井様の仰せの通りです。今まで攘夷の陣頭に立って来た幕府が、外国の圧力を恐れて開国論に転じたとあざわらいの種となります。薩摩の開国論に反対し、積極的に攘夷主義を装い通すことが需要で御座います」

 平岡円四郎も酒井忠績の意見と同じだった。慶喜の頭に外国奉行、竹本正雅と陸軍奉行、小栗忠順から提案のあったフランスへの使節団派遣要請の案件が浮かんだ。

「分かった。横浜港を閉じよう」

 朝廷の攘夷要求の初めから横浜を閉じよと言われて来た。それを実践すれば当然、異国の軍隊は動くであろう。さすれば、薩摩は再び、外国の攻撃を受けるであろう。慶喜は朝廷に提案する前に、松平春嶽と伊達宗城の意見を聞いた。両人とも外国との衝突に反対だった。仕方なく、慶喜は対朝廷工作を開始し、中川宮を説得し、横浜鎖港を御沙汰書を入手し、江戸にフランス使節団を派遣するよう指示した。それを受けた幕府は、12月5日、若年寄、田沼意尊と立花種恭を横浜のベルクール公使のもとに訪問させ、池田長発、河津祐邦らをフランスに派遣することに決めたと説明させた。そして、34名からなる使節団一行は12月29日、フランスの軍艦『ル・モンジュ号』に乗って横浜を出発した。

         〇

 文久4年(1864年)正月、小栗忠順は、昨年末、製鉄所建設案が幕閣より反対されたが、将軍、家茂に申請願いを承認していただき、11月26日、建設予定地を横須賀に決定することが出来、おだやかな新年を迎えることが出来た。だが、新年、登城すると、昨年の暮れ、朝廷が幕府諮問機関の『参与会議』なるものを設け、一橋慶喜他、幕府の重臣たちが京に移り、何時もより、江戸城内の人数が少なかった。1月15日には将軍、家茂が朝廷より、右大臣に昇進されるということで、勝海舟の指揮する『翔鶴丸』で京に向かわれ、江戸城は指揮権を失ったかのように静かになった。その分、忠順は好きなことが出来た。忠順は将軍の留守中、陸軍強化に奔走した。陸軍歩兵隊に高島秋帆を招き、砲術の講義実戦指導をしてもらったり、滝野川の『開明研』で造船所の計画をしたり、『関口製造所』で大砲を製造したり、アメリカへの武器発注を検討したり張り切った。そうこうしているうちに、2月26日、六十年に一度、政治上の変革が起きるという運勢思想『甲子革令』により、元号が元治と改められた。忠順は知行地、上野国権田村に急いだ。権田村に着くや、忠順は佐藤藤七と山田城之助を東善寺裏の小栗屋敷に呼び、鉄山の採掘計画がどうなっているか確認した。すると藤七が答えた。

「大桁山の金窪で採掘した鉄鉱石を大砲製造所の武田斐三郎頭取の所に届けて分析してもらいましたら、良質の鉄鉱石なので、殿に伝えるとのことでやんした。殿からの採掘施設の建設指示を待っているところで御座いました」

「そうか。矢張り大桁の金窪山の鉄鉱石は水戸の大島高任が評価する程のスエーデン鉱に近いものなのだな。ならば奏者番の松平忠恕殿にお願いして本格的採掘施設を幕府の費用で建設しよう」

「でも採掘が大掛かりになりますと、小幡の連中だけでは人足が足りなくなりますよ。どうしましょう」

「私が帰りに安中藩に立寄り、板倉殿に採掘人足を依頼しておく。権田村の連中は城之助の子分衆と、妙義山と角落山の洞窟堀りを進めてくれ。こちらは鉄鉱石が見つからなくても良い」

 忠順にそう言われて見詰められると、城之助は自分が進めている作業の進捗状況を説明した。

「はい。妙義山の洞窟は目下、中木川の上流の風穴を利用し、俺と島田柳吉が石工などを使い、掘削を開始しておりやす。只今、八畳ほどの洞穴が出来上がってます」

「そうか。岩穴を掘るのは大変であろう」

「はい。穿った岩や土を運び出すのは、かったるい仕事でやんす。でも伝馬連中もいるので、何とかなっていやす」

「そうだろうな。想像がつく」

「土塩村の千ヶ滝の横の岩場にも堀ってみたのですが、そこは硬くって硬くって、諦めました。藤七さんの方も大変、だんべえ」

「わしら権田村の者も角落山の赤沢川の上流の岩場に横穴を掘っております。こちらには鉄鉱石がありそうですが、、大桁の金窪山に大量の鉄鉱石がありそうなので、採掘石の分析をせず、洞窟造りに専念しておりやす」

 忠順は二人の話を聞いた翌日、村内を視察した後、甘楽の金窪山に行き、鉄鉱石の採掘現場を見た。村人が中小坂の鉄山の現場で汗水流して働いていた。中小坂の見学を終えてから、忠順は安中藩の板倉勝殷に会い、中小坂の採掘人足の応援を依頼した。忠順が、そんな知行地訪問をして、江戸に戻り、しばらくすると、外国奉行付の杉浦譲と『開成所』の生徒、長田銈太郎がやって来た。杉浦譲が長田銈太郎と深く頭を下げて言った。

「小栗様。ベルクール公使様のお使いで参りました。明日、フランス公使館に御出いただければ、後任の公使に御引合せ出来るとのことで御座います」

「おう、そうか。それは、有難たい。ベルクール公使にも沢山、お世話になった御礼も言わなければならない。喜んでお伺いすると伝えてくれ」

 翌日、忠順は函館でフランス人相手をしていた栗本鋤雲を連れて、斎海寺のフランス公使館を訪ねた。ベルクール公使は日本流のお辞儀をして出迎えた。

「ようこそ来てくれました。私もいよいよ帰国することになりました」

「左様ですな。ベルクール公使には大変、お世話になりました。心より感謝しております」

「こちらこそ無理を言った。まだ難題は残っているが、フランスと日本の関係は小栗のお蔭で良い方向に進行している。安心して、ここにおられる後任のレオン・ロッシュ公使に引継ぎ出来る。紹介します。こちらが、ロッシュ公使です」

「おお、ロッシュ公使。ジュマベール、小栗」

「ボンジュール、小栗。ジュマベール、マリー・レオン・ロッシュ」

 レオン・ロッシュ公使は、ベルクール公使より年輩で髪の薄いフランス紳士だった。軍服を着て、胸に沢山の勲章を輝かせ、青い目をして、忠順たちの手を握って来た。忠順は臆する事なく、ロッシュ公使と握手し、栗本たちを紹介した。それから、会議室でワインをいただき、乾杯した。その後の雑談の中で、ベルクールがロッシュ公使に話した。

「幕府との交渉で困った事があったら、小栗に相談すると解決が早いよ」

「そうでもありませんよ。無理難題は困ります」

 忠順は、そう言って予防線を張った。するとベルクールが頷いて、ロッシュ公使に諧謔を込めた言葉で伝えた。

「そうなのです。小栗は清国の売国奴たちと違って、不合理は不合理だとはっきり言って認めませんから、用心した方が良いですよ」

「となると、困った時に、誰かに手助けしてもらわないと、難しいよな。日本人の通訳で大丈夫なのか?」

「大丈夫だよ。このケイタロ・オサダが通訳してくれるから」

 ベルクールに名前を言われ長田銈太郎がお辞儀をすると、ロッシュ公使は、ちょっと顔を曇らせてベルクールに訊いた。。

「ベルクール。フランス人で通訳出来る者は横浜辺りにいないのか」

 ベルクールは首を横に振った。すると栗本鋤雲がにこりとして、ロッシュ公使に言った。

「私の知人で、函館に礼拝堂を建設した日本語の堪能なベルクール公使も知る宣教師、メルメ・カションが江戸に戻って来ております。彼を採用しては如何でしょうか?」

「ベルクール。それは本当か?」

「はい。カションが戻っているなら適任です。日本に戻っているとは知りませんでした。彼を採用してあげて下さい」

「勿論、大歓迎だ」

 ロッシュ公使は、小栗忠順や栗本鋤雲たちが、親仏的なので安心した。ベルクールはロッシュ公使との引継ぎが終わると、忠順に言った。

「小栗さん。いよいよ、お別れだね」

「長い間、お世話になりました。5年以上の長きにわたり、親しくしていただき、心より感謝しております。帰国したら、健康に気を付けて、ゆっくりとお過ごし下さい」

「ふりかえれば、両国の修好通商条約に来て以来、あっと言う間の事だったね。不幸な事件もあったけど、楽しかったよ。小栗さんの友情を抱いてフランスに帰るよ。小栗さんも役目が落着いたら、フランスに遊びに来て下さい」

「そうなるよう頑張ります」

 ベルクール公使と忠順は、まるで恋人のように別れた。

         〇

 京では昨年12月30日、朝廷が、一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂、伊達宗城の5人を朝廷参与とし、今年の正月13日、島津久光を左近衛権少将に叙任して、『後見邸会議』に代わる6人による合議制会議『参与会議』を開催させたが、慶喜は、何故、朝廷が島津久光を参与に加えたのかが気に入らなかった。徳川幕府を蹴落とそうとする薩摩を、参与に加えた中川宮の魂胆が理解出来なかった。当然ながらこの会議でも将軍後見職である慶喜は、主幹としての振舞をした。その為、朝廷から与えられた参与の位に上下は無いと考えていた松平春嶽や島津久光と慶喜は対立し、結果、3月9日、立腹した慶喜が辞職し、3月13日、春嶽が解任され、諸侯の対立が解消されることなく、『参与会議』は廃止となった。慶喜は3月25日、将軍後見職を辞した。そして京での役目が無くなったので京から引き上げると中川宮を嚇した。すると慌てた朝廷は、禁裏御守衛総督などという新しい役職を設け、その総督に慶喜を任命した。これによって慶喜は、二条城を居所とし、京都守護職、松平容保、京都所司代、松平定敬と共に一会桑政権を京に構築し、江戸幕府と分離した行動をとるようになった。それは江戸にある幕府が二つに分断されたようなものであって、薩摩の島津久光にとって都合が良かった。薩摩は慶喜に不逞の野望があるとの噂を京、大阪を手始めに、江戸にも流し、人心を惑わせた。幕府側の大久保一翁、勝海舟たちも慶喜の行動を疑った。だが慶喜は、気にせず、平岡平四郎に守備兵をもっと増強するよう命じた。何故なら、『参与会議』が崩壊し、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂らの兵が引上げ、島津も少し兵を薩摩に戻した為、長州の浪人たちが再び京に舞い戻って来る可能性があるからであった。平岡平四郎は最近、一橋家の御用を務めるようになった渋沢栄一と渋沢喜作に『人選御用』を命じた。また勝海舟も神戸の海軍操練所の頭取となり、坂本龍馬と塾生を相手に勤王派や佐幕派とかの垣根を取っ払い、日本の将来を論じ合った。5月になるや、長州関係者らしい下手人不明の殺戮が、あちこちで起こった。折角、京師が落着いたというのに、また物騒になるとは全く困ったことであった。。こうなると京都守護職支配下にある市中見回り組『新選組』の活躍が期待された。新選組隊長、近藤勇は張り切った。5月下旬、新選組隊士が炭薪商『桝屋』を名乗る古高俊太郎が長州間者であることを突き止めた。すると近藤勇は6月5日、『新選組』隊員を引連れ、『桝屋』に踏み込み、古高俊太郎を捕縛し、武器弾薬を押収した。『新選組』局長、近藤勇は、土方歳三らに使い、古高俊太郎を拷問し、彼らが計画していたことを自白させた。古高俊太郎は激しい拷問に耐えきれず計画を暴露した。

「我々は祇園祭前の風の強い日を選んで御所に火を放ち、その混乱に乗じて、中川宮を幽閉し、一橋慶喜、松平容保らを暗殺し、帝を長州へお連れする計画をしている。今夜、その詳細打ち合わせをすることになっているが、会合場所をお前たちに教えることは出来ない」

 だが会合の場所を教えず、古高俊太郎は拷問による出血多量で死亡した。近藤勇は夕刻、部下を市中に走らせ、その会合場所を探索させた。幸運なことに、深夜、亥の刻近くなっても灯りのする『池田屋』を見付け、そこで過激派浪士たちが20数名程で謀議中なのを発見した。近藤勇は相手が20数名なのを確かめてから、相手が逃亡しないよう土方歳三ら部下を屋外に配置し、沖田総司、長倉新八、藤堂平助を連れて、4人で『池田屋』の二階に踏み込んだ。『池田屋』の二階では長州の桂小五郎、吉田稔麿、山田虎之助たち、土佐の野老山吾吉郎、望月亀弥太、越智正之、石川潤次郎、北添佶磨たち、肥後の宮部鼎蔵、松田重助たちが打合せ中だった。

「新選組だ。そこを動くな!」

 深夜の突然の御用改めに踏み込まれ、一同は吃驚した。

「あっ。新選組だ。皆、逃げろ!」

 桂小五郎は、そう叫ぶと窓から逃げ出し、屋根伝いに対馬邸へと逃れた。宮部鼎蔵らは応戦しながら現場からの脱出を図った。北添佶麿は階段から転げ落ち、自刃した。望月亀弥太らは『新選組』の奥沢栄助らを斬り払いながら、長州藩邸付近まで逃げたが、追手に追いつかれ自刃した。望月亀弥太は坂本龍馬の私塾『神戸海軍塾』の塾生だった。この戦闘で過激派浪士の3割程が死亡した。『新選組』側も沖田総司が病で吐血し、戦線離脱、藤堂が額を斬られ、戦線離脱した。奥沢栄助が望月亀弥太に斬られ死亡。安藤早太郎、新田革左衛門らが負傷した。そこへ会津藩、彦根藩、桑名藩の応援隊が駆けつけたが、戦闘は終了しており、局長、近藤勇は援軍に過激派一味の捕縛を依頼した。この『池田屋の変』で長州藩士の怒りは逆上した。過激派にとって、京都守備の総大将は一橋慶喜であった。その裏で動いているのは平岡円四郎と黒川嘉兵衛と攘夷派は読んだ。遠からず天誅を加えるべし。その憎悪は6月14日、思わぬ連中によって実行された。夕刻、平岡平四郎が、渡辺甲斐守の宿所から御用談所へ向かう途中、突然、暗闇から暴漢が現れ、円四郎らを襲った。円四郎は不運にも背後から二人に斬りつけられ即死した。襲ったのは皮肉にも長州藩士では無く、攘夷を急かせる水戸藩士だった。この凶報を耳にした小栗忠順は愕然とした。幕府にとって大切な男を失ってしまったと思った。今までの慶喜を見て来ていて、平岡円四郎あっての慶喜であった。他の者の意見に対し、総て疑ってかかる慶喜であったが、円四郎に対して、何故か慶喜は素直であった。円四郎を失って慶喜はどうするのか。何故、小石川で隠居同然にしていたのに京へ行ったのか。火遊びは一回目で良かった筈なのに、何故、2回目、朝廷に唆され、上洛してしまったのか。2度も火を点けたら大火事になると考えなかったのであろうか。しかし、2度目の火を点けてしまった今、もう火は燃え上がるばかりだ。忠順は、軍備増強を急いだ。当然のことながら、火を点けられた長州藩は6月24日、長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉じた。これに対し、長州に同情し、寛大な措置を要望する公卿や諸侯もいたが、薩摩藩や会津藩は反対した。長州藩は激昂した。このままでは長州藩は没落してしまう。長州の益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老は、兵を率いて聴衆から出発し、伏見、嵯峨、山崎方面に布陣した。そして7月19日、長州の兵は蛤御門にに迫り、これを会津、薩摩、桑名、大垣などの藩兵が退散させようと激しく戦った。銃弾は御所の内側にも流れ弾となって飛弾し、建物などに当たって音を立てた。公卿たちは震え上がった。一橋慶喜は葵の紋をつけた陣羽織姿で馬で登場し、長州兵を後退させた。誰よりも頑張ったのは西郷吉之助率いる薩摩藩兵士だった。戦闘は薩摩藩、会津藩、禁裏御守備兵たちの活躍により、長州軍は退散した。長州藩はこの『蛤御門の変』で敗れ、久坂玄瑞、寺島忠三郎、真木和泉、来島又兵衛ら、尊攘派志士の多くを失った。京の市中は、二昼夜に渡り延焼し、鷹司邸、東本願寺、仏光寺などの寺社、約二百五十ヶ所、民家、二万八千軒ほどが焼ける惨状となった。

         〇

 この『蛤御門の変』での一橋慶喜の圧倒的勝利や薩摩の西郷隆盛の奮闘の報せはが江戸に届くと、5月8日に江戸に戻った将軍、家茂もほっとした。だが小栗忠順は不安でならなかった。あの平岡円四郎が側にいない慶喜が、何を次に計画するかであった。忠順は一橋慶喜や松平春嶽、勝海舟のように右に左に考えがふらつく男が大嫌いだった。そんなふらつく慶喜が同じ火遊びを2回やるとは思わなかった。これで長州との戦闘が拡大すれば外国が自国の利益の為に、戦争に介入して来るに相違なかった。これからの戦闘は日本が島国であるが故に、軍艦での戦闘が主体になることは目に見えていた。閑職にあるとは言え、将軍、家茂から任された造船所計画を急がねばならなかった。幸い、先輩、栗本鋤雲が製鉄所御用掛をしていることから、計画は進めやすかった。忠順は、石川島で外国船の修理をしたり、自力で蒸気艦の国産化を進めていた肥田浜五郎らに相談すると共に、フランス公使、ロッシュに協力してもらい、ジョレス提督の知恵を拝借した。栗本鋤雲と昵懇の通訳、メルメ・カッションはジョレス提督に横須賀の具体的場所を最終決定する為に、船に乗って、錘を垂らして候補地の水深の深浅を測定するなどの協力をしてくれた。八景島、田浦などを回り、長浦が、水深も深くフランスのツーロン港に似ているということで、ここに造船台や乾船ドック施設を建設することに決定した。そんな矢先、7月23日、朝廷は長州征討令を発した。その勅命により、幕府は諸藩に出兵を命じた。当然のことながら、将軍、家茂も自ら兵を引連れ、長州に進発せねばならぬことになった。そうなると幕府としても多額の資金集めが必要である。8月13日、忠順は勘定奉行勝手方にまたもや任じられた。これで3度目の勘定奉行である。

「俺は打ち出の小槌ではない」

 そう腹を立てたが任命されたからには仕方ない。今まで、貨幣改鋳などによって幕府の収入を増やしたが、今回はどうすれば良いだろうか。頭に浮かんだのは貿易の促進だった。多くの港を開港し、外国との貿易を行い、関税収入を増やすことであった。兵庫開港を実施すれば良い。老中たちに説明したところで分かるまい。勝手方だから勝手にやらせてもらう。そんな算段をしている時、前々尾張藩主、徳川慶勝が総督に任命され、副総督に越前藩主、松平茂昭が選ばれ、長州征伐が開始され、15万の兵が長州に向かった。忠順は慌てた。この戦いを早く終らせ、幕府の資金負担を減少させるにはどうすれば良いか考えた。忠順は急いで横浜に向かった。この春、日本に帰任したイギリスのオルコック公使を訪ね、長州との内戦が長く続くと、幕府からのイギリスをはじめとする諸外国の不利益になるので、各国が協調して幕府の応援をするようにと依頼した。オルコックは下関海峡封鎖によって横浜に次いで重要な長崎での貿易が停滞していることもあって、直ぐに了承した。

「実は、6月、我が国に留学していた長州藩士、伊藤俊輔と井上多門がやって来て、藩主を説得するから長州と戦争をするようなことはしないで欲しいと言って来た。私も彼らの意見を聞き、海峡封鎖が解かれるのを待った。しかし、一向に海峡封鎖が解かれないでいる。フランス、オランダ、アメリカも、もう待ちきれないでいる。丁度、良い機会だ。四国連合艦隊を出動させよう」

「ありがとう、オルコック公使。威嚇するだけの攻撃で済ませて欲しい」

「分かった。他の連中にも、そう指示しよう」

 オルコック公使は、忠順からの依頼を受け、四ヶ国会談を開き、7月27日から28日にかけて、イギリスのキューバー中将を総司令官として、四ヶ国連合艦隊を横浜から出港させた。イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻の合計17隻は8月5日、京から来た長州征討軍と戦っている最中の長州に海上から砲撃を開始した。陸海から攻撃された長州藩は惨敗した。長州藩は8月8日、講和の使者をキューバー司令官の乗る『ユーライアラス号』に送って来た。使者は長州藩家老、宍戸親基の息子、宍戸刑馬と名乗った。イギリスの通訳、アーネスト・サトウはその使者が、高杉晋作であると気付いていたが知らぬ振りをした。8月18日、講和は成立したが、賠償金については直ぐに支払えないので、幕府の指示に従って海上攻撃を仕掛けたのであろうから、幕府に請求しておいてくれと、長州の使者は言ったという。かくて長州は藩主、毛利敬親、毛利定弘父子が伏罪書を提出し、国司信濃ら三家老に『蛤御門の変』の責任者として自刃させ解決を図った。さらに三条実美ら七卿を長州から筑前の大宰府に移すことにした。そして四ヶ国連合に対して下関海峡を開放した。計画が成功し、オルコック公使も忠順も喜んだ。しかし、世の中には、先の見えぬ無知蒙昧な連中がいて、忠順には迷惑だった。水戸の『天狗党』とかいう討幕を考える連中が、関東で暴れ回り、これから京へ向かうというのだ。その為、上州の中小坂の鉄山の採掘が中断されたとのことであった。また勝海舟のような幕府に忠誠心の無い男が、9月11日、京の薩摩屋敷の西郷隆盛に、早く長州征伐をせよと脅されていた。何故、薩摩が長州を早く討てという意味が海舟には読めなかった。西郷の巨体に圧倒されペコペコ頭を下げ、幕府の悪口を言って誤魔化した。

「幕府には立派な人間はおりませんよ。老中、若年寄といっても名前だけで、世界の動きが分かっていねえ。俺はアメリカへ行って来たから、世界の事は良く知っている。しかし、俺のお役目は奉行止まりさ。だから長州征伐など不可能ですよ」

「でも、勝先生。一人くらいは優秀な奴がいるでしょう」

「いるにはいるが、小栗という困った奴じゃ。年上の俺を馬鹿にしておる。外国通で財政にも明るい。だが頑固で、俺の意見は無視するし、老中の言う事もきかぬ」

「そんなで良く任務が勤まってごわすな」

「しょっちゅう、役替えされてます。そんな奴が優秀なのですから、幕府に未来はありません。このままだと日本は滅びますよ」

「何か良き方策はごわせんか」

「あります。薩摩の島津候、越前の松平候、土佐の山内候が列藩同盟を結んで異国との外交交渉を行えば、日本は救われます」

「列藩同盟ですか。それは良い考えでごわす」

 西郷はびっくりした。幕府の海軍奉行の口から、幕府不要論が出て来るとは思わなかった。二人は盛り上がった。海舟の幕府への悪口が良いように西郷に理解された。かと思うと、10月22日、鎌倉でイギリス人、二人が殺されるという事件が起きた。外国と親交を重ねている小栗忠順にとって、迷惑な事件だった。当日、横浜駐留中のイギリス陸軍のジョージ・ウォルター少佐とロバート・ニコラス中尉は休暇を取って騎馬で江の島、鎌倉の観光をしていた。二人が鎌倉の大仏の見学を終え、昼過ぎ、金沢方面に向かう途中のことだった。若宮大路近くの路上で、二人の武士に斬りつけられた。この突然の襲撃により、脚を斬られ落馬したウオルター少佐は、地面に這い蹲り逃げようとしたが、背中から脇腹にかけて斬られ即死した。ニコラス中尉は左膝と右腕、首などを斬られ、重傷を負ったが、近くの民家に運ばれ、地元の医師による手当てを受けたが、その夜になって死亡した。この事件は横浜居留地の外国人たちに強い衝撃を与えた。イギリスのオールコック公使は四ヶ国艦隊下関砲撃事件の事後処理の為に間もなく帰国せねばならず、外国人殺傷事件に対する幕府の対応への不満を爆発させた。一ヶ月後のイギリスへの出発までに必ず犯人を捕縛し、処罰するよう強く求めた。これに対し、老中、水野清精らは神奈川奉行所を通じて、近隣地域に触れ書を出し、犯人追求に大勢の追っかけを四方に走らせた。翌朝未明、急いで二人組が二子多摩川の渡しを渡って目黒方面に向かったことなどが判明した。その後、神奈川奉行所が羽鳥村の強盗事件の犯人として捕らえた、無宿浪人、蒲池源八及び、稲葉紐次郎を取り調べた際、彼らの首領で逃亡中の浪人、清水清次がイギリス人殺害事件の犯人であると供述した。この情報を得て、幕府は清水を犯人の一人と断定し、追跡することとし、蒲池と稲葉をイギリス士官殺害事件の仲間としてイギリス陸軍第20連隊の士官やイギリス公使館員をはじめとする、外国人立会いのもと、戸部の老屋敷において斬首処刑を行った。翌日、清水清次は千住の遊郭にいるところを逮捕された。11月30日、清水清次は戸部の鞍止坂刑場で、多くの横浜住民や外国人が見守る中、斬首され、その首を吉田橋に晒された。清水清次は取調べの時、自分は2年前、横浜の遊郭『岩亀楼』で自害した美人遊女、喜遊の幼馴染みだと言った。

「喜遊は町医者、箕部周庵の娘で、遊女として身売りする時、父、周庵から〈断じて、異人を客にしてはならぬ〉と言われ、『岩亀楼』の日本館で日本人相手をしていたという。ところが、異人館に来ていたアメリカの商人、アポットは喜遊の美しさと上品さに魅了され、いやがる彼女を米国公使館の力によって身請けしようとした。しかし、喜遊は洋妾になるのを嫌い、アポットの願いを拒否。だが何としても喜遊を自分のものにしたいアポットは神奈川奉行所の役人を使い、楼主、佐吉を嚇し、喜遊の身請けを強要したそうだ。喜遊は楼主、佐吉が困るのを見て、次の歌を辞世を残し、懐剣で喉を突き自害した。

 露をだに いとう大和の女郎花

 ふるあめりかに 袖は濡らさじ

何と可哀想な奴か。俺は、その喜遊、お喜佐の敵討ちの為に、毛唐を殺した。俺とやったのは、攘夷派の志士、高橋藤次郎だ。お前たちは殺人犯でもない源八や紐次郎を殺したのだぞ。俺と同罪だ。閻魔様は、敵討ちした俺を許しても、お前たちを許してはくれねえ。俺は先にあの世に行って、お前らを仲間と一緒に待っている」

 清水の自白から更に調べると、お喜佐の父、箕部周庵は水戸藩士とイギリス公使館を襲撃した一味であったことが判明した。何という因縁か。オールコックは、この捜査の推移を見守ってから、横浜領事、チャールズ・ウィンチェスターに後事を託し、11月27日、日本を離れた。小栗忠順はオールコック公使が去ってから、前日、栗本鋤雲、浅野氏祐、木村勧吾らと共にメルメ・カションらと打合せた内容をもとに、詳細計画を幕府に報告することにした。12月9日、小栗忠順はフランス公使、ロッシュを江戸官邸に案内し、老中、水野忠精、諏訪忠誠、阿部正外たちに造船所計画を説明した。すると、この打合せ後、忠順は、勘定奉行を免ぜられた。そして軍艦遊びをしていて罷免された勝海舟の代わりに12月18日、軍艦奉行に任じられた。忠順は、この任命を喜んだ。日本の海軍の強化は我が国にとっての最優先項目であった。老中たちはロッシュ公使から海外の軍備状況を説明され、忠順の説く海軍充実の重要性を理解した。

         〇

 元治2年(1865年)軍艦奉行の小栗忠順は何でこんなにも役職が変わるのだろうと思いながら、正月を迎えた。それを家族に話すと、妻の道子が、言った。

「あなたは、思ったことを配慮せず、誰彼構わず、開けっぴろ気に申しておられるのでしょう。その歯に衣を着せぬ言動が人に嫌われ、移動させられる事になるのです。もっと周りを気にして、上司や部下から煙たがれないようにしませんと、仕事がなくなりますよ」

「そうかも知れんな。上下構わず遠慮なくものを言うから、邪魔にされるのかもな?」

「ご自分でもお認めになりますか」

「まあな」

 そると、それを聞いていた道子の母、邦子が娘を叱った。

「道子。剛太郎さんに、そんなことを言うものではありませんよ。剛太郎さんは優秀なので、あっちこっちから引っ張り凧なのです。だからいろんな役が回って来るのです。妻は夫を信頼しないといけませんよ」

 母、邦子の言葉に道子は目を白黒させた。それを見て、娘、鉞子が笑った。忠順は、自分の役職が、頻繁に変わっても、余り気にしなかった。いろんな役を任される事が自分の知識、成長の糧となると信じて疑わなかった。そんな明るい正月休みが終えた1月早々、フランス公使、ロッシュに招聘されたフランス海軍の技師、ベルニーが清国の寧波から来日した。忠順はすぐさまロッシュ公使と相談し、横須賀製鉄所建設指導に関する日仏の約定書の打合せを行った。日本側は老中、水野忠精、若年寄、酒井忠眦、勘定奉行、松平正之、軍艦奉行、小栗忠順と木下謹吾、目付、山口直毅と栗本鋤雲の8名。フランス側はロッシュ公使、ベルニー技師、通訳、カションの3名が出席した。約定書の数項目を読み合せし、互いに納得したところで、各代表2名が署名、花押を行った。忠順はこれにより、栗本鋤雲とフランスの技術者、ベルーニと共に、横須賀製鉄所の具体的建設に着手した。製鉄所1ヶ所、ドック大小2ヶ所、造船所3ヶ所、武庫廠及び役所等を、4ヶ年で竣工させる契約であった。契約を済ませると、あれやこれや、忠順たちの夢は広がった。浦賀ドックを建設した中島三郎助にも相談し、積極的に行動した。ところが、京にいる一橋慶喜は、自分が禁裏御守衛総督という重要な地位についているというのに、昨年、勘定奉行だった小栗忠順が、経費削減を理由に慶喜の御役料としての十万石の知行追加を認めなかったことを今年になって知った。慶喜は激怒し、その処分を老中たちに迫った。その為、小栗忠順は2月21日、軍艦奉行を免ぜられ、またもや無役になった。だが忠順は役職など気にしなかった。栗本鋤雲や浅野氏祐たちと陸軍の軍事強化訓練などについて話し合い、外人教官を招聘することを計画した。また3月6日には横浜に『仏語伝習所』を開設した。その頃、長州では昨年暮れ、防長回天の挙兵を成功させ、筑前に隠れていた高杉晋作が現れ、3月に俗論派の首魁、椋梨藤太らを排斥して、藩の実権を握り、但馬出石に逃げ延びていた桂小五郎を長州藩の統率者として迎える計画をしていた。また薩摩の西郷隆盛は、勝海舟と共に神戸海軍操練所で教練をしていて、首になった坂本龍馬らを利用し、秘密裏に薩長同盟を結ぼうと考えていた。征長軍総督、徳川慶勝から戦争回避の為の仲介を依頼されると、早速、坂本龍馬を繋ぎとして使った。西郷は神戸海軍操練所が廃止になった時、勝海舟に塾頭、坂本龍馬や練習生の面倒を頼むと依頼されており、薩摩藩にその面倒を見させていた。坂本龍馬らは鹿児島を経由し長崎に移動し、薩摩藩に庇護され、商社『亀山社中』なるものを設立し、商人の仕事を楽しみ始めていた。商人である坂本龍馬らは知り合いのいる長州に時々、出かけて行って、『グラバー商会』の扱う武器や弾薬の販売交渉をしたり、幕府対応について論じあったりした。このような長州藩の恭順から反抗への変化に気づくや、幕府としても看過することは出来なかった。京を制圧した一橋慶喜としては、長州の再起反抗は、朝廷や幕府への反抗であると共に、京を治める慶喜の威信を蹴落とそうとするものでもあると見て取れた。慶喜の心は煮えくり返り、孝明天皇に第二次長州征伐が必要であると奏上した。すると孝明天皇はお悩みになられ、元治には反乱や社会不安が多すぎるので、改元を行うことにした。4月7日、改元が決まり、翌日8日から元号が慶應となった。それで長州の反抗が鎮まるものでは無かった。慶喜は江戸幕府に第二次長州征伐を行うので軍資金の準備と将軍、家茂の上洛を要請した。江戸城内は紛糾した。家茂が老中たちに確認した。

「長州と朝廷との間は、薩摩藩の西郷とやらが中心になって和議解決していたのではないのか」

「それが、自滅した筈の長州の過激派が決起し、軍備を増強し、幕府軍に徹底抗戦する構えでいるとのことで御座います」

「そういう事か。世の中にはしぶとい者がいるものじゃな。して余はどうすれば良い」

「総ては徳川の威信の為、再度の御上洛をお勧め致します。帝も上様が御上洛すれば、ご安心なされることでしょう」

 以前、上洛を共にしたことのある大老、酒井忠績が答えた。一同、それに同意した。しかし、小栗忠順が京からの申し出に応じるしかないという空気を一新するかのように発言した。

「私は上様の御上洛に反対です。今までの御上洛及び一橋様たちの京での駐留費用など幕府の出費は大変なものになっております。上様を軍資金無しで御上洛させる訳には参りません。これ以上、どうやって軍資金を捻出すれば良いのか、皆様、お考えでしょうか?」

 すると少し考えた後、老中、水野忠精が言った。

「当たり前じゃ。だから本日の会議に無役のお前を同席させたのじゃ。何か良い案はないか」

「良い案は上様が御上洛しないことです。幕府は勿論のこと諸藩も、何かと物入りな時だと思われます。ですから無用な日本人同士の殺し合いをせず、長州への出兵反対を朝廷に奏上することをお願い申し上げます。上野介、上様の御英断をお願いします」

 忠順の言葉に、将軍、家茂は辛そうな蒼ざめた顔をして、忠順を見詰め口を開いた。

「幕府の資金繰りを知る上野介の気持ちは分かる。だが余は公武合体を主導する幕府の筆頭じゃ。帝の御為にも親征に参加せねばならぬ。反対せずに皆と共に幕府を守ってくれ」

「上様の御上洛の御決意が固いなら,お止め致しません。幕府の軍資金は外国との借款で賄いますので、御理解下さい」

「借款とは何じゃ?」

「外国の資金を利用させてもらい資源開発などを行い、その益金の一部を外国に返済して行く資金繰りの方法です。外国にとっては幕府への投資協力となります。このことは、幕府防衛となります」

 家茂は、頷いた。老中、阿部正外が首を傾げて質問した。

「何故、外国からの借款が幕府防衛になるのじゃ」

「金を貸した者が借りてる者を殺したりしましょうか。借りてる者に長生きしてもらう為、貸主は借手を可愛がってくれろものす」

 忠順は薄ら笑い、平然と言ってのけた。この会議をもって、将軍、家茂は4月18日、御進発令を発表し、上洛の準備を始める事となった。それから半月後の5月4日、忠順はまた四度目の勘定奉行に就任した。そして5月16日、将軍、家茂は長州征伐の為、江戸を出発、京へ向かった。1回目と同じ、陸路での上洛だった。それと同時期の5月25日、幕府は、小栗忠順の要請により、フランスに横浜製鉄所建設に関わる実務集団を派遣を決めた。その命を受け、外国奉行、柴田剛中は福地源一郎、水島楽太郎、塩田三郎らを引き連れ、5月末、6名で元気よくフランスに向かった。忠順はそれから、第二次長征の費用、柴田たちのフランスでの機械購入費用の捻出の為、頭を捻った。そこで忠順は、フランス帰りの河津祐邦、池田長発、福沢諭吉らを集め、フランスとの貿易で利益を上げるには、どのようにしたら良いかを相談した。そこで池田長発から出たのが、日本から生糸の輸出が盛んなのは、フランスやイタリアなどのヨーロッパの養蚕国で微粒子病という蚕の病気が蔓延し、フランスの養蚕業が滅びそうで、困っていることに起因していると話した。池田長発らがフランス大統領、ナポレオン三世に謁見した時、大統領が、それを嘆いていたというのだ。忠順は閃いた。生糸の輸出に加えて蚕種の輸出を幕府が直接輸出すれば利益を生み出せる。忠順が蚕種の輸出を口にすると、福沢諭吉が尚商立国論などという国営交易店設立を口にした。このフランス帰りの連中の話を栗本鋤雲に話すと、栗本は、それでは生糸の輸入をしている横浜のフランス商人が困るだろうから、ロッシュ公使に相談した方が良いと忠告した。そこでロッシュ公使やカションに相談すると、ロッシュ公使は幕府とフランスの有力資本家を集め、合同貿易組合を設立するのが賢明だと説明した。それにはパリの銀行家、エラールを抱き込む必要があることを強調した。何故なら、日本との武器輸出の手続きにはエラールが便宜をはかっているという事だった。時は急ぐ。忠順はフランス側の手筈についての総てを、ロッシュ公使に一任した。そして幕府側は栗本鋤雲や池田長発らと相談し、ことを進めた。先ずは横浜の商人、『亀屋』の原善三郎、『野沢屋』の茂木惣兵衛、『吉村屋』の吉田幸兵衛を呼び、幕府による外国との合同貿易組合設立に賛同して欲しいと依頼した。いずれも上州と関連ある人物なので、上野介、忠順の話に乗ってくれることになった。組合の事務方は、若い黒岩格之助、駒井忠道を使うことにした。黒岩格之助は倒産した『中居屋』の主人、黒岩元兵衛の息子で、権田村の連中が、生糸の取引で『中居屋』に御世話になっていたことから、佐藤藤七が勉学の支援をしており、駒井忠道と3月に開設した『フランス伝習所』に通っている生徒だった。従って格之助は養蚕のことを詳しく知っていた。繭玉を買い、糸繰りして生糸にしたものを売買して稼いで来た他に、産卵紙の仕入れ販売も行って来た経験者だった。忠順は早速、蚕卵紙を仕入れ、ロッシュ公使を通じて、フランス大統領、ナポレオン三世に将軍、家茂の名で無償提供して、フランスとの合同貿易組合設立の支援を請願した。また忠順は4月、アメリカに帰国したロバート・プリュイン公使から、リンカーン大統領から差し止めをくらっている軍艦『富士山丸』がどうなっているのか、代理公使、アントン・ポートマンに督促した。するとポートマンは辛そうな顔をして、忠順に答えた。

「プリュイン公使は帰国して、リンカーン大統領を説得しているのですが、下関戦争のことなどあり、日本国を信用していないようです。『富士山丸』は完成していますが、しばらく待って欲しいとのことです。ライフル銃5千挺については、先日、入荷済みです。『冬木屋』さんに伝えてあります」

