■ 応神天皇即位と海外派兵
神功六年(396年)二月十七日、誉田皇子は敦賀にて元服の式を終え大和国の磐余の若桜宮に戻った。母親の神功皇太后はじめ、群臣たちは、その元服祝をしようと、宴の準備をして待っていた。誉田皇子と武内宿禰は、まず神功皇太后に笥飯神社で無事、元服式を済ませて戻って来たことの報告を行った。一番先に武内宿禰が挨拶した。
「皇太后様。誉田皇子様は敦賀笥飯神社にて元服式を挙げ、ここに目出度く都に御帰還なされましたことを、ご報告申し上げます」
その武内宿禰の言葉に間髪入れず、誉田皇子が続いて挨拶した。
「母上。誉田皇子、無事、元服の式を相済ませて戻りました。伊狭沙和気大神様にもお目にかかり、伊狭沙和気の御名を頂戴して参りましたこと、ご報告申し上げます」
神功皇太后は、頭髪を束ね雄々しくなった誉田皇子を瞬きしながら見詰め、微笑して言った。
「御苦労様でした。淡海の坂田から若狭を経て敦賀への長旅、さぞ疲れたことでありましょう。群臣たちが、朝から待ち酒を並べ、祝宴の席を準備して待っております。私はその祝宴の席にて、誉田皇子の天皇即位を群臣に告げようかと思います。この考えについて、宿禰はどう思いますか?」
神功皇太后の言葉に、二人は驚いた。武内宿禰は一瞬、考えた。女帝らしい息子への後継の布石の機会であると考えての周到な計算に相違なかった。武内宿禰は皇太后に答えた。
「異論は御座いません。誉田皇子様は敦賀伊狭沙和気大神様に認められました。その御告げは、立派な聖王になられるであろうとの事でした。まだお若いですが、皇太后様に摂政になっていただければ、無事、天皇としての御役目を果たせるものと確信しております」
神功皇后は武内宿禰の言葉に頷き、誉田皇子に質問した。
「誉田皇子よ。貴男は天皇となって国を治める自信がありますか?」
母、皇太后の質問に誉田皇子は元服した今の自分には皇位を受け継ぐ資格が備わっていると思えた。誉田皇子はこう答えた。
「私は選ばれた日嗣の皇子です。元服したからには、何時であろうと即位することに何ら躊躇することは御座いません。父上、母上の政治精神を引き継ぎ、倭国を繁栄させる夢でいっぱいです」
「何という心強い御言葉・・・」
武内宿禰は誉田皇子の言葉を聞いて感激し、涙が出そうになった。神功皇太后もまた息子の成長に胸がいっぱいになった。夫、仲哀天皇に、この言葉を聞かせてやりたかった。
「誉田皇子よ。私は貴男の覚悟の程を知ることが出来ました。私は自信を持って貴男を天皇に推挙出来ます」
「有難う御座います。天皇になるということは幼い私にとって、厳しく辛く苦しい重荷であるかと存じますが、これは皇室に生まれたが故の天より与えられた私の運命と思い、誠心誠意頑張ります」
神功皇太后は、元服し、落ち着き払った誉田皇子に対面し、これまでに成長させてくれたのは武内宿禰の教育指導よる賜物であると思った。
「武内宿禰よ。私は誉田皇子をこのように立派に教育成長させてくれた宿禰にお礼を言います。烏賊津が任那に駐留させておいた倭国の将軍、斯摩那加彦も、木羅斤資の力を借り、新羅を攻め、早羅城と金城の近くまで平らげ、立派な成果を上げ、数日前、沢山の土産を持って帰国しました。このような倭国の勝利により、これからは世界のあらゆる国が、倭国を偉大に思い、幼き天皇に跪き、倭国に朝貢して来るでしょう。これらは総て武内宿禰一族のお陰です。この御恩は天皇家の子々孫々、忘れずに引き継いで参ります。武内宿禰の一族に皇太后、心より感謝申し上げます」
「何と勿体無く有難い御言葉。天孫降臨のその昔より、天皇家にお仕えして来た我が一族にとって、当然のことをしたまでです。今後も全身全霊頑張りますので、我が一族をよろしく御引き立ていただきますよう心よりお願い申し上げます」
武内宿禰は、そう答えてひれ伏し、元服式を終えての帰国報告を終えた。
〇
誉田皇子と武内宿禰の報告を聞き終えると、神功皇太后は群臣たちが成人した誉田皇子を迎える祝宴の席に向かうべく立ち上がった。皇太后は侍従に言った。
「では、これから宴会場に出席します。案内して下さい」
会場に向かいながら誉田皇子は若桜宮の庭の梅の花が散って、桜の蕾が膨らみ、色づき初めているのを目にした。間もなく桜の花が咲こうとしている。宴会場の入り口近くに行くと、中臣烏賊津が待ってましたとばかり、駆け寄って来た。
「群臣一同、皇太后さまと誉田皇子様が現れるのを今か今かと待ち焦がれています」
それから物部胆昨が先導を務めた。
「こちらになります。御足元にお気をつけ下さい」
物部胆昨の後について、神功皇太后、誉田皇子、武内宿禰が宴会場に入って行くと、会場に集まった二百人程の群臣たちが、一斉に拍手した。大三輪大友主が深々と頭を下げ、言上した。
「皇太后様、誉田皇子様。奥の高台にお座り下さい。武内宿禰様はこちらの席へ」
三人が指定された席に着席したのを確認すると、大三輪大友主に代わって、中臣烏賊津が一同に伝えた。
「只今より、誉田皇子様の元服祝の酒宴を行います。御神前に大神酒を奉献する前に、皇太后様より、お言葉をいただきます」
中臣烏賊津の案内を受けて頷くと、神功皇太后は高台から群臣を一望し、静かに口を開いた。
「一同に告げる。我らが日嗣の皇子、誉田皇子は敦賀にて、元服式を挙げ、本日、この磐余の若桜宮に戻った。その元服された姿は、御覧の通り凛々しく、英知に満ち溢れている。仲哀天皇が御逝去されてより七年、我は皇后として、その空席を、皆さんの力を借りながら、お守りして来た。しかし日嗣の皇子が成人した今、その空席は日嗣の皇子に引き継がれ、我が守る必要が無くなりました。日嗣の皇子には、只今より、亡き仲哀天皇の遺言に従い、称号を応神とし、天皇に即位していただきたいと思っています。皆さんの賛同を得られればと願っております」
その言葉が終わるや否や、すかさず武内宿禰が、声を張り上げ、誉田皇子に向かって挨拶した。
「御意に御座りまする。応神天皇様、御即位、お目出とう御座います」
続いて大三輪大友主も応神天皇の即位を祝福した。
「応神天皇様、お目出とう御座います!」
「応神天皇様、お目出とう御座います!」
群臣一同が、大友主に従い、賛同の意を表した。神功皇后は満足して、何度も頷いた。神功皇太后から指名され、即位した応神天皇は、立ち上がり、一同に一礼すると、一同を見やり、挨拶した。
「朕は父、仲哀天皇と入れ替わる為、この世に生を受けた。爾来、朕は住吉を親として、武内宿禰を師匠として成長して来た。本日、ここに天皇として即位することを許されたが、万民の期待を裏切らぬよう、正しい政治に励んで行きたいと思う。一同の協力を、ここの場を借りて、よろしくお願いする」
その応神天皇の言葉に大三輪大友主が答えた。
「我ら群臣一同、応神天皇様のお言葉に従い、倭国隆盛の為、応神天皇様に一致団結し、努力協力することを誓います」
大友主の誓いの後、中臣烏賊津が再び、司会を始め、神功皇太后の御神前への礼拝をお願いした。神功皇太后は一同を代表して御神前に立って唱えた。
「遠き御祖よりの神々様、お慶び下さい。ここに応神天皇様の御即位をご報告致します。その御即位を祝福して、御神前に大神酒を捧げます。これからも神々様のお力により、我らをお守り下さい。我々に幸せをお与え下さい。よろしく、よろしく、お願い申し上げます」
神功皇太后はそう唱えてから、大神酒を御神前に奉献した。それを見届けてから、中臣烏賊津が、神功皇太后にお願いした。
「皇太后様。ここで、お祝いの御歌をお願い致します」
すると、皇太后は直ぐに歌を詠まれた。
この御酒は 我が御酒ならず
酒の司 常世に坐す 石立たす
少名御神の 豊寿ぎ 寿ぎ廻ほし
神寿ぎ 寿ぎ狂ほし 献り来し御酒ぞ
あさず食せ ささ
それは〈この酒は常世の神が醸し出してくれた御酒です。すっかり飲み干して下さい。さあ〉という歌であった。皇太后は、歌い終わると、応神天皇に大神酒を献ぜられた。中臣烏賊津は、続いて武内宿禰にお願いした。
「返歌を武内宿禰様にお願いします」
武内宿禰が待っていたかとばかし、応神天皇に代わって返歌を詠った。
この御酒を 醸みけむ人は
その鼓 臼に立てて 歌ひつつ
醸みけめかも 舞ひつつ 醸みけめかも
この御酒の あやに うた楽し ささ
そう歌って武内宿禰もまた応神天皇に大神酒を献ぜられた。続いて群臣一同、応神天皇に祝杯を捧げるよう、中臣烏賊津が一同に伝えた。
「では御歌に従い、我ら一同、応神天皇様の御即位を祝し、乾杯したいと思います。乾杯の音頭は大三輪大友主様にお願い致します」
烏賊津の指名により、大三輪大友主が杯を取り、大声を発した。
「天より遣わされた倭王、応神天皇様の御即位を喜ぶと共に倭国の繁栄を願って乾杯致します。乾杯!」
「乾杯!」
一同が大友主に合わせて大声で乾杯した。大友主は更に杯を上げて叫んだ。
「応神天皇様、万歳!」
「万歳!」
群臣一同、応神天皇の御即位を衷心より祝福して叫んだ。応神天皇も神功皇太后も大満足だった。その母子の姿を見て武内宿禰が、二人に向かって再度、お祝いの言葉を述べた。
「ここに目出度く、応神天皇様が御即位あそばされました。群臣一同、国民と共に心より、御即位を、お慶び申し上げます」
中臣烏賊津が念押しするかのように、高台の二人にお辞儀をした。
「お目出とう御座います」
「お目出とう御座います」
群臣一同、口々に祝福を称え合った。中臣烏賊津がその一同に開宴を伝えた。
「では酒宴に入ります。あらゆる美酒と沢山の料理、珍味、果物などが準備されております。気兼ね無く、飲んで、食べ、歌い、踊り、楽しい時をお過ごし下さい」
大三輪大友主と中臣烏賊津の段取りにより、応神天皇の御元服と御即位発表の祝宴はこうして、開催された。和気満堂。酒宴は夜になるまで、賑やかに続いた。そして十日後、応神天皇の即位礼が若桜宮の神殿で賑々しく行われ、応神天皇は戴冠した御姿を国民に披露し、第十六代の倭国王としての地位を確実に継承した。
〇
応神元年(396年)春、四月、大和の磐余若桜宮に、任那から、応神天皇祝賀の使者がやって来た。その使者が、誉田真若、羽田矢代、白都利らであると知ると、神功皇太后は大喜びして、使者を迎えた。神功皇太后は、応神天皇や武内宿禰ら重臣たちと大広間で、使者たちに接した。応神天皇と神功皇太后が着席するや、使者の代表、誉田真若が、皇太后親子の顔をじっと見上げて挨拶した。
「神功皇太后様、お久しぶりに御座います。皇太后様におかれましては益々の御健勝であられますこと、心よりお慶び申し上げます。また応神天皇様、御即位、誠にお目出とう御座います。父、任那大王を始めとする任那国民を代表して、心よりお祝い申し上げます。この誉田真若、この度、その御即位のお祝いの品々をお届けに任那任那からやって参りました。どうぞ、お受け取り下さい」
誉田真若の祝いの言葉に、神功皇太后が優しい声で、ゆっくりと声をかけた。
「有難う。遠い所を海を渡り、よく来てくれました」
応神天皇も続いて同じような歓迎の言葉を言った。
「有難う御座います。英明な真若殿のことは、幼い時より、皆から伺っております。よくお出で下さいました。応神天皇、心より御礼を申し上げると共に歓迎致します」
「歓迎、有難う御座います。こちらこそ、応神天皇様がここにいる羽田矢代の父君、武内宿禰殿より英才教育をお受けになり、実に英明なお方であると存じております。皇太后様の豊かな経験と見識及び応神天皇様の若き力により、倭国が益々、発展を遂げられますことを、真若、心より願っております」
「有難う御座います。朕の名は真若殿の凛々しさに肖り、誉田となっております。朕は、それ故、任那の次代を引き継ぐ真若殿を兄のようにお慕いしております。そうした間柄にあって、我々は先人たちから引き継いだ両国の平和と繁栄を守り抜いて行かなければなりません。新しい時代に相応しい希望に溢れ、誇りある倭人の国造りを互いに果たして行きましょう」
応神天皇はそう言って、高台から降り、皇太后の御前で、誉田真若と互いの手を強く握り合った。それを見た神功皇太后の瞳に涙が光るのを武内宿禰は見逃さなかった。使者たちの歓迎はこうして行われ、その後、朝堂院で盛大な宴が開かれた。新羅遠征に行った顔見知りの連中の歓迎に誉田真若は満足した。そして四月末、任那の使者、誉田真若らは羽田矢代を大和に残し、難波津から船に乗り、倭国を後に任那へ帰国した。
〇
応神元年(396年)秋九月、新羅と百済の両国から、朝貢の使者が一緒にやって来た。大三輪大友主が、そのことを応神天皇に伝えた。
「陛下。新羅、奈勿王の使者が朝貢に参りました。百済、阿花王の使者も一緒です」
それを聞いて、応神天皇は喜びの声を上げた。
「おお、そうか。先王の望んでおられた国々から、朝貢の使者がやって来られたか。父、仲哀天皇の時代でなくて、誠に残念である。父、仲哀天皇が御存命であったなら、さぞかし喜ばれたことであろう。皇太后様にはお伝えしたか?」
「皇太后様は御体調が芳しくなく臥せっておられますので、まだ伝えておりません」
大三輪大友主は、神功皇太后の容態が悪い事を応神天皇に語った。応神天皇は、母親の調子が悪い事を耳にして、一瞬、顔を曇らせたが、朝貢の使者の来訪に直ぐに対処すべく、大友主に答えた。
「左様か。ならば朕と武内宿禰とで、使者の引見をしよう。中央院に通せ」
「では彼らを中央院に案内致します」
大三輪大友主は、そう答えて、御座所から消えた。応神天皇は一緒にいた武内宿禰に話しかけた。
「それにしても、新羅と百済の朝貢の使者が一緒に来るとは不思議な事もあるものだ」
「それだけ陛下が偉大であるからでありましょう。彼らは沢山の珍しい物を持って来てくれたに違いありません」
「朝貢の使者は優秀な者が多い。何を考えているか分からぬ。気を許してはならぬぞ」
応神天皇は積極的であるが、母に似て用心深いところがあった。
「勿論、その点については充分、注意致します」
武内宿禰は応神天皇の成長の程に感心しながらも、朝貢の使者には用心せねばならぬと思った。応神天皇と武内宿禰は、そんな会話をしてから中央院に向かった。二人が中央院の高座に着いてから、間もなくして大三輪大友主が、朝貢の使者を連れて中央院の部屋に現れた。
「陛下。新羅ならびに百済の朝貢の使者を、お連れしました」
大友主が部屋の奥の高台に座っている応神天皇と脇に座る武内宿禰の前に進み出て、平伏し奏上すると、朝貢の使者六名も、大友主同様、大友主の後方に平伏し、挨拶した。まずは新羅の使者が口上を述べた。
「倭国王、応神天皇様におかれましては、御壮健、この上無く、心よりお喜び申し上げます。新羅の奈勿王の使者、阿利叱智、安良可也、曽利万智です。新羅内宮家として、新羅の産物を、お届けに上がりました」
続いて百済の使者が挨拶した。
「百済の阿花王の使者、久氐、弥州流、莫古に御座います。阿花王の命により、新大王、応神天皇様に朝貢に上がりました」
応神天皇は高座から一同を見下ろし、頷くと落ち着いて使者と会見した。
「海を渡った遥か向こうの国からの、はるばるの朝貢、心より感謝する。誠に大儀であった。倭国にて、ゆっくり休養され、いろんな場所を見学して行くが良い。ところで奈勿王は元気であるか」
「我が奈勿王は倭国女王様に無礼を働いた将軍たちを処刑し、その一族を奴婢に落とし、深く反省されておられます。任那におられた斯摩那加将軍様の部隊に早羅城と金城を攻められ、初めて、約束の朝貢を続けていなかったことを知った次第であり、実に申し訳なく思っておられます。奈勿王は新大王様の御即位を耳にし、即刻、我々三名を朝貢の使者に立てられました。応神天皇様に呉々もよろしくとのことで御座います」
新羅の使者、阿利叱智は奈勿王からの言葉を伝えた。応神天皇は、この新羅の状況を、誉田真若や斯摩長彦からも聞いていたので、冷静に受け止めた。
「奈勿王の恭順の程、良く分かった。朕は貴国とこれから長く交流を深めて行きたい。裏切りさえ無ければ、我が国は大人しい国である。朕は伊狭沙大王として、これから世界を治めて行くよう、天の神様より、宣旨を賜った。新羅はもともと伊狭沙大王の統治下にあった国の一つであり、朕も大切な国の一つであると考えている。故に帰国したなら、奈勿王に、このことを知らしめ、定期的に我が国と交流されるよう希望すると伝達されよ」
「有難きお言葉。我ら三名、帰国し次第、奈勿王に、この旨、必ずお伝え致します」
少年王とは思えぬ応神天皇の威厳ある威圧的言葉に、阿利叱智らは頭を上げることが出来なかった。続いて応神天皇は、阿利叱智らと並列している百済の使者らに目をやった。
「ところで久氐。百済王阿花は元気でいるか?」
「はい。健やかに御座います。皇太后様や応神天皇様に呉々もよろしくとのことで御座います」
「高句麗や新羅や任那とは友好的にやっているか?」
応神天皇は新羅の使者が同席していることも気にせず、思いのままを尋ねた。久氐は新羅の使者もいることもあり、戸惑いを内に秘め、応神天皇の質問に答えた。
「任那の五百城大王様の警護により、燕国や高句麗からの侵略はありません。また新羅国とも親交が深まり、この度、このようにして同じ船にて、朝貢に参りました。このような平和は、応神天皇様が伊狭沙大王となられ、世界を監督なさっているからでありましょう。」
「朕はまだ充分に世界を監督しきっていない。任那を通じ、世界を見ているが、これでは真実を把握することが出来る筈が無い。朕自ら、母上同様、渡海し、任那、新羅、百済、高句麗、燕、秦らを踏査して、はじめて世界を知り、世界を監督出来ると言えよう。それ故、朕は近いうちに、汝等の国をはじめとする大陸の諸国を訪問することを計画している」
その応神天皇の言葉に逸早く新羅の阿利叱智が世辞を言った。
「その時は是非、新羅にお立ち寄り下さい。お待ちしております」
「勿論、訪問する」
「百済にも、お越し下さい」
久氐の真剣な顔を見て、応神天皇は笑った。そして優しく弁じた。
「百済にも訪問する。自ら各国を巡回踏査し、各国の実情を知り、伊狭沙大王としての指示をしよう。今、人々は他人の物を奪い合うことに狂奔しているが、これは大きな誤りである。己自身の弛まぬ努力によって、食糧や財物を得、保存することが、真の人の姿であらねばならぬ。朕は国民、一人一人の努力によって、平和で豊かな時代になると信じている。悪い者は必ず滅び、善い者は必ず栄える筈じゃ」
応神天皇に続いて、天皇の側の席に座っていた老臣、武内宿禰が、付け加えるように喋った。
「その通りで御座います。その昔、晋の昭候を殺した大臣、潘父は昭候の子、孝候に処刑されました。焚書坑儒を行った秦の始皇帝は、側に仕える宦官、趙高に毒薬を飲まされ死にました。楚の項羽を裏切って劉邦に仕えた韓信は、謀反を計ったという理由で処刑されました。悪い者は真実、必ず滅びるもので御座います」
