倭国の正体『愛しき人よ』②

2021年5月12日
倭国の正体
f:id:showjiyoshida:20210502125552j:plain

■第2章  遼東との戦い

  建安八年(203年)正月、楽浪の将軍、公孫模と副将軍、張敞は三韓の代表、辰王から朝貢が届か無いことと、流民を奪われたことを告げに遼東に向かった。幽州の袁紹の次男、袁煕ら袁氏の残党と対峙している公孫度にとって、その報告は不愉快きわまりない報告であった。公孫度は激怒した。

「お前たちは一体、何をしているのだ。三韓に連合国を建国され、楽浪から土民たちを連れ去られ、更に屯有県の部隊を全滅させられ、その上、楽浪に人質として隠しておいた魏の麗英公主を奪い去られるとは、何たる大失態だ」

「申し訳ございません。直ちに辰国に攻撃をしかけたいところですが、まだ厳寒中なので、春になり次第、援軍をいただき、軍兵を整え、総攻撃したいと考えております」

「そんな生温いことで、敵を打ち破れると思っているのか」

「申し訳ありません。何しろ辰国の王子、邪馬幸という奴は猛獣のような乱暴者で、凄く腕の立つ奴です」

 張敞は平伏して公孫度に邪馬幸のことを報告した。言い訳をする張敞に公孫度は腹が立った。

「何を言っているか。辰国の王子ひとりに狼狽える奴がいるか。腕の立つ野郎であろうが、大軍をもってすれば、必ず力尽きる。攻めて攻めて、攻めまくるのだ」

 遼東太守、公孫度に叱責される張敞をかばおうと公孫模が付け加えた。

「邪馬幸王子だけではありません。辰国軍の連中のほとんどが、もとはと言えば騎馬の民。あらゆる戦法に長けている連中の集団です」

 公孫模の言葉に、公孫度の怒りは心頭に達した。公孫度の顔が火のように赤くなった。

「馬鹿者!そんな弱腰であって、どうするのだ。事態は急を要するのだ。一刻も早く辰国を叩き潰さないと、相手は強力になる。我々が辰国に手こずっているのを知れば、これを機会とばかり、河北軍が遼東に攻め入って来る。幽州と辰国に挟撃され、遼東は滅びるぞ。ああっ、どいつもこいつも、当てにならぬ。康を呼べ。康を」

「かしこまりました」

 公孫度の脇に仕えていた侍従が太守の長子、康を呼びに行った。その間、公孫度は楽浪の将軍二人を前にしてぼやいた。

「それにしても天津彦、莫優の奴、何時の間に国を造り、力をつけてしまったのか。高句麗が弱体化して、ほっとしていたところを」

 公孫度は歯軋りした。南朝鮮の三韓が高句麗の残党、天津彦、莫優により、合体し、新しい国を建てるなど、公孫度にとって全く予想外のことであった。太祖王の流れ、莫勤を排除し、従兄、発岐を高句麗の王位につけてやり、従弟の延優を追放し、その一族は高句麗の輯安に逃げていたのではないのか。全く信じられない報告であった。従者が呼びに行った公孫康は直ぐに現れた。

「父上。お呼びでしょうか」

「おおっ、息子よ。頼りはお前だけじゃ。とんでもない事が楽浪の南で起こった」

「何が起こったというのです?」

「三韓が扶余の王族を招き、新しい国『辰国』を建てたとの報告じゃ」

「何ですって!」

 公孫康は驚きの声を上げた。息子、康に公孫度は言った。

「そこで、お前に頼みたいことがある」

「何で御座いましょう」

「大軍を率いて、辰王、天津彦を倒しに行ってくれ。辰王とは高句麗から逃亡した莫勤の息子、莫優のことじゃ。彼は三韓を統一し、その王となった。楽浪の連中が、奴らの為に、散々な目に遭った。多くの土民たちを連れ去られ、屯有県の部隊が全滅させられた。その上、魏公の娘まで奪われた」

