波濤を越えて『応神天皇の巻』②

2022年1月9日
その他

■ 百済救援

 応神三年(398年)七月、国民の力を結集して、故神功皇太后の立派な陵墓が狭城の盾列に完成した。また、それに合わせるように大和の軽島豊明の宮が完成した。その落成の式典の為、倭国は任那をはじめ、百済、新羅、高句麗、秦、燕、晋といった国々に使者を派遣し、出席を要請した。しかし世界は応神天皇が考えている程、甘いものでは無かった。倭国の烈女、神功女王が死去したことを知った高句麗の広開土王は、突如、新羅侵攻を開始した。新羅に駐留していた倭国兵と任那兵は、新羅の奈勿王を助け、防戦に防戦を重ねた。神功皇太后の大喪の礼の参列者招聘を高句麗に要請したが為に、倭国が弱体化したと判断した広開土王の愚行が始まったのを知った応神天皇は激怒した。

「高句麗の広開土王とは何と道義を知らぬ奴じゃ。百済の阿花王に反攻され、大人しくなったかと思うと、再びまた方向転換し、新羅への攻撃を開始しようとは。余程、南下したいらしいようだな」

 その怒りを聞いた武内宿禰が答えた。

「高句麗は夏が短く、冬の長い国です。その為、農作物等の収穫が少なく、何時も食糧不足に悩まされています。短い夏に洪水に遭ったりしたら、それこそ不幸。飢饉により、数万の国民が死亡すると聞いております。それ故、洪水の少ない温暖の地を求めて、南下したがっているのです」

 武内宿禰の説明を聞いて、応神天皇は納得した。しかし、その理由が納得出来たからといって、その南下の為の他国への侵略を伊狭沙大王として許す訳には行かなかった。

「広開土王は、朕のことを軽く見ている。年齢が若いとはいえ、朕がかかえている配下は、母、神功皇太后の時と何ら変わらない。そのことを理解せず、南下しようとは、全くもって愚かなことである」

「その通りです。それに新羅に駐留する倭国兵や任那兵も、屈強の者ばかりです。また百済の阿花王も頑張っておられます。直支王子様が、皇太后陵の建設の為、倭国に留まっていても、立派に国土を守っておられ、高句麗の南下は不可能なことです」

 二人の会話に中臣烏賊津が口を挟んだ。

「その不可能を可能にしようとするのが、広開土王の恐ろしいところです。陛下。油断は禁物です。広開土王を甘く見てはなりません」

 百済にて高句麗の恐ろしさを味わったことのある中臣烏賊津が、応神天皇の慢心を諫めた。

「烏賊津。お前は広開土王を称賛するのか」

「いいえ。狡猾きわまりない広開土王には、厳しい対応が必要だと申し上げているので御座います」

「左様か。ならば朕は貴奴に対し、何を為すべきか?」

 応神天皇の問いに中臣烏賊津は待ってましたとばかり、己の意見を具申した。

「神功皇太后様の御陵築造の為に倭国に留まっていただきました直支王子様に、百済への援軍として、倭国兵一万人をお付けになり、高句麗への派兵を考えるべきです。さすれば流石の広開土王も、慌てて新羅から撤退するでありましょう。いずれにせよ、倭国のもとにある新羅、百済、任那の辰国軍団が一体であることを高句麗に示すべきです」

「成程」

「烏賊津臣の申される通りかも知れません。この武内宿禰、歳ばかりとって迂闊でした。御陵墓完成に夢中になり、直支王子様からの援軍要請に対し、未達成であることを、忘れていました。それに豊明の宮の落成と大喪の礼のことを考え、襲津彦に帰国を命じたのが、高句麗に漏洩したのかも知れません。直ちに軍船を集め、百済へ一万の援軍を送りましょう」

 応神天皇は重臣、二人の提案を受理し、即日、その準備を始めるよう指示した。そして豊明の宮の落成と大喪の礼を八月末、質素に行った。それでも諸外国から何人かの賓客が訪れた。任那から誉田真若王子、新羅から阿利叱智、百済から真在仲、耽羅から高世良、燕から慕容明、晋から桓建といった、それ相応の人物たちの来臨があった。お陰で東海に浮かぶ倭国が如何に発展を遂げ、周辺諸国に如何に影響を及ぼしているか海外に誇示することが出来たとして、応神天皇は大満足した。

          〇

 応神三年(398年)十月、応神天皇は先ず、新羅から帰っていた毛野別軍を再度、千熊長彦と共に新羅に出兵させた。翌四年(399年)三月には百済の直支王子に、斯摩那加彦以下、一万の倭国兵を随行させ、百済への援軍とした。一行は難波津から出航し、松浦で筑紫勢と合流し、巨文、珍島、白村江、金浦と進み、五月の初め、百済王都の漢城に入城した。直支王子は入城するや、父、阿花王に挨拶した。

「父上。直支王子、只今、倭国より戻りました」

「おうっ、待ちかねたぞ、直支王子。聞き及びと思うが我が百済軍は、高句麗と向かい合い、敵の変幻自在な攻撃に敗れ、沢山の兵を失った。捕虜になった者が七千人もおり、南に退却しようか、どうしようか悩んでいたところじゃ」

 直支王子にとって、しばらくぶりに見る父、阿花王は何となく覇気が無かった。それに較べ、倭国から戻った直支王子と斯摩那加彦は意気揚々としていた。直支王子は落ち込んでいる父を笑うかのように言った。

「父上。直支王子が戻ったからには心配無用です。倭国では神功女王様が薨去なされ、直ぐに御要望の兵の応援をいただけませんでしたが、このような辛い時にも関わらず、応神天皇様はこの直支王子の為に、一万の援軍を、お与え下さいました。この一万の援軍の力を借り、今までの援軍と共に、高句麗を攻めれば、捕虜の奪還は勿論のこと、大同江まで進軍出来ます。私が戻ったからには高句麗を徹底的に攻撃して見せますので、気を強くして下さい」

「高句麗は日々、強力になっている。広開土王の大軍の機動力は抜群であり、我らが巧妙な戦略をもってしても、防ぎきれるものでは無い」

「何と弱気な。百済王の発言とは思われません。ならば私の倭国への訪問は何だったのでしょう。無理を押して、一万の応援兵と沢山の武器をお借りして来た私の面目はどうなるのでしょう。我が国の領土と捕虜になった我が国民を何としても取り戻すのです」

 直支王子は父王の弱気に腹が立った。しかし阿花王は大きな試練に耐えるべきであると痛論した。

「今は反抗する時ではない。耐えるのじゃ。こちらが攻めなければ高句麗は南下して来ない。しかし万が一を考え、都を一時、南に移そうというのが、わしの考えじゃ。高句麗を攻めるのは、それからじゃ。その時にこそ、倭国の援軍、一万の活躍の場が出来るというものじゃ」

「それで倭国兵が納得すると、お思いでしょうか。斯摩那加彦様以下、一万の精兵は、血気盛んな倭国の若者です。放っておいたら何をしでかすか分かりません。戦場に送り出してやるべきです」

 直支王子の隣りに平伏していた倭国の将軍、斯摩那加彦が、直支王子の言葉に付け加えて進言した。

「直支王子様の言う通りです。応神天皇様が私たちにお与え下さったのは倭国の暴れ者ばかしです。目的を中途半端にして放置しておいたら、彼らは百済国内をも乱しかねません。一時も早く戦場に案内し、荒田別将軍率いる倭国軍と合流させ、高句麗と対戦させるべきです」

「お前たちは広開土王の恐ろしさを知らない。お前たちが倭国に行っていた間、百済がどれだけ戦ったか、葛城将軍が帰国されてから、どれだけ死者を出したか、どれだけ捕虜を取られ、城を破壊されたか、お前たちは知らないのだ」

 そう叫ぶ阿花王に続いて大臣の余信が言った。

「高句麗、広開土王は智将、孫漱、孟光らを四方に走らせ、新羅、百済、帯方、楽浪は言うに及ばず、燕にまで、その手を伸ばし、その悪逆非道の戦いぶりに、誰も対抗することが出来ません」

「それを我ら倭国軍が懲らしめてやろうというのです。この度、私が引き連れて来た倭国兵は屈強中の屈強。豪傑ぞろいです。高句麗の精兵に拮抗する闘志と技量を充分に兼ね備えています。いや、それ以上の戦闘能力を持っております。もし、高句麗と戦わば、我が倭国の精兵は必ずや高句麗軍を北方に追いやることでありましょう」

 斯摩那加彦の鼻息は高かった。阿花王は、千熊長彦の兄の以前と変わらぬ勇猛さに感心した。

「斯摩殿。今、荒田別将軍と千熊長彦将軍は百済の司馬晃将軍や張威、解丘らと松岳の地で高句麗との攻防戦を繰り広げている。倭国の援軍が、このまま戦地に赴いてくれると言うのなら、阿花王、願ったり叶ったりである。到着早々、誠に申し訳ないが、倭国兵一万に百済兵一万を加え、北に向かってくれるか」

「斯摩那加彦、喜んで参ります。総勢二万の兵が応援に駈けつければ、我ら連合軍、大洞江や薩水を越え、更に燕の西安平のある鴨緑江の対岸まで侵攻することも夢ではありません」

「父上。直支王子を、その総大将に任命して下さい」

 直支王子は、戦線の先頭に立つことを阿花王に申し出た。斯摩那加彦が、首を振って、それを制した。

「直支王子様。それはなりません。既に百済の将軍、司馬晃殿が百済軍と倭国軍と任那軍の総大将として、戦場で指揮を執られているのです。司馬晃将軍と荒田別の指揮のもとで、我ら連合軍は活動致します」