応神天皇は頷き、目の前の使者たちを見下ろして続けた。
「ここに朝貢に来られた新羅、百済の両国においては、そのような悪い者は滅亡し、今や平和な国となった。朕は、はるばる海を渡って朝貢に来られた汝ら使者一同に心から感謝の意を表する」
「有難き仕合せに御座います」
「有難き仕合せに御座います」
使者六人は応神天皇に再び平伏し敬礼した。そして朝貢の品々を天皇の前に並べて、説明したりした。かくて応神天皇の新羅、百済の朝貢の使者との面談は終了した。
〇
新羅、百済の朝貢の使者との面談を終えた武内宿禰は、中央院の部屋の中に運び込まれた朝貢の品々を検閲整理させながら、何故か疑問を抱いた。両国の貢物の差異が余りにも大きかったからである。武内宿禰は、そのことが気になったので、百済の使者、久氐らと親しい中臣烏賊津に命じ、その理由を調べさせた。それを受けて中臣烏賊津は、斯摩那加彦に声をかけ、理由を審問することにした。まずは百済の三人を大臣室に呼んで面談した。
「久氐殿、弥州流殿、莫古殿。この烏賊津、那加彦と共に百済滞在中は大変、お世話になった」
「いいえ。私たちこそ、烏賊津様や那加彦様に種々、御支援いただき、国内をまとめることが出来、有難う御座いました」
久氐と一緒に弥州流、莫古の二人が、深く頭を下げるので、烏賊津も那加彦も赤面した。烏賊津は三人に言った。
「あれらの支援は任那国の五百城大王様からの支援であり、私たちの力では無い。お礼は任那大王様に言ってくれ」
「我らが王、阿花王も、今、王位にあるのは神功皇太后様と五十城大王様の御支援によるものと良く理解しておられます。それ故、我らは倭国朝貢の途中、任那国に立ち寄り、五十城大王様に会うことを命ぜられました。ところが道に迷ってしまい・・・」
そこまで喋ると、久氐は突然、泣き出しそうになり、声を詰まらせた。一体どうしたというのか?那加彦が声をかけた。
「おい、どうした、久氐。そんな情けない顔をして?」
すると久氐は一旦、目を伏せてから再び目を開け、思いを決したように話を続けた。
「私たちは運悪く、途中、新羅国に迷い込んでしまったのです。私たちは新羅王に捕らえられ、牢屋に閉じ込められていました。そして三ヶ月経って、私たちは殺されそうになりました。私たちは天に向かって新羅王を呪いました。すると新羅王は、その呪いを恐れ、私たちを殺すのを止めました」
武内宿禰が何かあるなと予想していた通りであった。烏賊津と那加彦は久氐の話を聞き、怒りを覚えた。
「それで?」
「新羅王は私たちの貢物を奪って、自分の国の貢物としました。新羅の賎しい物と、我が国の貢物を入れ替えました。ですから、この度、応神天皇様にお届けした百済の貢物は内容も少なく、良い品物を抜き取られ、粗末な物になっていたかと思われます」
久氐の説明に、那加彦は頷いた。
「その通りじゃ」
「新羅の贈り物は珍しい物が多く、素晴らしかった。それで私も、不思議に思い、その理由を知りたくて、那加彦と親しい貴男方を、この大臣室に呼んだのじゃ」
烏賊津の言葉に今まで無口だった莫古が、少し震えながら話した。
「新羅王は私たちに言いました。もし、このことを漏らせば、同行した新羅の兵が、お前たちを殺すと・・・」
「私たちは、それを恐れ、彼らに従い、新羅より、新羅の朝貢の船に乗って、百済の使者としてやって参りました」
久氐は、両目に涙を溢れさせた。弥州流も、もらい泣きして烏賊津に訴えた。
「私たちは、倭国に、あの烏賊津臣様がいる。斯摩那加彦様がいる。だから、きっと助かる。そう信じて、私たちは励まし合い、今日まで頑張って参りました」
「左様であったか。新羅王は何と小狡い悪賢い事をする奴じゃ。この悪事は必ず、伊狭沙大王様に知れて、彼らは再び罰せられるであろう」
すると、大臣室の扉が開いた。
「その通りじゃ」
突然、武内宿禰が一同の前に現れた。
「宿禰様。いつの間に・・・」
「立ち聞きして申し訳ない。陛下が、百済の実態を知りたいとのことで、皆様をお迎えに上がったところ、この部屋にいるとのことで、つい立ち聞きしてしまった。それにしても、新羅の奈勿王という男は何と悪質な男であることか」
「全くもって同感です。人を謀ることを何とも思っていない腹黒い奴です。攻められ、不利と思えば降伏し、和解すれば、また裏切る。この繰り返しです。かような悪人は徹底的に傷めつけないとことには、同じ悪事を繰り替えし続けるでありましょう。何とかしないと・・・・」
中臣烏賊津は奈勿王への憤りで腹が立って、気分が治まらなかった。那加彦は怒りに唇を噛み締めていた。久氐が武内宿禰にすがりついた。
「烏賊津臣様の仰せの通りです。武内宿禰様、どうか、このことを応神天皇様に奏上願い、新羅王を懲らしめて下さい」
「お願いします」
「お願いします」
莫古と弥州流も武内宿禰に切願した。武内宿禰は百済の使者三人に答えた。
「分かった。ことの経過を陛下に説明し、新羅に兵を送ろうと思う。私について来られたい。陛下の所へ案内する」
「畏れ多いことに御座います」
百済の使者三人は、武内宿禰、中臣烏賊津、斯摩那加彦の後に従い、大臣室を出た。
〇
幾つかの廊下を通り、百済の久氐、弥州流、莫古の三人は、中央院内の応接室に案内された。精緻な彫刻をほどこした扉の前に、警備兵が立っており、武内宿禰を見るや、深く頭を下げた。
「こちらじゃ」
「久氐殿、弥州流殿、莫古殿。どうぞ、どうぞ」
武内宿禰と中臣烏賊津と斯摩那加彦の三人が百済の使者、三人を応接室に招き入れた。部屋に入るや大三輪大友主が立っていて、口火を切った。
「先程より、陛下が首を長くしてお待ちしておられます」
すると武内宿禰は、部屋の中央に座る応神天皇の前に向かい、百済の使者を自分の横一列に並べさせて平伏した。中臣烏賊津と斯摩那加彦も、その後に並んで平伏した。
「長らくお待たせ致しました。百済からの使者を、お連れしました」
「ご苦労」
応神天皇は、そう武内宿禰に答えてから、目の前で恐縮している三人に優しく声をかけた。
「折角の休養のところ、呼び立てして済まぬ。先日も質問させてもらったが、大陸の状況をもっと詳しく知りたい。汝たちの報告によれば、百済は何処からも侵略されることも無く、平穏であるとのことであったが、何故か、すっきりしない。新羅の使者たちと汝ら百済の使者の顔つきに相違をあった。朕としては気がかりである。隠すことなく、大陸の実情を教えて欲しい」
すると久氐が即座に答えた。
「伊狭沙大王、応神天皇様のお見通し、恐れ入ります。このことについて、中臣烏賊津様と斯摩那加彦様に先程まで質問されていたところです」
百済の朝貢使、久氐の苦し気な返答に、中臣烏賊津が代わって、応神天皇に言上した。
「久氐殿の説明によれば、新羅の奈勿王の使者、阿利叱智、安良可や曽利万智は新羅王から派遣された悪人とのことです。今回、献上された品々は、百済が任那と倭国の為に準備したもので、それを新羅王が奪って、自分たち新羅の貢物にしたとのことです」
「それは酷いな。新羅王とは、そんな悪知恵を働かせる卑劣な男なのか?」
応神天皇は新羅の奈勿王の悪質な行為を聞いて、呆れ果てた。百済の使者、久氐は、この時とばかり、応神天皇に上訴した。
「新羅は今、高句麗の手先になり、百済、任那への侵略準備を秘かに進めております。この度の新羅の使者、三名も、倭国の内情を把握する為、派遣された密偵のようなものです。倭国内が乱れていれば、倭国にも侵攻しようという奈勿王の考えです」
若き応神天皇は、久氐の訴えを耳にして、怒りが身体中に熱く駆け巡るのを抑えきれなかった。応神天皇は激昂した。
「何と道理をわきまえぬ新羅王であろうか。武内宿禰よ、問答無用じゃ。新羅の朝貢使を直ちに帰国させよ。そして、この百済の者たちについては、身の安全を考え、後日、帰国させよ」
「ははーっ」
武内宿禰は応神天皇の指示に従うことにし、百済の使者三名の護衛兵を増やすことにした。
〇
数日後、武内宿禰の命を受け、斯摩那加彦は新羅の朝貢使、阿利叱智に百済の使者を倭国に置いて行くよう指示し、新羅に帰国させた。頭の回転の速い阿利叱智は新羅の悪事が露見したと気付いたのか、直ぐに来た時の船の帆をあげ、慌てて難波津から帰って行った。一方、応神天皇は、母、神功皇后に新羅の朝貢の使者を帰国させたことを打ち明けた。それを聞いた神功皇后の反応は厳しいものであった。
「あの奈勿王、私との約束を覚えているでしょうに。何ということを・・・」
「でも本当に、新羅の奈勿王は母上に、服従を誓ったのですか?」
「勿論よ。彼は、あの時、女王様の御統治下にしていただきたいとまで言った筈よ。余りにも低姿勢だったので、私は任那と同様、兄弟国として付き合いましょうと約束したの。それがいけなかったのかしら。奈勿王の王子、微叱許智を人質にしていたのに、彼にも騙され逃げ帰られてしまったりして・・・」
「ということは、新羅とは、戦っていないのですね。国王会談で済ませたということですね」
応神天皇が厳しい顔つきで母を見詰めた。自分は生まれてからずっと、母、神功皇太后が大軍を率いて、新羅を討伐して帰られたものと教えられて来たが、実際は違っていたのだ。総ては初めて聞くことばかりであった。神功皇太后は、応神天皇の問いに無言で頷いた。
「烏賊津、今の話は本当か?」
「はい、事実です。その後は、何度か、任那と新羅の小競り合いがありましたが、何とか平和は保たれておりました。しかし、今回の百済の使者からの報告は異常です」
烏賊津は、そう答えて息を吐いた。それを確認し、応神天皇は苛立った。
「何と道理をわきまえぬ新羅の奈勿王であろうか。こうなったからには、再び新羅に遠征し、新羅王を懲らしめるしか方法は無いと思う。皇太后様、再度の新羅討伐を決行しようと思いますが、よろしいでしょうか?」
「私も話を聞いて立腹しました。このまま黙っている訳には行きません。陛下の御裁可にお任せします」
「ならば決まりです。直ちに兵を新羅に向けるよう軍船の手配から始めよ」
応神天皇の裁可を受け、その場にいた武内宿禰、大三輪大友主、中臣烏賊津、物部胆昨、津守住吉、大伴武持たち重臣での遠征作戦会議が直ちに開催された。武内宿禰が口火を切った。
「誰を新羅に派遣しましょうか?」
応神天皇が直ぐに答えた。
「倭国最強の兵を引き連れ、朕自ら奈勿王討伐に向かう」
「そ、それはなりません。陛下自ら異国に赴かれることは、私が許しません」
神功皇太后が強い声で反対した。それに対し、応神天皇が反論した。
「何で朕が出向くことに反対されるのです。母上も行かれたではありませんか?」
「あの時とは、状況が違います。倭国王は、じっと若櫻宮で待っていれば良いのです」
「そうで御座います。陛下が御出でになるまでもありません。ここは新羅遠征を体験された皇太后様の御意見に従い、ことを進めましょう」
武内宿禰が血気に逸る応神天皇を諫めた。応神天皇が納得したところで、再度、武内宿禰が言った。
「誰を派遣しましょうか?」
「倭国最強の兵を差し向けよ」
応神天皇の余りにも積極的な新羅遠征の決断に、重臣たちは吃驚した。命令を受けた武内宿禰と重臣たちの決断も早かった。
「ならば、新羅遠征の経験者、葛城襲津彦に新羅征討の大将軍役を命じましょう」
「武内宿禰よ。またも襲津彦を派遣して構わぬのか?」
「大丈夫です」
武内宿禰は、この際、幾度かの失敗はあるが、自分の息子を派遣すべきだと思った。続いて津守住吉が発言した。
「軍船と船長及び武器、兵糧の手配については、前回同様で良かろうかと思います」
「そうだな。それで良かろう。大友主に意見はあるか?」
応神天皇は、武内宿禰に次ぐ重鎮、大三輪大友主にも意見を訊いた。
「はい。私は今回、斯摩那加彦の弟、千熊長彦を襲津彦殿に同行させてみてはどうかと思っております」
「それも良かろう。では長彦を副将軍としよう。烏賊津に何か意見はあるか?」
その問いに中臣烏賊津は待っていましたとばかり意見を述べた。
「新羅遠征はつい昨日のようなこと。重要視すべきは、かの地での経験と実力です。それを考えると、前回、活躍した東国の武将、荒田別、鹿我別と毛野別を差し向けるべきでしょう。彼らは騎馬を得意とし、勇猛果敢、大陸の山河を侵攻するのに最適の軍団を所有しております。彼らなら陛下の願い通り、思う存分、暴れまくってくれるでありましょう」
「まさに適任じゃな」
「はい。烏賊津臣の意見、この武内宿禰も賛成です。彼ら東国勢は風雲にも強く、強馬精兵の集団です。任那の兵と共に、あっという間に新羅を退治してくれるでありましょう」
武内宿禰の言葉に応神天皇は満足そうに頷いた。かくてまた倭国の新羅討伐が決行されることになった。この決断を聞いて、百済の使者三人は、喜んだ。
〇
応神二年(397年)正月、倭国王、応神天皇は母、神功皇后が新羅遠征を行った時とほぼ同じ、安曇、岡、伊都、武、穴門、出雲、佐波、松浦の船団に、七万の兵を乗せて、新羅に向かわせた。新羅征討大将軍、葛城襲津彦は新羅の東岸、太白山に沿って、四万の兵を乗せた二千隻を待機させ、任那に訪問し、金官城にて任那大王、五百城入彦と誉田真若王子に会い、今回の渡海の説明を行い、百済の使者と貢物を渡し、兄、木羅斤資らと、今後の作戦について相談した。そして先ずは、千熊長彦と白都利を新羅に遣わし、新羅が百済の献上物を穢したことを責めさせた。ところが奈勿王は知らぬ存ぜぬで、千熊長彦の抗議を一向に聞き入れようとしなかった。三月、業を煮やした葛城襲津彦は荒田別、鹿我別、毛野別を大将とした軍勢を卓淳、伊西、干尸山に配置し、自らは卓淳に本陣を構え、新羅を攻めさせた。しかし、いざ戦ってみると戦況は葛城襲津彦の思うように進行しなかった。白都利と前戦に偵察に行って、戻って来た千熊長彦は倭国の大将軍、葛城襲津彦に苦戦状況を説明した。
「襲津彦様。新羅軍は思ったより強力な精兵を集めており、荒田別軍は中々、進軍することが出来ずにおります。何か対策を考えませんと」
葛城襲津彦は、それを聞いて、どうして新羅軍がそんなに強くなったのか、不思議でならなかった。千熊長彦の説明に首を傾げた。
「以前、斯摩那加彦殿が新羅を攻めた時は、敵が簡単に後退したと聞いているが、今回は、どうしたことか?」
そこへ荒田別大将が現れ、葛城大将軍に言った。
「新羅軍の中に、高句麗兵がいるのかも知れません。敵は今までと違う武器を所有し、今まで以上に執拗です」
荒田別は新羅の背後で高句麗が動いているのではないかと推定した。葛城襲津彦は千熊長彦に尋ねた。
「任那からの応援は、どうなっている?」
「久氐殿の依頼を受けて、五百城大王様の皇子、誉田真若様、自ら、私たちの応援に駆けつけていただけるとの伝令がありました。真若様の軍は、高句麗軍も恐れる程の粒揃いとのことです」
「久氐殿は、百済に戻られたのか?」
襲津彦は自分たちと一緒に卓淳にまで来ていた久氐の動きを確認した。すると白都利が答えた。
「いえ。真若様と一緒に、こちらに再び向かっている筈です。彼は新羅の地理に詳しく、私たちと一緒に、新羅を懲らしめたいと願っております」
「中々、根性のある男だ。普通なら、百済へ逸早く逃げ帰るものを・・・」
「彼ら百済の三人は、彼らの窮状を理解し、直ぐさま、新羅攻撃を決断された応神天皇様をお慕い申し上げております。彼らは応神天皇様と百済の為なら、命を失っても惜しくは無いと言っております」
白都利の言葉に、荒田別が、ぽつりと言った。
「異国人にも尊敬されるとは、応神天皇様も大したものだ。流石、我ら倭国の大王である」
荒田別は応神天皇が異国人にまで与えている魅力に感心した。卓淳国の末錦旱岐もまた、会ったことも無い噂の応神天皇を崇拝していた。
「応神天皇様のことは、我々、卓淳の者たちも、任那五百城大王様や真若様から、お伺いしております。我々も百済の者と同様、応神天皇様を尊敬しております」
そんな会話をしている最中、末錦旱岐の従者の過去が、卓淳の本陣に入って来て伝えた。
「末錦旱岐様。誉田真若様が、お見えになりました。如何致しましょう」
「おお、お見えになられたか。ここにお通し申せ」
末錦旱岐の指示を受け、過去は誉田真若とその従者をお迎えした。最初に顔を現わした木羅斤資が、弟、襲津彦を見て、苦笑いした。それから卓淳の末錦旱岐に言った。
「末錦旱岐殿。しばらくぶり。沙白と蓋盧からの連絡を受け、若をお連れ申した」
木羅斤資が誉田真若王子を紹介すると、木羅斤資の後ろから武装した誉田真若が笑顔を見せた。その輝くばかりの真若王子の姿は、不思議な程、大きく見えた。末錦旱岐ら卓淳の者は勿論のこと倭国兵も、誉田真若を見て、その前にひれ伏した。末錦旱岐は平伏しながら挨拶した。
「誉田真若様。突然の無理なお願いにも関わらず、こんなに早くお越しいただき、誠に有難う御座います。卓淳を治めている末錦旱岐、お恥ずかしい話ですが、敵の猛烈な攻撃に難儀しております。葛城襲津彦様も悩まれておられましたので、百済の久氐殿に沙白と蓋盧を連れて行ってもらい、救援をお願いした次第です。誠に申し訳ありません」
すると誉田真若は倭国の将軍たちのいる前で、末錦旱岐の肩を叩いた。
「末錦旱岐よ。そう恐縮するでない。葛城襲津彦殿からの一大事との知らせに、父、五百城大王の命を受け、助っ人に参ったのじゃ。気にするな」
その様子を見て、葛城襲津彦が、誉田真若に礼を言った。
「真若様。有難う御座います。本来なら、私自ら金官城に出向き、五百城大王様に実情を説明し、お願いせねばならぬところを、他国の使者を使っての無礼、お許し下さい」
葛城襲津彦は、百済の久氐を代理にしたことを詫びた。
「名将、襲津彦殿が来られない程までに苦戦しているのであろうとの、父の言葉であった。従って我も木羅斤資、沙沙奴跪といった任那最高の将軍を引き連れてやって来た。もう心配することは無い。任那と倭国が一つになれば天下無敵じゃ」
「それにしても、今回の新羅兵は予想以上に騎馬を使い攻撃して参ります。我ら倭国軍の半分は船乗りであり、馬に乗ることが出来ません。我ら荒田別軍も奮戦していますが、敵の突然の襲撃に遇い、散々に痛め付けられております」
葛城襲津彦は苦戦している状況を誉田真若に語った。真若は自信満々に答えた。
「我ら任那の兵は騎馬の民である。誰もが馬を巧みに乗り回す。遠慮することは無い。応援が少なければ少ないと正直に言ってくれれば良い。如何に倭国の精兵であっても、高句麗を後ろ楯にした新羅を自分たちだけで討伐しようなどと、余りにも滅茶苦茶だ。神功皇太后様をはじめ、今までの戦闘には、必ず任那に加担するよう、数ヶ月前に、倭国からの使者が来られた。今回は突然過ぎた。それに苦戦してからの応援要請とは余りにも水臭いぞ」
