波濤を越えて『仲哀天皇の巻』①

2021年8月31日
歴史小説

『倭国の正体、愛しき人よ』を書き終え、『幻想邪馬台国』に連なる作品として、仲哀の巻、神功の巻、応神の巻の三部作『波濤を越えて』を執筆することにした。『倭国の正体、愛しき人よ』の読者は、邪馬幸王逝去の後が、どうなったかを知りたいであろう。そのことは、邪馬幸の後継、葺不合が姉、卑弥呼の力を借り、息子、神武天皇と瑞穂国の大穴持王(大国主命)や長随彦を服従させ、東国の瑞穂国を大和国と改名し、以後、皇統を継続させて、この物語の四世紀末に至ったという経緯で、この作品を読んでいただければ、幸いである。

■第1章 異母弟の反逆と出会い

 成務十一年(381年)六月一日、成務天皇は、志賀大津の高穴穂の宮の病床で、大和国にいる兄、倭武尊の第二王子、仲津彦を呼び寄せ、彼がやって来るのを待った。

「仲津彦はまだか?」

 成務天皇は重臣たちに見守られ、息も絶え絶えだった。大三輪大友主がそれに答えた。

「間もなく、お出でになります。中臣烏賊津が大和纏向にお迎えに行って、そろそろお見えになる筈です。しばらく、お待ち下さい」

「朕は仲津彦に伝えねばならぬことがある。このことを仲津彦に伝えずして死ぬことは出来ぬ。仲津彦は父親、倭武尊に早世され、不幸な人生を送って来た。しかしながら今、倭国は仲津彦を必要としている。兄、倭武尊のように雄々しく国を平定出来る男を、倭国は必要としている。仲津彦はまだか?」

 再度、応えようとする大友主に変わり、今度は武内宿禰が答えた。

「少しの辛抱です。仲津彦様は必ずやって参ります。気をお鎮めになり、お休みになって下さい」

 成務天皇は長年仕える武内宿禰の言葉に目を瞑った。そこへ大伴武持がやって来て、部屋の扉を大きく開けた。

「仲津彦様が、お見えになられました」

 その言葉と同時に背の高い輝くばかりの仲津彦が勢いよく姿を現わした。

「陛下。仲津彦です。遅くなって申し訳御座いません。御体調は如何ですか?」

 仲津彦は部屋に入って来るなり、病床の成務天皇に近寄り、天皇のお顔を覗き込んだ。その仲津彦の凛々しい顔を見ると天皇のお顔がほころんだ。

「おお、仲津彦か。良く来てくれた。朕の命は最早、幾許も無い。生きているうちに、お前に伝えておきたいことがある」

「何を仰せられます。陛下にはまだまだ頑張っていただかねばなりません。長生きしていただき、倭国を悠久不変のものとしていただかねばなりません」

「朕は病弱であり、その能力もなければ、威風も無い。年老いて、その限界を悟った。時代はもう仲津彦ら若者の時代だ。そこで朕はお前に天皇の位を譲ることに決めた。そのつもりで頑張ってくれ」

 成務天皇の言葉には慈愛が満ちていた。仲津彦は突然の言葉に慌てた。

「畏れ多いことに御座います。私のような未熟者以外に、もっと立派な皇子殿が沢山おられます」

 仲津彦の遠慮した言葉に天皇は首を横に振った。

「武尊兄者は年少の頃より、父、景行天皇の命令に従い、邪馬台国を弱体化させた熊襲らを平定する為、長い間、戦いの野にあった。そして何時も天皇家を守ってくれた。西国、熊襲を討って帰還するや、今度は東国で蝦夷が謀反を起こし、兄者は東国へ直ぐに向かい戦った」

