まぼろしの侠客

2021年5月6日
その他

 

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今はもう誰も知る者はいない。民衆の為に立ちあがり、命を捨てた愚かな侠客のことを・・・。

          〇

 明治十六年(1883年)、江戸時代末期の幕臣、小栗忠順を信奉する侠客、山田城之助は忠順が眠る上州倉渕村近くの土塩村山口という所で暮らしながら、中山道の傳馬の仕事をしていた。彼は若い時、江戸駿河台の小栗家に出入りしていたことがあり、明治維新により、生まれ故郷に帰り、この仕事を始めたのである。時代は明治維新、新政府がまだ発足したばかりの頃で、新日本政府の体制が充分に確率されておらず、あらゆる点において、不安定で、問題の多い時代であった。特に西洋かぶれし、ルソーの民約論を掲げて活動する若い思想家たちの判断は、理論と異なる予期せぬ障壁に突き当たり、混迷した。江戸時代の士農工商意識が身に焼き付いている民衆たちの気持ちを、一気に西洋の思想に変換しようとすることは、土台、無理な話であったが、彼ら若者は、その強硬策を試みた。この物語の主人公、山田城之助は、そんな時代に義賊風を吹かせ、新制度に不服を抱く百姓たちから信頼されると共に、若い武家出身の思想家たちからも慕われる不思議な侠客であった。

          〇

 この日も城之助は、自宅の書斎に座って黙考していた。逸早く日本の近代化を目指していた幕臣、小栗忠順を殺害した薩摩や長州の芋侍たちが、どんな政治をやるのか、その為すことひとつひとつに興味を抱いた。万民平等などといっても旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、旧公家や大名などを新たに華族とするなど、全く自分勝手な身分制度の施行には呆れ果てた。地租改正、太陽暦の採用、徴兵制、学制改革、通貨発行権を独占する日本銀行設立などについても、矛盾があるが、様子見するより、仕方無かった。それより身近な問題は、新井組の親分、新井信五郎から譲り受けた傳馬の縄張りを如何に守って行くかであった。信州に逃避した親分、信五郎に代わって高崎の牢屋で懲役一年半をくらってから、新井組の親分に就いた城之助にとって、まじめに農業をすることを嫌い、現金を求め、自分の所に集まって来る百姓たちを、如何に農業に復帰させるかが課題だった。城之助は明治九年(1876年)三月二十八日、新政府から佩刀を禁じられてより、小栗忠順のもとで用心棒をしていた時の武士の魂を取り上げられた上に、頭髪を長髪から丸坊主に変えて、長州人、楫取素彦県令のもとに仕える巡査に睨まれ、誠に苦痛極まりない日常を過ごしていた。そんな不満がつのる日、書斎の椅子に座り池の畔の紅梅が咲いているのを、ぼんやり眺めていると、何故か心が落ち着いた。梅の花の香り、鶯の鳴き声、筧の音などを感味していると、この世の憂鬱が薄らいで行くのだ。だが世間は、新井組の親分を退屈男にさせようとしなかった。子分の関綱吉が騒々しくやって来た。

「城之助親分。『有信社』の宮部先生が、乾窓寺で自由党の演説会を催すそうです。近くですので、見物に行ってみませんか。面白そうですぜ」

「宮部も斎藤と一緒で、熱心な奴じゃ。目的は国会開設請願の為の署名集めだろう。行っても疲れるだけじゃ。儂は止めとく」

 城之助は、折角、やって来た子分、関綱吉の誘いを断った。ところが綱吉は、引き籠っている城之助を外に引っ張り出そうと熱心だった。

「そんなこと言わねえで、俺たちに同行しておくんなせえ」

「そんなに行きたいんなら、亀吉とでも行ったらどうだ。奴は自由党に夢中だから、喜んで行くだろうよ」

「奴は、もうとっくに行ってますよ。会津で河野広中先生が逮捕された時の状況を、伊賀我何人先生が話されるというので、朝から乾窓寺に出かけて行きましたから」

 それを聞いて、城之助は呟いた。

「羨ましいな。情熱に燃えている時の人間は。政府が国会開設請願を規制しているというのに、全くそれが眼中に無いんだから。何も怖く無いんだから。知らないということは恐ろしいことだ」

 城之助の〈恐ろしい〉という言葉を聞いて、綱吉は驚いた。何も恐れない親分、山田城之助の吐く言葉とは思えなかった。

「恐ろしいことですって?」

「恐ろしい話さ。この上州にも必ず官憲が乗り込んで来る。憎き右大臣、岩倉具視や参議、伊藤博文、山県有朋らのやりそうなことだ。政商三井を利用し、板垣退助と後藤象二郎を洋行させた隙に、自由党を壊滅させてしまおうという魂胆さ。つまり日本国を国民の自由にさせず、国民から租税を集め、軍備を拡張し、他国への侵略を行い、平安貴族同様、甘い汁を吸おうという考えさ。何という小汚い考えか。そして、この考えの実行に反対する奴は、片っ端から処罰する方針なのだ。亀吉たちは、それを知らない。自由党の理想論に酔いしれ、その演説会に参加し、気勢を上げることに喜びを感じている」