「申し訳ありません。葛城襲津彦、周囲の状況が変化していることもわきまえず、功のみに焦り、とんだ失敗をしてしまいました。新羅、奈勿王の倭国に対する無礼の怒りに、余りにも無謀な挑戦をしてしまいました」
「何もかも、この荒田別が悪いのです。敵を甘く見過ぎました」
荒田別は頭を下げっぱなしだった。百済の久氐が、頭を下げる葛城大将軍や荒田別大将を見かねて、誉田真若に詫びた。
「私が悪いのです。奈勿王、憎しの余り、荒田別様をはじめとする倭国兵と卓淳国兵を、直接、敵の陣地、達句まで案内したのが、いけなかったのです。深くお詫び申し上げます」
誉田真若は、ひととおり、各人の話を聞いて、頷いてから言った。
「各人、何も謝る事は無い。倭国と任那は海を挟んでの同一の国であり、心を一つにしなければならないと言っているのです。我が父、五百城大王は、成務天皇様の弟であり、任那にある五百の城を護る為、倭国より派遣された任那総督府の総責任者です。従って貴男方が困っていれば進んで手を差し伸べるのが我々、任那の者の役目です。貴男方の敵は我ら任那の者にとっても敵なのです。新羅は今、奈勿王の弟、実聖王が高句麗に加担し、奈勿王から、その王権を奪おうとしています。その為、高句麗、広開土王の兵が、百済、任那、倭国を征服することを理由に、新羅になだれ込んで来ています。このことは我ら任那は勿論のこと、百済、倭国にとっても、相当に危険な状況が迫って来ているということです」
「と言うことは、新羅が高句麗に併呑される可能性があるということですね」
誉田真若の言葉に、倭国大将軍、葛城襲津彦は唖然とした。新羅は只単に倭国王室の内宮家の存在から脱皮しようとしているのだと思っていた。ところが違ったのだ。襲津彦の兄、木羅斤資が凛然として答えた。
「その通りです。倭国に従うとした新羅が滅んで、高句麗に統合されようとしているのです」
「そればかりではありません。高句麗は百済をも併呑しようとしています」
任那の将軍、沙沙奴跪が付け加えた。真若は倭国の将軍や任那の将軍たちを前に、自分の考えを伝えた。
「調査によれば事態は急変している。高句麗の広開土王が新羅に足を踏み入れる前に、我らは新羅を倭国の支配下に治めねばならぬ。それ故、明朝、久氐、曽利万智の道案内で、再び新羅に突入する。総ての指揮は、この真若が行なう。倭国の将軍、任那の将軍ともに差別無く、我に従え」
「私たち倭国の者、一同、誉田真若様の指揮のもとに、一致団結して頑張ります。よろしくお願い致します」
葛城襲津彦は、倭国軍を代表して、誉田真若の指揮に従うことを誓った。荒田別、千熊長彦らも、それに唱和した。
「よろしくお願い致します」
かくて倭国、任那の連合軍は新羅に突入することとなった。
〇
誉田真若の率いる倭国、任那連合軍は、高句麗の先鋒になろうとしていた新羅に攻め入った。しかし、新羅の味方をする高句麗軍も兵を動かし防戦体制をみせた。その為、合戦は思うように行かなかった。それでも倭国、任那連合軍は奮戦、奮戦を繰り返し,勇敢に戦った。激しい戦いは何日も続いた。一方、伊西に布陣した鹿我別軍と干尸山に布陣した毛野別軍は己抵で合流し、雑林に攻め上った。また安曇磯良と武宗方の海兵隊が東海の迎日湾から勤耆に侵入し、漁村を支配下に治め、高句麗軍を北方に追いやった。三方を倭国、任那連合軍に囲まれた新羅の奈勿王をはじめ、その重臣たちが、慌てふためいたことは言うまでも無い。前方には任那の誉田真若王子軍と倭国の大将軍、葛城襲津彦軍の脅威を控え、左には荒っぽい倭国の騎馬軍団が侵攻しており、背後の海岸から剛勇な倭国水軍が上陸し、こうなっては、前回、倭国に攻められた時と同様、奈勿王みずから、倭国、任那連合軍の前に跪いて、倭国の内宮家であることを再度、訴え、まずもって、この度の不祥事を詫びることだと決断した。奈勿王は、護衛兵を従え、任那の誉田真若と倭国の大将軍、葛城襲津彦のいる高霊城にやって来て、降伏を伝えた。
「誉田真若様、葛城襲津彦様。お久しゆう御座います。本日、新羅王、奈勿尼師今、我が国が倭国の応神天皇様に対して無礼を働き、かつまた悪賢い私の弟が高句麗と結託し、南に侵攻した過ちを犯したことのお詫びに伺いました。先般、御使者、千熊長彦様がお越しになられた時は、委細分からず、知らぬ存ぜぬと申し上げましたが、その後の調べで弊方の過ちと判明致しました。ここに深くお詫び申し上げます。私の知らなかった事とはいえ、実際に行った事ですから、本日、その御処罰を仰ぐつもりで、ここまでやって参りました。倭国王に無礼を働いた罪、高句麗と結託した罪、どうかお許し下さい」
葛城襲津彦は考えた。もし任那の誉田真若王子軍が駈けつけてくれていなかったなら、高句麗、新羅の連合軍の猛威に倭国軍は沢山の兵を失い、敗北していたかも知れない。今日の大勝の処置については勝利を導いてくれた誉田真若王子に任せようと、襲津彦は黙っていた。すると、誉田真若が奈勿王に対応した。
「新羅の悪業については、今更、繰り返し述べる必要もあるまい。人の生涯、国の約束には、守らねばならぬ誠意というものがあるものだが、汝らは、それを破った。その罪は重い。しかしながら、首を刎ねられることを覚悟して来られた奈勿王の狼藉を咎めまい。倭国の天皇家の内宮家であることに免じ、許す。しかし、今回の犯行に関わった者は、貴国内で必ず処罰せよ。その結果をもって、倭国の応神天皇様へ報告する。忘れてならないのは、我らは辰国民の後裔であり、ひとつ主をいただく兄弟国である。そのことを理解せず、高句麗と結託するなど、身の程知らずのことをすれば、また同じことになる。再び、同じ事あらば、新羅王とて命は無いと思え」
誉田真若に諭されると奈勿王は床に手をついて真若と襲津彦に答えた。
「分かりました。もう二度と同じ事を繰り返しません。自らの失敗を悔い改め、償いを実施し、御身内から信頼されるよう努力致します」
その答えを聞いて、誉田真若が襲津彦に話を振った。
「襲津彦殿から何か御意見ありますか?」
襲津彦は一瞬、考えたが直ぐにこう言った。
「奈勿王様は、神功皇太后様と御縁のある新羅の代表者です。皇太后様は、今回の応神天皇様への対応を大変、憂えておられました。あのお優しい皇太后様の為にも、皇太后様とお約束なされたことは今後も遵守して下さい。さすれば、奈勿王様も任那大王様と同様、倭国の人々から高く評価されるでありましょう。倭国への忠誠は新羅の平穏を約束するものです。このことを肝に命じ、政務を行って下さい。本日の申し出、神功皇太后様と応神天皇様にお伝え致します」
「よろしくお願い申し上げます」
高霊城での戦争終結の会談は短時間で終わった。奈勿王はほっとした面持ちで、護衛兵と共に新羅の王都、金城に帰って行った。真若王子と葛城襲津彦たちは、無事、役目を果たし、任那の金官城に凱旋した。そして任那大王に、新羅平定の報告をした。
〇
新羅平定を終えて、任那に戻った葛城襲津彦と荒田別、千熊長彦は、それから数日して、兵を西方に移し、木羅斤資を筆頭に、百済の阿花王と直支王子に会う為、百済に向かった。何故なら、任那と倭国が新羅を相手に戦っている間、高句麗が百済に侵攻し、王族が南に避難しているという任那大王、五百城入彦からの話を受けたからであった。一行は百済の久氐らの案内で阿花王が避難している意流村に到着するや、阿花王と面談した。隊長の木羅斤資は、阿花王に会うと、阿花王に倭国、任那連合と手を組むことを勧めた。
「阿花王様。直支王子様。倭国と任那の連合軍は今や完全に新羅を支配下に治め、その力は抜群です。貴国が今、高句麗の襲撃に苦しんでおられると聞き、その支援にやって参りました。高句麗の広開土王の南下政策を防ぐには、百済もまた倭国、任那連合軍と手を組み、積極的に高句麗に立ち向かうべきです。まずは高句麗を討ち破り、外患を無くし、民を安んじ、国を守るべきだと思いますが・・・」
阿花王は、その木羅斤資の真心のこもった言葉に喜びを露わにした。
「私も、そう思い、皆様と合流する為、やって参りました。叔父、辰斯王に奪われた王位を取り戻して下された神功皇太后様や五百城大王様や中臣烏賊津様の大恩は決して忘れておりません。その大恩に報いるには、百済を守り続けることだと思っております。私たち親子は身命を賭して、倭国、任那連合軍に御支援いただき、高句麗を撃破するつもりです」
阿花王は木羅斤資の意見を従順に受け止め、素直だった。木羅斤資は、任那と倭国兵が、ここまで来るまでの経緯を語った。
「我々は、誉田真若王子様と、ここにおられる倭国の大将軍、葛城襲津彦様、副将軍、荒田別様、千熊長彦様たちと新羅征服後、主浦から船に乗り、西方の古奚津に至り、南蛮の耽羅の島を服属させ、北上して来ました。つまり、黄海を南下し、耽羅まで占領しようとしていた広開土王の水軍を打ち破って、ここまでやって来たということです」
「私も息子、直支王子と共に、比利、辟中、布弥支、半古の村などを降伏させ、意流村にやって参りました。ここで、倭国、任那連合軍の皆さまと合流出来たことは、天の助けです。倭国、任那、百済の三国の力が一つになれば、流石の高句麗軍も尻尾を巻いて逃げ去るでしょう」
すると木羅斤資は阿花王親子に対し、首を横に振った。そんなに簡単では無いという示唆であった。
「高句麗の広開土王は相当のやり手と聞いています。新羅でも高句麗兵と対戦しましたが、彼らは騎馬の機動力を駆使して、倭国の騎馬軍団をもものともせず、暴れまくりました。任那の皇子、誉田真若様が出陣し、やっと彼らを後退させることが出来ました。真若様の指揮は抜群で、倭国の将軍たちもそれに従い、大勝利を得ました。現在、新羅には鹿我別殿と沙沙奴丐跪殿と毛野別殿と安曇磯良殿が四方に駐留しており、新羅、奈勿王も、それらの軍に守られております。その為、高句麗は新羅からの南下を諦め、百済からの南下に全勢力を傾注し始めています。それ故、私たち任那と倭国の兵は、阿花王様の危急を感じ、応援に参った次第です」
「有難う御座います。父、枕流王の命に従い、皆さんと親しく交流させていただいて来たことが、このような天祐となって返って来るとは、まるで夢のようです」
阿花王は木羅斤資に感謝の意を述べた。木羅斤資は、それから倭国の将軍たちを部屋に呼んでもらい、阿花王に将軍たちを紹介した。
「倭国の将軍、葛城襲津彦様、荒田別様、千熊長彦様です」
「只今、ご紹介いただきました葛城襲津彦です。任那の五百城大王様の御指示により、応援に駈けつけました。よろしくお願い申し上げます」
「荒田別です。よろしくお願い申し上げます」
「千熊長彦です。よろしくお願い申し上げます」
倭国の武将三人は、百済の阿花王と直支王子の前に平伏し、挨拶をした。阿花王はそんな三人に優しく語りかけた。
「葛城襲津彦様、荒田別様、千熊長彦様。私が百済の阿花王です。ようこそ百済へお越し下さいました。倭国では、我が国の使節、久氐らが大変、お世話になりました。心より御礼申し上げます。この度はまた、高句麗、広開土王の攻撃により、もっと南に退却しようか、どうしようか悩んでいるところでした。私は、任那軍と共に倭国の騎馬軍団と海軍団の皆さんの来援をいただき、勇気百倍になりました。本当に良く、お出で下さいました。阿花王、深く深く感謝申し上げます」
阿花王の感謝をこめた言葉に葛城襲津彦が答えた。
「阿花王様。戦さに勝つには、その勇気が必要なのです。先頭に立つ者に勇気が無ければ、部下は付いて来ません。上に立つ者が自信を持てば、部下もまた自信満々になります。ましてや国王様自ら兵を指揮すれば、国民全員が付いて参ります。私は新羅との対戦の時、それを強く感じました。私が指揮しても、新羅の卓淳の兵は熱心でありませんでした。卓淳国の末錦干岐は、新羅とも交流があり、戦さに積極的で無かったのです。彼らは新羅と嫌々、戦っていたのです。その為、倭国軍は全滅しそうになりました。しかし、どうでしょう。任那王子、誉田真若様や、ここにおられる木羅斤資様が応援に駈けつけ、先頭に立ち、指揮した途端、任那や卓淳の兵は人が変わったように積極的に行動を開始しました。誉田真若様の為に、命を賭して、新羅国に侵攻しました。そして、あっという間に、新羅、奈勿王を降伏させ、今や任那の沙沙奴跪将軍は倭国の将軍、鹿我別殿らと共に新羅に駐留し、完全に政権を連合軍のものと致しております」
「流石、任那の真若王子。凄いです」
「百済についても同じことが言えます。百済の中には高句麗や、燕に傾いている者もいる筈です。しかし、阿花王様が自ら勇気をもって先頭に立てば、そういった者も、阿花王様に従います。百済国民全員が、阿花王様の為に頑張ります。命を投げ出して百済国の為に敵と戦ってくれます」
葛城襲津彦は百済王に、先頭に立って戦うよう煽動した。阿花王は勇気百倍になったと言ったものの国民が付いて来るか自信が無かった。
「本当でしょうか?」
「本当ですとも。もし阿花王様が私たちの言う事を信じないで、高句麗との戦いを私たち連合軍だけに任せるとするなら、百済の国民は愛国心を失い、自分たちの山河を、荒れ果てた戦場にしてしまうでありましょう。国民は守るということを忘れ、倭国や任那の力無さを恨み、高句麗を恐れ、阿花王様を憎むでありましょう。それは哀しいことです」
阿花王は、葛城襲津彦の言葉に感動して答えた。
「言われる通りです。私は百済の山河を愛しています。百済国民を大切に思っております。そうで無くして、どうして百済国王と言えましょう。私は百済国民を流浪させるような不幸を招いてはならないと思っております。直支王子と共に、百済を守るべく、先頭に立って戦います。百済はその昔、中臣烏賊津様の御先祖、秦の王子、昭安様をお守りした程の強力な国家でした。その国家を私の代で滅ぼす訳には参りません。何が何でも、この国家を守らねばなりません。どうか皆さんの御協力の程、阿花王、伏してお願い申し上げます」
百済の阿花王の返事と願いを聞いて、葛城襲津彦は満足した。
「倭国と任那と百済は昔からの友人です。倭国と任那の兄弟国家は、可能な限り、その友人、百済を応援する為、頑張ります」
「実を言うと、任那の私と倭国の葛城将軍は実の兄弟です。私たち兄弟は、百済を救済する為、命懸けで尽力致します。高句麗討伐の為、私たち兄弟に出来ることがあれば、何なりと遠慮なく申し出て下さい。私たち両国は、阿花王様の味方です」
襲津彦の言葉に続いて発せられた木羅斤資の言葉もまた百済王の胸を打った。それにしても木羅斤資と葛城襲津彦が兄弟とは驚きであった。
「私も、以前、百済に滞在していた斯摩那加彦の弟の千熊長彦です。百済の為に頑張ります。よろしくお願いします」
これまた驚きであった。どうも長彦が那加彦に何処か似ているところがあると思っていたが、それが事実であったとは。阿花王は倭国、任那両国から派遣された武将たちの百済への思いを聞いて感激した。
「有難う御座います。この阿花王、皆さんの応援に違わぬよう、必ず高句麗軍を撤退させてみせます」
阿花王は自信溢れる発言をした。かくて倭国、任那、百済の強力な連合軍が意流村で結成された。
〇
意流村で結成された倭国、任那、百済の連合軍は、阿花王を中心に戦闘力を高め、北に向かって進軍した。今までに無い、陸海両面からの攻撃と、百済兵の気迫に、高句麗軍は驚き、後退をし始めた。阿花王は任那、倭国の将軍たちと共に百済の都に向かった。連合軍は途中、古沙山にて休息した。百済の風景を眺め、千熊長彦が言った。
「阿花王様。百済の国は、真実、中臣烏賊津様が申しておられた通り、景色の美しい素晴らしい国です。高句麗のような気性の激しい邪悪な隣国が無ければ、最高の国です」
すると阿花王が、千熊長彦に百済の歴史を語った。
「海と山のあるこの百済の国は、もともと高句麗から分かれた国です。高句麗の始祖、朱蒙の三男、温祚王が慰礼に城を築いてより、兄弟、親族の戦いが続き、百済は高句麗から独立したのです。しかしながら高句麗は、何時までも百済を自分の属国と考えております。絶えず百済を自分たちの支配下に治めようと攻撃して参ります。私は、それに絶えず悩まされ、恐れたり、発憤したり、心の休まる日がありません」
千熊長彦は阿花王の言葉に疑問を感じた。百済は、あの辰国の仲間では無かったのか。その経緯が良く分からなかった。
「何故、兄弟の国でありながら争わなければならないのでしょう。哀しいことです。倭国と任那を見て下さい。この兄弟の国は非常にうまく行っています。もしかすると、過去に争ったこともありましょう。しかし、現在は王家が交流し、婚姻を結び、争いを無くしています。互いに相談し合い、皇位を譲り合っています。百済と高句麗もまた、倭国と任那のように、邪悪な高句麗王を排斥し、親しく交流し、平和な兄弟国となるべきです」
千熊長彦の率直な意見に、阿花王は敗北に追い込まれながらも、倭国、任那の連合軍に支援を受けることになって、強気になっていた。
「言われることは良く分かります。しかし、それは理想であって、現実ではありません。現実は百済を属国と考える高句麗の偏見です。支配する者と支配される者。この偏見が続く限り、百済に平和はやって参りません。今や百済は、倭国、任那の連合軍を背後に高句麗に侵攻し、今までとは逆に、支配される者から支配する者に変身しようとしております。百済が支配する者に変身出来れば、両国の統一も可能です。私たちの国は倭国と任那のように大海で分断されている国ではありません。陸続きの国と国です。分断しなくても良いのです。ですから私は、この際、両国を統一しようと考えております」
傍で父、阿花王と千熊長彦の会話を聞いていた直支王子が、千熊長彦に向かって言った。
「父上の申される通りです。両国は統一されるべきです。しかし無理な統一は、後日、再び分断のもとになります。千熊将軍様の申される通り、倭国と任那の例規は実に素晴らしく、我々も、それを見習い統一すべきだと思います」
「直支王子様。倭国と任那の強い絆が何であるか、お分かりになっていただけたでしょうか?」
「私は倭国と任那の結びつきは、互いの守るべき約定がきちんと結ばれていて、実に素晴らしいものだと思っております。出来るなら、自分は倭国を訪ね、留学し、これらのことを修得したいと願っています」
「何と嬉しいお言葉でしょう。直支王子様が倭国に訪問されることを知ったなら、我が応神天皇様は心から喜ばれることでありましょう。是非、機会を作り、倭国に訪問して下さい」
千熊長彦は直支王子の言葉を聞いて喜んだ。阿花王は直支王子の軽率な発言が気になったが、話題をもとに戻した。