 公孫度から話を聞いて公孫康は更に驚いた。

「えっ。あの麗英公主を!」

 康の顔面が紅潮した。

「そうだ」

「父上。麗英公主は私の妃にと考えて、お預かりした姫君。その姫君を奪われるとは何ということですか」

 康は怒りを父親、公孫度にぶっけた。

「済まぬ。楽浪の模や張敞に厳重に守らせておいたのだが」

 すると、そこにいた公孫模と張敞が康に向かって、床に頭を擦りつけ謝罪した。張敞が、小声で失敗した時の状況を説明した。

「申し訳御座いません。番兵たちが、ちょっと席を外した隙に、辰国の邪馬幸が来て、館の錠前を壊し、公主様を連れ去りました」

「何じゃ。その邪馬幸という奴は?」

 康の視線が公孫模に移った。公孫模はギョッとした。康に首を刎ねられるかと思った。

「邪馬幸は辰国の王子です。楽浪に朝貢の品を届けに来た帰りに、麗英公主様を攫って行きました。何のつもりだったのでしょうか」

 話を聞けば聞く程、康は目を吊り上げて怒った。

「番兵を呼べ。番兵を!」

「番兵はここにはおりません。楽浪にいます。番兵を呼んで如何、なされます?」

 張敞が問うた。

「言うまでもない。任務を怠った罰として首を刎ねるのじゃ」

「何も殺さなくても」

 張敞はうっかり、口答えしてしまった。康は更に頭に来た。

「何だと!部下の責任を、お前が負うというのか。そうなのか、張敞!」

「えっ。この私が」

 張敞は顔色を変えて後ずさった。公孫康は大剣を抜いた。切っ先を張敞の頬に当てた。

「そうだ。番兵の代わりに、お前が首を差し出すというのだな」

 息子が部下を威嚇する姿を見て、公孫度がそれを制した。

「止めろ!康。敵のやった事の原因で、仲間割れする事は無い。憎くき奴は、辰王、天津彦莫優じゃ。何が何でも貴奴とその王子、邪馬幸を倒せ!」

 公孫度は部下を庇い、康を叱咤するとともに、その怒りを辰王に向けさせた。すると康は大剣を引いて鞘に納め豪語した。

「言われるまでもありません。憎きは麗英公主を奪って行った邪馬幸。辰国などというちっぽけな国、大軍を派遣して、一気に踏みつぶしてお見せます!」

「そうだ。麗英公主が奪われたとなれば、魏公も黙っていまい。早急に彼女を連れ戻すのだ」

 公孫度は康に強く言った。すると康も楽浪の二人の将軍、公孫模と張敞に向かって自分の決断を明確に指示した。

「聞いての通りだ。楽浪の将軍たちよ。面倒であるが、我が玄菟と遼東の大軍を辰国に向かわせることにする。その前に、楽浪、帯方の大隊を編成するよう各部隊に通達し、攻撃を開始せよ。良いな!」

「ははーっ!」

 かくして辰国は、遼東に狙われることに成った。

         〇

 遼東太守、平州牧、公孫度の息子、公孫康は辰国を壊滅させる為、遼東と玄菟の二部隊を楽浪軍と共に帯方から真番へと進軍させた。百済の臣智、肖古は伯斉の一族を集め、辰国軍と一緒になって防戦した。その辰国軍の将軍、押雲が、戦況を知らせる為、一時、伽耶に戻って来た。辰王、天津彦は重臣を会議室に集め、押雲に現状報告をさせた。

「辰王様。楽浪からの大軍は日に日に数を増し、強化されているようです。密偵を送り調べさせた結果、何でも公孫度の息子、康という男が遼東から兵を連れて加わったとのことです」

「うむ。そうか。公孫度の奴、ついに本気になったか」

 辰王は、重臣を前に腕組みをして考えた。その様子を見詰める押雲将軍に向かって、邪馬幸が言った。

「いよいよ公孫康が出て来たか。あいつは父親ゆずりの腕を持つ武将と聞く。押雲よ。これから面白くなるな」

「邪馬幸。お前は馬鹿か。面白がっている場合では無い」

 烏弥幸が弟を叱責した。たまたま伽耶に来ていた新羅の臣智、奈解が提案した。

「辰王様。このままだと百済が危ないです。東濊や沃沮にも応援を頼みましょう。そして、皆で力を合わせ、一致団結して楽浪からの大軍を追い払いましょう。東濊、沃沮とも、公孫度のやり方には不満を抱いている筈。辰王様が呼びかければ、皆、賛成してくれる筈です」