「すると亀吉は捕まるのですか?」

 綱吉は真剣な顔で城之助に訊いた。城之助には綱吉が亀吉のことを心配しているのが良く分かった。それなのに冷たく答えた。

「捕まるだろうな」

「親分。冗談は止めてくんなせえ」

「冗談か本当かは後で分かる。亀吉のことが心配なら、側について、見守ってやれ。新政府は王朝政権の復古安定の為に、信じられぬ程、厳しい統制をやるに決まってる」

 城之助の言葉に、綱吉の顔色が変わった。何かを感じたらしい。

「そんなら、亀吉が大変だ。親分、ちょっと様子を見て参ります」

「そうしてくれ」

「がってんでえ」

 綱吉は威勢の良い声を上げると、空っ風の真っただ中へ跳び出して行った。その綱吉の声と足音を耳にして、お手伝いの巴菜が城之助のいる書斎にやって来た。

「城之助様。今、出て行ったのは誰ですか?」

「関の綱吉だ。乾窓寺の自由党の演説会の様子を見に行った」

「皆さん、自由党、自由党と言って騒いでいますが、このままで良いのでしょうか?」

 素朴な近所に住む独身娘の質問であった。百姓生まれの彼女にとって、今の若い男たちの考えが理解出来なかった。百姓は働く者。晴れた日は勿論、雨の日も風の日も、ただひたすら地べたに這い蹲って働くのが百姓。それなのに、男たちは野良仕事を女衆に任せ、博打をしたり、集会、集会と遊び惚けている。これで本当に良いのだろうか。男と女が共に協力し合い、汗水流して働かないで、豊作になる筈がない。巴菜の疑問に城之助が答えた。

「若い衆は武家政治から解放され、自由という言葉に酔っている。真実の自由が何であるかも知らず、政府の政策に反旗を掲げようとしている。危険なことだ」

「城之助様は、それを黙って見ているのですか?」

 巴菜は城之助をちらっと見ると、憤然と言った。きつい娘だ。

「燃え上がっている男を止めようとしても無駄だ。奴らは自由に魅せられ、危険であっても立ち向かって行こうとしている。維新により、丸坊主になったこの城之助の言う事など全く信じようとはしない」

「そんな事、ありません」

 その時、玄関の方から女の声がした。

「ごめん下さい」

 誰だろう。巴菜が玄関に出て行くと、そこには紫の着物の上に白い羽織を重ね着した派手化粧の女が立っていた。

「どなた様でしょうか?」

「与音と申します。城之助親分さんは、御在宅でしょうか?」

「どんな御用でしょうか?」

「親分さんに、お会いしたいのですが・・・」

「御要件を仰有って下さい」

「それは親分さんに直接、お話しする事ですので・・・」

 巴菜は、自分の問いに答えてくれない与音という女の態度に苛立った。理由の無い敵意が湧いて来るのを抑えられなかった。

「私は城之助の妻です。御要件を仰有って下さい」

「あんたが親分さんのお上様ですって?そんな嘘、誰が信じるものですか。親分さんはお久良さんと別れてから、独身を通すとあたいに言ってたんだから。そうで無かったら・・・」

「そうで無かったなら?」

「あたいが、とうのとっくに、お上様なっていたわよ。親分さん、いらっしゃるのでしょう。早く会わせてよ」

 そう言って与音が奥の部屋を覗こうとした。巴菜は怪しい女と思い、与音が玄関から部屋に上がろうとするのを制した。

「先生は御病気です。誰にもお会い出来ません」

 巴菜の強い口調に与音の態度が変わった。

「気の強い女だね。この壺振りのお与音と張り合うつもりかい?」

 巴菜と与音の間で火花が散った。二人は今にも玄関先で髪の掴み合いを始めそうな雰囲気になった。その時だった。

「二人とも、見っともないぞ!」

 何時の間にか城之助が二人の側に立っていた。城之助を見るなり与音が言った。

「あらっ、親分さん。御病気なのに、お騒がせして申し訳ありません。この女が〈城之助の妻です〉なんて言うものですから、つい、カーッとなってしまって・・・」

 城之助は巴菜を見た。巴菜の顔は真っ赤だった。

「済みません」

 嘘をついて詫びる巴菜は可愛かった。それに比較し、与音は壺振りという職業柄もあって妖艶だった。城之助は遠くからやって来た与音に訊ねた。

「ところで、お与音。何の要件で参った?賭場のことか?」

 与音は微笑した。

「城之助親分さんは、百姓たちの為に博打を禁止されたお人。その親分さんの所に賭場の話をもちかけるような野暮なこと、与音はしませんよ」

「では何用あって?」

「お好きな人を死なせたく無いという女の一心からです。この上州に官憲が乗り込んで来るという噂を耳にしたものですから、親分さんのところにお知らせに・・・」

 与音はそう言って色やかに流し目を送った。城之助は、それを聞いて与音に礼を言った。

「そうであったか。それはそれは有難う」

「当然のことをしたまでです。何かあれば助け合うのが、お仲間ですもの・・・」

 城之助は有難い無視出来ない情報を得て喜んだ。

「巴菜。何をボヤボヤしている。お与音さんを早く部屋に案内せんか」

「は、はい」

 巴菜は慌てた。何と言うことであろう。巴菜は与音を客間に案内しながら、心の中で呟いた。城之助様の馬鹿。

         〇

 同日、山田城之助の後輩、吉田政造は、旧高崎藩士、深井寛八の家を訪ねていた。亡き父、重吉が書き残した明治十年(1877年)の安中教会設立計画に関しての新島襄とのやりとりの記録を、深井家の客人に渡す為であった。寛八に案内され、奥の八畳間に行くと、そこには懐かしい顔があった。