「はい、。そのことは、幼い時、母、道入姫からよく聞かされました。景行天皇様は何故、貴男のお父様、小碓皇子様を、こき使うのでしょうねと」

「確かに兄者は少ない兵しかいただかず、〈父上は小碓のことを早く死ねば良いと思っているのでしょうか?〉と、涙にくれて旅立って行かれた。しかし、仲津彦よ、それは違うのだ。景行天皇様が蝦夷討伐の兵を募ったが、誰も蝦夷を恐れて応募せず、また無理に集めた兵も、蝦夷を恐れて出立せず、父、天皇様も困り果て、勇敢な兄者を涙を呑んで蝦夷討伐に向かわせたのじゃ。兄者もまた景行天皇様が困り果てているのを見かねて、妻、道入姫やお前への愛情を押し殺し、蝦夷討伐に向かったのじゃ。父、景行天皇様は一日とて、兄者の安否を心配しない日は無かった。日夜、ひたすら、兄者の帰還を待った。しかし、何の災いだろうか、また何の罪があったのであろうか、兄者は再び帰らぬ人になってしまった。三十歳という若き身空で、この世から去られた。父上は夜も眠れず、兄者を追うように死んで行かれた。その為、朕が皇位を継ぐことになった」

「存じております」

 仲津彦は改めて早世した父、倭武尊のことを回想した。成務天皇は目に涙をにじませ、尚も語った。

「朕には男児が無い。それ故、朕は、お前を我が子のように思っている。兄者の忘れ形見として、誰よりも、お前を愛おしく思っている。仲津彦よ。朕亡き後は、重臣たちに伝えておくので、遠慮なく天皇として即位せよ。誰にもはばかること無く、倭国の王として君臨するが良い。これが朕の遺言であり、朕が出来る不遇であった兄者への恩返しじゃ」

「叔父上」

 仲津彦は成務天皇の言葉を聞きながら、ボロボロと涙を流した。父を思う叔父の兄弟愛に涙が止まらなかった。

「泣くな、仲津彦。朕も泣けて来るではないか。天皇は涙を見せてはならないものぞ」

「は、はい」

「お前の手は温かい。この温かさで国民を包んで欲しい。朕は最早、言い残すことは無い」

「仲津彦、陛下のお言葉に従い、精進致します」

「よろしく頼む」

 成務天皇は、それから傍にいた武内宿禰に言った。

「武内宿禰よ。朕の只今の仲津彦への言葉、しかと聞いたであろうな。お前も長い間、朕に良く仕えてくれた。仲津彦と今後の事、頼んだぞ」

「ご安心下さい。武内宿禰、命を賭して仲津彦様にお仕え致します」

 宿禰の言葉を聞いてか、成務天皇は安心し、仲津彦の手を握りながら瞑目した。優しい眠りの顔であった。

「叔父上、叔父上様!」

 仲津彦が叫んだ。

「如何なされました?仲津彦様」

「如何なされました?仲津彦様」

 武内宿禰と大友主が仲津彦の顔を覗き、成務天皇の異常を知った。

「陛下の手が、段々、冷たくなって行く。この手が氷のように冷たく、冷たく・・」

「陛下、陛下。大丈夫ですか?」

 武内宿禰が、天皇に何度も訊ねたが、天皇から何の返答も無かった。中臣狭山が成務天皇を診断して、緊張した顔で、一同に伝えた。

「陛下は薨去なされました。既に心の臓が停止しております。もう再起することはないでしょう」

「陛下、陛下!」

 仲津彦は天皇の名を呼び、その場に泣き崩れた。天下を治めること三十年。五十三歳の崩御であった。

          〇

 こうして成務天皇の後を継いで天皇となった仲津彦は仲哀天皇と号し、倭国を治めることとなった。仲哀元年(382年)正月、纏向の日代の宮の高御坐に就き、国儀大礼を大方、済ませ、朝政にも慣れて来た仲哀天皇は、十一月、日代の宮の朝堂に大臣を集めて、何時ものように天下の状況を確認した。

「朕が天皇になって、間もなく一年になろうとしている。この一年、大過なく国を治めることが出来たのは、武内宿禰を始めとするそちたち重臣の努力の賜物であると思っている。心より感謝している」

 すると武内宿禰が一歩進み出して深く頭を下げ、答えた。

「いいえ、総ては陛下のお力によるものです」

 何時もの、会議に弾みをつける為の武内宿禰の言葉に勢いをもらい、仲哀天皇は本題に入つた。

「とは言え、我が国のそちこちに、まだ、服従しない連中がいる。祖父、景行天皇は、倭国統一堅持の為、皇統の皇子たちを別皇子と称し、各地方の国司として配置されたが、その効果が未だ充分に発揮されていない。それは何故か。それは別皇子たちに反抗する蛮族たちが、まだ残っているからである。蛮族たちは時々、そちこちに現れ、跳梁している。本件に関し、良い対応策は無いだろうか?皆の意見を訊きたい」