 百済の大臣、余信が斯摩那加彦に同感して言った。

「直支王子様。斯摩那加彦様の申される通りです。戦場のことは戦場に詳しい荒田別様や司馬晃にお任せするのが一等です」

「そうは言っても・・・」

 不満そうな直支王子の顔を見て斯摩那加彦は諭すように言った。

「直支王子様。貴男様は百済は勿論のこと、我ら倭国にとっても大事なお方。先陣に立たず、後方にあって、阿花王様の補佐役として、百済の政治をまとめて下さい。我らの参戦により、広開土王は驚愕し、後退するに違いありません」

 斯摩那加彦は直支王子に漢城で守備していてくれるようにと懇願した。直支王子は那加彦の説得を聞いて頷いた。

「よう分かった。倭国からの帰国の旅の間、ずっと一緒だった斯摩那加彦殿と別れるのは辛いが、那加彦殿の忠告に従い、私は漢城に残りましょう。北への進軍の指揮、よろしくお願い致します」

 阿花王と直支王子の了解を得ると斯摩那加彦は荒田別ら陸軍部隊のいる松岳に、倭軍、百済連合軍一万と黄海の沿岸、長池から上陸する海軍部隊一万を進軍させた。突然の百済軍の両面攻撃に驚いた高句麗軍は恐れをなし、雉壌沙里まで後退した。高句麗、広開土王は勇猛果敢な倭国兵を援軍としている南方に向かい、百済や新羅と激突することを避けた。新羅や百済の背後にいる任那と倭国の連合軍が強力であることを察知したのである。そして軟弱な濊や扶餘への東進と、かって高句麗を穢した燕への西進に方向転換した。このことにより倭国から派遣された斯摩那加彦は多くの倭国兵を引き上げさせたが、現地が気に入り残る倭国兵もいた。

          〇

 応神七年(402年)新羅の奈勿王が逝去した。この時を待っていた高句麗の広開土王は、新羅との和合の為、人質として預かっていた実聖王を即刻、新羅に帰し、十八代目の王位を継がせた。倭国が、このことを知ったのは四ヶ月後であった。武内宿禰と中臣烏賊津が応神天皇の妃について相談している所へ、葛城襲津彦が駆け込んで来た。

「父上。任那の使者からの伝えがありました。新羅、奈勿王が死去されたそうです。そして高句麗の指示により、奈勿王の弟の実聖王が即位されたとのことです」

 息子、葛城襲津彦の慌てた報告にも、武内宿禰は驚かなかった。

「実聖王が即位したか。倭国にとって芳しくない話じゃ。しかし儀礼だけは忘れてはならぬ。直ちに任那を通じ、祝いの使者を派遣せよ」

「誰を派遣したら良いでしょうか?」

 すると中臣烏賊津が提言した。

「紀角鳥足殿では如何でしょう。鳥足殿なら、木羅斤資や新羅の阿智らとも知己の間柄。きっと役目を成功させて戻って来るでありましょう」

 中臣烏賊津の言葉に武内宿禰は、かって自分が任那の使者について渡海した時、現地で知った忽温女との間に生まれた我が息子、木羅斤資のことを思い出した。そして呟くように言った。

「それにしても高句麗から帰った実聖王が即位したとは困ったことだ。かって鳥足たちが人質として連れて来た奈勿王の王子、微叱許智王子は、どうなるのだ。彼は新羅の人質として役立つのだろうか?」

「それは鳥足殿に調べてもらえば分かることです。いずれにせよ、父、奈勿王が亡くなり、微叱許智王子の叔父が国王になられたのですから、人質としての価値は減少して当然です。従って、新羅の倭国に対する態度も変化するでしょう」

「と、なると再び任那や百済が、彼らに脅かされるというのか」

 武内宿禰は顔をしかめた。その武内宿禰に向かって中臣烏賊津が同調した。

「その通りです。新羅は高句麗の力を借りて、任那や百済に攻撃を仕掛けて来るに違いありません。その時は再び、大陸に大軍を送らねばなりません」

「そうなったら当然のこと。また大軍を送る。倭国にとって任那は本家であり、百済は分家である。両家の窮状を黙視している訳にはいかない」

 それを聞くと葛城襲津彦は、父に言った。

「その時は我ら兄弟、力を合わせ、大陸に進出します」

「任那の五百城大王も、儂と同様、相当に老いぼれている。百済の阿花王も気が弱い。倭国の応援が無いと、両国とも滅亡するかも知れない。余程、お前らに頑張ってもらわないと、お先、真っ暗である」

 すると葛城襲津彦は、父の心配を跳ね返すが如く、元気に答えた。

「この襲津彦にお任せ下さい」

「女たらしのお前に任せて大丈夫かな」

 襲津彦は憤然とした。

「女たらしは父親譲りです」

 襲津彦の言葉には皮肉が込められていた。

「何をいうか。儂は曽祖父、孝元天皇様の血を継ぐ者であり、祖父、彦太忍信命も、父、武雄心命も、皆、真面目であったと聞く。儂はお前のように年がら年中、女の尻を追っかけたりしてはいなかったぞ」

「それにしては、余りにも異母兄弟が多いと思われますが。羽田、巨勢、曽我、木羅、若子、紀、平群、葛城、久米と兄弟の母方の姓を上げても、九姓になります」

「年寄りをからかうものでは無い。それより、新羅への対応、真剣に検討せよ。任那や百済を孤立させてはならぬ。彼らは倭国天皇家の親戚なのだからな」

 武内宿禰は葛城襲津彦に説教した。襲津彦は父の言葉に真剣な顔つきになり、百済のことを口にした。

「その通りです。特に誉田真若様は神功皇太后様の時代、倭国の為に援軍を準備してくれました。この御恩を私たちは忘れてはなりません」

「そう言えば誉田真若様には、姫様がおられると聞いているが、それは真実か?」

「はい。仲津姫という姫君がおられます。任那一の美女との噂です。私も彼女が幼い時に会いましたが、幼いながら成人したら絶世の美女になるであろうと、私の心を揺さぶる程の可愛さでした」

 襲津彦は、そう答えながら、何故、父が仲津姫のことを質問されたのか、その理由が分からなかった。

「応神天皇様も最早、大人じゃ。もうそろそろ妃を迎えても良いと思うがどうであろう」

「その誉田真若様の姫君を陛下の妃にと?」

 中臣烏賊津が、そう言うと、襲津彦はようやく武内宿禰の真意を読み取った。

「流石、父上。それは名案です。早速、兄、木羅斤資に書状を送り、誉田真若様の御意見を、お伺いしましょう。陛下の妃として、任那王家の姫君にお越しいただければ、任那と倭国の関係は、より深いものになります」

「その昔、崇神天皇様は孝元天皇様の王子、任那王、大彦大王様の姫君、御間城姫様を皇后とされ、倭国を大いに繁栄させました。陛下におかれましても、崇神天皇様同様、仲津姫様を皇后とされ、倭国を一層、繁栄させ、任那との結びつきを強固にすることは、両国にとって喜ばしいことです」

 中臣烏賊津も武内宿禰の意見に賛成だった。襲津彦も当然、賛成だった。

「父上の意見に私も賛成です。紀角鳥足兄にも、このことを良く説明し、任那に行き、新羅の動静を確認し、帰国する時、必ず仲津姫様をお連れするよう伝えましょう」

「そうしてくれ。それと新羅、奈勿王には訥祇王子と卜好王子がいた筈。彼らがどうなっているかも、鳥足に調査させよ。彼ら二人は微叱許智王子の兄であり、もしかすると、実聖王に殺されているかも知れない」

 武内宿禰は奈勿王の遺児たちのことを心配した。

「実聖王が訥祇王子らを殺すなんて?そんなことがありましょうか?」

「知っての通り、実聖王は人質として高句麗に長年いた男。言って見れば実聖王は高句麗の意のままに動く男。奈勿王のように倭国と往来するような連中は、高句麗にとっては邪魔者。高句麗の広開土王は、きっと訥祇王子らを、倭国と誼を通じたという理由で殺害しようとするに違いない」

「何と恐ろしいことを」

 父の言葉に襲津彦は驚愕した。

「倭国が新羅を再征するには訥祇王子が殺された、その時である。その時に倭国が新羅を再征する総ての条件が整うのだ」

「条件が整う?」

「そうではないか。訥祇王子を殺せば、実聖王は悪人である。悪しきは後継者を亡き者にした国賊である。当然、それが判明したら、新羅国民からの信用を失う。その時、倭国は奈勿王の遺児、微叱許智王子を正しき王として擁立し、新羅を再征する。百済の辰斯王を殺し、阿花王を立てた時と同じだ。正当性は倭国にある」

 武内宿禰は己の深謀遠慮の素晴らしさを息子に告白し、不気味に笑った。そして新羅からの人質、微叱許智王子の重要性を息子に諭した。襲津彦は感嘆した。

「となると、兄、鳥足と親しくしている微叱許智王子は、私の考えとは裏腹に、人質としての価値が高く、増々大事にせねばならぬ御仁ということですか?」

「そうじゃ。今まで以上に、その身辺を警護し、大事に扱うよう心掛けよ。それは、お前たちの為でもある」

「畏まりました。兄上と共に、より一層、微叱許智王子のお世話に細心の注意を払います」

 思わぬ新羅奈勿王の死により、忘れかけ始めていた新羅の微叱許智王子のことが、突如、国際政治の表面に浮上することとなった。

          〇

 応神八年(403年)春三月、百済人が何人も来朝した。その団長は何んと百済の直支王子その人であった。応神天皇をはじめ武内宿禰ら大臣百官は何事かと、突然の来朝に驚いた。