「失礼します」

「おう、いらっしゃい」

「ご無沙汰しております。しばらくぶりです。柳川町へは半年ぶりでしょうか?」

「そうだな。半年ぶりだな」

 深井家の客人、内村宜之は高崎時代を懐かしむように大きく息を吸った。

「岩井君は元気か?」

「元気です。私と何時も喧嘩ばかししています。見解の相違というか、男と男の対立というか、兎に角、顔を合わせれば喧嘩です」

「何故、そんなに喧嘩を?」

「岩井は迷っているのです。新生明治政府を夢見ていただけに迷っているのです。確かに徳川幕府が崩壊し、天皇家を中心とする新政府が誕生したものの、中味、つまり、やっていることは、徳川時代とそれ程、変わらないというのです。刀を外し、髪を七三に分けた洋服姿の連中が、天皇を中心にして、如何にも高貴に振る舞っているが、彼らはかっての若き志士、殺人鬼の集まりであり信頼できないというのです。士農工商の時代は終わり、人間自由平等といっても、華族様だ、大臣だと、品の悪い連中が、平安貴族を真似たお手盛りの身分制度を作り、陰で優秀な知恵者を、日々、殺害しているからです」

 吉田政造の言葉を聞いて、内村宣之の顔が曇った。儒学者で和算家である岩井喜四郎が悩んでいる姿を想像した。

「それで君に、その憤懣をぶつけているというのか?」

「そうです。岩井は分かっているのです。分かっているから、気心の知れた私に憤懣をぶっつけて来るのです」

「喜四郎は真面目な奴だからな・・・」

 宣之は窓越しに見える庭を眺めてから、友、喜四郎の愚痴を聞いて口論する政造を可愛く思った。政造の目は美しかった。政造は言葉を続けた。

「本日は、父の記録が見つかりましたので、その記録を持って参りました。海老名弾正が安中に来てからの新島襄先生とのやりとりと、教会建設予算などの記録です」

「有難う。君の親父さんには、鑑三のことで、種々、苦労をかけた」

 政造は父、重吉や喜四郎の父、岩井重遠に学問を習っていた鑑三少年に、独楽回しを教えた時のことを思い出した。不器用な少年だった。

「今、鑑三君はどうしているのですか?札幌農学校を卒業して、農商務省に勤務していると伺っていましたが・・・」

「今は農商務省を辞め、アメリカにいる」

「ええっ!何でアメリカに?」

「実は鑑三が安中の浅田家から貰ったタケという女が浮気して、離縁したのだが、復縁を迫るので、鑑三がアメリカに逃避しちゃってね」

「そうでしたか」

「今回は、安中教会設立の経緯と浅田タケが何故、クリスチャンになったのかを再確認する為に群馬に来たんだ。鑑三の自己愛と独善的行為に、親としても責任があるからね。昨日、浅田家に行って、お詫びを済ませて来てほっとしている。それにしても親馬鹿老人だね。こんなに遠い安中や高崎にまでやって来るのだから・・・」

「親馬鹿老人だなんて。内村先生は、行動的で、まだまだお若いです。板垣先生にしても、内村先生にしても、兎に角、行動的で、びっくりするばかりです。それに比較すると、私の父、重吉は亡くなるのが、ちょっと早かったです」

「全くだな。惜しいことをした」

 宣之は儒学者、吉田重吉を回想すると共に、その息子、政造が板垣退助に熱狂していることを知った。宣之から見ると、田舎暮らしの政造は現実を把握していなかった。板垣の政治生命が終わろうとしているのを知らなかった。〈板垣死すとも自由は死せず〉の言葉に酔っている。眼を覚ましてやらねばならぬと思った。

「政造君。君は相変わらず板垣先生か?板垣はもう古いよ」

「私は古いなどと思っておりません。何故、古いというのですか?」

「商人に金を出させて洋行するなんて、自由党の党首がやることでは無い。政治家は清く正しくなければならない。板垣は三井に金を出させることにより、金玉を握られ、自らを穢してしまった。もう板垣には政治家の資格が無い」

「そんな・・・」

「政造君。これからの時代は君たちの時代だ。日本を制覇した薩摩、長州、土佐、肥後の連中にシッポを振っている時代は終わりにしないといけない。上州には自由があり、夢が有る筈だ。上州人が日本国の自由の先鋒になり、日本国を東洋の一等国にせねばならない。このことは鑑三にも言って聞かせていることじゃが、私の信念じゃ」