「それは有難う。『冬木屋』に直ぐ引き取らせよう。支払いは『三井組』に処理するよう伝えておくから、よろしくお願いします」

「有難う御座います。『富士山丸』は必ず、お届けしますので、待っていて下さい」

 忠順は、外国との交渉以外にも、知行地のことが心配だった。ライフル銃引取り指示の件で『冬木屋』に出かけた時に、今度、吉田重吉が材木を運んで来たら、小栗家に来るよう伝えてくれと言った。佐藤藤七に確認してもらいたい事があったからだ。その吉田重吉が数日後、小栗家にやって来た。重吉は忠順の前にかしこまると、挨拶した。

「ご無沙汰しております。何時も弟、好三郎がお世話になっております。本日、木屋重吉、『冬木屋』さんに言われて、お屋敷にお伺いしました」

「おう、忙しいのに御苦労。城之助たちは元気か?」

「はい。何かと用事があるようで、あっちこっち走り回っております」

「そうか。お主を呼んだのは他でもない。帰ったら、藤七と城之助に江戸に来るよう伝えてくれ。用件は、それだけじゃ」

「はい。分かりました。村に戻り次第、本件、お伝え致します。その他にも権田村に関する用事が御座いましたら、木屋重吉を家来と思って、存分にこき使って下さい」

 その重吉の言葉に忠順は微少した。

「有難う。そう言えば、以前、そなたと、ここに来た安中藩の若者は元気か?」

「ああ、新島襄のことですね。あいつは、困った奴です。安中藩を脱藩しました」

「何じゃと]

「はい。安中藩から脱藩しました」

「何故、脱藩した。『天狗党』にでも入ったか?」

「いいえ。あいつは攘夷に大反対です。アメリカに行きました。お殿様のように、アメリカの土を踏まなければ、世界の真実を知ることが出来ないと・・・」

 忠順は驚いた。脱藩を企て、異国に行こうとして失敗した者が何人もいることは知っているが、新島襄が単身、渡航に成功するとは信じられ無かった。もっと身近な関係になっていたら、幕府の金で欧米派遣をさせてあげたというのに。

         〇

 半月後、上州から佐藤藤七と山田城之助が神田駿河台の小栗屋敷にやって来た。忠順は先ず、『冬木屋』のライフル銃2千挺を、前回同様、権田村に運ぶよう指示した。それから、中小坂鉄山の状況を聞くと、藤七が答えた。

「小幡藩の松平様のご援助により、採掘現場が完成し、採掘が進んでおります。後は溶鉱炉の建設を待つばかりです」

「左様か。ならば私は洋式製鉄設備の輸入を急がねばならぬな」

「はい。幕府の御予算も大変でしょうが、御手配の程、よろしくお願いします」

「藤七も、幕府の懐事情を良く分かっているな」

 忠順は、そう言って笑ってから、城之助を見て、質問した。

「城之助。妙義山の方はどうなっている?」

「はい。中木の洞窟は安中の侍大将、半田富七様と新井信五郎親分、武井多吉、それに島田柳吉が従事しており、もう充分な広さです」

「そうか。角落山の方はどうか?」

 角落山のことを訊かれると、城之助は少し遠慮し、藤七に説明させた。

「角落は安中の侍大将、和田紋右衛門様と上原庄太郎、湯本平六が掘り進めており、中木同様の広さになりました。もうそろそろ閉山の御指示をいただければと思っております」

「そうか。ならば妙義、角落とも鉄鉱石採掘に失敗したということで、閉山させよ。閉山後の洞窟入口の鉄扉の設置及び岩での扉隠しについては限られた者を使い秘密裏に行え。今度、運ぶライフル銃や弾薬も、そこに隠せ」

「ははーっ」

 藤七と城之助は忠順から洞窟採掘の始末を指示され、頷き合った。二人が上州の状況報告を終え、武器格納の用件を受けて帰って行くと、忠順はほっとし、京の事が気になった。その京では五月末に入洛した将軍、家茂が大阪と京の間を行ったり来たりしているだけで、長州征伐を躊躇しているとのことであった。家茂は慶喜の提案により、京を戦乱に巻き込まぬ為、大阪城を長州征伐の大本営にしたようだが、忠順は疑問を持った。忠順は老中、酒井忠績と小笠原長行に疑問を投げかけた。

「酒井様、小笠原様。一橋様は何故、朝廷に媚びり、将軍である家茂様を帝に近づけようとしないのでしょうか。帝と家茂様が一体となり政事軍事を決定しなければならないのに、何故、家茂様が二条城におらず、大阪城に控えていらっしゃるのですか。そのような状況下で、諸侯の兵を集めようとしても兵が京に集合する筈がありません。かかる状態では長州討伐など不可能です。これ以上、幕府の経費を無駄にしない為にも、御老中方は家茂様の一時も早い帰府をお勧めするべきかと思いますが」

 すると酒井忠績が答えた。

「そのことじゃが、他の者からも意見があった。一橋殿が朝廷の公卿たちをまるめこみ、将軍職に就こうとしているのではないかと」

「それは謀反ではありませんか」

「そんな心配もあり、我々老中は迷っている。それに5月にイギリス公使として着任した、ハリー・パークス公使が、日本国政府は江戸なのか、京なのかと、しきりに迫り、どう返事したら良いのか迷っている。どうしたら良かろう」

「それは決まっているではありませんか。徳川幕府が日本国の政府です。そうパークス公使に伝えれば解決することです」

 老中、酒井忠績は頷いた。だが小笠原長行は以前、忠順に言われて、将軍、家茂を京から江戸に取り戻しに行き、老中職を罷免されたことがあり、同じ失敗を繰り返したく無かった。従って、京の動きを静観するしかないという消極的な考えだった。酒井忠績もそれに同調した。そんなであるから、或る日、アーネスト・サトウがやって来た。一度、パークス公使が会いたいと言っているという。アーネスト・サトウに頼まれては仕方ない。忠順は栗本鋤雲と一緒に、パークス公使に会った。

「ミスター・小栗。やっと会うことが出来て嬉しい。オールコック公使から、困った事があったら、貴男に相談すると良いと言われた」

 忠順は、パークス公使から初対面の自分に対し、頼りにしているような言葉が出て来るとは思ってもみなかった。オールコック公使が、後任のパークス公使に自分のことを話していたとは意外だった。

「パークス公使。私には、そんな能力はありませんし、権限もありません。あるとすれば、かって外国奉行を歴任したという経験だけです」

「私も清国で苦労しましたが、上海での経験が役立っております。我々の力になって下さい」

「私で、お役に立てるでしょうか?」

「そう思うから頼んでいるのです」

「了解しました。悩み事をお話し下さい」

 忠順が、そう答えるとパークス公使はホッとした顔で、こう言った。

「実は3年前、イギリスと日本国の間でのロンドン覚書及びパリ覚書で、兵庫港、新潟港の即時開港開市と江戸、大阪の開港開市の5年延期を約束した。それに長州や薩摩の賠償問題でも、すっきりしていないところがある。よって、私は駐日公使として着任後、早々、兵庫港、新潟港の即時開港を幕府に要求したが、いまだに返事をいただいていない。私は現在、江戸の幕府を交渉窓口にしているが、他国から交渉窓口は帝や将軍のおられる京でないと、返事が得られないとの報告を受けた。そうであるのか、そうで無いのか真実を教えて欲しい」

 この質問には忠順も困った。どう答えるべきか。老中たちが優柔不断であったのが分かる。忠順はパークス公使のような新任公使が、外国奉行でもない自分に正面切って相談して来たことに、彼の真剣さを読み取った。忠順は同行した栗本鋤雲に相談した。鋤雲は勅許が必要なことを話せば良いと言った。そこで忠順は、パークス公使に次の返答をした。

「パークス公使。あなた方は、日本国の政府が江戸にあるのか京にあるのか、迷われているようであるが、日本国の代表政府はこの江戸の幕府です。但し、日本国には古来からの悪弊があります。幕府でものごとが、決定しても、勅許という帝の了解を得る必要があります。それは貴国と同じです。更に不都合なことには我が国の帝は京におられます。現在、日本国の首相である徳川将軍が京におられますが、これはたまたまであって、あなた方もご存知の通り、内乱者を鎮撫する為、京に行っているのです。もしあなたがイギリス国の仕事を急がれるなら、御足労となりますが、京に行かれて、賠償金を減額するなどの譲歩を提案し、開港の勅許をいただいて下さい」

 忠順の答えにパークス公使は苦笑した。

「矢張り、京まで行かないと駄目ですか」

 そして溜息をついてから、急にニッコリ笑うと、忠順たちを夕食に誘った。夕食をしながらアーネスト・サトウが忠順に礼を言った。

「助かりました。本日の小栗さんの説明で,公使はちゃんと理解されたようです」

「そうだと良いのですが・・・」

 忠順はグラスの酒を飲み干した。後はどうなるか、パークス公使の考え次第であった。忠順はイギリス公使との会談を終えてから、数日後、陸軍奉行、浅野氏祐に会った。忠順の突然の訪問を受け、氏祐はびっくりした。

「どうされましたか、小栗様。何か思わしくない事でも」

「もしかすると、五ヶ国連合による神戸港と新潟港の開港要求が朝廷とこじれて、第二次長州征伐では無く、五ヶ国連合軍との戦闘が始まるかも知れぬ。その時のことを今から考え、陸軍としての準備をしておいて欲しい。江戸城の武器庫には輸入した大砲やライフル銃、火薬など充分に用意してある。万一、戦闘が始まったら、京など構わず、江戸を第一優先に守る行動をとって欲しい。それが我が国が生き残る道だ」

「帝や将軍、家茂様のことは、どう成されるお積りですか?」

「家茂様だけを、江戸にお連れする。長州に洗脳された攘夷主義者など、和平交渉の時の邪魔じゃ。世界の潮流は開国にある。もし外国連合が江戸に攻めて来れば、私が各国の公使らと交渉し、開港を認め、戦争を終わらせる。兎に角、我々は江戸や横浜にいる大切な人たちを守らねばならぬ」

「了解しました。江戸、横浜の守備を固めるべく、幕府陸軍の軍事訓練を強化致します。また武器の手入れも入念に行います」

「よろしく頼む」

 この忠順の心配は現実になろうとしていた。イギリスのパークス公使は小栗忠順に会った後、フランス、アメリカ、オランダ、ロシアの各公使たちに声をかけ、何度も相談した。パークス公使は訴えた。

「日本国との貿易は互いの国に大きな利益をもたらしているが、関西の兵庫港を開港してもらえれば更に膨大な利益が得られる。我々公使にとって兵庫の即時開港が喫緊の重要課題である。江戸の幕府に交渉した結果、それを早める為には、京での勅許が必要だと言っている。それ故、連合艦隊を率いて京に、勅許をいただきに出向こうと思うが、皆さんの意見を聞きたい」

 これに対し、アメリカ、ロシアを除く3ヶ国の合意を得たパークス公使は3ヶ国からなる連合艦隊を組織して京に向かうことに決定した。9月13日、イギリスのキング提督を司令官としたイギリス軍艦4隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦1隻、合計8隻からなる連合艦隊が横浜を出港した。これらの軍艦にはイギリスのパークス公使、フランスのロッシュ公使、オランダのポルスブルック公使、アメリカのポートマン代理公使が乗船しており、9月16日、兵庫港に到着した。予想外の出来事に、大阪の将軍、家茂は、ことの次第を朝廷に伝えた。すると朝廷は長州征伐を切り替え、攘夷を決行せよと命じた。将軍、家茂は長州や薩摩が欧米の連合艦隊により、ボカボカにされたことを知っていたので、直ぐに在阪老中、阿部正外と松前崇広を神戸に派遣し、四ヶ国の公使と交渉を行わせた。

小栗忠順は、その情報を栗本鋤雲から得たが、予想していたことなので、それ程、気にしなかった。9月27日、小栗忠順は老中、酒井忠績や小笠原長行、栗本鋤雲らと共に『横須賀製鉄所』の鍬入れ式を行った。後世、東洋一の軍港と称せられる横須賀港はこの日から始まった。交渉は難航した。四ヶ国は要求が受け入れられないとするなら、京、大阪は薩長と同じ砲撃に見舞われるであろうと恫喝した。阿倍正外と松前崇広は悩んだ末、開港するよう善処すると伝えた。ところが、9月29日、京にいた一橋慶喜が大阪城にやって来て、勅許無しの条約調印は無効だと怒鳴り散らした。それに対し、将軍、家茂は阿部正外、松前崇広らと共に、慶喜に言い返した。

「幕府をないがしろにして、異国が朝廷と交渉を始めれば、幕府は不要となり、崩壊する。一橋殿は、それで良いと思っているのか」

「尊王攘夷です」

「それは水戸や長州の考えであり、徳川の考えとは違う。一橋殿は帝と何を画策しておられるのじゃ」

 この質問に慶喜は驚き、口をつぐんだ。阿倍正外たち幕閣は慶喜を睨みつけた。会議広間は静まり返った。流石の慶喜も窮地に追い込まれ、こう答えた。

「帝は攘夷を願っておられる。異国との兵庫港の開港調印が幕府の希望であるなら、京に戻り、帝に奏上し、勅許の御沙汰書をいただきましょう」

 慶喜は若い将軍、家茂に懐疑の目を向けられ、不快に思ったが、我慢して京へ戻った。そして攘夷を叫ぶ、孝明天皇や関白や公卿たちを説得した。すると二条関白は孝明天皇と相談し、阿倍正外、松前崇広の両老中を罷免し、勅許を出すことにした。それを慶喜が伝えると温厚な家茂も堪忍袋の緒が切れた。家茂は激怒して言った。

「阿倍豊後守、松前伊豆守を罷免せよとはどういうことか。二人は余が大切にしている有能な徳川の家臣であるぞ。その徳川の人事にまで朝廷が難癖つけるとは許せぬ。どういう積りか。帝に幕府人事まで掻き回す権利があるというのか。そんなこと認められて良い筈がない。そんな暴言を一橋殿は黙って受けて来たられたのですか」

「二条関白様が四ヶ国に違勅を伝えた勅令違反だと強く言って譲らなかったものですから」

「一橋殿とあろうお方が、情けなや。京にお戻り下さい」

 家茂は立腹し、奥に引込んだ。慶喜は仕方なく、京に戻った。翌日、将軍、家茂は右筆、向山隼人正に辞表を書かせ、孝明天皇に送った。

〈臣、家茂、病弱非才の身でありながら、愚かにも征夷大将軍の大任を承り、自分なりに日夜、精励して参りました。しかしながら、内外多事に直面し、宸襟を安んじ奉ることが出来ておりません。また反乱者を鎮めることも、富国強兵も国威を海外に輝かすことも出来ておりません。それに較べ、臣の一族、一橋慶喜は陛下に任ずること久しく、政事に精通しており、征夷大将軍の大任に相応しい器量と存じます。然るに臣は将軍の位から引退し、将軍の地位を一橋慶喜に相続せしめ、万事を譲ろうと思います。ここに臣の時と同様、諸事を一橋慶喜に御委任下されんことを伏してお願い申し上げます〉

 これを受け取った朝廷は勿論のこと、慶喜もびっくり仰天。兵庫港に外国の連合艦隊が待機しているのに、どうすれば良いのか。将軍、家茂が禁裏と慶喜に尻をまくった状態である。家茂は慶喜に将軍職を譲ると上奏し、綺麗さっぱりした。そして10月3日、大阪を発し、その日は伏見に一泊し、東海道を江戸に向かうことにした。それを知った慶喜は顔色を変え、伏見に駈けつけ、一泊して、家茂を押し留めた。10月5日、朝廷は幕府の処置に従い、家茂は辞意を撤回した。幕府は10月7日、兵庫に待機する四ヶ国連合に対し、孝明天皇が条約の批准に同意し、12月7日、兵庫港の開港が可能になったと伝えた。こうして条約勅許を得て横浜に戻って来たパークス公使は自分の計画した砲艦外交が成功したと、忠順に自慢したが、忠順は嬉しく無かった。将軍、家茂の苦労が目に見えるようであった。いずれにせよ、陸軍奉行、浅野氏祐に話したような大戦争にならずにほっとしたところで、11月3日、忠順は『国産会所』設立会議を開催した。これに池田頼方、山口直毅、井上清直、駒井朝温、増田作右衛門、星野緑三郎らが賛同してくれた。『国産会所』は対外貿易の指導保護を目的として、国産品の輸出振興推進を行う団体で、11月20日には業務に着手した。これは今までの御用金制度に頼らず、幕府そのものが国内経済の実権を握り、有力民間商人等を活用し、幕府の財政富裕に寄与貢献する方策であった。この間、在京幕府は11月7日、全国31藩に対し、長州への出兵を命じた。だが薩摩、福井など態度不明の為、何の動きも無く、一年を終えた。12月7日、アメリカに発注していた『富士山丸』が漸く横浜に到着したと忠順にアメリカのポートマン代理公使から連絡があり、忠順は栗本鋤雲、木村喜毅らを誘って、横浜まで見学に行った。

         〇

 慶応2年(1866年)正月休み明けの4日、小栗忠順は、軍艦奉行、大関増裕を連れて、フランス公使、ロッシュの所に新年の挨拶に伺い、フランス海軍士官、バワーを紹介してもらい、横浜沖に停泊中の軍艦『富士山丸』の伝習開始の打合せをした。バワー士官は大関軍艦奉行と固い握手をして、翌日から幕府海軍の伝習を開始することを約束した。忠順は、そんな海軍の兵員養成訓練に顔を出し、栗本鋤雲たちと『富士山丸』に乗せてもらったりした。一方、京では1月21日、薩摩藩邸で、大久保一翁や勝海舟の影響を受けた坂本龍馬が、仲立ちとなって薩長同盟が秘かに結ばれていた。その為、年初から、薩摩が動かず、九州や中国、四国地方の藩も戦費が無く、出兵を行わず、幕府の権威は全く失墜し、長州征伐は休止状態となった。こうなっては朝廷を独占したつもりでいる慶喜も何も出来ない。将軍、家茂も大坂城に待機するだけで、鬱屈が蓄積するばかりであった。和宮からは早く江戸に戻って来て欲しいという恋文が頻繁に届き、家茂の胸は痛んだ。長州藩は長州藩で、薩摩藩と坂本龍馬率いる海援隊の仲介によって、英国商人、グラバーからゲーベル銃や弾薬を購入し、肥中の廻船問屋『酒田屋』を経由して、大村益次郎、伊藤春輔などが武器を集めているという状態だった。つまり長州の攘夷派も幕府同様、攘夷を称えながら外国から武器などを輸入しており、まさに開国派に転じているといえた。このようであるから、武器商人の片棒を担ぐ坂本龍馬はウハウハだった。1月23日の夜、薩長連合の大仕事をやり遂げた坂本龍馬は伏見の『寺田屋』で待っていた長府藩士、三吉慎蔵と愛人、おりょうに、薩長同盟を成功させた自慢話に花を咲かせ、上機嫌だった。そこに伏見奉行配下の捕り方が踏み込んだ。しかしながら捕り方は、薩摩藩士と名乗る手強い二人を取り逃がしてしまった。もし、この時、京都守護職、松平容保の部下が坂本龍馬を捕まえていたら、歴史は変わっていたであろう。京阪にいる幕府が何も出来ず、将軍、家茂が東帰を希望しているのに、朝廷と慶喜は家茂を帰すまいと夢中だった。忠順もまた軍資金捻出の為に夢中だった。大阪にいて老中を罷免された阿部正外が江戸に戻って来て、軍資金を京に送るようにと老中、板倉勝静と共に泣きを入れるが、忠順は冷たかった。

「江戸を離れ京や大阪にるのですから経費がかかるのは当然のことです。そんな遠く行って駐在し、帝をお守りしておられるのですから、滞在費用を朝廷から都合してもらったら如何ですか?」

「そんな事が出来ると思うか」

「一橋様にお願いしたら可能なのではないでしょうか?朝廷が出してくれないなら、備中一橋領から援助させるでしょうよ」

 忠順は、さらりと言ってのけた。忠順には江戸を充実させる為に、まだやることが沢山あった。横須賀造船所を開設したところで、外国と肩を並べる立派な海軍が無ければならなかった。忠順は延焼して放置状態の築地軍艦操練所を浜離宮側に再建することを考え、軍艦奉行、大関増裕に指示し、辻内左近と鹿島岩吉を使い、早急に軍艦操練所工事に着手するよう要請した。忠順は兎に角、江戸、横浜に資金を継ぎ込むことを惜しまなかった。3月に入ると、知行地から佐藤藤七がやって来た。勿論、知行地の報告の為だった。

「おう、藤七。良くぞ来てくれた。気になっていたところだ」

「正月は、お伺い出来ず、相済みませんでした」

「なんの、なんの、こちらも『富士山丸』が出来上がって来て、忙しくて仕方なかった。ところで権田村の皆は元気か?」

 すると藤七は屈詫ない笑顔で近況を話した。

「お陰様で村の者は皆、元気です。ここのところ浅間山も大人しく、今年は豊作の年になりそうだと皆、励んでおります。しかし、町場では物価高騰への不満や攘夷運動が鎮まらず、新規関東郡代として岩鼻代官所に来られた木村甲斐守勝教様も御苦労なされておられます。権田村は、山間地なので、高崎、厩橋、本庄あたりのような不穏に巻き込まれることもなく、平穏無事です」

「そうか。それは良かった。ところで妙義と角落の件はどうなっている?」

「本日は、その事の報告に参りやんした。両山の採掘は昨年末で終了し、正月より、安中藩の手を離れ、我々の人足で鉄扉を設け、鉄砲や刀剣、槍等を中に搬入し、鉄扉を閉じました。その後、鉄扉前に石を並べ、その上に砂を被せ、つつじや青木を植えました。ですから、洞窟の入口は関係者以外、分からなくなっております」

「それは御苦労であった」

「金貨込めの穴については、目下、城之助と手分けして、両洞窟の上の方に掘っております。千両箱が2千箱程込められるようにと考え進めております。出来上がりましたら、また報告にあがります」

「無理を言って済まぬな。そうだ。丁度良い。来たついでだ。道子と邦子を連れて、横浜に停泊している『富士山丸』を見学に行ってはどうか。栗本殿の所へ行けば、案内してくれるであろう。それに『フランス伝習所』に行けば、駒井忠道らの知り合いもいる」

「あっしも一度、横浜見物をしたいと思っていたところです。奥方様、お嬢様のお伴をして、横浜に行き、ぜひ『富士山丸』を見たいものです」

 藤七は自分の事に気を配ってくれる忠順の気持ちを有難がたく思った。忠順にとっては、普段、行楽の相手を出来ぬ家族への気配りの一助でもあった。藤七は翌日、忠順の妻、道子らと共に横浜に出かけて行った。藤七に家族の面倒を見て貰っている間、忠順はフランスとの『合同貿易組合』について、ロッシュ公使や、パリの銀行家、エラールの紹介で来日した『帝国郵船会社』取締役のクーレと打合せを行った。フランスの農商土木大臣であり、『帝国郵船会社』社長であるベイクの甥であるクーレは、日本とフランスの輸出入会社『合同貿易組合』を設立するという目的で日本に派遣されて来ており、日本側との交渉に期待を膨らませていた。忠順はそのクーレと『合同貿易組合』の打合せをし、『日仏交易会社』設立計画をまとめ上げクーレに言った。

「これで、『日仏交易会社』が設立すれば、日本とフランスの交易は民間資本により、増々、盛んになりなります。お互い、その実現に向けて頑張りましょう」

「その通りです。お互い頑張りましょう。私の報告を聞けば、リュイス外務大臣、ベイク農商土木大臣、エラール頭取も喜びましょう」

「ところで本件とは別に幕府からのお願いがありますが、よろしいでしょうか」

「何でしょう」

「実は我が国の商人は資金を保有していますが、恥ずかしいことに、日本政府は金欠状態です。そこで私は日本の国内産業を発展させる為に、貴国からお金をお借りしたいと考えているのですが、如何でしょう?」

「それは融資ということでしょうか?」

「借款という事でお願いしたいのですが。フランスから沢山の設備を導入したいのです」

「いか程でしょうか?」

「六百万ドルです」

「うーん。それは大金ですね」

「無理でしょうか?」

 クーレは目を丸くて、うなった。だがクーレはフランスを代表する『日仏交易会社』の代表になることで、フランス政府からも日本との外交も認められており、ここで不可とは答えられなかった。

「分かりました。香港上海銀行の支店も今月、開設したばかりですから、仕事を活発化させる必要があります。パリに戻り、フランス政府に相談してみましょう」

 忠順は、思い切って依頼して、良かったと思った。幕府の資金繰りは何とかなりそうだ。これで軍事強化も出来る。かかる小栗忠順同様、長州でも日本の近代化を図り、幕府との全面戦争を考え、村田蔵六、改名、大村益次郎が従来の武士だけではなく、農民、商人から組織される洋式軍隊の基本的訓練を行い、戦術を徹底的に教え込んでいた。そんな情報を得てか、一橋慶喜は、5月20日、勅許をもって、長州征伐の実行を、大阪城にいる将軍、家茂に迫った。家茂は老中、板倉勝静ら家臣たちと相談し、再度、諸藩に呼びかけ第二次長州征伐を実行することを決めた。その知らせは直ぐに江戸に届き、幕閣に江戸城への招集がかかった。5月27日、忠順がその会議に出席すると、蟄居中の勝海舟が出席していた。その席で勝海舟は軍艦奉行に再任され、大阪出張を命ぜられた。将軍、家茂みずからの命令とのことであった。命令を賜った海舟は豪語した。

「この勝に軍艦、四、五隻、お任せいただければ諸侯の手などお借りしなくても馬関から長州に攻め入り、あっという間に長州を制圧して見せます。どうか『富士山丸』をお貸し下さい」

 その要請を聞き、忠順が異議を唱えた。

「何を言われる。『富士山丸』は、まだ訓練練習中であり、直ぐ実戦には使用出来ません。安房守殿の好きな、『咸臨丸』でお出かけ下さい」

「その『咸臨丸』は故障が頻発し、帆船となり、小回りが出来ないと聞いている」

「それは、安房守殿が為すべき軍艦整備場所の建設に異論を称え、『咸臨丸』の整備を怠って来たからでしょう。『咸臨丸』が駄目なら、『順動丸』をお使い下さい」

「分かり申した。『順動丸』を使わせてもらおう」

 海舟は、ちょっと膨れっ面をした。会議は、それから長州出兵の援軍の話となった。ここでも忠順は勝手を言わせてもらった。

「上様が呼びかけても、越前、土佐、美濃などの主要の藩侯が腰を上げないのは、一体、どういうことだと思われますか。先ずは江戸より近い雄藩が上洛してこそ、開戦出来るというものです。安房守殿、上洛したら、そう上様にお伝え願います」

「あい、分かった」

 海舟は、久しぶりに会った年下の忠順が、以前より、高慢になっているのが気に喰わなかったが、我慢した。大久保一翁が、小栗は人望はさほどではないが、知略に長け、胆力が備わっているぞと褒めていたことが頭に残っていて、今は従うより他に無いと思った。長い会議が終わると、忠順は久しぶりに会った勝海舟に声をかけた。それは長引いている長州征伐を中止させ、争いの無い国内にする為であった。

「安房守殿。会議では失礼なことを申しましたが、お許して下さい」

「なあに何時ものことだから気にしていないよ。何故、謹慎を解かれたのか訳が分からん。何故だと思う」

「それは安房守殿に長州征伐の海軍の総指揮を執っていただきたいからでしょう。海軍奉行、大関増裕殿はまだ若く経験が浅いですから。それに攘夷を行うなら、京へ行って行うべきだと提言されたのも安房守殿ですから」

「そんなこと言ったかなあ。でも長州と戦うのは気が引けるよなあ」

「当然のことです。同じ日本人同士ですから。出来れば長州との戦さを穏便に済ませたいです。噂によれば長州と薩摩は安房守殿の部下であった土佐の者が仲立ちして、薩長間の戦争をしないと裏約束をしたと聞いております。出来れば安房守殿に、幕府と長州の間でも戦争を回避し、和睦に持ち込んで欲しいです」

「そうは言うが、京の幕府の後ろには攘夷と長州征伐を迫る朝廷がいるからな」

「私は今、フランスに六百万ドルの借款を申し込み、軍艦、大砲、その他の武器の註文を進めております。それらが手に入れば武力にものをいわせ、長州を降参させることが出来ます。そうしたら今までのような、幕藩体制を廃止し、郡県制度を打ち立て、幕府政治をフランスやアメリカのような大統領制に変革させようと思っております。朝廷の許可などいらず、大統領を元首とする国家統治体制です。安房守殿も私と同様、アメリカに行ったことがあるのですから、ご理解いただけるものと思い、あえて今の幕府の機密をお伝えした次第です。これ以上、長州の過激派の連中に幕府に逆らわぬよう説得して下さい」

「成程。そういう考えもあるな」

「今の話は江戸幕府の秘密です。京にいる幕府の連中には絶対、洩らさにで下さい。計画の邪魔をされるだけですから・・・」

「分かったよ」

「それに、もう一つ。上様を即刻、江戸に帰してもらいた。幕府の統領が長期間、不在では外交に支障を及ぼす。それに和宮様が、お気の毒だ。上様にお会いしたがっている」

「うん分かった。話してみる」

 勝海舟は、そう答えると、くすっと笑った。忠順は喋り終えてから、海舟に借款の事を話すべきでは無かったかも知れないと、反省した。

         〇

 六月、軍艦奉行、勝海舟が江戸から大阪へ急行し、大阪城で病身の将軍、家茂に拝謁し、小栗忠順が帰府を要望していると伝えた。しかし、家茂は孝明天皇からのお許しが出ず、帰れないと仰せられた。その後、海舟は一橋慶喜や幕府重臣たちに会い、小栗忠順が、フランスから蝦夷地を担保にして六百万ドル借りる契約をしているとの誤った秘密を洩らした。それを聞いた家老や幕臣たちは憤慨したが、慶喜は軍資金の為に、上野介は苦労しているのだと一同をなだめた。それから長州攻撃の打合せをし、海舟は畿内の海軍部門の指揮官に任命された。海舟は『富士山丸』を使わせてくれと慶喜に要望し、強引に『富士山丸』を大阪に移動させた。そして6月5日、広島に駐留する幕府軍の石坂武兵衛、滝田正作の二人が岩国に赴き、宣戦布告の書を長州藩兵に渡し、第二次長州征伐が開始された。幕府軍は石州口、芸州口、周防口、小倉口の四方向から攻め込んだ。幕府は最初に岩国の南側の瀬戸内海に浮かぶ周防大島を占領し、長州藩を海上から封鎖する作戦に出た。幕府の主力艦隊、『富士山丸』、『翔鶴丸』、『八雲丸』が陸兵輸送用の帆船を5隻を従え、周防大島に攻撃を加えると、長州兵は命からがら逃げ去った。初戦で周防大島を占領した幕府軍の意気は上がった。陸上戦になると広島藩が幕府の出動命令を拒否した。石州口では大村益次郎が指揮し、中立的立場を取った津和野藩を通過し、一橋慶喜の実弟、松平武聰の浜田藩に侵攻し、浜田城を陥落させた。小倉口では総督、小笠原長行が指揮したが、九州諸藩が動かず、高杉晋作、山縣有朋らが率いる長州軍に攻撃されっぱなしであった。そんな大戦の最中の大阪城で将軍、家茂が病に倒れ、7月20日、死去した。21歳という若さでの死去である。この家茂の死により、幕府軍は戦闘意欲を失い、小笠原総督も将軍の死を秘密裏に知らされ、『富士山丸』に乗って戦線を離脱し、大阪へ戻る計画を立てた。その為、残された小倉藩だけが長州藩への抵抗を続けることとなり、第二次長州戦は幕府軍の敗北の方向へと向かうこととなった。第二次長州征伐は休戦に近かい状態になった。後継者を誰にするか、江戸でも大阪でも議論された。家茂は上洛する時、〈出陣となれば戦死、病没の事なしとも言い難い。余に万一のことあらば、田安家の亀之助を立てよ〉と夫人、和宮に遺言していたという。だが亀之助は、まだ四歳であり、この戦時の指揮を執れる筈が無かった。後継が決まらず、将軍の喪は秘密にされた。老中たちは慶喜に将軍職就任を要請した。しかし慶喜は『兵制改革』を条件に徳川宗家の相続をするなら良いが、将軍職については否と答えた。だが老中、板倉勝清らは諦めず、京に上り、何度も慶喜に要請したが、慶喜は拒否した。

「無駄である。自分には将軍になる意思はない。亀之助を立てよ。自分が将軍後見職になってやる」

 それでも老中たちは熱心に京に日参し、慶喜に将軍就任の要請をした。慶喜は悩んだ。うっかり将軍になったら、火中の栗を拾うようなものだ。老中たちの要請を慶喜が受け入れないでいるので、困り果てた老中、板倉勝静が松平春嶽に説得を依頼した。春嶽は若州屋敷に出向いて慶喜に会い、将軍職に着任するよう勧めた。すると慶喜は笑みを浮かべて、こう言った。

「私は将軍などではなく、この国の大統領になりたい。さもなくば、この国の矛盾を解決することが出来ない」

 春嶽は、びっくりした。それは4年前、和宮の降嫁なされた文久の頃、福井藩江戸屋敷で、岡部長常らと生麦事件の解決策を相談した時、同席した小栗上野介の発言を思い出したからであった。

「我が国は天皇君主制を廃止して、政事総裁職に選ばれた越前様が大統領に御就任し、国事を行う、中央集権の政治体制を進めるべきです」

 それは天皇君主制を廃止し、世襲で無く、国民から選ばれた優秀な人物を国家元首とする大統領制に改変すべきだという発言だった。それに江戸から大阪に呼ばれた勝海舟も、江戸を出立する前に、小栗忠順から同じようなことを聞かされたと言っていた。

「小栗はフランスからの借款と軍事援助によって幕府を強化し、幕府に反抗的な長州を討ち、更に薩摩も屈伏させ、その勢いに乗じて諸藩を廃止し、我が国を郡県制度にして、徳川家を中心にした者の中から大統領を選出し、国家を治めるという構想を持っております。その為に六百万ドルをフランスから援助してもらうようです」

 また一方で、熊本の横井小楠から、こんな手紙を受け取っていた。

〈長州と薩摩が坂本龍馬の仲介で手を結び、イギリス公使、パークスに接近しております。両藩はイギリスから武器を購入し、更なる軍事強化を進め、パークスから、イギリス同様、皇室を中心とする諸藩連合政府が日本国にとって望ましいと吹き込まれているようです。これにどう対処される御積りですか。大統領制を選ぶか天皇制を選ぶかは、殿が良く見極め選ばねばならぬ、これからの道です〉

 だとすると、自分は今、慶喜にどう対処すれば良いのか。春嶽は横井小楠の手紙により、あらかじめ自分で決めた道を進む為の幕府への意見書を、慶喜に差し出した。

「大統領におなりになりたいと願うなら、わが藩のまとめた時局解決案を御一読していただきたい」

「ほう、どんな案かな」

 慶喜は微笑し、春嶽の渡した意見書を読んだ。読み始めてから表情が次第に変わって行くのが分かった。内容は以下の七ヶ条だった。

一、将軍、家茂様の喪を速やかに発する事。

二、徳川宗家は一橋慶喜候が継ぐ事。

三、将軍職は空位のままとする事。

四、諸侯への命令を、朝廷に一任する事。

五、徳川家を尾張、紀州、水戸と同格に扱う事。

六、禁裏御守衛総督、京都守護職、京都所司代の存廃は朝廷に一任する事。

七、天下の大政の一切を朝廷に返上する事。

 この提案は一度、政事総裁職であった春嶽から幕府に建議要請のあった横井小楠の『国是七条』に似ていた。慶喜は首をかしげた。ちょっと不快な顔をして言った。

「成程。まるで『国是七条』の第二段では御座いませぬか。これでは幕府が消えてしまういますぞ」

「大統領になろうとお望みなら、幕府の立場に拘ることは無いでしょう。大統領になられる好機ではありませんか」

「だが、そうには行かぬ。それは長州を討伐してからのことです。七ヶ条のうちの徳川宗家を継ぐ事のみをお引き受け致しましょう」

 春嶽はこの説得の結果を、老中、板倉勝静に報告した。すると勝静は春嶽に言った。

「一橋殿が将軍になりたがらないのは、自分が江戸におらず、京に居て江戸の幕府の連中や大奥に人気が無いのが分かっているからです。ですから、申し訳ありませんが、越前殿に将軍職の話を切り替えたと、一橋殿に伝えてみましょう」

「そんな愚かを申されるな」

「愚かな話ではありません。一橋殿は嫉妬深いお方です。きっと反対されるでしょう。そこを狙うのです」

「そういうことで御座るか。分かり申した。やってみて下され」

 松平春嶽の了解を得ると、板倉勝静は、京で新門辰五郎の娘、お芳と楽しんでいる慶喜の所に行って、再度、説得に当たった。勝静はこう切り出した。

「実は、一橋殿が将軍職を継ぐことを嫌がっているのであれば、先例のない事ですが、政事総裁職を歴任された越前殿が、将軍職をお引き受けしても良いと申されておられます。そのようにしてよろしいでしょうか」

「それはまずいのでは無いか。何の功績無しに将軍職に就任されるのは困る。ではどうすれば良いのです。時は待ってくれません」

「では、こうやってみてはどうか」

 慶喜は勝静と春嶽の策略にひっかかった。松平春嶽を将軍にさせてはならない。慶喜は勝静に、こう提案した。

「仕方が無い。上様、将軍、家茂の名で帝に上奏文を届けてくれ」

「と言いますと?」

「将軍である自分は、初夏以来、病に臥せっており、長州征伐が出来ぬ状態になっております。この上、病が悪化し、万一、危篤ということになれば執務を果たす事が叶いません。よって将軍職を禁裏御守衛総督を務めている家族、一橋慶喜に相続させたいと存じます。本件に関する勅許を賜りたくお願い申し上げますという文面で良いでしょう」

「それは良い考えに御座います。早速、向山隼人正に上奏文を書かせましょう」

 板倉勝静は大喜びし、直ぐに松平春嶽にことの次第を伝え、動いた。その朝廷へ捧げた一橋慶喜の徳川家相続の上表は数日して認可された。かくて一橋慶喜は徳川を襲名することとなった。7月29日、その勅許がおりたことを報告する為、老中、板倉勝静は京都所司代、松平定敬と共に京の若州屋敷を訪れ、徳川慶喜に言上した。