「それは良い事である。しかし今、直面している問題は、如何にして高句麗に逆襲を加え、如何にして高句麗の領土を占領するかということである。司馬晃、莫古、解曽利をはじめとする百済の将軍たちが、皆さんの応援を得て、百済の領土を取り戻しつつありますが、何しろ高句麗の領土は拡大しております。そこを占領するには沢山の進駐軍が要ります。これら進駐軍の要請にも時間がかかります。どうしたら良いでしょうか」
「進駐軍の養成には、任那の木羅斤資様が適任です。倭国の将軍たちも、その占領方法を木羅斤資様から指導していただき、新羅に駐留しています。木羅斤資様の母上様はもともと新羅の人で、木羅斤資様は他国人との折衝方法がとても上手です。その細かな手ほどきを駐留兵に指導していただければ、安心です」
千熊長彦は木羅斤資を進駐軍の指導官にしてはと推奨した。
「それは良いことを教えていただきました。木羅斤資殿に進駐軍の養成をしていただこうと思います」
古沙山での百済の阿花王親子と千熊長彦の休息時の談笑は百済の親子にとって将来の励ましとなった。阿花王親子は勇気づけられ、古沙山から漢城へ向かった。
〇
数日後、百済の阿花王は、倭国、任那連合軍に付き添われて、王都、漢城に戻った。入城すると直ぐ、阿花王は木羅斤資や葛城襲津彦や千熊長彦と随臣、首里芳、久氐、弥州流を集め、今後の作戦会議を始めた。そこへ直支王子がやって来た。
「倭国の将軍、荒田別様がお越しになられました」
「おお、丁度、良かった。ここにお通ししなさい」
「荒田別様。こちらへどうぞ、お入り下さい」
その荒田別は直支王子に案内されて会議室に入って来ると、兜を脱ぎ、百済王たちの前に平伏した。
「阿花王様。葛城襲津彦様。お久しぶりに御座います。荒田別、戦況報告に参りました」
「荒田別殿。大儀であった。高句麗との戦況は如何であるか?」
葛城襲津彦の問いに荒田別が答えた。
「百済の司馬晃将軍をはじめとする百済の精鋭軍は臨津江を渡り、帯方を占領しようと、積極的な侵攻を進めております」
「おお、そうか。帯方まで侵攻しようとは、天晴なことじゃ」
阿花王は喜んだ。
「しかしながら高句麗軍は、まだ沢山の兵力を背後に抱えているようであり、中々の強敵です。これ以上、進撃するには、あと二万の百済兵が必要です」
「あと二万の百済兵を準備せよと言うのか」
「はい。強敵、高句麗を打ち破るには、どうしても、あと二万の百済兵が必要です」
「倭国や任那からの援軍を頼むことは出来ないだろうか?」
何と阿花王は他国からの援軍を当てにした。直ぐに他国に頼る阿花王の考えに葛城襲津彦は不満を覚えた。
「それは無理です。倭国と任那の兵の半分は新羅に駐留しています。それらの兵を新羅から移動させる訳には参りません。新羅に倭国任那連合軍を駐留させていることは、新羅を監視するというより、むしろ新羅側から高句麗を攻撃していとも言えるのです。このことも百済の北上復帰を楽にさせてくれた筈です。荒田別の要請に従い、百済兵二万を増員して下さい」
襲津彦の心中を察した直支王子は父、阿花王に言った。
「父上。何とか百済兵二万を準備しましょう」
だが阿花王はしばらく黙考した。同族の戦さの為に、同族の兵を集めることは如何なものか。直支王子は百済兵を集めることを回避したがる父王に百済兵を集めることを何度も要請した。千熊長彦が首を傾げる木羅斤資と葛城襲津彦の様子を窺い、阿花王に厳しく進言した。
「阿花王様。阿花王様は古沙山で私に、高句麗、百済両国を統一したいと仰せられたではありませんか。両国を統一するには百済の兵が必要なのです。高句麗を打ち破るには、他国の救援も必要でしょうが、先ずは百済の兵を使い、高句麗兵を百済兵に寝返らせることです。高句麗兵を説得出来るのは百済兵をおいて他におりません。両国を統一するには、百済王様みずから、脇目も振らず、あらん限りの百済兵を徴集し、強い集中力をもって同族の味方を増やすことです。両国を統一する中心力は百済の民でなければならんのです」
斯摩那加彦に似て、親しみのある千熊長彦の進言に、阿花王は頷いた。
「分かった。何とかして百済兵二万を集めよう。そして帯方を占領し、更に楽浪の平壌城を攻めよう。その昔、我が先祖、近肖古王は太子、近仇首王と共に高句麗を攻め、三万の兵を率いて平壌城に侵入し、故国原王を戦死させ、高句麗に大勝し、高句麗を弱体化させた。その時、近肖古王は、兄弟の国ということで、高句麗を滅亡させず、統一しようとしなかった。それが誤りであった。その結果、再びまた高句麗が力を増し、支配する国と支配される国の関係に復帰してしまった。百済はもう、これ以上、支配される国でありたくない。支配する国にならねばならぬ」
阿花王は征服者たらんと欲した。千熊長彦は現実を理解していない阿花王に奏上した。
「阿花王様。その為には二万の兵では足りません。荒田別殿が二万の兵が必要と申し上げたのは、帯方の地を占領する為の兵です。平壌のある楽浪を攻めるには更に二万の兵が必要です」
「それは無理じゃ」
阿花王は顔をしかめた。何と不安定な精神の持ち主であろうか。およそ一国の首長たる者、何時如何なる時に於いても不動の精神を持ち、常に死と対峙する覚悟がなければならないものを、阿花王は違った。葛城襲津彦は愕然とした。しかし、この輝かしい戦勝の栄光を、手にしようとしている千載一隅の機会をみすみす見逃すことは無い。葛城襲津彦は決断した。
「仕方ありません。楽浪まで攻め込む御積りでしたら、倭国より、更に二万の援軍を出しましょう。応神天皇様に阿花王様の夢を語れば、必ずやお聞き入れ下される筈です」
「有難う御座います。この阿花王、葛城大将軍様の御恩、決して忘れません」
阿花王は百済王の威厳をかなぐり捨て、葛城襲津彦の前に低頭した。葛城襲津彦は、まるで国王にでもなったような気分になった。強く胸を張って阿花王に言った。
「総ては伊狭沙大王、応神天皇様のお力によるものです。礼は応神天皇様に述べて下さい」
阿花王は涙を流して言った。
「分かりました。阿花王、応神天皇様に感謝申し上げます。もし草を敷いて座れば、その草は何時か火に焼かれるかも知れません。木の葉を取って座るとすれば、その木の葉は何時か水の為に流されるかも知れません。それ故、私が皆さまの力を借り、高句麗を併呑した暁には、私は不変の岩上に座り、万世に至るまで、倭国に朝貢することを誓います。このことは百済が永遠に朽ちないということです。今から後、百済から倭国への朝貢は千秋万歳に絶えることはないでしょう。常に西蕃と称して、春秋に朝貢致しましょう。このことを応神天皇様にお伝え下さい」
「阿花王様の心の程、葛城襲津彦、良く分かりました。早速、倭国に使者を送り、応神天皇様に、二万の兵を派遣していただきましょう」
葛城襲津彦は阿花王に二万の援軍を約束し、千熊長彦を即刻、倭国に帰還させることにした。
〇
応神二年(397年)九月十日、千熊長彦は、百済の直支王子と久氐らを従え、百済より倭国へ帰った。武宗方の軍船に乗り、任那の主浦から対馬、壱岐、岡水門を経て瀬戸内海を通過し、難波津に入つた。一同は、大和に着いて早々、磐余の若桜宮に伺い、神功皇太后と応神天皇に拝謁した。
「皇太后様。応神天皇様。千熊長彦、本日、任那より、帰国しました」
神功皇太后と応神天皇は一同を優しく迎え入れた。
「御苦労様でした。新羅及び百済に留まっての長彦の活躍、毛野別から聞きました。良く頑張ってくれました。感謝してます」
そして皇太后の目は、隣りの直支王子や久氐らに移った。久氐がその視線を感じ、挨拶した。
「百済、阿花王様の使者、久氐で御座います。阿花王様の命により、百済の直支王子様と共にやって参りました。お懐かしゅう御座います」
神功皇太后は一年前に久氐に会った時のことを思い出した。
「海を渡っての再度の訪問、疲れたであろう。倭国まで若い王子を連れて良くぞ参られた」
すると久氐に続いて、直支王子が挨拶した。
「神功女王様におかれましては、御壮健で何よりです。父、阿花王から神功女王様に、呉々も、よろしくとのことです」
直支王子の挨拶は、初めてお会いする神功皇太后と応神天皇の前に平伏し、緊張しての挨拶であった。
「有難う。私は直支王子に会えて、とても嬉しい。心行くまで倭国に留まり、聖王の政治について学んで帰られるが良い」
「神功女王様のお言葉、有難くお受け致します。久氐、貢物を・・・」
直支王子の指示により、久氐は持参した代表的貢物を神功皇太后と応神天皇の前に差し出た。
「阿花王からの貢物です。七枝太刀と七鈴鏡他、絹綾織物、鉄鋌など、沢山の物を、お持ち致しました。どうぞ、お受け取り下さい」
神功皇太后と応神天皇は、それらの品々を見て、深く頭を下げた。
「有難う。有難く頂戴致します。心より礼を申します」
久氐は百済の鉄製品の品々を指さしながら、説明をした。
「私たちの国、百済の西には大きな河があります。その流れは谷那の鉄山より流れ出ています。水源は遠く、七日、行っても行き着きません。私たちは、まさにその河の水を飲み、その山の鉄を掘り、ひたすら聖朝に奉る者であります」
久氐の献上の言葉に直支王子が加えた。
「今、私たちが通う所の東の海に浮かぶ貴い国、倭国は、天の啓かれた国です。その倭国の聖王様は私たちに天恩を垂れて、海の西の地を割き、その地を私たちにお与え下さいました。そのお蔭で、我が百済の基礎は強固なものとなりました。私の父は絶えず私に申しております。お前もまた、よく倭国と好みを修め、倭国に産物を献上することを絶やさぬよう心掛けよ。ならば、我も悔いは無いと・・・。私はこの言葉に従い、千熊長彦様が帰国なされるのを機会に、早速、朝貢に参りました」
神功皇太后は直支王子の言葉に感激した。胸のつまる思いだった。
「百済の忠誠の程、よく分かった。私も直支王子の言葉を聞き、もう、この世に思い残すことは無くなった。ここにいるのは私の後継、応神天皇です。直支王子よ。百済の次代を継ぐのは、そなたじゃ。応神天皇のこと、呉々も頼みますよ」
「ははっ。この直支王子、応神天皇様への忠誠を、ここに誓います」
直支王子は久氐ら百済の使者らと共に、床に手をつき、忠誠を誓った。すると応神天皇が、それに応えた。
「有難う、直支王子よ。朕は、この日のことを忘れないぞ。汝も朕も若い。この若さをもってすれば、高句麗など、恐れるに足らん。朕は汝らと手を取り合い、伊狭沙大王となって、世界を監督しようと思う。我らを敬慕する民草の為に共に頑張ろう」
「何と立派なお言葉!」
千熊長彦は応神天皇の直支王子への対応の言葉に、涙が溢れそうになった。拝謁の儀は円滑に運び、一同はほっとした。
〇
翌日、千熊長彦は中央院の会議室に集まった神功皇后、応神天皇、武内宿禰、大三輪大友主、津守住吉、中臣烏賊津らの前で、新羅、百済、任那の状況について報告した。
「先般、帰国された毛野別将軍から、お聞き及びと思いますが、新羅の奈勿王は、我ら倭国、任那の連合軍に服従することを約束し、任那を盗ってやろういう野心を捨てました。しかし高句麗の広開土王は南下を諦めず、今は百済側から南下しようとしております。高句麗は、かって魏が直接支配していた玄菟、楽浪、臨屯、帯方の四郡を滅ぼし、国境線を越え、百済に攻め込み、漣川で攻防戦を繰り広げ、漢城近くまで攻め込んで来ております。その為、百済の阿花王は、危険を避け、南の泗沘まで逃げていましたが、我ら倭国、任那連合軍の援護を受け、再び漢城に戻り、高句麗と戦っております。しかし強大になった高句麗軍を粉砕するには、現在の軍隊だけでは足りません。そこで、百済王様や任那大王様や葛城将軍様から、倭国軍二万の援軍をお願いしたいとの申請があり、私は、その使者として、直支王子を連れて戻って参りました。百済の為、いや任那を含む倭国防衛網の為、是非、二万の援軍を提供されますよう、ご報告方々、申請申し上げます」
千熊長彦の真剣な申告に神功皇太后は黙考し、目をふさいだ。武内宿禰が少し怒った表情になって千熊長彦に確認した。
「すると、襲津彦も倭国の援軍が必要だと申しているのだな」
「はい。そうです。襲津彦様は木羅斤資様と百済の陣頭に立って戦っておられます。敵を打ち破り、高句麗に奪われた領土を取り返す、絶好の機会だと考えておられます」
「然らば、即時に対応せねばならぬな」
「はい。よろしくお願い致します」
千熊長彦は、武内宿禰に深く頭を下げた。武内宿禰は神功皇太后の顔を見ながら呟いた。
「さあて、どうしようか?」
「それは一大事です。直ぐに援軍兵二万を集め、船を任那に向けなさい」
神功皇太后はそう叫んだかと思うと、座っていた椅子から、崩れ落ちそうになった。隣りにいた武内宿禰は慌てた。
「如何なされました?皇太后様!」
武内宿禰が倒れそうになった神功皇太后を咄嗟に支えた。
「母上。どうなされましたか?」
応神天皇が母親に駆け寄った。大三輪大友が気を利かせて、会議を中止し、津守住吉に侍医を呼ばせた。津守住吉は典薬寮に走った。応神天皇は母の急変の状況に動揺し、何度も同じ言葉を繰り返した。
「母上、大丈夫ですか?」
「母上、大丈夫ですか?」
中臣烏賊津は、畏れ多いが神功皇太后の身体を抱え上げ、会議机の上に安臥させた。侍医、吉備再利が駈けつけ、神功皇太后の容態を確認した。
「皇太后様。侍医の再利です。どう致しましたか?ご気分は如何ですか?」
「ああ、再利先生ですか。お世話になりました。私はもう御終いです」
「何を申されます」
「それより、応神と宿禰をここへ・・」
その言葉に侍医、吉備再利が一歩後退し、応神天皇と武内宿禰が近寄った。神功皇太后は息子、応神天皇の手を握りながら瞑想の中で喋った。
「応神よ。宿禰よ。私は昨日、百済からの使者に会い、安心した。周辺国の多くが倭国を頼りにしている。そして応神天皇を尊崇している。私の摂政としての役目も終わった。今まで張り詰めていたものが無くなり、急に生きる力を失った。長い人生であった。いろんな人生であった・・・」
その言葉に応神天皇は泣き出しそうな顔をした。
「母上。そんな情け無いことを言わないで下さい。しっかりして下さい」
武内宿禰も神功皇太后を励ました。
「皇太后様。お気を強くなされて下さい。この宿禰より、まだまだお若いではありませんか。病雲は直ぐに去って行きます。まだ倭国の為に頑張っていただかねばなりません。貴女様は私たちの光で御座います。しっかりして下さい」
武内宿禰の言葉に神功皇太后は突然、目を大きく見開いた。残る力を振り絞り、重臣たちに宣告した。
「重臣たちよ。許しておくれ。私は悪い女であったかも知れません。倭国隆盛の為、汝らに沢山の無理を命じました。倭国内や海外での戦さで、沢山の人命を失わせてしまいました。しかし、これは汝ら国民を愛しているが故に犯した罪であり、私一人で、あの世まで抱いて参りましょう。今や倭国は新国王、応神天皇が即位し、平和に満ち溢れています。異国の王子が朝貢に訪れる程の大国になっております。しかし、重臣たちよ。汝らが、もし応神天皇に背くようなことがあったなら、この平和は、あっという間の夢に終わるであろう。汝らが倭国の繁栄と恒久平和を願うなら、それは先ず、伊狭沙大王、応神天皇を奉ることです。よろしくお願いします。お願いします」
言い終わると、神功皇太后は、瞼を閉じた。
「皇太后様!」
「皇太后様!」
武内宿禰をはじめ、重臣たちが叫んだ。神功皇太后は今を最期と武内宿禰に言った。
「胸が痛い、苦しい。宿禰、頼みますよ・・・」
「お任せ下さい」
「母上。母上。母上が・・・・」
応神天皇は誰はばかることなく、神功皇太后の身体にしがみついて泣き喚いた。武内宿禰は、もう何も喋らず、昏々と眠りに入った神功皇太后を吉備再利と津守住吉らに皇太后の寝室へ運ばせた。
〇
九月十七日、神功皇太后は磐余の若桜宮にて崩御された。神功皇太后の看病をしていた侍医、吉備再利から、皇太后の死去を知らされた武内宿禰が応神天皇に、その不幸を伝えた。
「陛下。先程、皇太后様が、御寝所にて大往生なされました」
「何と。母上、母上が亡くなられたと」
応神天皇は何時か告げられる言葉とは思っていたが、かくも早くその時が来るとは思っていなかった。応神天皇は顔を歪めた。
「はい。喪礼の係が、御遺体を棺に納めた為、もう、お会いすることは出来ません」
「そんな無体な。皇太后は朕の母上ぞ」
「でも、これは昔からの決まりです」
「何とかならぬか?」
応神天皇は一目だけでも母の顔を拝見したかった。あの世に引きずり込まれて行く母、神功皇太后の眠った顔を見てやりたかった。しかし、それはならぬことだった。応神天皇はどうしたら良いのか頭の中が真っ白になり、肩を震わせて、涙した。
「陛下。皇太后様がお亡くなりになった今、倭国の最高位は名実共に陛下です。泣いている時ではありません。国王は国王らしく、皇太后様の御逝去を悼み、大きな心をもって、倭国の大王として振る舞わなければなりません。泣いてはなりません」
武内宿禰は応神天皇を諫めた。
「宿禰よ。朕の母上が亡くなられたのだ。朕が泣いて何故、悪い。朕は泣いてはならぬのか?」
「それが天皇というものです」
「そうか、分かった。朕は泣かぬ」
「分かって下さいましたか」
武内宿禰は胸を撫で下ろした。応神天皇は涙をぬぐい、武内宿禰に言った。
「宿禰よ。朕は母上の為、墳墓を造る。素晴らしい墳墓を造り、天皇家の偉大さを誇示する。異国からの品々を墳墓に納め、後世にも、その偉大さを継承させる。朕は今や完全に倭国のみならず、世界の王の中の王、伊狭沙大王になったのだ」
「その通りで御座います。陛下は倭国のみで無く、世界の中の王の王になられたのです。神功皇后様の墳墓造りについては、この宿禰にお任せ下さい。武振熊に命じ、狭城の盾列に、その墳墓を築かせましょう。武振熊は、かっての倭国女王、卑弥呼様に劣らぬ皇太后様の墳墓を築き、その墓守を務めるでありましょう」
「宿禰よ。お前の言う通り、母上の墳墓のことは武振熊に任せよう。完成は来年八月とする」
「ははーっ」
■ 応神天皇即位と海外派兵
神功六年(396年)二月十七日、誉田皇子は敦賀にて元服の式を終え大和国の磐余の若桜宮に戻った。母親の神功皇太后はじめ、群臣たちは、その元服祝をしようと、宴の準備をして待っていた。誉田皇子と武内宿禰は、まず神功皇太后に笥飯神社で無事、元服式を済ませて戻って来たことの報告を行った。一番先に武内宿禰が挨拶した。
「皇太后様。誉田皇子様は敦賀笥飯神社にて元服式を挙げ、ここに目出度く都に御帰還なされましたことを、ご報告申し上げます」
その武内宿禰の言葉に間髪入れず、誉田皇子が続いて挨拶した。
「母上。誉田皇子、無事、元服の式を相済ませて戻りました。伊狭沙和気大神様にもお目にかかり、伊狭沙和気の御名を頂戴して参りましたこと、ご報告申し上げます」
神功皇太后は、頭髪を束ね雄々しくなった誉田皇子を瞬きしながら見詰め、微笑して言った。