「その通りです。東濊や沃沮には、私の知っている族長も沢山います。そういった人たちを通じ、我が国との連合軍結成の話を持ち掛けてみては如何でしょう」

 耆老も奈解の提案に賛成した。二人の話を聞いて、辰王は決断した。

「それは良い考えじゃ。至急、東濊や沃沮と交渉してみてくれ」

「ははーっ」

 かくして辰王は東濊、沃沮に応援を依頼することになった。若き邪馬幸の胸は躍った。

「父上。いよいよ、我ら辰国の実力を発揮する時が到来しましたね。これから我が国が大国に成れるか成れないかの試練の戦さが始まるのですね。この邪馬幸、身命を賭して戦いますので、ご期待下さい」

「その通りじゃ。総てはこの楽浪との一戦にかかっている。勝つか負けるか分からぬが、我ら『辰国』の永遠の為に、一同、身命を賭けて戦ってくれ」

「分かっております。辰王である父上、王の中の王に、東濊、沃沮も協力してくれます。さすれば我らは必ず勝利します」

 烏弥幸のその言葉に押雲将軍が、こう付け加えた。

「辰王様。烏弥幸様のお言葉通り、我らは必ず勝ちます。辰国の将軍として、この押雲、今日まで五万の兵を訓練して参りました。これらの兵たちは、いずれも精鋭ばかりです。如何に遼東の将軍、公孫康が智謀をこらしたところで、我ら辰国軍に勝てる筈がありません」

「心強いぞ。押雲!」

「敵が数万あろうとも、烏弥幸様、邪馬幸様と力を合わせ、この押雲、敵を必ず討ち破って御覧に入れます」

 耆老も負けていなかった。

「私も早速、奈解殿と一緒に東濊や沃沮にとびましょう。そして辰国との連合軍を作らせましょう」

「私も韓人たちを集め、谷那の金山にて、沢山の武器の製作に励みます」

 首露も押雲将軍たちと同じように燃えた。邪馬幸も燃えた。

「この邪馬幸は騎馬の民。風のように敵陣の中を走り抜け、たちまちにして公孫康の素っ首を頂戴してく見せます」

「邪馬幸。油断は禁物、大敵である。事は慎重に進めねばならぬ」

 辰王、天津彦は冷静であった。

         〇

 辰国と遼東の戦いは一進一退の長期戦となった。遼東太守、公孫度は漢王朝での自分の権威を守る為、漢王朝で幅を利かせる魏公、曹操の娘、曹麗英を何としても、辰国から取り戻さなければならなかった。しかし息子の公孫康が、大軍を引率して激しく攻撃しても、辰国軍に反撃され、戦況は思う通りに行かなかった。公孫度は予想外の苦戦に激昂し、焦燥の末、建安九年(204年)、興奮の余り死去した。公孫度の後継、公孫康は高句麗の山上王、延優に莫勤の流れを断つよう救援を求め、新羅を攻めさせた。そして自らは百済に侵攻した。長期戦で沢山の兵を失った百済の臣智、肖古は、これ以上、戦えば、一族が大きな痛手を受けると感じ、背に腹は変えられず、辰王軍を裏切った。七月、肖古は新羅の腰車城を攻撃し、城主、葭夫を殺害した。ことを知った烏弥幸は遼東からの攻撃を恐れ、父、辰王に降伏することを申し出た。

「父上。百済の肖古が遼東に寝返りました。最早、我々の負けです。我々も大人しく遼東に従いましょう」

 辰王、天津彦は烏弥幸の言葉を聞いて、息子を叱り飛ばした。

「何を言うか。まだ邪馬幸や押雲たちが、新羅や東濊や伽耶の兵と一緒に勇敢に戦っているのだ。諦めるにはまだ早すぎる」

「いいえ。ものには引き時が必要です。大事な部下や領土や多くの土民たちを失っても、父上は尚、邪馬幸たちの行動を支持するのですか」

「これは邪馬幸の考えでは無い。辰王、莫優、自らの考えじゃ。遼東の公孫康に降伏したところで、公孫康が簡単に許してくれると思うか。余やお前をはじめ、我ら一族のほとんどが殺されることになるのだぞ」

