■新羅の内乱
応神二十年(415年)九月、後漢の霊帝の子孫と称する阿知使主が、その子、都加使主、並びに十七県の一族を率いて、燕国から百済を経由して、倭国に亡命して来た。阿知使主と最初に面会した葛城襲津彦は、大陸の変化に驚き、政庁に出勤し、先ずは中臣烏賊津に阿知使主と面談した話をした。
「烏賊津臣様。昨日、来朝した阿知使主の報告によると、高句麗の長寿王は増々、その手腕を発揮し、その勢力圏を拡大している模様です」
「広開土王が亡くなり、うら若い長寿王が、高句麗の勢力圏を拡大しているとは思われぬが。もし、それが事実ならば、倭国もまた大陸に進出し、三韓の地を守護せねばならぬ。三韓の地は、天皇家をはじめ、武内一族にとっても、我が中臣一族にとっても、重要な故地である。放っておく訳にはいかない」
中臣烏賊津は高句麗の底知れぬ国力と行動力に、今更ながら驚いた。襲津彦は驚いている烏賊津に言った。
「今、我が国は異国の文化文明を吸収する為、沢山の技術者や学者を大陸から倭国に歓迎しております。また異国の民も、倭国が武力や権威によらず、恩徳のある国王が天下を治め、安楽の国だとして、続々と移住して来ています。しかし、彼らを受け入れるには逆に倭国も、もっと沢山の若者を外国に送るべきだと思います。私も、何度か、新羅や任那に滞在し、高句麗や、北魏、燕、晋などの異国の存在を知ることが出来ました。しかしながら、それら異国の詳細を把握出来ていません。世界の動静を把握する為に、直ぐにでも調査団を派遣すべきであるかと思いますが・・・」
「襲津彦殿の申される通りです。陛下の御英断により、王仁先生に学び、異国の言葉を習得した若者も数多くなって参りました。これらの学徒の中から優秀な者を選抜して異国に派遣することは、倭国にとっても重要なことです。燕国からの亡命者の報告と共に襲津彦殿の考えを、陛下に申請してみましょうか?」
「そうしていただければ・・・」
二人が、そんな相談をしている会議室に、散策帰りの応神天皇が、ひょっこり現れた。
「あっ、陛下」
「秋風が心地良いぞ。こんな時、暗い部屋の中で、二人して何を相談しているのじゃ」
「これはこれは陛下。昨日、燕国から亡命者が来朝したので、陛下へ御報告する前の打ち合わせをしておったところです」
中臣烏賊津が即座に、ことの次第を応神天皇に伝えた。
「また来朝者か。我が国も王仁博士をはじめ、鍛冶師の卓素、機織り師の西素、酒造り師の須須許理と優秀な者が随分と増えたな。して燕国からの来朝者とはどんな技術を持っているのか?」
応神天皇の問いに対して、昨日、阿知使主と面談した葛城襲津彦が答えた。
「彼らの代表、阿知使主が言うには、自分が率いて来た一族の中には、機織り機、馬具、食器、農耕器具などを製造する技術者がいっぱい居るとのことです。阿知使主は高句麗や北魏と絶えず戦っている燕国を嫌い、東海の倭国に聖人君主がいて、民が平和に暮らしていると聞いて亡命して来たとのことです。途中、百済を経由しましたが、そこでは高句麗の長寿王が、その勢力圏を広げ、民が逃げ惑っているということです。このままですと、三韓の地は長寿王の支配下になってしまうかも知れないとの話です」
「何故、そんなことに」
「阿知使主の話によれば、長寿王は燕や新羅を併呑し、今や百済をもその手中に収めようと画策しているとのことで御座います。百済の直支王は、高句麗の攻撃に防戦する為、東晋の安帝のもとに使者を派遣し、その支援により鎮東将軍の地位を、かろうじて守っているとのことです。しかし、高句麗の長寿王がその気になれば、百済は、あっという間に高句麗のものになってしまいます。我が国はこの状況を黙って見ている訳には参りません。早急に任那に優秀な者を派遣し、現地の情勢を把握させるべきかと思います」
「陛下。私も襲津彦殿の意見に同感です」
「適任者はおるのか?」
応神天皇は強い語調で確認した。それに対し、烏賊津が答えた。
「今、倭国には王仁先生の指導を受けた異国語にも通じた優秀な若者が沢山おります。それに任那の将兵をつければ、情勢を把握することは簡単です」
烏賊津の答えに応神天皇は顔を曇らせ、難色を示した。
「それは心配である。そうは思わぬか。襲津彦の今までの報告によれば、新羅の実聖王は、任那の真若大王の命令を聞かず、将軍、木羅斤資も苦慮しているとの有様。もし任那の兵力が百済に移動すれば、任那は手薄になり、実聖王の思う壺である。かと言って、そう度々、大陸へ派兵しては倭国の民を失うことになる。それはあってはならない事だ」
応神天皇は新羅の実聖王のことを気にしていた。高句麗で長年、暮らしていた実聖王が、倭国寄りの重臣を排斥したことは倭国にも伝わっていたからである。
「陛下。心配するに及びません。我々には微叱許智王という新羅の人質がおります」
烏賊津が、そう言ったが、応神天皇は首を横に振った。
「烏賊津よ。それは誤った考えである。微叱許智王自身が、かって朕にこう言った。〈父、奈勿王を失った私は人質としての価値は全くありません〉と・・・」
応神天皇に、そう言われても烏賊津は自分の考えを曲げなかった。
「陛下の御心配は分かります。確かに微叱許智王は、当人の申す通り、人質の値打ちが今のところ有りません。しかし国王の位を奈勿王の息子たちから奪取した実聖王は、決して新羅国民に、正当な国王と思われておりません。奈勿王の長子、訥祇王は彼の為に苦しめられております。次男の卜好王は高句麗の人質になっております。そして三男の微叱許智王は倭国に滞在しております。もし実聖王が任那を攻撃するようなことがあれば、私、自ら新羅に急行し、実聖王を倒し、微叱許智王を国王にさせます。新羅国民は必ず、微叱許智王に味方してくれる筈です。従って今は、百済への応援を優先して考えるべきかと思います」
烏賊津は少しもたじろぐこと無く、自分の意見を具申した。流石の応神天皇も、二人の熱心さに強く反発することが出来なかった。
「そちたちの意見の一致には、朕も何とも抗しがたい。しかし、折角、平静を取り戻した我が国より、これから我が国を背負う若者たちを、大陸に流出させることは、朕としても悩みである」
「何を悩む必要がありましょう。流出した若者たちは、晋や燕や秦の文明を手にして、一段と成長し、必ずや倭国に戻って参ります」
「そうであろうか?」
応神天皇の懐疑心を跳ね返すべく烏賊津が答えた。
「私も、その昔、百済に派遣されたことがありますが、倭国のことを考えなかった日は、一日たりともありませんでした。私は、その滞在地で倭国に無い多くのことを学び、世界の広さを知りました。でも心のうちは何時も倭国のことでいっぱいでした。帰りたい、帰りたいと何時も思い続けていました。そして再び帰国し、皇太后様や陛下のもとに仕えることが出来たのです」
烏賊津は、その昔を思い出して言った。襲津彦も新羅や百済や任那での日々を思い出して言った。
「私とて同じ事です。私に倭国を思う気持ちが、もし無かったなら、私は新羅か百済かあるいは高句麗に流れて行ったでありましょう。そして他国の将軍となっていたでしょう」
襲津彦もまた倭国を愛する若き日の心情を応神天皇に伝えた。これを受けて応神天皇は、二人の意見を採り入れ、翌年早々、中臣大小橋、物部五十琴、大伴佐彦らに兵を付け、まずは百済に向かって船を出し、かの地に滞在させることにした。
〇
応神二十二年(417年)三月十四日、応神天皇は難波の大隅宮の高台に登り遠くを眺めた。傍らには吉備御友別の妹、兄媛が付き添っていた。遠く海を見やる応神天皇を見て。妃の兄媛が質問した。
「陛下。陛下は海ばかり見詰め、何をお考えですか。最近、私を避けておられるようですが、何か理由でも、あるのでしょうか?」
「何を言うか。何で朕が、お前を避ける理由があろう。朕は今、倭国のことを考えておるのじゃ」
「平和な倭国のことを、これ以上、考える必要がありましょうか。陛下の非の打ちどころの無い御統治により、国内に戦乱は無く、平和が続き、渡来人の技術を活用し、溜池等の灌漑も進み、作物も豊富に収穫出来、宮殿や学校も増え、国民は何不自由無い生活を送っております。着る物、食べる物、住居等、あらゆる面に恵まれ、安寧な日々を送っております。陛下はこれ以上、何をお望みになられるというのですか?」
応神天皇は兄媛の言葉に吐息してから、心の内を語った。
「一昨日、新羅、微叱許智王の付き人、朴波覧が亡くなった」
「噂で聞きました」
「朕は彼に申し訳ないことをしたと思っている。さぞかし無念であったであろう。朴波覧本人もそうであろうが、新羅にいる彼の妻子や親類縁者もまた、彼の死を知ったら、悔しがることであろう。異国の地で死するとは、何とも言い難い辛い思いであろう」
応神天皇はしみじみと語り、項垂れた。兄媛は応神天皇の苦悩を知り、頷いた。
「陛下。それは朴波覧に限ったことでは御座いません。沢山の人たちが、異郷の地で亡くなっております。私の知人で任那で亡くなった者もおります。新羅との戦さで死んだ者もおります。陛下が、そこまで悲しまれていては、御身体に障ります。この世に無情はつきものです。総ての事をお忘れになって、この兄媛のことを気にかけて下さい」
兄媛は、そう言って応神天皇を励ました。しかし応神天皇は、人質として倭国で長年暮らしている新羅の微叱許智王のことを思い、胸がいっぱいだった。
「微叱許智王は朴波覧を失い、とても落胆している。朕は微叱許智王を新羅へ返そうか返すまいか、悩んでいる。一体、どうしたら良いのだろうか?」
「微叱許智王は大事な新羅の人質です。彼を新羅に返したら、新羅は高句麗と一緒になって任那を滅ぼし、倭国に攻めて参りましょう。そんな事、女の私でも分かることです。微叱許智王を新羅に返すことは危険です」