「計画、目出度く成功し、勅許をいただくことが出来ました」」

「おう。いただけたか」

「どうなされましたか。嬉しくは無いのですか」

「うん。神君、家康公以来の伝統と家歴と家名が、私の背中にずっしりとのしかかって来た気がする」

「それは、そうでしょう。人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如しですから・・」

 板倉勝静に言われ、慶喜は『東照公御遺訓』を思い出した。だが十五代徳川家当主になった喜びは、遺訓にあるように、我慢自重することでは無かった。徳川家を継承した歓喜の活動を発散躍動させることであった。始祖、家康公が豊臣政権を倒し、徳川幕府を成立させたように、自分みずからも長州征伐の最前線に出っ張り、長州を木端微塵に粉砕平定し、日本を平安に導き、天下に、その功績を称賛されることであった。慶喜はしばらく考えてから勝静と定敬に言った。

「余は自ら総督となって、幕府直轄軍を率いて、長州へ大討込みをするぞ」

「え、えっ!」

「余、自ら戦場に出向くのじゃ」

「本当ですか?」

「今、幕府には江戸と大阪に十三個大隊の洋式兵団がいる。その歩兵たちの他に砲兵に大砲八十門を引かせ西征する。大阪と江戸に待機中の軍艦も出動させる。更に予備軍の徴集を行う。今まで停滞していた長州征伐を一気に解決する」

 この決意を聞いて老中や雄藩初諸大名たちは仰天した。何を好んで、こんな時に長州征伐の先頭に立とうというのか。それは慶喜が家康公のような英雄になる為の賭けであった。慶喜は8月5日、出征宣言を行い、8日、将軍名代という、最高執権者として参内し、孝明天皇より、勅語及び節刀、天盃を賜った。出陣は8月12日と決定した。そんな前日、小倉口の最高指揮官、小笠原長行が小倉城を奇兵隊などの長州勢に攻め込まれ、『富士山丸』で大阪に逃げ帰って来た。このことを知った板倉勝静は直ぐさま小笠原長行を連れて、京に馳せ上り、出陣準備をしている慶喜に小倉口瓦解の報告をした。すると慶喜は、その場でへなへな崩れた。

「何でこうなるの?」

 慶喜は、小笠原長行を睨み付けた。何故、強気な小笠原長行が逃げ帰って来たのかを知りたかった。

「小笠原殿は、何故、攻撃されている小倉城に留まらず。帰阪なされたのですか。小笠原総督が居なくなった事で、肥後藩などが撤兵してしまったそうではありませんか」

「私は上様がお亡くなりになったと聞いて、これは大変だと、戦場を離れ、長崎経由で兵庫から、大阪に戻って参りました。老中という役職でなかったら、戻って来ませんでした」

「そうでしょうな。かって将軍、家茂様を江戸に取り戻す為、軍艦で京に迫った小笠原殿ですからな」

「その通りです。早く上様が江戸にお戻りになり、和宮様と平穏にお暮しになっておられたら、こんなことにならなかった筈です。長州征伐は失敗です。諸藩が幕府に協力せず、幕府軍の足並みが揃わず、最新兵器を備えた長州、薩摩軍には勝てません」

「勝てぬか」

「一旦、立て直し、江戸の陸海軍を招集し、総攻撃をかけるしか方法がありません」

「方法が無いか。ならば余は出陣を止める」

 慶喜は突如、長州への大討込みを止めると言った。板倉勝静はびっくりした。どうすれば良いのか。小笠原長行に相談すると、将軍、家茂の葬儀の方が先ではないかと言われた。いずれにせよ、沙汰を出さなければいけない。8月14日、慶喜は中止宣言をした。これを聞いた孝明天皇や公卿たちは激怒した。

「徳川を名乗れど、結局は腰抜けか」

 宮廷の連中は慶喜の事を笑った。今回の大討込みに期待していた京都守護職、松平容保も慶喜の挙動に憤慨した。愚行だ。だが慶喜には恥や外聞より、自分が大事だった。それに家茂の葬儀をせねばならなかった。家茂が亡くなってから1ヶ月後の8月20日、幕府は家茂の逝去を初めて発表し、9月6日、家茂の遺骸を江戸に送った。その葬儀は9月23日、芝の増上寺で行われ、増上寺の裏の墓地に葬られた。あんなに上洛を反対したのに、。小栗忠順は涙を堪えた。

         〇

 家茂を見送ってから数日間、慶喜はぼんやりしていた。或る日、ふと、勝海舟が言っていた小憎い小栗上野介のことが頭に浮かんだ。徳川宗家を継いだ慶喜は、勝海舟から耳にしたフランスからの借款のことを、思い出した。そこで小栗忠順にフランスとの借款の件につき説明を聞きたいので上洛するようにとの連絡を入れた。小栗忠順は慶喜が禁裏御守衛総督になった時の御役料増額に反対したことで、御役御免になったことがあり、上洛に気が進まなかった。だが慶喜に幕府代表として六百万ドルの借款契約をさせる為には絶好の機会だとも判断した。そこで、フランスのロッシュ公使に相談すると、『フランス輸出入会社』の代表、クーレを連れて行き、細かく説明した方が良いとの助言があった。忠順は、ロッシュが手配してくれたフランスの軍艦に乗り、クーレやカションらと大阪に出張した。大阪湾沖に船を待機させ、大阪城に行くと、図らずしも、勝海舟と出くわした。

「おう、小栗殿も参られたか」

「はい。例の借款の件の御承認をいただきに参りました」

「左様か。俺は、これから長州に戦争中止の申し入れをする為、芸州まで行って来る」

「それは御苦労なことで御座います。御身、充分、注意して下さい」

「ありがとうよ」

 海舟は何時もの笑顔を見せ、出発して行った。海舟を見送った忠順とクーレたちを慶喜の腹心、原一之進が迎えた。それから忠順たちは徳川慶喜に謁し、借款契約がどうなっているか訊かれた。忠順がまず説明した。

「この借款は、亡き将軍、家茂様のご了解のもとで、検討して参りました案件です。漸く締結に漕ぎつけようと言う矢先に家茂様がご逝去なされ、とても残念です。その案件に上様が興味を抱かれたことは、上野介、この上なく嬉しゅうございます」

「そうであるか。して、フランスは本当に六百万ドル都合してくれるのか」

「上様が六百万ドルという金額まで、何故、御存じで?」

「勝から聞いた」

 忠順は矢張りと後悔した。開けっぴろげな海舟は配慮無しに何でも喋ってしまう大馬鹿者だ。倫理感覚が全く欠如している。忠順は、ちょっと腹を立てたが、それも良かったかなと思った。

「その六百万ドルの内訳ですが、フランスの『ソシエテ・ジェネラール社』から五百万ドル、融資していただきます。担保は横浜に新設する『日仏交易会社』の日本側の利益です。あとの百万ドルは幕府が有する土地の銅を担保に、イギリス資本の『オリエンタル・バンク横浜』から借ります」

「本当に借りられるのか?」

 その問いをカションがクーレ代表に伝えるとクーレ代表は、こう答えた。

「我が国のロッシュ公使は本国政府に日本国の大蔵大臣、小栗の要請により、『ソシエテ・ジェネラー社』とイギリスの大銀行『オリエンタル・バンク』に協力するように申請し、その許可を受けております。後は殿下の御承認をいただくだけになっております」

 慶喜は、この内容を聞いて、忠順が京の幕府に相談せず、借款の計画を進めて来たことを叱責しようとしなかった。

「して、その使い道は?」

「フランスからの五百万ドルのうち二百五十万ドルは大砲などの武器装備と軍艦購入に当てます。残りの二百四十万ドルは『横須賀製鉄所』に使います。残り十万ドルは兵糧米購入に使います。イギリス銀行からの百万ドルは銅山や鉄山の採掘に使います」

 熱心に詳細説明する忠順とクーレ代表に慶喜は感謝した。慶喜は何故、忠順がこれまで、フランスに信頼を得ているのか知りたかった。

「何故、フランス公使は幕府に協力的なのか」

 それについてどのように説明したら良いのか忠順は戸惑った。すると、通訳のメルメ・カションが答えた。

「日本国を知るフランス人は日本人が自然を愛し、時間を守り、誠実であることに感心しています。私の仕えるロッシュ公使は、先代のベルクール公使から幕府の小栗さんは信頼出来る人だから頼りにするよう教えられて駐日公使になられ、ナポレオン3世にも、それが現実であることを報告しています。ナポレオン3世は将軍、家茂様から贈っていただいた蚕卵紙で、壊滅状態だったフランスの養蚕業が持ち直し、日本国にとても感謝しております。ですからロッシュ公使は幕府により協力的なのです」

「成程。そんなことがあったのか」

 忠順は頷き、慶喜に言った。

「ロッシュ公使は素晴らしい人です。勿論、ロッシュ公使はフランスの公使ですから、フランスの国益を考え我々と接しておりますが、何百年も戦争をして来なかった徳川幕府が好きなのです。内乱の起きようとしている日本は今、何をすべきか真剣になって相談に乗ってくれる人物です」

「上様。京のことは京都守護職に任せ、一時も早く江戸にお戻りください。幕府の重臣たちが、首を長くして待っておられます」

 慶喜は、これこそ天祐だと思った。慶喜は忠順たちから借款の詳細内容を聞いて、夢を描いた。ひとまず休戦し、軍備を整え、小栗忠順の語る兵制の改革を行い、幕府の先頭に立ち、日本国を牽引して行こうと心に決めた。忠順は、慶喜との打合せを行い、借款契約を締結させると、大阪城を出て、塩田三郎にクーレ代表とカションらを任せ、大阪の有力商人と面談した。忠順の声掛けに、鴻池屋善右衛門、加島屋作兵衛、辰巳屋久左衛門、嘉納次郎作ら20人程が集った。その席で、忠順はこう言った。

「大きな声で言えないが、時代は確実に鎖国から開国に向かっている。それは各々方も既に気づいていることと思う。そんな分かり切っていることを何故、私が江戸からはるばるやって来て話さなければならないかというと、各々方に、失敗して欲しくないからである。横浜の開港の時は各々方のような江戸の大店に声をかけたのだが、海のものとも山のものとも分からぬ外国との商売を嫌って、大店が出店をしなかった。その為、香港や上海から外国商人がやって来て、大儲けしている。日本人で出店したのは、一攫千金組で、それなりに儲けているが、外国商人にやられている。そこでだ。来年末に兵庫開港となるので、各々方は今から兵庫出店を考えていて欲しい。各々方が儲かるということは、国が儲かるという事だ。よろしく頼む」

 集まった大阪商人たちは江戸からやって来た勘定奉行の話に目を白黒させた。忠順は、言いたい事だけを大阪商人に伝え、翌日、クーレ代表らと横浜に向かった。

         〇

 江戸に戻った小栗忠順はフランス公使、ロッシュに会い、徳川慶喜の承諾を得て、借款契約を締結出来たと説明し、早速、二百五十万ドル相当の武器弾薬、軍用装備、軍艦などを註文した。ロッシュ公使は、注文をいただき、跳び上がって喜んだ。だが小笠原長行から長州藩の戦備を聞いた忠順は落ち着いていられなかった。江戸城の軍備や万一の時のことを考えた。先の先を推測する忠順の鋭敏さは誰よりも勝っていると言えた。忠順は『三井組』の三野村利左衛門を呼び、その後、横浜の商売の方がどうなっているか訊いた。

「横浜は、今や二万人以上の人口に膨れ上がり、石で出来た洋館や派手な茶屋などが並び、異国情緒いっぱいです。それを見物に来る人たちで横浜の町はごったがえしております。日曜日には外国人が各国の旗を振って音楽を奏で行進したり、広場で舞踏会を開催したりして、土産店も大繁盛です。『国産会所』の調べによると、輸入品は毛織物、綿織物の他、幕府や大名の武器、軍需品、軍艦、砂糖などの比率が大きいです。輸出品は絹織物、生糸などの蚕糸関係品、それに食器、茶、海産物などが主です」

「それでは、『三井組』の商売も繁盛し、活気があろう」

「へい。お陰様で。うちも『冬木屋』さんも助かっております。例の手数料は、千両箱に詰めて『冬木屋』さんに納めておりますので、ご安心下さい」

「それは御苦労」

「なあに、深川の干鰯問屋で働いていたあっしを、小栗家の中間に雇って下された剛太郎さんのお父上に御世話になった御恩を思えば、まだまだ恩返しが足りません」

 そう言われて、忠順は三野村利左衛門の実直さと商才に感心した。利左エ門という人格の中味は義理人情と怜悧狡猾の二重構造になっているのだ。いずれにせよ忠順は、フランスとの借款契約を済ませ、軍資金を『冬木屋』から権田村に送る目途がついて、ほっとした。そんな中、ロシア人がカラフト国境より南下していることから、遣露使節団をペテルブルグに派遣することとなった。9月23日、忠順は遣露使節団正使、小出大和守秀実、副使、石川駿河守利政の出発に際し、ロシアに贈るべき大小の日本刀を渡し、交渉を成功させるよう激励した。また万一、ロシアとの戦争にでもなったら、大変だと思い、フランスの日本名誉領事、フルーリ・エラールに数名の三兵伝習の軍事顧問を派遣して欲しいと要請した。こうしたフランスとの交渉の中から、外国との往来にイギリスやフランスの来航者が自国民に発給する旅券を携帯して来ているのを知り、幕府の外国奉行事務局に日本国の旅券の発行を義務付けさせた。兎に角、やることが多すぎた。江戸と横浜、横須賀を走り回った。そんなであるから11月10日の神田の火災の時など、横浜にいて、家族を困らせた。11月19日には横浜太田陣屋に陸軍伝習所を開設し、フランスの教官が来日する前に、歩兵、騎馬、砲術の三兵士官の養成を始めた。その頃、徳川慶喜は、自信を取り戻し、小栗忠順が言っていたフランスのロッシュ公使のもとへ外国奉行、平山敬忠と川崎広道を派遣し、これから自分が何を成すべきかを質問させた。熱海で温泉に浸かり療養していたロッシュは、使者に、兵庫開港、幕府組織の変更、陸海軍の強化を述べ、それらを塩田三郎に書面にまとめさせた。そして最後に以下の助言を追記させた。

〈徳川慶喜公は、近々、大統領に就任されることになりましょう。その際、各国の公使を大阪にお招き下さい。その時、私も喜んで出席させていただきます。また近く、本国の首都、パリで万国博覧会が開催されます。その際、日本国のブースを設け、貴方様の名代をパリに派遣されることを希望します。フランス政府は大歓迎致します。大統領に就任される日を心待ちにしております〉

 慶喜は小躍りして喜んだ。それを松平春嶽、山内容堂らは静観した。それに較べ、孝明天皇は長州討伐も攘夷もせぬ幕府に怒り落胆し、体調を悪化させた。朝廷は慌てた。11月27日、朝廷は慶喜に伝奏を送り意向を伝えた。

〈長き間、将軍職不在にてあるは、我が国にとって問題なり。かねてより推選して来た徳川中納言慶喜に、その宣下あるべし。たとへ当人が固辞すとも、この度は是非、御承るべし〉

 慶喜は功を上げ、名を立ててから、将軍職になりたいとごねて来たが、孝明天皇が悩まれ体調を悪くしておられるというので、ようやく承諾することにした。12月5日、将軍宣下の式が京で行われた。歴代の将軍と違っての京での将軍宣下だった。かくして徳川慶喜は第15代征夷大将軍、正二位、権大納言になった。そして慶喜が孝明天皇に御挨拶に参内しようとしていた12日、孝明天皇は突然、発熱され、不幸にも12月25日の戌の刻、崩御なされた。36歳という若さだった。この頃の忠順は多忙だった。12月8日、フランス軍の顧問団のシャルル・シャノアン大尉らを迎え、翌日から訓練を始めていた。そんな最中、忠順は、天皇崩御の知らせを受けて、宮中事情がまた一変するのではないかと心配した。それにしても、7月に夫を失い、12月に兄を失った大奥の和宮のことが気の毒でならなかった。

         〇

 慶応3年(1867年)正月、小栗忠順は家族とゆったりしたいところだが、来客に追われた。しかし、三日目ななると少し落ち着いた。書初めでもしようかと思っているところに、意外な訪問者がやって来た。客間に顔を出すと、人の良さそうな顔をした若者が塚本真彦と武笠祐右衛門二人と対面していた。真彦は忠順の顔を見てから、鋭い目をして若者に言った。

「殿のお越しである。名乗られよ」

 すると若者は忠順をじっと見て挨拶した。

「私は将軍、徳川慶喜様の家臣、渋沢篤太夫と申す者です。この度、フランス国で開催される博覧会に上様の弟君、徳川昭武様のお伴をしてフランスに参ることになりました。その重責を果たせるかどうか心配でなりません」

「おう、そうであったか。心配することは無い。目出度いことじゃ。大いに楽しんで来るが良い」

「そこでですが、私が、フランス公使、ロッシュ様に、その不安を申したところ、ロッシュ様は、小栗様に御指導して貰えと仰せられました。それで不躾と思いましたが、出立の日数も迫っており、予約無しにお尋ねさせていただきました」

「左様か。ならば、何でも訊いてくれ」

 忠順は、渋沢篤太夫の質問を一つ一つ訊いて、それに答えた。忠順はフランス人たちとの交流は多いが、フランスに行ったことが無いので、自分がアメリカに行った経験や竹内保徳、福沢諭吉、福地源一郎らから聞いたフランスの話をした。更に自分が現在、計画している幕府の政治、経済、軍備などについて語った。既に横須賀製鉄所などをフランスの援助によって手掛けていることも説明し、この次はアメリカで見て来た鉄道を江戸と横浜の間に走らせたいと話した。その資金は共同出資による合本方式で集めたいと話した。何故か忠順はこの若者と気が合った。確かめてみれば、喋り方が佐藤藤七や大井兼吉、山田城之助、田代栄助らに似た武州血洗島出身とのことであった。蚕卵紙をナポレオン3世に贈ったことなどを話すと、篤太夫はびっくり仰天した。

「小栗様が蚕卵紙のことまで知っているとは、ぶったまげたな」

「ぶったまげただろう。私はこれから、ぶったまげた事をしようと思っている。渋沢。お前もフランスでいろんな事を学んで帰って来て、ぶったまげた事をやってくれ」

「はい。お陰様で、期待で胸がいっぱいになりました。本日は御教授、有難うございました」

「頑張って行って来い」

 忠順はなかなか面白い奴だと、渋沢篤太夫を見送った。その二日後、また渋沢篤太夫とまた会った。渡欧経験者の柴田剛中と共にパリへ出発する徳川昭武一向と面接して、種々、注意点を話す。また会計係の渋沢篤太夫には特に予算等について細かく教示し、困った事があったら、日本名誉領事、フルーリ・エラールに相談するよう伝えた。正月9日、孝明天皇の第二皇子、睦仁親王が満14歳で践祚した。その2日後、慶喜の弟、徳川昭武一向28人はフランスの汽船『アルヘー号』で横浜から出発した。このような幕府のフランスびいきにイギリス公使、ハリー・パークスはちょっと臍を曲げた。横浜での商談をフランスに奪われ、長崎で薩摩や長州と取引をしているだけでは、イギリス公使としての面目が立たなかった。それに小栗忠順を毛嫌いしていた慶喜のことが好きで無かった。このことにより薩長寄りになったパークスは、慶喜の将軍職就任表明の各国公使との謁見式の招待を受けると外国奉行の柴田剛中と向山一履を嚇した。

「我々は、日本の将軍は完全なる主権を持っているとは理解していない。将軍より高位にある天皇からの任命によって、職務に就いて活動しているとみている。従って徳川将軍はヨーロッパ各国の君主と同じ地位にあるとはみなされない。従って徳川将軍が日本の統治者だと知らしめる為の儀式であるなら、我々は出席しない。天皇からの招待を待つばかりである」

 そのパークス公使の理屈に外国奉行たちは、しぶしぶながら引き下がった。その後、パークスはアメリカ、フランス、オランダの公使をイギリス公使館に招いて打合せを行った。

「我々は徳川幕府を日本国の政府だと信じて接して来たが、まだその上に別の政府があり、我々は今まで実権の無い政府と交渉して来た。それでは何時までたっても約束は実現されない。我々は再び京に上り、直接、その主権者、帝とやらに拝謁し、兵庫開港を要求しようと考える。先日、老中に、天皇からの招待を要求した。その老中からの招待状が届くまで、単独行動しないよう、皆さんに同意してもらいたい」

 それには各国公使とも同意した。更にパークス公使は、こう提案した。

「我々にとって、徳川将軍は君主では無いのだから陛下とは言い難く、王族などに使用している尊称、殿下と言おうと思うが、如何であろう」

 それに対し、フランス公使、ロッシュが反対した。

「それはまずいのではないか。徳川将軍はナポレオン3世と同様、実質的元首なのだから、陛下というべきであると思うが・・・」

 慶喜の呼称についてはアメリカ、オランダもはっきりせず、うやむやに終わった。ロッシュ公使は、これではまずいと思った。会議終了後、思案した挙句、ロッシュ公使は四ヶ国の合意事項を無視し、大阪に行き、将軍、慶喜に会い、直接、今後の対策について慶喜に教示することがフランスにとって有益であろうと判断した。ロッシュ公使は2月になるや大阪に向かった。ロッシュは2月6日、将軍、慶喜に会うと、現在の封建体制を改めて、中央集権体制に切り替え、朝廷や薩摩や長州や有力大名の権力を弱体化し、慶喜が初代大統領になり、行政機構、官僚機構を整え、老中を大臣にし、各省庁を管理監督させるべきであると教授した。また大統領直属の陸海軍の充実の為、フランスから軍事指導官を派遣しても良いと説明した。そして地方管理は、各村落を包括する地方公共団体による郡県制度を採用すべきだと語った。慶喜は、ロッシュの説明を受け、感激した。今まで、小栗忠順や勝海舟から耳にして来た制度政策であったが、ロッシュから教示してもらうと抵抗が無かった。アメリカを見て来た小栗上野介の高慢ちきな説教じみた説明より、素直に聞くことが出来た。慶喜は翌日もロッシュから財政、外交、貿易、工業、農業、鉄道、司法、教育、医療など、さまざまな事を教えてもらった。8日には老中、板倉勝静と松平乗謨を加え、農民兵の導入や殖産興業、公共設備など国家の近代化の為の方策を教えてもらった。だがこれらの成功は小栗忠順によって契約が進められている借款が実現されてのことだと、ロッシュは力説した。更にイギリスは今、薩長と手を組み、幕府を倒壊させようとしているので、兵庫の開港を幕府の一存で実現させることだと説得した。薩長は兵庫の開港を幕府にさせないよう公卿たちを利用し、幼帝を洗脳しているが、将軍も先手を打ち、幼帝から兵庫開港勅許を取得して欲しいと依願した。慶喜はロッシュの来阪に感謝し、教示に従い努力する事を約束した。その頃、忠順は栗本鋤雲らと横須賀製鉄所の第1号ドックの起工式を行っていた。寒い日で、忠順がクシャミすると、鋤雲が笑った。

「大阪城でお前の噂をしているぞ」

「悪い噂でなければ良いのだが。何と言われても良い。私たちの計画は着々と進行している。そうだろう」

「うん。その通りだ」

その噂をしていると思われたロッシュは将軍、慶喜との会談を終えて江戸に戻って来ると、江戸の老中、松平康直と小栗忠順の二人に会いたいと言って来た。3月7日、忠順は麻布台の松平邸に訪問し、ロッシュ公使から大阪での将軍、慶喜との会談の結果報告を聞いた。またパリの博覧会に幕府より先に薩摩が出展しており、江戸幕府は日本の正当な政府でないと、嘘を吹聴しているので、フランス派遣団を通じ、パリやロンドンの有力新聞社に幕府が正当な日本政府であることを主張するよう指示するべきだとの助言をいただいた。そんな薩摩の邪魔もあり、『日仏交易会社』計画もうまく進まず、日本への借款も思い通りに行かず、困っていると嘆かれた。その為、万一の場合は蝦夷地の鉱山や森林の開発権などを担保にしてはと相談された。忠順は、幕府の会計総裁でもある松平康直と万一の時には提案に従うと答えた。ロッシュの報告を聞いて、帰宅してから忠順は、慶喜に書状を送った。次の五項目を主とする書状だった。

 一、英仏蘭米との謁見式は大阪城で行う事。

 二、儀式は洋風形式にして、まず相手国元首の健康を祝する事。

 三、各国代表の歓迎は、大阪庶民を巻き込んで盛大に行う事。

 四、料理はフランス料理にて,もてなす事。

 五、芸能は日本武芸を披露する事。

 そして、ロッシュが将軍の英気と才気に感心しており、再会を楽しみにしていたと褒め上げ、結びとした。この書状を受け取り、慶喜は忠順を見直した。忠順は忠順で兵庫開港を期待した。兵庫開港が間近になると予想すると、忠順は『三井組』の野村利左衛門と木村浅蔵を大阪に派遣し、廻船業者、嘉納次郎作を使い、『兵庫商社』を設立するよう指示した。それは去年、大阪の豪商を集め、説明した外国人商人では無く、日本人商人が輸出入業務を一手に引き受ける合本会社の設立であった。その計画や大阪城での各国代表との将軍謁見式が、うまく運んでいるだろうかと、忠順が心配している3月26日、5年前の文久時代、オランダに留学した榎本武揚らが、オランダに発注した軍艦『開陽丸』に乗って横浜に帰って来た。彼らは、瞳を輝かせ、オランダ、フランス、イギリス、プロイセンなどで見て来たヨーロッパの話を老中、松平康直、稲葉正邦や小栗忠順たちに語って聞かせた。忠順は日本人の若者が世界を見て成長して帰って来ることを聞くのが楽しくてならなかった。彼らは、追てフランスのナポレオン3世からの将軍、家茂への献上馬が届くと報告した。忠順が贈った蚕卵紙のお礼だと言う。それを聞いた老中たちは喜び、4月11日、下総白井の名主、川上次郎右衛門他にアラビア馬の受け入れを命じた。目付牧士役となった川上次郎右衛門らは4月14日、張り切って横浜に行き、フランス顧問団を出迎え、10日間ほど年老いた馬師から馬の手入れ等の教育を受けた。4月26日、アラビア馬26頭が、シモン・カズヌーブ輸送担当に守られて無事、横浜に到着した。これらのアラビア馬は、上陸するや、洋装姿になった川上次郎右衛門らによって、下総の小金井牧場に運ばれた。これらの報せを大阪にいる将軍、慶喜に知らせる為、忠順は大阪に向かった。大阪城に登城した忠順からフランスのナポレオン3世が、日本の将軍に感謝して馬を26頭も贈ってくれたと聞くと、慶喜は有頂天になって喜んだ。忠順はそれを機会に『兵庫商社』についての建白書を慶喜に提出した。その内容は、次のものであった。

〈かねてより計画致せし兵庫開港につき、幕府管理のもと、大阪商人に資本金を出資させ、合本商社の建設を致したく申し上げ奉り候。これは米国の例を基に実施せるものなり。この合本商社設立により、兵庫開港の経費を得、併せて貿易を有利に行ふ為の金札を、大阪商人の有力者より発行せしめ、実貨を備え信用ある交易を行うなり。また横浜同様、ガス灯や書伝館等の建設を進め、美麗なる港町を完成させ、外国との交流を深めるは、国益を増大させ、その効果云うこと無し。然るに、以下一同、是を相願い出申し候〉

 その建白書には小栗忠順の他、外国奉行、塚原昌義、海軍奉行、服部常純、勘定吟味役、星野成美の名が連署されており、慶喜は、ものごとが有能な幕臣たちによって、幕府に有利に動いていると微笑した。だが時勢は幕府だけでなく、別の所でも激しい流れを見せていた。坂本龍馬と共に土佐藩から脱藩の罪を赦免された中岡慎太郎は薩摩の西郷隆盛と共謀し、薩土討幕の計画を進めることにした。その計画の一つは『列公会議』の開催だった。もう一つは『朝廷人事の改変』だった。『列公会議』の計画実行を西郷が引き受けた。西郷は鹿児島に帰り、島津久光、忠義親子に拝謁し、二人を口説いた。

「新しい帝の時代が始まりました。これからの新帝のもとでの政治は幕府中心の政治では無く、朝廷からの招集による四賢候会議を基本として行うべきであると考えます。薩摩は、この機会を失えば、外様扱いのままです。このままだと幕府は幼帝を操り、何を仕掛けて来るか分かりません。『列公会議』を実施するようお取り計らい願います」

「そう言われれば、そうだな。容堂殿も春嶽殿も宗城殿も公武合体により、国政から外され、その名分を失い、不満が鬱積していよう」

「はい。坂本龍馬の話では、将軍になった徳川慶喜公は小栗上野介の提案する郡県制度を実施し、藩を無くす計画でいるとのことです。そんなことをさせてはなりません」

 西郷は島津親子を口説き落とし、久光に上洛を決意させた。久光は西郷に命令した。

「西郷。ならば急がねばならぬ。久光の使いとして他の三賢候の説得に向かえ」

「ははーっ」

 西郷は、『列公会議』の招集の命令を受けると、先ず土佐に向かい、山内容堂を説得し、続いて宇和島の伊達宗城に拝謁し、何とか納得させた。福井藩の松平春嶽には京に戻り、その目的を伝えた。一方、『朝廷人事の改変』を引き受けた中岡慎太郎は、まず、大宰府に走った。大宰府には孝明天皇の御怒りにふれ、都から追放された三条実美以下、五人の過激派公卿が幽閉されていた。中岡慎太郎は、五人を説得した。

「御公卿様方、五人を追放した孝明天皇が崩御なされ、幼帝が幕府の手中にあり、朝廷政治を無視した政治が始まろうとしています。それを阻止する為、御公卿様方に上洛してもらい、朝廷政治を復活させて欲しいと願っておるのですが、如何でしょうか」

「そうは言っても、麻呂らは幽閉の身、どうすることも出来ぬ」

「大丈夫です。京にいる薩摩藩の連中が、新帝即位を機会に五卿の勅勘を解いてもらう工作をしております」

「それは涙が出る程、嬉しい話だが、勅勘を解いてもらう工作は簡単ではないぞ。御所内の誰に頼むというのじゃ」

 慎太郎は、三条実美たちが宮廷の要職に復帰することを切望しているが、可能性が無いに等しいと思い込んでいると感じた。希望を捨てさせてはならなかった。

「同じ勅勘を受け、退隠されておられるお方です」

「それは誰じゃ」

「前右近衛中将、岩倉具視様です」

「岩倉具視。彼は公卿でありながら和宮様を御降嫁させた奸物なるぞ。彼の意見を宮廷の誰が聞くというのじゃ」

「それを聞く御公卿様がおられるのです。ですから、三条様、この中岡に騙されたと思って、岩倉具視様に好誼を通じ、御所内の改革を行って下さい」

「分かった。麻呂は騙されたと思って、岩倉に文を書こう」

 かくして三条実美からの手紙を拝領した中岡慎太郎は大宰府から、京に戻り、御所に仕える前田雅楽を通じ、比叡山と鞍馬山の中間にある岩倉村の岩倉具視を訪ねた。岩倉は酒をくらって鬱屈を紛らせ、自堕落な生活をしていた。突然、訪れた珍客、中岡慎太郎を懐疑の目で見たが、三条実美の手紙を読むと興奮した。あの誠実純情型の三条実美が何故、不誠実な自分を頼りにして来たのか岩倉には考えられなかった。岩倉は用心深く、慎重に幽閉されている三条の思いを考えた。それは、この手紙を持参した土佐の若者たちと手を組み、回天の夢を果たそうということに他ならなかった。何故、自分がその仲間に選ばれたのか。それは自分に、幼馴染の中御門経之という最近、宮中に復帰した親友がいるからに相違なかった。岩倉の頭の中で回天の策謀が渦巻いた。政権交替の夢は広がった。岩倉は手紙を手にしたまま、あばら家の天井板を見詰めた。天井板にある怪しい目のようなものが、岩倉に合図した。

「よし分かった」

 入道頭の岩倉は、目をぎょろつかせ、大宰府に幽閉中の三条実美らと手を組むことを了解した。中岡慎太郎は喜び急いで二本松の薩摩藩邸に帰り、西郷に『朝廷人事の改変』計画の進捗状況を報告した。

         〇

 悪質策士、岩倉具視は考えた。まずは三条実美らを京に戻さねばならぬ。岩倉具視は宮廷にいる竹馬の友、中御門経之に密書を書き、幼帝が、曲がった人物にならぬよう、幼帝の側近奉仕をする『大傅』を置く必要があると説き、その意見を奏上せよと要請した。それは就任する『大傅』に御璽を扱わせる為であった。そして『大傅』には閉門中の前大納言、中山忠能が最適であると経之に伝えた。幼帝は中山忠能の娘、慶子が産んだ子であり、幼児の頃から外祖父、忠能の屋敷で養育されて来たからであった。その中御門経之が奏上した『大傅』の件を関白、二条斉敬も弾正尹、賀陽宮朝彦親王も心安く了承した。宮中に復帰したした中山忠能は、天皇の側近となり、中御門経之は勿論のこと提案者の岩倉具視に感謝した。彼は、自分と同じように朝廷から当座蹴られ幽閉中の公卿たちを復帰させてあげなければならないと思った。こうして前大納言、中山忠能と中御門経之の宮廷での活躍が始まった。またフランスでは、イギリス公使、パークスが『日仏交易会社』設立は、自由貿易の精神に違反する行為であるとフランス駐在の英国大使に伝えた為、英国大使がフランスの外相、ムスティエに抗議文を提出した。これを受けたフランスはイギリスと対立するような政策は問題であると、フランスの駐日公使、ロッシュに、イギリスにフランスを非難させるような事が無いよう行動せよと指示して来た。ロッシュは国益の為に頑張っているのにと立腹した。これらの動きは『薩土同盟』を結んだ西郷にとって、好都合だった。西郷は、中御門経之に声をかけ、『大傅』中山忠能に朝廷主催の『四賢候会議』招集の号令をかけてもらった。5月14日、朝廷の要請により、将軍、徳川慶喜は土佐の山内容堂、福井の松平春嶽、伊予宇和島の伊達宗城、薩摩の島津久光の四人と二条城で会議を開催した。将軍みずから座長になり四人に、朝廷が抱えている問題を伝えた。

「本日、賢候方にお集まりいただいたのは、朝廷が列強四ヶ国から、何故、約束通り、兵庫港を開かぬのかと責め立てられていることです。このまま放置しておいたら、長州同様、連合国艦隊が大阪に攻め込み、京まで侵攻して来るでありましょう。幕府はあれやこれや言って、何とか、連合国の要請を躱していますが、もう限界です。兵庫開港の勅許をいただくか、攘夷を実行するか、皆さんの考えはいかに・・・」

 すると松平春嶽が、まず言った。

「慶喜殿。噂によれば幕府はフランスに誘導され、攘夷の気持ち無く、兵庫開港を望んでいるとか。果たして彼らの意見に従い、我が国への彼らの出入りを勝手にさせることは良いのでしょうか。清国のように九龍の割譲などのような領土を奪われる屈辱を味わう事は真っ平です」

「では越前が四ヶ国連合艦隊によって、長州のように攻撃されても良いのですか」

 将軍、慶喜は強気だった。フランスと親密になっていることを指摘されても、何とも思わなかった。春嶽が黙ると、伊達宗城が、慶喜をいびるような言い方をした。

「となると、わしら宇和島も連合艦隊に砲撃されるということなりますのか」

「勿論、そうなるでしょう」

「それは大変じゃ」

 宗城は頭をかかえる格好をした。慶喜は、その格好を見て笑ってから、島津久光に目を向けた。

「久光殿は、どのように」

「ここで会議すべきは、兵庫開港のことより、長州を完全に許し、国内を安定させ、長州から幕府軍を撤退させ、幽閉されている諸卿らを復帰して差し上げることではないでしょうか」

 島津久光は慶喜の議案と全く別のことを言いだし、会議の進行を邪魔するようなことをした。しかし慶喜は、会議が薩摩主導の内容になってはならないと、兵庫開港の期日が迫って来ていることを理由に、久光の意見を退けた。すると今まで黙っていた山内容堂が発言した。

「このように天下の将来を決めるのに、お互いの意見が嚙み合わず混乱するようでは本会議の意味が無い。かかる大事は、我々で無く朝廷の大臣たちにお任せしようではないか。私は体調が優れず、このような役目から除外させて欲しい」

 容堂の疲れた様子を見て、慶喜は会議を中止した。

「では、皆さん、お疲れのようなので、本日は記念写真を撮って散開しましょう」

 結果、四賢候側が慶喜に軽くあしらわれて、会議はお開きとなった。慶喜は島津久光の部屋から出たり入ったりしての反対論に会議をつぶされ立腹して、大阪城へ戻った。慶喜は家臣、原市之進にぼやいた。

「薩摩は何故、先の帝に我等と共に長州を討伐するよう勅命を受けていたのに、その長州を許せというのか。越前は何故、幕府のフランスとの交流を嫌うのか。土佐は何故、『四賢候会議』から抜けようとするのか。宇和島は頭を抱えるだけで、何の考えも無い。どうすれば良いのじゃ」

「それならば、四賢候などに相談せず、『四賢候会議』を飛び越え、上様の考えを直接、朝廷に説明し、勅許の取得を強行されることが、得策かと思われます。山内容堂様が欠席されれば猶の事、好都合ではありませんか」

「成程な」

「上様は征夷大将軍になられたのです。四賢候とは格が違うのです。はっきり、それを見せつけてやるのです」

「分かった。市之進。やってみるよ」

 元気を取り戻した慶喜の言葉を聞いて、市之進はにこりとした。慶喜は原市之進の意見を採り入れ会議を『四賢候会議』から『朝廷会議』へと持ち込み、公卿と有力諸侯を同席させ、一挙に外交問題を解決することにした。慶喜の呼びかけにより、朝命が下り、5月23日、御所『虎の間』で『朝廷会議』が開催された。この会議に山内容堂と島津久光は病気を理由に欠席した。有力諸侯で出席したのは松平春嶽、伊達宗城の二人だけだった。公卿側は関白、二条斉敬を中心に左右大臣、前関白が二人、大納言が五人、他が二人であった。夕方から始まった会議は国際情勢を把握していない朝廷側の抵抗が激しく、『先帝の御遺志』を盾に兵庫開港に反対した。だが慶喜は、ここで負ける訳にはいかなかった。慶喜は長州や薩摩が連合艦隊にやれれ、悲惨な目に遭った現状を語り、攘夷を行うのではなく、諸外国との友好の中から先進技術を導入し、国を豊かにするべきだと必死になって説得した。小用で席を外そうとする者にも、大事なことを話しているのだからと注意する程、慶喜は熱弁をふるった。反撃するものがあれば、猛烈に対抗し、相手をぎゃふんと言わせた。