 その問いに直ぐに答える者はいなかった。顔を見合わせ合い、誰かの答えを待った。それを見て、また、武内宿禰が口を開いた。

「陛下。地方巡幸をしてみては如何でしょう」

「地方巡幸?」

「はい。蛮族たちがまつろわぬのには何か理由があると思われます。地方に配置されている別皇子様たちが、どのような地方政治を行っているか、この目で確かめる必要があります。もし別皇子様たちが、民草を苦しめる勝手な振舞いをしていたなら、蛮族たちの反攻は繰り返されるでしょう」

 武内宿禰が天皇の地方巡幸を提案すると、その息子、蘇我石川が続いて具申した。

「蘇我石川、父上の考えに同感です。先日、越の者が別皇子様の暴挙を訴えにやって参りました。現実を確かめる必要があります」

「何、暴挙じゃと。どんな暴挙か?」

 仲哀天皇は興味深く石川に訊ねた。石川は困惑した。別皇子の悪事を喋って良いのか悪いのか、悩みに悩んだ。

「そ、それは・・・」

 余分なことを言ってしまったと、石川は狼狽えた。

「言ってみい!」

「それは・・・・」

 口ごもっている息子を見て、武内宿禰は目を瞬かせたて言った。

「石川。それは陛下にも申し上げられないような振舞なのか。一旦、口にしたからには、ちゃんと説明しなさい」

 父、武内宿禰に叱責され、石川は別皇子の暴挙の報告をした。

「越の者が陛下に献上する為の白鳥、四羽を連れて宇治川の畔に泊った時、その白鳥を蒲見別皇子様に奪い取られたとの訴えがありました」

 それを聞いて、仲哀天皇の顔色が変わった。

「朕の異母弟、蘆髪の蒲見別皇子が白鳥を・・・・」

 武内宿禰は眉根に皺を寄せて、息子を睨んだ。

「そんな馬鹿な話が?石川、お前の今の話は嘘であるまいな」

 武内宿禰は息子の報告を疑った。仲哀天皇の異母弟が何故、そんな悪事を行う理由があるのだろうか。しかし、石川とて、自分の息子、嘘はつくまい。石川は父に睨まれ、ムッとした。

「何故、私が虚偽を申し上げましょう。越の者が言うには、蒲見別皇子様が白鳥を見て、〈どちらに持って行く白鳥か?〉と問われたとのことです。越の者が〈仲哀天皇様が、父王、武尊様を恋しく思われ、白鳥を飼い馴らそうとお考えだと伺い、奉る為に持って行くところです〉と答えると、蒲見別皇子様は、〈白鳥とて焼いてしまえば黒鳥だろう〉と言って、無理やり白鳥を奪い取ったとのことです。その為、越の者は、私の部下に、もう一度、越に戻り、出直すので白鳥の献上が遅れると申して、帰って行ったとのことです」

「何という酷いことを」

 石川の話を聞いて、武内宿禰は更に顔をしかめた。まさに反逆である。仲哀天皇は顔を曇らせ、呟いた。

「朕がまだ成人しない時、父、倭武尊王は早世した。父の魂は白鳥となって天に上った。朕が父を慕い思う心は、一日も休むことが無い。それで父の陵のまわりの池に白鳥を飼い、その白鳥を見ながら父を偲び、心を慰めたいと思って来た。そして諸国に白鳥を献上して欲しいと命じた。その白鳥を何故、蒲見別皇子は黒鳥になど・・・」

 仲哀天皇の言葉を聞けば聞く程、武内宿禰は涙が溢れ、立腹した。

「このことは蒲見別皇子様のお戯れと簡単に処理する訳には参りません。天皇家は勿論のこと倭国にとっても重大な事件です」

「とはいえ、蒲見別皇子は陛下の異母弟君ですぞ」

 息長宿禰が事件を、朝堂だけの秘密裏に処理すべきだと考え、発言した。しかし、武内宿禰は穏やかで無かった。武内宿禰の言葉は厳しかった。

「だからこそ、困るのだ。だからこそ、うやむやに出来ぬのです。蒲見別皇子様の行為は陛下への逆心行為です。たとえ異母弟君であろうと、陛下に反抗する者は処罰せねばなりません」