兄媛の微叱許智王に対する厳しい考えに、応神天皇は驚いた。
「葛城襲津彦は微叱許智王を次の新羅王にしようかと考えている。朕もその考えに賛成である。兄媛、お前は何故、微叱許智王を嫌うのか?」
兄媛は応神天皇の問いに自分が微叱許智王に感じている印象を素直に答えた。
「微叱許智王には倭国に対する憎しみはあっても、感謝の心が見当たりません。勿論、微叱許智王は態度に表しませんが、そう思えてなりません。それは私が故郷を思う気持ちと同じです。私は吉備一族の為と思い、この大和で人生を消日しておりますが、真心は生まれ故郷の父母のもとで暮らしたいと思っております。父母が年老いれば年老いる程、その思いはつのるばかりです」
「お前は、そんなに父母を恋しく思うのか?」
「はい。この頃は父母が恋しく、吉備のある西の方向を眺めますと、ひとりでに悲しくなって参ります。ひとりでに涙が溢れて参ります」
兄媛は涙顔だった。応神天皇は、そんな兄媛が可哀想になった。
「確かに、お前は両親を見ないでもう何年も経っている。お前が親を思う心の厚さを知り、朕は深く感心した」
「陛下。どうかこの兄媛にしばらくの御暇をお与え下さい。お暇をいただき、両親を訪ねさせて下さい。どうか一度だけ、兄媛を吉備に帰して下さい」
「朕も、お前に対する配慮の無かったことを反省している。父、吉備武彦のもとに帰り、父母を見舞われるが良い。そして朕を思い出したら再び大和に帰って来い」
応神天皇は兄媛の帰郷を許可した。兄媛は応神天皇の足元に泣き崩れて言った。
「有難う御座います、陛下。父母は勿論のこと、私の兄弟、姉妹たちも、陛下の優しい御配慮に、心から感謝するでありましょう」
「ここと吉備とは近い。朕も暇が出来たら、吉備を訪ねてみたい」
「吉備は海と山に恵まれた美しい所です。是非、一度、いらっしゃって下さい」
応神天皇は寂しげに笑みを浮かべた。自分には見舞うべき父母はもうこの世にいない。それに倭の国王として倭国の平和と繁栄を継続して行かねばならない。
「心に余裕が出来たら、吉備を訪ねてみよう。しかし今は朕に、その余裕は無い。高句麗の長寿王は、その勢力圏を南下させようとしており、百済の直支王は、我が国から援軍を送ったというのに、その防戦に窮々である。一方、新羅の実聖王は高句麗の力を借りて、津浦に駐留する倭国兵を追い払い、任那を手中に収めようとしているらしい。今、倭国内は平和であっても、海外からの侵略が無いとも限らない。朕としては、これらの危機に対抗することも今から考えておかなければならない・・・」
「倭国は四方を海に囲まれております。そう容易に侵略出来るものではありません」
「兄媛は、倭国の歴史を学んでいない。我が天皇家は、その海の向こうから倭国に亡命して来た高句麗王と倭人国王とが結成した王朝である。四方を海に囲まれているからといって、何で安全と言えようか。その昔、朕の一族は海を渡り、筑紫に辿り着き、奴国王と協力し合い、倭国を統一したのである。それと同じことが起こらぬとも限らぬ」
応神天皇は毅然とした態度で、自らが渡来した辰国の王族であることを兄媛に教えた。
「本当ですか?それは畏れ多いことです」
「今の兄媛は吉備に帰るのが一等、良さそうだ。兄媛に吉備に帰ることを、朕は許す」
応神天皇は、そう約束し、淡路三原の海人八十人を直ぐに集め、兄媛を吉備の吉備武彦のもとに送り返した。
〇
応神天皇が感傷に浸り、異国に派遣した若者たちのことを心配している時、新羅では実権を固めようとする実聖王が、自分を高句麗に人質に送った奈勿王の長子、訥祇王を殺して、恨みを晴らそうと考えていた。実聖王は高句麗から自分に随行して来て、新羅に駐在している千里将軍に、その殺害を命じた。そんなこととは知らず、先王の長男、訥祇王は任那からの知らせを部下に伝えるべく部下を自分の部屋に呼んだ。
「訥祇王様。お呼びでしょうか」
訥祇王に呼ばれ跪いているのは倭国の人質になっている微叱許智王のの付き人、朴波覧の甥、朴提上であった。訥祇王は哀しい顔をして、提上に伝えた。
「そなたの叔父、朴波覧が倭国で亡くなったとの知らせが任那から来た。私に力が無い為に、そなたの叔父まで異国で死なせてしまった。本当に申し訳ないと思う。そなたの一族に伝え、懇ろに弔ってやって欲しい」
訥祇王の言葉に朴提上は驚かなかった。叔父の死は、既に一族の者から耳にしていた事であり、そのような知らせの呼び出しであろうかと予測していた。朴提上にとって、叔父の死は、哀しかったが、それよりも自分にとって重要なのは、今、目の前にいる自分の主人、訥祇王の身辺についてであった。
「訥祇王様。お報せ有難う御座います。叔父の弔いは一族にて懇ろに行いますので、御安心下さい」
「申し訳ない」
「何を仰せられます。訥祇王様が詫びる事は御座いません。悪いのは実聖王様です。高句麗に支配され、卜好王様を高句麗に人質に送り、倭国の人質交代も考慮せず、微叱許智王様や、叔父、朴波覧のことを全く考えようとしなかった実聖王様が悪いのです」
訥祇王は朴提上の言葉に直ぐに応えず、至って冷静を装った。簡単に実聖王のことを批判したり、国政について論じたりすることを、呉々も注意するよう目の前の朴提上に教え込まれていたからである。訥祇王は少し考えてから言った。
「いや、実聖王様が悪いのではない。もとはと言えば、我が父、奈勿王が、幼い弟、微叱許智王を倭国に人質として送ったことが原因である。自分としても、もっと早く、微叱許智王を倭国から戻してもらうよう、父に奏上すべきであった。しかし、その父も亡くなってしまった」
訥祇王はそう言って項垂れた。
「訥祇王様。総ては過ぎ去ったことです。今、訥祇王様が考えねばならぬことは、現在は勿論のこと未来に続く新羅国のことです」
「それは言うまでも無く、提上の申す通りである。その為に今の私は、何を為すべきであろうか?」
その問いに、朴提上は周囲の様子を窺い、近くに誰もいないことを確かめ、訥祇王に、そっと耳打ちした。
「先日、高句麗の千里将軍が私の所にやって参りました。彼は実聖王様に随行して来て、新羅に駐留していて、訥祇王様が農耕を重視し、民を慈しみ、その徳を仰がれている新羅の実情を知ったそうです。彼は訥祇王様の御立派であられるのに心を打たれ、訥祇王様に是非、協力したいと言って参りました」
「何故に私に協力したいというのか?」
「実聖王様は、千里将軍に、訥祇王様を殺害せよと、命じられたとのことです。その為、彼は訥祇王様の動静を探り、殺害の機会を狙っていたとのことです。しかしながら、動静を探れば探る程、新羅の民は実聖王様への不平を漏らし、訥祇王様を褒め称え、新羅にとっても高句麗にとっても、訥祇王様を亡き者にすることは、大損出であると気付いたそうです。それで私に訥祇王様の殺害計画があることを打ち明けに参ったのです」
「何んと、実聖王が、この私を・・・」
朴提上の言葉に訥祇王は唖然とした。提上は尚も続けた。
「この実聖王様の企みに気づいている者は新羅にはおりません。高句麗の連中だけで動いております。従って、現在、知っているのは実聖王様と千里将軍と、その配下の数人及び訥祇王様と私だけです。それ故、実聖王様の企みを逆手に取るのも、千里将軍と私達三人が力を合わせれば簡単なことです」
「逆手に取るということは?」
「実聖王様を殺害することです。千里将軍は訥祇王様の動静を調査され、訥祇王様がまれにみる慈愛に溢れる立派なお方だとお認めになり、訥祇王様を心から信奉しておられます。訥祇王様が千里将軍にお会いして、実聖王様を討伐するよう御指示下されば、彼は必ず、我ら訥祇王様の味方になってくれる筈です」
実聖王殺害を進言する朴提上の目が訥祇王を見詰めて怪しく輝いた。訥祇王はその提上の目の中に、己の恐ろしい顔を見た。
「千里将軍を活用すれば、ことは成功するというのだな?」
「勿論、成功致します。何が何でも、成功させねばなりません。奈勿王様の流れを継承すること。それは訥祇王様の使命です」
「しかし、そなたの言うように、ことは本当に成功するだろうか?」
「何を躊躇することがありましょう。喰うか喰われるかです。このままじっとしていたら、訥祇王様は殺されるのです。奈勿王様の流れは途絶されてしまうのです」
朴提上の言葉に訥祇王の顔が紅潮した。
「それはあってはならぬ事じゃ。父、奈勿王の流れこそ、新羅王家の正統であり、私達兄弟は、それを正しく継承し、国民と共に力を合わせ、新羅を興隆させねばならぬ。高句麗に頭を下げたり、倭国に人質を送ったり、百済の様子を窺ったりすることは、私達の時代で終わりにしたい。新羅は新羅の力で生きる。それが父、奈勿王の願いであり、遺言でもある」
「ならばこそ、一時も早く訥祇王様が新羅王になるべきです」
「しかし、高句麗の千里将軍の力を借りて王位に就くことは・・・」
「何を憚ることがありましょう。高句麗を利用すれば良いのです。利用して、後は訥祇王様の望み通りにすれば良いのです。千里将軍に助けて貰ったからといって、高句麗に頭を下げる必要はありません。高句麗の指示で無く、千里将軍の個人的意思で、訥祇王様の支援をしてくれるのですから。自分の天下になったら、支援してくれた人たちに感謝し、自分が思うままに振る舞えば良いのです」
朴提上は高句麗、千里将軍の力を借りて実聖王を倒すことに積極的であった。実聖王政権によって、冷遇されながらも抑止して来た実聖王への敵愾心が、一気に噴き出したのであろう、提上は訥祇王を強力に説得した。
「そんなことをして、大丈夫だろうか?」