「御苦労様でした。淡海の坂田から若狭を経て敦賀への長旅、さぞ疲れたことでありましょう。群臣たちが、朝から待ち酒を並べ、祝宴の席を準備して待っております。私はその祝宴の席にて、誉田皇子の天皇即位を群臣に告げようかと思います。この考えについて、宿禰はどう思いますか?」
神功皇太后の言葉に、二人は驚いた。武内宿禰は一瞬、考えた。女帝らしい息子への後継の布石の機会であると考えての周到な計算に相違なかった。武内宿禰は皇太后に答えた。
「異論は御座いません。誉田皇子様は敦賀伊狭沙和気大神様に認められました。その御告げは、立派な聖王になられるであろうとの事でした。まだお若いですが、皇太后様に摂政になっていただければ、無事、天皇としての御役目を果たせるものと確信しております」
神功皇后は武内宿禰の言葉に頷き、誉田皇子に質問した。
「誉田皇子よ。貴男は天皇となって国を治める自信がありますか?」
母、皇太后の質問に誉田皇子は元服した今の自分には皇位を受け継ぐ資格が備わっていると思えた。誉田皇子はこう答えた。
「私は選ばれた日嗣の皇子です。元服したからには、何時であろうと即位することに何ら躊躇することは御座いません。父上、母上の政治精神を引き継ぎ、倭国を繁栄させる夢でいっぱいです」
「何という心強い御言葉・・・」
武内宿禰は誉田皇子の言葉を聞いて感激し、涙が出そうになった。神功皇太后もまた息子の成長に胸がいっぱいになった。夫、仲哀天皇に、この言葉を聞かせてやりたかった。
「誉田皇子よ。私は貴男の覚悟の程を知ることが出来ました。私は自信を持って貴男を天皇に推挙出来ます」
「有難う御座います。天皇になるということは幼い私にとって、厳しく辛く苦しい重荷であるかと存じますが、これは皇室に生まれたが故の天より与えられた私の運命と思い、誠心誠意頑張ります」
神功皇太后は、元服し、落ち着き払った誉田皇子に対面し、これまでに成長させてくれたのは武内宿禰の教育指導よる賜物であると思った。
「武内宿禰よ。私は誉田皇子をこのように立派に教育成長させてくれた宿禰にお礼を言います。烏賊津が任那に駐留させておいた倭国の将軍、斯摩那加彦も、木羅斤資の力を借り、新羅を攻め、早羅城と金城の近くまで平らげ、立派な成果を上げ、数日前、沢山の土産を持って帰国しました。このような倭国の勝利により、これからは世界のあらゆる国が、倭国を偉大に思い、幼き天皇に跪き、倭国に朝貢して来るでしょう。これらは総て武内宿禰一族のお陰です。この御恩は天皇家の子々孫々、忘れずに引き継いで参ります。武内宿禰の一族に皇太后、心より感謝申し上げます」
「何と勿体無く有難い御言葉。天孫降臨のその昔より、天皇家にお仕えして来た我が一族にとって、当然のことをしたまでです。今後も全身全霊頑張りますので、我が一族をよろしく御引き立ていただきますよう心よりお願い申し上げます」
武内宿禰は、そう答えてひれ伏し、元服式を終えての帰国報告を終えた。
〇
誉田皇子と武内宿禰の報告を聞き終えると、神功皇太后は群臣たちが成人した誉田皇子を迎える祝宴の席に向かうべく立ち上がった。皇太后は侍従に言った。
「では、これから宴会場に出席します。案内して下さい」
会場に向かいながら誉田皇子は若桜宮の庭の梅の花が散って、桜の蕾が膨らみ、色づき初めているのを目にした。間もなく桜の花が咲こうとしている。宴会場の入り口近くに行くと、中臣烏賊津が待ってましたとばかり、駆け寄って来た。
「群臣一同、皇太后さまと誉田皇子様が現れるのを今か今かと待ち焦がれています」
それから物部胆昨が先導を務めた。
「こちらになります。御足元にお気をつけ下さい」
物部胆昨の後について、神功皇太后、誉田皇子、武内宿禰が宴会場に入って行くと、会場に集まった二百人程の群臣たちが、一斉に拍手した。大三輪大友主が深々と頭を下げ、言上した。
「皇太后様、誉田皇子様。奥の高台にお座り下さい。武内宿禰様はこちらの席へ」
三人が指定された席に着席したのを確認すると、大三輪大友主に代わって、中臣烏賊津が一同に伝えた。
「只今より、誉田皇子様の元服祝の酒宴を行います。御神前に大神酒を奉献する前に、皇太后様より、お言葉をいただきます」
中臣烏賊津の案内を受けて頷くと、神功皇太后は高台から群臣を一望し、静かに口を開いた。
「一同に告げる。我らが日嗣の皇子、誉田皇子は敦賀にて、元服式を挙げ、本日、この磐余の若桜宮に戻った。その元服された姿は、御覧の通り凛々しく、英知に満ち溢れている。仲哀天皇が御逝去されてより七年、我は皇后として、その空席を、皆さんの力を借りながら、お守りして来た。しかし日嗣の皇子が成人した今、その空席は日嗣の皇子に引き継がれ、我が守る必要が無くなりました。日嗣の皇子には、只今より、亡き仲哀天皇の遺言に従い、称号を応神とし、天皇に即位していただきたいと思っています。皆さんの賛同を得られればと願っております」
その言葉が終わるや否や、すかさず武内宿禰が、声を張り上げ、誉田皇子に向かって挨拶した。
「御意に御座りまする。応神天皇様、御即位、お目出とう御座います」
続いて大三輪大友主も応神天皇の即位を祝福した。
「応神天皇様、お目出とう御座います!」
「応神天皇様、お目出とう御座います!」
群臣一同が、大友主に従い、賛同の意を表した。神功皇后は満足して、何度も頷いた。神功皇太后から指名され、即位した応神天皇は、立ち上がり、一同に一礼すると、一同を見やり、挨拶した。
「朕は父、仲哀天皇と入れ替わる為、この世に生を受けた。爾来、朕は住吉を親として、武内宿禰を師匠として成長して来た。本日、ここに天皇として即位することを許されたが、万民の期待を裏切らぬよう、正しい政治に励んで行きたいと思う。一同の協力を、ここの場を借りて、よろしくお願いする」
その応神天皇の言葉に大三輪大友主が答えた。
「我ら群臣一同、応神天皇様のお言葉に従い、倭国隆盛の為、応神天皇様に一致団結し、努力協力することを誓います」
大友主の誓いの後、中臣烏賊津が再び、司会を始め、神功皇太后の御神前への礼拝をお願いした。神功皇太后は一同を代表して御神前に立って唱えた。
「遠き御祖よりの神々様、お慶び下さい。ここに応神天皇様の御即位をご報告致します。その御即位を祝福して、御神前に大神酒を捧げます。これからも神々様のお力により、我らをお守り下さい。我々に幸せをお与え下さい。よろしく、よろしく、お願い申し上げます」
神功皇太后はそう唱えてから、大神酒を御神前に奉献した。それを見届けてから、中臣烏賊津が、神功皇太后にお願いした。
「皇太后様。ここで、お祝いの御歌をお願い致します」
すると、皇太后は直ぐに歌を詠まれた。
この御酒は 我が御酒ならず
酒の司 常世に坐す 石立たす
少名御神の 豊寿ぎ 寿ぎ廻ほし
神寿ぎ 寿ぎ狂ほし 献り来し御酒ぞ
あさず食せ ささ
それは〈この酒は常世の神が醸し出してくれた御酒です。すっかり飲み干して下さい。さあ〉という歌であった。皇太后は、歌い終わると、応神天皇に大神酒を献ぜられた。中臣烏賊津は、続いて武内宿禰にお願いした。
「返歌を武内宿禰様にお願いします」
武内宿禰が待っていたかとばかし、応神天皇に代わって返歌を詠った。
この御酒を 醸みけむ人は
その鼓 臼に立てて 歌ひつつ
醸みけめかも 舞ひつつ 醸みけめかも
この御酒の あやに うた楽し ささ
そう歌って武内宿禰もまた応神天皇に大神酒を献ぜられた。続いて群臣一同、応神天皇に祝杯を捧げるよう、中臣烏賊津が一同に伝えた。
「では御歌に従い、我ら一同、応神天皇様の御即位を祝し、乾杯したいと思います。乾杯の音頭は大三輪大友主様にお願い致します」
烏賊津の指名により、大三輪大友主が杯を取り、大声を発した。
「天より遣わされた倭王、応神天皇様の御即位を喜ぶと共に倭国の繁栄を願って乾杯致します。乾杯!」
「乾杯!」
一同が大友主に合わせて大声で乾杯した。大友主は更に杯を上げて叫んだ。
「応神天皇様、万歳!」
「万歳!」
群臣一同、応神天皇の御即位を衷心より祝福して叫んだ。応神天皇も神功皇太后も大満足だった。その母子の姿を見て武内宿禰が、二人に向かって再度、お祝いの言葉を述べた。
「ここに目出度く、応神天皇様が御即位あそばされました。群臣一同、国民と共に心より、御即位を、お慶び申し上げます」
中臣烏賊津が念押しするかのように、高台の二人にお辞儀をした。
「お目出とう御座います」
「お目出とう御座います」
群臣一同、口々に祝福を称え合った。中臣烏賊津がその一同に開宴を伝えた。
「では酒宴に入ります。あらゆる美酒と沢山の料理、珍味、果物などが準備されております。気兼ね無く、飲んで、食べ、歌い、踊り、楽しい時をお過ごし下さい」
大三輪大友主と中臣烏賊津の段取りにより、応神天皇の御元服と御即位発表の祝宴はこうして、開催された。和気満堂。酒宴は夜になるまで、賑やかに続いた。そして十日後、応神天皇の即位礼が若桜宮の神殿で賑々しく行われ、応神天皇は戴冠した御姿を国民に披露し、第十六代の倭国王としての地位を確実に継承した。
〇
応神元年(396年)春、四月、大和の磐余若桜宮に、任那から、応神天皇祝賀の使者がやって来た。その使者が、誉田真若、羽田矢代、白都利らであると知ると、神功皇太后は大喜びして、使者を迎えた。神功皇太后は、応神天皇や武内宿禰ら重臣たちと大広間で、使者たちに接した。応神天皇と神功皇太后が着席するや、使者の代表、誉田真若が、皇太后親子の顔をじっと見上げて挨拶した。
「神功皇太后様、お久しぶりに御座います。皇太后様におかれましては益々の御健勝であられますこと、心よりお慶び申し上げます。また応神天皇様、御即位、誠にお目出とう御座います。父、任那大王を始めとする任那国民を代表して、心よりお祝い申し上げます。この誉田真若、この度、その御即位のお祝いの品々をお届けに任那任那からやって参りました。どうぞ、お受け取り下さい」
誉田真若の祝いの言葉に、神功皇太后が優しい声で、ゆっくりと声をかけた。
「有難う。遠い所を海を渡り、よく来てくれました」
応神天皇も続いて同じような歓迎の言葉を言った。
「有難う御座います。英明な真若殿のことは、幼い時より、皆から伺っております。よくお出で下さいました。応神天皇、心より御礼を申し上げると共に歓迎致します」
「歓迎、有難う御座います。こちらこそ、応神天皇様がここにいる羽田矢代の父君、武内宿禰殿より英才教育をお受けになり、実に英明なお方であると存じております。皇太后様の豊かな経験と見識及び応神天皇様の若き力により、倭国が益々、発展を遂げられますことを、真若、心より願っております」
「有難う御座います。朕の名は真若殿の凛々しさに肖り、誉田となっております。朕は、それ故、任那の次代を引き継ぐ真若殿を兄のようにお慕いしております。そうした間柄にあって、我々は先人たちから引き継いだ両国の平和と繁栄を守り抜いて行かなければなりません。新しい時代に相応しい希望に溢れ、誇りある倭人の国造りを互いに果たして行きましょう」
応神天皇はそう言って、高台から降り、皇太后の御前で、誉田真若と互いの手を強く握り合った。それを見た神功皇太后の瞳に涙が光るのを武内宿禰は見逃さなかった。使者たちの歓迎はこうして行われ、その後、朝堂院で盛大な宴が開かれた。新羅遠征に行った顔見知りの連中の歓迎に誉田真若は満足した。そして四月末、任那の使者、誉田真若らは羽田矢代を大和に残し、難波津から船に乗り、倭国を後に任那へ帰国した。
〇
応神元年(396年)秋九月、新羅と百済の両国から、朝貢の使者が一緒にやって来た。大三輪大友主が、そのことを応神天皇に伝えた。
「陛下。新羅、奈勿王の使者が朝貢に参りました。百済、阿花王の使者も一緒です」
それを聞いて、応神天皇は喜びの声を上げた。
「おお、そうか。先王の望んでおられた国々から、朝貢の使者がやって来られたか。父、仲哀天皇の時代でなくて、誠に残念である。父、仲哀天皇が御存命であったなら、さぞかし喜ばれたことであろう。皇太后様にはお伝えしたか?」
「皇太后様は御体調が芳しくなく臥せっておられますので、まだ伝えておりません」
大三輪大友主は、神功皇太后の容態が悪い事を応神天皇に語った。応神天皇は、母親の調子が悪い事を耳にして、一瞬、顔を曇らせたが、朝貢の使者の来訪に直ぐに対処すべく、大友主に答えた。
「左様か。ならば朕と武内宿禰とで、使者の引見をしよう。中央院に通せ」
「では彼らを中央院に案内致します」
大三輪大友主は、そう答えて、御座所から消えた。応神天皇は一緒にいた武内宿禰に話しかけた。
「それにしても、新羅と百済の朝貢の使者が一緒に来るとは不思議な事もあるものだ」
「それだけ陛下が偉大であるからでありましょう。彼らは沢山の珍しい物を持って来てくれたに違いありません」
「朝貢の使者は優秀な者が多い。何を考えているか分からぬ。気を許してはならぬぞ」
応神天皇は積極的であるが、母に似て用心深いところがあった。
「勿論、その点については充分、注意致します」
武内宿禰は応神天皇の成長の程に感心しながらも、朝貢の使者には用心せねばならぬと思った。応神天皇と武内宿禰は、そんな会話をしてから中央院に向かった。二人が中央院の高座に着いてから、間もなくして大三輪大友主が、朝貢の使者を連れて中央院の部屋に現れた。
「陛下。新羅ならびに百済の朝貢の使者を、お連れしました」
大友主が部屋の奥の高台に座っている応神天皇と脇に座る武内宿禰の前に進み出て、平伏し奏上すると、朝貢の使者六名も、大友主同様、大友主の後方に平伏し、挨拶した。まずは新羅の使者が口上を述べた。
「倭国王、応神天皇様におかれましては、御壮健、この上無く、心よりお喜び申し上げます。新羅の奈勿王の使者、阿利叱智、安良可也、曽利万智です。新羅内宮家として、新羅の産物を、お届けに上がりました」
続いて百済の使者が挨拶した。
「百済の阿花王の使者、久氐、弥州流、莫古に御座います。阿花王の命により、新大王、応神天皇様に朝貢に上がりました」
応神天皇は高座から一同を見下ろし、頷くと落ち着いて使者と会見した。
「海を渡った遥か向こうの国からの、はるばるの朝貢、心より感謝する。誠に大儀であった。倭国にて、ゆっくり休養され、いろんな場所を見学して行くが良い。ところで奈勿王は元気であるか」
「我が奈勿王は倭国女王様に無礼を働いた将軍たちを処刑し、その一族を奴婢に落とし、深く反省されておられます。任那におられた斯摩那加将軍様の部隊に早羅城と金城を攻められ、初めて、約束の朝貢を続けていなかったことを知った次第であり、実に申し訳なく思っておられます。奈勿王は新大王様の御即位を耳にし、即刻、我々三名を朝貢の使者に立てられました。応神天皇様に呉々もよろしくとのことで御座います」
新羅の使者、阿利叱智は奈勿王からの言葉を伝えた。応神天皇は、この新羅の状況を、誉田真若や斯摩長彦からも聞いていたので、冷静に受け止めた。
「奈勿王の恭順の程、良く分かった。朕は貴国とこれから長く交流を深めて行きたい。裏切りさえ無ければ、我が国は大人しい国である。朕は伊狭沙大王として、これから世界を治めて行くよう、天の神様より、宣旨を賜った。新羅はもともと伊狭沙大王の統治下にあった国の一つであり、朕も大切な国の一つであると考えている。故に帰国したなら、奈勿王に、このことを知らしめ、定期的に我が国と交流されるよう希望すると伝達されよ」
「有難きお言葉。我ら三名、帰国し次第、奈勿王に、この旨、必ずお伝え致します」
少年王とは思えぬ応神天皇の威厳ある威圧的言葉に、阿利叱智らは頭を上げることが出来なかった。続いて応神天皇は、阿利叱智らと並列している百済の使者らに目をやった。
「ところで久氐。百済王阿花は元気でいるか?」
「はい。健やかに御座います。皇太后様や応神天皇様に呉々もよろしくとのことで御座います」
「高句麗や新羅や任那とは友好的にやっているか?」
応神天皇は新羅の使者が同席していることも気にせず、思いのままを尋ねた。久氐は新羅の使者もいることもあり、戸惑いを内に秘め、応神天皇の質問に答えた。
「任那の五百城大王様の警護により、燕国や高句麗からの侵略はありません。また新羅国とも親交が深まり、この度、このようにして同じ船にて、朝貢に参りました。このような平和は、応神天皇様が伊狭沙大王となられ、世界を監督なさっているからでありましょう。」
「朕はまだ充分に世界を監督しきっていない。任那を通じ、世界を見ているが、これでは真実を把握することが出来る筈が無い。朕自ら、母上同様、渡海し、任那、新羅、百済、高句麗、燕、秦らを踏査して、はじめて世界を知り、世界を監督出来ると言えよう。それ故、朕は近いうちに、汝等の国をはじめとする大陸の諸国を訪問することを計画している」
その応神天皇の言葉に逸早く新羅の阿利叱智が世辞を言った。
「その時は是非、新羅にお立ち寄り下さい。お待ちしております」
「勿論、訪問する」
「百済にも、お越し下さい」
久氐の真剣な顔を見て、応神天皇は笑った。そして優しく弁じた。
「百済にも訪問する。自ら各国を巡回踏査し、各国の実情を知り、伊狭沙大王としての指示をしよう。今、人々は他人の物を奪い合うことに狂奔しているが、これは大きな誤りである。己自身の弛まぬ努力によって、食糧や財物を得、保存することが、真の人の姿であらねばならぬ。朕は国民、一人一人の努力によって、平和で豊かな時代になると信じている。悪い者は必ず滅び、善い者は必ず栄える筈じゃ」
応神天皇に続いて、天皇の側の席に座っていた老臣、武内宿禰が、付け加えるように喋った。
「その通りで御座います。その昔、晋の昭候を殺した大臣、潘父は昭候の子、孝候に処刑されました。焚書坑儒を行った秦の始皇帝は、側に仕える宦官、趙高に毒薬を飲まされ死にました。楚の項羽を裏切って劉邦に仕えた韓信は、謀反を計ったという理由で処刑されました。悪い者は真実、必ず滅びるもので御座います」
応神天皇は頷き、目の前の使者たちを見下ろして続けた。
「ここに朝貢に来られた新羅、百済の両国においては、そのような悪い者は滅亡し、今や平和な国となった。朕は、はるばる海を渡って朝貢に来られた汝ら使者一同に心から感謝の意を表する」
「有難き仕合せに御座います」
「有難き仕合せに御座います」
使者六人は応神天皇に再び平伏し敬礼した。そして朝貢の品々を天皇の前に並べて、説明したりした。かくて応神天皇の新羅、百済の朝貢の使者との面談は終了した。
〇