「京が火の海になってよろしいのですね」

 この言葉に皆、茫然とした。慶喜は声をからし、尚も叫んだ。

「皇国の一大事なれば我々は国家の滅亡で無く、救国を最優先すべきであると思うが。兵庫開港の実施は我が国の未来を開くものである。時は待ってくれない。これ以上、結論を先延ばしにすることは不可能である。京を火の海にするか兵庫を交易の海にするかのどちらかである」

 会議は、慶喜がねばった為、翌日未明になっても結論が出ず、二条関白が散会しようとした。すると大納言、鷹司輔政が発言した。

「帝も将軍も納得する勅許をこの会議で決められないようであれば、天下は乱れ、異国に攻められ、朝廷も幕府も今日限りとなりましょう」

 この発言により、『先帝の御遺志』を重要視して来た関白、二条斉敬も明け方に折れて、『兵庫開港』及び『長州寛典論』を奏請し、勅許をいただくことが決定した、兵庫開港が決まり、長州への寛大な処分が決まった。

         〇

 小栗忠順は5月24日に、『兵庫開港』の勅許が出される前の5月初め、5月13日に江戸に戻った。翌14日の午前、会計総裁を務める老中、松平康英の屋敷に訪問し、帰府の報告をして、午後から登城して、事務整理を行った。その翌日には5月5日に起工式を済ませた滝野川の『火薬製造所』に訪問し、武田斐三郎から進捗状況を説明してもらった。5月22日にはフランス陸軍顧問団のシャルル・シャノアン大尉が表敬訪問にやって来た。彼は陸軍総裁、松平乗謨が大阪に行っている間、陸軍奉行、浅野氏祐と共に日本陸軍の養成を計画通りすすめていると報告した。そして横浜陸軍伝習所は海軍には都合が良いが、陸軍には不都合だと話した。そこで忠順は浅野氏祐と相談し、横浜陸軍伝習所を江戸に移す計画を進めた。江戸陸軍本部を講武所に移し、越中島と駒場を練兵場に決めた。『横須賀製鉄所』の方では栗本鋤雲が、吉田好三郎らと張り切っていた。フランス軍艦『ゲリエール号』に装備されている最新鋭のナポレオンカノン砲をジョーライス提督をまるめこみ、夜中にこっそり船に乗せ、川口の『関口製作所』に運び込み、スケッチさせてもらい、数台、模索製作を行ったりしていた。そんな矢先、ロッシュ公使が小栗忠順の所にやって来て、栗本鋤雲をパリに派遣してくれないかと言って来た。理由を訊くと、欧州留学の為、フランスに派遣された徳川昭武一行が、留学地の件で、現地でもめており、栗本鋤雲を派遣して何とかして欲しいということであった。若年寄、向山一履を駐仏公使として派遣したのであるが、現地で、徳川昭武たちの教育指導予定であったカションと諍いを起こし、物事がうまく運ばなくなったということであった。忠順は鋤雲と話し合い、鋤雲に6月、パリに出張してもらうことにした。このカションとのもめごとは幕府というより、日本国の歴史を大きく変更させることとなった。立腹したカションはパリの新聞に〈日本は一種の連邦国家であり、徳川幕府は日本国の全権を有していない〉という論説を寄稿した。また薩摩の五代友厚らと親交のあるモンブランもそれを煽った。更にそれが、幕府に反感を抱くようになったアーネスト・サトウのイギリスの新聞への寄稿により、拍車をかけ、フランス政府が幕府への借款に疑問をいだくようになってしまているとのことであった。ロッシュはカションをなだめ、幕府こそ正当な日本政府であるとフランス政府に主張するよう鋤雲を指名したのだ。忠順はまたロッシュ公使と協議し、パリに『ソシエテ・ゼネラル』を設立することにした。欧州に於ける幕府の代理として日本の輸出品、特に生糸を専売し、武器を購入する為の資金調達先の設置であった。兎に角、フランス本国の動向を知り、幕府会計総裁、松平康英、外国事務総裁、小笠原長行、勘定奉行、小栗忠順の三人は頭をかかえた。6月26日、午前、老中、松平康英は『芙蓉の間』に、若年寄、奉行、大目付、目付らを集めて、万一の場合の軍役の事を考え、目下、『知行高物成半減上納』案を検討していると一同に伝え、その内容について説明した。説明を聞いた幕臣たちは腰を抜かしそうであったが、幕府の遅れている軍制改革の為だと松平康英が強調すると、皆、不満ながら内諾した。午後になると、フランスのロッシュ公使一行が、雉子橋近くの厩舎に休ませておいた、5頭のアラビア馬に乗って江戸城にやって来た。ナポレオン3世からのアラビア馬の贈呈を行う為の登城だった。その贈呈式に忠順も顔出しした。馬に乗って来たのはフランス軍事顧問団のシャルル・シャノアン大尉、ジュール・ブルユネ大尉と3名の中尉だった。それらの代表贈呈馬5頭を大手門内下乗橋外でロッシュ公使から受け取ると、小笠原長行が気晴らしに試乗しようと言うので、忠順もアラビア馬に乗った。乗馬の得意な忠順の騎乗姿を見て、騎兵中尉のエドワルド・メスローたちが感心した。その2日後、6月28日、京では幼帝、明治天皇の女御に慶喜の正室、一条美賀子と義理の妹にあたる一条寿栄君を決定し、お目出度続きであった。ところが世間では奇妙な『ええじゃないか』という踊りが人々の間に流行し、名古屋あたりから始まり、江戸にも広がって来た。かと思うと、各地で世直しの一揆や打壊しが起こり、幕府や諸藩を脅かした。長崎では隠れキリシタン信徒が〈間もなくローマからパードレがやって来て、幕府を倒す〉と触れ回ったものであるから、長崎奉行、徳永昌新が浦上の信徒組織を急襲し、信徒ら68人を捕縛し、拷問にかけた。これに対し、フランス領事、プロイセン公使、ポルトガル公使、アメリカ公使などが長崎奉行に抗議を行った。こんな事件が重なり、幕府の外交も悪化の方向に進んだ。当然のことながら外国奉行の経験者である小栗忠順のもとへ、イギリス、フランス、オランダ、アメリカからの苦情が入った。それらの人たちとの交渉場所に忠順が難儀していると、イギリス公使、パークスが外人用ホテルの建設をすれば良いではないかと提案してくれた。善は急げ。忠順は軍艦操練所後に『築地ホテル館』を建設することに決めた。幕府が土地を無償提供し、合本方式で資金を募集すると、『清水組』の二代目、清水喜助が跳び付いて来て、経営も引き受けると言ってくれた。その為、忠順は、建設工事を『清水組』に発注し、設計を横浜外人居留地で建築設計事務所を開いているリチャード・ブリジェンスに依頼した。そして7月5日、築地外人居留地の設定を行った。忠順は江戸の発展に力を注いだ。フランスからの借款が期待薄になっても、忠順はいけいけドンドンだった。他方、長州の方は4月14日、過激派藩士、高杉晋作が肺結核で病死し、少し元気を失っていたが、薩摩の西郷吉之助、大久保一蔵らと土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、中岡慎太郎らには忠順に負けぬ活気があった。特に西郷と中岡は流血革命を計画していた。それに対し、坂本龍馬はフランスの支援を受けている幕府とイギリスと密着している薩摩の関係を戦争に持ち込んではならないと思った。龍馬は大洲藩の『いろは丸』に乗って長崎から大阪へ向かう途中、紀州藩の『明光丸』と衝突し、積んでいた荷物ごと『いろは丸』を沈没させてしまい、紀州藩に巨額の賠償金を支払わせる決着をつけた後なので、勢いづいていた。龍馬は如何にしたら、薩摩と幕府が戦わずに済むかを考えた。長崎から後藤象二郎と上洛する土佐藩船『夕顔丸』の船中で思案した。浮かんだのは勝海舟や松平春嶽から聞いた大久保一翁の『大政奉還論』であった。大久保一翁も勝海舟も幕臣であるのに、文久年間から幕府に不満を持ち、幕臣である自分たちは、幕府が滅びる時、巻き添えに遭って、敵に殺されるのではないかという恐怖心を抱いていた。何時だったか、勝海舟は、弟子の龍馬に、こう言った。

「今の徳川幕府では能力の有る者が出世出来ない。俺は幕府の世襲制に疑問を抱いている。世襲による頭の悪い連中が政権をほしいままにしている徳川幕府は、このままだと滅びる。その時、将軍及び徳川一族は勿論のこと、幕臣でもある俺たちも根絶やしにされる。それを回避するには、自らの手で旧来の世襲政権を投げ出し、一翁先生や小栗上野介の言うように、大統領制にでもすることだ。俺は、それを願っている」

 塾生だった龍馬は海舟に質問した。

「勝先生は幕府の軍艦操練所の頭取なのに幕府が無くなって良いのですか」

「なんの、空気があれば何処でも生きられる。幕府が無くなれば、江戸もさっぱりすらあ」

 あの時の発言を龍馬が上告すれば、海舟の進退問題に発展しかねないものだった。だが今は、それが役立とうとしていた。龍馬は象二郎に提案した。

「朝廷は鎌倉幕府以来、満足に政権を手にしたことが無い。帝、公卿は学問、歌道のみに専一しているが良いとされて来た。その朝廷に薩土同盟によって考えた大政奉還が達せられた後、ちゃんと政治が出来るかどうか俺は心配しちょる。朝廷に政治機関として頑張ってもらわねばならぬばい」

「そう言われれば心配じゃな」

「この卓上の時計を使い方の分からぬ者にくれてやっても、使いこなせない。それと同じで、朝廷は大政を奉還されても、その成すべき事が分からぬかもしれぬ。それを教えてやらねばならぬ」

「どうすれば良い」

「俺に八策が浮かんだ。それを今から、謙吉に書かせるから容堂公に差し上げな」

 龍馬は、そう言うと海援隊の文官、長岡謙吉に、自分の考える八策を巻紙に筆記させた。それを手にした後藤象二郎は、『四賢候会議』から自ら抜け出し、面目を失い、落胆の日々を送る山内容堂に申し上げた。

「大殿に申し上げます。この不穏な時勢を混乱から救い、徳川家及び幕臣を救済し、薩長を宥める起死回生の方法が御座います」

「それは、どんな方法じゃ?」

「それは大政奉還です。現在の朝廷と幕府の二元政治を一元化する方法です」

「大政奉還か?」

 それはかって大久保一翁が『大政奉還論』を唱えたこともあり、文久3年(1863年)、松平春嶽が将軍、家茂に大政を奉還し、上洛を中止し、江戸に帰還すべきだと訴えた思想であった。容堂は後藤象二郎が差し出した書面の八策を読んで膝を叩いた。

「成程。大政奉還か。良くぞ気づいてくれた。公武合体という政治組織の中の『四賢候会議』から脱退した土佐が、、土佐の藩論として、この建白書を提出すれば、内戦の惨禍を招かずに済む」

 この『大政奉還策』は容堂にとっても、朝廷会議に列席する為の妙案に思えた。象二郎は容堂の答えを求めた。

「如何で御座いましょうか?」

「妙案じゃ。議会制度を設けることにより、公武合体を分離させた上に、庶民を巻き込んだ政治制度は、まさに日本国の理想じゃ。やってみよう。若干、文言を整え、建白書とせよ」

 後藤象二郎は容堂に、この妙案を携え、幕府を解散し、雄藩連合政権の樹立に挑戦するよう指示した。象二郎が行動を開始すると、土佐の武力討幕派の乾退助、陸援隊を立ち上げた中岡慎太郎、薩摩の西郷吉之助、大久保一蔵、長州の桂小五郎などが、この案に反対した。象二郎は迷った。象二郎は提案の張本人、坂本龍馬に相談した。すると龍馬は象二郎に笑って言った。

「何を言いよる。やってみなければ分からぬ。俺が奴らを説得してやる」

 『大政奉還策』を反対されていると聞いて、龍馬はちょっと立腹し、二本松の薩摩藩邸に行った。この頃の薩摩藩邸は長州の品川弥二郎、山県狂介、伊藤俊輔や土佐の中岡慎太郎、福岡藤次、岩崎弥太郎などが出入りしていた。龍馬は、そこで西郷吉之助、大久保一蔵、吉井幸輔に会った。丁度、中岡慎太郎が来ていたので、当然、慎太郎にも同席してもらった。龍馬は、まず、こう切り出した。

「あんた方は土佐の『大政奉還策』に反対しちょると聞いておるが、何故、反対かね」

「うん。反対じゃ」

 西郷吉之助が答えた。

「何故じゃ。待てぬのか?」

「長州と相談し、倒幕決起の日を決めようとしている」

「待て。土佐藩が『大政奉還策』を提出し、その結果を見てから判断してくれんかいの」

 龍馬が討幕決起に待ったをかけると、大久保一蔵が言った。

「坂本君。そんなことが出来ると思っているのかね。あの徳川慶喜が受け付ける筈など無い」

「やってみなければ分からぬ」

「そんな空理空論、実現する筈が無い」

 龍馬は、吉井幸輔に空理空論と言われ、カッとなった。一同を睨みつけて言った。

「あんた方は、倒幕、倒幕と言うちょるが、幕府に本当に勝てると思っているのか。勝てる確証も無く挙兵するのは無鉄砲というものじゃ。幕府には小栗上野介という傑物がいる。奴は俺の尊敬する勝海舟先生を押し退け海軍奉行になり、沢山の軍艦を準備し、今はフランスから軍事顧問団を招聘し、陸軍の訓練強化を行っている。彼の後ろにはフランスがついている。彼は外国通で、各国公使にも重要視されている徳川幕府の怪物じゃ。その怪物と本気で戦うつもりか」

「噂には聞いているが、そんな奴が、本当にいるのか」

「いるから、危険な戦争をするなと言っているんじゃ。イギリス公使、ハリー・パークスに小栗上野介とはどんな人物か聞いたら、清国の太平天国を滅亡させた武将、李鴻章のように西洋式軍事を導入している恐ろしい男だと言っておった」

「そう言えばフランスの支援を受け、横須賀製鉄所や火薬工場を建設中だとも聞いとる」

「パークスは、俺にもし薩摩が幕府と戦争を始めたら、薩摩が滅びるのを傍観するだけだと言っちょった。どうする?」

 龍馬が、嚇すと、流石の薩摩連中も二の足を踏んだ。龍馬の説得の結果、薩長土共に倒幕決起計画を一時、延期保留にし、軍備強化を図ることにした。

         〇

 将軍、徳川慶喜は京の薩摩の者や一部の宮廷人によって討幕の陰謀が進んでいるいることを察知していた。京都守護職の会津藩士や京都所司代の役人や『新選組』の隊士たちと慶喜の家臣、原市之進、渋沢喜作などが、情報交換し、薩長の動向を探ってくれていた。家臣たちの情報によれば、土佐の山内容堂の家臣や越前の松平春嶽の家臣たちの動きにも不審なところがあった。原市之進は大目付、永井尚志が土佐の後藤象二郎と密会していることや、勝海舟が長州の桂小五郎、広沢真臣、井上馨らと交流があることを気にしていた。8月14日のことだった。その原市之進が出仕前の髪結い中に江戸からやって来た御家人、鈴木豊次郎、依田雄太郎に殺されたと知って、慶喜は愕然とした。暗殺者、鈴木豊太郎と依田雄太郎が、市之進の首を取って逃げようとしたところ、原家の勇敢な家来、小原多三郎が二人を斬り殺したという。鈴木豊次郎の兄、恒太郎は老中、板倉勝静の屋敷に自首して、〈原市之進を殺したのは、将軍を京に留めているのは、原市之進であり、江戸に本拠を置く幕府にとって、最悪のことをしているからである〉と進言し、割腹死したという。慶喜は考え込んだ。何故、またもや市之進が。言われてみれば、確かに自分は、何年、江戸を留守にして、何をやっているのか。誰の為に、京にいるのか。そんな落ち込んでいるところへ、8月24日、追い討ちをかけるようにフランス公使、ロッシュがやって来て、長崎のキリシタン信徒弾圧事件等の問題が加わり、フランス本国の対日方針が変わり、六百万ドルの借款は全く不可能になったと報告して来た。ならばどうすれば良いのか。小栗上野介に策はあるのか。今頃になって上野介を当てにするとは情なや。その小栗忠順は、将軍、慶喜の側近、原市之進が暗殺されたと、江戸城に出仕して知り、身の危険を感じた。京、大阪での出来事は只事ではない。いずれ江戸にも波及して来るに違いない。その用心の為に、佐藤藤七に江戸屋敷の守備の為の助っ人の派遣を要請することにした。また幕府の資金集めの為、神奈川奉行、依田盛克や『国産会所』の者等と建議し、貿易の為、江戸や横浜で輸出入をしている取引を、『三井組』の三井八郎右衛門に一手に引受けさせていたが、交易量も増加しているので、中井新右衛門他5名を加え、正金取引を紙幣取引に切り替え、金貨流通を紙幣流通に変更させた。9月になって早々、フランスにいる栗本鋤雲から、銀行家、フルーリ・エラールや帝国郵船のクーレら関係者に会って、外債発行を計画通り実行して欲しいと要請したが、幕府への不信感が強く、不可能になったという手紙が届いた。期待していたのに全くの悲報だった。この悲報を将軍、慶喜に知らせない訳にはいかなかった。こういった重要事項を大阪の幕府まで絶えず連絡せねばならず、幕府が江戸と大阪に存在するということは、実に不便だった。忠順は9月12日、江戸、大阪間の蒸気飛脚船を開設し、栗本鋤雲からの悲報を慶喜に知らせた。また、その対策として兵賦制を布告する許可を申請した。これらの忠順からの報せは鋭敏な慶喜の神経を苦しめた。どうすれば良いのか。慶喜はまたまた苦悩した。その頃、権田村の名主、佐藤藤七に江戸の小栗屋敷に行くよう仰せつかった中島三左衛門と山田城之助は中仙道を急いだ。稲の刈り入れが終わり、殺風景になった田園の中の街道を三度笠姿の二人の合羽が風に揺れた。

「お殿様は何の為に、あっしらを江戸にお召しになられるのでござんしょうか?」

「また、新しい事でも思いつかれたのでしょう」

 城之助は三左衛門に軽く返答したが、何故か不安であった。何時もであるなら佐藤藤七のお伴をしての江戸伺いであるが、今回は、藤七が足を悪くし、三左衛門と一緒に行ってくれという指示であった。三左衛門は城之助が松井田傳馬継ぎ手『新井組』の親方であることは知っていたが、その立居振舞は一分の隙も無く、やくざの親分というより、武芸者のようであると感じた。三左衛門は江戸への道中、同道する山田城之助と小栗の殿様との関係を知った。城之助が殿様と初めて出会ったのは、15年前だという。人買いの一味を追って初めて江戸に来て、江戸のやくざに襲われ負傷した折、命を救ってくれたが殿様だという。城之助は、この時、神田駿河台の小栗屋敷で傷の介抱をしてもらい、傷がいえるまで、数ヶ月間、厄介になり、それ以来、家臣並みの関係で、数年前も用心棒として、2年程、江戸に滞在していた。三左衛門は、その頃に城之助と会っていた。城之助は若き日を回想するように言った。

「あれから、お殿様はトントン拍子に出世され、今や幕府の重鎮です。あの頃のお殿様は剛太郎と名乗り、その名の示す通り、強直奔放で、浪人や火消し、岡っ引き、大工、お茶屋、絵描き、芸人、町人、百姓などを集め、幕政改革のことを喋っておられました。日本は、このままでは駄目だなどと・・・」

「そうですね。世をすねていたお殿様が異国の船に乗って太平洋を渡り、メリケンくんだりして、メリケンと修好通商条約を結んで、帰国してからは、幕政改革のことばかり、百姓の俺たちに語ったりして・・・」

 三左衛門が政治にも興味があるのを知って、城之助は忠順から教えてもらったことを三左衛門に話した。

「お殿様は俺に教えてくれました。日本国は異国の植民地にされようとしている。尊王攘夷を唱える者たちが増え、幕府に反抗する様を見て、異国人は日本に内乱が起きるのを待っている。天皇と将軍が戦さを起こし、自分たちの国に助けを求めて来るのを待っている。諸外国は、その戦さで、いずれかの味方について、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、ロシアなどで五分割しようと狙っている。その魔手から逃れる為には、日本国民が一つに結集せねばならぬのだという。お殿様たち若者が、幕政改革を行い、天下の公論をとりいれ、衆議によって政治を行うことが大事だという。国を豊かにし、軍事力をつけ、強い日本国を創り、異国人の介入を排除し、日本国みずからも海外進出すべきだと・・・」

「お殿様は、日本の将来のあるべき姿について、そう語られたのか」

「ああ、そうだ。お殿様はでっけえ事を考えてるお方じゃ」

 城之助は、自分を可愛がってくれている忠順を褒め称えた。その城之助の話を聞いて、三左衛門は、今回の江戸への二人の呼び出しは尋常ではないと思った。殿様が日本国の方向性を決める為の使命を自分たちに与えるかもしれないという予感が、三左衛門の脳裏をよぎった。幕府には有能な老中や若年寄たちがいるであろうに、何故、殿様が、そんなに真剣になって幕府や日本国のことを考えねばならぬ役目を負わされるているのか。中島三左衛門には合点が行かなかった。新しい役目を仰せつかるたびに忠順は、軍艦や鉄砲の買い付け、横須賀製鉄所、横須賀軍港、大砲製作所、火薬製造所、語学学校、陸海軍伝習所、貿易商社、ホテルなどの建設から兌換紙幣の発行、鉄道敷設計画など、国家の基本となるべき重要事業に手出ししている。また問題なのは、それらの事業を実行する為に、強引に行動し、上司や同僚から恨まれ、何度、罷免されたことか。しかし、結局は、その才能を必要とされ、幕府の要職に引き戻される。今度は、何を考えておられるのか。今回は傳馬継手『新井組』の親分、山田城之助を召し、何をさせようというのか。また用心棒をさせるつもりか。それ程、身に危険が迫っているというのか。殿様は知識が豊富で先見性があり、実戦力があり、危機対応を何時も考えておられる方だ。城之助はその理由を知っているのだろうか。三左衛門は自分を引っ張る様に縞の合羽に三度笠姿で風を切って進む城之助の背中と足取りに、男の逞しさと未来への不安を抱いた。二人が神田駿河台の小栗屋敷に到着すると、殿様の御母堂、御妻女や塚本真彦、大井兼吉、木村浅蔵らが三左衛門と城之助を歓迎してくれた。夕刻になり、主人、忠順が馬に乗って帰って来ると、三左衛門は庭に駈け出して行って挨拶した。

「お帰りなさいませ。中島三左衛門、本日、山田城之助と参上しました」

「おう、来てくれたか。忙しいのに無理を言って申し訳ないな」

 忠順は、そう言って、馬からひょいと跳び降りて、嬉しそうに笑った。三左衛門はお喋りだった。

「稲刈りも済んで、閑になったところですので、丁度、良かったです。藤七さんも来たがっていましたが、足の具合が悪く、遠出は無理なので、よろしくと申しておりやんした」

「そうか。ちょっと心配じゃな。まあ、屋敷に入ってから、いろいろ聞こう」

 忠順が屋敷に入り、夕食の準備が整い、権田村から来た二人の歓迎会が始ると、『開明研』から帰って来た吉田好三郎たちも一緒になり、賑やかな酒の席となった。いろんな上州近在の近況を三左衛門と城之助は得意になって語った。二人の話が尽きて来た頃、忠順が二人に尋ねた。

「ところで、二人に訊きたい。日本国は誰のものか?」

「勿論、徳川幕府のものです」

 三左衛門が直ぐに答えた。徳川幕府に仕える忠順の家来として当然の答えといえた。しかし、城之助の答えはちょっと違った。

「日本国は帝のものでしょう。水戸の連中が、そう言ってやす。違うんかな」

 城之助は目を輝かせて言った。それを聞いて忠順が笑った。

「薩長のような勤皇派の連中に言わせれば、日本国は帝のものというのが正解かもしれん。また三左衛門が言うように日本国は幕府のものと思っているいる者が多いであろう。だが違う。日本国は帝のものでも幕府のものでも無い。二人の答えは外れだよ」

「何でですか?」

「二人とも、良く考えてみるが良い。日本国はわしやお前たち国民全体の日本国であるのだ。帝がいようが、将軍がいようが、国民がいなければ国家は成り立たぬ。小栗家もそうだ。お前たちがいなければ成り立たぬ。日本国はわしら国民一人一人の総体の上に国家として存在しているのだ。それ故、日本国の政治を任された幕府は国民の意見を汲み入れ、国民の意思で突き進まねばならん」

 忠順は、三左衛門と城之助を睨め付け、熱弁を振るい始めた。大井兼吉や吉田好三郎は、またかと思っているが、三左衛門と城之助は忠順の話に引き込まれ、真剣に、その弁舌を聞いた。

「つまり日本国は、その土地で暮らす国民一人一人のものであるということじゃ。権田村もわしの知行地となっているが、わしのものでは無い。そこの田んぼや畑の面倒をみている者のものじゃ。わしが俺のものだと言って権田村を両手に抱えて、駿河台に運んで来ることは出来ない。そこに暮らす、藤七や三左衛門の家族たちのものだ。だからわしらは、一丸となって、国を豊かにし、国民の命と財産を守って行かねばならぬのじゃ」

「でも、俺のような渡世人風情には、かかわりの無いことでしょう」

「何を言う。日本国は今、日本国を尊ぶ人間を1人でも多く必要としているのじゃ。武士に限らず、百姓、町人、大工、浪人、渡世人らを何人も必要としている。日本国は今、愚かな公卿や薩長の連中の為に、イギリス、アメリカ、オランダ、ロシアといった諸外国の餌食になり、分割統治されようとしている。それらを救うのはわしら江戸に残る幕府軍でしかない。残念なことに、幕府も西軍と東軍に分かれてしまっている。その為、江戸の東軍をより強化せねばならぬ」

「それで俺たちを」

「そうじゃ。日本国は今、お前たちのような勇気ある男を待っている。それ故、わしは三左衛門と城之助を江戸に呼び寄せ、幕府の東軍兵を募集して欲しいのじゃ」

 城之助は忠順の話を聞き、三左衛門を見詰めた。三左衛門は城之助の視線を受け戸惑った。三左衛門は忠順に確認した。

「あっしのような男に軍兵を集めることが出来るでしょうか」

「ある。百姓や町人を集め、主権在民を説くことじゃ。武士で無くとも幕府の軍隊に入り、国防力を強化し、諸外国と平等に交際出来る国造りに励み、家族の生活を豊かにすることが出来ることを説明するのじゃ。お喋りな、三左衛門の得意とするところであろう」

 そう言われて、三左衛門は頭をかいた。城之助は自分たちに目的を語った忠順が、故知れぬ危機感に先手を打とうとしているのを見たような気がした。もしかするとお殿様は京に移りかけている政治の流れを、何としても江戸に引き留めておかねば、この国が存続出来ないと考えているのかも知れなかった。

         〇

 大阪城では今日も、将軍、徳川慶喜が、今後について攘夷派を牽制しつつ、政治をどう動かして行こうか黙考していた。そんな苦悩する慶喜のことも気にせず、大目付、永井尚志が土佐の後藤象二郎からの情報を知らせに慶喜のもとへやって来た。

「上様に勇気を奮い立たせ、永井玄蕃申し上げます」

「何じゃ」

「今、幕府は列強諸国の脅威と内戦勃発の不安を抱えております。そのことに対し、他藩から解決案の相談がありました」

「どんな解決案じゃ」

「畏れ多くても申し上げられません」

「勇気を奮い立たせて申し上げますと言ったではないか。申せ」

「そ、それは大政奉還に御座います」

 永井は慶喜に怒鳴られるのを覚悟で、次の間にひれ伏し、解決案を申し上げた。だが慶喜は怒ることも無く、永井に訊いた。

「うむ。そうか。春嶽殿が、そう申されたか?」

「いえ、土佐藩の重臣、後藤象二郎から土佐藩の建白書として、検討中であるが、いかがかと」

「そうか、容堂殿からか」

「如何致しましょう」

「いいじゃないか。庶民もいいじゃないかと言っている」

 永井は吃驚した。笑って答えた慶喜の顔を見て、永井は自分の目を疑った。どういうことか。慶喜は、追い詰められている自分の心の奥を見抜いている山内容堂のことを思った。大政奉還。それはかって大久保一翁が幕閣内で唱え、松平春嶽が前将軍、家茂や自分に迫ったりした政権放棄案であった。永井は、土佐案の検討している内容を慶喜に説明した。

「土佐藩の構想は朝廷のもとに議政所を設け、公卿と諸侯からなる上院と庶民からなる下院の二院制議会とし、天下の大政は京師の議政府より発布する内容だとのことです」

 慶喜は、この説明を聞いて、山内容堂が、日本国の内戦の惨禍を回避する為と、徳川家や全国諸候の地位を保持させる為の解決策として、大政奉還を建白しようとしているのだと思った。慶喜は永井からの話を聞いて今の苦境を乗り切るには、まさに大政奉還は名案であり、迷える自分にとって好都合だと判断した。鋭敏な慶喜の頭脳の中で、二つの構想が絡み合った。構想の一つは大政奉還した後の上院会議の諸侯の筆頭となり、議会を誘導し、これまで通りの権勢を発揮して行こうという考えであった。もう一つは、国家の為を思い苦心し悩み、大切な家臣、中根長十郎、平岡円四郎、原市之進のような者を、これ以上、失わずに、その言葉通り、政権を放り投げ、綺麗さっぱり、気を楽にしようという考えであった。かの神君家康公は〈人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず〉と遺訓を残された。ここで肩の荷を下ろし、一休みして、様子をみて、前進するか、荷を捨てるか決めれば良い。そのいずれにするか。それは大政奉還し、議会を開いてみて、ゆっくり判断すれば良い。かって小栗上野介が、京都朝廷と徳川幕府の二元政治は最悪であると言っていたが、議政所が出来れば、一元政治を始めることが出来る。この慶喜の軽率な考えは、数日後、在阪の老中、板倉勝静から江戸の老中、松平康英の所に届いた。それを知った、小笠原長行は慶喜を非難した。

「全く分かっていないお人だ」

 小栗忠順も、将軍、慶喜が大政奉還の検討を進めていると聞いて、慶喜という人物をどう理解して良いのか分からなくなった。もともと優柔不断で強情なのは分かっていたが、考えが余りにも転々と変わり過ぎる。忠順が、屋敷に帰り、塚本真彦たちにぼやいた。

「上様は何を考えているのか分からぬ。『大政奉還論』の実行を検討されているという。お前たちは、どう思うか」

「噂によれば家茂様がお亡くなりになり、諸外国が薩長などの西国と誼を通じ、西国での幕府の威厳は地に落ちてしまっているとのことです。その波が京の都を越え駿河にまで迫っていると聞いています。それと共に、いいじゃないか運動は、皇国の為といって樹立した勤王運動を益々、元気づけさせ、各地で世直しの一揆や打壊しが起こり、諸藩を脅かしております。その上、フランスからの借款の悲報が、上様の自信を喪失させて、大政奉還の検討を始めたのではないでしょうか。将軍であることが嫌になって」

「だからといって、そんなに簡単に神君家康公以来、日本国の平和を維持し続けて来た徳川幕府を、個人的に苦しくて辛いからと、一人よがりの判断で放り出して良いものだろうか。良い筈など無い」

「第15代将軍、慶喜様も将軍後見職を歴任した実績はあるものの、諸侯や国民からの信頼が薄く、この傾きかけた幕府の威信を取り戻すのが容易でないと判断され、自分の逃げ場を探しておられるのでしょう」

「確かに、真彦が申す通り、幕府は二度にわたる長州征伐に失敗し、その非力を天下に晒し、その権威は地に落ちた。だが、大政奉還などせず、現将軍、慶喜公に頑張ってもらわねばならぬ。天下の公論を採り入れ、日本国の政治の発信場所を一つにせねばならぬ」

 忠順と真彦の会話を聞いている三左衛門や城之助には、借款などと分からぬ言葉もあったが、主人たちの話す内容が少し理解出来たので、つい口出ししたくなったりした。城之助が、会話に口を挟んだ。

「俺には何故、将軍様が京に行ったまま、江戸の戻って来ねえのか理由が分からねえ。西国の連中に良い女でもあてがわれて、仕事が嫌になったんでござんしょうか。江戸におらなけりゃあ、仕事になるめえ」

「城之助。分かっているではないか。お前の言う通り、将軍は江戸におらればならぬ。それなのに上様は倒幕を考える薩長の罠にはまって、上洛したまま帰って来ず、幕府を東西二つに分離してしまわれた。その為、幕府の信用は半減した。力もまた半減してしまった。このまま大政奉還の考えを放置しておいたら、日本国はとんでもないことになる。何としても大政奉還を阻止せねばならぬ」

「左様に御座います。小笠原長行様にお願いして、大政奉還など、もっての外だと、上様に進言して下さい。それを言えるのは、殿しかおりません」

 真彦の意見に、忠順は頷いた。それから、忠順は、その場にいる家臣一同を見渡し、鋭い目をして言った。

「上様には自信を持ってもらわねばならぬ。ネポレオン3世のような国民から支持される尊厳に満ちた人物になっていただかねばならぬ。薩長などの倒幕を考える連中の罠にはまって、国家二分の内乱を起こす訳にはいかぬ。それこそ諸外国の餌食にされる。その為には、幕府がもっと富を蓄え、強力な軍備を行い、長州のような悪逆藩を一気に叩き潰す戦力を有する独裁政権を構築せねばならぬ。フランスのロッシュ公使は、わしがフランスやアメリカの政治体制を真似ようと考えていることに同感し、いろんなことに協力してくれている。フランスからの借款のことは、我が国の愚か者の為に取り消しされたが、わしは国家国民を守る為に、あらゆる手段を講じて更なる資金集めに奔走する。この行為を阻止する者は許さぬ。逆らう者は始末せねばならない」

 その言葉に城之助が膝を打った。

「よう分かりました。その御役目が俺たちということで・・・」

 城之助のはずんだ声に忠順は、何という呑み込み方をする可笑しな男であるかと苦笑すると共に頼もしさを覚えた。大政奉還の報せは、福井の松平春嶽の所にも届いた。

「土佐藩が大政奉還の建白書を幕府に提出し、二条城で諸藩の重臣を集め建議されただと」

 春嶽は驚いた。何故、土佐藩が?春嶽の頭の中に直ぐ、勝海舟の弟子、坂本龍馬のことが浮かんだ。あの男が、自分が話した大久保一翁や横井小楠の話をまとめ、容堂殿に具申したに違いなかった。龍馬が勝海舟に頼まれて、海軍塾の資金調達の為の5千両を貸してくれと福井に来たのは文久3年(1863年)5月のことだった。あの時、横井小楠を交え、年上の勝の悪口を言いながら、日本国の将来について語った。大統領にならないかと小栗上野介に言われたことや、小栗の郡県制度案についても話した。あの時、龍馬に惚れて藩の大金を寄付してしまった。不思議なものだ。その時、喋ったことが、巡り巡って容堂候のいる土佐藩の建白書になろうとは。容堂候は何を考えておられるのか。慶喜を将軍の場から降ろして、容堂候が徳川の実権を握ろうというのか。もともと、この案は、己が将軍になる為のものではなかったのか。春嶽は慶喜の判断を待つより仕方ないと思った。

         〇

 10月12日、将軍、慶喜は大阪城にいる老中、幕閣、数人を連れ、二条城に登城し、京に駐屯する京都守護職、京都所司代、京都奉行ら幕府役人を大広間に集めた。集合した幕臣たちは、何事が始まるのだろうと、将軍が上段の間に現れるのを待った。慶喜が勇を鼓して上段の間に登場し、着座すると、皆一斉に平伏した。大目付、永井尚志が、立ち上がって一同に向かって伝えた。

「これより、上様が、おんみずから、政権を朝廷に返上する旨の表明を、一同に語られる。一同、その真意を心して聞いてもらいたい。では上様、お願い致します」

 その大目付の言葉を聞き、幕臣たちは、唖然とした。政権を朝廷に返上するとは、どういうことか。一同は顔色を変えた。慶喜は平然と幕臣たちに対峙して言った。

「只今、報告があったように、余は政権を朝廷に返上することを決めた。それは当時勢に至り、尚も外憂内乱の状態が続き、このままでいては日本国全土の混乱は避けられず、その混乱の不幸が日本国全土に波及するのを回避する為、余は大政奉還が唯一の方法である確信した。我々の将来の見込みはこの方法より他にない。この判断こそ、東照公様のご盛業を継承する道であると余は信ずる。現状を続けよと願う者もあろうが、それは為し難いことである。今の政治の現状は諸外国に対し余りにも矛盾し過ぎている。諸外国への使節に、幕臣が行っている。諸外国や朝廷から見れば帝に仕える将軍の下の下にいる下級陪臣の派遣である。考えれば、確かに日本の下級陪臣が他国の国王に謁見するということは非礼きわまりない事である。だが大政奉還により、その者が朝廷の命令によって派遣されるのであるなら、相手国に対して何ら非礼に値しない。我が国は今、諸外国からの信用を得なければならない。一部の逆心藩及び暴徒が、国内を混乱に陥れようと策謀しているという噂があるが、それを恐れて余が大政奉還するのではないということを、一同には理解していただきたい。兎に角、諸外国からの信用を得る為、我が国の政令を朝廷一ヶ所から発出させる為の一心である。反逆者の動向など全く恐れていない。敵が幾万あろうとも、今の軍備軍隊をもってすれば反逆軍などあっという間に壊滅させることが出来る。従って余が大政奉還するからといって慌ててはならない。総てはこの『大政奉還案』が朝廷から許諾されてから始まることである。その後の仔細については追って沙汰する。余のこの決断は海外からの信用と敬愛を得るものであると共に、国内の安定平和を願う為である。余はここに天下安寧の為に政権を放棄することを一同に告げる。異存ある者あらば答えよ」

 この弁説を聞いた幕臣たちは、慶喜の言葉に茫然として、誰も質問する者がいなかった。慶喜は一同を見回し、頷くと、上段の間から奥へと去った。翌13日の午後、幕閣は在京四十数藩の代表、50名程を二条城に集め、慶喜に前日同様の宣言と説明をお願いした。在京の幕府家老等の重臣を傍に座らせ、慶喜は、大広間の上段の間に現れると昨日とちょっと違った表現の仕方で、大政奉還を告げた。