「私が付いております。何も恐れることはありません。兄弟、力を合わせ、新羅を興隆させて下さい」
「卜好王や微叱許智王は、私に協力してくれるだろうか?」
「私が卜好王様や微叱許智王様、お二人に、密使を送り、新羅にお戻りいただき、訥祇王様の応援をしていただくよう頼みます。この提上に、総てをお任せ下さい」
かくて新羅の訥祇王は忠臣、朴提上と高句麗から派遣されている千里将軍の力を得て、自分を殺害しようとしている実聖王に対峙することを心に決めた。
〇
五月、牡丹の花咲く季節、訥祇王の邸宅に数人の高句麗兵が現れ、訥祇王をはじめ家人を捕えようとした。この緊急事態を知って新羅兵もその周りに集まった。誰もが知る実聖王お抱えの高句麗の護衛兵の頭領、千里将軍は、訥祇王の邸宅の皆の前で叫んだ。
「訥祇王よ。汝の国王殺害計画は露見した。大人しく縛につけ」
「何を言うか。何故、私がそのようなことを」
「ここにいる朴提上が自白した。ここにある盟約書が証拠じゃ」
「私は知らぬ」
訥祇王はしらを切った。
「知らぬでは済まされぬぞ。天下を騒がせた大罪、見逃すわけには行かぬ」
千里将軍の威嚇の声に誰もが息を呑んだ。だが訥祇王は、怯まなかった。取り囲む兵士たちの前で、怒りの顔で千里将軍や衛兵を睨み付けて反論した。
「言いがかりは止めろ。私は奈勿王の長子なるぞ。何故、国王を殺害する必要があろうか。それは国民総てが知っていることだ」
「黙れっ。汝は国王殺害計画をしながら、尚も口舌にて、罪を逃れようとするのか?」
その言葉に呆れたような顔をしてから、訥祇王は薄笑いを浮かべて言った。
「お前では話にならぬ。王族の私を処罰しようと思うなら、実聖王様をここに呼んでくれ。私が無罪であることを、実聖王様に直接、お話する」
すると何処にいたのか、その実聖王が、訥祇王の前に姿を現した。
「どうした、訥祇王?」
訥祇王は直ぐにしゃがみ込んで実聖王に訴えた。
「実聖王様、助けて下さい。高句麗の千里将軍が私を捕えようとしています。千里将軍の言っていることは言いがかりです」
すると実聖王は跪く訥祇王を蹴飛ばして言った。
「お前は、我が側に仕え、忠誠を捧げれば良いものを、従者に誑かされて私を殺そうとしたことは明白である。許す訳にはいかぬ。千里、訥祇王を殺してしまえ」
実聖王の言葉を受け千里将軍はゆっくりと大刀を抜き、その剣先を訥祇王でなく、横に並んでいる実聖王に向けた。
「あっ!何をする」
実聖王は勿論のこと新羅の実聖王の護衛兵たちが奇声を上げた。実聖王には信じられないことであった。
「実聖王よ。我が一言を聞け。天は正しき者に味方する。民を苦しめる徳も無き国王を誰が国王と認めようか。他国の武力を行使し、国民の意見も聞かず、王位を掠め取った者など国王としての価値など全く無い。救うべからず。死んでもらおう」
千里将軍は鬼の形相をして大刀を頭の上にかざして、あっという間に振り下ろした。
「おうりゃあっ!」
その掛け声と共に、実聖王の首がすっ飛んだ。その首は卒倒した実聖王の身体から離れ、ごろんごろんと音を立て新羅の護衛兵の前に転がった。それを見て新羅の護衛兵と高句麗の護衛兵とが衝突した。そこへあらかじめ千里将軍と打ち合わせしていた訥祇王の援軍が後ろから駆け寄り、実聖王の護衛兵を襲った。実聖王の護衛兵たちは主人を失い、自分の命大事と逃げ去った。訥祇王は忠臣、朴提上と高句麗の千里将軍に助けを得て、自分を殺害しようとしていた実聖王の罠から逃れ、逆に実聖王を倒して新羅王に即位した。
〇
新羅王交替の知らせは、応神天皇のもとに逸早く届いた。任那に派遣した中臣烏賊津の息子、中臣大小橋が、新羅の政変の様子を、事細かに父親に報告して来たのである。
「陛下。新羅の実聖王が、高句麗、長寿王の部下に殺されたとの報告がありました」
応神天皇は、それを聞いて、吃驚した。
「何と。あの実聖王が何故?彼は高句麗、長寿王の隷属者であったのに何故?」
中臣烏賊津の報告を耳にして、応神天皇は自分の耳を疑った。高句麗の命令に従い、加羅国を滅ぼし、葛城襲津彦を散々、苦しめ、倭国や任那に反抗を繰り返した実聖王が、何故、高句麗、長寿王の部下に殺されたのか、応神天皇には信じられなかった。その疑問について、中臣烏賊津が推測し、説明した。
「実聖王は高句麗の先王、広開土王の庇護のもとで、新羅王になった男であって、長寿王の完全な隷属者では無かったようです。長寿王の意に背き、濊を攻めたり、任那に逆らったり、百済の民を苦しめたり、新羅の国土を拡大しようと、四方に手を伸ばし、長寿王の逆鱗に触れたのです」
「それは信じられぬ」
「実聖王は悪賢く、新羅の領土拡大の為に、あの手、この手を尽くし、ついには高句麗が治める濊にも手出ししようとしたのではないでしょうか。それに気づいた長寿王は、部下の千里将軍を派遣し、実聖王を殺害したのだと思います。そして奈勿王の長子、訥祇王を王位に就けたのです」
「卜好王を新羅王としたのではないのか?」
応神天皇は高句麗の長寿王が訥祇王を王位に座らせたという話には疑問を抱いた。納得の行かぬ話であった。
「新羅をまとめられるのは、訥祇王以外にいないとの千里将軍の意見により、卜好王を王位に就けることを、諦めたようです」
「となると、微叱許智王を新羅国王にしようとした倭国の計画は、どうなるのか?」
「どうなるものでも御座いません。そのまま継続されるだけのことです。だからと言って、訥祇王を排して、微叱許智王を王位に就けることが、不可能になった訳ではありません。それは可能なことです」
中臣烏賊津は不気味に笑った。応神天皇は事態の変化を幅深く受け止める烏賊津の何時もながらの鋭敏さに感心した。
「言われてみれば、その通りじゃ。訥祇王が新羅国王になったからといって、慌てることは無い。微叱許智王が王位に就く機会は、何度もめぐって来る筈。その最高の機会を逃がさなければ良いことじゃ」
「その通りで御座います。倭国にとって、訥祇王が倭国に協力的であれば良し。そうでなければ、微叱許智王を王位に立てるだけのことです。何ら心配する必要は御座いません」
「それにしても高句麗、長寿王は思い切った決断をする男じゃ。父、広開土王に劣らぬ英傑のようじゃ」
冷静に考えれば考える程、応神天皇にとって、高句麗の長寿王は恐るべき強敵に思えた。中臣烏賊津にとっても同感だった。
「長寿王の行動力は抜群です。良いと思ったことは直ぐに行動に移す性格だと思われます。意のままにならぬ実聖王が邪魔になれば、即日、実聖王を潰す。至って単純明快な性格の持ち主です」
「して、新しく新羅国王になった訥祇王とは、どんな人物か知っているか?」
応神天皇の問いに、中臣烏賊津は、任那にいる息子、大小橋からの訥祇王評を伝えた。
「訥祇王は奈勿王に似て、表面は柔和で、国民に愛される賢人です。民を慈しみ、農耕に力を入れ、国民から信頼されております。しかし一旦、自分が決めたことは、決して人に譲歩しない、気性の強いところもあるようです。それ故、何時も注意しておかなければならぬ不気味な存在かと思われます」
「不気味とは、どんな風にか?」
「その新羅を思う心は、実聖王以上かも知れません。従って倭国に油断あらば、何時、倭国に侵攻して来るか分かりません」
烏賊津の大袈裟な想像に応神天皇は微笑した。
「それは頼もしいことじゃ。国王がしっかりしていれば、国もしっかりしたものになる。新羅は代々、倭国の内宮家を装って来たが、これからは堂々と、一国を名乗れば良い。何も高句麗や倭国に振り回されることは無い。新羅は新羅であって、倭国領でも高句麗領でも無い。自主独立の新羅国、そのものであるべきだ」
「流石、陛下。それが世界というものです。その陛下の御心をもってすれば、この世に戦さは無くなり、世界各国が外交によって平和を維持し、繁栄することが出来るのです」
中臣烏賊津は応神天皇を褒め称えた。しかし応神天皇は、烏賊津のお世辞に迎合することは無かった。新羅の王位の継承をめぐっての殺し合いの報告は、余所事では無かった。倭国の将来においても起こり得る事件であると、応神天皇は冷静に受け止めた。
〇
応神二十三年(418年)二月、任那から朝貢の使者が来た。その代表は何と木羅斤資だった。木羅斤資の来朝を聞いて、父、武内宿禰は驚いた。ふと不安に襲われた。
「何かあったか?」
「はい。東晋の劉裕と言う者が安帝を蔑ろにして、南燕を滅ぼし、北魏を攻め、後燕へと北伐を重ねて、やがては百済に入って来ようとしております。その報告方々、朝貢にやって参りました」
「そうか。お前も立派になったな」
「それだけ苦労しているという事です」
そう言い合って二人は笑った。それから木羅斤資は従者と共に軽島の宮殿に出かけ、応神天皇に朝貢の挨拶をした。応神天皇は木羅斤資に久方ぶりに面会して喜んだ。
「良くぞ参った。朕に会い、任那の周辺国の情勢を報告する為に来てくれたのであろうが、武内宿禰の様子伺いもあって来られたのであろう。倭国で、ゆっくりして行くが良い」
「有難う御座います」
応神天皇は実に機嫌よく、木羅斤資を労わってくれた。木羅斤資は、倭国の多くの知人に迎えられ、毎日を忙しく過ごした。そした三月七日、新羅から倭国への朝貢の使者、汗礼斯伐、毛麻利叱智、富羅母智らがやって来た。そのことを葛城襲津彦が、応神天皇に報告した。
「陛下。新羅、訥祇王の使者の代表三名が朝貢に参りました。如何致しましょう」
それを聞いて応神天皇は葛城襲津彦に指示した。
「謁見室に大臣らを集め会見しよう。そちの父、武内宿禰も同席させよ。それに任那の木羅斤資も臨席させよ」
「父は邪摩になりませんか?」
襲津彦は老齢の父、武内宿禰の成務への参加を余り良く思っていなかった。何と仲の悪い親子なのか?