新羅、百済の朝貢の使者との面談を終えた武内宿禰は、中央院の部屋の中に運び込まれた朝貢の品々を検閲整理させながら、何故か疑問を抱いた。両国の貢物の差異が余りにも大きかったからである。武内宿禰は、そのことが気になったので、百済の使者、久氐らと親しい中臣烏賊津に命じ、その理由を調べさせた。それを受けて中臣烏賊津は、斯摩那加彦に声をかけ、理由を審問することにした。まずは百済の三人を大臣室に呼んで面談した。
「久氐殿、弥州流殿、莫古殿。この烏賊津、那加彦と共に百済滞在中は大変、お世話になった」
「いいえ。私たちこそ、烏賊津様や那加彦様に種々、御支援いただき、国内をまとめることが出来、有難う御座いました」
久氐と一緒に弥州流、莫古の二人が、深く頭を下げるので、烏賊津も那加彦も赤面した。烏賊津は三人に言った。
「あれらの支援は任那国の五百城大王様からの支援であり、私たちの力では無い。お礼は任那大王様に言ってくれ」
「我らが王、阿花王も、今、王位にあるのは神功皇太后様と五十城大王様の御支援によるものと良く理解しておられます。それ故、我らは倭国朝貢の途中、任那国に立ち寄り、五十城大王様に会うことを命ぜられました。ところが道に迷ってしまい・・・」
そこまで喋ると、久氐は突然、泣き出しそうになり、声を詰まらせた。一体どうしたというのか?那加彦が声をかけた。
「おい、どうした、久氐。そんな情けない顔をして?」
すると久氐は一旦、目を伏せてから再び目を開け、思いを決したように話を続けた。
「私たちは運悪く、途中、新羅国に迷い込んでしまったのです。私たちは新羅王に捕らえられ、牢屋に閉じ込められていました。そして三ヶ月経って、私たちは殺されそうになりました。私たちは天に向かって新羅王を呪いました。すると新羅王は、その呪いを恐れ、私たちを殺すのを止めました」
武内宿禰が何かあるなと予想していた通りであった。烏賊津と那加彦は久氐の話を聞き、怒りを覚えた。
「それで?」
「新羅王は私たちの貢物を奪って、自分の国の貢物としました。新羅の賎しい物と、我が国の貢物を入れ替えました。ですから、この度、応神天皇様にお届けした百済の貢物は内容も少なく、良い品物を抜き取られ、粗末な物になっていたかと思われます」
久氐の説明に、那加彦は頷いた。
「その通りじゃ」
「新羅の贈り物は珍しい物が多く、素晴らしかった。それで私も、不思議に思い、その理由を知りたくて、那加彦と親しい貴男方を、この大臣室に呼んだのじゃ」
烏賊津の言葉に今まで無口だった莫古が、少し震えながら話した。
「新羅王は私たちに言いました。もし、このことを漏らせば、同行した新羅の兵が、お前たちを殺すと・・・」
「私たちは、それを恐れ、彼らに従い、新羅より、新羅の朝貢の船に乗って、百済の使者としてやって参りました」
久氐は、両目に涙を溢れさせた。弥州流も、もらい泣きして烏賊津に訴えた。
「私たちは、倭国に、あの烏賊津臣様がいる。斯摩那加彦様がいる。だから、きっと助かる。そう信じて、私たちは励まし合い、今日まで頑張って参りました」
「左様であったか。新羅王は何と小狡い悪賢い事をする奴じゃ。この悪事は必ず、伊狭沙大王様に知れて、彼らは再び罰せられるであろう」
すると、大臣室の扉が開いた。
「その通りじゃ」
突然、武内宿禰が一同の前に現れた。
「宿禰様。いつの間に・・・」
「立ち聞きして申し訳ない。陛下が、百済の実態を知りたいとのことで、皆様をお迎えに上がったところ、この部屋にいるとのことで、つい立ち聞きしてしまった。それにしても、新羅の奈勿王という男は何と悪質な男であることか」
「全くもって同感です。人を謀ることを何とも思っていない腹黒い奴です。攻められ、不利と思えば降伏し、和解すれば、また裏切る。この繰り返しです。かような悪人は徹底的に傷めつけないとことには、同じ悪事を繰り替えし続けるでありましょう。何とかしないと・・・・」
中臣烏賊津は奈勿王への憤りで腹が立って、気分が治まらなかった。那加彦は怒りに唇を噛み締めていた。久氐が武内宿禰にすがりついた。
「烏賊津臣様の仰せの通りです。武内宿禰様、どうか、このことを応神天皇様に奏上願い、新羅王を懲らしめて下さい」
「お願いします」
「お願いします」
莫古と弥州流も武内宿禰に切願した。武内宿禰は百済の使者三人に答えた。
「分かった。ことの経過を陛下に説明し、新羅に兵を送ろうと思う。私について来られたい。陛下の所へ案内する」
「畏れ多いことに御座います」
百済の使者三人は、武内宿禰、中臣烏賊津、斯摩那加彦の後に従い、大臣室を出た。
〇
幾つかの廊下を通り、百済の久氐、弥州流、莫古の三人は、中央院内の応接室に案内された。精緻な彫刻をほどこした扉の前に、警備兵が立っており、武内宿禰を見るや、深く頭を下げた。
「こちらじゃ」
「久氐殿、弥州流殿、莫古殿。どうぞ、どうぞ」
武内宿禰と中臣烏賊津と斯摩那加彦の三人が百済の使者、三人を応接室に招き入れた。部屋に入るや大三輪大友主が立っていて、口火を切った。
「先程より、陛下が首を長くしてお待ちしておられます」
すると武内宿禰は、部屋の中央に座る応神天皇の前に向かい、百済の使者を自分の横一列に並べさせて平伏した。中臣烏賊津と斯摩那加彦も、その後に並んで平伏した。
「長らくお待たせ致しました。百済からの使者を、お連れしました」
「ご苦労」
応神天皇は、そう武内宿禰に答えてから、目の前で恐縮している三人に優しく声をかけた。
「折角の休養のところ、呼び立てして済まぬ。先日も質問させてもらったが、大陸の状況をもっと詳しく知りたい。汝たちの報告によれば、百済は何処からも侵略されることも無く、平穏であるとのことであったが、何故か、すっきりしない。新羅の使者たちと汝ら百済の使者の顔つきに相違をあった。朕としては気がかりである。隠すことなく、大陸の実情を教えて欲しい」
すると久氐が即座に答えた。
「伊狭沙大王、応神天皇様のお見通し、恐れ入ります。このことについて、中臣烏賊津様と斯摩那加彦様に先程まで質問されていたところです」
百済の朝貢使、久氐の苦し気な返答に、中臣烏賊津が代わって、応神天皇に言上した。
「久氐殿の説明によれば、新羅の奈勿王の使者、阿利叱智、安良可や曽利万智は新羅王から派遣された悪人とのことです。今回、献上された品々は、百済が任那と倭国の為に準備したもので、それを新羅王が奪って、自分たち新羅の貢物にしたとのことです」
「それは酷いな。新羅王とは、そんな悪知恵を働かせる卑劣な男なのか?」
応神天皇は新羅の奈勿王の悪質な行為を聞いて、呆れ果てた。百済の使者、久氐は、この時とばかり、応神天皇に上訴した。
「新羅は今、高句麗の手先になり、百済、任那への侵略準備を秘かに進めております。この度の新羅の使者、三名も、倭国の内情を把握する為、派遣された密偵のようなものです。倭国内が乱れていれば、倭国にも侵攻しようという奈勿王の考えです」
若き応神天皇は、久氐の訴えを耳にして、怒りが身体中に熱く駆け巡るのを抑えきれなかった。応神天皇は激昂した。
「何と道理をわきまえぬ新羅王であろうか。武内宿禰よ、問答無用じゃ。新羅の朝貢使を直ちに帰国させよ。そして、この百済の者たちについては、身の安全を考え、後日、帰国させよ」
「ははーっ」
武内宿禰は応神天皇の指示に従うことにし、百済の使者三名の護衛兵を増やすことにした。
〇
数日後、武内宿禰の命を受け、斯摩那加彦は新羅の朝貢使、阿利叱智に百済の使者を倭国に置いて行くよう指示し、新羅に帰国させた。頭の回転の速い阿利叱智は新羅の悪事が露見したと気付いたのか、直ぐに来た時の船の帆をあげ、慌てて難波津から帰って行った。一方、応神天皇は、母、神功皇后に新羅の朝貢の使者を帰国させたことを打ち明けた。それを聞いた神功皇后の反応は厳しいものであった。
「あの奈勿王、私との約束を覚えているでしょうに。何ということを・・・」
「でも本当に、新羅の奈勿王は母上に、服従を誓ったのですか?」
「勿論よ。彼は、あの時、女王様の御統治下にしていただきたいとまで言った筈よ。余りにも低姿勢だったので、私は任那と同様、兄弟国として付き合いましょうと約束したの。それがいけなかったのかしら。奈勿王の王子、微叱許智を人質にしていたのに、彼にも騙され逃げ帰られてしまったりして・・・」
「ということは、新羅とは、戦っていないのですね。国王会談で済ませたということですね」
応神天皇が厳しい顔つきで母を見詰めた。自分は生まれてからずっと、母、神功皇太后が大軍を率いて、新羅を討伐して帰られたものと教えられて来たが、実際は違っていたのだ。総ては初めて聞くことばかりであった。神功皇太后は、応神天皇の問いに無言で頷いた。
「烏賊津、今の話は本当か?」
「はい、事実です。その後は、何度か、任那と新羅の小競り合いがありましたが、何とか平和は保たれておりました。しかし、今回の百済の使者からの報告は異常です」
烏賊津は、そう答えて息を吐いた。それを確認し、応神天皇は苛立った。
「何と道理をわきまえぬ新羅の奈勿王であろうか。こうなったからには、再び新羅に遠征し、新羅王を懲らしめるしか方法は無いと思う。皇太后様、再度の新羅討伐を決行しようと思いますが、よろしいでしょうか?」
「私も話を聞いて立腹しました。このまま黙っている訳には行きません。陛下の御裁可にお任せします」
「ならば決まりです。直ちに兵を新羅に向けるよう軍船の手配から始めよ」
応神天皇の裁可を受け、その場にいた武内宿禰、大三輪大友主、中臣烏賊津、物部胆昨、津守住吉、大伴武持たち重臣での遠征作戦会議が直ちに開催された。武内宿禰が口火を切った。
「誰を新羅に派遣しましょうか?」
応神天皇が直ぐに答えた。
「倭国最強の兵を引き連れ、朕自ら奈勿王討伐に向かう」
「そ、それはなりません。陛下自ら異国に赴かれることは、私が許しません」
神功皇太后が強い声で反対した。それに対し、応神天皇が反論した。
「何で朕が出向くことに反対されるのです。母上も行かれたではありませんか?」
「あの時とは、状況が違います。倭国王は、じっと若櫻宮で待っていれば良いのです」
「そうで御座います。陛下が御出でになるまでもありません。ここは新羅遠征を体験された皇太后様の御意見に従い、ことを進めましょう」
武内宿禰が血気に逸る応神天皇を諫めた。応神天皇が納得したところで、再度、武内宿禰が言った。
「誰を派遣しましょうか?」
「倭国最強の兵を差し向けよ」
応神天皇の余りにも積極的な新羅遠征の決断に、重臣たちは吃驚した。命令を受けた武内宿禰と重臣たちの決断も早かった。
「ならば、新羅遠征の経験者、葛城襲津彦に新羅征討の大将軍役を命じましょう」
「武内宿禰よ。またも襲津彦を派遣して構わぬのか?」
「大丈夫です」
武内宿禰は、この際、幾度かの失敗はあるが、自分の息子を派遣すべきだと思った。続いて津守住吉が発言した。
「軍船と船長及び武器、兵糧の手配については、前回同様で良かろうかと思います」
「そうだな。それで良かろう。大友主に意見はあるか?」
応神天皇は、武内宿禰に次ぐ重鎮、大三輪大友主にも意見を訊いた。
「はい。私は今回、斯摩那加彦の弟、千熊長彦を襲津彦殿に同行させてみてはどうかと思っております」
「それも良かろう。では長彦を副将軍としよう。烏賊津に何か意見はあるか?」
その問いに中臣烏賊津は待っていましたとばかり意見を述べた。
「新羅遠征はつい昨日のようなこと。重要視すべきは、かの地での経験と実力です。それを考えると、前回、活躍した東国の武将、荒田別、鹿我別と毛野別を差し向けるべきでしょう。彼らは騎馬を得意とし、勇猛果敢、大陸の山河を侵攻するのに最適の軍団を所有しております。彼らなら陛下の願い通り、思う存分、暴れまくってくれるでありましょう」
「まさに適任じゃな」
「はい。烏賊津臣の意見、この武内宿禰も賛成です。彼ら東国勢は風雲にも強く、強馬精兵の集団です。任那の兵と共に、あっという間に新羅を退治してくれるでありましょう」
武内宿禰の言葉に応神天皇は満足そうに頷いた。かくてまた倭国の新羅討伐が決行されることになった。この決断を聞いて、百済の使者三人は、喜んだ。
〇
応神二年(397年)正月、倭国王、応神天皇は母、神功皇后が新羅遠征を行った時とほぼ同じ、安曇、岡、伊都、武、穴門、出雲、佐波、松浦の船団に、七万の兵を乗せて、新羅に向かわせた。新羅征討大将軍、葛城襲津彦は新羅の東岸、太白山に沿って、四万の兵を乗せた二千隻を待機させ、任那に訪問し、金官城にて任那大王、五百城入彦と誉田真若王子に会い、今回の渡海の説明を行い、百済の使者と貢物を渡し、兄、木羅斤資らと、今後の作戦について相談した。そして先ずは、千熊長彦と白都利を新羅に遣わし、新羅が百済の献上物を穢したことを責めさせた。ところが奈勿王は知らぬ存ぜぬで、千熊長彦の抗議を一向に聞き入れようとしなかった。三月、業を煮やした葛城襲津彦は荒田別、鹿我別、毛野別を大将とした軍勢を卓淳、伊西、干尸山に配置し、自らは卓淳に本陣を構え、新羅を攻めさせた。しかし、いざ戦ってみると戦況は葛城襲津彦の思うように進行しなかった。白都利と前戦に偵察に行って、戻って来た千熊長彦は倭国の大将軍、葛城襲津彦に苦戦状況を説明した。
「襲津彦様。新羅軍は思ったより強力な精兵を集めており、荒田別軍は中々、進軍することが出来ずにおります。何か対策を考えませんと」
葛城襲津彦は、それを聞いて、どうして新羅軍がそんなに強くなったのか、不思議でならなかった。千熊長彦の説明に首を傾げた。
「以前、斯摩那加彦殿が新羅を攻めた時は、敵が簡単に後退したと聞いているが、今回は、どうしたことか?」
そこへ荒田別大将が現れ、葛城大将軍に言った。
「新羅軍の中に、高句麗兵がいるのかも知れません。敵は今までと違う武器を所有し、今まで以上に執拗です」
荒田別は新羅の背後で高句麗が動いているのではないかと推定した。葛城襲津彦は千熊長彦に尋ねた。
「任那からの応援は、どうなっている?」
「久氐殿の依頼を受けて、五百城大王様の皇子、誉田真若様、自ら、私たちの応援に駆けつけていただけるとの伝令がありました。真若様の軍は、高句麗軍も恐れる程の粒揃いとのことです」
「久氐殿は、百済に戻られたのか?」
襲津彦は自分たちと一緒に卓淳にまで来ていた久氐の動きを確認した。すると白都利が答えた。
「いえ。真若様と一緒に、こちらに再び向かっている筈です。彼は新羅の地理に詳しく、私たちと一緒に、新羅を懲らしめたいと願っております」
「中々、根性のある男だ。普通なら、百済へ逸早く逃げ帰るものを・・・」
「彼ら百済の三人は、彼らの窮状を理解し、直ぐさま、新羅攻撃を決断された応神天皇様をお慕い申し上げております。彼らは応神天皇様と百済の為なら、命を失っても惜しくは無いと言っております」
白都利の言葉に、荒田別が、ぽつりと言った。
「異国人にも尊敬されるとは、応神天皇様も大したものだ。流石、我ら倭国の大王である」
荒田別は応神天皇が異国人にまで与えている魅力に感心した。卓淳国の末錦旱岐もまた、会ったことも無い噂の応神天皇を崇拝していた。
「応神天皇様のことは、我々、卓淳の者たちも、任那五百城大王様や真若様から、お伺いしております。我々も百済の者と同様、応神天皇様を尊敬しております」
そんな会話をしている最中、末錦旱岐の従者の過去が、卓淳の本陣に入って来て伝えた。
「末錦旱岐様。誉田真若様が、お見えになりました。如何致しましょう」
「おお、お見えになられたか。ここにお通し申せ」
末錦旱岐の指示を受け、過去は誉田真若とその従者をお迎えした。最初に顔を現わした木羅斤資が、弟、襲津彦を見て、苦笑いした。それから卓淳の末錦旱岐に言った。
「末錦旱岐殿。しばらくぶり。沙白と蓋盧からの連絡を受け、若をお連れ申した」
木羅斤資が誉田真若王子を紹介すると、木羅斤資の後ろから武装した誉田真若が笑顔を見せた。その輝くばかりの真若王子の姿は、不思議な程、大きく見えた。末錦旱岐ら卓淳の者は勿論のこと倭国兵も、誉田真若を見て、その前にひれ伏した。末錦旱岐は平伏しながら挨拶した。
「誉田真若様。突然の無理なお願いにも関わらず、こんなに早くお越しいただき、誠に有難う御座います。卓淳を治めている末錦旱岐、お恥ずかしい話ですが、敵の猛烈な攻撃に難儀しております。葛城襲津彦様も悩まれておられましたので、百済の久氐殿に沙白と蓋盧を連れて行ってもらい、救援をお願いした次第です。誠に申し訳ありません」
すると誉田真若は倭国の将軍たちのいる前で、末錦旱岐の肩を叩いた。
「末錦旱岐よ。そう恐縮するでない。葛城襲津彦殿からの一大事との知らせに、父、五百城大王の命を受け、助っ人に参ったのじゃ。気にするな」
その様子を見て、葛城襲津彦が、誉田真若に礼を言った。
「真若様。有難う御座います。本来なら、私自ら金官城に出向き、五百城大王様に実情を説明し、お願いせねばならぬところを、他国の使者を使っての無礼、お許し下さい」
葛城襲津彦は、百済の久氐を代理にしたことを詫びた。
「名将、襲津彦殿が来られない程までに苦戦しているのであろうとの、父の言葉であった。従って我も木羅斤資、沙沙奴跪といった任那最高の将軍を引き連れてやって来た。もう心配することは無い。任那と倭国が一つになれば天下無敵じゃ」
「それにしても、今回の新羅兵は予想以上に騎馬を使い攻撃して参ります。我ら倭国軍の半分は船乗りであり、馬に乗ることが出来ません。我ら荒田別軍も奮戦していますが、敵の突然の襲撃に遇い、散々に痛め付けられております」
葛城襲津彦は苦戦している状況を誉田真若に語った。真若は自信満々に答えた。
「我ら任那の兵は騎馬の民である。誰もが馬を巧みに乗り回す。遠慮することは無い。応援が少なければ少ないと正直に言ってくれれば良い。如何に倭国の精兵であっても、高句麗を後ろ楯にした新羅を自分たちだけで討伐しようなどと、余りにも滅茶苦茶だ。神功皇太后様をはじめ、今までの戦闘には、必ず任那に加担するよう、数ヶ月前に、倭国からの使者が来られた。今回は突然過ぎた。それに苦戦してからの応援要請とは余りにも水臭いぞ」
「申し訳ありません。葛城襲津彦、周囲の状況が変化していることもわきまえず、功のみに焦り、とんだ失敗をしてしまいました。新羅、奈勿王の倭国に対する無礼の怒りに、余りにも無謀な挑戦をしてしまいました」
「何もかも、この荒田別が悪いのです。敵を甘く見過ぎました」
荒田別は頭を下げっぱなしだった。百済の久氐が、頭を下げる葛城大将軍や荒田別大将を見かねて、誉田真若に詫びた。
「私が悪いのです。奈勿王、憎しの余り、荒田別様をはじめとする倭国兵と卓淳国兵を、直接、敵の陣地、達句まで案内したのが、いけなかったのです。深くお詫び申し上げます」
誉田真若は、ひととおり、各人の話を聞いて、頷いてから言った。