「お聞き及びと思うが、昨日、余は政権を朝廷に返上することを決めた。それは当時勢、外憂内乱の状態が続き、その混乱が日本国全土に波及することを回避する為の処断である。何故かと申せば、今、天下の諸侯はかっての戦国の世の如く、軍備を強化し、戦国の頃のように群雄割拠し始めている。余は東照公様のご盛業を継続する為、将軍、家茂公の後を継ぎ、努力に努力を重ねて来たが、逆心藩や暴徒に邪魔され、その対策に奔走している。だが、逆心藩や暴徒は国内を混乱させようと、外国人を殺害したり、禁裏守備兵を襲撃したりを繰り返し、諸外国や庶民から幕府の信頼を失わせようとしている。これらの暴挙を討伐しようと幕府が諸侯に呼びかけても、諸侯は動かず、幕府の威令が実行さず、幕府に忠実な数藩のみが協力してくれているだけである。諸藩の為を思い諸藩の経費節減を考えた参勤交代中止が裏目に出たという事であろう。結局は、その削減費用は藩民に配られず、武器調達費用に転用されてしまっていというのであるから呆れたものだ。最早、日本国は三百の大小国に分裂している。故に余は、東照公様が業を始められ、二百六十年以上続いて来た天下安寧の為の幕藩体制を閉じ、政権を放棄することに決めた。これは皇国を思う大義の為、幕府の政権を朝廷に奉還し、御親政のもと国民が一致協力し、我が国を守り、諸外国と肩を並べる日本国の発展と維持を願っての決断である。この我が意を綴った大政奉還の申請書を、明日、余は朝廷に提出する。よって列席諸藩の方々は、この旨、在国の藩主に伝えよ。疑念ある者は後刻、申し出よ。以上」

 慶喜は言い終わるや、一同を睨め付け、堂々と上段の間から退去した。諸藩の士は将軍、慶喜の自信に圧倒された。大広間での大政奉還の発表を終えると、慶喜は永井尚志を呼び寄せ、西周助と共に上表文のまとめに入った。

〈今日の形勢に立ち立ってしまったのも、ひとえに私の不徳と致すところ、慚愧に堪えない次第であります〉

 そういった文言を相談して書きながら、尚志が涙ぐんでいるのを見て、慶喜の胸は痛んだ。

「玄蕃。お主は余の決断に不服なのか?」

「いえ。上様のお決めになられたことに、何故、不服がありましょう。上様のお心に沿うように御奉公するのが臣下の道に御座います。一旦、決められたことに何故、反対する必要がありましょう」

「大政奉還は新政府、新体制が整ったところで行うのが正道である。しかし、薩長連合が結ばれたという今、この決断の申請が遅れたとなれば、幕府は朝敵にされてしまう。この読みが、日本国民や幕臣たちを救う道であることを、分かって欲しい・・・」

 慶喜は辛い自分の立場を繰り返し、尚志や周助に語った。尚志は、それを聞けば聞く程、辛かった。江戸にて陸海軍の訓練所の整備、組織確立、横須賀製鉄所や大砲、火薬製造所の建設、軍資金集め、外国との政治交渉などのホテル建設、紙幣発行など着々と進めている小栗忠順が自分の立場であったならどうするであろう。きっと彼は薩長は勿論の事、幕府に逆らう朝廷までも叩き潰せと言うに違いない。アメリカ等、先進国の空気を吸い、フランス人たちとの交流の深い小栗上野介らにとっては、新政府樹立の為には、朝廷など無用なのだ。将軍が大統領になり、全国を統治すれば良いと思っているに違いない。もしかすると、幕藩制度を解体し、郡県制度に改めるには、大政奉還は良い機会だと賛成してくれるかもしれない。いずれにせよ、もう幕臣にも諸藩にも公言してしまったことだ。上表文を提出するしかない。翌10月14日、慶喜は『大政奉還上表』を朝廷に提出した。これを受けた摂政、二条斉敬らは朝廷の上層部は困惑したが、翌、15日、慶喜を加えて開催された朝議により、これを許容した。その議決結果に、天皇は驚いた。朝議前に、自分の外祖父である大傳、中山忠能大納言が持つて来た『討幕の詔勅』に御璽を押したばかりなのに、その数刻後に将軍、慶喜から政権返上の上表文が提出されるとは、何と手際の良い事か。幼帝は、慶喜からの『大政奉還上表』を受け取ってから、関白、二条斉敬に言った。

「慶喜が早くも降参したか。朕の発する詔勅の威力とは恐ろしものじゃ」

 天皇のこの言葉を聞いて二条斉敬は驚愕した。幼帝が先刻、発したという詔勅とは何か。己の了解なしに下された詔勅とは。斉敬は顔色を変え、天皇にどのような詔勅を発出させたのか迫った。天皇は外祖父、中山大納言に頼まれ、『討幕の詔勅』を下したと告白した。その『討幕の詔勅』の文章は岩倉具視の指示に従い、玉松操がまとめた詔勅内容であった。

〈詔す。源慶喜、累世の威を借り、闓族の強みを恃み、みだりに忠良なる民を賊害し、数々の王命を棄絶し、ついに先帝の詔を矯正して、怖れず、万民を溝壑に墜として顧みず、この罪悪が蓄積するに至れば、神州、まさに傾覆せんとす。朕は今、万民の父母なり。この賊を討たずして何をもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いることが出来よう。これ朕の深く憂憤する所なり。諒闇を顧みざる者を処罰するは万、已むを得ざるなり。汝、よろしく朕の心をして、賊臣、慶喜を殺戮し、もって速やかに回天の偉勲を奏し、しかして生霊を山岳の安きに措くべし。これ朕の願いなれば、あえて惑い怠ることなく、この詔を実行せよ〉

 これを知った二条斉敬は内大臣、近衛忠房らに連絡をとり、この詔勅の取り消しに奔走した。だが、この詔勅は中山大納言から岩倉具視を経て、薩摩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、品川弥二郎ら四人に渡っていた。将軍、慶喜が大政を綺麗に奉還し、その職を辞するというのに、国内を乱すような詔勅を下すとは、天皇や大納言は何を考えているのか。二条斉敬は発憤した。

「これは幼少の天子様を利用して権力を盗み取ろうとする一味の策謀としか思えぬ。潔く大政を奉還した者に賊名をかぶせ、追い討ちをかけるとあっては、朝廷に対する国民からの尊崇信頼の心も疑心に変わってしまう。薩長二藩に下した詔勅の内容、直ちに中止させよ」

 関白、二条斉敬の指示により、若い公卿たちが薩長に走った。使者は薩長両藩の屋敷に駈けつけ、将軍、慶喜が『大政奉還上表』を提出したので、先の詔勅を破棄し、慶喜とその家臣の討伐を中止せよとの沙汰が下ったと伝えた。その知らせを受けた薩長の幹部たちは驚いた。慶喜の『大政奉還上表』は信じられぬことであった。本当に、あの徳川慶喜が政権を放棄したのか、信じられ無かった。翌16日、関白、二条斉敬は慶喜を宮中に召して、朝廷からの沙汰書を慶喜に渡した。そこには朝廷の呼びかけにより、公卿、諸大名の会議により、新政権の組閣が決定するまで、将軍の職務を続けるようにとの意向が書かれていた。二条斉敬は、参上した慶喜に、こう依頼した。

「今度の事は御許可なされますまいと、考えておりましたが、土佐藩の『大政奉還論』と『大政奉還上表』の内容を吟味検討すると共に、朝廷内の形勢を考察し、大政奉還の上奏を許すことに致しました。しかしながら、さあ今日から政治を始めよと申されても、朝廷には、その経験が御座いません。従って新しい政権の組閣がまとまるまで、将軍の職務をこのままに留め、国の治安に勤務してもらいたい・・・」

 公武合体の継続を願って来た二条斉敬にとって、ここで慶喜に政治を放棄されては、国の治安がどうなるか、憂慮せねばならなかった。攘夷を唱える連中が外国人を襲い、再び、長州や薩摩が経験したような異国からの砲撃を、京阪が受けるかも知れなかった。また武家による国内勢力が二分され、武家戦争に、自分たち公家が巻き込まれるかも知れなかった。それを避ける為には、何としても慶喜に、現状のまま将軍として、京に留まっていてもらいたかった。慶喜はその沙汰書を有難く受け取ると、感謝の意を述べ、朝廷を辞した。かくして坂本龍馬が企画した和平工作と徳川慶喜の自己犠牲演技によって長き徳川幕府政権から朝廷への歴史的政権交代が実現することになった。

         〇

 将軍、慶喜が朝廷に『大政奉還上表』を提出し、その請いが認められたことが江戸に届くと、江戸城中は大騒ぎとなった。幕臣たちが言った。

「上様は気が狂われたのか。大政奉還がどのような意味を持つものか、理解なされておられないのではなか」

「大政奉還とは幕府が国家の統治権限を放棄し、政治を他に移譲することである。他とは、帝のことか?何も分からぬ幼帝に、そんな大事をこなすことが出来るのか」

「我等、幕府が地位を失った時、誰がこの国を治めるというのか。果たして日本国は存続出来るのだろうか。それこそ、異国人の思う壺になるのではないか」

「東照公様の創業以来、二百六十五年も続いて来た幕府を、上様は何の思いがあって閉幕するというのか。閉幕について、江戸の御老中方に御相談があったのだろうか」

「幕府が無くなれば、我々の日常生活はどうなるのか。路頭に迷い、浪人となれというのか」

 江戸の城中及び市中の幕臣たちからは、将軍、慶喜の判断に異議を訴え、大政奉還を阻止出来なかった在京在阪の老中、板倉勝静や稲葉正邦、若年寄、永井尚志、大目付、戸川安愛、大阪城代、牧野貞明ら諸有司に対する非難が溢れて囂々だった。小栗忠順は将軍、慶喜のことを思った。

「上様は何故、私達に相談無しに大政奉還を決断なされたのであろうか。永井尚志様や松平容保様、松平定敬様は反対されなかったのであろうか」

 忠順は大阪にいる将軍、慶喜が、フランスのロッシュ公使と頻繁に会い、政権の新体制を検討しているとロッシュ公使から聞いていた。その新体制を構築しない前に、突然、大政奉還を断行してしまった慶喜の真意が全く分からず、忠順は落胆した。土佐藩からの建白書によるものだと聞いているが、余りにも弱気過ぎる。薩長連合など恐れて何になるというのか。江戸では既に陸海軍の組織が動き出し、造船所、兵器製造所、弾薬製造所などの建設が進み、輸入した武器弾薬以外に沢山の武器弾薬を生産している。軍資金も秘かにフランスなどの援助を受けている。横浜の商取引も順調で、徐々に資金が蓄積されている。それなのに何と早まったことをしてくれたのか。幕府には薩長連合を叩き潰す力が充分あるというのに。忠順は老中、小笠原長行に尋ねた。

「大政奉還の事、上様から小笠原様に御相談が無かったのですか」

「わしにも、松平康英殿にも何の相談が無かった」

「もし、御相談があったなら、奉還なされる時に合わせ、幕府の最新鋭の陸海軍部隊を上洛させたたものを。京を幕府兵で充分に固め尽くし、新体制への移行を実現出来たでしょうに」

 忠順は、そう言って唇を噛んだ。激怒する忠順の直言に、老中、小笠原長行は身震いした。忠順は、このまま在阪の慶喜や老中に朝廷工作を任せていては、自分の希求するフランスのような民主独立国家を築くことは出来ないと思った。このような事態になってしまっては、今まで一つであった政府が完全に二つになってしまう。諸外国と比肩する新しい国家を築く為には、江戸幕府の率いる若い力によって、大統領制民主国家を築くしか方法はない。忠順は尚も小笠原長行に言った。

「上様は新体制のことを、お考えになっておられなかったのでしょうか。上様はフランス公使、ロッシュ殿と共に、何度も日本国の新体制政権への変革を研究されて来られた筈です。それなのに何故、大政奉還など?」

「上様は異国人に興味を抱きながら、その本質は異国人嫌いなのです。上様のお身体の中には、尊王攘夷の水戸の血が流れているのです。その奥処にある尊王攘夷の血の総てを上様のお身体の中から吸出することは出来ません。従って、イギリス、アメリカ、ロシアは勿論のこと、貴殿のすすめるフランスとの親交も借款を得る為の見せかけだったのかも知れません。今や我々は上様の御指示に従うしか方法は御座いません」

 忠順は何時もに無い小笠原長行の消極的態度に、納得がいかなかった。日本政府である徳川幕府が、突然、消えてしまって良いのか。大政奉還されて、それを上手に引き継ぐ組織や能力が朝廷にあるのだろうか。古めかしい奈良飛鳥時代からの形式を綿々と継続して来ている宮廷の連中の中に、有能な幕閣や幕臣と比肩するような才能を持った人物がいるのであろうか。勝海舟は大阪、神戸にいた時、知り合った連中の中に、薩摩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、長州の桂小五郎、広岡平助、村田蔵六、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、肥後の横井小楠ら有能な者が、いっぱいいると言っていた。彼らは公卿ではなく、皆、幕府に伺候せねばならぬ藩士ではないか。彼らが、朝廷を助けるというのか。

「小笠原様。私は臣下の忠告を耳に入れぬ上様の行動に呆れ果てるばかりです。このままでは、諸藩も幕府に従おうか朝廷に従おうか、迷われているに違いありません。小笠原様。今、しっかりしなければならないのは、江戸を守る私達、幕府の重臣です。諸候に対し、江戸から今後の指示を出しましょう」

「とはいえ、政事の総ては、将軍が京におられ、京で行われていて、江戸にいる我々の口出しする権限など無いではありませんか。一体、我々が何をすれば良いのですか」

「それは将軍を江戸に呼び戻すことです。江戸に将軍を呼び戻し、江戸幕府の政治を天下に知らしめす事です」

「そのようなことを為さったら、誰が帝をお守りするのですか?」

 小笠原長行は、以前、軍艦を仕立てて将軍、家茂を迎えに上洛し、罷免された時のことを回想した。忠順は冷ややかだった。

「家茂様が将軍におなりになり、公武合体するまで、京は京都所司代が朝廷や公家の監察や西国の外様大名の監視をする役目をしておりました。京都所司代は帝の監視はしていても、お守りなど全くしておりませんでした。幕府が帝にしていたといえば、給食程度でありましょう。皇室は幕府や諸藩への乞いによって生計を続けて来られたのです」

「そう言われれば、そうであるが」

「従って、幕府に帝を監視する役目はあっても、お守りする必要はありません。もしその必要があると申されるなら、帝を江戸にお連れするすることです。日本国の中心である首都はあくまでも江戸です」

 忠順は、自分の思うがままに、老中、小笠原長行に進言した。忠順に発破をかけられた小笠原長行は、慌てて慶喜を江戸に取り戻す為、老中格、松平乗謨と稲葉正巳らを『順動丸』で迎えに行かせた。ところが慶喜は、あうだこうだと言い訳をして、大阪に留まった。

         〇

 将軍、慶喜の愚かさをぼやいている小栗忠順の所へ、10月20日、思わぬ人物がやって来た。忠順は自分のお気に入りの洋間にイギリス公使館の書記、アーネスト・サトウを招き入れて会談した。サトウは忠順の顔色を窺いながら、こう切り出した。

「将軍が辞職された後、小栗さんが、如何なされているかと、パークス公使が気にしておられるので、ご様子伺いに訪問しました」

「イギリス公使館の方々に気にかけていただき心より感謝申し上げます」

「将軍が、自ら選んで将軍職を引退されたことは、我々にとって賢明の対処であったと思われます」

「何故、賢明の対処であったと思われまするか?」

「小栗さんは、そう思わないのですか。日本は今、幕府が政権を解体し、司法、立法、外交、国防などのに整備された、新しい国家に生まれ変わろうとしているのです。将軍は薩摩や土佐に推薦され、その新しい国家の議長になられ、日本の政治を動かすことになるのです」

「そのようなことがあろう筈が無い。将軍は政権交代を狙う薩長の戦略にひっかかったのだ。イギリス公使館のお主たちも長崎に出かけてそれに加担しているとの噂もあるぞ」

 忠順はサトウに厳しく当たった。サトウは慌てた。

「何を申されます。イギリスはあくまでも中立です。私たちは日本国が内乱を起こすことなく平和に話し合いによって、新しい国家として出発されることを希望しています」

「信じられぬ。ならばイギリスは何故、トーマス・グラバーの経営する『グラバー商会』を通じ、薩摩や長州に大量の武器弾薬を売り込んでいるのです。生麦村でイギリス人、リチャードソンを殺害したり、御殿山の新築公使館を焼失させた憎き連中である筈の薩摩や長州の悪行を、問題にしながら、彼ら過激派集団に武器弾薬を販売することを黙視しているのです」

「トーマス・グラバーは商人であり、イギリス政府とは関係ありません。薩長にイギリスの海軍や陸軍が応援するようなことは致しません」

「ならば、グラバーを処分し、イギリス政府として幕府を支援する態度を示して欲しいと思うのだが・・・」

 忠順の何時もに無い激しい言葉に、アーネスト・サトウは圧倒され、何の口答えも出来なかった。そのサトウを忠順は尚も痛めつけた。

「我々、幕府はフランス軍に支援を頼み、薩長と戦うつもりだ。上様が将軍を辞任されても、それは上様の個人的なことであり、徳川幕府は徳川幕府として江戸に存在し続け、日本国を統治する。その旨、パークス公使殿にしかとお伝え願いたい」

「何とフランスと手を組むというのですか?」

「それは御存じの事でしょう。日本国政府は京にあるのではありませんよ。天皇も将軍も関係ありません。江戸幕府の重臣たちの指揮のもとに日本国政府は活動しているのです。アーネスト・サトウ。あなた方はこのことを良く理解しないと、イギリス国家をとんでもない軌道に乗せてしまうことになりますよ」

 アーネスト・サトウは忠順の迫力と威嚇に驚愕した。3ヶ月間、パークス公使と共に江戸を離れていたことはイギリスにとって損失だったのか。いや、そんなことは無い。アーネスト・サトウは言い返した。

「分かってます。私はパークス公使とミットフォード書記官と共に6月21日、横浜を出発し、仙台、函館、新潟、佐渡、七尾、長崎、土佐、阿波、大阪など、日本を一周して、9月18日に江戸に戻り、江戸市中が、薩長による強盗や脅迫、放火に掻き回されているので驚いております。私たちは薩長のやり方に同調いている訳ではありません」

「分かっていただければ、それで良い」

「小栗さんの忠告に感謝します。公使館に帰って、小栗さんの近況をパークス公使に報告し、新しい日本の為に、イギリスから幕府に協力する者を派遣するよう伝えます。小栗さんが困った時は、このサトウ、一肌脱ぎます。何なりと遠慮なく、お申し付け下さい」

「サンキュー、サンキュー!」

 忠順は、付き合いの長いアーネスト・サトウと固く手を握り合った。そのアーネスト・サトウは万が一の時、忠順が強行姿勢に出るのを感じ取った。アーネスト・サトウが帰ってから、また外国人がやって来た。やって来たのは横須賀製鉄所の技術顧問のレオンス・ヴェルニーで、軍艦役、中島三郎助と一緒だった。中島三郎助は、フランスの技術者、ヴェルニーと共に横須賀製鉄所や灯台の建設に協力している、どちらかというと技術者だった。忠順は三郎助に訊いた。

「三郎助。この間、会ったばかりなのに、横須賀で何かあったか」

「今日は別件で参りました」

「何だ。新婚のヴェルニーのことか。それとも建設材料のことか?」

「いえ違います。上様が将軍職を辞任され、横須賀製鉄所の建設が中止になるとの噂を耳にしましたので、それが真実かどうか確認に参りました」

「その事か。上様は上様じゃ。我々の計画を中止にしてなるものか。横須賀製鉄所の建設は、ただ実行するだけだ。その為の材料も滞りなく入荷しているであろう」

「はい」

 忠順が三郎助を睨みつけると、ヴェルニーが片言の日本語で質問して来た。

「小栗さん。将軍は何を考えてるか。私たち将軍の考え分からない。イギリスは薩摩、長州と組んで、幕府を倒そうとしている。シャルル・シャノアン大尉はフランス本国がイギリスの情報に揺り動かされることを心配してるよ。将軍が何の理由で辞任したのか知りたい」

「辞任の理由は将軍職が苦痛になったからであろう。ところでヴェルニー、フランス本国がイギリスの情報に揺り動かされるとは、どういうことか」

「イギリス公使、パークスは薩摩と長州連合が日本国の政権を掌握すると読んでるよ。その読みがフランス本国の江戸幕府との外交政策を変更させるてことね」

「そんな事、させてなるものか」

 忠順の顔が真っ赤になった。ヴェルニーが忠順の怒る顔を見て言った。

「我等がフランス国は我々、技術者だけでなく、軍事顧問団を幕府に派遣し、より優れた幕府の千四百名の若者に幕府軍の指揮者としての立派な教育指導をして上げたよ。今、幕府は歩兵七連隊、騎兵隊二連隊、砲兵隊四連隊の計二万数千人の近代的軍隊を完成させてるよ。薩摩、長州連合と戦っても絶対に勝てる力持ってるよ。このままじっとしていては、幕府は壊滅されるね。戦いに勝って強い幕府を見せつけないといけないよ。早く次の将軍を決めて下さい。それがフランスの願いだよ」

 ヴェルニーの言う通りである。忠順はヴェルニーの手を握り締め頷いた。中島三郎助も頷いた。忠順は思わぬ外国人に励まされ勇気を貰った。

         〇

 小栗忠順は中島三左衛門と山田城之助を部屋に呼んだ。目まぐるしい情勢の変化に対応せねばならない。

「時代は大きく変わろうとしている。大政が奉還された今、徳川の時代も終わろうとしているのかも知れない。我々はこの時代の流れに対処せねばならない。故に我々は今、何をすれば良いか。何を成すべきか。お前たちは今、考えているか」

「はあ?」

 忠順の問いに二人とも唖然とした。幕府の強化、立て直しに奔走し、熱弁を振るって来た忠順が、突然、自分たちを呼んで発した言葉が信じられなかった。

「徳川の時代も終わろうとしているというのは、どういう事ですか?」

「上様が大政奉還を決断されたのであるから、日本国の政令場所は京になろうということだ。つまり愚かな将軍や老中たちが、外様大名たちの罠にはまり、公武合体を行い、京に移ってしまったからだ。その為に徳川の名が消えようとしているということだ。だが日本国家としての政治組織の礎は江戸に構築されており、日本国家の政令場所は、江戸であるべきだと、わしは考えている。従って我々には江戸幕府を改変し、新しい政権を樹立し、薩長を叩き潰すし、日本国をまもるしか道はない。さもないと、日本国は、列強諸国に分割されてしまう」

「ええっ。あいつら、毛唐に支配されるのですか?」

「そういうことも考えられる。だが、一番、恐れていたアメリカも南北戦争の内乱の後始末に夢中で、日本どころではない。薩長に味方する諸侯や列強国もあろうが、我々に味方する列強国もある。しかしながら、我々に味方する列強国は西欧であり、余りにも遠い。故に、フランスやオランダからの支援にも限度がある。それ故に今が江戸幕府改変の絶好の機会であると考える」

 そう言って、忠順の目が輝いた。その眼光は期待と不安の入り交じったような異様な光だった。

「となると、わしらが、今、成すべきことは江戸幕府を変える為の組織作りという事ですか」

「左様じゃ。徳川幕府に代わる新体制を江戸に構築し、その体制下での政治を施行するのじゃ」

「そんなことが、出来るんで御座んしょうか。お武家様たちが簡単に動くとは思われません。どこの殿様も自分の支配地を抱かえ込み、世の中が豊臣時代に逆戻りするだけで御座んしょう」

 城之助の言う通りかも知れない。しかし、諸藩の多くの大名たちは、幕府が朝廷に平身低頭し続けるなど、誰もが望んでいないと思われる。誰もが望んでいるのは、諸外国に対し、威厳をもって対処できる幕府である筈だ。

「時代を豊臣時代に戻してはならない。その為には、お前たちが集めてくれた百姓の次男、三男たちからなる、陸海軍の組織を活用し、幕臣や藩士たちを、その責任者として起用し、国軍の強化を計り、日本国を軍国主義国家として仕立て上げることだ」

「軍国主義国家?」

「そうだ、列強に比肩する軍国主義国家だ。そうなれば武家たちの名誉も保たれ、幕府改変に賛同する者も出て来よう。わしは士農工商といった身分制度に反対である。だが新政府を確立させる為には、一部、旧来の武家責任者の起用も必要であろう」

 これらの事は、小栗忠順が、ここ数年来、考えて来た幕府内改変の移行策であった。三左衛門と城之助は、忠順の言葉に目を丸くした。お殿様は幕府改変を本気になって考えている。三左衛門が質問した。

「殿様は新政府の総裁を誰にしようと、お考えですか?」

「上様をと考えて来たが、京のお好きな上様は適任ではない。京都守護職の松平容保公をお迎えして、総裁になってもらおうと思う。あのお方は、愛国一直線だ」

「殿様と似てますが、将軍が政治を投げ出す国難を目にして、果たして新幕府の総裁をお引き受け下さるであんしょか」

 三左衛門の心配が、三左衛門に言われなくても忠順には分かっていた。松平容保は徳川の威信を背負って京都守護職の任務に精励しているが、命を懸けて迄、新幕府の総裁になってくれるか不明であった。しかし、この国難から日本国を救う為には、何としても、幼帝以外の新しい国家の統率者が必要であった。

「何としてもお引き受けいただけねばならぬ。万、万一、容保公が新幕府の総裁をお引き受け下さらなかったら、その時は総裁選を行い、総裁を決める。そして、わしは、その新総裁と共に日本国を軍国主義国家に仕立て上げ、欧米の列強と比肩する諸外国に威嚇攻撃されない、世界の一等国に成長させる。その為、多くの国民と一緒になり、粉骨砕身努力する」

 忠順の強気で夢のような発言に三左衛門も城之助も感嘆するばかりで、何も口を挟むことが出来なかった。尊敬するお殿様の心は、もう新幕府樹立に向かって走り出してしまっていた。

「ところで、今日、二人を部屋に呼んだのは、わしのこの計画を邪魔する者が必ず出て来る。長年疎外されて来た薩長藩士のような者もいれば、わしに嫉妬羨望する幕臣もおろう。それらの者は、江戸城に格納してある武器弾薬の他、軍資金を奪おうとするであろう。だが、狙われたところで、江戸城の蔵にある武器の数は限られている。問題は軍資金だ。それを今から、移動しておいて欲しいのじゃ」

「例の所でござんすね」

「そうじゃ。少しづつ運ぶのじゃ」

 例の場所とは、妙義山と角落山の金貨込め穴の事である。二人は、それを承知した。それから、三左衛門は『冬木屋』と吉田重吉を利用し、軍資金を権田村に運んだ。城之助は江戸芝居『村井雪之丞一座』を使い、軍資金を島田柳吉のいる横川村へ運んだ。二人とも江戸と上州間の往復が増えた。城之助が利用する『村井雪之丞一座』は江戸の文化と教育を地方に伝播することを名目に集団的に重い荷物を運んで移動することが出来た。荷物の中に軍資金を隠しての移動について、雪之丞だけが承知ていることだった。ところが、その目的が露見しそうになったことがあった。初冬の中仙道の深谷宿を通過しようとする夕暮れ時であった。突然、舞台荷物を運んで移動する一座の前に武士3人とごろつき5人が立ちはだかり、一人の武士が偉そうに言った。

「村井雪之丞。わしは岡部代官、利根吉春様に仕える深谷の役人、入江六右衛門である。江戸からの連絡により、その方たち一座の荷改めを行う。大人しく命令に従え」

「藪から棒に、何のことです。私たち一座は荷改めを受けるようなことは、何もしておりません。誰の命令で荷改めをするのです。それを聞かせてもらわねえことには納得出来ません」

 雪之丞が深谷の役人、入江六右衛門に反抗すると、他の武士が雪之丞を睨みつけて威嚇した。

「わしら二人は江戸の勝安房守様から遣わされた者であるぞ」

「そう言えば察しがつくであろう」

 江戸から来たという二人の武士が鋭い目つきで雪之丞を睨んだ。雪之丞は来る時が来たと思った。注意せねばならぬのは幕府の重臣による小栗家と関係ある者の行動監視であると、中島三左衛門が言っていたが、その通りの事が現実に起きた。それも堂々と勝安房守の家中の者だと名乗って、荷改めをしようというのだ。雪之丞たちが、勘定奉行、小栗忠順の荷物を運搬しているのではないかと疑っての荷改めである。雪之丞と城之助は顔を見合わせた。こうなったら喧嘩になっても荷改めを阻止するしか方法はない。雪之丞が啖呵をきった。

「江戸の泡とかいうアブク野郎の命令か何だか知らんが、きつく縛った荷改めなんて、御免だね。こう見えても天下御免の村井雪之丞。やれるものならやってみな。大怪我をしても知らねえぜ」

 雪之丞が入れ墨の入った右腕の袖をまくり上げて、激しい形相をした。雪之丞の言葉に役人たちは激昂した。

「止むを得ん。その方たちを始末してでも荷改めをするぞ」

「始末するってことは、私たち一座の者を殺すってことですかい」

「そうだ」

「そんなこと止めておくんなせえ。そうとなりゃあ、こっちもあんたらの命を貰うしかねえよ。チャンバラは私たちのお得意の見せ場でさあ」

 雪之丞が、抜刀し、役人たちを威嚇した。芝居一座の竹刀での活劇勝負ではない。真剣勝負である。役人たちもごろつきたちも、抜刀して身構えた。城之助も静かに刀を抜いた。『村井雪之丞一座』に反抗されると思っていなかったのか、入江六右衛門たちは一瞬、たじろいだ。一座の長老、長七が女子供を近くの林に退避させた。芝居一座なので、男衆は相手八人より、三人多かった。清兵衛、源次郎、与八、伊右衛門,安五郎たちもやる気になった。久しぶりに真剣を使用することになった。雪之丞たちは緊張した。城之助は源次郎と与八を従え、江戸から派遣されたという二人の武士を狙った。城之助が芝居一座の荷車に積んでいる荷物箱の中身は幕府の軍資金である。これが露見されれば、勘定奉行、小栗忠順は幕府の貯金横領の罪により切腹することになる。それを覚悟の城之助への依頼である。何としても発覚を阻止しなければならない。城之助は慎重だった。一番先に土地のごろつきが突っ込んで来た。

「てめえらあ、入江様に逆らうんじゃあねえ」

「おっとどっこい」

 雪之丞はっひょいと身体を躱し、ごろつきの小手を斬った。ごろつきは手から刀を落とし、呻きながら小手を庇った。それを見た他のごろつきが雪之丞に襲い掛かった。そのごろつきの肩を城之助の刀が背後から斬り下ろし、血飛沫が上がった。

「ギャーッ!」

 血飛沫を見て誰もが形相を変えた。城之助は薄ら笑いを見せた。自分はこのような時の為にお殿様に雇われているのだ。江戸から来た武士の一人が逆上して城之助に斬りかかって来た。

「宇田伝次郎、お前を始末する」

 城之助は、その上段の構えの刀を正面から元気よく打ち払った。すると宇田伝次郎は後ろにすっころんだ。

「くそっ!」

 それを見て。もう一人の男が城之助の後ろから斬り込んで来た。城之助は、ギョッとして、振り向きながら、左に身を躱した。目の前の目標が突然、消えて男は前につんのめった。城之助はその男の肩を斬って尻を足蹴りした。斬られた男はごろつきたちの中に突っ込み、仲間数人を、手に持った刀で傷付けた。

「熊沢殿。何をしている。斬れっ、斬れっ!」

 入江六右衛門が叫んだ。江戸から来た熊沢兵四郎は、『村井雪之丞一座』が雪之丞はじめ手だれの連中で構成されていることを直ちに知って震えた。その為、入江六右衛門率いる荷改めの役人たちは身の危険を感じ、血だらけの宇田伝次郎や仲間を肩にして、慌てて退散した。あっという間の出来事だった。

「何という、腰抜け連中であることか。こんな連中ばかりじゃあ、薩長を相手に勝てそうにないな」

「薩摩の西郷とやらにペコペコしている軍艦奉行の勝の命令だとか言っていたな。勝は兵庫の操練所を薩長の過激派の連中の隠れ家にして、罷免された問題男だ。そいつが何故、荷改めを?」

「多分、誰かが、小栗様の動きのことを勝アブクに告げ口したのでしょう」

「馬鹿な奴らだ。あんな軍艦奉行の指示を受け、俺たちを追跡するとは」

 雪之丞と城之助の会話を聞いていた与八が言った。

「幕府の同僚の荷物を狙うなんて、ひでえ、奉行がいるものですね」

「うん。勝海舟のような卑怯者をのさばらせておいたら、幕府は薩長に乗っ取られる。何処にも困った奴がいるもんだ」

 城之助は、そう言って笑った。一行は、それから、その先の倉賀野で一泊し、翌朝、横川村に向かった。

         〇

 11月1日、山田城之助が江戸に戻って来た。小栗忠順は、その城之助から深谷宿で岡部代官、利根吉春の部下の入江六右衛門と勝海舟の家来、宇田と熊沢と名乗る者に襲撃されたことの報告を聞いた。忠順は、それを聞き、目を吊り上げて怒った。

「安房守には困ったものだ。わしらに笑われたことを根に持っている小さな男じゃ」

「何を笑われたというので御座んすか?」

「うん。アメリカに『咸臨丸』で出かけた時の話じゃ。途中、海が荒れてな。あいつは船長なのに、船底でゲェゲェやって、ガタガタ震えていたらしいんだ。それをブルック大尉や、木村軍艦奉行がわしに告げ口したものであるから、一緒にいた福沢諭吉たちに笑われてな。わしも困ったよ」

「なんとまあ、役立たずの男ですねえ」

「それに安房守はアメリカに行ったと自慢しているが、サンフランシスコに行っただけで、それ以外のワシントンやニューヨークまで行っておらず、わしに引け目を抱いているのさ。簡単に言えば、わしが邪魔なのさ」

「そんな奴を放っておいて良いのですかい」

「うん。早川仙五郎と猿谷千恵蔵の薩摩藩調査報告によると、薩摩藩士、益満休之介、伊牟田尚平らが安房守と密会しているという。多分、薩摩の西郷吉之助との情報交換であろう」

「それは問題じゃあありませんか。老中様に報告した方が良いのでは?」

「告げ口は嫌いじゃ」

 城之助はお殿様らしいと思った。だが、忠順は城之助が思う程、甘くは無かった。薩長との戦争を念頭に、11月4日、『御用役金』一ヶ年分、金千四百五十一両を勘定所に納め、幕臣に、危機感と幕府への忠誠心を示した。また直ぐに勝海舟対策の手を考えた。11月5日、忠順が整備させた築地の軍艦操練所にイギリスのリチャード・トレシー海軍中佐が12人の士官、下士官を連れてやって来た。忠順はこの軍事顧問団と連携させる為、勝海舟に海軍伝習担当を命じた。海舟は忠順に命令される覚えは無いと立腹したが、今や江戸城中では何事にも恐れず、前向きに行動する猛烈な勘定奉行には逆らえなかった。その為、海軍伝習に専念せねばならず、薩摩との交流は難渋を極めた。この頃、京では慶喜は茫然と朝廷の次の沙汰を待っていた。その沙汰についての裏工作は、大納言、山中忠能、岩倉具視、後藤象二郎、西郷吉之助、大久保一蔵らによって計画されていた。それは行政法規の発布と新政府の人事案だった。後藤象二郎は、これら検討内容を秘かに慶喜の家臣、永井尚志の役宅を訪れて報告していた。その報告によると政府人事は三条実美を議長とし、徳川慶喜を副議長にし、岩倉具視ら公卿と雄藩の藩主を議奏にし、西郷吉之助、桂小五郎や後藤象二郎たちを参議とするという人事案だった。永井は成程と思った。それから永井は松平春嶽の家臣、三岡八郎から耳にしていたことを象二郎に確認した。

「殿から聞いたのだが、『大政奉還策』は坂本龍馬が発案者らしいな」

「いや。もともとの発案者は大久保一翁殿で、土佐の建白案はわしが考えたものじゃ」

「そうですか。そりゃあそうでしょうな。勝安房守の下で、軍艦操練をしていた奴に、あんな立派な建白書をまとめられる筈などありませんものな」

 永井が笑うと象二郎も笑った。だが象二郎の心の中は複雑だった。このままだと坂本龍馬が『大政奉還策』舞台の主役となってしまう。土佐藩の頭脳は自分一人でなければならぬ。象二郎は、その翌日、岩倉具視の屋敷に呼ばれ、薩摩の大久保一蔵と共に今後の事についての相談を受けた。岩倉具視は大政奉還を済ませ、残務整理らしき事をしている徳川慶喜を何としても誅伐するのだと、仲間を増やし、着々と、その機会を狙っていた。岩倉にとって、慶喜は公武合体の努力を踏みにじり、自分らを朝廷から排斥した張本人であり、今や京にあってはならない憎き存在であった。大政奉還により機は熟した。土佐藩が提出した建白書により、慶喜が愚かにも将軍職を辞任したことにより、幕府はあって無きが如くのものとなりつつあり、世の中は無政府状態であるといえた。だが江戸にはしっかりした幕府重臣たちがいる。小笠原長行、松平乗謨、稲葉正巳、小栗忠順、栗本鋤雲。彼らを排斥しない限り、朝廷政権を確立させることは出来ない。その為には江戸幕府と一戦を交え、勝利する事が必須条件であると岩倉は考えていた。5年間の慶喜への恨みは岩倉具視を狂人にさせていた。

「わしは公武合体こそ、日本国の将来を平安に導くものと考えて来たが、現実は、慶喜の回し者により、その理想は叩き潰されてしまった。大政奉還しても徳川幕府が残っているのでは、世の中は変わらない。結論は徳川幕府そのものを解体し、抹消しない限り、王政復古の夢を叶えることが出来ないということだ。何としても討幕を実行せねばならぬ」

「ですが、残念なことに、我が藩の坂本龍馬が、新政府の首領に慶喜公を据えようと、伊予や福井を跳び回っております。このままですと、多分、慶喜公が新政府の総裁となり、結局、幕府中心の政権国家が継続するだけです」

 後藤象二郎が、自らと同じ土佐藩士、坂本龍馬の行動を問題だと苦悩した顔で指摘した。それを聞いた大久保一蔵が怒った。

「それはまずい。坂本龍馬の説得により、春嶽公や宗城公が徳川を政府の首領に選んだら、平和裡のうちに天皇親政を装った幕府政治が継続してしまうことになる。坂本龍馬の行動を何とかしないと」

「後藤さん。坂本を説得出来んか」

「説得してみます」

 象二郎の答えは弱弱しく自信なさそうだった。その象二郎の顔を見てとった一蔵が言った。

「説得したところで坂本は承知すまい。坂本は朝廷と幕府の融和を希望している男だ」

 確かに坂本龍馬という男は、幕府の構造を修正させながら平和的に国際的な日本の新政府を成立させようと、薩長と幕府と公家たちの間を走り回っているが、このことは、現在の具視にとっては、決して喜ばしいこととは思われ無かった。