「何んで、邪魔であろうか。朝貢の使者に会う時、宿禰が傍にいてくれると安心なのじゃ」
応神天皇は幼少期より、自分の面倒を見てくれた老臣たちを大切にして、困った時の相談者として、何時も側近に置くのが常であった。大三輪大友主や、中臣烏賊津についても同じだった。襲津彦は応神天皇の命を受けて、謁見室に重臣たちを集めた。その知らせを受け、武内宿禰は朝堂の謁見室に入り、応神天皇に挨拶した。
「武内宿禰、参りました」
「おうっ、宿禰か。良く来てくれた。新羅、訥祇王の使者が参った。朕や烏賊津と一緒に、使者を引見してくれ」
応神天皇は老臣に臨席し、朝貢の使者を歓察することを依頼した。
「畏まりました」
そう言って、武内宿禰は木羅斤資と共に、大臣たちの居並ぶ後方の席に並んだ。しばらくすると葛城襲津彦が、新羅の朝貢の使者を引き連れ、謁見の間の高台に座る応神天皇の前に現れた。
「陛下。新羅、訥祇王様の御使者をお連れしました」
応神天皇は襲津彦が連れて来た新羅の使者を一瞥すると、黙って頷いた。新羅の使者は応神天皇の座る高台の前に跪き、応神天皇を見上げて申し上げた。
「御尊名高き応神天皇様に初めてお目にかかることが出来、光栄です。私は新羅、訥祇王の使者、汗礼斯伐です。ここに同席するは、同じ訥祇王の使者、毛麻利叱智と富羅母智です。新羅、内宮家として、金銀、宝石、鏡、太刀、馬具、それに絹綾織物などを、お届けに上がりました」
応神天皇は沢山の貢物を目の前にして、満足そうに胸を張って、口を開いた。
「遠路遥々、御苦労であった。朕が倭国王、応神天皇、伊狭沙大王である。そなたら三名を国賓として、心から歓迎する。自分の国にいると思い、可能な限り、ゆっくりと倭国を楽しんでから帰国されるが良い」
「有難う御座います。訥祇王様からの書信にも書かれてあるかと思いますが、訥祇王様から応神天皇様に、呉々もよろしくお伝えするようにとの御言葉でした」
「そうか。訥祇王には変わりは無いか?」
「至って元気です。任那国からの応援をいただき、高句麗からの侵略も少なくなり、訥祇王は農耕馬の養育に夢中です」
汗礼斯伐はたじろぐこともなく、応神天皇の問いに答えた。応神天皇は倭国で暮らす訥祇王の弟、微叱許智王について、自分の方から話題に出した。
「新羅国の王子、微叱許智殿も元気に暮らしている。間もなくここに現れるであろう」
「微叱許智王様が!」
汗礼斯伐らは応神天皇の言葉に驚嘆した。こちらから尋ねようとしていた言い辛い事を、応神天皇自らは話に出してくれようとは、信じられぬことであった。
「噂をすれば影とやら・・・」
応神天皇が合図する方向を見やると、立派になった微叱許智王が入って来た。
「陛下。お呼びでしょうか?」
「微叱許智殿。そなたの兄、訥祇王の使者が参られた。元気なお姿を見せてやって下さい」
微叱許智王は新羅の使者の顔を見た。
「おうっ。汗礼斯伐ではないか!」
「微叱許智王子様!」
「微叱許智様!」
汗礼斯伐と毛麻利叱智が微叱許智王に駆け寄った。富羅母智も涙をいっぱいに溢れさせた。
「富羅母智です。お懐かしゅう御座います」
微叱許智王は涙顔の三人を抱き寄せた。
「何と。汗礼斯伐、毛麻利叱智、富羅母智。しばらくであった。兄上や母上は元気か?」
「訥祇王様をはじめ、皆様、無事平穏に暮らしておられます。我ら一同、微叱許智様の御壮健なお姿にお会い出来、安心しました。我ら三名、新羅国の朝貢の使者として、倭国にやって参りました」
「御苦労である。私は応神天皇様に親切にしていただき、何不自由なく、このように明朗な毎日を送っている。新羅に戻ったなら、微叱許智は元気でやっていると、母上や兄上に伝えてくれ」
「必ず、お伝え致します」
美しい主従の面会であった。それを見て応神天皇は辛かった。応神天皇は話題を変えた。彼らが他国の状況を、どれだけ知っているか確認した。
「ところで汗礼斯伐。百済の状況は如何か、知っておるか?」
「百済の状況は至って平静で、任那の将軍、木羅斤資様が百済、直支王様の右腕になって、徳政を行っているとの話です。従って新羅とのもめごとも御座いません。新羅、百済、任那の三国は、今や一つの力となり、高句麗や燕の侵攻を防いでおります」
「汗礼斯伐よ。そなたは今、話に出た任那の将軍、木羅斤資に会いたいと思うか?」
「会いたいと思います。会って新羅にも、お出で願いたいと、話しとう御座います」
汗礼斯伐は、応神天皇が木羅斤資の名を口にしたのを聞いて、耳を疑った。三韓の地で、誰もが信奉する任那の将軍、木羅斤資のことを、倭国王が知っているとは。彼は新羅にとっても、注意しておかねばならぬ重要人物であった。
「汗礼斯伐よ。その将軍は今、そなたらの側にいる。ここにいる連中の中の誰が、その将軍であるか、分かりますか?」
「えっ。目の前の皆様の中に、木羅斤資様がおいでになる。それは本当ですか?」
「真実じゃ。彼は半月前に任那から来たばかりじゃ。勇壮な男である。分かりますか?」
汗礼斯伐は言葉に窮した。
「いずれの御重臣も将軍様も御立派で、私には見分けがつきません」
「そなたらの左列の奥に居られるのが、その将軍です」
応神天皇の言葉に木羅斤資が立ち上がって挨拶した。
「私が木羅斤資です。先月、任那から来たばかりです。汗礼斯伐殿には褒められ、木羅斤資、赤面するばかりです。今後ともよろしくお願いします」
木羅斤資に挨拶され新羅の使者たちは感激した。
「今日は何という日でしょう。まるで夢のようです。応神天皇様にお会い出来た他、我が国の微叱許智王子様や尊敬する任那の将軍、木羅斤資様とお話出来、この上なき仕合せに御座います。新羅王への自慢話になります」
「それは良かった。倭国はこれから春爛漫の季節を迎える。草木の花が一斉に咲き競い、この磐余も桜の花が満開になる。心行くまで倭国の春を楽しんで帰国されるが良い」
「有難き仕合せに御座います」
「では襲津彦。微叱許智殿と朝貢の皆様を弓月宮に御案内し、祝宴をしよう」
「ははっ」
一同は豊明宮から弓月の宮に移動した。
〇
数日後、大三輪大友主の邸宅に紀角鳥足と微叱許智王が訪問した。紀角鳥足は、微叱許智王が新羅の朝貢の使者が帰国するのと一緒に新羅に戻りたいと言っていると大友主に話した。大友主は相談を受けて困惑した。鳥足は何故に父、武内宿禰に相談しないのか?大友主には鳥足が武内宿禰と親子喧嘩したくないという心情を読み、即刻、武内宿禰ら重臣に声をかけ、応神天皇に、微叱許智王の申請を奏上した。
「陛下。新羅の微叱許智王から今回の朝貢の使者と共に、新羅に帰国したいとの要請がありました。如何致しましょう」
応神天皇は奏上を聞いて、小さな声で呟いた。
「何故に帰りたいのか。微叱許智王は自分が何の為に倭国に来ているのか、誰よりも理解している筈なのに、帰りたいとは何の理由なのか?」
「汗礼斯伐らに会い、新羅国内の状況を訊き、新羅に帰らねばならぬとのことです」
応神天皇は、長年、倭国にいる微叱許智王のことを気の毒に思うが、返すべきか、留め置くべきか悩んだ。
「武内宿禰は、如何、考えるか?」
「如何なる理由があろうとも、微叱許智王を新羅に返してはなりません。また陛下の御恩情により、返すことを御許可するとしても、倭国の将軍を同行させ、帰国理由の実態を把握する必要があります」
「大友主は、その理由を確認したか?」
「充分、確認出来ておりません」
大友主は恐る恐る答えた。すると応神天皇は大友主に命じた。
「ならば微叱許智王を、ここに呼べ。朕、自ら尋ねよう」
「では微叱許智王を呼んで参ります」
大三輪大友主は、そう言って、微叱許智王を呼ぶ為に部屋から出て行った。応神天皇は、大友主を見送ってから、武内宿禰らと同席の中臣烏賊津に質問した。
「烏賊津臣は、微叱許智王の帰国要請について、如何、考えるか?」
「私も武内宿禰様と同じ考えです。もし仮に微叱許智王を安易な気持ちで新羅に返し、新羅に気を許したならば、後々、悔いを残すことになりかねません。新羅は百済と異なり、昔から約束や信頼を破る国です。気を付けなければなりません」
「しかし、微叱許智王の望郷の念も分かる気がする。彼は優しい心の持ち主である。付き人、朴波覧を失い、このまま倭国で一生を終えるのかと、彼が自分の身上を思う気持ちを察すると、気の毒でならない。彼は新羅からの使者に会って、余程、帰りたい理由が出来たのであろう」
応神天皇は微叱許智王に同情するかのように呟いた。
「そうは言いましても、代わりの人質を得ないで、微叱許智王を返せば、また新羅の勝手が始まります」