「陛下。百済の直支王子様が、お見えになりました」

 中臣烏賊津のの報告に応神天皇が接見の間に入って行くと、既に目の前に直支王子他五名が跪いていた。

「応神天皇様。お懐かしゅう御座います。直支王子、昨夜、難波津に到着し、朝一番で参上させていただきました」

「おお、直支王子。久しぶりです。突然の御来訪、何事かありましたか?」

「父、阿花王と任那の木羅斤資様の指示により、倭国に参りました。私に百済の人質として、倭国に留まるようにとの命令です」

 その言葉を聞いて応神天皇以下、倭国の重臣たちは吃驚した。

「朕は百済王に人質を所望した覚えは無いぞ。一体、どうしたというのです?」

 堂々とした応神天皇の問いに、直支王子は大陸の状況と百済王の考えを応神天皇に報告した。

「百済は今、高句麗と新羅の連合軍に圧迫され、徐々に北から後退しています。このままですと、百済は高句麗に併呑されてしまいます。それを恐れ、父、阿花王は私を倭国に亡命させることにしたのです。私の身の安全と、高句麗への対抗姿勢を強力に全面に押し出す為の父王の行動と思われます」

「ならば朕は、またまた百済に援軍を送らなければならないではないか」

 応神天皇は刻々と変化する大陸の情勢と同じ事を繰り返す新羅の愚かさに呆れ果てた。何とかならぬものか。そんな応神天皇に武内宿禰が答えた。

「陛下。その手筈は既に整っております。紀角鳥足からの応援要請があり、その兄、平群木菟を筑紫に遣わし、今、軍船の用意をさせております。軍船が揃い次第、三万の兵を百済に送り込みます」

「三万もの兵を渡海させることが出来るのか?」

「倭国の海軍力は、神功皇太后様の時代から世界最大最強となっております。今や天下無敵。海から高句麗を攻め上げます」

「そうは言っても平群木菟らは、そちの息子。本当に海に強いのか?」

「平群木菟は初めてなので少々、心配です。しかしながら安曇大浜と岡塩土の一族が海上の総ての指揮を執ってくれることになっております。海戦に熟練している彼らの案内により、任那、百済経由で、海上から高句麗に突入出来ます」

 応神天皇は武内宿禰の手筈の早さに感心した。また百済の直支王子も、武内宿禰の計略に感心した。

「流石、武内宿禰様。海上から高句麗に侵攻するなど、現地を知らぬお方が、考えられるとは、驚きです」

 すると武内宿禰は首を振った。

「その昔、神功皇太后様は海上から新羅を攻め、瞬く間に新羅王を降伏させました。また先般、斯摩那加彦は、黄海の沿岸、長池から高句麗に攻め込み、雉壌沙里まで敵を追いやったと聞いております。この戦略は、それらにあやかっての作戦です」

「この考えは、もともと宿禰の考えではないのか?」

「いえ、この戦略は任那の誉田真若様のお考えです。誉田真若様は広く周囲の国々の状況を把握されており、任那の統領に相応しいお方です。真若様のお考えでは、倭国の大船団が突如、高句麗の側面、帯方の海上に現われれば、陸地から百済を攻めている高句麗軍が、挟撃されることを恐れて、一挙に後退するであろうという計算です」

 武内宿禰は誉田真若王子の作戦計画を説明した。その説明を聞いて、直支王子は頷き応神天皇に言った。

「確かに海上からの上陸作戦は、理に適っています。挟撃を恐れ後退する高句麗軍を追撃すれば、帯方は勿論のこと、楽浪から輯安の都まで攻め入ることが出来ます」

「誉田真若王については、母、神功皇太后により、その人柄等、伺っていたし、朕の即位の祝いに来朝した時にお会いしたが、まさに朕が幼名をいただいた人物に相応しい英智ある作戦の策士である。人のやらないことをやる。それが勝利の秘訣であるということを、充分に理解しておられる」

「その誉田真若様には、任那一番の美女と噂の仲津姫という姫君がおられると聞いております。見た者の話では皇太后様の若き日のお姿に、とても似ておいでですとか・・」

 中臣烏賊津が、この時とばかり、仲津姫の話題を持ち出した。母、神功皇太后の名を耳にして、応神天皇は目を輝かせた。

「母上に似ておられる姫君がおられると。それは面白い。一度、見てみたいものじゃ」

 それを聞いて、武内宿禰が透かさず応神天皇に言った。

「紀角鳥足からの報告によれば、仲津姫様も陛下に是非、お会いしたいと申しておられたとのことです。一度、お召しになられては如何でしょうか」

 武内宿禰の薦めに、応神天皇は赤面した。

「何を言うか。相手は遠い海の彼方にいる人。会いに来られる筈が無い」

「何を仰せられます。その昔、任那大王、大彦王様の姫君、御間城姫様は、海を渡って崇神天皇様の妃となり、倭国を大いに繁栄させてくれました。垂仁天皇様は、その皇子として御生まれになりました。何で仲津姫様が、海を渡って、お越しになれない筈がありましょう」

 すると横道に外れた話題を聞いていた百済の直支王子が話に加わった。

「武内宿禰様の申される通りです。海を渡るということは、そんなに難しいことでは御座いません。私も、これで二度目の海を渡っての訪問になります。二度とも、天候を読んでの乗船でしたので、別段、難しい渡海ではありませんでした」

 直支王子は仲津姫の招聘をすすめる発言をした。

「とはいえ、女の渡海じゃ。大変だと思う」

「ならば神功皇太后様はどうなのです。陛下を身籠られていながら渡海したのですぞ」

 武内宿禰は応神天皇の昔のことを語った。

「母上は特別じゃ」

「その母上様に、とても似ておいでの姫君です。必ず渡海して参ります」

「ならば勝手にさせるが良い。来たら会ってつかわす」

「畏まりました。このことを紀角鳥足を通じ、誉田真若様にお伝え致しましょう」

 武内宿禰や中臣烏賊津は応神天皇が仲津姫の招聘に同意してくれたことを喜んだ。応神天皇は百済、直支王子に尋ねた。

「それはそうとして、直支王子よ。宿禰のいう三万の兵を渡海させるが、貴男はどうする?軍船に乗って百済へ帰るか?」

「私は百済の人質として倭国に留まるよう父、阿花王に言われてやって参りました。私は倭国にいて、百済の様子を見させていただきたいと思います。父、阿花王の指示無しで、帰国する訳には参りません。勝手を言わせていただければ、緊急時、百済に直行出来るよう、筑紫で待機したいと思います」

「朕は貴男を人質に出すよう要請していない。従って、万一を考え筑紫で待機しているのが最良である。しかしながら知人のいない筑紫での生活は、堅苦しかろう。宿禰は同行出来るか?」

 応神天皇は直支王子の身を案じて、武内宿禰に筑紫への同行が出来るか伺った。武内宿禰はこの要請に自分は今や朝廷では、それ程、重要でない存在になったしまったのかと思った。

「陛下の御命令とあらば、筑紫にでも、何処にでも、お伴を致しましょう」

「ならば宿禰よ。筑紫へ出向き、筑紫の現況を把握すると共に、直支王子の面倒を見よ」

 武内宿禰は、この老体をして筑紫に出向くことは苦痛であったが、天皇の命令とあっては、逆らう訳には行かなかった。気が進まないまま、武内宿禰は数日後、直支王子一行と筑紫へと向かった。

          〇

 応神九年(404年)応神天皇は全国の船大工に軍船、千五百隻を造らせ、筑紫にいる武内宿禰大臣に観船確認の出航式を行わせ、百済に三万の兵を向かわせた。その大船団が出て行くのを百済の直支王子も武内宿禰と共に見送った。武内宿禰の息子、平群木菟を総大将として、安曇大浜の一族を案内役として大船団は威風堂々、大潮に乗り百済、帯方の地へと向かった。途中、平群木菟は任那で、兄、木羅斤資と合流し、帯方の西海岸、甕津と長池から上陸、紀角鳥足らが陣を構える牛峰へ向かった。その牛峰の陣では紀角鳥足が、荒田別将軍や百済の将軍、司馬晃、莫古たちと作戦会議を行っていた。そこへ久氐が現れ、報告した。

「紀角様。倭国の大船団が、甕津に上陸し、間もなく、その将軍が、こちらにお見えになられるとのことで御座います」

 その久氐の報告に、高句麗との戦いで苦戦を続けていた紀角鳥足は歓喜した。

「それは本当か。誉田真若様は御一緒か?」

「いいえ、誉田真若様は新羅方面に出向いており、今回は木羅斤資様が、御一緒とのことです」

「兄、木羅斤資将軍が、途中、任那から乗船したのだろうか?」

「そのようで御座います」

 そんな会話の中に解丘が割り込んで来た。

「紀角様。木羅斤資様がお見えになりました」

 噂をすれば影とやらである。紀角鳥足は解丘に命じた。

「ここに、お通し申せ」

 解丘は直ぐに引き返し、間もなくして木羅斤資たち一行が、解丘に案内され、陣中の広間に現れた。広間に入って来るや木羅斤資は、両手を広げて再会の笑顔を見せた。

「おおっ。鳥足。それに久氐殿。久しぶりで御座る。二人とも随分、頑張ったな。高句麗の広開土王も、今まで以上の百済の粘りに吃驚しているらしいぞ」

 木羅斤資は紀角鳥足らの活躍を称賛した。続いて平群木菟が前に進み出て挨拶した。

「鳥足。儂、木菟もやって来たぞ。今回、父上の命令で、海軍大将として、安曇大浜と一緒に馳せ参じた」

「両兄上、良くぞ来てくれました。助かります。安曇大浜も良くここまで倭国の兵を導いてくれました。心から感謝申し上げます。ここにおられるのは百済の将軍、司馬晃殿じゃ。これから更に皆と力を合わせ、高句麗王都まで進撃したいと思います」