「確かに土佐藩の提案は、かってわしが考えた公武合体の踏襲であり、理想であるが、幕臣が政権を手放そうとしない限り、王政復古は不可能だ。目的の為には手段を選ばず、大胆に強行突破せねば、ことは成就出来ない。討幕中止の為に奔走し、我々の出鼻をくじく坂本の奴こそは、、慶喜より先に死んでもらわねばならぬ男だ」

 一蔵は岩倉具視の発言が信じられなかった。

「しかし、坂本は薩長同盟を成立させた男であり、幕臣、勝海舟とも親しく、我々の要人です。我々の手で地下に葬ることは出来ません」

「そんなことは分かっている。龍馬は今、大政奉還させたことで、有頂天であり、日夜、新政府計画について同志らと語り合い、我々にも相談に来ている。それをうまく利用するのじゃ。『京都見廻組』や『新選組』の連中に、長州の連中との謀議の場所を教え、彼らに坂本を抹殺させるのが、知恵者というものではあるまいか」

「そういえば、最近、『新選組』を離脱した御陵衛士がおります。その連中を利用しましょう」

 一蔵が具視に答えた。具視は象二郎と一蔵を見詰め、冷たく笑った。坂本龍馬暗殺は、この時に決定した。一蔵は海援隊と親しい吉井友実を通じ、坂本龍馬が、京都河原町の『近江屋』にいることを突き止め、その情報を御陵衛士に流し、乞食を使って『京都見廻組』に密告した。坂本龍馬の所在を知った『京都見廻組』の組頭、佐々木唯三郎以下6人は直ちに『近江屋』に押しかけ、坂本龍馬とそこに居合わせた中岡慎太郎を襲撃した。事件を知り、土佐の石田英吉らが『近江屋』に駆け付けた時には、龍馬は既に冷たくなって死んでいた。慎太郎は石田英吉らの看病を受け、一時、回復したかに見えたが、17日の夕刻に帰らぬ人となった。死の寸前、慎太郎が香川敬之に、息も絶え絶えに依頼した。

「王政復古の実行は、岩倉卿にしか出来ない。岩倉卿を支えて欲しい」

 何と皮肉なことか。龍馬も新太郎も、自分たちの殺害指示者が誰であるかを知らずに、この世から消された。

         〇

 小栗忠順に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町の近江屋新助方にて暗殺された事が知らされたのは11月20日過ぎのことであった。神田橋外の陸軍本部で陸軍隊長、大鳥圭介が忠順に言った。

「小栗様。勝様の弟子、坂本龍馬という者が、『京都見廻組』の者に殺されたのを、知っておられますか?」

 それを聞いて、忠順は、びっくりした。坂本龍馬は時々、噂に聞いていた開国派の土佐藩士ということだった。かって江戸の福井藩邸で見たことのある土佐の風変りな男だ。

「大鳥隊長。それは本当か。何故、奴が殺されなければならなかったのか」

「坂本が『京都見廻組』に殺されたのは事実のようです。フランス顧問団の報告によれば、薩長の連中が薩長を裏切ろうとして活動していた坂本の所在を密告し、幕府の者に暗殺させたとのことです。暗殺命令は薩長で、薩長同盟を成立させた坂本が、薩長にとって邪魔になったようです」

「複雑だな」

 忠順の頭の中は混乱した。薩摩の西郷吉之助や長州の桂小五郎に守られている筈の坂本龍馬を薩長の誰が襲わせたのであろう。忠順は坂本龍馬の思想を知るだけに彼の死を残念に思った。

「このままでは、日本国は坂本龍馬のような有能な若者を失うばかりである。薩長は近く必ず幕府に戦いを仕掛けて来るであろう。フランス顧問団のシャノアン大尉やブリュネ大尉の助言に従い、その前に、江戸から大阪へ幕府軍を出兵させるべきかもしれんな」

「しかし、小栗様。上様はじっとしていろとの一点張りで、京阪への派兵を禁じられておられます。上様の命令に背くことは出来ません」

「そんなことを言っていたら日本国は薩長の所有物になってしまうぞ。榎本武揚は既にわしの命令に従い、『開陽丸』他、四隻の艦隊を指揮して、大阪に向かい、海上待機している。いずれ陸上軍も何とかせねばならない。『京都見廻組』や『新選組』の数だけでは、押し寄せる薩長軍を抑えきる事が出来ない。大政奉還が為された今、守るべきは京阪駐留の上様と幕府兵である。早急に上様に援軍を送り、朝廷に近づこうとする薩長軍を追い払うことである。それが、我々の今、なすべきことだと思うが」

 一刻も猶予は許されない。忠順は陸軍隊長、大鳥圭介に出兵の準備に取り掛かるよう命じた。大鳥圭介は忠順の扇動に同調同意した。

「分かりました。大阪城の板倉様も江戸城の小笠原様も、新政府の閣僚を検討中だという上様に反論出来ず、江戸からの援軍を出そうとしませんが、小栗様の言う通り、このままだと幕府の命取りの原因になりかねません。長州の軍備は私の知る村田蔵六が取りまとめております。彼は好きなように兵器を集め、戦いに備えています。彼の軍事能力は抜群です。油断していると危険です。何とか老中方を説得し、陸軍の出番を作りましょう」

 大鳥圭介は、海軍の榎本武揚と共に幕府の為に戦う意欲を忠順に語った。忠順は江戸城に上がり、京阪や江戸での治安の乱れと、大政奉還後の不穏な様子を老中、小笠原長行に京阪への派兵を具申した。

「そうは言っても上様は朝廷が新体制を検討中なので、派兵などするなと申されておられる」

 小笠原長行ははっきりしなかった。忠順は長州征伐で失敗して以来、消極的になっている長行を口説いた。

「そこを何とかしませんと、徳川幕府が終わることになります。我々が今まで心血を注いで築いて来たものが無になってしまうのです。京への派兵の命令を出して下さい」

「そう言われても困る。上様の了解無しに出兵は出来ぬ」

「それは江戸幕府の老中として、余りにも無責任では御座りませぬか。ならば別の方法を考えるしかありませんな」

 忠順はそう言って長行を睨んだ。忠順の剣幕に長行は忠順を恐ろしく思った。このままでは、自分が押し留めようとしても、忠順は京へ兵を向けるであろう。忠順の自分に向けた眼光に、出兵の炎が燃えているのが、明確に読み取れた。忠順は老中の了解が得られないまま陸軍本部に戻り、大鳥圭介と話し合った。

「大鳥隊長。老中を説得したが、彼らは派兵の命令を出してくれない。どう口説いても、賛同してくれぬ。緊迫している危機感に対する配慮が全く欠落している。こうなったら、わしと大鳥隊長で腹を決め、出兵するしかあるまい」

「小笠原様は、どうしても賛同して下さいませんか」

「うん。これ以上、説得しても無駄じゃ。京都守護職の松平容保様に命令を出していただくのが理想であるが、それには策略と時間がかかる。わしらで出兵を決めよう」

 忠順が大鳥圭介に迫ったが、ことは重大事。慎重な大鳥は躊躇した。

「京の会津藩に早馬を飛ばしましょう。松平容保様に書状を届け、派兵命令を頂戴するのが正道です。二人で決めるには、事が重大すぎます。それまでに出兵の準備を整えておきますから・・・」

 忠順は大鳥陸軍隊長の案に同意した。京都守護職、松平容保宛ての書状をその場で書き上げ、大鳥に確認させて上で、京へ早馬を走らせた。それから陸軍本部の幹部を集め、京、大阪の情勢を説明し、京都派兵についての具体策を練った。用意周到に努めるよう心掛けることが、自分の役目であると忠順は思った。しかし、松平容保からの返事も〈暫く待て!〉という内容で、一向に幕府滅亡の危機が迫っていることなど、理解していなかった。その頃、岩倉具視は大久保一蔵、後藤象二郎などと行政法規と新政府人事をほぼ完成させていた。政府の体制は総裁、議定、参与の下に七科を置く『三職七科制』と決めた。人事は人柄が良くて、ちょっと頭の悪い有栖川熾仁親王を政事総裁とし、議長職に小松宮彰仁親王を選び、その他、中山前大納言、中御門経之、三条実愛などを置き、それに土佐の山内容堂、福井の松平春嶽、薩摩の島津茂久、宇和島の伊達宗城や自分たちを加えた。そして、徳川幕府に『辞官納地』を要求する法規を定めた。この『辞官納地』は幕府の領地を朝廷に返納させ、徳川慶喜や幕臣たちを平民に追い落とし、無一文の浪人にしてしまおうという狡知な策謀であった。それに合わせるように薩摩の西郷吉之助や長州の品川弥二郎が軍兵を連れて京に入って来た。幕府に激しい敵意を抱く品川弥二郎は京の風景を眺め、西郷に言った。

「慶喜は今や弱気になっている。彼を誅伐する絶好の機会が到来したと言えよう。慶喜を殺してしまえば我が国の政治は我等、薩長の思う通りになる。これを機に、岩倉卿を盛り立て、朝廷を揺さぶり、政権の総てを我等の手中にしようではないか」

「その通りでごわす。四年前、おいどんは幕府軍の総参謀として、軍艦奉行の勝先生に初めてお会いし、長州征伐に対する幕府の弱腰を責めたが、勝先生は、長州を攻撃するのは国家の損失だと言って戦おうとしなかった。龍馬に長州征伐を止められておられたのかのう。それとも本当に弱腰なのかのう」

「江戸の奴らは皆、弱腰だと、今年の春に亡くなった高杉さんが言っていた。高杉さんや久坂さんの仇を討つ為には、この好機を逃してはならん。薩摩と長州、それに土佐が呼応してくれれば怖い者無しじゃ」

「あの時、勝先生は、幕府の土台は腐っており、公武合体などでは無く、イギリスと同じような天皇君主制による天皇中心の政府を樹立すべきだと、おいどんに説明した。おいどんの考えは、あの時から変わった。今やその目的の為に討幕の機運が盛り上がり、新政府の構想が固まりつつある。勝先生は蔭でおいどんたちに味方してくれる筈である。こんな心強いことはなか。慶喜を誅伐し、岩倉卿の案に従い、一気に王政復古に持ち込もうではないか」

 西郷は少し興奮して品川弥二郎に言った。弥二郎も興奮していた。この際、今まで味わって来た長州の屈辱を、幕府に倍返ししてやる。

「その通りじゃ。勝安房守は可愛がっていた坂本龍馬を『京都見廻組』の連中に殺され、幕府のやる事、成す事に立腹している。今なら今まで以上に我らの味方に抱き込めるに違いない」

「問題は小栗上野介でごわす。貴奴はフランスの協力を得て、何事にも積極的でごわす。旗本八万騎の中の一番手強い忠義一途の英傑であると、龍馬が言ったっとでごわす」

「村田蔵六殿も小栗の軍艦整備や新兵器等の軍備の情報を緒方洪庵の『適塾』仲間、大鳥圭介から聞き、恐るべしと言っている。貴奴を何とかせねば・・・」

 京に集まった薩長の連中は倒幕について思い思いの事を語った。イギリス公使、ハリー・パークスも、この時分、アーネスト・サトウと共に来阪していた。兵庫港が貿易港として正式に開港する祝賀パーティが来月早々、開催されるという理由での来阪であったが、京に於ける政治情勢把握の為でもあった。パークス公使はこの状況では何時、幕府と薩長の戦いが始まっても不思議ではないと感じた。もし、戦さが始まった場合、フランス、オランダ、アメリカなどが、どう動くか逸早く知る為であった。自分たちイギリスは基本的に薩長の応援をしているが、万一、小栗忠順が、陸軍を引き連れ上洛して来た場合、情勢が不利になる可能性がある。大政を奉還し静止している徳川慶喜が、小栗の派兵により、突然、変身し、薩長や朝廷に兵を向けるかも知れない。小栗の派遣する軍隊はフランス軍事顧問団の指導による最新鋭軍備をもって、イギリスの支援する薩長軍を壊滅させるかも知れない。その場合、イギリスはどう立ち回るべきか、緊急変更路線を考えておく必要がある。小栗は積極的だ。既に大阪の海上には榎本武揚の率いる『開陽丸』の他、四隻の軍艦が今か今かと、機会を窺がっている。幕府軍は万一のことを考え、打てる手を打っている。まともに衝突したら、薩長が負けるのは明白である。パークス公使は不安の日々を、アーネスト・サトウと大阪で過ごした。一方、小栗忠順は、月末に横浜に出かけ、栗本鋤雲や息子の忠道と薩長との戦争が勃発した時の対処方法について話し合った。そして疲れて神田駿河台の屋敷に戻ると、母、邦子と妻、道子が待ってましたと忠順を出迎えた。何時もと違う様子に忠順は目をパチクリさせた。部屋に落ち着くと、母が満面の笑みを浮かべて言った。

「剛太郎、おめでとう」

「母上。何か良い事でもお有りでしたか?」

 忠順が質問すると、道子が畳に手を突いて声を詰まらせながら忠順に言った。

「今日、浅岡芳庵先生の所に伺いましたら、おめでたとのことです」

「えっ、本当か。嘘じゃないだろうな」

「芳庵先生が、見立てを間違う筈など御座いません。嬉しいです」

「そうだよな。道子、でかしたぞ」

 忠順は、そう言って、道子の身体を観察した。そう言えば少し下腹部が大きくなっているように見えた。すると母、邦子が、忠順にささやいた。

「名前は何てしましようかね」

「母上。それはまだ早いですよ」

「早くなどありません。今の内から考えておいて下さい」

「なら母上の邦の一字をいただきましょう。男の子であれば忠邦で、どうです」

「女の子であれば、私と一緒。可笑しいわね」

 三人は、喜びの笑いを溢れさせた。忠順は母、邦子と妻、道子の願い通り、自分の子が授かったかと思うと嬉しくてならなかった。生まれて来る子供の為にも、尚も一層、励まねばと思った。

         〇

 12月1日、岩倉具視は左大臣、二条斉敬を辞任に追いやった大儀、中山忠能、中御門経之、三条実愛ら公家たちと大久保一蔵、西郷吉之助、品川弥二郎ら薩長連合の面々を集め、『王政復古』の大号令発布策について秘かに話し合った。そして12月8日、大儀、中山忠能の指示により、明治天皇は一年前に御薨御なされた孝明天皇の恩赦ということで、岩倉具視、三条実美、久我建道、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、ら公家の官位を復するともに、連座して蟄居中の身であった者たちが朝議に参加出来る道を作った。また長州藩主親子の朝敵赦免と官位復旧も実行し、朝廷を自分たちのものにしてしまった。幼少の明治天皇は、外祖父、中山忠能に総てを任せており、そのことについて何の意見を出すことも無かった。ただ岩倉具視ら過激な公家たちのなすがままになり、一日にして朝廷内は薩長が牛耳る所となってしまった。このことは密使により、土佐、安芸、越前、尾張の四藩に通達され、夕刻、雄藩の代表が御所の小会議室に集まって、『王政復古』の事前会議を行うことになった。会議冒頭、大儀、中山忠能が言った。

「今夕、ここに集っていただいた方々は徳川幕府が大政奉還した後の朝廷の政務を速やかに実行してもらわねばならない閣僚であることを自覚していただきたい。この会議は王政の基本案を定める会議であり、無私公平をもって基本案を正式なものにまとめていただきたい。では議題に沿って始めます」

 中山忠能は、岩倉具視らと打合せた『王政復古』の大号令内容について、説明した。

1,本日、恩赦された対象者名。

2,王政復古の発令式次第。

3,新政府の『三職七科制』制度。

4,新政府の人事。

5,幕府への『辞官納地』要求。

6,禁裏御守備担当。

 この人事発表の中に、徳川慶喜の名は無かった。これについて誰も何も言わなかった。中山忠能は明日、、この案で、公卿、諸藩の者を集めて、『王政復古』の大号令を発布するので、よろしくとの協力を求めた。この時点で、薩摩を含む5藩の兵が、会津、桑名に代わって御所の九門の警備につくことになった。御所の外では薩摩藩士、西郷吉之助たちが長州の品川弥二郎たちと既に会津と桑名の警備兵に交代することを告げていた。会津、桑名兵は、勅命により、宮門の警備が他藩に変わったと聞き、それを疑ったが、越前、芸州、尾張、土佐の兵が同じ理由で押し寄せて来たので、二条城へ引き上げた。会議を終えて、土佐藩邸に戻った後藤象二郎は、遅い時刻であったが、山内容堂の宿所を訪れ、本日の御所での中山忠能の報告を行った。すると、容堂は真っ赤になって象二郎の怒鳴った。

「象二郎。そなたは、その内容を黙って聞いて来たのか。『三職七科制』だと。わしらの建白した『上下二院制』は何処へいっちまったのだ。慶喜殿の名が何処にも無いとはおかしい。その上、『辞官納地』だと。長年、幕府が施して来た恩顧を朝廷も諸藩も認めようとしないのか。それは間違っている。この役立たず。顔も見たく無い。とっとと帰れ」

 怒った容堂に象二郎の取り付く島も無かった。象二郎は慌てて逃げ帰った。翌12月9日、京都御所は薩摩、越前、芸州、尾張、土佐の兵に、がっちり固められていた。会津、桑名の兵は、激昂しつつつも、続々と都入りして来る他藩の兵を眺めているしか方法がなかった。そんな中、明治天皇臨御の下、御所内学問所において、『王政復古』の大号令が発せられた。この大号令を受け、突然、岩倉具視が現れ、幕府廃止と摂関政治の廃止の上奏文を読み上げた。ここで摂政、二条斉敬は退席し、次の総裁、議定、参与が任命された。この場の諸侯の出席者は松平春嶽、徳川慶勝、浅野茂勲の三人だけだった。島津久光は脚気の病状で帰国していたので出席しなかった。山内容堂は、二日酔いでの欠席だった。夕方からは小御所で、その新任重役を集めての第一回、御前会議が開かれた。会議は天皇の御前に、総裁、有栖川熾仁親王、議定、仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、三条実愛、中御門経之、島津茂久、徳川慶勝、浅野茂勲、松平春嶽、山内容堂及び参議、岩倉具視、大原重徳、万里小路博房と雄藩の藩士、各三名が列席し、開始された。まず、有栖川総裁が挨拶した。

「只今から新政府代表による朝議を行います。では配布の書面に従い会議を進めます。まずは徳川内大臣の辞職と徳川家領の朝廷への返納についての処置について議論しましょう」

 有栖川総裁がそう言って議事に入ると直ぐに、山内容堂が、大声で言った。

「お待ち下され。この会議に今まで朝廷を守護して来られた功績のある徳川慶喜殿の出席が無いのは問題で御座らんか。何故なのか納得がいかない。王政による新政府を開始する為に大政奉還した最大の功労者は慶喜殿でござるぞ。そのことを忘れてもらっては困る」

 すると大原重徳が反発して言った。

「慶喜殿が大政を奉還したからといって、果たしてそれが真実の皇室への忠誠心から出たものかどうか、分かりません。しばらくは朝議から外すべきであると思いますが」

「慶喜殿は我が土佐藩の建白書にある貴族院と民衆院により大政を議決する新政府の方針と理想に感銘し、大政奉還を決断されたのである。なのに忠誠心が無いだと」

「そうではないですか。勅命を無視し、開港を進め、尊王の志士を殺すなど、これまで犯して来た徳川の罪は大きいですぞ」

「徳川の将軍みずからが上洛してまでして、皇室の守備をなされて来られた実績を忠誠心が無いと申されるのか。将軍が京に駐在して来られたのは挙国一致して国難に対処する為で御座る。それなのに攘夷派の天誅騒動や外国人殺害、公使館の放火、長州藩の外国船砲撃などの乱暴を働く、賊軍の方が正しいというのか。間違っている」

 容堂の発言に有栖川総裁は、困惑した。どうしたら良いのか。有栖川総裁が中山忠能に目をやると、忠能が容堂に言った。

「容堂殿。ここは御前でありますぞ。酒に酔っての暴言、許されませんぞ」

「酔っているから申すのじゃ。今日のこの会議は二、三の公卿が幼帝を擁して権力を盗まんとする野望の会議であって、まともな公平な会議ではない。幕府の守備隊を京から追い出し、薩摩、長州、越前などの兵で御所を囲んでの、会議のやり方は余りにも陰険すぎると思わないか」

「容堂殿。慎まれよ。不敬でありますぞ」

「そう言わず、良く聞け。更に言わせてもらえば、この『三職七科制』の会議は土佐藩の建白書と全く違っているではないか。八百年前の藤原時代へ逆戻りだぞ。こんな政治のやり方で、諸外国と肩を並べてやって行けると思うのか」

 容堂の酒を借りた火の出るような怒りは、会議を進めようとする有栖川総裁や中山忠能を追い詰めた。それを見て、松平春嶽が言った。

「初めから、怒鳴り合いをしていたのでは、会議になりません。一時休憩と致しましょう」

 この春嶽の言葉に中山忠能たちは救われた。休憩中、岩倉具視は土佐の後藤象二郎に、容堂公を何とかせいと命じた。象二郎は岩倉に命じられ、容堂を説得した。

「容堂様の徳川への思い、先程の会議で、皆、知った筈です。今、肝要なことは、新政府の第一回、御前会議を無事に終わらせることです。次回から徐々に容堂様の案を取り入れ、新政府の基礎を築いて行けば良いではありませんか」

 信頼する象二郎の言葉に、容堂は意欲を失い、岩倉具視の『辞官納地』を求める意見にも、沈黙した。その頃、慶喜は何時、呼び出しがあるかも知れないと、二条城の部屋でじっと結果を待っていた。翌10日朝、福井の松平春嶽と尾張の徳川慶勝が昨夜の朝議の結果を伝えに二条城を訪問した。慶喜は素直に議決の報告を受け、了解した。在京の老中、板倉勝静は意識朦朧とした顔をして、春嶽を見詰めた。春嶽は諭すように言った。

「取敢えず、今回の勅命に逆らうことなく、忠誠を示されるがよい。『辞官納地』は、まだ先のことであるから、何とかなろう」

 松平春嶽と徳川慶勝が昨夜の朝議報告を終えて帰って行くと、城中に充満している幕府や会津、桑名の兵は、早くも事情を察知し、薩長と開戦をすべきだと叫び始めた。慶喜は暴発を恐れ、外にいる者すべてを城内に入れ、城門を閉ざした。それは入京して来る薩摩や長州勢との一戦を避ける為であった。慶喜は思った。

「これ以上、京にいるのは危ない」

 その京から去ろうとする慶喜の心の動揺を、前京都守護職の会津藩主、松平容保は危惧した。このままでは長年、京都を守護して来た自分たちの努力が水の泡になってしまう。こんなことになるなら、大政奉還などしなければ良かったのだ。徳川幕府は公武合体などといった薩長や土佐の陰謀にはまってしまったのだ。松平容保は慶喜に進言した。

「こうなったら、京の薩長の兵を皆殺しにし、江戸から幕府軍を大挙、京に呼び寄せ、京を幕府の占領下にするしか方法がありません」

 すると慶喜は反対した。

「余の気持ちを分かってくれ。ここで薩長の挑発に乗って内乱になれば、幕府は朝敵にされる。我慢するのじゃ。妄動はならぬ」

「とはいえ、こんなにも二条城に兵を駐屯させていては、何時、不測の事が起きるか分かりません」

「では大阪へ戻ろう」

 容保は簡単に都落ちを決断する慶喜の変心に困惑した。容保はこの状況を江戸に知らせた。その慶喜は12月12日の夜、幕臣や会津、桑名藩兵を率いて京を脱出し、大阪城に向かった。夜の無灯火での大阪への移動をしながら、慶喜はふと夜空の星を眺め小栗上野介の顔を思い浮かべた。京で火遊びして直ぐにお戻り下さいと言われたのに、5年も京で過ごしてしまった。あの時、何故、直ぐに帰らなかったのか。翌13日、慶喜は大阪城に入ると、この京での王政復古の結果を反省した。だが大阪城にいた幕臣たちは、上様は大阪城を本拠とし、京に布陣する薩長をはじめとする外様藩連合と決戦するつもりであろうと想像した。12月14日、慶喜はフランス公使、ロッシュを大阪城に招いた。それを知ったイギリスの公使、パークスも強引に割り込んで来た。慶喜は両公使に大政奉還以降の経緯を述べ、不正政権の否認の要請をし、両公使の意見を求めた。両公使とも内戦を避け、互いに無傷であることが国益であると答えた。だが慶喜は納得しなかった。16日、慶喜はイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、オランダ、プロシアの六ヶ国の代表と会見し、日本国の正統政府は依然として江戸の徳川幕府であると説明し、新政府との対立姿勢を明確にした。その後、前京都守護職、松平容保と前京都所司代、松平定敬と打合せし、江戸からの援軍が来阪するまで、時間を稼ぎ、如何なる嫌がらせを受けても、その挑発に乗らぬよう確認し合った。また江戸の小栗忠順から、〈戦さは東照公様に倣い、垂井に陣を敷き、関ヶ原で戦われたし。それが勝利の秘訣と存じ候〉と文が届いたが慶喜は無視した。

         〇

 京で『王政復古』の大号令が発せられ、前将軍、徳川慶喜が『辞官納地』を迫られ、大阪まで退いたことが、12月17日、江戸城に届いた。この知らせを聞いて、江戸は大混乱となり、江戸の老中や若年寄たちが落着くよう説得しても、幕臣たちは激昂し、すみやかに薩長を叩き潰すべきだと叫んだ。水野忠徳は小笠原長行に迫った。

「この上は、大軍を率いて、関ヶ原で戦うしか道はありません」

「兎に角、大阪からの指示があるまで、隠忍自重することが、徳川を守ることだ」

「このようなことになる事は分かり切っていたのでは、御座らんか。幼帝を利用し、上様を愚弄する、朝廷や薩摩の悪辣な行為を許すことは出来ない」

「あれ程、京への派兵を申し出ていたのに、何故、拒否されたのか」

「今からでも遅くない。悪辣公卿と薩長を討つべし」

 京での政変の内容を知った幕臣たちは薩長連合の謀略に激怒したが、それは後の祭りであった。武力を使わず公武合体の中で新政府をまとめようとしていた革命家たちにとって、愚かで恐るべき相手では無かった。恐るべきは幕府の軍事力、資金力、外交力を掌握している小栗忠順の存在であった。彼に欠落しているところと言えば、身分上、老中にまで昇進出来ていないことであった。もし彼が京にいて将軍の傍で総ての指揮を執っていたなら、『王政復古』のクーデターは起こらなかったであろう。しかし、京にいたのは慶喜の他、老中、板倉勝静、大給乗謨、大河内正質、大目付、戸川忠愛、設楽能棟、若年寄、塚原昌義、滝川具挙ら、慶喜一任主義の連中ばかりであった。これに対し、江戸にいる小栗忠順たち行動派は直ちに動いた。大鳥圭介に命令し、京への出兵と兵庫港に待機する榎本武揚率いる幕府艦隊に戦闘準備にはいるよう伝令を飛ばした。応援として横須賀軍港の中島三郎助を榎本のもとへ派遣した。また江戸に潜入して来ている密偵を江戸から追放し、幕府の情報が、薩長方に漏洩しないよう、厳戒態勢を敷いた。更にフランス顧問団のブリュネ大尉と話合い、顧問団兵とフランス軍艦の援助を、フランス公使、ロッシュに要請した。かかる幕府内が京へ出兵するかどうかで騒いでいる時、正体不明の賊徒が市中を横行し、豪商から金品を奪うなどの狼藉を働き、暴れまくった。その江戸市中を荒らす賊徒が、薩摩藩と日向佐土原藩と土佐藩からなる過激派集団であることが判明した。賊徒は薩摩藩邸を根城に関東各地を襲撃して回った。それを『新徴組』はただ見ている訳にはいかなかった。12月20日の夜、三田の薩摩藩邸の裏門から金品を強奪する為、鉄砲や槍などを持って武装して出て来た50名程の賊徒を、『新徴組』が取り囲んだ。

「御用、御用!」

 『新徴組』兵士が御用盗一味を捕らえようとすると、彼ら賊徒は入り乱れて抵抗して、散り散りになって逃亡した。逃亡した過激派集団は負傷者を出し、その復讐の為、12月22に日の深夜、『新徴組』の赤羽橋屯所を30人程で襲撃発砲し、復讐を果たし、薩摩藩邸に逃げ込んだ。その為、屯所内にいた数人が死傷した。更に翌23日の夜明け前、江戸城二の丸が薩摩藩の仕業によって炎上した。また庄内藩の屯所にも賊徒により復讐の鉄砲が撃ち込まれ、使用人一名が死亡した。知らせを聞いた出羽庄内藩の留守居役、松平親懐は激怒し、薩摩藩にはびこる伊牟田尚平、中村勇吉、相楽総三ら賊徒を捕らえる為、薩摩藩邸討入りさせてくれと迫った。

「これほど薩摩の連中に狼藉を働かれても尚、我慢せいと申されるなら、庄内藩としては、只今より、江戸市中見回りの任を辞退させていただきます」

 これには老中たちも困りかねた。思案の結果、老中、稲葉正邦は江戸市中の治安を乱す、薩摩系浪士を捕縛する為、薩摩藩邸、佐土原藩邸の襲撃を承認した。そして12月25日、幕府は庄内藩の石原倉右衛門を戦闘指揮者に選び、上ノ山、鯖江、岩槻などの諸藩及び『新徴組』などの応援を得て薩摩藩邸、佐土原藩邸を包囲させた。まずは庄内藩士、安倍藤蔵が単身、藩邸に訪問して、薩摩藩の留守居役、篠崎彦十郎を呼び、賊徒を一人残らず引き渡すよう交渉した。すると篠崎は打ち笑って返事した。

「渡せる筈が無かろう。とっとと帰られよ」

 篠崎彦十郎は帰ろうとしない安倍藤蔵を藩邸のくぐり戸から押し出した。その見送る篠崎を振り返り、安倍が言った。

「最早、手切れとなりました」

 それを機に、庄内藩をはじめとする幕府勢が一斉に討入りを決行した。びっくりして逃げる篠崎彦十郎を庄内藩兵が、真っ先に槍で突き殺した。篠崎の叫びで、討入りに気づいた薩摩藩邸の者や潜んでいた過激派浪士たちが、屋敷から跳び出して来た。薩摩藩士たちは藩邸に突入して来た幕府勢を迎撃って奮戦した。だが抵抗しても、多勢に無勢、勝てる筈が無かった。敵わぬと思った過激派浪士たちは藩邸に火を放った。その火災に紛れて、相楽総三、伊牟田尚平らが、品川に停泊する薩摩藩の運搬船『翔鳳丸』に乗って逃亡した。この焼き討ちにより、薩摩藩と幕府の戦闘は避けられなくなった。この江戸での薩摩屋敷襲撃焼失事件が大阪に達したのは12月28日で、その様子を聞いた幕臣たちは在阪の連中は臆病だと言われてはならぬと、燃え上がった。幕臣旗本はもとより、会津、桑名の兵の胸にも火が付いた。

「上様。もうこれ以上、部下の叫びを抑えることは出来ません。奸賊薩摩を討ちましょう。討たせて下さい」

 会津藩主、松平容保の言葉に慶喜の戦意は決まった。

「よし討とう」

 慶喜は、そう答えたものの、自分に問い続けた。開戦して、また薩長の謀略にかかってしまうのではないか。が事態は個人の思いなど乗り越えて前進する一方だった。幕府の最も有力な艦隊は摂海にあり、最新式の武器を装備して訓練せられたる幕府陸軍は満を持して、関ヶ原へ行軍を開始した。間近に迫る新年、幕府の英傑、小栗忠順に対抗する者は西郷吉之助か桂小五郎か、果たして村田蔵六か。戦雲渦巻く晦日となった。

         〇

 慶應4年(1888年)正月元日、東照公、徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開いてから、二百六十五年に亘って続いて来た幕府は最大の危機を迎えようとしていた。それまでの日本国幕府の外交路線は鎖国に始まり、時にはオランダや朝鮮と交流し、時にはロシア、アメリカと接触し、揺れ動きながら進んで来た。それが今や諸外国の諸制度、文化文明が津浪のように押し寄せ、国内政治に大きな影響を与えようとしていた。その時代の変化を考え、弟、清水昭武や若者たちを欧州に留学させ、外国の知識を吸収させようと、柔軟性をもつて対処して来た徳川慶喜は、徳川政権転覆を狙う、薩長ら外様藩の戦略によって、まさに潰されようとしていた。皇室を抱き込み、嘘と力で押切ろうとする反幕府の暗い原動力は、まさに日本国を亡国の危機に招こうとしていた。その餌食を列強国が待っているのを分かってはいるが、幕府に味方するフランスのロッシュ公使を信じ、徳川慶喜は『討薩表』を起草した。

〈臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事態を恐察するに、決して朝廷の御真意にはあらず、松平修理太夫とその奸臣等の陰謀より出でたることは、天下の共に知るところなり。殊に賊徒が江戸、長崎、野州、相州に於いて乱暴し、強盗に及べるは、同家の家来の唱道より、東西饗応して皇国を乱するの所業なること、明白なり。これ天人共に憎むところなれば前文の奸臣ども御渡しあるやうの御沙汰を賜りたし。万一、御採用なくば止むを得ず誅殺を加え申すべし。此の段、謹んで奏聞し奉る〉

 それは12月9日に作られた新政権を認めることは出来ない。朝廷は政治を12月9日以前に復帰させ、列藩会議に戻す政治体制に修正すべきである。その為に旧徳川政権は誤った朝議を構築したこれら不正の奸臣に誅伐を加えるという内容のものであった。そして慶喜は、2日、老中格、大河内正質を総督と決め、若年寄、塚原昌義を副総督とし、その『討薩表』を掲げ、一万五千の兵を大阪から京に向かって出発させた。幕府軍は淀で二手に分かれた。一つは会津藩兵を先鋒とする本隊で、伏見街道を京へ向かい、もう一つは桑名藩兵を先鋒とする別動隊で、鳥羽街道から京へ向かった。この動きを知り、薩長側は震撼した。新政府内に動揺する者が現れた。前将軍、徳川慶喜を怒らせてしまい朝廷内は混乱した。公卿たちは協議した。この戦さがすこぶる不利であることは明白であった。協議の結果、朝廷は、この戦さを徳川の兵と薩長の兵の私闘とみなすことにした。幕府軍と薩長軍が衝突したのは、1月3日のことであった。

「勅命により、入京する」

 幕府軍の先鋒、大目付、滝川具挙が佐々木只三郎の率いる『見廻組』に護衛され、『討薩表』を持って、前進して来るのを薩摩兵らは阻止出来ず、突然、発砲した。この発砲により、鳥羽伏見の戦いが始まった。相互に待ってましたとばかり、砲撃を開始した。幕府軍は会津兵が中心となり奮戦した。『新選組』や『見廻組』も決死隊となって頑張った。ところが『討薩表』の所持者、滝川具挙が、敵の砲撃の激しさにびっくりし、馬で遁走した為、幕府軍の指揮に混乱が生じた。会津藩の大砲奉行、林権助などは、白刃で敵陣に突入し、砲火で顔を焼かれながらも戦った。しかし、槍や刀といった旧式武器を使う幕府軍と新式武器を使う薩長軍とでは戦さに大差があった。幕府軍は人数が多かったが、京都の守護をしていた兵が多く、鉄砲などを、ほとんどの者が所持していなかった。鉄砲攻撃され、幕府軍は時間と共に後退し、死傷者が続出した。とはいえ大阪港では榎本武揚らの率いる幕府の軍艦『開陽丸』、『富士山丸』、『蟠竜丸』と輸送船『翔鶴丸』が、薩摩の汽船『春日丸』、『平運丸』、『翔鳳丸』を追い払い、相手方の補給を阻止し、大阪をがっちり守っていた。その夜、朝廷では、有栖川宮熾仁親王、中山忠能、三条実美、岩倉具視らが緊急会議を行い、仁和寺宮喜彰親王を軍事総裁に任じ、徳川と薩長との私闘が薩長に有利に働き、好転が見られた場合、直ちに軍事総裁が征夷大将軍として、徳川慶喜追討に踏み切ることを決定した。言うまでも無く、このことは岩倉具視ら討幕派の望む、慶喜を朝敵とする企てであった。岩倉具視らは、この日の為に昨年、岩倉の腹心、玉松操のデザインを元に西陣で織らせた錦の御旗を作成していた。4日、前日の戦況を知った朝廷は仁和寺宮喜彰親王を官軍の将軍として、徳川慶喜追討を決定した。仁和寺宮喜彰親王は征夷大将軍として天皇から錦の御旗と節刀を賜った。この日から幕府軍は錦の御旗を掲げられ、朝敵とされてしまった。幕府軍の兵士は錦の御旗を見せられた上に、薩長軍の激しい銃撃を受け、浮足立った。だが勇敢に戦う者もいた。会津藩士、佐川官兵衛は敵軍の正面に立ち、ひるむ味方を叱咤激励し、阿修羅の形相で、全軍進撃の号令を下した。その鼓舞する指揮は素晴らしかった。

「敵の数は我等より少ない。弾薬が尽きれば彼らは逃走する。かすり傷など、気にするな。進め、進め!」

 銃弾に傷つき、鮮血を浴びながらも、敵陣に向かう佐川官兵衛の凄まじい闘志は、味方を奮い立たせ、幕府軍は反撃に移った。薩長軍は、それを見て逆に慌て始めた。5日、慶喜は佐川官兵衛の戦功を称賛し、彼を伏見口に結集した幕府軍の軍事総督に任命した。また、江戸の小栗忠順から、幕府陸軍を関ヶ原に向かわせたので、在京軍を関ヶ原に移動されるよう進言があった。だが、慶喜は関ヶ原は過去の夢であり、戦場は京であると、戦場移動をしなかった。慶喜は大阪城の将兵に宣言した。

「皆の者、良く聞け。先鋒隊の苦戦が伝えられているが、皆、良く健闘している。前戦で頑張っているのは、会津、桑名と『京都見廻組』と『新選組』で編成された先鋒隊の少数である。この大阪には幕府、会津、桑名の兵はもとより、江戸から送り込まれた来る二万有余名の精鋭たちが集結することになる。今は苦戦していても、必ずや勝機は訪れる。それを信じ、この大阪城を拠点として死にもの狂いで戦え。明日は余、自らも出馬し陣頭に立って采配を振るう。よって直ちに部隊長の命令に従い、その行動に移れ」

 慶喜の決意を聞き、前部隊兵が狂喜興奮し、士気が盛り上がり、俄然、反撃態勢に入った。老中、板倉勝静も、大目付の永井尚志も、この慶喜の勇みように燃え上がった。ところが、血をにじませた負傷兵が帰って来るのを目にすると、慶喜は出馬を踏み止まった。諸有司、諸隊長らが慶喜に要請した。