中臣烏賊津の新羅に対する猜疑心は強かった。それに反対するかのように物部胆炸が言った。
「微叱許智様は陛下の仰せられる通り、心根の優しいお方です。新羅に戻られても、決して倭国に逆らうようなことはしないでしょう。むしろ、新羅国内に倭国への信仰の心を広めさせてくれるでしょう」
微叱許智王の帰国要請を巡って、賛成反対の議論が続いた。そんな最中、大三輪大友主が、微叱許智王を連れて、部屋に戻って来た。
「陛下。微叱許智王様をお連れしました」
応神天皇との視線が交錯するや否や、微叱許智王は応神天皇の前に平伏して申し上げた。
「陛下。御多忙中、お目通りいただき、有難う御座います。無理なお願いを陳情し、誠に申し訳ありません」
「大友主から貴殿の帰国の要請を伺った。だが帰りたい理由が分からぬ。在りのままを申せ。それによって許可するか、不許可とするか決めようと思う」
微叱許智王は、その応神天皇の言葉を聞いて緊張した。
「有難う御座います。この微叱許智王、嘘、偽り無く、自分の気持ちをお話し致します。私は自分が国と国が約束した人質の身であることを充分に承知しております。しかし、この度の新羅の使者からの説明によれば、私は奈勿王時代の人質であって、最早、新羅の人質では無くなってしまっているということです」
「それは、どう言うことか?」
「我が兄、訥祇王は、私の父、奈勿王、更に実聖王の時代から長く私が国に帰らない事を理由に、私の地位を剥奪したそうです。そして私の財産を没収して、私の妻子を奴婢にしてしまったとのことです。私が国の為を思い、努力しているというのに、その妻子に何という仕打ちでありましょう。それ故、私は本国に帰って、それが嘘であるか真実なのか調べたいと思っております。陛下。この微叱許智の不運を哀れと思い、どうか新羅に返して下さい」
微叱許智王は大勢の前で、恥ずかし気も無く、大粒の涙を流した。応神天皇は、そんな告白をする微叱許智王を可哀想に思った。だが、王族の家族が、そんな極端な冷遇を受けるということは信じ難いことであった。
「微叱許智殿。もともと貴殿が人質になったのは、父、奈勿王の王子としての人質である。ましてや、今の国王は、貴殿の兄、訥祇王である。それ故、貴殿がどんなに長く故国を離れていようとも、貴殿の妻子が粗略に扱われ、奴婢にされたというのは疑わしい。大切にされることはあっても、粗略にされる理由は何処にも無い」
「しかし、現実に私の妻子は奴婢にされてしまったのです。このことは、私など、どうなっても構わないということです。つまり、私を価値無き者にし、倭国との関係が悪化しても構わないということです。いや、むしろ倭国との関係を悪化させたいという考えです。私は人質で無くなったということです」
微叱許智王は涙をぬぐい、血相を変えて訴えた。応神天皇は慎重だった。ちょっと興奮気味の声で尋ねた。
「そんな馬鹿な。兄は自分の弟が可愛い筈だ。自分の弟は勿論のこと、その妻子も大切に思う筈だ。妻子が奴婢にされたというのは、何かの間違いであろう。微叱許智殿、貴殿は嘘を言っているのではないだろうな」
すると微叱許智王は細い目を一段と大きく見開いて訴えた。
「何故、私が嘘をついたり致しましょう。私はこうなる運命だったのです。第三王子に生まれたのが、運が悪かったのです。父、奈勿王が生きていたなら、こんな粗略な扱いはされなかったでしょう。私は私の身がどうなっても構いません。妻子たちだけは仕合せになって欲しいのです。その為、私は新羅に戻り、奴婢になった妻子を探し出し、倭国に連れて帰りたいのです。陛下。どうか微叱許智の願いを、お聞き入れ下さい。汗礼斯伐と一緒に、新羅に戻させて下さい」
微叱許智王の真剣な訴えに応神天皇は感激した。そして微叱許智王の言葉を信じることにした。
「分かった。微叱許智殿の言葉に虚偽が無いと信じ、貴殿を新羅にお返ししよう。ここにいる大臣たちの反対もあるが、貴殿の言葉を信じ、倭国王の判断で、貴殿を新羅に、お返ししよう」
応神天皇の決断に、多くの重臣たちが驚いた。微叱許智王は喜びの声を上げた。
「有難う御座います。微叱許智の命懸けの願いを、お聞きいただき、誠に有難う御座います。厚く厚く御礼申し上げます。新羅に戻り、必ずや奴婢になった妻子を探し出し、倭国に再び戻って参ります」
応神天皇は微叱許智王の喜ぶ顔を見て、ほっとした。
「それにしても、弟の妻子を奴婢にするとは、訥祇王も、ひどい国王じゃ。朕も帰国しての微叱許智殿のことが心配なので、葛城襲津彦を同行させよう」
「そうじゃ。襲津彦が付いて行けば良い」
武内宿禰は応神天皇の考えに賛同した。しかし、微叱許智王は葛城襲津彦の同行を断った。
「陛下。その必要は御座いません。私は新羅の朝貢の使者たちと一緒に帰るのですから」
微叱許智王の言葉に、武内宿禰は眉をひそめた。微叱許智王を冷たくしている訥祇王の使者たちと微叱許智王が一緒に帰る事は、どう考えても矛盾していた。武内宿禰が言った。
「それはなりません。それは危険です。倭国は新羅の実態を把握する為、将軍、葛城襲津彦を同行させます」
「そ、それは御無用に御座います」
「微叱許智様、遠慮することはありません。小柄。襲津彦を呼んで来い」
武内宿禰は、臨席していた息子、許勢小柄に葛城襲津彦を呼びに行かせた。その襲津彦は、直ぐに小柄と共に現れた。
「襲津彦、参上致しました」
「ご苦労」
応神天皇は、そう言っただけで、何も言わなかった。応神天皇に代わり、武内宿禰が、息子に命じた。
「襲津彦。新羅王子、微叱許智様が御帰国なされることになった。突然であるが、微叱許智様を護衛して新羅へ行け。筑紫より海路を辿り、任那の真若大王に会い、そこからお前の得意な新羅へ入れ」
「畏まりました。襲津彦、お役目、お引き受け致しました」
葛城襲津彦は、再び新羅に訪問出来るとあって喜んだ。
〇
新羅王子、微叱許智王らと葛城襲津彦の一行は、数日後、難波津から、先ず筑紫に行き、そこで安曇大浜の船員を加え、任那に向った。一行は筑紫松浦から壱岐を経て、対馬に着き、鰐浦に滞在した。微叱許智王が疲労されているとのいうので、数日間、鰐浦に留まった。そんな或る日、安曇大浜が壱岐からの案内役を引き受けて来た壱岐県主、芦部に言った。
「芦部よ。汗礼斯伐殿を呼んでくれ」
「汗礼斯伐様は微叱許智王様の御看病をしており、席を外せぬ状態と聞いております」
芦部は汗礼斯伐から、面会謝絶を言い渡されていたので、その旨、安曇大浜に伝えた。大浜は、その状況を葛城襲津彦に、芦部と一緒に、そのまま伝えた。しかし、疲労回復に時間がかかり過ぎている。襲津彦は、微叱斯智王の様態が悪化するのを恐れ、一時も早く対馬から任那に移動すべきだと、苛立った。
「私は微叱許智様の病状を知りたいのだ」
「では、毛麻利叱智様を、お呼び致しましょう。彼ら三人は交替して看病されているとのことです」
「私は微叱許智様の護送人として、何時までも、この鰐浦に留まっている訳にはいかぬ。対馬の女を抱いて遊んでいるのも良いが、ものには限度というものがある。私は何としても、微叱許智様を新羅まで護送せねばならんのじゃ」
それを聞いて安曇大浜は答えた。
「分かりました。梶、お前が直接、行って毛麻利叱智様をここへ、お呼び致せ」
安曇大浜は部下の梶に毛麻利叱智を呼んで来るよう命じた。
「只今、呼んで参ります」
梶が去ると、葛城襲津彦は腕組みした。
「芦部よ。微叱許智様の病気は何であろうか?」
「凄い熱病とのことです。伝染すると危険です。近寄らない方が利口です」
襲津彦と大浜の二人は微叱許智王の病気について、あれやこれや想像した。そこへ梶が毛麻利叱智を連れて部屋に戻って来た。
「毛麻利叱智様を呼んで参りました」
「毛麻利叱智です。お呼びでしょうか?」
「おうっ、毛麻利叱智殿。微叱許智様の病状が長引いているが、どんな様子か?」
襲津彦にそっと尋ねられると、毛麻利叱智は、緊張した顔で答えた。
「熱が下がり、食欲が出れば大丈夫だと思います。一進一退です。富羅母智が小舟を出して、薬草を採りに行きました。望んでいる薬草が海中から手に入れば、微叱許智様の熱は下がると思います」
毛麻利叱智は額に汗をかきかき、微叱許智王の病状を説明した。
「そうか。私は一時も早く微叱許智様を護送せねばならぬ。三人で力を合わせ、一日も早く、微叱許智様の病を回復させていただきたい」