 仲哀天皇が少し茫然としていたが、再び声を漏らした。

「蒲見別皇子は何故、白鳥を奪い取ったりしたのだろうか。白鳥が父王だということを忘れたのだろうか。父は小碓皇子と称した青年時代に、九州の熊襲を討ち、また東国の従わぬ蝦夷や俘囚を平定するなど活躍し、東奔西走のうちに、皇位を継ぐことなく、能頬野で急逝された。その悲しみの魂は白鳥となって天に上った。あの日、朕と蒲見別皇子は、手に手を取り合って飛翔して行く白鳥を追ったではないか。なのに何故?白鳥を痛めつけるなど、それは父王に対し、余りにも無礼な仕業ではないだろうか」

「その通りです。蒲見別皇子様の行為は、陛下への反逆であるばかりで無く、父王、倭武尊様への蔑視の行為としか受け取れません。厳しく処罰せねばなりません」

「息長宿禰はどう思うか?」

 仲哀天皇の問いに息長宿禰は困惑した。皇室内での争いに関与したく無かった。

「難問です。出来るものなら、軽い処罰で・・・」

 優柔不断な息長宿禰の言葉は武内宿禰にとって不満だった。

「何を言われるか。軽い処罰であったならば、その分、陛下が軽んぜられるだけのことじゃ。また同じような事を繰り返される。早急に兵を送り、始末するしか方法はあるまい。蒲見別皇子様とて、そんなこと充分、承知の上の挑戦じゃ。陛下が高御座におられることが気に入らないのじゃ」

 その言葉を聞いて仲哀天皇は思案した。この先、天皇の役目を継承して行く為には、避けて通れない道かも知れない。仲哀天皇は声を震わせて言った。

「残念だが、武内宿禰の言う通りかも知れない。異母弟を始末するのは忍びないが、天皇家の規律を正す為には致し方が無い。早急に手を打たねばならぬ」

「ご英断、承りました。この武内宿禰に総てをお任せ下さい」

 すると仲哀天皇は少し肩をそびやかして武内宿禰に言った。

「段取りは、そちに任せるが、蒲見別の始末には、朕、みずから出向く。申し訳ないが、石川を加勢につけてくれ」

「承知致しました」

 蘇我石川は仲哀天皇の指名を受け驚いた。悪い時に悪い所に居合わせたというより、事件の知らせを受けた時から、あらかじめ自分がこの役目に選ばれていたような気がした。偶然というより、これが運命というものかと思った。かくて蒲見別皇子は始末されることになった。

          〇

 十二月、仲哀天皇は蘇我石川と数名の兵を引き連れ、綴喜の里、息長宿禰の館に訪問した。言うまでも無く、蒲見別皇子討伐に向かう途中で、息長宿禰に、その道案内を依頼する目的での訪問であった。息長宿禰は仲哀天皇の来訪に緊張した。異母兄弟の間での内部分裂に何故、自分が関与せねばならぬのか。だがお越しになられたからには対応せねばならなかった。仲哀天皇、ご到着の知らせを聞き、息長宿禰は急いで、客間に走り、仲哀天皇に挨拶した。

「陛下には纏向の日代の宮から、この綴喜の里まで、遠路お越しいただき、誠に畏れ多い事に御座います」

「何を申す。朕こそ、息長宿禰、ご本人に依頼ごとがあって参ったのじゃ」

「その事でしたら、武内宿禰殿から既に伺っておりますので、ご安心下さい。それにしても、蒲見別皇子様は、酷いことを・・・」

「考えただけでも涙が流れる」

 仲哀天皇は父、倭武尊のことを思い出し、唇をかみしめた。もとより穏やかな仲哀天皇のその表情に、息長宿禰は、明確な自分自身の路線を打ち出そうとしている仲哀天皇の決意を知った。

「あの美しい白鳥を焼いて食べてしまうとは、残忍なことです。許されるものではありません。私の娘、帯姫も、その話を聞いて、蒲見別皇子様のところへ輿入れするのは真っ平だと、毎日、嘆いております。可愛い娘を嫌な男の所へ嫁がせる訳にも行かず、どうしたら良いのか私も途方に暮れている毎日です」