「一刻も早き御出馬を」

 しかし慶喜は5日も6日も動かなかった。津、伊勢、彦根、岡山などの藩が寝返ったと聞き、今後、どうすれば良いか幕閣を集め相談した。会津藩主、松平容保、桑名藩主、松平定敬、老中の板倉勝静と酒井忠惇、大目付の永井尚志と戸川安愛、目付の榎本道章、外国奉行の山口直毅と高畠五郎、医師、戸塚文海らを前に慶喜は言った。

「余らがこうして討議している作戦内容を城内に潜む敵の間者に聞かれる恐れがある。場所を天保山沖の海上に移して作戦を決めよう」

 幕閣は最もな事だと、秘かに夜の二条城を脱出し、小舟に乗って淀川を下り、天保山沖へ向かった。船の灯りを頼りに横付けした船は、何と、アメリカの軍艦だった。アメリカ軍艦の艦長はびっくりしたが、中立的立場であったので、一同を艦長室に招いて休息させてくれた。夜が明けると、幕府の最新鋭艦『開陽丸』の所在が分かり、慶喜たちはアメリカの艦長に礼を言って、『開陽丸』に乗り移った。そこには艦長、榎本武揚は留守だった。これからどう戦うか、昨夕、二条城に向かい、慶喜たちと入れ違いになっていた。榎本武揚は矢田堀景蔵と共に大阪城に入城し、幕府陸軍と関ヶ原作戦の打合せを行い、桑名藩兵士を桑名に移送する計画でいた。ところが、肝心な慶喜が不在なので、城内にいた勘定奉行、小野友五郎に訊くと、友五郎が泣きそうな顔をして、武揚に答えた。

「どうも夜逃げされたようです。新門辰五郎の娘、お芳の姿も見えません」

「そうか。上様は小栗様や我々の戦略に賛同せず、縁起の悪い豊臣の城などにいるから、負け戦さとなるのだ。一時も早く、幕府兵や、『新選組』の連中を船に乗せて、江戸へ戻ろう」

 榎本武揚は小野友五郎と共に大阪城内の鉄砲、刀剣、軍資金18万両などを、天保山沖の軍艦と輸送船に乗せる打合せに入った。その頃、海上にいる慶喜は『開陽丸』の副艦長、沢太郎左衛門に命令した。

「江戸へ帰る。直ぐに艦を出せ」

「艦長が不在です。艦長が戻るまで、艦を動かすことは出来ません」

「何を言うか。余の命令であるぞ」

 副艦長、沢太郎左衛門は慶喜に怒鳴られ、止む無く艦長、榎本武揚を置去りにしたまま『開陽丸』を出航させた。それから慶喜は艦長室に戻り、打合せをしている老中、板倉勝静、酒井忠惇、永井尚志、松平容保、松平定敬らに言った。

「余は江戸へ帰るぞ」

「ええっ!」

 一同は驚いた。敵攻略の作戦を論議している時に、何を申されるか。一同の顔が蒼白になった。大阪から江戸に逃亡するということか。誰もが、それに反対だった。慶喜の心変わりに、一同は唖然とし、松平容保と定敬の兄弟は直ちに大阪城に引き返そうとしたが、まわりは海であり、既に『開陽丸』は白波をけって走り出していた。結果、首脳無しの幕府軍は、それ以後、士気が低下し、全軍総崩れとなり、悲運の道を辿る事とならざるを得なかった。

         〇

 そうとは知らず、江戸の老中、小笠原長行、稲葉正邦、松平乗謨らと小栗忠順は、慶喜が男らしく立上り、薩長を叩き潰す日を江戸で夢に見ていた。あの勇ましい松平容保、定敬兄弟が一つになり、関ヶ原に移動し、幕府陸軍の大鳥圭介たちと合流し、陰謀に陰謀を重ねる薩長を政権の座から排斥するであろうと期待した。だが忠順は用心深かった。家臣の塚本真彦に命じた。

「あの優柔不断の上様が、『討薩表』を作成し、行動を開始されたことは、感動するばかりである。推定するに、京にいる薩長の兵は多く見ても五千名程度に過ぎない。この度、江戸から派遣する兵の数は、薩長の3倍、1万五千余名である。故にこの戦いは短期間で終わるであろうが、もし終わらぬとすれば、それはイギリスやアメリカが薩長に味方した時である。彼らがイギリスやアメリカの近代兵器を使用し、幕府軍に対抗し、幕府軍がモタモタしていたら、迷い出す藩も出て来ようし、逃亡する兵も出て、寝返る藩が出て来る可能性がある。いずれにせよ京の状況を、正確に把握しておく必要がある。その詳細を把握する為、密偵を京に送り込め」

「このような御指示があろうかと既に京に密偵を潜伏させております。碓氷生まれの早川仙五郎は霧積風魔の流れでの忍者であり、甘楽生まれの天野八郎は、もとは農家育ちですが、剣の達人です。二人は動乱の中をかいくぐり必ずや重要情報を送ってよこすでありましょう」

「左様か。流石、真彦じゃ。やることが早いのう」

「殿様の御指導によるものです」

 小栗家の用人、塚本真彦は真面目な顔をして答えた。忠順にとって満足のいく配慮であった。幕府の重臣たちの報告などというものは、上層部に上がって来るまで紆余曲折があり、真実を伝えぬ場合が多い。真実を把握する為には自分と直結した情報者が必要なのだ。忠順は中島三左衛門にも確認した。

「三左衛門の方はどうじゃ。計画はうまく進めてくれているか」

「藤七さんが大工に命じ、屋敷の方はほぼ完成に近い状況になっております。武器や軍資金は新井信五郎親分と城之助が、全部、各洞窟に分納し、埋め戻しし終え、分からぬようにしております」

 三左衛門は小栗家の知行地である権田村の状況を説明した。忠順は先の先を読む男であった。京での戦禍が、万一、江戸にも波及して来た場合のことを考え、知行地、上州権田村に安全地帯を築かせていた。あの薩摩藩屋敷に潜んでいた相良総三、伊牟田尚平、鯉渕四郎ら凶暴な連中が、まだ関東の何処かに潜んでいるのではないかと思うと気が気でなかった。八州取締役、渋谷和四郎、木村喜蔵、宮内左右平らに、相良総三らを探し出させ処罰するように命じてあるが、一向に彼ら一味を逮捕出来る様子は無かった。忠順は薩摩屋敷を焼き払い逃亡した連中を何としても捕らえなければ気が済まなかった。

「真彦や三左衛門の努力、この忠順、心から感謝している。厚く礼を申す。ところで心配なのは、昨年来、江戸に潜伏し、悪事を働いた相良総三ら凶悪犯一味である。彼らは強盗、放火、殺人を行い大胆にも、江戸城二の丸に火を放った大悪党である。何としても捕らえねばならぬ。江戸奉行は勿論のこと、八州取締出役にも命じてあるが、もし見つけたなら、城之助や千恵蔵を使って逮捕させよ。逆らったなら殺しても構わぬ。彼らにウロチョロされては、江戸を守るわしら、幕臣の面目が丸潰れじゃ。よろしく頼む」

「分かりました。早速、城之助と千恵蔵に伝えましょう」

 塚本真彦と中島三左衛門に、そんな命令を下してから、忠順は荒川祐蔵が部屋に持って来たばかりの文を読んだ。大阪にいる榎本武揚からの便りであった。その文を読み終え、忠順は三人に言った。

「喜べ。榎本武揚からの朗報じゃ。江戸から薩摩の船『翔陽丸』に乗って逃げた狼藉も者を追って大阪まで追跡した幕府海軍は大阪で榎本の指揮する『開陽丸』と『蟠竜丸』の二艦で、薩摩の『翔陽丸』に砲撃を加えたそうだ。それに驚いた『翔陽丸』は兵庫港に逃げたという。2日、『開陽丸』は『蟠竜丸』と共に兵庫港に行き、逃げようとする薩摩藩の『平運丸』、『翔陽丸』、『春日丸』に空砲で停船命令を出したそうじゃ。そしたら、薩摩の連中はそれに応ぜず、榎本は『平運丸』に実弾砲撃を加え、逃げる『翔陽丸』、『春日丸』を追い、4日、阿波沖で『翔陽丸』と『春日丸」を相手に海戦を行い、『翔陽丸』を由岐浦に座礁させ勝利という。我等、幕府艦隊は、今や無敵じゃ。海上を制覇した榎本は、鳥羽伏見の戦さが始まったので、天保山沖に幕府艦隊を停泊させ、これから、大阪に上陸し、上様と、関ヶ原での作戦会議に臨むという。全くもって頼もしい男じゃ」

 だが塚本真彦は密偵、早川仙五郎からの昨夜の便りで、鳥羽伏見の戦さが、思わしくないと知らされていたので、不安だった。江戸からの援軍が充分でないうちに交戦に入ったことは、行きがかり上、仕方ないことであるが、不安だった。このことは忠順にとっても同じことであった。榎本の報告に喜んでみたものの、心の何処かに慶喜に対する疑念があった。慶喜の優柔不断さと豹変は、忠順の好むところでは無かった。他人の意見を聞かず、自分よがりの計算を行い、演技が多過ぎて、未来志向一直線の忠順とは基本的に肌が合わなかった。忠順は真彦に言った。

「とはいえ、海軍は頑張っているようだが、どうも大阪城の動向が、今一つ掴めない。在京兵士を引き連れ関ヶ原に移動するよう上様に文を送ったのだが、榎本の便りからすると、上様はまだ大阪におられるようじゃ。本来なら鳥羽伏見の戦さを終わらせ、今や桑名か垂井におられる筈。なのに未だに本隊が大阪城にあるとは。まさか上様が敵の砲撃に腰を抜かし、再び弱気になり、大阪城内から身動き出来ぬ状態でいるのではあるまいか。真彦。早川仙五郎と天野八郎に使者を送り、実態を調べよ」

 忠順の命令を受け、塚本真彦は、即日、京へ塚越富五郎と佐藤銀十郎を送った。

         〇

 1月11日の夜、小栗屋敷に、明日午前、登城されたいとの幕府からの伝言があった。小栗忠順は12日、何時ものように馬に乗り登城した。すると珍しく海軍伝習掛の勝海舟が、登城していて、忠順に近寄って来て言った。

「上様が『開陽丸』で、お戻りになられた」

「それは真実で御座るか」

「嘘を言って何になる。わしが、今朝、浜海軍所にお迎えに参った」

「それは御苦労で御座った」

 忠順は勝海舟に軽く頭を下げると、直ぐに御用部屋に押しかけ、そこで、小笠原長行、稲葉正邦らに京での経緯を説明している板倉勝静、松平容保、定敬を目にした。信じ難いことであった。忠順は会話する中に割り込んだ。

「どういうことですか?」

 忠順の質問に、誰も押し黙って口を開かなかった。忠順は久しぶりに見る老中、板倉勝静にに迫った。

「上様がお戻りになられたとは、一体、どういうことですか」

 板倉勝静は忠順の顔を恐る恐る見て、答えた。

「津藩や淀藩などの裏切りにより薩長軍に大敗した」

「大敗したなどと信じられません。上様は何処です?」

「上様は只今、大奥に帰城の御挨拶に出向かれている。お戻りになられたら、御前会議開くことになろう。薩摩の陰謀によって、幕府は朝敵にされてしまった」

 勝静が泣きそうな顔になった。だが同情して涙を流している場合では無かった。総大将が、自分たちの意見も聞かず、関ヶ原に移動せず、大阪から、敵と戦っている幕府の将兵を残して、逃亡して来たのである。残された幕府の将兵たちはどうしているであろうか。前将軍、徳川慶喜の逃亡を知って、今頃、散り散りばらばらになり、江戸を目指して、逃げ道を探し、血眼になって逃亡しているに違いない。忠順は慶喜が欠席で構わぬから早急に幕閣会議を開くようよう要請した。そこで老中たちは仕方なく幕府重臣三十人程を集めて会議を開いた。忠順は、その席で質問した。

「会津公様、桑名公様にお伺いしたい。お二人は、江戸からの関ヶ原への移動の要請を何故、実行されなかったので御座るか」

「関ヶ原への移動?」

 忠順の質問に松平容保、定敬兄弟は、キョトンとした顔をした。二人には慶喜に江戸から提出した関ヶ原作戦計画が届いていなかった様である。

「大阪港と神戸港を榎本武揚らの率いる幕府海軍とフランス海軍が守備し、フランス軍事顧問団のシャノアン大尉らの応援を受けた幕府陸軍が陸路を関ヶ原に向う幕府の京都包囲網作戦を、御存じ無かったというのですか」

「そのようなこと、上様からは何も」

「私の配下からの報告によれば、それに気づいた土佐の容堂公も薩土同盟を破棄して、在京の諸藩と一致協力し、幕府に加勢をしようかと考え始めておられたという話です。状況は完全に幕府有利であった筈です。海上も、逢坂の関も幕府が制し、薩摩と長州は袋の鼠になり、降参する寸前だったとの話です。なのに何故、上様は?」

 忠順の説明を聞いて、松平容保は、他人に指図されることを嫌う慶喜の悪い性癖が、自分たちに江戸からの作戦を伝えなかったのだと知った。だが慶喜を庇うしか無かった。

「戦況は貴公の言うような簡単なものでは無かった。薩長軍は鉄砲隊を主力として、槍や刀を持った幕府軍とは勢いが違った。人数は多いが決して幕府軍有利では無かった。淀や津の裏切りにより、惨敗を重ねた。神保修理の報告により、上様を江戸に御引上げ願おうということになり、うっかり後の事も考えず、上様と『開陽丸』に同乗してしまった。何と弁解して良いやら」

「両公は残された兵士たちが主を失い失望することについて、何も考えなかったのか?」

 小笠原長行に問われ、松平定敬は身震いして答えた。

「神保修理の手筈により、上様と『開陽丸』で作戦会議を行うからと言われて、『開陽丸』に乗船したのが失敗でした」

「船上の会議で、上様が突然、江戸に帰るのでついて来いと申されましたものですから」

 小笠原長行は、この時とばかり、過去を思い出して言った。

「天下の将軍ともあろう上様が、敵を前に逃げ帰るとは情けなや。将軍が我慢して大阪にいて、我等、江戸からの援軍を待って、四方から京の薩長軍を挟撃したなら、必ず勝利出来た筈。天下の名城である大阪城を放棄して、江戸まで戻って来るとは、全くもって、そうさせた在阪の重臣方の考えが理解出来ない」

 江戸城にいて次から次への派兵計画を立てていた老中や重臣たちは、元京都守護職、松平容保らの話を聞いて、激怒したが、後の祭り。在京老中であった板倉勝静も、何の言葉も無く、その日は疲れ切った帰還者たちを、これ以上、責めても何にもならないと、会議を取り止めにした。慶喜は、その日、忠順たちの前に、姿を見せなかった。深夜、慶喜は、自分が将軍で無くなったのに、江戸城にいる不可解な気味悪い気分に襲われた。ここにいては何の解決にも至らないと、陰鬱な怯えと孤独に悩まされ続けた。恐ろしくて眠れなかった。将軍職に就いてから一度も宿泊したことのない城だった。翌13日、慶喜は会議に出席し、まず帰城してからのことを話した。

「余は昨日、前将軍、家茂様の夫人、静覚院宮様に御挨拶に伺ったが朝敵になったということで、面会出来なかった。仕方なく前々将軍、家定様の夫人、天璋院様にお会いし、鳥羽伏見の戦さに至った経緯と余の心境を語った。余は錦の御旗を掲げて追われるような朝敵で無いと、ひたすら訴えた。すると天璋院様は天璋院様の出身地、薩摩の島津を説得し、京の朝廷に嘆願書を提出して上げるから、抗戦などせず、ひたすら恭順するようにと仰せられた。余は、天璋院様のお言葉に従い、天璋院様に恭順を約束した。よって皆も余に倣い、たすらに恭順し、賊臭を消し、時の流れに身を任せよ。江戸城での整理が終えたら余は隠居する。後の事は皆に任す」

 慶喜は喋り終えると、その場から退席しようとした。ここでもまた逃亡しようとされるのか。忠順は幕閣が唖然とする中、慶喜に向かって声を上げた。

「上様。お待ち下され。この御前会議は上様がおられて初めて成り立つ会議であります。この先、戦うのか降伏するかを決める会議です。上様個人としては恭順も良かろうかと思いますが、徳川幕府としては、それでは済みません。上様が五年間も江戸におられず、上様をお持ちしていた江戸の幕臣たちの気持ちを察して下さい」

 忠順の言葉を聞いて、慶喜は、ドキリとした。額に冷汗が浮かんだ。この男の言う事を訊いて置けば良かったのか。反省しても、もう遅い。

「分かった」

「恐れ入ります」

 それから小笠原長行を中心に、会議に入った。軍艦奉行、木村喜毅が、再確認した。

「沢副艦長に訊く。昨日の報告だと、『開陽丸』の艦長、榎本武揚を残して、東帰されたのことであるが、大阪港の他の軍艦は大丈夫なのか」

 その質問に『開陽丸』の副艦長、沢太郎左衛門が答えた。

「はい。『富士山丸』、『蟠竜丸』などがおりますので、大阪は大丈夫です。兵庫港もイギリス、フランス、アメリカの艦船が緊急事態に備えて待機しておりますので安心です」

 だが、現実は、違っていた。榎本武揚は西周助、小野友五郎らと、江戸への引き上げ中であり、兵庫では、イギリス公使、パークスが、イギリス兵やアメリカ海兵隊やフランス水兵らを集めて、薩長軍に従う備前藩兵を攻撃していた。それを知らぬ木村喜毅は納得した。

「そうか。海軍はまだ大阪、兵庫を守っているのだな」

「ならば陸軍も、更に後続部隊を送るべきです」

「そうだ、そうだ。予定通り、陸軍を関ヶ原に投入し、東照公様が徳川幕府の基を築いた如く、獅子奮迅の攻撃をして、薩長軍を木っ端微塵にし、徳川幕府による太平の世を継続させるべきだ」

 その盛り上がる幕臣たちに、慶喜は困惑した。自分は天璋院様に京への嘆願書提出を依頼し、恭順を約束してしまっている。目の前の幕臣たちは、京阪の周囲に幕府軍を配置し、即刻、開戦出来る状態になっている。だが恭順を約束してしまった以上、何としても戦闘を阻止せねばならない。

「一同、静かにせい。余は本日の会議の最初に、ひたすら恭順すべきであると伝えた筈じゃ。開戦しても、朝敵となっては勝てぬ。錦の御旗を掲げる薩長の謀略の手にかかったことは情けないが、今は朝廷の派遣軍に対し、ひたすら無抵抗の姿勢を示すしかない。じっと我慢し、この難局を乗り越えれば朝敵では無くなる。幕臭を消し、時の長れに身を任せよ」

「そうは申されても、まだ徳川幕府存続の為に、血を流して戦っている勇士が大勢いるのです。幕府軍の陸海軍兵士が持てる命一切を徳川に捧げ、徳川に報いんとして戦っているのです。彼らが抱いている必勝の信念を微動だにさせてはなりません。攻めて攻めて攻めまくるのです。攻撃せずして勝利はありません」

 小栗忠順は慶喜の恭順に反対した。徳川幕府、いや日本国の為に今まで努力して来たことが、これでは水泡に帰してしまう。旗本の家に生まれ、幼い頃から徳川家への忠誠心を植え付けられて来た自分としては、ここで弱気になっている慶喜を、何としても説得せねばならないと思った。だが慶喜も強情だった。

「上野介の申す気持ちは分からぬではないが、もはや遅い。余は恭順を京へ申し出てしまっている。ただひたすら、じっとしているだけじゃ」

「私は上様のお考えに反対です。上様は徳川二百六十五年の平和を守って来られた幕府の筆頭であり、日本国を牽引して行かねばならに御方です。皇室を抱き込んだ薩長の陰謀を恐れていては、好機を逸してしまいます。悪質な薩長が政権を独占するようなことになれば我が国は異国の脅威に苦しむことになりましょう。お考え直し下さい」

「先程も申した通り、余は江戸へ帰る船上で恭順すべきであると考えた。江戸城で御留守されておられる静寛院宮様、天璋院様は自分の御育ちになられた皇室や薩摩への幕府軍の攻撃を望んではおられないと・・・」

 慶喜は、そう言って溜息をついた。すると、若年寄、石川総管が、昨日の会議でも問題になった会津藩主と桑名藩主が何故、京阪から離れることになったのかの再確認を行った。

「私はそもそも、何故、会津公様と桑名公様が持ち場を離れ、艦上の人になられたのか、その理由が知りたいです。理由を御聞かせ下さい」

 すると元京都守護職、松平容保が、昨日より落ち着いて答えた。

「昨日も話したように、戦況は薩長軍の最新兵器攻撃により、不利そのものであった。それに加え身近の淀藩や津藩の裏切りにより、我々の作戦が筒抜けになってしまっていた。よって海上で上様と秘密会議を行い、上様が諸情勢を考察され、江戸に帰ると決断された。関東に戻って、諸藩を結集させ、薩長との同盟軍を撃破する為の交戦準備の意志であると理解した。板倉様も了解なされた。しかしながら、今、振り返って、我等兄弟は、自分たちの将士を捨てて帰ったような結果になり、深く反省している」

「ならば、再び西に向かって遠征される御意志は御座いましょうか」

「勿論ある」

 松平容保は悠然と答えた。その雄々しさに多くの幕臣が感激した。慶喜は面白く無かった。これでは恭順しようにも恭順することが出来ないではないか。慶喜は愕然とした。幕閣たちは再び自分を持ち上げようとしている。もう持ち上げられるのはうんざりだ。慶喜は瞑目して幕臣たちの抗戦賛成論と反対論を、しばらく聞いてから、皆に言った。

「余が感じるに、皆の意見は内戦賛成と反対とに二分している。内戦は薩長の思う壺である。皆、良く考えよ。今日は、疲れた。余はこれからゆっくり冷静になって考える故、皆も深く検討し、明日の会議に出席せよ。今日は解散とする」

 慶喜は、そう言って立ち上がると、幕閣が唖然とするうちに、上段の間から奥へと、まるで芝居の花道を引上げて行くように消えた。

         〇

 1月14日、再び御前会議が開かれた。この時、江戸には慶喜追討の勅旨が下り、江戸へ逃亡した慶喜を追って、薩長軍が日和見の諸候を仲間に加え、新政府軍として有栖川宮熾仁親王を東征大総督として江戸へ向かって出発することが知らされていた。事態を知った前将軍、家茂夫人、静寛院宮は江戸城が攻撃されることを恐れ、慶喜が嫌いであったが侍女、錦小路を通じ、慶喜に会い、慶喜の謹慎を条件に、天皇に慶喜赦免と江戸攻撃中止の嘆願書を提出することを約束した。慶喜はその約束をいただいて安堵して会議に出席した。一同が席に着くと、板倉勝静が慶喜に頭を下げて言った。

「まずは上様より、只今のお考えをお話し願ます」

 すると慶喜は胸を張って皆に向かった。

「あれから余は、何の為の公武合体であったかを考えた。何故、朝廷に五年間も仕えて来た自分に向けて朝廷から追討の勅旨が下されたのか、理解出来なかった。そこで静寛院宮様に質問した。余は徹底恭順を示すべきか、徹底抗戦すべきかを。すると静寛院宮様は余が亡き家茂様と同じ尊王の心の持ち主であったことを知り、余に同情し、朝廷への嘆願を出す事を引き受けてくれた。その為に余はひたすら恭順を貫くことを心に決めたので、不満はあろうが、皆も余に従ってくれと伝える」

 それが慶喜にとって生き残りの道であった。すると老中、小笠原長行が発言した。

「それはよろしくありません。朝廷に長年お仕えして来たにも関わらず、幕府が朝敵となり、『辞官納地』を行うなど、あってはなりません。必死になって徳川に尽くして来た幕臣たちを、路頭に迷わせるようなことをしてはなりません」

「堪えてくれ。これは余が国内の混乱を拡大させぬ為に考えに考えを重ねた策じゃ」

 慶喜の言葉に、今度は小栗忠順が反発した。

「それが英明な上様の考えに考えを重ねた策とは信じられません。『辞官納地』を行うということは、徳川幕府を捨てるということです。ならば恭順などせず、次の策を考えるべきです。幕府を無くすなら、皇室も無くし、日本国の政治を天皇制から大統領制に移行すべきです。幕藩体制を解体し、郡県体制にすべきです。さすれば、諸藩は力を失い、大統領主導による政治を行うことが出来ます」

「何を言うか。皇室を無くすなど、身内に恨まれるわ」

「徳川を捨てるのですから、異存など無いのでは御座いませんか」

 忠順が慶喜に食って掛かると、老中、板倉勝静が諫めた。

「上野介。言葉が過ぎるぞ」

「ははーっ」

 忠順が頭を深く下げたところに、大阪から江戸に戻って来た若年寄、平山敬忠、軍艦長、榎本武揚らが会議席に加わり、発言した。

「平山敬忠、上様に申し上げます。何故、上様は我々に黙って江戸に引き上げたので御座いますか。私はフランスのロッシュ公使に叱られました。何故、自分たちが、兵庫や大阪の海上守備に協力しているのに、江戸に去られたのかと。私はロッシュ公使に、その返事をしなければなりません。現在、フランス顧問団のブリューネ大尉、エドワルド・メスロー中尉らは幕府陸軍を率い、尾張まで行き、待機しております。彼らに早急に正確な指示を与えませんと、とんでもない事になります」

「陸軍は、そこまで進軍しておるのか」

「はい。その通りです」

「そうか。ならば直ちに江戸に戻せ」

「ええっ。戻すのですか?」

「そうじや。余は恭順することに決めた」

 大阪から軍艦『富士山丸』に乗って帰って来た重臣たちは驚いた。榎本武揚は、ちょっとカッとなったが、一呼吸おいて意見を言った。

「沢副艦長の軍規違反については、後刻、問うとして、それがしが大阪に上陸した時の戦況を語れば、薩摩、長州連合と会津、桑名を中心とした幕府軍の戦さは、甲乙つけがたい状況であり、朝廷も相当に動揺しているという実情だった。諸藩は薩摩、長州組と会津、桑名組の私闘ということで、鳥羽、伏見の戦さを傍観していた。戦場の状況からすれば、後押しの無い薩長軍が潰れるのは時間の問題であった。しかし、幕府軍は何を見誤ったのか、諸藩が寝返ったと早合点し、関ヶ原への移動も考えず、大阪城を捨ててしまった。それがしが、大阪城に登城した時、城内は数人の武将だけのもぬけの殻で、統率者不在の状況であった。気力を失った幕府軍の連中が右往左往、戸惑っていた。それら幕府軍の連中を立ち直らせる為、それがしらは大阪城にあった武器や軍資金と『新選組』を含む幕臣たちを『富士山丸』などに乗せて、尾張に移動した。尾張に移動し、彼らの気力は復活した。またそこにいたフランス軍事顧問団も、大阪からの情報で、足止めしているが、徹底抗戦すべきだと言っている。まだ幕府軍に勝利の道はある。薩長の陰謀に屈するなど、あってはなりません」

 すると、それを制するように勝海舟が言上した。

「上様。今やこのように京阪から江戸に幕府の閣僚が戻られたのですから、戦さをしても勝ち目はありません。錦の御旗が出た以上、恭順の道を選ぶべきです。土佐の乾退助からの情報によれば、朝廷と雄藩連合で政治を行う計画で、総てが進んでおり、もはや幕府の出番は何処にも無いとのことで御座います。逆らえば朝敵として、江戸を火の海にすると言っております。上様の仰せられる恭順の道が、江戸庶民を救う為にも正しい道かと存じますが」

 慶喜は頷いたが、小笠原長行は納得しなかった。

「どうやら我らは薩摩だけでなく、土佐の罠にも掛かったようだな」

「土佐が、罠だなどと」

「そうではないか。土佐が『大政奉還策』などという建白書を出してから、世の中の動きが逆回りを始めたのだ。勝安房。お前が付き合っている土佐の連中は、逆賊ぞ!」

「ほう、私は左様な事を申される小笠原様の考えを御理解することが出来ません。何故なら、上様や板倉様も土佐の山内容堂様と頻繁にお会いしていたのですから。幕府の皆で、土佐の罠にはまったということですか」

 勝海舟が、そう言うと、小栗忠順が海舟を睨みつけた。

「そうか。読めたぞ。こうなれば薩長土福を相手に戦い、朝廷を奪取し、京から薩長土福の兵を追放し、中山忠能、岩倉具視ら悪辣非道の公家たちを誅伐し、政権を江戸に取り戻すしかない。榎本艦長の言う通り、幕府は海軍はもとより、陸軍も敵以上の戦力を持っている。諸藩諸侯、皆々方が一致協力して敵に立ち向かうならば、幕府軍は決して負けることは無い。関ヶ原戦を止めるなら、敵を駿河の箱根伊豆に迎え入れ、駿河湾の海上から軍艦にて敵軍を砲撃し、相模、甲州より陸軍を大挙して送り込み、大砲や最新銃で攻撃したなら、如何に薩長土福といえども、挟み撃ちに遭い、退散するであろう。それを機に再度、会津、桑名兵に諸藩の兵を加え、関ヶ原から京に進軍し、更には薩長土福を制圧してしまうことだ。安房守殿の意見に賛同したなら、江戸は、そっくりそのまま薩長土福の連中に奪われる。上様。お考え直し下さい。日本国の大統領におなりになり、反乱軍を制圧して下さい」

 忠順の主張は誰に憚ること無く熱気に満ち溢れていた。さしもの勝海舟も忠順の勢いに押されて、自分の保身を考えた。

「私は、あくまでも上様が恭順の御意向なれば、幕臣として一死を覚悟して、恭順の貫徹に努めるべきだと考えております。もし上様が雪冤の戦さをお望みなら、私は自ら軍艦に乗り、薩摩の桜島を襲い、薩摩藩の本拠地を攻めます。一方で、駿河の清水港に軍艦を並べ、敵軍を防ぐなどの策にも対応致します。いずれにせよ、戦さの進止は上様の御意向に従うだけです」

「安房守殿。そのように、どっちにでも取れるようなことを申されては、困る。それがしは、薩長の暴虐を許す気になれません。日本国を世界の列強国の仲間入りさせるには、現在進行させている幕府の対策を一時も早く完遂させることが最重要です。薩長の企む京での朝廷政治に逆戻りしたなら、国家事業が遅延し、国家の大損失です。江戸、横浜を何が何でも死守し、我が国を発展させることが我々の使命です。その為にも、薩長土福を壊滅させねばなりません。恭順などしている場合では御座いません」

 大鳥圭介は小栗忠順らと共に強硬に薩長土福に抗戦することを訴えた。流石の慶喜も困り果てた。小栗忠順、大鳥圭介、榎本武揚らが声高らかに主戦論を唱えるので、大広間は主戦論者が大勢を占めた。しかし慶喜は沈黙したまま、結論を出さなかった。慶喜は自分の考えに同調してくれた勝海舟の目を見た。海舟の目は無理して抵抗せず、恭順こそが身を守る慶喜の道であると語っているように見えた。そこへ、松平容保の密偵から、敵の作戦情報が届けられた。容保が、それを一同の前で慶喜に伝えて意見を窺がった。

「上様。我が密偵からの報せによると、敵軍は有栖川宮熾仁親王を征夷大将軍として、来月、東海道と東山道と北陸道の三経路にて鎮撫軍を江戸に向かって出発させる計画でいるとのことで、御座います。どうなされますか」

 慶喜は最も恐れた立場に追い込まれた。将軍などになるのでは無かった。今更、嘆いても仕方ないことであった。慶喜は怯えた。今は大奥の御夫人方の力におすがりするしかなかった。

「しばし待て。やはり、今は恭順するしか方法がないのだ」

「何故で御座います。幕府軍の軍備及び人数からいって必勝間違い無しです。上様。先手必勝です。敵が出発する前に一気に攻めまくりましょう。上様、開戦の御決断を」

 小栗忠順が執拗に慶喜の決断を迫った。慶喜は何も答えなかった。よろよろと立ち上がり奥へ消えようとした。それを見て板倉勝静が尋ねた。

「どうなされましたか、上様」

「疲れた。もう一晩、考えよう」

 それを聞いて堪りかねた忠順は、すかさず慶喜の傍に進みより、その袖をしっかりと掴んで言った。

「上様。これ以上、待つことは出来ません。何故に速やかに正義の一戦を決断されませんのか。直ちに開戦の御命令を」

「上野介。無礼であるぞ。これ以上、国民を戦争に巻き込む訳にはいかない。これ以上、兵士たちを犠牲にすることは許さぬ。たとえ自分の首を斬られるようなことがあっても、天子に弓を引くつもりは無い」

 慶喜は取りすがる忠順の要請を断固しりぞけた。忠順は愕然とした。会議は慶喜と忠順による二人の演技で幕が下ろされた。忠順は最早これ迄かと思った。忠順は項垂れ大広間から自分の執務する勘定所へ戻った。それから半時程してからだった。忠順に上司の老中、松平康直から、上様が『芙蓉の間』でお待ちだとの連絡を受けた。『芙蓉の間』に伺候すると、上司の松平康直が退室して、慶喜と二人だけになった。慶喜が先に口を開いた。

「先程は、怒鳴って悪かったな。余は反省している。そちが火遊びして、直ぐに帰って来ればよいと言っていたのに、五年も江戸を留守にしてしまった。その為に幕府に散財させてしまい、家臣たちの信用も失ってしまい情けない。パリにいる弟、昭武にも申し訳が立たないが、余は血を流すのは嫌いじゃ。だからひたすら恭順することを選ぶ。上野介も熱くならず、幕府から離れ、静かに暮らせ。人の命を大切にせよ。一族及び家臣のことを犠牲にしてはならない。よって明日、罷免する」

「分かりました」

「そちは余のやることが気に入らぬようじゃが、何か文句があるか」

「人には、人それぞれの歩む道があります。ゆっくり山野に籠り、自分のこれからの道を探すことにします」

「余も上野介も同類。光であってはならぬ存在なのじゃ。堪忍してくれ」

「分かっております」

「小栗上野介。今まで大儀であった。息災を祈る」

「ははーっ」

 忠順は深く頭を下げ、『芙蓉の間』から辞去した。忠順は仕事を終えてから屋敷に戻り、まず塚本真彦に、罷免に至った次第を報告した。

「残念だが、以上の経緯で、この大事な時にまた罷免された。今度こそ復帰無しじゃ。総てを放り投げ権田村で余生を送ろうと思う」

 真彦は幕府に怒りを覚えた。

「何故、殿様が御役御免にならなければならないのですか。御公儀の為に粉骨砕身尽力して来た殿様の意見は、確かに上様にとって無礼極まりなく、腹立たしいものであったでしょうが、幕府や上様のことを思っての意見であった筈。私憤による罷免としか思えません」

 真彦が怒ったところで、どうなるものでも無かった。真彦に報告した後、妻と母に罷免されたことを報告した。妻の道子は驚いたが、母、邦子は別段、慌てなかった。

「お前の御役御免には慣れっ子になっております。いずれまた御役が回って来るでしょう」

 忠順は母の言葉に励まされたが、もう徳川の時代は終わりだと思った。こうなったら新しい日本政府を構築するしか道は無い。翌1月15日、小栗忠順は老中、酒井忠惇から罷免を申し渡された。

「上様は朝廷に対し、恭順を表明し、じっとしておらねばならず、朝廷に反発しそうな貴公を江戸城内から追放することをお決めになられた。そして幕府軍の奉行を兼務していた貴公の後任として、海軍の指揮を勝安房守を任命された。お気の毒であるが、自宅謹慎し、次の沙汰を待たれるのが良かろう」

 流石の酒井忠惇も辛い罷免通告の役目であった。慶喜に刃向かい見放された忠順を慰めるにも方法が無かった。忠順は昨日から分かっていたことなので素直に受け止めた。小笠原長行、榎本武揚らが同情してくれたが、どうなるもので無かった。その二日後の17日、小栗の罷免を知った若年寄兼外国奉行の堀直虎が江戸城中で自刃した。夕刻には大鳥圭介と古屋作左衛門が屋敷にやって来た。

「上様から小栗様に蟄居の命令が下されたことは誠に残念でなりません。我等は上様が恭順なされると申されても、そのままそれを受け入れる訳には参りません。日本国の未来と幕臣家族の生命がかかっていることです。我々は断固、戦います。その為にはどうしても小栗様の力が必要です。上様は恭順を表明されましたが、薩長は上様の恭順の言葉だけで、幕府を許す筈がありません。外様としての二百六十五年の怨念は血を見なければ鎮まりません。上様は勿論のこと、幕閣の総てを処罰することを考えるに違いありません。上様はその敵愾心を分かっていません。小栗様を罷免し、薩摩の西郷吉之助と親しい勝安房守を陸海軍の責任者として選び、薩長との交渉に当たらせ、ことを上手く終結させようとしています。幕臣たちのことはどうなっても構わないという考えです。自分だけ助かれば良いと思っているのです」

「我々は、そんな上様について行けません。だからといって、小栗様たちが築いて来た幕府を捨てる訳にも参りません。薩長土福を撃退し、新しい総統を決め新しい政府を築かねばなりません。その為には小栗様の力が必要です。どうか我々の味方となって下さい」

 二人は真剣だった。忠順は内戦が長引けば外国勢力の介入を招くのではないかと日本国の将来を危惧した。雄藩連合軍と幕府軍の内戦が遅れれば遅れる程、内戦が長引く可能性があった。幕府の総大将が抜けてしまった以上、幕府軍の力は日に日に弱体化して行くに違いなかった。忠順は答えた。

「諸君の気持ちは分かるが、この度の上様の決断は幕府を捨てたということじゃ。私は気が変わった。捨てられた汚れたものを拾う気にはなれない」

「そんなことを仰有らないで下さい。我等幕府軍の有志たちは小栗様を総帥として薩長土福と対決つもりでいます。我等の指揮先導をお願いします」

 二人とも忠順の決起を切望していた。しかし忠順は罷免された身であり、どうする術もなかった。ましてや勝海舟が陸海軍の責任者となれば、軍艦も鉄砲隊も勝手に使用させてはくれない。奥の手を使うにはまだ早すぎる。忠順は、二人を諭した。

「二人そろっての私への期待は嬉しいが、私は上様が戦わぬ以上、薩長土福と戦おうなどという気力が湧かぬ。これ以上、京阪から関東にまで戦乱を広げることは国民にとっても不幸だ。上様に従うしかない。じっと我慢して時の流れを待て」