「襲津彦様。微叱許智様の御病気は熱が下がっても完治するまでに相当、時間がかかります。襲津彦様におかれましては、一時、筑紫に戻られ、そこで政務をされておられては如何でしょうか。微叱許智様が御元気になられた時、筑紫に使者を出します。それまで筑紫で政務を行っていて下さい」
「分かった。それも一案である。検討してみよう。下がってよろしい。看病を頼むぞ」
「では失礼致します」
毛麻利叱智は深々と頭を下げ、退出して行った。それを見送ってから、襲津彦は大浜、芦部、梶の三人に手招きして、そっと言った。
「三人とも、こちらに集まれ。今の毛麻利叱智の言葉と態度、おかしいとは思わぬか?」
「別におかしいとは思われませんが・・・」
芦部は襲津彦の問いに、きょとんとした顔をした。だが大浜は襲津彦と同じ雰囲気を感じたと言った。襲津彦の懐疑を抱いた目が、厳しく光った。
「彼らはどうも、私と帰国したくない様子じゃ。何故、私が筑紫に戻る必要があろう。私は新羅に行かねばならぬのだ。対馬まで来て、何故、筑紫に戻る必要があろう。どう考えてもおかしい」
「とすると仮病かも?」
「そうかも知れぬ。仮病かも知れぬ。誰かを使い、そっと調べさせろ」
「梶。そういうことだ。そっと微叱許智様の様子を見て来い」
梶は安曇大浜の命令を受けると、再び部屋から跳び出して行った。
〇
葛城襲津彦の脳裏に不安が暗雲となって渦巻いた。襲津彦は、安曇大浜と芦部に相談した。
「もし、微叱許智様の病が仮病であったなら、如何しようか?」
「強引に倭国の船に乗せ、任那に向かって出発しましょう。任那に着いてから、彼らの動向を調査しましょう」
安曇大浜は明快だった。芦部には、どうしたら良いのか分からなかった。襲津彦は慎重だった。
「陛下は、微叱許智様の涙の訴えに心打たれ、その帰国を許可されたが、襲津彦の危惧していた想像が正しいとすると、あの時の微叱許智様の涙が、父、武内宿禰が言うように真実のものであったか、どうかは疑わしいものだ」
襲津彦が大浜たちに心配事を語り合っているところへ、微叱許智王の部屋に病状調査に出かけた梶が駆け込んで来た。
「襲津彦様。大浜様。大変です。微叱許智様は部屋におりません。誰もいないので、部屋に入り、寝床の布団を剥いで見ると、藁人形が寝かせてありました。私達は騙されました」
梶の報告に三人は仰天した。
「何じゃと!逃げられたのか」
「はい。どうしましょう」
梶も芦部も慌てふためいた。
「まだ毛麻利叱智らは遠くへは行っていまい。捕えよ!捕えよ!」
襲津彦は大声で騒ぎ立てた。大浜は梶に命じた。
「梶よ。仲間を集め、海上を監視させよ。誰一人、逃すでないぞ」
梶は部屋から跳び出して行って、倭国の船を出させた。壱岐県芦部も素早く部下に海上守備の命令を出した。襲津彦は地団駄を踏んだ。悔しさが身体中を駆け巡った。またもや新羅人に騙されようとは。襲津彦は激怒した。
「おのれ、汗礼斯伐の奴、よくぞ我らを騙したな。この罪は死んでも償えるものでは無い。この偽りは国が国を偽ったことである。私は大軍を呼び寄せ瀚海を渡り、新羅を攻撃する」
襲津彦は息巻いた。この怒りは鎮めようが無かった。そんなところへ襲津彦の部下、田道から、朗報がもたらされた。
「襲津彦様。伊都県主五十迹手様の家来の種という者が、新羅の使い三名を捕えたとのことです。襲津彦様にお会いしたいとのことです」
「それはでかした。ここに通せ」
襲津彦は大いに喜んだ。田道は直ぐに種を呼んで来た。襲津彦は種に引見した。種は漁師らしいがっちりした身体を床にすりつけ、襲津彦に申し上げた。
「伊都県主五十迹手の家来、種と申します。新羅の者、三名を海上にて捕らえました。尋問したところ、任那に向かう襲津彦様の一行から逃亡したとのこと。早速、知らせに参りました。彼らの主人、新羅王子、微叱許智様は、三日前に、秘かに新羅に向かって逃亡したとのことです。追っても無駄のようです。捕えた三名、如何が致しましょう」
襲津彦は、その報告を種から聞き、種に近づき、彼の肩に手を当てて言った。
「種とやら、でかしたぞ。この襲津彦、心より感謝する。沢山の褒美を与えよう。望みがあれば、何でも言うが良い」
「私を任那に連れて行って下さい」
種は襲津彦に任那行きを要請した。何故、五十迹手の家来の漁師が、任那に行きたがるのか、襲津彦は一瞬、戸惑ったが、直ちに了解した。
「分かった。お前を我が軍の小隊長にしよう。そして任那へ連れて行こう」
「有難き仕合せ。して捕らえた三名を、如何が致しましょう」
そこへ安曇大浜がやって来て、捕らえた者は毛麻利叱智の従者であると分かった。新羅の使者、三人で無いと分かると、襲津彦は、再び怒りに燃えた。
「三人を檻の中に入れ、火をつけて焼き殺せ。そして、その骨を拾い、新羅に帰った微叱許智に投げつけるのだ。この仕返しは、簡単に済まされんぞ」
襲津彦は部屋の窓から新羅方面の青海を睨みつけ、激昂した。
〇
微叱許智王の逃亡の知らせは、葛城襲津彦から、父、武内宿禰に届いた。武内宿禰は悩みに悩んだが、羽田八代と相談し、重臣を集め、ことの次第を応神天皇に奏上した。
「陛下。大変、申し訳ありません。また息子、襲津彦が新羅に騙されました。微叱許智王護送中、油断して、微叱許智王を逃がしてしまいました」
「何んだと。微叱許智が逃げただと?」
「微叱許智王は私達を騙したのです」
「信じられぬことじゃ。何故、逃げる必要があろうか。もし、それが本当だとすると、大変なことじゃ」
応神天皇は唇を噛んだ。武内宿禰は続けた。
「襲津彦は陛下に、筑紫の軍団をお借りし、新羅を攻撃したいと、急使を送って参りました。新羅の逆心をこのまま放置する訳には参りません。陛下。どうか筑紫軍団使用の御許可をお願いします」
武内宿禰は、息子、襲津彦に代わって、新羅攻撃を申請した。
「失態の償いをするというのか」
「筑紫軍団をお借り出来れば、襲津彦は必ずや新羅を滅ぼし、罪の償いをするでしょう」
武内宿禰の泣きそうな顔を見て、応神天皇は仰せられた。
「罪の償いをするとは感心なことじゃ。襲津彦に筑紫や出雲から援軍を送り、新羅を再征せよ」
「有難う御座います」
「それにしても、微叱許智に騙されようとは、朕も軽く見られたものじゃ。全く情けない話じゃ」
応神天皇は信じていた微叱許智王に裏切られたと知って落胆した。それを慰めるかのように武内宿禰が申し上げた。
「悪いのは訥祇王です。彼は最初から微叱許智王奪回を考えていたのです。その為、優秀で腕の立つ、汗礼斯伐ら三名を、朝貢の使いとして、倭国に送り込んで来たのです」
「妻子を思う微叱許智の訴えに、心動かされた朕が、愚かであった。襲津彦には、悪い事をした」
「こうなったからには、新羅を攻めるより、仕方ありません。微叱許智王を取り戻し、倭国の内情を知った訥祇王は、高句麗と手を組んで、倭国に襲撃して来るかも知れません」
「訥祇王は、何故、倭国を攻めようとするのだろうか?」
応神天皇には新羅、訥祇王の考えが分からなかった。年老いた武内宿禰が、その質問に、新羅の訥祇王の考えを推測して答えた。
「陛下が、新羅の優礼王、天日槍様の後裔、伊狭沙大王様だからです。新羅王家を継ぐ者が他国に存在していては困るからです」
「朕には新羅を手中にし、治めようなどという野心は無い。だからこそ、微叱許智を長い間、預かり、優遇し、今まで、仲良くして来たのではないか」
「とはいえ、新羅王家からすれば、分家に人質を取られ、貢物をせねばならぬということは、訥祇王の自尊心が許さないのでしょう。陛下は倭国王であるとともに、彼等にとって、天日槍の後裔。自分たちの分家なのです」
応神天皇は、武内宿禰の言葉に頭を左右に振った。
「何と愚かな。倭国は倭国であり、分家では無い。天神、東明王の血を引く辰王の純真な後継が、倭国王であるのじゃ。任那に言われるのであれば、同じ血縁同志、頷けないことではないが、倭国は倭国であり、新羅とは全く違う」
応神天皇の怒る様子に耐え、今まで黙っていた中臣烏賊津が弁明した。
「新羅の訥祇王は、勘違いしているのです。倭国に渡った優礼王、天日槍様の後裔が、ずっと倭国王を引き継いで来られたと思っておられるのです。倭国王家は辰国、邪馬幸王様と奴国の豊玉姫様が建国なされた倭国の王家です」
「その勘違いは朕の母、神功皇太后が、新羅征伐の時、天日槍の後裔であると名乗り、敵をひれ伏させたのが原因である。そもそも、それが誤りであった」
応神天皇は母の誤りを反省した。武内宿禰は、この時とばかり。新羅攻撃を要請した。