「各人、何も謝る事は無い。倭国と任那は海を挟んでの同一の国であり、心を一つにしなければならないと言っているのです。我が父、五百城大王は、成務天皇様の弟であり、任那にある五百の城を護る為、倭国より派遣された任那総督府の総責任者です。従って貴男方が困っていれば進んで手を差し伸べるのが我々、任那の者の役目です。貴男方の敵は我ら任那の者にとっても敵なのです。新羅は今、奈勿王の弟、実聖王が高句麗に加担し、奈勿王から、その王権を奪おうとしています。その為、高句麗、広開土王の兵が、百済、任那、倭国を征服することを理由に、新羅になだれ込んで来ています。このことは我ら任那は勿論のこと、百済、倭国にとっても、相当に危険な状況が迫って来ているということです」
「と言うことは、新羅が高句麗に併呑される可能性があるということですね」
誉田真若の言葉に、倭国大将軍、葛城襲津彦は唖然とした。新羅は只単に倭国王室の内宮家の存在から脱皮しようとしているのだと思っていた。ところが違ったのだ。襲津彦の兄、木羅斤資が凛然として答えた。
「その通りです。倭国に従うとした新羅が滅んで、高句麗に統合されようとしているのです」
「そればかりではありません。高句麗は百済をも併呑しようとしています」
任那の将軍、沙沙奴跪が付け加えた。真若は倭国の将軍や任那の将軍たちを前に、自分の考えを伝えた。
「調査によれば事態は急変している。高句麗の広開土王が新羅に足を踏み入れる前に、我らは新羅を倭国の支配下に治めねばならぬ。それ故、明朝、久氐、曽利万智の道案内で、再び新羅に突入する。総ての指揮は、この真若が行なう。倭国の将軍、任那の将軍ともに差別無く、我に従え」
「私たち倭国の者、一同、誉田真若様の指揮のもとに、一致団結して頑張ります。よろしくお願い致します」
葛城襲津彦は、倭国軍を代表して、誉田真若の指揮に従うことを誓った。荒田別、千熊長彦らも、それに唱和した。
「よろしくお願い致します」
かくて倭国、任那の連合軍は新羅に突入することとなった。
〇
誉田真若の率いる倭国、任那連合軍は、高句麗の先鋒になろうとしていた新羅に攻め入った。しかし、新羅の味方をする高句麗軍も兵を動かし防戦体制をみせた。その為、合戦は思うように行かなかった。それでも倭国、任那連合軍は奮戦、奮戦を繰り返し,勇敢に戦った。激しい戦いは何日も続いた。一方、伊西に布陣した鹿我別軍と干尸山に布陣した毛野別軍は己抵で合流し、雑林に攻め上った。また安曇磯良と武宗方の海兵隊が東海の迎日湾から勤耆に侵入し、漁村を支配下に治め、高句麗軍を北方に追いやった。三方を倭国、任那連合軍に囲まれた新羅の奈勿王をはじめ、その重臣たちが、慌てふためいたことは言うまでも無い。前方には任那の誉田真若王子軍と倭国の大将軍、葛城襲津彦軍の脅威を控え、左には荒っぽい倭国の騎馬軍団が侵攻しており、背後の海岸から剛勇な倭国水軍が上陸し、こうなっては、前回、倭国に攻められた時と同様、奈勿王みずから、倭国、任那連合軍の前に跪いて、倭国の内宮家であることを再度、訴え、まずもって、この度の不祥事を詫びることだと決断した。奈勿王は、護衛兵を従え、任那の誉田真若と倭国の大将軍、葛城襲津彦のいる高霊城にやって来て、降伏を伝えた。
「誉田真若様、葛城襲津彦様。お久しゆう御座います。本日、新羅王、奈勿尼師今、我が国が倭国の応神天皇様に対して無礼を働き、かつまた悪賢い私の弟が高句麗と結託し、南に侵攻した過ちを犯したことのお詫びに伺いました。先般、御使者、千熊長彦様がお越しになられた時は、委細分からず、知らぬ存ぜぬと申し上げましたが、その後の調べで弊方の過ちと判明致しました。ここに深くお詫び申し上げます。私の知らなかった事とはいえ、実際に行った事ですから、本日、その御処罰を仰ぐつもりで、ここまでやって参りました。倭国王に無礼を働いた罪、高句麗と結託した罪、どうかお許し下さい」
葛城襲津彦は考えた。もし任那の誉田真若王子軍が駈けつけてくれていなかったなら、高句麗、新羅の連合軍の猛威に倭国軍は沢山の兵を失い、敗北していたかも知れない。今日の大勝の処置については勝利を導いてくれた誉田真若王子に任せようと、襲津彦は黙っていた。すると、誉田真若が奈勿王に対応した。
「新羅の悪業については、今更、繰り返し述べる必要もあるまい。人の生涯、国の約束には、守らねばならぬ誠意というものがあるものだが、汝らは、それを破った。その罪は重い。しかしながら、首を刎ねられることを覚悟して来られた奈勿王の狼藉を咎めまい。倭国の天皇家の内宮家であることに免じ、許す。しかし、今回の犯行に関わった者は、貴国内で必ず処罰せよ。その結果をもって、倭国の応神天皇様へ報告する。忘れてならないのは、我らは辰国民の後裔であり、ひとつ主をいただく兄弟国である。そのことを理解せず、高句麗と結託するなど、身の程知らずのことをすれば、また同じことになる。再び、同じ事あらば、新羅王とて命は無いと思え」
誉田真若に諭されると奈勿王は床に手をついて真若と襲津彦に答えた。
「分かりました。もう二度と同じ事を繰り返しません。自らの失敗を悔い改め、償いを実施し、御身内から信頼されるよう努力致します」
その答えを聞いて、誉田真若が襲津彦に話を振った。
「襲津彦殿から何か御意見ありますか?」
襲津彦は一瞬、考えたが直ぐにこう言った。
「奈勿王様は、神功皇太后様と御縁のある新羅の代表者です。皇太后様は、今回の応神天皇様への対応を大変、憂えておられました。あのお優しい皇太后様の為にも、皇太后様とお約束なされたことは今後も遵守して下さい。さすれば、奈勿王様も任那大王様と同様、倭国の人々から高く評価されるでありましょう。倭国への忠誠は新羅の平穏を約束するものです。このことを肝に命じ、政務を行って下さい。本日の申し出、神功皇太后様と応神天皇様にお伝え致します」
「よろしくお願い申し上げます」
高霊城での戦争終結の会談は短時間で終わった。奈勿王はほっとした面持ちで、護衛兵と共に新羅の王都、金城に帰って行った。真若王子と葛城襲津彦たちは、無事、役目を果たし、任那の金官城に凱旋した。そして任那大王に、新羅平定の報告をした。
〇
新羅平定を終えて、任那に戻った葛城襲津彦と荒田別、千熊長彦は、それから数日して、兵を西方に移し、木羅斤資を筆頭に、百済の阿花王と直支王子に会う為、百済に向かった。何故なら、任那と倭国が新羅を相手に戦っている間、高句麗が百済に侵攻し、王族が南に避難しているという任那大王、五百城入彦からの話を受けたからであった。一行は百済の久氐らの案内で阿花王が避難している意流村に到着するや、阿花王と面談した。隊長の木羅斤資は、阿花王に会うと、阿花王に倭国、任那連合と手を組むことを勧めた。
「阿花王様。直支王子様。倭国と任那の連合軍は今や完全に新羅を支配下に治め、その力は抜群です。貴国が今、高句麗の襲撃に苦しんでおられると聞き、その支援にやって参りました。高句麗の広開土王の南下政策を防ぐには、百済もまた倭国、任那連合軍と手を組み、積極的に高句麗に立ち向かうべきです。まずは高句麗を討ち破り、外患を無くし、民を安んじ、国を守るべきだと思いますが・・・」
阿花王は、その木羅斤資の真心のこもった言葉に喜びを露わにした。
「私も、そう思い、皆様と合流する為、やって参りました。叔父、辰斯王に奪われた王位を取り戻して下された神功皇太后様や五百城大王様や中臣烏賊津様の大恩は決して忘れておりません。その大恩に報いるには、百済を守り続けることだと思っております。私たち親子は身命を賭して、倭国、任那連合軍に御支援いただき、高句麗を撃破するつもりです」
阿花王は木羅斤資の意見を従順に受け止め、素直だった。木羅斤資は、任那と倭国兵が、ここまで来るまでの経緯を語った。
「我々は、誉田真若王子様と、ここにおられる倭国の大将軍、葛城襲津彦様、副将軍、荒田別様、千熊長彦様たちと新羅征服後、主浦から船に乗り、西方の古奚津に至り、南蛮の耽羅の島を服属させ、北上して来ました。つまり、黄海を南下し、耽羅まで占領しようとしていた広開土王の水軍を打ち破って、ここまでやって来たということです」
「私も息子、直支王子と共に、比利、辟中、布弥支、半古の村などを降伏させ、意流村にやって参りました。ここで、倭国、任那連合軍の皆さまと合流出来たことは、天の助けです。倭国、任那、百済の三国の力が一つになれば、流石の高句麗軍も尻尾を巻いて逃げ去るでしょう」
すると木羅斤資は阿花王親子に対し、首を横に振った。そんなに簡単では無いという示唆であった。
「高句麗の広開土王は相当のやり手と聞いています。新羅でも高句麗兵と対戦しましたが、彼らは騎馬の機動力を駆使して、倭国の騎馬軍団をもものともせず、暴れまくりました。任那の皇子、誉田真若様が出陣し、やっと彼らを後退させることが出来ました。真若様の指揮は抜群で、倭国の将軍たちもそれに従い、大勝利を得ました。現在、新羅には鹿我別殿と沙沙奴丐跪殿と毛野別殿と安曇磯良殿が四方に駐留しており、新羅、奈勿王も、それらの軍に守られております。その為、高句麗は新羅からの南下を諦め、百済からの南下に全勢力を傾注し始めています。それ故、私たち任那と倭国の兵は、阿花王様の危急を感じ、応援に参った次第です」
「有難う御座います。父、枕流王の命に従い、皆さんと親しく交流させていただいて来たことが、このような天祐となって返って来るとは、まるで夢のようです」
阿花王は木羅斤資に感謝の意を述べた。木羅斤資は、それから倭国の将軍たちを部屋に呼んでもらい、阿花王に将軍たちを紹介した。
「倭国の将軍、葛城襲津彦様、荒田別様、千熊長彦様です」
「只今、ご紹介いただきました葛城襲津彦です。任那の五百城大王様の御指示により、応援に駈けつけました。よろしくお願い申し上げます」
「荒田別です。よろしくお願い申し上げます」
「千熊長彦です。よろしくお願い申し上げます」
倭国の武将三人は、百済の阿花王と直支王子の前に平伏し、挨拶をした。阿花王はそんな三人に優しく語りかけた。
「葛城襲津彦様、荒田別様、千熊長彦様。私が百済の阿花王です。ようこそ百済へお越し下さいました。倭国では、我が国の使節、久氐らが大変、お世話になりました。心より御礼申し上げます。この度はまた、高句麗、広開土王の攻撃により、もっと南に退却しようか、どうしようか悩んでいるところでした。私は、任那軍と共に倭国の騎馬軍団と海軍団の皆さんの来援をいただき、勇気百倍になりました。本当に良く、お出で下さいました。阿花王、深く深く感謝申し上げます」
阿花王の感謝をこめた言葉に葛城襲津彦が答えた。
「阿花王様。戦さに勝つには、その勇気が必要なのです。先頭に立つ者に勇気が無ければ、部下は付いて来ません。上に立つ者が自信を持てば、部下もまた自信満々になります。ましてや国王様自ら兵を指揮すれば、国民全員が付いて参ります。私は新羅との対戦の時、それを強く感じました。私が指揮しても、新羅の卓淳の兵は熱心でありませんでした。卓淳国の末錦干岐は、新羅とも交流があり、戦さに積極的で無かったのです。彼らは新羅と嫌々、戦っていたのです。その為、倭国軍は全滅しそうになりました。しかし、どうでしょう。任那王子、誉田真若様や、ここにおられる木羅斤資様が応援に駈けつけ、先頭に立ち、指揮した途端、任那や卓淳の兵は人が変わったように積極的に行動を開始しました。誉田真若様の為に、命を賭して、新羅国に侵攻しました。そして、あっという間に、新羅、奈勿王を降伏させ、今や任那の沙沙奴跪将軍は倭国の将軍、鹿我別殿らと共に新羅に駐留し、完全に政権を連合軍のものと致しております」
「流石、任那の真若王子。凄いです」
「百済についても同じことが言えます。百済の中には高句麗や、燕に傾いている者もいる筈です。しかし、阿花王様が自ら勇気をもって先頭に立てば、そういった者も、阿花王様に従います。百済国民全員が、阿花王様の為に頑張ります。命を投げ出して百済国の為に敵と戦ってくれます」
葛城襲津彦は百済王に、先頭に立って戦うよう煽動した。阿花王は勇気百倍になったと言ったものの国民が付いて来るか自信が無かった。
「本当でしょうか?」
「本当ですとも。もし阿花王様が私たちの言う事を信じないで、高句麗との戦いを私たち連合軍だけに任せるとするなら、百済の国民は愛国心を失い、自分たちの山河を、荒れ果てた戦場にしてしまうでありましょう。国民は守るということを忘れ、倭国や任那の力無さを恨み、高句麗を恐れ、阿花王様を憎むでありましょう。それは哀しいことです」
阿花王は、葛城襲津彦の言葉に感動して答えた。
「言われる通りです。私は百済の山河を愛しています。百済国民を大切に思っております。そうで無くして、どうして百済国王と言えましょう。私は百済国民を流浪させるような不幸を招いてはならないと思っております。直支王子と共に、百済を守るべく、先頭に立って戦います。百済はその昔、中臣烏賊津様の御先祖、秦の王子、昭安様をお守りした程の強力な国家でした。その国家を私の代で滅ぼす訳には参りません。何が何でも、この国家を守らねばなりません。どうか皆さんの御協力の程、阿花王、伏してお願い申し上げます」
百済の阿花王の返事と願いを聞いて、葛城襲津彦は満足した。
「倭国と任那と百済は昔からの友人です。倭国と任那の兄弟国家は、可能な限り、その友人、百済を応援する為、頑張ります」
「実を言うと、任那の私と倭国の葛城将軍は実の兄弟です。私たち兄弟は、百済を救済する為、命懸けで尽力致します。高句麗討伐の為、私たち兄弟に出来ることがあれば、何なりと遠慮なく申し出て下さい。私たち両国は、阿花王様の味方です」
襲津彦の言葉に続いて発せられた木羅斤資の言葉もまた百済王の胸を打った。それにしても木羅斤資と葛城襲津彦が兄弟とは驚きであった。
「私も、以前、百済に滞在していた斯摩那加彦の弟の千熊長彦です。百済の為に頑張ります。よろしくお願いします」
これまた驚きであった。どうも長彦が那加彦に何処か似ているところがあると思っていたが、それが事実であったとは。阿花王は倭国、任那両国から派遣された武将たちの百済への思いを聞いて感激した。
「有難う御座います。この阿花王、皆さんの応援に違わぬよう、必ず高句麗軍を撤退させてみせます」
阿花王は自信溢れる発言をした。かくて倭国、任那、百済の強力な連合軍が意流村で結成された。
〇
意流村で結成された倭国、任那、百済の連合軍は、阿花王を中心に戦闘力を高め、北に向かって進軍した。今までに無い、陸海両面からの攻撃と、百済兵の気迫に、高句麗軍は驚き、後退をし始めた。阿花王は任那、倭国の将軍たちと共に百済の都に向かった。連合軍は途中、古沙山にて休息した。百済の風景を眺め、千熊長彦が言った。
「阿花王様。百済の国は、真実、中臣烏賊津様が申しておられた通り、景色の美しい素晴らしい国です。高句麗のような気性の激しい邪悪な隣国が無ければ、最高の国です」
すると阿花王が、千熊長彦に百済の歴史を語った。
「海と山のあるこの百済の国は、もともと高句麗から分かれた国です。高句麗の始祖、朱蒙の三男、温祚王が慰礼に城を築いてより、兄弟、親族の戦いが続き、百済は高句麗から独立したのです。しかしながら高句麗は、何時までも百済を自分の属国と考えております。絶えず百済を自分たちの支配下に治めようと攻撃して参ります。私は、それに絶えず悩まされ、恐れたり、発憤したり、心の休まる日がありません」
千熊長彦は阿花王の言葉に疑問を感じた。百済は、あの辰国の仲間では無かったのか。その経緯が良く分からなかった。
「何故、兄弟の国でありながら争わなければならないのでしょう。哀しいことです。倭国と任那を見て下さい。この兄弟の国は非常にうまく行っています。もしかすると、過去に争ったこともありましょう。しかし、現在は王家が交流し、婚姻を結び、争いを無くしています。互いに相談し合い、皇位を譲り合っています。百済と高句麗もまた、倭国と任那のように、邪悪な高句麗王を排斥し、親しく交流し、平和な兄弟国となるべきです」
千熊長彦の率直な意見に、阿花王は敗北に追い込まれながらも、倭国、任那の連合軍に支援を受けることになって、強気になっていた。
「言われることは良く分かります。しかし、それは理想であって、現実ではありません。現実は百済を属国と考える高句麗の偏見です。支配する者と支配される者。この偏見が続く限り、百済に平和はやって参りません。今や百済は、倭国、任那の連合軍を背後に高句麗に侵攻し、今までとは逆に、支配される者から支配する者に変身しようとしております。百済が支配する者に変身出来れば、両国の統一も可能です。私たちの国は倭国と任那のように大海で分断されている国ではありません。陸続きの国と国です。分断しなくても良いのです。ですから私は、この際、両国を統一しようと考えております」
傍で父、阿花王と千熊長彦の会話を聞いていた直支王子が、千熊長彦に向かって言った。
「父上の申される通りです。両国は統一されるべきです。しかし無理な統一は、後日、再び分断のもとになります。千熊将軍様の申される通り、倭国と任那の例規は実に素晴らしく、我々も、それを見習い統一すべきだと思います」
「直支王子様。倭国と任那の強い絆が何であるか、お分かりになっていただけたでしょうか?」
「私は倭国と任那の結びつきは、互いの守るべき約定がきちんと結ばれていて、実に素晴らしいものだと思っております。出来るなら、自分は倭国を訪ね、留学し、これらのことを修得したいと願っています」
「何と嬉しいお言葉でしょう。直支王子様が倭国に訪問されることを知ったなら、我が応神天皇様は心から喜ばれることでありましょう。是非、機会を作り、倭国に訪問して下さい」
千熊長彦は直支王子の言葉を聞いて喜んだ。阿花王は直支王子の軽率な発言が気になったが、話題をもとに戻した。
「それは良い事である。しかし今、直面している問題は、如何にして高句麗に逆襲を加え、如何にして高句麗の領土を占領するかということである。司馬晃、莫古、解曽利をはじめとする百済の将軍たちが、皆さんの応援を得て、百済の領土を取り戻しつつありますが、何しろ高句麗の領土は拡大しております。そこを占領するには沢山の進駐軍が要ります。これら進駐軍の要請にも時間がかかります。どうしたら良いでしょうか」
「進駐軍の養成には、任那の木羅斤資様が適任です。倭国の将軍たちも、その占領方法を木羅斤資様から指導していただき、新羅に駐留しています。木羅斤資様の母上様はもともと新羅の人で、木羅斤資様は他国人との折衝方法がとても上手です。その細かな手ほどきを駐留兵に指導していただければ、安心です」
千熊長彦は木羅斤資を進駐軍の指導官にしてはと推奨した。
「それは良いことを教えていただきました。木羅斤資殿に進駐軍の養成をしていただこうと思います」