「息長宿禰と蒲見別皇子との近い間柄は武内宿禰から聞いて分かっている。それで今回、そちには道案内だけして貰おうと思ってやって来た。これを機会に、悪事を重ねる蒲見別皇子を成敗したい。無事、成敗した暁には、そちの娘、帯姫を妻に迎えて上げても良いぞ」

 仲哀天皇の言葉を聞いて息長宿禰は平伏し、決意を申し上げた。

「勿体ないお言葉。有難う御座います。この息長宿禰、一族を賭けて、陛下の応援をさせていただきます。そして天皇家の永遠の僕となりましょう」

 息長宿禰の返答を聞いて、仲哀天皇は安堵した。

「朕は直接、そちに会いに来て良かった。こんなに嬉しいことは無い。石川。お前も心強いであろう」

「はい。息長一族の応援を得て、この石川、勇気百倍になりました。互いに力を合わせ、蒲見別皇子を捕え、成敗しましょう」

 仲哀天皇と息長宿禰の会談の成功に、曽我石川は大きな期待を抱いた。だが息長宿禰はこの計画を軽く考えてはならないと慎重だった。

「とはいえ、蒲見別皇子様はこの界隈きっての強者です。その従者も乱暴ぞろいです。計画を練った上での攻撃が必要です」

「石川。息長宿禰の申す通りじゃ。失敗は許されぬ。この戦いには天皇家の威信がかかっている。何が何でも勝たねばならぬ」

 仲哀天皇の闘志には厳しいものがあった。蘇我石川は蒲見別皇子の勢力に詳しい息長宿禰に質問した。

「息長宿禰殿に何か名案がお有りでしょうか?」

「夜襲より他に方法はありません。如何に強者といえども、睡眠時間は無防備な筈。そこを狙うのが良いかと・・・」

 その時であった。突然、女の声がした。

「父上、それは危険です」

「帯姫、いつの間に・・・」

 何時の間にか黄色の着物の上に紅色の金糸入りの羽織を着た水色の裳裾の若い娘が立っていた。仲哀天皇も蘇我石川も彼女を見て茫然とした。密談している部屋に何時の間に美貌の女性が入って来たのか。このように理知的な目をした女性がこの世にたのか。美貌の女性は床に両手をついて、仲哀天皇に奏上した。

「大君様。息長宿禰の娘。帯姫に御座います。恐れながら大君様に申し上げます。蒲見別皇子様の御館は沢山の従者の家に囲まれ守られています。如何に夜襲とはいえ、その中央にある蒲見別皇子様の御館に攻め入ることは無謀です。夜襲は、お止めになって下さい」

 息長宿禰は、自分の提案を娘に反対され、立腹した。

「ならば、どうすれば良いのじゃ。どうすれば蒲見別皇子を捕えることが出来るのじゃ」

 すると彼女はちょっと微笑し、答えた。

「私が蒲見別皇子様に使いを出します。一対一で向島でお会いしたいという使いです。日頃、私に使いをよこしている蒲見別皇子様のこと、必ず一人でやって参りましょう。その時を狙っては如何でしょう」

「それは名案!」

 帯姫の考えに蘇我石川は感激した。女性であるのに、何と大胆な策略であることか。だが息長宿禰は賛成しなかった。

「それこそ危険というものじゃ」

「危険は帯姫一人。ましてや、後に夫になる人の為に、万一、命を落とすようなことがあったとしても、私に悔いは御座いません」

 美しい顔に似合わぬ帯姫のその発言に仲哀天皇は感動した。

「帯姫。気に入ったぞ。そちの意見に従おう。心配は無用じゃ。朕の親衛隊や蘇我石川の兵が、そちを危険から必ず守る。当然、息長宿禰の兵もそちを守り、危険に晒すことはない」