「その誤りを修正させる為にも、新羅再征は必要です。任那と力を合わせ、新羅を攻めれば、彼らは倭国の正体が何であるか分かります」
「分かるだろうか」
「早速、この旨を息子、襲津彦に伝え、筑紫の軍団を新羅に派兵することを、御許可願います」
武内宿禰の執拗さに応神天皇は微笑した。
「では汚名挽回の為に努力するよう襲津彦に伝えよ。また、大友主。筑紫、穴門、出雲などの県主に襲津彦に援軍を送り、助けるよう指示せよ」
「畏まりました。急便にて各県主にこのことを伝え、大軍を新羅に送ります」
大三輪大友主が応神天皇の命令を引き受け、武内宿禰と羽田八代は、ほっとした。
「有難う御座います」
武内宿禰は応神天皇の前に平伏した。羽田八代も父に合わせ平伏した。羽田八代は父が手をついた目の前の床に、露の雫のような大粒の涙が二つ、三つ、転がるのを目にした。
〇
八月、応神天皇は新羅に向かった葛城襲津彦のことを思い、群臣たちに詔した。
「諸卿よ。新羅に向かった葛城襲津彦は今、多大浦に陣を構え、新羅の草羅城を攻めているという。襲津彦が新羅に向かった後、直ぐに木羅斤資も任那に戻り、国の守りを始めたという。今、倭国は再び、任那を守護しなければならぬ状況になって来た。そこで朕は、朕が母、神功皇太后が行ったのと同じく、ここに集まっている諸卿に、造船を命ずる。その数は五百隻だ」
「えっ、五百隻ですか?」
その数の多さに平群木菟が驚嘆の声を上げた。応神天皇は平群木菟に視線を投げてから、再び一同を見渡し、述べられた。
「そうだ。五百隻だ。五百隻でも足りぬくらいだが、旧船を利用すれば何とかなるであろう。軍船が整い次第、新羅に総攻撃をかける」
「五百隻を造るには月日がかかります」
応神天皇は平群木菟の発言に耳を貸さなかった。応神天皇の決意は固かった。
「官船『枯野』の構造を、そのまま活用せよ。『枯野』は素晴らしい船であった」
「えっ、『枯野』って?」
「官船『枯野』は伊豆の国が奉った船であるが、今や朽ち果てて用に堪えぬ。しかし、その活躍した功績は忘れ難い。その名を絶やさず、後々に伝える何か良い機会は無いかと常々、思っていた。諸国の県主に命じ、『枯野』を五百隻、準備せよ」
「それは実に良い考えです」
武内宿禰は『枯野』が神功皇太后が新羅遠征の折、荒波を乗り越え活躍した話を思い出し、『枯野』を造船することに賛成した。武内宿禰の賛成を受け、応神天皇は自信をもって命じた。
「直ちに『枯野』の構造図を諸国の県主に配布し、造船に着手させよ」
「ははっ」
一同は応神天皇の指示命令に従った。
「それと共に塩を五百籠を配給せよ」
「塩、五百籠?」
唖然とする一同に応神天皇は説明した。
「分からぬか。『枯野』の船材を採り、薪として塩を焼かせ、出来た塩を、軍船の製造従事者に施すのじゃ。さすれば船の完成も早まろう」
「流石、陛下」
平群木菟は応神天皇の説明を聞いて感心した。そんな木菟を見て応神天皇は笑って言った。
「感心しているばかりでは何にもならぬぞ。如何にしたら襲津彦の手助けが出来るか、一同、考えよ。襲津彦は今、新羅を敵に回し、命懸けで戦っているのだ。状況によっては、我らの身内である任那が滅亡するかも知れんのだぞ」
数多くの造船を行う事に疑問を抱いた平群木菟は自らを反省して、応神天皇に申し出た。
「陛下の御心も分からず、申し訳ありません。この、平群木菟に出来る事は、戦さに参画するだけです。直ちに配下を引き連れ新羅へ向かいます。そして、襲津彦と協力して新羅の訥祇王を平伏させて御覧に入れます」
武内宿禰は、そんな息子の姿を見て頷いた。武内宿禰は、一同の前で息子に言った。
「そうしてくれ、木菟。お前が加われば、襲津彦は勿論のこと、真若大王様や木羅斤資も喜ぶであろう。また百済の直支王も応援に加わるであろう。直ちに任那へ出向いてくれ」
以前、派兵の将軍としての経験にある砥田盾人も応神天皇の呼びかけに感動し、平群木菟同様、新羅への出征を申し出た。
「陛下。私も平群木菟殿に同行させて下さい。私と木菟殿は、かって襲津彦殿を迎えに新羅に同行した仲間。是非、新羅討伐の一行に加えて下さい」
「そちたちの友情には適わぬ。砥田盾人に新羅への同行を許す」
応神天皇に即座に許可をいただいて、砥田盾人は喜んだ。
「有難き仕合せに御座います。この砥田盾人、立派に御役目を果たし、帰国致します」
「朕も武庫の港に五百隻の軍船が揃い次第、新羅へ赴こうぞ」
応神天皇は、母、神功皇太后の如く、新羅へ出征する意欲を示した。その言葉に平群木菟が否を申した。
「それには及びません。その前に我らで新羅を降伏させて御覧に入れます。陛下に御出征願う程、我らは軟弱では御座いません」
すると応神天皇は英気ある平群木菟の目を見詰めて言った。
「その言葉、忘れんぞ。負けたら二度と倭国の土を踏むでないぞ」
「分かっております。我ら兄弟、一族を賭けて戦います」
平群木菟の発言に武内宿禰は満足した。
「それでこそ、我が武内の者じゃ。兄弟、力を合わせ、最後の最後まで頑張ってくれ」
かくて倭国の新羅再征が始まった。
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応神二十四年(419年)九月の或る日の夕方、武内宿禰は応神天皇の第四王子、大雀皇子が憂鬱そうな顔をして難波大隅宮の柱に凭れかかっているのを目にした。月が昇って来るのを眺めている風だった。武内宿禰はそっと近づき声をかけた。
「大雀皇子様。こんな所で何を考えておられるのですか。悩み困ったことがあったら、この老いぼれに遠慮無く御相談下さい。悩み事の秘密は誰にも申しません。何事も、私のような年寄りに相談するのが一番です」
大雀皇子はしばらく沈黙を続けたが、武内宿禰が立ち去らないので、思い切って武内宿禰に質問した。
「宿禰に訊きたい。今日、難波津に到着した大船は、何処から来た船か?」
「あの大船は日向からの船です。日向の諸県君牛は老齢になったので、朝廷での仕事を辞め、本国に帰り、自分の代わりに自分の娘、髪長媛を陛下の御側仕えとして、あの船で送って寄越したのです」
「彼女が噂の髪長媛か?」
大雀皇子は、そう呟くと、また沈黙した。武内宿禰は幼い大雀皇子が、髪長媛に恋慕した事を知った。
「お気に召されましたか?」
「噂通りの美人じゃ。父王の御側に仕えさせるには勿体無い」
「勿体無いとは、どういう事ですか?」
「私が欲しいという事じゃ。父王の側仕えでは、彼女の美しい輝きが失われてしまう。それが勿体無いと言っているのじゃ」
大雀皇子は急に多弁になった。余りにはっきりと意見を述べるので、武内宿禰は唖然とした。困った事に首を突っ込んでしまったと、後悔した。でも言わねばならぬことは言わねばならなかった。
「そう仰られても、髪長媛は陛下に召されたのです。大雀皇子様に召されたのでは御座いません」
「分かっている。だから悩んでおるのじゃ。私は彼女が欲しい。宿禰よ。何か良い方法は無いか?」
「しかし、こればかりは難しい願いかと思われます。お諦め下さい」
武内宿禰は大雀皇子の願いが無謀であることを強調した。だが大雀皇子は一旦、喋ってしまったので、恥ずかし気も無く武内宿禰を睨みつけて言った。
「諦めきれぬ。私は彼女の瞳を見た。彼女もまた私の瞳をじっと見た。美しい瞳であった。吸い込まれそうになるような美しい瞳であった。他人とは思えぬ瞳であった。自分と彼女とは永遠に赤い糸で結ばれているという瞳であった」
「それは一目惚れというものです。若い時によくあることです。しかし、時が経てば忘れてしまうものです」
「そう簡単に忘れられるものでは無い。離れれば離れる程、愛しく思う瞳じゃ。私は彼女が欲しい。宿禰よ。何とかならないか?」
大雀皇子は、武内宿禰に、この恋の仲立ちをしてくれと切望した。切望されても、うまく行く可能性は皆無に等しかった。
「とは言われましても、この宿禰、成す術が御座いません」
「そこを何とかしてくれぬか。お前には出来ない事は無い筈じゃ」
「如何に老練な私でも、陛下が召された髪長媛を、お譲り願う申し出は出来ません」
大雀皇子は決断した。
「こうなっては照れ臭いが、大雀自ら、父王に願い出よう」
大雀皇子の決断に、武内宿禰は慌てふためいた。大雀皇子の両腕を捕まえて説得した。
「それは、お止め下さい。そんなことをしたら、一生、陛下に頭が上がりませんぞ」
「髪長媛と一緒になれなら、父王に頭が上がらなくても構わぬ。もともと父王には頭が上がらぬのであるから同じことじゃ」