 辰王は激昂した。烏弥幸は、それでも粘り強く自分の意見を伝えた。

「だからこそ、邪馬幸と麗英公主を遼東に差し出すのです。そして百済の肖古のように公孫康の配下になれば、我々一族は救われます。もとはと言えば邪馬幸が撒いた種ではないですか。その為に我々が殺されるのでは道理に合いません。そうお思いになりませんか?」

 烏弥幸は父、辰王に降伏を勧めた。しかし辰王、天津彦は降伏など全く考えようとしなかった。

「邪馬幸とて、辰国の威信を高める正しい方策と信じ、国の為にやったことだ。まだ勝負を捨てるのは早い」

「いいえ。服従は早ければ早い方が良いのです。折角、築いた辰国の総てを失ってから遼東に降伏するのは、愚かな事だと思います」

 烏弥幸の言葉を聞き、近くにいた耆老が言った。

「辰王様。烏弥幸様の言う通りです。総てを失ってからでは取り返しがつきません。私が公孫康を説得しますので、一時も早く彼らに服従すべき時だと思います」

 百済の臣智、肖古が公孫康に寝返ったこともあって耆老は弱気になっていた。弱気になっている二人を見て、天津彦は不満を爆発させた。

「馬鹿者。辰国は永遠不滅でなければならぬ。どんな事があっても、余は降伏しないぞ。最後の最後まで戦う」

「父上はそれで良いでしょうが、国民は納得致しません。辰国の王となられたからには、国民の安全安寧を考えるのが第一義です。自分の名誉だけに溺れて、犬死するのは愚の骨頂です」

「烏弥幸。それが父、辰王に向かっていう言葉か。お前は敗者になったことが無いから、敗者の苦渋苦難が分からんのだ。降伏するという事は死ぬという事だぞ。生きて助かるなどという考えは大間違いだぞ。国民の安全安寧を考えるのなら、敵と戦い、敵を追い払う事だ。奴隷になっても生きていたいと思うなら、それも良いが、その命は死んだ命であって死んでいるのと同じだ。余は国民を奴隷にしたくない。烏弥幸。余の考えが分からぬか?」

「父上!」

「烏弥幸よ。降伏ばかり考えず、勝利を求めて、邪馬幸の如く、雄々しく国民の為に戦え。それがお前の今の使命じゃ」

 最早、烏弥幸には返す言葉が無かった。

         〇

 遼東との戦況は悪化した。辰王、天津彦、莫優は海事の首長、塩土を秘かに宮殿に招き、塩土に相談した。

「塩土。お前を呼んだのは他でもない。邪馬幸のことだ」

「はい。分かっております」

「烏弥幸は邪馬幸と麗英公主を遼東に差し出そうとしている。しかし、大切な二人を遼東に差し出す訳にはいかぬ。何故なら、我らは東明王の血を引く太祖王の本流として、彼らに降伏する訳には行かぬのだ。どんな事があっても敗北してはならぬのじゃ。そこでだ、邪馬幸と麗英公主を、一時、お前の知る東海の倭人の国、奴国へ渡海させておきたいと思うのだが・・・」

「奴国へ?」

 塩土にとって予想外の辰王の言葉であった。てっきり南の海上から船で遼東を攻撃せよとの命令が下るものと思っていたのに、予想が外れた。また逃避する所というのなら耽羅島や巨済島や対島のいずれかが適切と思うのだが、言語も異なる倭人の国まで渡海させようとは、どういう考えなのか。それに瀚海は潮流が激しくて危険である。それなのに何故?

「どうした、塩土。何故、そんな不審顔をするのか?」

「本当に王子様を奴国へ渡海させるのですか?」

「そうじゃ。余は東明王の流れを絶やしてはならないのだ。先祖代々、継承して来た祭祀を守り抜く為にも、是非、この密事を決行せねばならぬ。また烏弥幸も邪馬幸と麗英公主がいなくなれば、辰国を守る為、一生懸命、遼東と対抗すると考える」

「して、辰王様は?」

「烏弥幸と共にこの地に残り、辰王として、最後の最後まで戦う。邪馬幸らを押雲将軍らと共に渡海させておけば、心置きなく戦える。辰国を建てたのだ。思い残すことも無い。最後の最後まで華々しく戦う。騎馬の王者として、命果つるまで・・・」