 宣之の説得に政造の目が輝いた。政造は宣之の言った言葉を繰り返した。

「薩摩、長州、土佐、肥後の連中にシッポを振っている時代を終わりにして、この私達に自由の先鋒になれと・・・」

「そうじゃ。日本国は、日本で暮らす我ら国民、一人一人のものなのだ。薩摩、長州、土佐、肥後の者たちの持ち物ではない。大事な日本国民全員のものなのだ」

「内村先生!」

 政造は突然、宣之の前に平伏した。宣之は驚いた。

「どうしたのじゃ、政造君?」

「嬉しいんです。嬉しいんです。内村先生の幅広い御言葉が、涙が出る程に嬉しいんです」

 政造は泣いていた。恥ずかし気も無く大粒の涙を、ボロボロ流した。純真な奴だ。

「泣くな。政造君」

 宣之は出来るだけ優しい口調で呼びかけた。すると政造は着物の袖で涙をぬぐいながら言った。

「今日、内村先生にお会い出来て良かったです。高崎まで出て来て本当に良かったです」

 涙を光らせる政造を見て、今度は深井寛八が言った。

「政造君。内村先生の本心が分かったであろう。内村先生は君に今、流れている都会の風を知らせる為、君にここに来てもらったのじゃ。そして君たちに、これからの日本で活躍する場が充分にあることを教えて下さったのじゃ。日本国は薩摩、長州、土佐、肥後の連中のものでは無い。日本国は君たち若者のものじゃ」

 政造は二人の言葉に感動した。勘定奉行、小栗上野介忠順の門下生であった自分らにとって、今や中央舞台に乗り出すことは不可能であると諦めていたが、内村宣之たちの言葉は、そうでは無かった。むしろ、その機会がこれからやって来るという励ましの言葉であった。政造は〈行ける!〉と思った。一時も早く、このことを城之助や喜四郎に伝えたかった。政造は内村宜之に安中教会設立記録を渡し、宣之から江戸の土産を受け取るや、内村宣之や深井寛八との再会を約し、高崎から新井村に向かった。

          〇

 新井村に戻った吉田政造は、数日後、山田城之助を自宅に招いた。

「城之助さん。私はあんなにも感動したことはない。内村先生のあの言葉は天の声だ」

 興奮している政造を嘲笑うかのように城之助は政造の家の庭に目をやった。ここでも白梅が咲いていた。

「相変わらずだな、政造」

「相変わらずとは何です」

「そうではないか。内村先生の言葉に感動したことばかり喋って、内村先生が政造にどんな事を話したのか、俺に説明しとらん。天の声だなどと言われても、俺にはさっぱり分からん」

 政造は、城之助に指摘され反省した。心が昂ってしまい、言葉足らずになっていた。

「すみません、すみません。実はこの前の休みの日、柳川町の深井寛八の家に行きました。そこで内村宣之先生にお会いしました。その時、内村先生は申された。〈これからの時代は君たちの時代だ。徳川幕府を倒し、日本を制覇した薩摩、長州、土佐、肥後の連中に尻尾を振っている時代は、もう終わりにせねばならぬ。富岡製糸場はフランス人、ポール・ブリュナの指導を受けて、世界最大規模となった。これもフランスと親交のあった小栗先生の前計画があってから実現した事業であり、上州人の賛同があって成功したことだ。この上州には自由があり、幸福が有る。君たち上州人はこれから自由の先鋒となって、日本国を東洋一の一等国にせねばならない。日本国は薩摩、長州、土佐、肥後の連中の持ち物では無い。政造君。日本国は、君たち、若者の日本国であるのだ。頑張り給え〉と。素晴らしい言葉だと思いませんか?」

「そんなに素晴らしい言葉だろうか?」

 政造の問いに対する城之助の返事は冷めていた。政造はムッとした。城之助は政治に興味が無くなってしまったのか。

「城之助さん。貴男は忘れてしまったのか。小栗先生のあの言葉を」

 すると城之助は、政造をキッと睨んで言った。

「忘れはせぬ。一言一句、覚えている」

「なら言ってみて下さい」

 すると城之助は小栗忠順がかって自分たちに演説した講義内容を長々と喋った。

「今は徳川幕府が潰れ、正統派が正統派と理解されない不思議な時代だ。日本国政府の使者として諸外国に出かけ、先進国の知識を吸収し、各国大使との国際交流を通じ、今、日本国に何が一等大事なのか分かっている人間が、正統と見做されず、異国人から得た耳学問の薩長の意見が大事にされる時代は、どう考えても間違っている。私は自ら亜米利加国を訪問し、海軍所を見学した。自ら露西亜の艦長とも面談した。仏蘭西公使、ロッシュとも親しい付き合いをして来た。この私が目にし、手に触れた現実こそが、正しいと自分は信じている。信じているからこそ、私は陸海軍の伝習所を開設し、横須賀に軍港を設け、軍艦製造の為の造船所の建設、弾薬製造と鋳砲の為の鉄工所の創設を行った。また貿易商社を設立し、兵庫港を世界に向けて開港した。仏蘭西語学校を設立し、郵便局の創設も行った。また欧米各国が求める生糸の増産の為に繰り糸機械の導入などの検討も進めた。兎に角、あらゆることを計画し、あらゆることを実行に移した。この実行力こそは、徳川政府の力によるものである。このことは徳川政府が正真正銘、日本国の政府であるという証である。錦の御旗を掲げ、江戸に乗り込んで来た薩長政府が、あたかも日本国政府の如く振る舞っているが、薩長政府は暴力軍団の集まりであり、偽政府集団である。私は江戸城の大会議場に於いて、この悪しき薩長軍団を武力をもって潰してしまえと、提唱した。その主戦論が受け入れられれば、偽政府を撃破出来たものを、不幸にして私の請願は受け入れられず、徳川政府は薩長軍団に屈することとなった。誠に残念至極である。私はそれで、この上州に引き上げて来た。この私の慚愧と正しい世界に向けた知識を理解し、受け継ぎ、これからの日本国を、世界の一等国に導いてくれるのは、ここ東善寺に集まっている諸君ら上州人をおいて他にない。彷徨える日本国を救えるのは、この上州の若者たちをおいて他にない。諸外国の侵略から日本国を守るのは諸君らをおいて他にない。諸君らの若い力を、小栗上州は信じている。どうか諸君、これからは、この私に代わって日本国の先鋒となって頑張って欲しい」