古沙山での百済の阿花王親子と千熊長彦の休息時の談笑は百済の親子にとって将来の励ましとなった。阿花王親子は勇気づけられ、古沙山から漢城へ向かった。
〇
数日後、百済の阿花王は、倭国、任那連合軍に付き添われて、王都、漢城に戻った。入城すると直ぐ、阿花王は木羅斤資や葛城襲津彦や千熊長彦と随臣、首里芳、久氐、弥州流を集め、今後の作戦会議を始めた。そこへ直支王子がやって来た。
「倭国の将軍、荒田別様がお越しになられました」
「おお、丁度、良かった。ここにお通ししなさい」
「荒田別様。こちらへどうぞ、お入り下さい」
その荒田別は直支王子に案内されて会議室に入って来ると、兜を脱ぎ、百済王たちの前に平伏した。
「阿花王様。葛城襲津彦様。お久しぶりに御座います。荒田別、戦況報告に参りました」
「荒田別殿。大儀であった。高句麗との戦況は如何であるか?」
葛城襲津彦の問いに荒田別が答えた。
「百済の司馬晃将軍をはじめとする百済の精鋭軍は臨津江を渡り、帯方を占領しようと、積極的な侵攻を進めております」
「おお、そうか。帯方まで侵攻しようとは、天晴なことじゃ」
阿花王は喜んだ。
「しかしながら高句麗軍は、まだ沢山の兵力を背後に抱えているようであり、中々の強敵です。これ以上、進撃するには、あと二万の百済兵が必要です」
「あと二万の百済兵を準備せよと言うのか」
「はい。強敵、高句麗を打ち破るには、どうしても、あと二万の百済兵が必要です」
「倭国や任那からの援軍を頼むことは出来ないだろうか?」
何と阿花王は他国からの援軍を当てにした。直ぐに他国に頼る阿花王の考えに葛城襲津彦は不満を覚えた。
「それは無理です。倭国と任那の兵の半分は新羅に駐留しています。それらの兵を新羅から移動させる訳には参りません。新羅に倭国任那連合軍を駐留させていることは、新羅を監視するというより、むしろ新羅側から高句麗を攻撃していとも言えるのです。このことも百済の北上復帰を楽にさせてくれた筈です。荒田別の要請に従い、百済兵二万を増員して下さい」
襲津彦の心中を察した直支王子は父、阿花王に言った。
「父上。何とか百済兵二万を準備しましょう」
だが阿花王はしばらく黙考した。同族の戦さの為に、同族の兵を集めることは如何なものか。直支王子は百済兵を集めることを回避したがる父王に百済兵を集めることを何度も要請した。千熊長彦が首を傾げる木羅斤資と葛城襲津彦の様子を窺い、阿花王に厳しく進言した。
「阿花王様。阿花王様は古沙山で私に、高句麗、百済両国を統一したいと仰せられたではありませんか。両国を統一するには百済の兵が必要なのです。高句麗を打ち破るには、他国の救援も必要でしょうが、先ずは百済の兵を使い、高句麗兵を百済兵に寝返らせることです。高句麗兵を説得出来るのは百済兵をおいて他におりません。両国を統一するには、百済王様みずから、脇目も振らず、あらん限りの百済兵を徴集し、強い集中力をもって同族の味方を増やすことです。両国を統一する中心力は百済の民でなければならんのです」
斯摩那加彦に似て、親しみのある千熊長彦の進言に、阿花王は頷いた。
「分かった。何とかして百済兵二万を集めよう。そして帯方を占領し、更に楽浪の平壌城を攻めよう。その昔、我が先祖、近肖古王は太子、近仇首王と共に高句麗を攻め、三万の兵を率いて平壌城に侵入し、故国原王を戦死させ、高句麗に大勝し、高句麗を弱体化させた。その時、近肖古王は、兄弟の国ということで、高句麗を滅亡させず、統一しようとしなかった。それが誤りであった。その結果、再びまた高句麗が力を増し、支配する国と支配される国の関係に復帰してしまった。百済はもう、これ以上、支配される国でありたくない。支配する国にならねばならぬ」
阿花王は征服者たらんと欲した。千熊長彦は現実を理解していない阿花王に奏上した。
「阿花王様。その為には二万の兵では足りません。荒田別殿が二万の兵が必要と申し上げたのは、帯方の地を占領する為の兵です。平壌のある楽浪を攻めるには更に二万の兵が必要です」
「それは無理じゃ」
阿花王は顔をしかめた。何と不安定な精神の持ち主であろうか。およそ一国の首長たる者、何時如何なる時に於いても不動の精神を持ち、常に死と対峙する覚悟がなければならないものを、阿花王は違った。葛城襲津彦は愕然とした。しかし、この輝かしい戦勝の栄光を、手にしようとしている千載一隅の機会をみすみす見逃すことは無い。葛城襲津彦は決断した。
「仕方ありません。楽浪まで攻め込む御積りでしたら、倭国より、更に二万の援軍を出しましょう。応神天皇様に阿花王様の夢を語れば、必ずやお聞き入れ下される筈です」
「有難う御座います。この阿花王、葛城大将軍様の御恩、決して忘れません」
阿花王は百済王の威厳をかなぐり捨て、葛城襲津彦の前に低頭した。葛城襲津彦は、まるで国王にでもなったような気分になった。強く胸を張って阿花王に言った。
「総ては伊狭沙大王、応神天皇様のお力によるものです。礼は応神天皇様に述べて下さい」
阿花王は涙を流して言った。
「分かりました。阿花王、応神天皇様に感謝申し上げます。もし草を敷いて座れば、その草は何時か火に焼かれるかも知れません。木の葉を取って座るとすれば、その木の葉は何時か水の為に流されるかも知れません。それ故、私が皆さまの力を借り、高句麗を併呑した暁には、私は不変の岩上に座り、万世に至るまで、倭国に朝貢することを誓います。このことは百済が永遠に朽ちないということです。今から後、百済から倭国への朝貢は千秋万歳に絶えることはないでしょう。常に西蕃と称して、春秋に朝貢致しましょう。このことを応神天皇様にお伝え下さい」
「阿花王様の心の程、葛城襲津彦、良く分かりました。早速、倭国に使者を送り、応神天皇様に、二万の兵を派遣していただきましょう」
葛城襲津彦は阿花王に二万の援軍を約束し、千熊長彦を即刻、倭国に帰還させることにした。
〇
応神二年(397年)九月十日、千熊長彦は、百済の直支王子と久氐らを従え、百済より倭国へ帰った。武宗方の軍船に乗り、任那の主浦から対馬、壱岐、岡水門を経て瀬戸内海を通過し、難波津に入つた。一同は、大和に着いて早々、磐余の若桜宮に伺い、神功皇太后と応神天皇に拝謁した。
「皇太后様。応神天皇様。千熊長彦、本日、任那より、帰国しました」
神功皇太后と応神天皇は一同を優しく迎え入れた。
「御苦労様でした。新羅及び百済に留まっての長彦の活躍、毛野別から聞きました。良く頑張ってくれました。感謝してます」
そして皇太后の目は、隣りの直支王子や久氐らに移った。久氐がその視線を感じ、挨拶した。
「百済、阿花王様の使者、久氐で御座います。阿花王様の命により、百済の直支王子様と共にやって参りました。お懐かしゅう御座います」
神功皇太后は一年前に久氐に会った時のことを思い出した。
「海を渡っての再度の訪問、疲れたであろう。倭国まで若い王子を連れて良くぞ参られた」
すると久氐に続いて、直支王子が挨拶した。
「神功女王様におかれましては、御壮健で何よりです。父、阿花王から神功女王様に、呉々も、よろしくとのことです」
直支王子の挨拶は、初めてお会いする神功皇太后と応神天皇の前に平伏し、緊張しての挨拶であった。
「有難う。私は直支王子に会えて、とても嬉しい。心行くまで倭国に留まり、聖王の政治について学んで帰られるが良い」
「神功女王様のお言葉、有難くお受け致します。久氐、貢物を・・・」
直支王子の指示により、久氐は持参した代表的貢物を神功皇太后と応神天皇の前に差し出た。
「阿花王からの貢物です。七枝太刀と七鈴鏡他、絹綾織物、鉄鋌など、沢山の物を、お持ち致しました。どうぞ、お受け取り下さい」
神功皇太后と応神天皇は、それらの品々を見て、深く頭を下げた。
「有難う。有難く頂戴致します。心より礼を申します」
久氐は百済の鉄製品の品々を指さしながら、説明をした。
「私たちの国、百済の西には大きな河があります。その流れは谷那の鉄山より流れ出ています。水源は遠く、七日、行っても行き着きません。私たちは、まさにその河の水を飲み、その山の鉄を掘り、ひたすら聖朝に奉る者であります」
久氐の献上の言葉に直支王子が加えた。
「今、私たちが通う所の東の海に浮かぶ貴い国、倭国は、天の啓かれた国です。その倭国の聖王様は私たちに天恩を垂れて、海の西の地を割き、その地を私たちにお与え下さいました。そのお蔭で、我が百済の基礎は強固なものとなりました。私の父は絶えず私に申しております。お前もまた、よく倭国と好みを修め、倭国に産物を献上することを絶やさぬよう心掛けよ。ならば、我も悔いは無いと・・・。私はこの言葉に従い、千熊長彦様が帰国なされるのを機会に、早速、朝貢に参りました」
神功皇太后は直支王子の言葉に感激した。胸のつまる思いだった。
「百済の忠誠の程、よく分かった。私も直支王子の言葉を聞き、もう、この世に思い残すことは無くなった。ここにいるのは私の後継、応神天皇です。直支王子よ。百済の次代を継ぐのは、そなたじゃ。応神天皇のこと、呉々も頼みますよ」
「ははっ。この直支王子、応神天皇様への忠誠を、ここに誓います」
直支王子は久氐ら百済の使者らと共に、床に手をつき、忠誠を誓った。すると応神天皇が、それに応えた。
「有難う、直支王子よ。朕は、この日のことを忘れないぞ。汝も朕も若い。この若さをもってすれば、高句麗など、恐れるに足らん。朕は汝らと手を取り合い、伊狭沙大王となって、世界を監督しようと思う。我らを敬慕する民草の為に共に頑張ろう」
「何と立派なお言葉!」
千熊長彦は応神天皇の直支王子への対応の言葉に、涙が溢れそうになった。拝謁の儀は円滑に運び、一同はほっとした。
〇
翌日、千熊長彦は中央院の会議室に集まった神功皇后、応神天皇、武内宿禰、大三輪大友主、津守住吉、中臣烏賊津らの前で、新羅、百済、任那の状況について報告した。
「先般、帰国された毛野別将軍から、お聞き及びと思いますが、新羅の奈勿王は、我ら倭国、任那の連合軍に服従することを約束し、任那を盗ってやろういう野心を捨てました。しかし高句麗の広開土王は南下を諦めず、今は百済側から南下しようとしております。高句麗は、かって魏が直接支配していた玄菟、楽浪、臨屯、帯方の四郡を滅ぼし、国境線を越え、百済に攻め込み、漣川で攻防戦を繰り広げ、漢城近くまで攻め込んで来ております。その為、百済の阿花王は、危険を避け、南の泗沘まで逃げていましたが、我ら倭国、任那連合軍の援護を受け、再び漢城に戻り、高句麗と戦っております。しかし強大になった高句麗軍を粉砕するには、現在の軍隊だけでは足りません。そこで、百済王様や任那大王様や葛城将軍様から、倭国軍二万の援軍をお願いしたいとの申請があり、私は、その使者として、直支王子を連れて戻って参りました。百済の為、いや任那を含む倭国防衛網の為、是非、二万の援軍を提供されますよう、ご報告方々、申請申し上げます」
千熊長彦の真剣な申告に神功皇太后は黙考し、目をふさいだ。武内宿禰が少し怒った表情になって千熊長彦に確認した。
「すると、襲津彦も倭国の援軍が必要だと申しているのだな」
「はい。そうです。襲津彦様は木羅斤資様と百済の陣頭に立って戦っておられます。敵を打ち破り、高句麗に奪われた領土を取り返す、絶好の機会だと考えておられます」
「然らば、即時に対応せねばならぬな」
「はい。よろしくお願い致します」
千熊長彦は、武内宿禰に深く頭を下げた。武内宿禰は神功皇太后の顔を見ながら呟いた。
「さあて、どうしようか?」
「それは一大事です。直ぐに援軍兵二万を集め、船を任那に向けなさい」
神功皇太后はそう叫んだかと思うと、座っていた椅子から、崩れ落ちそうになった。隣りにいた武内宿禰は慌てた。
「如何なされました?皇太后様!」
武内宿禰が倒れそうになった神功皇太后を咄嗟に支えた。
「母上。どうなされましたか?」
応神天皇が母親に駆け寄った。大三輪大友が気を利かせて、会議を中止し、津守住吉に侍医を呼ばせた。津守住吉は典薬寮に走った。応神天皇は母の急変の状況に動揺し、何度も同じ言葉を繰り返した。
「母上、大丈夫ですか?」
「母上、大丈夫ですか?」
中臣烏賊津は、畏れ多いが神功皇太后の身体を抱え上げ、会議机の上に安臥させた。侍医、吉備再利が駈けつけ、神功皇太后の容態を確認した。
「皇太后様。侍医の再利です。どう致しましたか?ご気分は如何ですか?」
「ああ、再利先生ですか。お世話になりました。私はもう御終いです」
「何を申されます」
「それより、応神と宿禰をここへ・・」
その言葉に侍医、吉備再利が一歩後退し、応神天皇と武内宿禰が近寄った。神功皇太后は息子、応神天皇の手を握りながら瞑想の中で喋った。
「応神よ。宿禰よ。私は昨日、百済からの使者に会い、安心した。周辺国の多くが倭国を頼りにしている。そして応神天皇を尊崇している。私の摂政としての役目も終わった。今まで張り詰めていたものが無くなり、急に生きる力を失った。長い人生であった。いろんな人生であった・・・」
その言葉に応神天皇は泣き出しそうな顔をした。
「母上。そんな情け無いことを言わないで下さい。しっかりして下さい」
武内宿禰も神功皇太后を励ました。
「皇太后様。お気を強くなされて下さい。この宿禰より、まだまだお若いではありませんか。病雲は直ぐに去って行きます。まだ倭国の為に頑張っていただかねばなりません。貴女様は私たちの光で御座います。しっかりして下さい」
武内宿禰の言葉に神功皇太后は突然、目を大きく見開いた。残る力を振り絞り、重臣たちに宣告した。
「重臣たちよ。許しておくれ。私は悪い女であったかも知れません。倭国隆盛の為、汝らに沢山の無理を命じました。倭国内や海外での戦さで、沢山の人命を失わせてしまいました。しかし、これは汝ら国民を愛しているが故に犯した罪であり、私一人で、あの世まで抱いて参りましょう。今や倭国は新国王、応神天皇が即位し、平和に満ち溢れています。異国の王子が朝貢に訪れる程の大国になっております。しかし、重臣たちよ。汝らが、もし応神天皇に背くようなことがあったなら、この平和は、あっという間の夢に終わるであろう。汝らが倭国の繁栄と恒久平和を願うなら、それは先ず、伊狭沙大王、応神天皇を奉ることです。よろしくお願いします。お願いします」
言い終わると、神功皇太后は、瞼を閉じた。
「皇太后様!」
「皇太后様!」
武内宿禰をはじめ、重臣たちが叫んだ。神功皇太后は今を最期と武内宿禰に言った。
「胸が痛い、苦しい。宿禰、頼みますよ・・・」
「お任せ下さい」
「母上。母上。母上が・・・・」
応神天皇は誰はばかることなく、神功皇太后の身体にしがみついて泣き喚いた。武内宿禰は、もう何も喋らず、昏々と眠りに入った神功皇太后を吉備再利と津守住吉らに皇太后の寝室へ運ばせた。
〇
九月十七日、神功皇太后は磐余の若桜宮にて崩御された。神功皇太后の看病をしていた侍医、吉備再利から、皇太后の死去を知らされた武内宿禰が応神天皇に、その不幸を伝えた。
「陛下。先程、皇太后様が、御寝所にて大往生なされました」
「何と。母上、母上が亡くなられたと」
応神天皇は何時か告げられる言葉とは思っていたが、かくも早くその時が来るとは思っていなかった。応神天皇は顔を歪めた。
「はい。喪礼の係が、御遺体を棺に納めた為、もう、お会いすることは出来ません」
「そんな無体な。皇太后は朕の母上ぞ」
「でも、これは昔からの決まりです」
「何とかならぬか?」
応神天皇は一目だけでも母の顔を拝見したかった。あの世に引きずり込まれて行く母、神功皇太后の眠った顔を見てやりたかった。しかし、それはならぬことだった。応神天皇はどうしたら良いのか頭の中が真っ白になり、肩を震わせて、涙した。
「陛下。皇太后様がお亡くなりになった今、倭国の最高位は名実共に陛下です。泣いている時ではありません。国王は国王らしく、皇太后様の御逝去を悼み、大きな心をもって、倭国の大王として振る舞わなければなりません。泣いてはなりません」
武内宿禰は応神天皇を諫めた。
「宿禰よ。朕の母上が亡くなられたのだ。朕が泣いて何故、悪い。朕は泣いてはならぬのか?」
「それが天皇というものです」
「そうか、分かった。朕は泣かぬ」
「分かって下さいましたか」
武内宿禰は胸を撫で下ろした。応神天皇は涙をぬぐい、武内宿禰に言った。
「宿禰よ。朕は母上の為、墳墓を造る。素晴らしい墳墓を造り、天皇家の偉大さを誇示する。異国からの品々を墳墓に納め、後世にも、その偉大さを継承させる。朕は今や完全に倭国のみならず、世界の王の中の王、伊狭沙大王になったのだ」
「その通りで御座います。陛下は倭国のみで無く、世界の中の王の王になられたのです。神功皇后様の墳墓造りについては、この宿禰にお任せ下さい。武振熊に命じ、狭城の盾列に、その墳墓を築かせましょう。武振熊は、かっての倭国女王、卑弥呼様に劣らぬ皇太后様の墳墓を築き、その墓守を務めるでありましょう」
「宿禰よ。お前の言う通り、母上の墳墓のことは武振熊に任せよう。完成は来年八月とする」
「ははーっ」
「大葬の式典には任那をはじめ、百済、新羅、高句麗、秦、燕、晋などから、沢山の客人を招く。その準備等についても怠ることなく、万全の手配をしてくれ」
応神天皇は新しい覇者としての貫禄に満ち溢れた発言をした。その変化の程に、武内宿禰も驚嘆した。
「畏まりました。武内宿禰、老体に鞭うち、各大臣と共に、手落ちの無いよう、最大の企画を行います」
「それと百済への援軍の二万については、墳墓造りのこともあり、取敢えず、一万で我慢して貰おう」
「了解しました。徴兵については大三輪大友主殿と斯摩那加彦に、早急に手配させます」
神功皇太后の死。それは偉大な死であった。名門、息長家の姫君として生まれ、その美貌と英知により、仲哀天皇の皇后となり、熊襲討伐の折、夫、仲哀天皇を失うや、烈女に変身し、敵の女王、田油津媛を打ち破り、その勢いを得て、新羅出兵を実行に移した。そして新羅、奈勿王をひれ伏させ、任那との親交を深めて帰国するや、仲哀天皇の皇子を産み、その皇子、誉田皇子に敵対する仲哀天皇の王子たち、香坂皇子、忍熊皇子らを払拭し、自ら倭王となられた。誉田皇子が成長すると、自ら退位し、我が子、誉田皇子を応神天皇として即位させた。退位後は摂政の座に就き、応神天皇を補佐すると共に新羅、百済、任那、耽羅、琉球の政治にも影響を与えた。その神功皇太后の死は、まさに青天の霹靂であった。老臣、武内宿禰は群臣百寮に神功皇太后が御逝去されたが混乱無きよう下知し、百済から来訪していた直支王子とその従者に、皇太后陵墓築造の手助けの為、倭国に留まるよう依頼した。かくて神功皇太后は狭城の盾列の御陵で永眠することになった。神功皇太后は仲哀天皇に続いて天下を治めること六年。四十五歳の生涯であった。