「百済、阿花王様から、百済国軍の総指揮を委譲されております司馬晃です。よろしくお願い致します」

 初めてお会いする逞しい百済の将軍、司馬晃を見て、平群木菟は深々と頭を下げて挨拶した。

「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」

 すると強面の司馬晃が心持ち緩んだ顔を見せて言った。

「それにしても、この司馬晃、大満足です。武内の三兄弟を味方にし、かつまた安曇の大船団を海上に侍らせ、まさに天下無敵。心強く、勇気百倍です」

「言われてみれば、我ら三兄弟、合同で戦さをするのは、これが初めて。それだけに任那、倭国両国は、この度の百済と高句麗の戦いを重要視しているということです。阿花王様には勿論のこと、我々が百済のことを大切に思っていることを、百済国民にも、心から理解していただきたい」

 木羅斤資は任那、倭国の協調の理由を、百済将軍、司馬晃、莫古、久氐らに伝えた。平群木菟が兄に続いて言った。

「この度の戦さは百済が栄えるか滅びるかの、まさに国を賭けての戦さである。任那や倭国の兵が頑張っているから、自分たちは傍観していれば良いなどという考えを持った百済兵がいたなら、直ちに処罰してもらいたい。我らは百済を親類と思って、遥々、海を渡って応援に来たのである。家族を故国に残し、命懸けでやって来たのである。そのことを理解し、百済の皆さんも命懸けで戦って欲しい」

 紀角鳥足や葛城襲津彦の兄というだけあって、平群木菟のその口から吐き出された言葉は厳しかった。海軍大将と言う重責を担っての使命感が働いての発言かも知れなかった。

「仰せの通りです。この戦さの重要さについて、再度、阿花王様にお仕えする大臣たちは勿論のこと、参戦兵や国民一人一人に認識させます」

 百済の重臣、久氐が緊張して返答した。紀角鳥足も口を開いた。

「百済は倭国の天皇家にとって、故国である。それだけに何時も栄えていて欲しい。我ら三兄弟は、百済を占領する為に来たのでは無く、あくまでも阿花王様に百済王家を存続させて欲しいが為に、応援に駆けつけたのである。それを忘れないで欲しい」

「弟の申す通り、応神天皇伊狭沙大王様は百済王家の存続を願っております。その存続の為になら、何万の兵を送っても惜しくないと申されておられます」

 平群木菟兄弟の言葉に久氐らは低頭した。

「応神天皇様の偉大さに感服致します」

 平群木菟は更に、自分の父についても語った。

「我が父、武内宿禰は、何時にでも百済に駈けつけられるように、倭国で一等、百済に近い筑紫に都から移動し、その地で直支王子様と待機しておられます。我が武内一族も天皇家同様、百済に命を懸けているのです」

「この久氐、唯々、感動するばかりです」

「して久氐殿、前線の状況は如何、相なっているか?」

 任那の将軍、木羅斤資が高句麗との戦況を尋ねた。

「はい。前線には百済の将軍、弥州流と張威と馬韓玄を差し向け、現在、牟水城を攻撃しているところです。牟水城を陥落させれば、楽浪への道も広がり、海上から沢山の兵を送り込めます。楽浪の地を固めれば、輯安まで、あとわずかです」

 久氐は倭国、任那連合軍の援軍を迎え、水を得た魚のように張り切って答えた。しかし、任那の木羅斤資は冷静だった。

「久氐殿。功を焦って深追いはなりませんぞ。楽浪の攻撃には特に注意しないと・・・」

「どんな注意でしょうか?」

「楽浪には鮮卑や漢人もいる。鮮卑や漢人を敵にまわしてはならぬ。彼らには燕国がついている。今は漢人を味方にすることが得策である。そうでないと燕国を敵にすることになる」

 木羅斤資の忠告を聞いて、久氐が対策を提案した。

「ならば先手を打って、燕国へ朝貢の使者を出しましょう」

 木羅斤資は儀礼の活用によって相手に取り入って、物事を有利に進めようとする久氐の考えに感心した。

「流石、久氐殿。それは名案。燕王、慕容煕様に拝眉し、任那や百済の状況を話せば、燕王はきっと、私達の味方になってくれるであろう。早速、燕国へ使者を出そう」

 木羅斤資の決断に紀角鳥足が兄に尋ねた。

「使者を誰にしましょうか」

「それなら、申し訳ないが、木菟に行ってもらおう。来て早々だが、海軍大将、行ってくれるか?部下の安曇大浜も、海上で、我らの凱旋を待っているのも退屈であろう。船で行けば、燕国は近い」

「言葉は出来ませんが、通訳をつけていただければ、お役目を果たせると思います。安曇大浜の船に乗って燕の都、幽州の薊城に朝貢に向かいます」

 それを受けて、百済の将軍、司馬晃が言った。

「では我々、百済からは、ここにいる久氐にお伴をさせましょう。久氐は多くの異国語を話し、朝貢にも慣れております。燕王も倭国や百済からの朝貢の使者が行けば、大喜びするに違いありません」

 精鋭の大軍を率いて進攻しても、戦さが如何に危険なものであるか、木羅斤資も司馬晃も良く知っていた。その為、近隣の国々の助けを借りる為の対応にも、木羅斤資や久氐は油断が無かった。

          〇

 同年初夏、倭国では、武内宿禰の弟、甘美内宿禰が応神天皇と面談し、何を考えてか、兄の悪業を天皇に直訴した。

「陛下。我が兄、武内宿禰には天下を狙う野心があります。陛下を亡き者にしてしまうことが、倭国の将来の為であると、臣下の数人に打ち明けたそうです。今、筑紫にいて、秘かにその時を狙っているとのことです」

 それを聞いて、応神天皇は顔色を変えた。

「そんな馬鹿な。武内宿禰に、そのような野心がある筈が無い」

 応神天皇は甘美内宿禰の訴えを信じなかった。何故、自分を孫のように可愛がってくれて来た武内宿禰が、自分を邪魔者と思うのか、理由が見当たらなかった。

「それは甘い考えです。兄は筑紫を自分のものとし、更に三韓を自分に従わせ、天下を取ると言っておるそうです」

「武内宿禰を筑紫に行かせたのは朕である。お前は兄弟であるのに何故、兄弟の悪口を言うのか?」

 応神天皇は兄の悪口を言う弟の心が理解出来なかった。その理由を知りたくて、甘美内宿禰を問い詰めた。甘美内宿禰は答えた。

「兄弟より、陛下のことを大切に思っているからです」

「ならば朕に陰口を伝える前に、兄を説得し、天下を取ろうなどと、国を乱すようなことをするなと、諫めるのが先ではないか」

「私も、それを考えました。しかし兄は私を馬鹿にして、相手にしてくれません。甥の襲津彦が勢力を振るい、私と兄が会うことも許してくれません」

「武内宿禰に会えずに、何故、噂だけで武内宿禰に野心ありと分かるのか。朕は、その理由を知りたい」

 甘美内宿禰は真剣な目をして応神天皇を見詰めた。自分の訴えを信じてくれと云わんばかりの視線だった。

「この間、和邇比布礼に会った時、彼から私に筑紫に行かないかと誘いがありました。和邇の説明によれば、武内の縁者は、筑紫に行けば、王族扱いされるという話です」

「ほほう」

「更に言うには、武内一族が三韓を手中に収めるのは、兄の息子たちが倭国の大軍を率いて現地に行っているので、時間の問題とのことです」

「三韓はもともと倭国の系統国であり、友好国でもある。何も武力で手中にするものではない。何かの間違いであろう」

 応神天皇は甘美内宿禰の主張に反発した。だが甘美内宿禰は引き下がらなかった。

「いいえ、間違いではありません。武内王国の構想は、既に決められております」

 武内王国と聞いて、応神天皇の顔色が更に変化した。

「武内王国の構想じゃと。何と言う話か。朕は津守住吉を父とし、武内宿禰を師と考え、今まで、武内宿禰を疑ってもみなかった・・・」

「陛下が心の父と崇められて来られた住吉様も、皇太后様を追って自害されたということですが、これも自害か、どうか分かりません。我が兄、武内宿禰に殺されたという風聞もあります」

「では朕を養育して来たのは、総て天下を取る為。その為に香坂皇子や忍熊皇子を殺害し、朕を利用して来たということか。倭国の軍隊を掌握する為に、朕を利用して来たということか」

 応神天皇は拳を固く握りしめ、ワナワナと震えた。

「その通りです。武内王国の構想は、筑紫を襲津彦に治めさせ、新羅を紀角鳥足に与え、百済を平群木菟のものとし、任那を木羅斤資に治めさせるという構想です」

「言われてみれば、その構想通り、武内宿禰の息子たちが、それぞれの場所に配置されているな・・」

「陛下。禍の根は早いうちに断ち切りませんと、太さを増し、大変なことになり、後々、悔いが残ります。私の説明を聞かずとも、現実を直視すれば分かる筈です。武内宿禰は間違いなく筑紫で軍備を強化し、重要な地位を、自分の息子たち、武内一族の者で独占しています。こうなっては他の豪族たちが、どんなに素晴らしい提案をしても、それが武内一族にとって都合の悪い事であれば、総て反故にされてしまいます。それでは国家の発展はありません」

 この時とばかり、甘美内宿禰は兄の傍若無人の振舞を応神天皇に告げた。

「甘美内宿禰の考えは最もである。総ての権力を一つの一族に占有されてしまうということは、朕の政治の至らぬところである。武内宿禰の親族でありながら、良く思い切って、朕に忠告してくれた。朕はお前の忠告を有難く思うぞ」