 城之助の喋り口は、あの日の小栗上野介忠順に変身していた。政造は先輩、城之助の記憶力に驚いた。

「流石、城之助さん。良く覚えてますね。その通りです。私は内村先生の言葉を聞いて、小栗先生に再会したような喜びを味わった。東善寺にいるような錯覚に陥った。城之助さんはじめ、荒川佑蔵、清水永三郎、岩井喜四郎、武井荒次郎、上原亀吉、三浦桃之助、小林安兵衛、中山兼吉。皆が私の周りにいた」

「懐かしいよなあ。あの頃は皆、若かった。塚本真彦も元気だったよな」

 二人は権田村東善寺での小栗忠順の講義に参加した若き日のことを回想し、懐かしさに浸った。

「そうですね。小栗先生ら幾人かが、薩長政府の襲撃に合って死んでしまい、もう帰って来ない。残った私たちが頑張らなくては・・・」

「政造。お前はまだ小栗先生の遺志を継ごうと考えているのか?」

「そうです」

 城之助の問いに、政造の目は輝きを増した。城之助は執念深い政造に呆れた。

「お前、一人で革命が出来ると思っているのか?」

「いや。当然、城之助さんにも手伝ってもらいます」

「呆れた奴だ。しかし、俺だけでは無理だ。柏木義円にも働きかけてみたらどうか」

「彼は越後生まれで、上州人ではない。それに楫取県令とも繋がっている」

「じゃあ、自由党の清水永三郎に声をかけてみようか。今、自由党の力は大きくなっているから・・・」

「あの人とは気が合わんが、兎に角、人を集める事が優先です。仕方無いでしょう」

 何時の間にか城之助も政造の革命論に同調していた。革命を成功させる為には、その中核となる決起軍が必要だった。

「それに腕の立つ奴が要る。下館で教員をしている桃之助を呼ぼう。俺たちからの要請とあらば、仕事を捨てて、やって来る筈だ。しかし、それでも足らぬ」

「新井組の地回りの子分衆を入れてもですか?」

「勿論じゃ。こうなったら、信州にいる新井信五郎親分に言って、松沢求策にも声をかけて貰おう。そうすれば、少しは助けになってくれるであろう。しかし、成功するか分からん」

「成功させる。どんなことがあっても、成功させねばならぬのです」

 そう答えた政造の目は引き攣っていた。城之助は政造の書斎に飾ってある三尺程の杉板に目をやった。その板には、墨でこう書かれていた。

   我が庵は 南 妙義に

   西 浅間

 何と単純な句であることか。果たして、こんな単純な句を作る政造の革命論に同調して良いものだろうか。城之助は内心、心配であったが、亡き小栗忠順先生や亡き友、吉田重吉の息子、政造の考えと思えば、その革命に参加することも仁義であると思えた。

          〇

 雨が紫陽花の花を濡らしている。休みの日は落ち着く。普段、柏木義円ら教員と子供たちからの尊敬を集め、子供たちに男女の区別無く、学問を教えている自分ではあるが、亡くなる前の小栗忠順の講義の言葉を思い出すと、政造は本業以外のことについて、つい考えてしまう。そんな政造のところに上原亀吉が訪ねて来た。

「先生。喜んで下さい。六月二十二日、板垣先生が、帰国されたとのことです」

 亀吉が吉報と思い、板垣退助の帰国を告げに来た。それを聞いた政造は亀吉の期待と裏腹に難しい顔をした。

「もう遅い。連中が外国で遊んでいる間に、全国の警察は刃の付いたサーベルを佩用するようになってしまった。もう手遅れだ。お前の信奉する自由党は、もう勝手に行動出来なくなっている。これからは、自由を叫ぶ奴は、何かの理由をつけられ、片っ端から処罰を受けることになるだろう」

「それは本当ですか?」

「本当だ」

「そしたら俺たちはどうしたら良いんだ?」

「決まっている。団結だ。団結して新政府を作るのだ。薩長の連中に左右されない、上州人を中心にした新政府を作るのだ。我々、上州人が小栗先生の教えに従い、日本国の自由の先鋒となり、新政府を作り、日本国を世界の一等国にするのだ」