どう説得しても大雀皇子の気持ちが変わらぬと知って、武内宿禰は覚悟した。
「分かりました。大雀皇子様のお気持、この宿禰が陛下にお伝え致しましょう。陛下が激怒されるかも知れませんが、その時はその時、止むを得ません」
「頼まれてくれるか?」
「大雀皇子様が真剣であるのに、この武内宿禰、何故、黙つて見過ごすことが出来ましょう。大雀皇子様の髪長媛へのお気持ちを誠心誠意、陛下にお伝え申し上げます」
武内宿禰の言葉に大雀皇子の表情が苦しみの顔から喜びの顔に変わった。
「有難う、宿禰。父王に私の気持ちを、在りのままに伝えてくれ。たとえ、それが父王の逆鱗に触れたとて、私には何の悔いも無い」
「髪長媛は何と仕合せであることか。陛下とその皇子に愛されようとは。全くの仕合せ者です」
数日後、武内宿禰は大雀皇子の髪長媛に対する恋慕の程を、応神天皇に伝えた。応神天皇は大雀皇子が髪長媛を気に入っていると知って笑った。
「そうか。大雀も、そんな年頃になったか」
大雀皇子から頼まれた武内宿禰の工作は予期していたよりも順調に前進した。応神天皇は、わざわざ重臣を集めた宴を催し、その宴の席に髪長媛を召して、髪長媛を大雀皇子に与えた。応神天皇は二人の喜ぶ顔を見て大いに満足した。
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十月、諸国から五百隻の軍船が献上された。それが武庫の港に集まった。勇壮な軍船『枯野』が武庫の沖をうずめ、明日はいよいよ出航という態勢だった。葛城襲津彦らに攻撃され、緊急事態に気づいた新羅の訥祇王は、慌てて、新羅からの調停使を倭国に送った。しかし、不運なことに、その調停使が宿泊していた武庫の港の船から出火し、その延焼で、多数の軍船が焼けた。ことを知った新羅の訥祇王は、更に慌てて、次の使者を倭国に送った。その知らせは、紀角鳥足より、武内宿禰にもたらされた。武内宿禰は直ぐにその内容を、応神天皇に伝えた。
「陛下。新羅、訥祇王が木工技術者、為奈を奉り、新羅使による武庫での火災事故を詫びて参りました。如何が致しましょう?」
応神天皇は、その武内宿禰の報告に驚きもしなかった。応神天皇は平然と答えた。
「武庫の船は新羅攻撃の兵を乗せる為に準備したもの。あの火災で三十もの船を失ったが、その数は全体からすれば微々たるもの。訥祇王が朕の怒りを理解して、名匠を送って来たのであれば、新羅を許してやろう」
「何と、新羅を許して良いのでしょうか?」
応神天皇の側に仕えてい許勢小柄は思いもよらぬ応神天皇の発言に驚いた。応神天皇は自分の考えに異議を唱えようとした許勢小柄を睨みつけた。
「新羅を許さずして、如何しようというのか?」
「計画通りに新羅に侵攻し、新羅を併呑しては如何でしょう。このように正当な理由の整った戦さの機会は、滅多あるものでは御座いません」
「倭国の領土を拡大しようというのか?」
「そうです」
許勢小柄は体形に似合わず、過激であった。応神天皇は、しばし目を瞑り考えて申された。
「それはならぬ。新羅は如何なる理由があろうとも、新羅国王に統治させるべきである。倭国が侵略したところで、必ずや新羅人の反抗が起こり、厄介なことになる。倭国が統治出来る範囲は任那までである。それ以上の領土拡大を望んでは失敗する。このことは父祖の時代から試みて失敗して来たことである」
「しかし今や倭国は、昔の倭国では御座いません。百済、新羅、耽羅が朝貢して来る国です。特に任那は真若大王の重臣、木羅斤資とその息子、木満致が活躍し、再び息を吹き返し、高句麗、長寿王が、親交を求める程になって来ているとのことです。これを機会に任那と力を合わせ、新羅を占領しては如何でしょう」
許勢小柄は新羅侵攻に熱心だった。だが応神天皇は冷静だった。
「高句麗、長寿王も、任那が新羅を占領しようとしていないから、任那に親交を求めて来ているのであって、もし倭国が新羅に手を伸ばしたなら、それは黙っていないであろう」
応神天皇の意見に武内宿禰も同感だった。
「その通りです。倭国は任那統治までを限度とし、国力を蓄えることです。倭国が新羅に手を伸ばしたなら、高句麗の長寿王は必ず攻めて参ります」
武内宿禰は慎重だった。息子、許勢小柄の強気の性格に不安を抱きながら、応神天皇に反戦を提唱した。
「宿禰の申す通りだ。倭国が攻めれば当然、訥祇王は高句麗に応援を要請し、勇んで南下して来るであろう。そうなっては、如何に任那の木羅斤資が屈強といえども、持ちこたえることは出来ない。再び船団を編成し、数万の兵を集め、倭国から援軍を渡海せねばならない。となると、数万の国民が戦死することにもなる」
「戦さは避けねばなりません。もし任那が滅亡したなら、新羅や高句麗が渡海を計画し、倭国に上陸して来て、大戦乱、大国難に見舞われるかも知れません」
「そうなったら、倭国は滅亡するかも知れぬ」
応神天皇は最悪の事態まで想像していた。血気盛んな許勢小柄は興奮して言った。
「何と弱気な。倭国は天神、日神、大日霊尊、天照大神様がお守りしている国。どんなことが起ころうとも永遠不滅です。この度の武庫の出火は、新羅攻撃の為の軍船を狙って、新羅人が軍船に火を点けたことは明白。何故、倭国が弱気にならねばならんのです?」
「訥祇王が詫びて来たのじゃ。それを理解せず、攻撃を加えたとあっては、朕の名がすたる。有難く名匠を受け入れ、新羅の使者をねぎらえ」
「それは甘すぎます。倭国から微叱許智王を取り戻し、現地に派遣した倭国兵や任那兵への攻撃を緩めず、倭国にやって来て軍船に火を点けた新羅人の行為に目をつぶるとは、陛下らしくありません。これを機会に一気に新羅を攻略するべきです」
許勢小柄に執拗に訴えられ、応神天皇は困惑した。そんな息子の無礼な発言を耳にして、武内宿禰は激昂した。
「お前は何ということを。言葉を慎みなさい。ああっ」
そう叫んだかと思うと、武内宿禰は、御前でよろよろと崩れ伏した。それを見て応神天皇が武内宿禰に駆け寄った。
「どうした、宿禰?誰かおらぬか。だれか・・」
「父上、どうなされました?」
許勢小柄は突然の父の姿に、茫然と立ち尽くした。応神天皇は武内宿禰を抱かえ、叫び続けた。
「宿禰が倒れた。誰かおらぬか」
「陛下。如何なされました?」
応神天皇の叫び声を聞きつけ、中臣烏賊津たちが部屋に駆け込んで来た。烏賊津は応神天皇に抱かれている武内宿禰を見て驚いた。応神天皇は烏賊津に事態を伝えた。
「宿禰が倒れた。医博士を呼べ」
「小柄殿。何を茫然とされておるのです。御父上が倒れたのですぞ」
烏賊津は許勢小柄にしっかりするよう叫んで、自ら医博士を呼びに部屋から出て行った。許勢小柄は応神天皇に代わり、武内宿禰を抱いてわなわなと震え、反省した。
「父上を興奮させ過ぎた。とんでもないことをしてしまった」
応神天皇にとっても、武内宿禰は恩師であり、父親のような存在でもあった。
「宿禰。大丈夫か。答えよ。何か答えよ」
「父上。しっかりして下さい。何か言って下さい。私が悪う御座いました」
許勢小柄は父親が、このまま死んでしまうのではないかと心配した。しかし、その心配は直ちに解消した。中臣烏賊津が医博士、王仁を連れて来たのだ。王仁は、小柄から武内宿禰の老体を受け取り、床に寝かせて言った。
「陛下。小柄様。お静かにして下さい。武内宿禰様は、お疲れなのです。少し眠らせてあげて下さい。興奮の余り、卒倒されたのです。しばらく静養すれば、じき回復されるでありましょう」
王仁の言葉に一同、安心した。許勢小柄は、それでも心配だった。
「本当に回復するでしょうか?」
「静かに睡眠されれば助かりましょう。兎に角、このままそっと眠らせてあげて下さい」
「小柄。王仁博士の申すに従うが良い。宿禰をこのままそっと眠らせたまま、館に運び、静養させよ。一時でも傍から目を放すでないぞ」
応神天皇は許勢小柄に父親の看病に専念するよう指示した。王仁医博士の診断通り、数日経つと武内宿禰は意識を回復された。だが、朝廷に出仕し、応神天皇の政治の補佐をするまでには至らなかった。しかし、その年の暮れに、ついに帰らぬ人となった。応神天皇は武内宿禰の死を哀しみ、羽田八代らに命じ、葛城の地に大きな墳墓を造らせた。また新羅に出兵させていた平群木菟、葛城襲津彦らを帰国させ、室宮の墳墓の中に武内宿禰の遺体を埋葬した。七十一歳の生涯であった。そして、倭国の偉大な重鎮、武内宿禰の権威は、その息子たちによって継承されることになった。