「辰王様!」

 塩土は辰王、天津彦の心意気に泣いた。

         〇

 翌日、塩土の翁は、危険を掻い潜り、南川で戦っている押雲将軍に会い、辰王の意向を伝えた。そして押雲将軍と共に邪馬幸のいる宿営を訪ね、邪馬幸王子と麗英公主との会見に臨んだ。

「何じゃ、塩土ではないか。こんなに危険な戦場に何しに参った?」

「はい。辰王様から邪馬幸様と押雲様への伝言を受けて参りました」

「そうか。それは御苦労。して伝言とは?」

 その伝言を塩土が伝えようとすると、それを制止するかのように、押雲が口火を切った。

「邪馬幸様。昨日、烏弥幸様が公孫康のもとに走り、遼東の配下になってしまったとの情報です。辰王様が降伏しなかったら、邪馬幸様と公主様を捕え、公孫康に差し出そうと画策しています」

「何じゃと!何処まで、兄者は弱虫なのじゃ。父や兄弟、国民まで裏切って生きたいというのか。そんな奴、辰王の王子とは言えぬ。出向いて行って切り殺してやる!」

「お待ち下さい。今は堪忍が大切です。それに軍兵も随分、少なくなっています。一時、退去し、軍兵を整えることが賢明です」

 押雲将軍は、無理をせず、一時退去することを進言した。ここまで来て退去とは邪馬幸にとって耐え難いことであった。

「退去すると言っても、兄者までが敵となっては、退去する場所もあるまい。押雲。お前は何処に退去せよと言うのか?」

「それは、ここにいる塩土の翁が知っております」

「塩土が?」

 邪馬幸は塩土の翁を睨んだ。漸く自分の番が来たかと、塩土の翁は静かに喋り始めた。

「邪馬幸様。公主様。辰国の南東の海中に驚くほど大きな島があります。その島には果物や穀物が豊かに実り、大人しい土民たちが住んでおります。そこに住む土民たちを倭人と言います。その島は漢王朝から奴国と称されていますが、国らしくなっておりません。辰王様はそこへ、お二人を案内せよと」

「奴国へ?」

「はい。奴国です。そこの地はまだ国が始まったばかりで、統一されておりません。小さな集落が幾つもあり、お互い小競り合いしているだけです。八十年前、永初元年、漢の安帝様の時代、漢より倭面土国王という金印をもらった帥升という王がいましたが、漢大陸にばかり眼を向けていた為、国内の治安が乱れ、それ以来、未だ政情不安定な有様です」

 塩土の説明に邪馬幸の目が輝いた。

「その島には簡単に行けるのか?」

 そう簡単では無いが、この場では簡単に行けるとしか、塩土には答えようが無かった。

「はい、行けます。まずは我が国の南の巨斉島から対島に着き、瀚海を渡り、壱岐島に至り、更に南東に行けば奴国です。奴国は遅れている国で、鉄が作れません。馬を飼い馴らす者もおりません。彼らは稲作を中心とする生活をしております」

「鉄も作れぬのか?」

「はい。武器をはじめ、鋤、鍬、鎌、椀、皿なども、みな木製か粘土か石器です。銅はあるようですが、それは人集めする祭器、銅鐸と族長が持つ銅剣だけで、ほとんど使われていないのが実情です。従って邪馬幸様が辰国から鉄の技術者や駿馬を連れて行けば、向かう所、敵無し。たちまちにして倭人の国々を統一することも出来ましょう」

 塩土の話にじっと耳を傾けていた、何時も大人しい麗英公主が突然、口を開いた。

「塩土。お前は何故、倭人の住む奴国のことについて、そんなにも詳しく知っているのです?」

 美しい麗英公主に質問され、塩土は待ってましたとばかり、自分の経験を語った。

「私は奴国に行ったことがあるのです。その昔、海岸で魚を釣っていましたら、一匹の大きな亀が子供たちにいじめられていました。涙を流している亀を見て、余りにも可哀想なので、子供たちを説得し、助けてやると、亀は嬉しそうな顔をして、自分の背に乗れと私を海に誘うのです。私もその気になって、亀の背に乗りました。もしかして神仙の住む楽土へ連れて行ってもらえるのではないかと」