 亀吉は政造の言葉にびっくりした。まだ、東善寺の小栗忠順の言葉を引きずっている。自分は土佐の板垣退助の『君主主義』と『民本主義』は対立せず、同一不可分であるという自由平等の精神に夢中になっているのに、政造は新政府を作ろうとしている。

「今の政府と違う新政府を作るのですか?それは革命ではないですか」

「そうだ。明治政府の本質は、薩長政治であり、官僚専制の貴族政治だ。我々上州人は板垣先生の考えに近い自由平等を旗印に、新政府を作らねばならぬ。日本国民の誰もが上下の差別の無い明るい生活が出来る国、世界の一等国にせねばならぬ。儂は、その為に立つ」

「それは本当ですか。板垣先生の考えに近いというなら、この亀吉も協力します」

「協力してくれるか?」

「はい。協力しますとも。これでも東善寺に通った一人ですから。でも何をやったら良いのです?」

 亀吉は、政造と話しているうちに、いつの間にか政造の世界に引摺り込まれていた。

「同志を集めることだ。物怖じしない同志じゃ」

「物怖じしない同志?」

「そうだ。今、生活に苦しんでいる連中を沢山、集めるのだ。生活に苦しんでいる連中なら、我慢強く、食う為なら何でもやる。巡査にも襲い掛かる」

「成程」

「しかし村内の連中は、駄目だぞ」

「何故です?」

 政造の目が厳しく光った。

「革命本部の正体が、何処であるか、直ぐに露見してしまう。従って村内で無く、少し離れた村の連中を同志にするのだ。これが革命本部を不明にして、革命を成功させる秘訣だ」

「では増田村の連中に声をかけるべえ」

 亀吉の言葉に政造は首を横に振った。それからカッとなって言った。

「愚か者!増田村は隣村ではないか。余りにも近すぎる。碓氷郡内ではまずい。もう少し離れた所の村に行って同志を集めろ」

「じゃあ、諸戸村や菅原村の連中を同志にすべえ。連中なら甘楽郡だし、離れた村ということになる」

 亀吉がそう言うと政造は頷いた。

「知り合いはいるのか?」

「沢山います」

 亀吉には親戚もいるし、博打仲間もいるので、仲間集めに自信充分であった。

「では諸戸村と菅原村の連中に同志になって貰おう。まずは自由党員になって貰うという事で、人集めをしよう」

「自由党員になって貰うという事で、人集めするとなると、『有信社』の宮部先生に名前を貸していただくよう、お願いしましょう」

 亀吉の提言は名案だった。『有信社』の名前を借りられれば、政造も城之助も亀吉も、党員として表面化しない。

「それは良い考えだ。宮部先生や杉田先生の名を借り、自由党員募集の拡大運動をやってくれ。今、流行りの自由党の名を存分に活用すれば、同志は嫌と言う程、集まる。革命はそれからだ。自由党員が最大限に膨張した時、一気に革命を起こす。そして板垣退助を祭り上げ、上州人の手で、新政府を作る」

「そうすれば、板垣先生の天下が来るのですね」

 亀吉は興奮した。亀吉は誤解している。亀吉に説明は面倒だ。

「そう言う事にしておこう」

「そう言う事にしておこうとは、どういう事ですか?」

 亀吉は政造の言葉に疑問を抱いた。矢張り説明せねばならぬ。亀吉には真実を説明しておこう。政造は亀吉に本心を語る決断をした。

「亀吉、良く聞け。板垣先生も、もとを糺せば官軍、薩長と同じ仲間、土佐の乾退助じゃ。公家出身の岩倉具視らと張り合って、自由党総裁ということになっているが、征韓論で、仲間割れしなかったなら、薩長と同じ穴の狢。そういった人物が、我らが計画する新政府の最高責任者になれるかどうか、はなはだ疑問だ。彼が皆が望む人物と言えるかどうか?」

「すると誰の天下になるというのですか?」

「我ら上州人の天下にするのさ。我ら上州人の力で、日本国民の為の正しい政治を行う新政府を確立するのだ。それが我らの狙いだ。この秘密は、他に発覚されては困る。亀吉。お前の胸の底深くに仕舞っておけ。決して他言してはならぬ。これは私とお前の秘密だ」

「分かりやんした。この亀吉、口が裂けても、この秘密を他人に漏洩するようなことは致しやせん」

「分かったなら、直ぐに人集めにとりかかってくれ」

「承知しました」

 亀吉は吉田政造に会って、恐ろしいことになったと思った。しかし引き返すことは出来ない。政造はまだ小栗忠順の夢を果たそうとしている。

          〇

 暑い夏の日、懐かしい男が、土塩村の山田城之助のところにやって来た。巴菜は、その男を、城之助の部屋に案内した。

「桃之助。良く来てくれた。お前と再会出来るなどと、夢にも思っていなかったが、どうしても自由党の仲間を増やしたくてな、お前に依頼文を送った」

「城之助親分からの書簡を受け取り、嬉しかった。城之助親分の依頼とあらば、行かねばならぬと決めてやって来ました。群馬も茨城も、そう遠くはありません。ましてや自分の信奉する自由党の為とあらば、喜んで・・・」