「とは言いましても薩長の言うがままに従って行くことは我慢なりません。小栗様が決起すればフランスが継続して応援してくれるでありましょうし、会津や庄内も一致協力し、東日本に強力な幕府軍が整います。どうか我等と共に決起されますよう、お願い申し上げます」

「申し訳ないが、この前の御前会議をもって、私の出番は終わった」

 忠順は己れが身を引くことで、慶喜の気が済むのであれば、それで良いと思った。慶喜が申した通り、自分は光であってはならないのだ。今はただ時代の変遷を傍観するしかないのだ。先日の江戸城中での御前会議では、あんなに興奮して、上様に抗弁していたのに今や忠順の体内にあった熱血は何処かに消え失せてしまっていた。大鳥圭介と古谷作左衛門には、忠順の変わりようが信じられなかった。人を思い、幕府を思い、日本国を思って、沢山の事業に挑戦して来た忠順が、かくも呆気なく、引退を考えるとは予想外のことであった。とはいえ自分たちが決起すれば尊敬する小栗忠順は必ずや自分たちの味方をしてくれると二人は信じ、小栗家を辞去した。21日にはフランスのロッシュ公使、シャノアン大尉、ブリューネ大尉の三人が塩田三郎と一緒に訪ねて来た。彼らは慶喜のやることなす事が理解出来ず、困惑していた。勝てる戦さを中断し、かつ広い見識を持つ国際人、小栗忠順を罷免するとは、全くもって言語道断、彼らには考えられないことであった。ロッシュ公使は忠順に会うなり言った。

「ボンジュール、小栗。私たちは大蔵大臣を辞めた貴男が、どうしていらっしゃるのか心配して訪問しました」

「ロッシュ公使、シャノアン大尉、ブリューネ大尉。私への心遣い有難う御座います。私はこのように元気ですよ」

「私たちは小栗がいないと、これから、日本国とどのように付き合って行けば良いのか分かりません。私たちに力を貸して下さい」

「私にはもう、その力はありません」

「私たちの力になっていただけるのは、貴男しかいません。私たちは貴男の要請を受けてフランス本国と多くのことをやりとりして来ました。それは両国にとっての国益に寄与することであり、実際に両国の発展に貢献しています。私たちはこの両国関係を継続して行きたいです。ですから、徳川大君にお会いしたいのです。徳川大君にお目にかかる方法を教えて下さい」

 忠順は、大阪で慶喜の顧問格として優遇されて来たロッシュ公使が、突然、慶喜と会えなくなった為の自分への依頼であると理解した。慶喜とロッシュ公使の間には、自分の知らない約束事があったに違いない。

「それなら、大目付の永井殿に私から手紙を書くので、それを持って永井殿に会って下さい。そうすれば大君に会えるでしょう」

「ありがとう御座います」

 忠順は、その場で同席していた塚本真彦に筆を準備させ、大目付、永井尚志への依頼文を書いた。忠順が、その文をロッシュ公使に渡すと、今度はシャノアン大尉が言った。

「我々、軍事顧問団は貴男の要請により、日本に派遣されました。また日本国内の内乱を中止させる為、フランス本国に援軍の手配を頼みました。それは我々が日本国を東洋の我が国の親戚と思っての好意的判断によるものです。日本国がフランスのように繁栄することを願っての応援です。ところがどうした事でしょう。大君は大阪から江戸に帰り、貴男を閣僚から外してしまわれました。これではフランス流に固まりつつあった日本政府の構築を中断させてしまうことになります。このような状況ではフランスからの援軍は派遣出来ません」

 ブリューネ大尉も言った。

「イギリス海軍顧問団のリチャード・トレシー海軍中佐は、江戸にいても仕方ないので、引き上げると言っていますが、我々、フランス陸軍顧問団は、現状のメンバーで継続して幕府軍に協力致します。ですから次の指令が欲しいのです」

「とは依頼されても、今の私には、その権限がありません」

「パリでは徳川大君の弟君が多くの事を学ばれておられます。その弟君が無事、留学を終えて帰国し、大君兄弟が力を合わせ日本国を繁栄させることを、私たちは願っております。徳川大君を説得し、徳川勢力を、もう一度、盛り立てることに協力して下さい。その為の軍備や資金は、私が本国に要請しますので、よろしくお願いします」

 ロッシュ公使も熱心だった。忠順は三人に迫られ、困惑した。

「私はフランス国に対し、御迷惑をかけてしまい、大変申し訳なく、深くお詫びします。その責任を強く感じています。しかし、幕閣から外された今、私は最早、何も出来ません。大目付の永井殿を通じ、ロッシュ公使が徳川大君と直接面会し、フランス国の考える主旨を説明されるしか方法がありません。申し訳ありません」

 忠順は親交を深めて来たフランスの仲間の要請に対し、快く応えられぬ己れを情無く思った。一緒に酒を酌み交わしたものの、心が晴れなかった。

         〇

 1月25日、三井八郎右衛門高福に仕える『三井組』の大番頭、三野村利左衛門が小栗屋敷に訪ねて来た。謹慎中の忠順を案じてやって来たのだ。利左衛門はあたりをちらりと見てから微笑する忠順に言った。

「小栗様。何時までも江戸にいるのは危険です。早く身を御隠し下さい。そうでないと薩摩の連中が首を刎ねにやって来ます」

「そんな馬鹿な。わしは上様から捨てられ、最早、幕府の重役で無く、戦う気力も無い。そんなわしの首を取って、何になるというのか」

「薩摩の西郷吉之助は将軍様を切腹させない限りことが治まらぬと申しております。その他、会津と桑名の御兄弟及び小栗様の首を取ると豪語しているとのことで御座います。彼らは勝安房守を通じ、幕閣の中で誰が力があり、今後、誰が邪魔になるかを選択している最中です。江戸にいるのは危険です。早く身を隠して下さい」

 忠順には、徳川幕府の代表、徳川慶喜が恭順を宣言したのに、よもやそんなことはあるまいと思ったが、利左衛門の説得は執拗だった。余程、確実な情報を得ての忠告であろう。

「利左衛門の配慮、誠にもって有難いが、わしは逃げ隠れするつもりは無い。上様に罷免されたので、どうなっても構わない」

「それでは御家族や御家来衆が・・・」

「うん、これを機に、わしは一族郎党を引き連れ、江戸を去り、知行地で隠居するつもりじゃ」

「それもよろしいですが、小栗様はもっと安全なところに身を隠して下さい。日本国を離れ、アメリカに行くことをお勧めします。お金はこちらで都合させていただきます。案内人も考えてあります。奥様と二人、アメリカでお暮し下さい」

 利左衛門は忠順の身が危険であることを強調した。海外に一時避難し、政情が安定するまで、海外で暮らすことを勧めた。しかし生真面目な忠順が、それを良しとする筈が無かった。

「それでは大阪から逃げ帰った上様と同じだと笑われよう。わしはあくまでも隠居し、幕府からの呼び出しがあれば、即刻、江戸城に駈けつけるつもりじゃ。その時のことも考え、知行地で待機させていただくことにしている。アメリカなどには行かぬ」

「小栗様のお気持ちは分かります。でも薩長の動きは日に日に諸藩を抱き込み激化しております。また上様が恭順されたことを良い事に、軍事を任された勝安房守は神保修理や浅羽忠之助らと共に、土佐、薩摩と密会し、朝廷側との交渉を続けております。そういう状況ですので薩長だけでなく、幕臣たちにも御注意下さい。困った時には、直ぐにでも駈けつけますので、利左衛門のことを頭に留め置いて下さい」

「有難う。何時も無理を言ったりして世話になって来た上に、わしの身を案じてくれる利左衛門の気持ちに涙が出そうである。万一の時には女子供たちを頼む。わしは権田村の百姓から野菜などを恵んでもらい生きて行くから心配するな」

「それでは呉々も気を付けて下さい」

 利左衛門は要点のみ伝えると小栗屋敷から立ち去った。かって忠順の父、忠高の時代から小栗家の世話になった利左衛門にとって、何故か後ろ髪を引かれる思いだった。利左衛門と入れ替わるように山田城之助と塚越富五郎がやって来た。二人は上州の近況を語った。城之助が言った。

「藤七さんから言われて参りやんした。権田村は今、雪で、殿様にお越しいただくには、まだ寒うござんす。二月初旬になれば、梅の花も咲き、鶯も鳴き、長閑になるであんしょ。新築したお屋敷は、藤七さんの家の衆が手入れをしておりますので、御安心下さい」

「左様か。それでは来月には権田村に行けるな」

「へえ。でも御隠居なされるのは、まだちっと早いんじゃあ御座いませんか」

「そんな事はない。わしの隠居は、権田村の学習塾で教授をすることじゃ。富五郎。どうなっている学習塾の方は?」

「はい。塾舎は東善寺の下に完成し、荒川祐蔵や吉田重吉らが教材集めをしてくれています。安中藩の岩井重遠様も算術の教科書を提供して下さり、次第に塾舎らしく形が整い、既に授業を始めております。殿様が来訪されます頃には塾生も沢山、集まり、殿様の望まれる農民教育というものがし易い環境になっていると存じます」

「おう、そうか。それは楽しみじゃ」

 忠順は二人の言葉に権田村の春を思い浮かべた。澄み切った空、緑の山々、美しく流れる谷川。それらを思い浮かべると、煩わしい幕府の仕事から離れ、何もかも忘れて権田村の人たちと、のんびり暮らしたいという気持ちが増した。

「また春の祭礼には子供たちの獅子舞や笛太鼓が披露され、近隣の村からも人が集まり賑やかになるんで御座んすよ」

「このような江戸の暗い話ばかりの時に、明るい便りを有難う。権田村に行くのが楽しみになった。そうだ。横浜の外国語学校に依頼し、英語やフランス語やロシア語などの教科書も取り寄せることにしよう」

 その忠順の笑顔を見て、城之助と富五郎はほっとした。免職された人間とは思えぬ程、明るく希望に満ちた忠順の笑顔に、城之助は魅了された。不思議な人だ。世の中が如何に激動していても、びくともしない。自分の思想一筋を貫徹させようと未来を見詰めている。威風堂々、まさに巨人だ。忠順への報告が終わると、城之助たちは滝野川の『開明研』の閉鎖作業の手伝いに出かけて行った。夕刻近くになって、先週会ったフランスのロッシュ公使が塩田三郎とやって来た。

「ムシュ小栗。フランス本国から貴男に確認して欲しいとの書信が送られて来た。内容は、フランス皇帝は、今や徳川大君が余りにも豹変し過ぎるので、信用出来ず、友好のあてに出来ないと申している。そしてフランスに留学中の大君の御舎弟、徳川昭武公を大君の後任に据えるよう幕府に進言せよとの要請である。それにより、京の革命政権を相手にせず、幕府の復興を計られることを切望しているとのことである。ナポレオン三世は昭武公に軍艦七隻と優秀な兵士を貸与すると言っている。私や軍事顧問団の連中も、フランス皇帝の意見に賛成である。貴男の意見をお聞かせ願いたい」

 フランス皇帝、ナポレオン3世からの親書を見せてもらって、忠順は感激した。ロッシュ公使の報告と徳川昭武の随員、渋沢栄一の助言を受けてのナポレオン3世の援軍派遣の提案だという。有難い話であるが、もう遅い。王政復古が発令され、前将軍が恭順し、日本国の流れは変わってしまった。もしここでフランス軍の援助を依頼すれば、新政府はイギリスに援軍を求めるであろう。そうなれば日本国は分割され、外国の属国にされてしまう。我慢するしかない。

「先日も申した通り、私は今や幕府の責任者では無い。永井殿と話をされたか」

「永井は駄目です。幕府内の人事で処分を受けるかも知れないと、自分のことばかりを心配していて、私たちのお願いを聞いてくれません」

「そうですか。困りましたな」

「私はナポレオン3世に何と返事をすれば良いでしょう」

「残念ですが、私は何も答えることが出来ません。ただフランス皇帝の日本国への親愛の情に深く感謝しています。この気持ちをお伝え下さい。昭武様にもよろしくお伝え下さい」

「どうなされたのですか。小栗らしくありませんね。フランス皇帝は昭武公を大君とし、貴男に新幕府軍の総指揮をとっていただきたいと申しているのです。イギリスと薩摩による陰謀を糾弾し、京の新政府をぶっ潰すのです。それが徳川幕府の正義です。フランス皇帝の支援を受け、敵軍と戦って下さい」

「大君に戦意が無いのに戦って何になりますか。大君からの命令が無い限り、私は戦いません」

 忠順は、分かってくれとばかり、ロッシュ公使にはっきりと、フランスからの要請を断った。忠順は先祖より徳川家と絆の深い小栗家の代表として、ナポレオン3世からの協力を断らざるを得ず、煮えたぎる胸中とうらはらな辛い返事をした。ロッシュ公使は、それを聞き、残念だと言って帰って行った。

         〇

 2月1日、京では王政復古のもとに立ち上げられた新政府の役職の検討が始まった。江戸では、それとは反対に恭順派を中心にした人事異動が行われた。慶喜は永井尚志を通じ、近く人事変更すると共に、罷免された者は幕府から離れ、自活するよう幕臣に伝えさせた。

「上様による幕府の新人事が、近く決まる。役職を解かれた者は、江戸に住むなとの上様の仰せである。知行地のある者は、そこへ行って住み、自分で暮らしの道を立て、知行地の無い者は上司の世話になれとのことである。本日のお言葉、以上で御座る」

 これを聞いた幕臣たちはびっくりした。何故、何時までも将軍職で無い者に指図されなければならないのかと激怒する者も現われた。そして2月8日、かって京都守護職であった松平容保と京都所司代であった松平定敬兄弟が登城禁止となった。この処置に対し、松平容保は立腹し、部下にこう語った。

「皆に伝える。私は残念なことに慶喜公に騙された。騙された自分が愚かではあったが、大阪から戻るべきでは無かった。あの軍事占領下に治めていた京阪地帯を手放し、『開陽丸』に乗って、慶喜公をお守りして江戸に帰ってしまった。私はあの時、軍艦の上で、慶喜公が江戸に戻られ、軍備を整え、大挙して、京に攻め入るものと思っていた。それを信じて江戸に戻ったことは、自分の不徳と致すところである。全く弁解の余地は無い。よって家督は喜徳に譲る。だが、朝廷と薩長土肥福の会津征討計画には納得出来ぬ。万一、敵が攻めて来た時は、陣頭に立ち、命を賭して抗戦する。このこと、皆、承知してくれ」

 容保の闘志に燃えた言葉を耳にした会津藩士たちは、藩主、容保の決意を改めて再確認した。翌9日には幕閣の板倉勝静、小笠原長行、滝川具挙らが登城禁止となった。今まで頑張って来た老中や若年寄、大目付が罷免されては幕府はもう消滅したも同然だった。江戸城は全く活気を失ってしまった。浅野氏祐、矢田堀鴻、藤沢次謙といった幕臣たちがいるものの束ね役がいなかった。そこで慶喜は大久保一翁、勝海舟、川勝広道を起用したが、皆いうことを聞かず、勝手気ままな行動が目立った。何もせず、呆然としている者、貴重品を持ち出す者、怒鳴り散らす者、酔っぱらってゴロゴロしている者など、江戸城内は規律も無ければ礼儀も無くなってしまった。そんな江戸城と異なり、松平容保のいる会津藩江戸屋敷は活気に満ち溢れていた。新政府軍が江戸に攻め込んで来るようなことがあれば、徹底抗戦するつもりであった。そんなであるから、当然のこと元勘定奉行で主戦論者であった小栗忠順を味方に入れようと、松平容保の家臣が忠順の屋敷にやって来た。

「小栗様。初めてお目にかかります。会津藩士の外島機兵衛と申します。藩主、松平容保様の指示により、本日、お訪ねさせていただきました。我等が主人は幕府よりお役御免となり、今や上様に絶望しております。朝廷と薩摩の陰謀により、朝敵の烙印を押され、会津藩は窮地に立たされております。藩主、容保様は家臣の反対を押し退け、藩の財政を犠牲にし、ひたすら徳川宗家の為に尽力し、かつ長年、京都守護職として朝廷に忠勤を励んで来た末に、この有様。このようなことがあって良いとお思いですか?」

「良い筈など無い」

「小栗様におかれましても罷免され、鬱憤やる方ない事と推察致します。我々は会津に帰り、兵を整え、再度、薩長をはじめとする朝廷軍と戦う為、西に向かうつもりです。主人、容保様は、小栗様が会津にお越し下されることを願っております。小栗様。会津にお越し下さりませんか」

「この前、大鳥圭介や古屋作左衛門も同じようなことを言って来たが、断った。容保様の御心は有難いが、私はしばらくの間、知行地で休息することにしていると伝えてくれ」

「そこを何とか我等を朝敵とさせぬ為、ご協力いただけないでしょうか」

「申し訳ないが、今は時を待ち、恭順すべきであると容保様に伝えてくれ」

「時を待つとは?」

「うん。つまり、じっとしていることじゃ」

「分かりました。では何時かお越し願える日を念じて、種々準備しておきます」

「容保様に呉々も、御身大切にと伝えてくれ」

 忠順は会津藩主、松平容保の要請を鄭重に断った。慶喜はこういった城外や城内の動きや噂を耳にする度、身の危険を感じた。2月12日の早朝、慶喜は江戸城を出て上野寛永寺の大滋院に移った。そこで謹慎し、時を待っことにした。江戸城は中納言、田安康頼と前津山藩主の松平斉民に委ね、未練一つ見せず、慶喜はみぞれの中を上野の山に移動した。まるで逃げるが如き早朝の移動であった。思えば慶喜にとって15代将軍になるなど、自分の望んでいることでは無かった。非凡の秀才などと煽てられたが、自分では、そんな能力は無いと分かっていた。適任で無いと思いながら引き受けてしまった将軍職であり、将軍職を捨て、江戸城から退去したことにより、今まで覆いかぶさっていた重荷の一切が取れたと感じた。慶喜は清々した。恭順の態度を表現し、自分の命が助かれば良い。自分に従って来た者たちの犠牲など、どうでも良かった。無情と恨むなら恨め。慶喜が江戸城を捨てたと知り、松平容保は激怒した。大阪に置き去りにして来た藩士たちの憎悪や怒りと江戸にまで引きずり戻され、使い捨てにされた自分たち兄弟の無念が蘇った。鳥羽伏見の戦いの折、幕府軍不利との誤った戦況報告を行い、慶喜に江戸に帰るよう勧めた己れの家臣、神保修理のことが頭に浮かんだ。慶喜逃亡幇助の罪を問われ、彼の命を暗殺の危険から守る為、容保は修理を和田蔵上屋敷に幽閉させていた。ところが、その修理が、薩長と親交のあるという事から、勝海舟を通じ、幕府に採用される動きをしていると耳にした。また修理は同じ過ちを繰り返すのではないか。容保は心配した。その容保の心配する修理の動きは会津藩の主戦派に発覚し、修理は芝の下屋敷に引きずって行かれたという。修理は勝海舟に宛てて一遍の詩を送り、その後、仲間に自刃させられた。神保修理の死は慶喜の将軍らしからぬ行動から発生した不幸な事件といえた。松平容保が、唇を噛み締めているその頃、西ではフランス海軍のコルベット艦『デュプレスク』が堺港に入港し、上陸したフランス水兵11人が土佐藩兵に射殺されるという事件が起きていた。駐日フランス公使、レオン・ロッシュは、兵庫に滞在しており、激怒した。これを機会に新政府軍を総攻撃しようと思ったが、小栗の動かぬ戦さは無意味と思い、賠償金15万ドルの支払いと発砲した者総てを処刑することで決着をつけることにした。動かぬ忠順を何とか動かそうと、横須賀奉行だった戸田悟水や製鉄所奉行、古賀謹一郎たちもやって来たが、忠順は御役を外れたので少し休ませてくれと動こうとしなかった。心配して、娘、鉞子の実父、日下数馬も時々、やって来た。御典医の浅田宗伯も、浅岡芳庵と共に道子の診察がてら、忠順の様子見に来たが、従順は呑気に『方丈記』の話をして、時代の流れを傍観する態度を示した。

         〇

 2月16日、会津藩主、松平容保は江戸から会津へ向かった。胸中は甚だ複雑であった。弟の桑名藩主、松平定敬は領国、桑名が新政府軍の勢力範囲に入れられてしまっているということで、国元へ帰れず、大久保一翁から越後柏崎への移動を勧められ、敗残兵を従え、越後へ向かった。容保の胸中は甚だ複雑であった。優秀な小栗忠順を会津に迎えたいと思っていたが、その了解を得られぬまま会津へ向かうことは心残りであった。小栗忠順は知行地、上州権田村に土着するつもりだというが、その上州も、岩倉具視と西郷吉之助の支援を受けて結成された『赤報隊』が東山道鎮撫軍の先鋒として向かって来ている筈である。まさに危険な状態である。自分の知行地だとはいえ、何故、そんな危険な所へ移ろうとするのか。事実、『赤報隊』は上州に近づいていた。2月8日、『赤報隊』は信濃まで進軍して来ており、小諸藩兵の襲撃を受け、竹内廉之助が死亡し、いきり立っていた。その『赤報隊』は亡くなった竹内廉之助の弟、哲次郎、桜井常五郎、大木四郎、竹貫三郎、金輪五郎らで碓氷峠の社家町に本部を置き、往来の旅人を暴行し金品を奪ったり、日夜、飯盛女をあげて遊興し、悪業の数々を働いきながら、徐々に江戸に向かって移動しているとのことであった。その噂を聞いた安中藩主、板倉勝殷は小諸藩出身の牧野又六を小諸に派遣し、彼らが事実、『赤報隊』であるか調査させた。牧野又六は二日程して小諸から帰って来て、板倉勝殷に報告した。

「彼らは『錦の御旗』を掲げ、庄屋などを訪ね、年貢半減の立札を立てるよう触れ回っているようです。またその言葉を信用せず命令を聞かない者には暴力を奮い、罰金を取り立てているとのことです。更に彼らは旅籠に上がり、只で飲み食いしたり、旅人を嚇し、金品を巻き上げているとのことです。兎に角、『赤報隊』と称していますが、言葉が関西地方の言葉で無く、どうも東北地方の者によつて『赤報隊』が組織されているようであり、正規の朝廷軍とは思われません」

「薩長のやることは、もともと嘘八百だ。朝廷軍の先鋒隊の名を借りる悪党どもが関東に入つてきたら直ちに捕縛せよ」

 板倉勝殷は『赤報隊』が朝廷軍の名を借り、略奪強盗を行う無頼漢集団と判断し、横川の関所の守備を厳重に固めるよう指示した。その翌日、『赤報隊』が碓氷峠を越えて坂本宿に入って来た。彼らは徳川幕府が消滅し、御一新により農民の年貢が半分になると触れ回り、安中藩に対し、横川の関所を『赤報隊』に手渡すよう要求して来た。それを受けた安中藩は2月17日、腕利きの安中藩士、半田富七、根岸忠蔵らを坂本宿に派遣した。半田富七、根岸忠蔵らは坂本宿に行き、横川の関所に出向こうとする『赤報隊』の丸尾清と北村与六郎を取り囲んだ。捕縛に来たなと気づいた二人が、慌てて抜刀し斬りかかったものであるから、たちまち乱闘となった。北村与六郎は碓氷番所の支隊長に連絡しようと抜刀したまま、碓氷峠を駈け戻ったが、丁度,堂峰番所から下って来た安中藩の足軽、石沢団助と出会った。団助は白刃を手に駈け上がって来る与六郎を見て、ぶったまげた。突然の出遭いがしら、団助は、とっさに与六郎の白刃をよけて、横っ飛びするや、素早く刀を抜いて相対した。与六郎の白刃を潜り抜け、与六郎の面に一太刀入れると、与六郎は後ろにのけぞった。それを腕利きの藩士たちが襲い殺害した。団助も右手に深手を受けたが、大事に至らなかった。丸尾清は安中藩武術指南役、根岸忠蔵の刀剣の前にあっけなく倒れた。昼過ぎ、丸尾清と北村与六郎の安否を確かめる為、十三人の『赤報隊』の隊士が坂本宿にやって来た。二人が殺されたことを知ると、『赤報隊』の一味は激怒した。一変、宿場町は修羅の場と化した。斬りかかる者、逃げる者、斬られる者、捕らえられる者、火を点ける者などいて、坂本宿は焼失した家屋が十数軒、その被害は甚大であった。翌日、信濃の松代藩から諸藩に次の布告があった。

〈偽官軍の事。この度、『赤報隊』と称して中仙道を江戸へ向かう一団は、官軍の名を騙り、金銭食料を貪る無頼の徒の集まりなり。捕り押さえて、総督府の下向を待たれ度し〉

 その布告を受けると、小諸藩や安中藩から『赤報隊』捕縛の兵が繰り出された。小諸藩は追分の『大黒屋』にいた『赤報隊』を壊滅させ、安中藩は碓氷峠を越えて来る『赤報隊』の分遣隊を捕らえた。やがて東山道鎮撫使総督、岩倉具貞と弟、具径を副総督として朝廷軍が信濃に至るとの情報が安中藩に入った。安中藩に隣接する小栗家の知行地、権田村にも中仙道の傳馬継手『新井組』から、その情報が届けられた。小栗家用人、大井兼吉は佐藤藤七と中島三左衛門と山田城之助を観音山の屋敷に、急遽呼び寄せて言った。

「殿様がこのまま江戸屋敷におられるのは危険じゃ。朝廷軍は『錦の御旗』をかかげ、東海道、東山道、北陸道から江戸へ入つて来る。江戸総攻撃は3月初めとの噂である。朝廷軍の先鋒隊が、碓氷峠の向こうまで接近して来ているかと思うと気が気で無い。一時も早く殿様御一家を、この権田村にお迎えしないと、大変なことになる」

「早川仙五郎と一文字代吉の報告によれば、板倉勝静様は日光へ、小笠原長行様と永井尚志様は会津方面へ向かう計画を進めているようです。それらを考えると、権田村より、下野足利の高橋村へ案内した方が、安全ではないでしょうか」

 藤七は中仙道に近い権田村に忠順を迎えることは危険だと思った。だが大井兼吉は憂慮すること無く藤七に言った。

「殿様は何故か、権田村がお気に入りなのじゃ。屋敷の準備も整った事だし、何とか工夫して権田村にお迎えしよう」

「でも」

 藤七は珍しく渋った。その藤七を見て、山田城之助が胸を叩いた。

「藤七様。ここは俺に任せておくんあせえ。俺が仲間を連れて、殿様を江戸に迎えに参ります。どんな朝廷軍の連中や暴徒が襲って来るか分からねえが、島田柳吉、吉田重吉、武井多吉、それに腕っぷしの強い『新井組』の子分を連れて参りますので、安心しておくんなせえ」

 城之助の言葉に大井兼吉と中島三左衛門は納得した。そして翌朝、山田城之助は島田柳吉、吉田重吉、武井多吉と『新井組』の子分衆を連れて江戸へ向かった。問題は城之助の説得で、忠順が直ぐに下向するか否かであった。

         〇

 2月25日、山田城之助は仲間を引き連れ、神田駿河台の小栗屋敷に入つた。城之助は島田柳吉と一緒に忠順のいる座敷に通された。忠順は二人を見詰めた。

「久しぶりじゃな。今日は何じゃ。何かあったか」

 忠順に、そう訊かれ、城之助は答えた。

「只今、中仙道界隈は朝廷軍の行列が江戸に入つて来るということで、緊張しております。大井様や藤七様に、江戸で戦乱が始まる前に殿様御一家を、権田村にお連れするようにと言い付けられまして、やって参りました」

「成程な。皆が、そう考えてくれているとは、何よりのことじゃ。わしも、そろそろと思い、明日、解散した『開明研』の好三郎たちを、足利に見送ることにした。その後、皆、帰りたい所に帰し、自分たち家族は、権田村のお世話になろうと思っている。一応、上様御付きの平岡道弘殿に土着届を提出しておいたので、準備済み次第、江戸を離れる」

「それはよう御座んした。一緒に連れて来た重吉も好三郎と会えて良かったです。大井様は俺たちの説得では、殿様がこの御屋敷から動かないのではないかと心配してやんした。取り越し苦労でした」

 忠順は権田村や安中藩の連中が迎えに来てくれて、嬉しかった。『開明研』の連中とも明日、別れなければならないので、忠順は夕刻から皆で酒宴を開いた。女衆は忙しかった。忠順は身重の道子のことが気になったが、道子本人は何も気にもせず、目を細めて女中たちと酒を運んでくれたりした。男たちは薩摩の悪口を言ったり、徳川慶喜の弱腰を批判したりした。別れを惜しみ泣き出したりする者もいて、ワイワイと賑やかだった。忠順は部屋の中央に座り、皆から酒を受けながら、ただ笑って、時を過ごした。男たちの会話は廊下や勝手口まで聞こえ、女たちは男たちの覚悟を知り、時々、涙をすすった。翌朝、忠順たちは『開明研』の吉田好三郎をはじめとする技術者たちを見送り、自分たちの引っ越し準備を始めた。忠順は天気が良いので、午後から挨拶回りに出かけた。養子、忠道の実父、駒井朝温に先ず、別れの挨拶し、次いで榊原健吉、木村勝教、神保長興、安藤九郎左衛門に暇乞いを行った。27日、いよいよ出発前日とあって、浅岡芳庵と浅田宗叔が身重の道子の面倒の仕方について女中たちに指導しに来てくれた。そんなバタバタしている所へ隣の屋敷の滝川具挙の紹介だと言って、渋沢成一郎という男がやって来た。彼は徳川慶喜の家臣で、今は恭順する慶喜の警護を行い、討薩を志す連中と『彰義隊』を結成し、しきりに幕府再興の為の協力要請をした。

「小栗様。今、『彰義隊』には徳川幕府を支持する志士たちが、沢山、集まって来ています。我々は天皇を取り巻く公卿や薩長の悪党を退治し、徳川の勢威を取り戻そうと日夜考えております。この希望を実現させるには、小栗様のお力が必要です。川路聖謨様や滝川具挙様は勘定奉行や外国奉行、陸海軍奉行を経験された小栗様の力を借りなければ『彰義隊』の目的は果たせないと仰有っておられます。どうか我々を先導して下さい」

「お前やお前の従弟、渋沢篤太夫のことは、かって上様から聞いたことがある。今、上様は恭順こそ、神君家康公の御盛業を継続する唯一の方法であると考え、それを実行なされている。流血はならぬ。じっと時を待て。そのうち昭武様も篤太夫らを従え、いっぱい西洋の土産を持って帰って来よう。皆が立ち上がるのは、その時だ」

「時は待ってくれません。朝廷軍は目前に迫って来ているのです」

「朝廷軍が迫って来ようが来まいが、頭領となるべき上様が動かぬ限り、それは無理じゃ。止めとけ」

「小栗様。多くの幕臣や江戸庶民を見捨てないで下さい。お願いします」

「今では遅い。上様に私の戦略を受け入れてもらえれば、フランスなどの列強も協力してくれ、沢山の戦勝策はあった。しかし、不幸にも、それを受け入れてもらえなかった。即座に罷免された。たとえ貴君ら『彰義隊』らと共に、関東、東北の諸藩を糾合して、朝廷軍と戦っても、幕府を解散させてしまった今、我々に勝算は無い。今はただ朝廷軍により、国内が鎮撫されるのを待つのみである」

「しかし、それでは多くの国民が不幸を招くことになります」

 渋沢成一郎は篤太夫同様、情熱に燃える男であった。この若僧は、自分を巻き込もうとしている。官僚経験者が不在ではやって行けない。国民が不幸になる。それを篤太夫同様に理解している。

「国民が不幸になるか幸福になるかは、朝廷軍次第である。彼ら朝廷軍の横暴により、国内が騒乱し、群雄割拠、相争うようなことがあった場合、外国軍の介入により、国難を招く恐れがある。その時は私とて黙ってはいない。直ちに新政府を奉じ、天下に檄を飛ばし、国難を除くと同時に幕府中興の新政府を樹立を策する。幸い朝廷軍によって天下泰平を謳歌するに至らば、私は、そのまま山間の民として終わろうと思う。お前も血洗島に帰れ」

 渋沢成一郎は小栗忠順の恭順の決意の程を知り、粘りに粘ったが、ついには諦め、上野へ戻って行った。忠順はその後、昼飯を済ませてから最後の挨拶回りに出かけた。大平鋓吉郎、古賀謹一郎、元老中、水野忠精に暇乞いをした。2月28日、小栗忠順はついに徳川幕府に見切りをつけ神田駿河台の屋敷を引き払い、婦女子家来を含む二十数名を引き連れ、上州権田村に向うことになった。留守居の武笠祐衛門たち、近所の滝川家や戸田家、永田家、朝比奈家、安藤家の他、親戚の駒井家、建部家、日下家の人たちに見送られての出立となった。母の邦子が随所に思い出の残る屋敷を振り返りながら、ぽつりと言った。

「住み慣れた此処から引っ越して行くのは淋しいわね」

「はい、そうですね」

 忠順は、そう答えてから見送りの人たちに深く一礼した。その後、家来に向かって言った。

「さあ、出発だ」

 ちょっと曇り空の春の朝だった。母と妻を駕籠に乗せると忠順は唇を噛み締めた。万一のことを考え、一行の手前に村井雪之丞一座を進ませた。後方には山田城之助率いる島田柳吉たちの一行が荷車を押して守りを固め、従う態勢をとった。空は青く澄み渡り、中仙道の道端には紅梅、白梅が散って、桜が咲こうとしていた。幕府のことは江戸城に残った連中に任せ、権田村でのんびり暮らせるかと思うと、忠順の心は進むにつれ、初春の青空のように快哉となった。これからの時代は薩長中心の政府が日本を統治することになろうが、幕府が育てて来た福沢諭吉、福地源一郎、西周助、榎本武揚、津田真道ら若者たちが、新しい外国の文化文明を習得導入し、日本国を変革してくれるに違いない。忠順はそれを信じて疑わなかった。今回の荷物の中には、横浜の外国語学校から取り寄せた英語、フランス語、プロシア語、ロシア語などの書物もいっぱい積んで来ている。これらの書物を東善寺の塾舎の本棚に並べ、塾長室に世界地図を張り、テーブルの上に地球儀を飾る。そんな想像をめぐらすと忠順の心は躍った。一行が板橋を過ぎ、蕨に入り一休みすると晴れて来た。忠順は馬に乗り、良い気分になって、ゆっくりと進み、浦輪で昼食にしようかと考えた。その時、後方でもめごとが起こった。忠順を追って来た武士集団と城之助たちの間で、小競り合いが始っていた。わーんという騒ぎ声の方向を振り返ると、襲撃一味の頭領らしき男が、忠順に向かって叫んでいた。

「己れの失敗を顧みず、沢山の幕臣を置き去りにして、江戸から逃亡するとは卑怯、極まりない。上様に対し、申し訳が立つまい。本来、切腹すべき者が逃亡するのを見過ごす訳にはいかない。よって上野介の首を刎ねる。そこを退け」

 その敵前に山田城之助が立ちはだかって、両手を広げて言い返しているのが見えた。

「我等は小栗様の護衛役である。おめえらに勝手な真似をさせる訳にはいかねえ。誰の指図で、ここまで追って来たのか言え!」

「誰の指図でもねえ。そこを退かぬか。邪魔立てすると叩っ斬るぞ!」

「本気でやるって言うのかい。それは面白れえな。ならば止むをえん。掛かって来やがれ」

 山田城之助は、鍛冶屋十兵衛を抜刀した。島田柳吉、猿谷千恵蔵、武井多吉たちも抜刀した。十五人程の敵が四方へ散った。正眼に構える者、剣先を右下にする者、上段に振り上げる者、垂直に構える者、横構えの者など、いろんな構えで、襲撃一味の者たちが、小栗家一行を取り囲んだ。先ずは一人の体格の良い男が城之助を狙って斬り込んで来た。

「きえっ!」

 その叫び声に合わせ、他の連中も斬り込んで来た。城之助はじめ、武井多吉などが勇み出て、敵に応戦した。刀の触れ合う音で緊張が漲った。しかし、安中藩の『根岸道場』で鍛えられた腕利きたちの前で、襲撃一味が勝てる筈が無かった。襲撃者の姿は無残だった。肩は裂け、胴から肉が見え、鮮血が飛び、指が切断され、頭が割れ、刀が折れた。襲撃して来た者たちは余りもの凄まじさに,青ざめ震え、脱兎の如く逃亡した。忠順は追撃一味の来襲を目の当たりにして、己れの命を狙う者が沢山いるのだと改めて知った。一行は浦輪で休むのを止め、大宮で遅い昼食にした。皆が休んでいる間、忠順は、大成村の普門寺へ武笠銀之助と馬を走らせ、先祖の墓参りを済ませた。大宮からは上尾で小休止しただけで、先を急ぎ、夕方、桶川宿に至り、そこで一泊した。29日は桶川から中仙道を松並木を見たりしながら,吹上で小休止し、熊谷で昼食にした。それから深谷に行って、一泊した。忠順は、ふと、先日、訪ねて来た『彰義隊』の渋沢成一郎やフランスに行っている渋沢篤太夫のことを思い浮かべた。彼らはこんな広々とした平野で純真に育ち、上様の忠実な臣下として猛烈な努力をして来たというのに、今後どうなることか。ふと気の毒になった。そんな彼らのことを思うと、何故か眠れなかった。30日、深谷を出立すると赤城、榛名、妙義の山々が微笑していた。本庄で小休止し、もう一息と皆を励まし、神流川を渡ると、下斉田村の名主、田口十七蔵たちが、昼飯を用意して待っていてくれた。上州に入ればもう一安心だった。それからは地元に詳しい田口十七蔵や山田城之助に従い進めば良かった。倉賀野を過ぎ、上毛三山の他、浅間山が見えて来るともう、高崎だった。そこで、一行は、高崎宿に行って泊まる村井雪之丞一座と別れ、小栗家の知行地、下斉田村に行き、田口十七蔵の屋敷とその隣家で一泊した。3月1日、一行は下斉田村から高崎の脇から中仙道を外れ、左手にゴツゴツした妙義山を眺めながら榛名山方面へ向かった。下室田の斎藤家で昼食を済ませ、三之倉を経て、夕刻前に、目的地に到着した。一行の到着を知ると、佐藤藤七や中島三左衛門、大井兼吉ら大勢の村人が小栗一家を出迎えた。忠順の母、邦子や妻、道子は相当に疲労している風だったので、新築の小栗屋敷に女衆が案内してくれた。忠順は藤七の屋敷で、塚本真彦、荒川祐蔵、大井磯十郎ら家臣や山田城之助、吉田重吉、島田柳吉ら用心棒を集めて、夜、遅くまで酒を酌み交わし談笑した。忠順は権田村に落ち着くことになり、ほっとした。

  『倉渕残照、其の二』へ続く