「陛下に仕える者として、当然のことです。どうか、この私に武内宿禰の成敗を御命じ下さい。甘美内宿禰、喜んでお引き受け致します」

 甘美内宿禰の進言に、応神天皇は感激した。

「良くぞ言ってくれた。甘美内宿禰に筑紫討伐を命ずる。お前に五千の兵を与える。十日後、筑紫に立て」

「有難きお言葉。この甘美内宿禰、一族郎党を引き連れ、筑紫へ参ります。筑紫に至れば、武内宿禰の勝手な振舞いに反感を抱いている連中が、我らの味方に加わり、我らは首尾よく武内宿禰一族を討伐することが出来ましょう」

「武内宿禰は策士。決して油断するで無いぞ」

「分かっております。甘美内宿禰、必ずや武内宿禰の命を頂戴して帰ります」

 かくて応神天皇に忠誠を尽くして来た武内宿禰は、弟、甘美内宿禰の兄を除こうとする逆心の為に、応神天皇から命を狙われることとなった。そして武内宿禰は、突然、押し寄せて来た甘美内宿禰の兵に囲まれ、六月末に落命した。

          〇

 八月末、任那の将軍、木羅斤資が安曇大浜の軍船に乗って、平群木菟らと倭国の都にやって来た。中臣烏賊津は、その一行を難波津に迎え、その中に亡くなった筈の武内宿禰がいるのを見て、吃驚した。武内宿禰は、命拾いした経緯を烏賊津に話し、作戦を練った。それから中臣烏賊津は、応神天皇のいる軽島の明宮に行き、応神天皇に任那の木羅斤資が応神天皇に拝顔したいと願い出ていると申し上げ、その許可をいただいた。そして中臣烏賊津は木羅斤資を応神天皇の接見の間に案内した。

「陛下。任那の将軍、木羅斤資殿をお連れしました」

 高座に座って、先に待っていた応神天皇が、烏賊津の後ろにいる木羅斤資を見るや口走った。

「任那の木羅斤資が直々に参るとは、如何なることか?」

 逞しい体格の木羅斤資は床に手をつき、深々と頭を下げ、応神天皇に挨拶した。その彫りの深い容貌、教養豊かな振舞いは、応神天皇を見惚れさせた。

「応神天皇様。はじめて、お目にかかります。任那の木羅斤資です」

「そちが木羅斤資か。よう参った。朕はそちに会えて嬉しい。そちの活躍の程は、海を隔てたこの倭国でも有名である。倭国に参ったのは、父の墓参りか?」

「いいえ」

 木羅斤資は、この六月末に甘美内宿禰に殺された武内宿禰の墓参りに来たのではなかった。応神天皇は緊張した。

「ならば、朕の命をもらいに来たのか?」

「いいえ」

「そちの叔父、甘美内宿禰は、そちが参ったと聞いて、ここから慌てて退去したぞ」

「何故でありましょうか?私が遥々、任那から参ったのは、任那の誉田真若様の姫君、仲津姫様を応神天皇様のもとへお連れする為に、同行して参ったのです。叔父上に歓迎されることはあっても、叔父上が逃げ惑われるような覚えは御座いません」

 木羅斤資の口から次いで出た言葉は、応神天皇にとって意外だった。予想したこととは全く裏腹であった。

「何んと。真若殿の姫君、仲津姫をお連れして来たのか」

「その通りです。父、武内宿禰の命により、任那、随一の美しき姫君を、お連れ致しました」

「武内宿禰の命令じゃと?」

「はい。左様で御座います。間もなく父と共に、仲津姫様が参られましょう」

 白い歯をこぼして笑う木羅斤資の態度は、人品骨格、堂々として、まさに信頼に値する風格に溢れていた。応神天皇は驚嘆した。

「何じゃと。武内宿禰が生きているじゃと。そんな馬鹿な。武内宿禰は甘美内宿禰の家来に殺された筈。生きている筈が無い。幽霊になって蘇ったというのか?」

 そこへ中臣烏賊津が、その武内宿禰と仲津姫を連れて、部屋に入って来た。武内宿禰が挨拶した。

「陛下。お懐かしゅう御座います。幽霊の武内宿禰です。死ぬに死にきれず、任那の仲津姫様を、お連れ致しました」

 確かに武内宿禰である。幽霊では無い。足もちゃんと付いている。応神天皇は自分の目を疑った。武内宿禰の傍らにいた仲津姫が、応神天皇に挨拶した。

「任那、五百城大王の孫、仲津姫に御座います。応神天皇様に於かれましては御壮健で何よりです。遠い海の彼方より、応神天皇様をお慕いして、倭国にやって参りました」

 その仲津姫の瞳は青い星のように美しかった。応神天皇は赤面した。母、神功皇太后に似ているところもある。応神天皇は赤面しながらも歓迎の言葉を述べた。

「噂に違わぬ美人じゃ。仲津姫よ。海を渡って、良くぞ参られた。朕は心より、そなたを歓迎する」

「何もかも武内宿禰様のお力に御座います。武内宿禰様は、この仲津姫を応神天皇様の妃にと推奨して下さいました。父、真若王も、それに賛成され、私に渡海を命じたのです。伝え聞くところによると、応神天皇様は、武内宿禰様を討伐するよう、甘美内宿禰という方にお命じになられたそうですが、応神天皇様にしては、軽率な御指示をなされたものと思われます」

「これは初対面から厳しいことを。しかし、言われてみれば、朕としても愚かなことをしたと反省している。宿禰には何と言って詫びたら良いのやら、詫びようが無い。申し訳ないと言うしかない。許してくれ、宿禰」

 素直な応神天皇の顔を見て、武内宿禰の憂いは吹き飛んだ。武内宿禰は笑って済ませた。応神天皇は仲津姫に痛い処をつかれ、返す言葉が無く、黙り込んだ。仲津姫は続けた。

「応神天皇様は、国民が応神天皇様の為、倭国の為にと、懸命に頑張っているのが、お分かりでしょうか。応神天皇様の軽率な指示の為に、命を失くした人がいるのを、お分かりでしょうか」

「さて、誰のことかな?」

「名前は知りません。武内宿禰様にお聞き下さい」

「宿禰よ。それは誰のことだ?」

 応神天皇は、命を失くした者の名前を武内宿禰に尋ねた。すると武内宿禰は、筑紫にいた時のことを思い起こし、涙ぐんで答えた。

「それは壱岐真根子に御座います。私は筑紫にいる時、応神天皇様の命令により、弟、甘美内の兵が私を殺しに来たことを知り、真根子を呼びました。そして真根子に頼みました」

「何を頼んだのじゃ」

「自分はもとより疑われるようなニ心は無い。忠心をもって陛下にお仕えして来たが、今、何の罪科で、罪無くして死なねばならぬの分からぬ。とはいえ、陛下の命令とあらば、大人しく死ぬのが、自分の為、国の為であろう。お前は私に良く似ている。自分が死んだ後は、武内宿禰を名乗り、国を守って欲しいと・・・」

「後事を真根子に頼んだのか?」

「左様に御座います。しかし、断わられました。彼は私が罪無くして空しく死ぬのを惜しみ、私に言いました」

「何と?」

 武内宿禰は涙をぬぐった。

「大臣が忠心をもって、応神天皇様にお仕えし、腹黒い心の人で無いことは、天下の総ての人が知っておられます。後日、秘かに朝廷に参り、自ら罪の無いことを弁明し、その後に死んでも遅くはないでしょう。他の人も私の顔形は、武内宿禰様と、そっくりであると言っています。今、私が大臣に代わって死んで、大臣の赤心を明らかにしましょう」

「むむっ・・」

 応神天皇は武内宿禰から、壱岐真根子の話を聞き、胸を詰まらせた。武内宿禰は続けて話した。

「壱岐真根子は甘美内の兵がやって来ると、即座に自分の腹に剣を当て、自害しました。自分が武内宿禰だと言って。私は彼の死を悲しみながら秘かに筑紫を逃れ、船で壱岐を経由して任那に行き、時を待つことにしました。その壱岐にいるところへ、息子、平群木菟と木羅斤資が、仲津姫様をお連れしてやって来たのです」

 武内宿禰が筑紫での出来事と今日までの経緯を説明し終えると、木羅斤資が応神天皇に進言した。

「応神天皇様。父、武内宿禰の言葉を信じて下さい。私も父の言葉を信じ、五百城大王様や誉田真若王と相談し、応神天皇様のもとへ、任那の姫君を、お連れしたので御座います。もし応神天皇様が、我ら一族を、お疑いであるなら、私は仲津姫様を連れて、任那に帰ります。父も任那へ連れて行きます」

 木羅斤資の言葉に応神天皇は、慌てた。言葉は鄭重だが、応神天皇にとっては、さながら脅迫されているような気分になった。

「分かった。分かった。そう怒るでない。お前たちの言う事を信じよう」

 木羅斤資は執拗だった。

「応神天皇様。甘美内宿禰に会わせて下さい。会って、どちらが正しいか、はっきりさせたいと思います。私たちは言葉で応神天皇様に信じていただくのでは無く、真実を、その目でとらえて、我らの正しきことを、理解していただきたいのです」

 木羅斤資は甘美内宿禰に会わせてもらうべく、応神天皇にお願いした。

「武内一族の申し出、良く分かった。甘美内宿禰を呼び寄せ、どちらが正しいか、判断しよう」

「有難う御座います」

「烏賊津臣よ。直ちに甘美内宿禰を参上させるべく手配せよ」

「畏まりました」

 応神天皇の指示により、中臣烏賊津は、甘美内宿禰を宮中に呼び寄せ、事の次第を明確にすることとなった。

          〇

 応神天皇は、翌日九月四日、武内宿禰と甘美内宿禰を中央院に呼び寄せた。重臣たちの中に百済の直支王子や百済にいる筈の平群木菟がいたのを見て、甘美内宿禰は驚いた。最も驚いたのは、死んだ筈の兄、武内宿禰が重臣たちと一緒に、そこに並んでいる姿を目撃したことだった。重臣一同が集まったのを確かめ、応神天皇が口火をきった。