「それで神仙の住む楽土へ行けたのですか?」

 麗英公主は塩土の話に子供のように夢中になって耳を傾けた。

「いいえ。それで漂着したのが南東の島の奴国だったのです。私は奴国で十八年間、過ごしました。奴国の都の竜宮城に住む於都姫様は異国人である私を、とても大切に優遇してくれました。しかし私は家族のいる故国へ、どうしても帰りたかった。年老いたであろう父母のことが心配になり、十八年目、於都姫様に帰国することを泣いて申し上げました。すると於都姫様が仰有りました」

 塩土は、そこで溜息をついた。麗英公主は、その先を早く知りたかった。

「於都姫様が何と仰有りましたの?」

「倭国の東方には不死山という神山があります。その山に登ると不老長寿の仙薬が得られるそうです。折角、私たちと深い間柄になったのですから、貴男は故国には帰らず、この奴国にいて下さい。不死山に登って仙薬を手にし、私と一緒に長生きして楽しく暮らしましょうよと仰有られました。余程、異国を知る私のことを、奴国に留めて置きたかったのでしょう」

「それで塩土はどうしたのか?」

 今度は邪馬幸が話に聞き惚れ、先を知りたがった。

「私は父や母が暮らす故郷、富山に帰ることを選びました。於都姫様に船を準備してもらい、奴国から壱岐島、対島、巨斉島を経て、やっとのこと、富山浦に戻りました。しかし、富山の村に帰って見ると父や母はおらず、住んでいた家もありませんでした。聞けば遼東太守、公孫度の部隊がやって来て、部落を全滅させ、楽浪に引き上げて行ったという村人たちの話でした。私は父や母を捜しましたが、そこに暮らす者たちは、若者たちばかり。昔のことは全く分からないという返答ばかりで、私は失望しました。この時になって初めて、自分が何時の間にか白髪の翁に変貌しているのに気づきました。於都姫様の言っていた通り、不死山に行っていた方が良かったのかも知れません。それから私は再び奴国へ行こうと船造りを始めることになりました。そこへ伽耶の首露様がやって来て、辰王さまの海事の役を引き受けるよう依頼されました。そして、今回、邪馬幸様と公主様一行を私の知る奴国へ送り届けよとの役目を頂戴致しました。邪馬幸様。私と一緒に奴国へ行きましょう」

 塩土は邪馬幸に辰王からの命令を伝えると、一時も早い渡海を具申した。邪馬幸は悩んだ。押雲将軍が塩土の後押しをした。

「邪馬幸様。塩土の翁の言う通りです。一時、奴国に退去し、倭人の国の人々をまとめ、倭人諸国の王となり、不死の妙薬を得、奴国の大軍を引き連れ、再びこの地に戻って参りましょう。いずれにせよ、烏弥幸様が遼東の配下になったしまったのですから、塩土の翁の言うように、辰王様の命令に従い、一時、奴国に退去すべきです」

 塩土と押雲将軍の説得に邪馬幸は決断した。

「分かった。海を渡り、一時、奴国に退去しよう。そして奴国で力を蓄積して、公孫康を滅ぼそう」

「それがよろしゅう御座います。奴国には漢と交流したり、海外に向かって積極的な族長たちが沢山います。邪馬幸様と公主様が訪れたら、きっと歓待してくれる筈です」

「私も奴国に行くことに賛成します。倭人の国のことは漢にいた時、聞いたことがあります」

 麗英公主が邪馬幸同様、塩土たちの意見に賛成した。邪馬幸は彼女の発言にびっくりした。

「おおっ、公主。お前が賛成してくれるとは思ってもみなかった。また反対されるに決まっていると考えていた。邪馬幸は嬉しいぞ」

「私も嬉しゅう御座います。私は倭人の国に故知れぬ親しみを感じるのです。奴国には漢との交流者もおり、塩土の話を聞き、漢と同じような心温かさを感じるのです」

 辰王、天津彦、莫優の願いは、塩土や押雲将軍の努力により、一歩、前進した。塩土は於都姫のいる奴国へ行けるとなって狂喜した。

「奴国へ行くとなれば、こうしちゃあおられませんな。早速、船の手配をしましょう。兵士や技術者の数も多いし、食糧、武器、馬なども運んで行くので、大船団となりますな。こりゃあ、忙しくなるぞ」

 かくして辰国の王子、邪馬幸は魏公、曹操の娘、曹麗英を連れて、遠い海の彼方、倭人の国、奴国に逃亡することになった。