 蘇我石川も仲哀天皇の言葉に頷いて言った。

「その通りです。我々、陛下にお仕えする屈強の護衛兵が、帯姫様をお守り致します。息長宿禰殿、ご心配無用です。どうか帯姫様のご提案に賛同して下さい」

 蘇我石川は、息長宿禰に懇願した。流石の息長宿禰も仲哀天皇と武内宿禰の息子に懇願され、賛同せざるを得なかった。

「帯姫の覚悟が、そこまで出来ているというのなら、最早、何も言うことは無い。早速、その手筈を整えよ」

「私の提案をお聞きいただき、有難う御座います。では私はこれにて失礼させていただきます」

 帯姫は仲哀天皇や父、息長宿禰らに深く頭を下げると、部屋から出て行った。それを見送ってから息長宿禰は重臣、津守住吉を部屋に呼んだ。

「住吉、住吉はいるか?」

「お呼びで御座いましょうか?」

 色黒の漁師のような大男が部屋の戸を開けて入って来た。その住吉に息長宿禰が命じた。

「住吉、そこに伏して、陛下に御挨拶申し上げなさい」

 すると津守住吉は慌てて平伏し、挨拶した。

「息長宿禰様に仕える津守住吉と申します。不束者でありますが、お見知りおき下さい。これから陛下のお伴をさせていただくことが、多々あろうかと思います。どうかよろしくお願い申し上げます」

「朕こそ、世話になるぞ。よろしく頼む」

「畏れ多い事に御座います」

 その畏まっている住吉に息長宿禰が命じた。

「打ち合わせは終わった。住吉、酒宴じゃ。酒宴の仕度を・・・」

「はい。既に大広間で酒宴の準備が整って御座います」

「そうか。ではそちらへ移動しよう」

 一同は密談を終了し、酒宴の準備の整った大広間へ向かった。移動する館の廊下に吹き付ける厳寒の風は冷たかった。

          〇

 息長宿禰の娘、帯姫は宇治川のほとり、向島にて蒲見別皇子が現れるのを待った。仲哀天皇と蘇我石川ら数人は群生の枯れすすきの中に潜み隠れて、同じく時を待った。帯姫が手紙に書いた約束の正午、着飾った蒲見別皇子が舟着き場に現れた。

「帯姫。ここにおられましたか?」

「はい。ずっとこの柳の根方にいました」

「そなたから会いたいなどと、一体、どうした風の吹き回しか。予想外のことなので、驚いている」

「今まで貴男様とお会いする時は、必ず誰かが、御傍においででした。それ故、貴男様から貴男様のお気持ちを訊くことも、自分の考えを打ち明けることも出来ませんでした。そんなままで御輿入れをするなんて、良い筈が御座いません。貴男様と私は沢山のことを話し合って、自分たちの将来を決めなければなりません。それを親や親戚の意見だけで決めるというのは・・・」

 帯姫の言葉に蒲見別皇子は胸を躍らせた。帯姫が自分を好いていると読んだ。

「帯姫の言う通りじゃ。確かに、そなたの父、息長宿禰殿は開花天皇四代の後裔であり、己は景行天皇の孫であり、倭武尊の息子である。ともに家柄は申し分ない。とはいえ家柄だけで二人が結ばれるものではない。二人の相手を思う心が通じてこそ、二人は良き夫婦となることが出来る。二人の意気が統合してこそ、国家を治めることが出来るのじゃ」

「国家を治めるなどと大袈裟なことを・・・」

 蒲見別皇子の目が輝いた。

「己の考えは決して大袈裟ではない。この蒲見別が国家を治めて、何の不思議があろう。己は倭武尊の息子であり、仲哀天皇とは同格である。仲哀天皇の母は垂仁天皇の娘、両道入姫、己の母は山代の玖々麻毛理姫。何故、己が国家を治めて悪いのか?」

 蒲見別皇子は未来の妻に己の野望を伝え、自分の偉大さを帯姫に理解させようと訴えた。だが帯姫は、その考えを否認した。

「仲津彦様を天皇にとの御指名は、貴男様の叔父、成務天皇様の御遺言。貴男様は、その御遺言に従わぬと仰有るのですか?」

「従わぬ。何故、従う必要があろうか。白鳥を父の陵墓の周りの池に浮かべ、父王を偲ぶなどと、女々しいことを考えている男に、何故、倭国が治められよう。倭国は己のような父に似た勇猛な男子を必要としているのだ」