「さて、本日は、武内宿禰が亡くなったという噂の真相と武内宿禰が天皇家に反旗を翻したという真相を確かめる為、朕は武内宿禰とその弟、甘美内宿禰をここに呼び、朕の前で、その真実を追求することとした。まずは、甘美内宿禰よ。お前が朕に武内宿禰の謀反の計画を話したが、その理由を申せ。そして武内宿禰は、それが事実であったか否かを説明せよ」

 こうして甘美内宿禰の兄の謀反計画の説明が始まった。話は武内王国の構想にまで及んだ。一方、武内宿禰は応神天皇の命令で、筑紫に行き、百済兵を集めていただけで、天皇家に反旗を翻すような愚かな考えをした覚えは無いと断言した。応神天皇は二人を対決させたが、二人の弁明は互いに譲らず、是非を決めかねた。応神天皇は、どうしたものかと、一時、席を外し、中臣烏賊津に相談した。そして、磯城川の畔で、探湯をして、その是非を決めることにした。一同は、磯城川の畔に移動した。探湯をする前に中臣烏賊津が二人に再確認した。

「只今より、この清き磯城川の畔で、盟神探湯の儀式を始めます。この儀式はとても厳しいもので、火傷を負って死ぬこともあります。その前に、もう一度、互いの是非を論じ合い、いずれかが謝罪すれば、この探湯の儀式を取り止めと致します」

 中臣烏賊津に、そう言わせて、応神天皇は仰せられた。

「如何じゃ。互いの弁明の程は?」

 応神天皇は二人を見詰めた。甘美内宿禰は応神天皇に訴えた。

「私は嘘、偽りは申しません。兄を除こうとしての讒言だと、兄は申しますが、私は決して嘘など言っておりません。兄は確実に、武内王国の構想に取り組み、筑紫にて、その行動を開始されていた筈です」

「宿禰よ。それは真実か?」

 応神天皇は直接、武内宿禰に問うた。武内宿禰は、自分に向かって、そんな愚かな質問をする応神天皇に、哀しそうな顔をして答えた。

「陛下。この武内宿禰が何故、武内王国などというものを考える必要が何処にありましょうや。私の曽祖父は孝元天皇様であり、私、その者が天皇家の一員であります。その天皇家の一員であり、かつ大臣を務める私めが、何故、陛下に背くことがありましょうか?」

「ならば何故、兄者は、壱岐真根子を替え玉にしたのでありましょう。替え玉を作ることそのものが、陛下への裏切りではないでしょうか?」

「私は自分の身の正しきを証明する為、倭国の為に生き残ったのです。真根子は私の為に死んでくれたのです」

 甘美内宿禰は兄の反論に興奮した。

「人の為に死ぬ者がありましょうか。真根子は兄者に殺されたのです」

 武内宿禰は、その弟の言葉に激昂した。

「何ということを。人の為、国の為に死んだ者が、お前の事を知ったなら、きっと、その人たちは、お前を地獄に陥れるであろう。情けなや。お前のような弟を持って・・・」

「では何処に、国の為、人の為に死んだ人がいるというのでしょう」

 甘美内宿禰は兄に食って掛かった。武内宿禰は心を鎮め、弟を諭した。

「陛下の祖父、倭武尊様、陛下の父王、仲哀天皇様はじめ、弟橘姫様、津守住吉様、我が息子、石川、それから壱岐真根子ら沢山の人たちが、国の為、人の為に死んでいる。そればかりではない。今、大陸では、高句麗の南下を防ぐ為、百済、任那、倭国の兵士たちが、それぞれの国の為に命を懸けて戦い死んでいる。その人たちの心を、お前は信じないのか?」

「人の心は分かりません。私は自分のみを信じております。陛下の御前で、平然と嘘を言ってのける兄者の気持が分かりません。今回の木羅斤資の来訪は、兄者の正当性を証明する為のからくりであり、一方では倭国への脅しです」

 武内宿禰は自分を貶めようとする弟の発言に唖然とした。

「自分の兄弟とは思えぬ発言。木羅斤資は任那、五百城大王様の使者として、倭国にやって来たのじゃ。それが分らぬのか」

 武内宿禰は激憤して、弟を叱咤した。甘美内宿禰は、兄の叱咤の言葉にひるむことは無かった。

「それが脅しだと言っているのです。自分の背後には任那がついている。そう、言いたいのでしょう」

 二人の口論は終わる様子が無かった。応神天皇はしびれを切らした。

「もう良い。二人をこれ以上、弁論で対決させても、二人とも互いに譲らず、是非は決め難い。烏賊津よ。探湯の式を始めよう」

 盟神探湯の儀式で、負傷者が出ることを避けようとしていた烏賊津は応神天皇の指示に従い、探湯の式の開始を告げ、応神天皇に祈願をお願いした。

「では探湯の式に入ります。陛下に神判の祈りをお願いします」

 烏賊津の言葉を受けて、応神天皇は磯城川の畔に設けた二つの鉄釜の向こうの御神木に向かって祈った。

「皇祖、日神、大日霊尊、天照大神様。我が下臣、武内宿禰と甘美内宿禰兄弟が、相争うております。朕は、この二人の争いを成敗せねばなりませんが、その成敗を決め難く、ここに盟神探湯の儀式を挙行致します。どうか、我ら、皇孫を正しくお導きいただきますよう、神の御心をお告げ下さい」

 応神天皇の祈願が終わると烏賊津は二人の重臣に向かって言った。

「武内宿禰殿、甘美内宿禰殿。前に出て神に祈誓して下さい」

 烏賊津の合図に従い、武内宿禰と甘美内宿禰は神前に進み出て、神に宣誓した。それを確認し、烏賊津が二人に号令した。

「では熱湯に手を入れて下さい。始め!」

 神に宣誓した二人は鉄釜の熱湯に手を突っ込んだ。武内宿禰は祈った。

「神よ。私は忠心をもって君にお仕えしております。如何に探湯が熱かろうと、私の手は爛れる事はありません」

 甘美内宿禰も祈った。

「神よ。悪いのは兄者です。兄者の手を爛れさせて下さい」

 武内宿禰は自分の反応を神に伝えた。

「私の手は正義の心に燃えております。それ故、少しも熱く感じません」

 武内宿禰は顔色ひとつ変えなかった。甘美内宿禰も鉄釜に手を入れ熱さを堪えた。

「熱い。熱い。熱いぞ。何の、これしき」

 しかし、甘美内宿禰は余りにもの熱湯の熱さに堪えきれなくり、手を釜から出そうか出すまいか、泣きそうな顔になった。それを見て、烏賊津が甘美内宿禰に声をかけた。

「甘美内宿禰殿。観念されては如何です。まだ入れていますか?」

「参った。参った。烏賊津臣殿。助けてくれ。助けてくれ」

 中臣烏賊津は両名の様子を見較べて、審判を下した。

「両名、熱湯から、お手をお出し下さい。これにて盟神探湯の儀を終わります」

 中臣烏賊津は鉄釜から取り出した二人の手を両手で掴み、上に挙げ、一同に示した。二人の手のうち、武内宿禰の手は赤かったが、何とも無かった。甘美内宿禰の手は、紫色に爛れて、見るも無惨であった。結果を見て、応神天皇は激怒した。

「甘美内よ。よくも朕を欺いてくれたな。何という、不忠義者であることか」

「申し訳、御座いません」

 応神天皇にひれ伏して許しを願う弟を見て、武内宿禰が怒鳴った。

「謝って、ことが済むと思うか。その場に首を垂れよ。兄が、この手で殺してくれるわ。襲津彦。太刀を持って参れ!」

 武内宿禰は父がどうなるかと側で見ていた葛城襲津彦に命じ、太刀を取り寄せ、弟を殺そうとした。その葛城襲津彦に応神天皇が待ったをかけた。

「襲津彦。その必要は無い。総ては朕が悪いのじゃ。甘美内とて、軽い兄への嫉妬で、朕に在りもしないことを告げ口したに違いない。そのことを読めず、大袈裟にし、兵を差し向けたのは朕じゃ。許してくれ。武内宿禰よ。血を分けた兄弟、殺し合って何になる。許してやれ」

「しかし・・・」

「お前を信じなかったのは朕じゃ。朕にお前を信じる心があったなら、壱岐真根子も死なずに済んだであろう。朕が悪かった。許してくれ。宿禰」

「勿体無い、お言葉・・」

 武内宿禰は慈悲深い応神天皇に助けられた思いだった。応神天皇は続けて申された。

「この上、お前の弟まで殺したとあっては、朕の愚かさが、後々まで人に伝えられよう。甘美内を殺すでないぞ」

「陛下のお言葉に従い、弟を大切に致します」

 武内宿禰の目から涙が溢れ出た。甘美内宿禰は磯城川の砂に這い蹲り、応神天皇と武内宿禰に泣いて詫びた。

「陛下。命を救っていただき有難う御座います。この甘美内宿禰、この日のことを忘れず、以後、心改め、天皇家の為に、命を懸けて頑張ります。兄上、誠に申し訳ありませんでした」