 その男、三浦桃之助は、城之助の座っている座卓の前に、ドカリと座ると、ニンマリと笑った。権田村東善寺以来の顔合わせだった。巴菜が直ぐに持って来てくれたお茶を一口飲むと、城之助は桃之助に訴えた。

「この山奥の村では未だ自由党なるものがどんな政党であるか理解されず、百姓たちは、その根本思想を充分に吸収出来ないでいる。我が村は俺がいるからまだ良いが、妙義山麓の村々など、字を読める者が少なく、自由党員を増やせずにいる。これではいけないと思う。上州だけが時代に取り残されてしまう。それで若くて弁舌の上手な桃之助に応援を頼んだ次第さ」

「何故、俺なんざに頼むんだ。上州の前橋には斎藤壬生雄、高崎には宮部襄など、優秀な自由党の幹部たちがいるではないですか」

 桃之助には城之助の依頼目的が、旧友に会いたいだけの理由であって、その依頼要請が明確で無いような気がした。城之助は自分を見詰める桃之助の視線の中に懐疑の光があるのを見て、一旦、頷き、弁明した。

「お前の言う通り、前橋や高崎に自由党幹部のお偉さんたちがいる。しかし彼らは所詮、士族であり、本当の自由党の思想の良さを理解しておらず、その真髄を百姓たちに伝えることは出来ない。それに較べ、桃之助は教員。人にものを教える技術は、自由党幹部以上である。桃之助が自由党の思想を分かりやすく演説してくれれば、百姓たちは、自由民権の素晴らしさを深く理解すると共に、即刻、党員に加わってくれる。だから、お前に来てもらった」

 桃之助は首を傾げた。

「教員ならば、岩井喜四郎先生や吉田政造先生がいるではありませんか。あの先生方なら民衆を説得するのも上手だと思うのですが・・・」

「喜四郎は駄目だ。あいつには算術のことしか頭に無い。政造は自由党を嫌っている」

「何故、政造先生が自由党を嫌っているのです?」

 桃之助は不思議に思った。政造は日本国の先鋒としての夢を抱いていた筈だ。それなのに何故、薩長と対立する土佐の板垣退助の思想に共鳴しないのか。

「政造は板垣先生を信じていない。岩倉具視と仲間であった乾退助のことが、彼の頭から離れないのだ。七月二十日、岩倉具視が没したことを耳にすると、政造は大喜びした。彼は何度も繰り返し俺に言った。岩倉具視の馬鹿野郎。あくどいことをするから癌になんかなったんだ。いい様だ。小栗先生を斬首したりするから罰が当たったんだ。ざまあ見ろ・・・」

 桃之助は城之助のいう政造像を、信じられなかった。

「政造先生が自由党や板垣先生を嫌っているなんて信じられない。政造先生は以前、板垣先生を見直したという手紙を俺に送って来たことがあります。板垣先生が国会開設の為の建白書を左院に提出したことは、人民の平等、天皇家の尊守及び国家の隆昌を約束するものであると、感動をした文章の手紙をくれました。その政造先生が、板垣先生を嫌っているなんて・・」

 城之助は政造から話を逸らさなけらばならないと思った。政造は陰の人間でなければならないのだ。城之助は政造から話を遠ざける為、自由党に夢中の近隣の仲間の話をした。

「政造が、自由党に加担しようとしないのは事実だ。桃之助の知ってる自由党心酔者は、清水永三郎や小林安兵衛だ。二人は自由党思想を百姓に理解してもらおうと、演説会を定期的に開催している」

「あの小林安兵衛がか?」

「そうだ。京都から小栗先生の刺客として派遣されながら、小栗先生に惚れ込んでしまった、あの光明院の坊主が、自由党に夢中なんだから面白い」

「あいつも惚れっぽい男だ」

 桃之助は、権田村東善寺で机を並べたことのある同年配の人の好い小林安兵衛のことを思い出した。城之助も小林安兵衛のことを自分に似ているお人好しだと思っていた。

「俺と同じよ。世直しの為と思えば命を捨てる覚悟でいる馬鹿な男さ」

 城之助が、そう言って笑うと、桃之助も笑った。

「城之助親分同様、安兵衛も変わり者だ。小栗先生を殺そうとしたことを懺悔して、仏門に身を投じながら、再びまた、人前に出ようとするとは・・・」

「それが日比遜、安兵衛の良いところよ。光明院の檀家たちは、彼が京都から派遣された刺客で、槍の達人であることを知らねえ。集会条令違反で、東京から逃げて来た自由党員だと信じ切っている」

「城之助親分だって同じことではないですか」

 桃之助の言葉に城之助は皮肉を感じた。桃之助は何が言いたいのか?城之助は桃之助に訊いた。

「同じとは、どういうことだ?」

「俺は知っています。城之助親分が小栗先生の為に多くの者を消し去ったことを・・・」

 城之助は唖然とした。何故、三浦桃之助が、そんなことを知っているのか。だがたった今、桃之助は、城之助に向かって、小栗上野介の為に、城之助が人を殺めたことを知っていると言った。誰と誰を抹殺したことを知っているのか、素知らぬ顔をして探るしか方法は無い。