 帯姫は微笑した。

「そうでしょうか。倭国は仲哀天皇様のような民草に心優しい人にこそ、治められるものではないでしょうか。白鳥を愛する心。美しいものを愛する心。民草の上に咲く花には、その慈しみの心が必要かと思われます」

 帯姫の言葉には何処か自分に対する棘のよなものがあり、蒲見別皇子は不服だった。

「白鳥と言っても、焼いたら黒鳥。十日前にも白鳥を焼いて食べたが、それ程、美味く無かった」

「何と残酷な事を。白鳥は貴男様の父王の化身。それを食するなんて、余りにも酷過ぎます。人間が為されることとは思われません。それでは獣ではありませんか。私は、そのような貴男様の妻にはなれません」

「何を言うか。人間、所詮は獣。食らいたい時に食らい、抱きたい時に抱く」

 蒲見別皇子は帯姫を強引に引き寄せ抱こうとした。帯姫の胸の鼓動が速まった。

「止めて下さい!」

「良いではないか」

 蒲見別皇子は逃げようとする帯姫を追った。帯姫は蒲見別皇子の腕から逃れ、宇治川のほとりの枯れすすきの中を夢中になって逃げた。蒲見別皇子はこの機会を逃すまいと執拗に追いかけた。その眼はギラギラと輝き、まさに獣の眼であった。蒲見別皇子が帯姫にようやく追いつき、帯姫の裳裾を掴みかけた時であった。突然、縺れ合う男女の前に数人の男が現れた。蒲見別皇子はギョッとした。

「見苦しいぞ、蒲見別!」

「お前は仲津彦!」

 蒲見別皇子は仰天した。何故、仲津彦が?

「総て聞いたぞ。お前は人道に外れた獣。この仲津彦が成敗致す」

「何を言うか。死ぬのはお前だ」

 蒲見別皇子は佩刀を抜き払った。天皇を殺す覚悟だった。その凄みは激しい嫉妬に歪んだ獣の凶暴な炎、そのものであった。そこへ蘇我石川が躍り出た。

「蒲見別皇子。逆らっても無駄だ。陛下を始め、我が蘇我の兵と息長の兵とが、貴男様を包囲している。最早、逃げられません」

「謀ったな、帯姫!」

 蒲見別皇子は仲哀天皇の陰に隠れる帯姫を睨め付け叫んだ。活気のある帯姫は仲哀天皇の袖に掴まり、言い返した。

「謀りはしません。貴男様の本意を知りたかっただけです。貴男様が清い心の持ち主か、汚れた心の持ち主か、確かめたかったのです」

 蒲見別皇子は、それを聞いて鬼のような赤い形相になり、一層、激怒した。

「殺してくれよう、帯姫!」

 蒲見別皇子の太刀が空を切った。

「ならぬ。帯姫は朕が妻。殺させてなるものか。その前に死ぬのは、お前だ。えいっ!」

 仲哀天皇は蒲見別皇子に襲いかかった。蒲見別皇子も、それに対峙し、兄弟対決となった。

「何の腰抜け男。勝てると思うなら勝ってみろ。己は蘆髪の強者ぞ!」

「何を言うか。父王を侮辱し、兄に背く者を神が許す筈がない。朕が剣の露と散れ!」

「うわっ!」

 仲哀天皇の太刀は蒲見別皇子を誅した。

「どうだ。蒲見別。殺される苦しみが分かったか?」

「許してくれ、仲津彦兄上。もう逆らいはしない。兄上の言う通りだ。己が悪かった。改心する。命だけは助けてくれ」

 蒲見別皇子は負傷しながらも、助かることを望んだ。仲哀天皇は、そんな弟の助命の叫びに耳を傾けなかった。蘇我石川に命じた。

「石川、野に火を放て」

「止めてくれ!止めてくれ!」

「白鳥は、お前に焼かれた。お前もまた、その罪を負って野火に焼かれよ」

 仲哀天皇はそう言い残すと、帯姫を連れて枯れすすき一面の河原から立ち去った。野火は蘇我石川の兵によって放たれた。

「うわっ。助けてくれ!」

 野火は冬枯れの河原に激しく燃え上がった。蒲見別皇子は苦しみながら、野火の中で焼け死んだ。天罰を受けたのである。

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