 そんな弟を武内宿禰は肩から抱き寄せ、優しく労わった。以後、甘美内宿禰は兄に従って、応神天皇をたすけ、大いに政治に貢献した。

          〇

 応神十年(405年)九月、百済の阿花王が薨御した。応神天皇はその知らせを、百済の使者から受けると、倭国に亡命していた阿花王の長男、直支王子を部屋に呼び寄せ、武内宿禰と共に、そのことを直支王子に話した。

「直支王よ。貴男に伝えなければならない事がある。落ち着いて聞け」

「何で御座いましょう?」

「貴男の父、阿花王が逝去された」

「えっ!父上が。信じられないことです」

 直支王子は唖然とした。次の言葉に窮した。応神天皇は直支王子の心中を気遣い、優しく話した。

「百済から使者が参った。貴男の弟の訓解王が、貴男の帰国をお願いして来た」

「訓解が?」

「使者の話では、貴男の弟、訓解王は、どうして良いか分からず、慌てふためいているようだ」

「訓解は気の優しい弟で、父の摂政として、真面目に政治を行って来た男です。さぞ困っていることでしょう。応神天皇様。こんなことになろうとは、夢にも思っていなかったことです。どうか私を、百済に帰して下さい」

 直支王子は応神天皇に帰国の許可を、お願いした。応神天皇はそれに答えた。

「帰すも帰さないも無いではないか。百済は貴男の故国。また我が天皇家の故国でもある。直ちに百済に帰り、百済王の位に着かれるが良い」

「有難う御座います」

「とは言っても、一人では帰れまい。兵士百名をつけ、百済までお送りしよう」

 応神天皇は護衛兵百名を帯同させることを約束した。武内宿禰が付け加えた。

「護衛兵として直支王様の顔見知りの屈強の者を、お付けしましょう」

「何と言って感謝して良いやら。お礼の申し上げようが御座いません」

 直支王子は応神天皇と武内宿禰に深く感謝の意を述べた。応神天皇は直支王子の誠実さに、日頃から感心していたので、直支王子と別れるのが辛かった。

「貴男と別れるに際し、その記念として、倭国兵が駐留している甘羅城、高難城、爾林城の東韓の地を、貴男に与えよう」

「そんなにまで、御配慮していただかなくても・・・」

「貴男は今日から百済王である。その為の朕の配慮である。受け取るがよい。任那大王には書簡で伝えておく」

 応神天皇は直支王子を百済王として崇め、自分の良き友となることを願って、任那の北、東韓の地を彼に与えた。直支王子は感極まって、応神天皇に申し上げた。

「直支王。この御恩、一生忘れません」

 直支王子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「泣くでない。国王が泣いたとあっては、笑われるぞ」

「何で泣かないで、おられましょう。この直支王、倭国の為、任那の為、百済の為、粉骨砕身、頑張ります」

 直支王子は倭国や任那への忠誠を誓った。応神天皇は、直支王子が帰国し、無事、百済王に即位し、活躍することを願った。

「先にも言ったように、百済は我が天皇家にとっての故国である。その故国の危急を、何で放っておけよう。先祖代々、助け合って来た百済を、ここで助けなかったなら、朕は後世の笑い者となろう。阿花王の御逝去により、百済国内が乱れたりしたら、それこそ、高句麗や新羅の思う壺である。一刻も早く帰国されるが良い」

 武内宿禰も同じようなことを言われた。

「陛下の申される通りです。貴男様の弟、訓解王は貴男の席を空けて待っているのです。一時も早く百済に戻り、百済王として御即位下さい。そうでないと、高句麗や新羅が、再び侵攻して来ます。折角、後退させた高句麗を、再び蘇らせてはなりません」

 直支王子は二人の意見と要望を良く理解した。自分がしっかりしなければならないと思った。

「分かっています。帯方、楽浪界にまで及んだ父王の努力と倭国と任那の皆様の努力を、ここで後退させる訳には参りません」

 応神天皇も同感であった。

「その通りである。貴男も倭国にいたので、お分かりと思うが、甘美内宿禰の讒言により、朕は百済に駐留させておいた平群木菟の軍隊を一人残らず、倭国に引き上げさせた。そして百済を百済王と任那に任せた。以後、阿花王は百済の総てを、自分の力で統治し、守護して来た。阿花王の薨じた今、その百済を守るのは、阿花王の子である貴男たちである。朕は百済の総てを貴男に任せるので、頑張って欲しい」

 応神天皇の言葉に直支王子は、胸を張って答えた。

「頑張ります。倭国で身につけさせていただきました帝王学や戦略戦術をもとに、高句麗や新羅から国を守り、百済を立派に統治して見せます。百済を今まで以上に、確固不動の国家にしてみせます」

「何と頼もしいお言葉。亡き阿花王様が天上にて直支王様のお言葉を耳にし、きっと涙を流して、お喜びの事と思います」

 武内宿禰は直支王子の未来に対する気概に喝采を送った。

          〇

 十月、百済の直支王子は応神天皇が準備してくれた津守の船団に自分の従者、莫勇や倭国兵、平群木菟らの護衛兵二百人と共に、任那経由で百済に向かった。任那に着くや、五百城大王、誉田真若王、木羅斤資らに挨拶し、それから黄海に回って北上した。そして扶餘に近い三賢の浜に上陸し、陸路を公山、天安、駒城を経て、王都、漢山に入城する予定だった。ところが三賢に至り、陣営を準備している時、倭国将軍、平群木菟は思わぬ人物に出会った。怪しい男が、木立の暗蔭から、こちらの様子を窺っているではないか。木菟は闇の中に身を低くして、その男の背後に回り、声をかけた。

「そこにいるのは何者じゃ。出て参られよ」

 すると男は素直に答えた。

「私は漢山に住む解忠という者です。どうか、お許し下さい」

「何故、そんな所に潜伏していたのだ?」

 平群木菟は男を捕まえると、厳しく解忠に詰問した。解忠は恐る恐る答えた。

「倭国の人にお会いする為、ここに潜んでいたのです」

「我は倭国の将軍、平群木菟である。願い出たいことがあれば、素直に申すが良い」

「倭国におられます直支王様に御報告せねばならないことがありまして・・・」

「何を伝えたいのじゃ?」

「それは・・・・」

「直支王様でなければ、言えないということなのか」

「はい」

「殺されても言えないということなのか?」

 平群木菟は解忠を威嚇した。解忠の覚悟は揺ぎ無かった。殺されても仕方ないといった固い覚悟だった。

「ならば、どうせよと?」

「私を倭国に連れて行って貰いたいのです。直支王様に直接お会いしたいのです」

 それを近くで聞いていた直支王子が、解忠に歩み寄った。

「解忠とやら、顔を上げるが良い。私はお前が会いたいと願っている阿花王の長子、直支王である。これから、この倭国将軍と百済王都に入ろうという矢先に、何事であるか?」

 直支王子の突然の出現に、解忠は唖然とした。そして慌てて後退すると、地面に両手をつき、涙流して言った。

「直支王様。お帰りなさいませ。私は余信大臣様の下臣、解忠です。よくぞ、お帰り下さいました。このような所で、お会い出来るとは、まるで夢のようです」

「歓迎してくれて有難う。して、私に報告したいこととは何事じゃ?」

 すると解忠は、百済王家の現状を説明した。

「まことに哀切きわまる建言に御座いますが、只今、百済では阿花王様が薨じられ、直支王様の末の弟、碟礼王様が、上の弟、訓解王様を殺して、勝手に百済王を名乗っておられます。どうか軽々しく百済の都に入らないで下さい」

 解忠の報告を聞いて直支王子の顔色が変わった。

「何じゃと。碟礼が、あの優しい訓解を殺しただと。何と愚かな。碟礼の奴、許せぬ」

 直支王子は百済王朝の現状を聞いて興奮した。解忠がそれを諫めた。

「直支王様。落ち着いて下さい。直支王様を支持する貴族や兵士たちが今、駒城や水城に集まっております。私の主人、余信に総てをお任せ下さい。必ずや碟礼王様を捕え、排斥される筈です」

 平群木菟は解忠の報告により、百済国内の乱れを知り、直支王子に一時の避難を勧めた。

「直支王様。ここは解忠殿の意見に従い、一時、避難されていた方が、得策かと思われます」

 直支王子も百済国内の詳しい状況が分らぬ為、平群木菟の意見に従うより他に方法が無いと思った。

「分かった。解忠。お前に総てを任せる。余信と共に力を合わせ、碟礼を捕えよ」

「では直支王様、一時、ここから退去願い、島に立て籠もり、吉報を待っていて下さい」

「島と言っても、何処の島が安全か?」

「ここから西に行けば、安眠島という大きな島があります。そこであれば敵に気づかれずに済むでありましょう。私の下来に案内させます。私がお迎えに上がるまで、平群木菟様と一緒に安眠島に隠れていて下さい」

 そう言われても直支王子は不安であった。平群木菟は、直支王子が不安でいるのを感じてか、直支王子が今、何を考えているのか、確認した。

「直支王様。平群木菟、何処へでもお伴致します。安眠島が嫌であるなら、任那に引き返しても構いません。何なりと、この平群木菟に遠慮なく申しつけ下さい」

「私は解忠の言葉を信じようと思う。従って私は護衛兵の半分を、任那に退却させる。そして自らは安眠島に移らず、ここに残り、五十名と一緒に隠れて、余信からの連絡を待つことにしよう」

「そんなに少ない護衛兵の数で大丈夫ですか?」

 平群木菟は心配した。すると、そんな心配は無用であると解忠が返事した。

「人数が少なければ少ない程、相手に気づかれません。大勢でいると、かえって危険です。直支王様の考えが正解だと思います」

「分かりました。では一部の兵を、任那に戻し、私は軍船にて半分の兵と共に待機しております。そして何時でも救援出来る体制にしておきます」

「有難う。それにしても、弟の碟礼の奴、とんでもないことをしてくれたものだ。何故に訓解を殺す必要があったのであろう。もし器量があるなら、自ずと百済王になれたものを・・・・」

 直支王子には弟、碟礼の愚行が信じられなかった。何故、兄弟で争わなければならないのか。解忠が、その問いに答えた。

「高句麗の間諜にそそのかされたのです。兄王たちを殺せば、高句麗が応援すると、そそのかされたに決まっています。そうでなくして、摂政であった自分の兄、訓解王様を何故、殺せましょう」

「ということは、碟礼の背後に高句麗がついているということか」

「そうです」

「それはまずい。そんな事をしたら、いずれ百済王家は、高句麗によって消滅されてしまう。高句麗と百済とが、倭国と百済のような関係になることは、如何に考えても不可能である。海を隔てての王朝同志の交流といった美しい絆は、高句麗との間では、とても考えられない。大陸国家というものは、陸続きであるが為に、強い者が弱い者を支配する一国一王朝の権力構造になっているのだ。高句麗が百済を支配するには、百済王朝は不要であり、何らその王朝の存在理由は無い。必要なのは只一つ、高句麗王朝だけなのだ。百済が高句麗の配下になれば、我が一族は抹殺されること必定である」

 直支王子は自分の前に立ちはだかる大きな壁に唇を噛み締めた。解忠も同感だった。

「百済王家だけでは御座いません。百済の貴族たちや倭国関係者等の総てが抹殺されるでありましょう」

「考えれば考える程、碟礼のとった行動は、国を亡ぼす行為だといえる」

 その直支王子と解忠の会話に平群木菟が加わった。

「ならば応神天皇様に救援を申し出て、一挙に碟礼王を討伐しましょうか?」

 平群木菟の提案に直支王子は首を振った。

「待って下さい。余信や解忠が百済国内のこととして処理しようとしているのです。むしろ、平群木菟殿には事態を静観願い、私、自ら方向を決めなければならぬ状況かと判断致します。何よりも重要なのは百済国民の声です」

「平群将軍様。直支王様に御一任下さい。百済国内の恥ずべき事を他国の人に相談する訳には参りません」

 直支王子と解忠は、今まだ、この状態で倭国に救援を依頼する時ではないと、救援を希望しなかった。平群木菟は不満だった。

「とは言っても、百済と倭国は親戚の間柄・・・」

「そのことは充分に分かっております。御恩は決して忘れません。平群将軍には、百済まで送っていただいたことだけで充分です。これからは自分で何とかやります。護衛兵五十名だけ、お貸し下さい」

 平群木菟は直支王子に随行することを断られ、面目を失ったが、直支王子の自分の国の問題は自分で解決しようという熱意に心打たれ同意した。

「分かりました。直支王様の意気込みを聞き安心しました。平群木菟、五十名の兵を置いて、船上に帰ります。首尾よく王位につかれましたら五十名を、お返し下さい。解忠殿。直支王さまを、よろしく頼みます」

 平群木菟は直支王子と解忠に、以上を言って別れを告げた。

「平群将軍様。有難う御座いました。この解忠、平群将軍様に代わり、しっかりと直支王様を、お守り致します。本当に有難う御座いました」

 解忠は陣屋へと立ち去る平群木菟を平伏して見送った。

「木菟!」

 直支王子が、木菟の名を呼んだが、平群木菟は振り返らなかった。武人らしい立ち去り方だった。自分は何処へ行けば良いのか。平群木菟は星空を見上げて呟いた。

          〇

 応神十一年(406年)三月、武内宿禰は百済に派遣した息子、平群木菟からの便りを受け、応神天皇に奏上した。

「陛下。百済へ戻られた直支王様が、内紛を鎮め、無事、百済王位に着かれたとの平群木菟からの知らせがありました」

「おおっ、そうか。それは良かった。目出度いことじゃ」

 応神天皇は武内宿禰からの報告を受け、笑みを浮かべ、百済の直支王の即位を心から喜んだ。武内宿禰は更に説明した。

「息子、木菟からの書面によれば、直支王様は、高句麗と共に碟礼王を支持した真一族を打ち破り、直支王様を指示した解一族の力を得て、政権を握ったようです」

「解一族?」

「解一族は百済の大臣、余信の配下で、元王族の解須、解丘、解忠といった将軍が、直支王様、御即位の為、命を懸けて活躍したとのことで御座います。倭国に来ていた莫勇も大いに奮闘したとのことです」

 武内宿禰の報告は、平群木菟の報告を忠実に伝え、落度か無かった。正月の百済からの帰国者から、百済の内紛の知らせを受けていた応神天皇は、武内宿禰の報告に、ほっとした。

「阿花王の後継者が、希望通り直支王と決まり、一安心じゃ。もし直支王が王都入り出来ず、安眠島に幽閉されてしまうようなことになったら、如何しようかと思っていた。しかし、直支王を支持した余信は勿論のこと、解一族や平群木菟らの活躍により、それを回避出来て本当に良かった。内紛を鎮めた連中に心から感謝する」

 応神天皇は百済王朝の内紛が、自らの理想通りに収まって、満足だった。武内宿禰も同じ心境だった。

「もし、碟礼王が百済王位にあのまま就いていたら、多分、百済は高句麗に占領され、今頃、百済王朝は滅亡していたでありましょう。そして更に広開土王は南下を狙い、高句麗の大軍を、任那へと進軍させたでありましょう」

「恐ろしいことになるところであった」

「勿論、そんなことになれば、新羅もまた、高句麗の命令に従い、任那を攻撃するでありましょう。そうなっては、如何に精鋭をそろえている任那とて、ひとたまりもありません。任那は完全に高句麗の支配下になってしまうでありましょう」

 武内宿禰の言葉を聞いて、応神天皇の顔色が変わった。

「となると、辰国のあった半島総てが高句麗のものになってしまう可能性があったということか?」

「はい。更に調子に乗れば、高句麗は海を渡って、倭国にまで、攻撃をしかけて来るかも知れません」

「そんなことになったら大変じゃ。そういう意味でも、倭国に留学していた直支王が王位に就いてくれたことは、倭国にとっても喜びであり、心強い」

「仰せの通りです。倭国にとっても、任那にとっても、直支王様が王位に就かれたことは実に喜ばしきことです」

 応神天皇と武内宿禰がそんな話をしている所へ、中臣烏賊津が仲津姫と共にやって来た。

「お話し中、失礼します。仲津姫様が、お見えになりました」

「おう、仲津姫どうした?」

 応神天皇は微笑し、美しく着飾った王妃、仲津姫に尋ねた。仲津姫は明るく笑って、参上の理由を述べた。

「任那からの使者が文書を届けに来たと聞き、何事かと、伺いに上がりました」

「そのことか。百済に戻った直支王が無事、百済王になられたとのことじゃ。その文書が、平群木菟から届いた」

「それはそれは、お目出度いことに御座います。私の祖父、五百城大王も、父、誉田真若王も、きっとお喜びのことでしょう」

 仲津姫もまた直支王の即位を祝福した。応神天皇は仲津姫に言った。

「最もなことである。任那にとっても直支王が王位に就けば安泰である。高句麗からの攻撃を直接、受けることなく、国民に平和な暮らしをしてもらえるだろう」

「それにしても人は何故、争い合わなければならないのでしょう?」

 仲津姫の素朴な質問に、長老、武内宿禰が敬意を払って答えた。

「それは長い因縁によるものです。たとえ血縁であっても、殺したり殺されたり、人は愚行を繰り返す愚か者です」

「それを止めさせる方法は無いのでしょうか?」

「それを止めさせる為、陛下が御苦労なされているのです。それを止めさせることが出来るのは、陛下、伊狭沙大王様をおいて他におられません」

 武内宿禰の言葉に、仲津姫は自分の夫、応神天皇をじっと見詰めた。仲津姫の視線を感じて、応神天皇は一瞬、ドキッとしたが、落ち着きを取り戻して自分の考えを仰られた。

「朕に、その力があるかどうか分からない。しかし、それを止めさせるべく、朕は努力する。他国を占領することなく、絶えず人的交流を行い、友好国を衛星的に増やし、世界の恒久平和を目指して行きたい。それが朕の夢である」

「流石、私の夫。しかし、その夢を実現させるには、高句麗の広開土王を倒さぬ限り、不可能ではないでしょうか?」

「倒す必要など無い。広開土王に南下を諦めさせ、倭国との親善を深めさせれば良いのだ」

「それは無理です。広開土王は辰国の祖は東明王であり、自分と同じ血が流れている故に、一国に統合したいと思っているのです。それ故、広開土王の、その考えを改めさせない限り、何時までも混乱が続きます。広開土王を倒すべきです」

 仲津姫は宿敵、広開土王を倒さぬ限り、平和は訪れないと主張した。しかし、応神天皇は、殺し合いを好まなかった。

「そうは言っても、時代は変わっている。朕の父、仲哀天皇は百済任那系倭人であり、母、神功皇太后は新羅系倭人である。高句麗との縁は薄くなっている。従って、高句麗に統合される謂われなど無い。朕は周辺国との人的交流を深め、高句麗とも仲良くしたいと思っている。それが伊狭沙大王の役目だと思っている。朕と広開土王の時代には不可能であっても、倭国は世界の友好平和を推進せねばならない。朕の時代は不可能であっても朕と仲津姫の子供の時代に、それが実現されれば、それで良い。朕の子供の時代に不可能であれば、そのまた息子の時代に実現させれば、それで良いのだ」

 応神天皇は、静かな声で未来を語った。仲津姫は夫、応神天皇の心の広さと、平和への情熱に、深く感銘を受けた。

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