「ああ、俺は小栗先生の用心棒だったからな。小栗先生を襲った奴を殺したことは確かだ。だが人数が多すぎて何処の誰を殺したかは、覚えていない」

「分かっています。岩倉具定、具綱兄弟が、小栗先生に差し向けた暴徒、鬼金と鬼定と、その子分たちのことですよ。金で動く虫けらみたいな連中さ」

 城之助はほっとした。あのことでは無かったのだ。城之助は桃之助に自分の感じていることを話した。

「桃之助。小栗先生に鬼金、鬼定を差し向けたのは、岩倉兄弟では無いかも知れんぞ」

「ならば誰だというのです?」

「勝海舟のような気がするんだ。あの腰抜け野郎さ」

「そんな馬鹿な話が?」

「世の中というやつは、そんなものよ。海舟の奴、政敵、小栗先生を消したかったのさ」

 二人の話は弾んだ。英明な幕臣、小栗忠順が殺され、裏切り者の勝海舟が、薩長政府の参議に任じられ、貴族風を吹かせている現実を、何としても、ひっくり返してやりたかった。二人は時の経つのも忘れて語り合った。かくして三浦桃之助は、群馬自由民権運動に没頭することとなった。

          〇

 明治十七年(1884年)三月二十二日、小林安兵衛日比遜が住職を務める甘楽郡一之宮町の光明院で、群馬自由党員による減租税の呼びかけの演説会が開かれた。この日は快晴で、桜の蕾も膨らみ、光明院の庭の周囲には白縮緬に墨汁で大書した幟旗が何本も立てられていた。

  身を殺して仁を為す

  官材の癒着を許さず

  天に代わって逆賊を誅す

  社会改革の気脈を貫通せん

  民の血と汗を絞り上げる者を許さず

 自由党員による呼びかけにより光明院の境内に集まった聴衆は千名以上になり、境内はいっぱいになった。三浦桃之助や上原亀吉は、小林安兵衛にもちかけた演説会の人だかりを見て、胸が躍った。弁士は越前自由党の豪農民権家、杉田定一を主賓に迎えた。理由は、彼が福井県内で起きた地租軽減運動を指導した実績を語ってもらう為であった。また東京から宮部襄、高崎から長坂八郎、地元弁士として伊賀我何人、深井貞爾らが演台に昇った。燃えやすい群馬の聴衆は、弁士たちの話に夢中になり、この日の自由党員拡大運動はまさに成功そのものとなった。そして、その夜、一之宮町の料亭『旭屋』で百名程度での懇親会を催した。その際、桃之助は上原亀吉と小林安兵衛の向かいの席に座った。懇親会は宮部襄の挨拶から始まり、杉田定一が話し、演説会場提供者の小林安兵衛が一言喋り、長坂八郎が乾杯の音頭をとった。それからは好きな者同志、自由に話し、懇親を深めた。酒が入ると小林安兵衛が満足顔で桃之助たちに言った。

「盛況な演説会だったな。桃之助や亀吉に勧められて、うちの寺を演説会場にしたのが良かった。これで儂も安泰じゃ」

 桃之助は、喜ぶ安兵衛を見て苦笑した。亀吉は浮かれている安兵衛に酒を注いだ。桃之助が、今日の演説のことに触れた。

「ああっ、良かったな。ところで今日の講演で、宮部先生に『国会開設問題と自由』について話してもらったが、百姓たちには、難しくてほとんど分かっていなかったみたいだ」

 すると安兵衛が、宮部襄が遠くにいるのを確認してから、桃之助に言った。

「ああいう話は、お前がやれば良いんだ。宮部先生は確かに難しく話し過ぎる。宮部先生には、薩長の政府批判が似合っている。儂には長坂先生の話の方が面白かったよ」

「あの『学術一般について』か?俺には面白く無かった」

「何故だよ?」

 安兵衛は桃之助に、面白く無かった、分からなかったなどと言われて、演説会場を提供して上げたのに、ムカッとした。桃之助は安兵衛の怒った顔を久しぶりに見て、ちょこっと笑い、自分の感想を述べた。

「長坂の話は、俺の親父さんが、何時も喋っている弁舌に、余りにも似ていて、うんざりしたんだ」

「そういえば、桃之助の親父さんは『東洋塾』の塾長だったな」

「そうだ。俺はその親父さんの学問第一主義思想が嫌で、群馬にやって来たのさ。ところが長坂の奴、肝心な『地租軽減論』を話さず、学問興隆について話しやがった。〈生活向上の為には政治を良くしなければならない。政治を良くする為には学問を興隆させなければならぬ。学問の普及こそ国家繁栄の基礎だ〉などと、至極、最もな話をしやがった。聴衆がどう思ったか知らんが、俺には聞き飽きた言葉で、面白く無かった」

「矢張り、長坂先生には『地租軽減論』が似合うよな」

 そんな話をしていると、長坂八郎の『地租軽減論』という言葉を耳にして、見知らぬ若い自由党員が、桃之助たちの話に割り込んで来た。

「その通りです。長坂八郎先生の『地租軽減論』は抜群です。私は秩父の村上泰治といいます。十七歳です。本日、鬼石の新井愧三郎先生や中野了随先生とやって参りました。私は半月前、新井愧三郎先生と秩父村民との懇親会を開き、沢山の自由党員を加入させることが出来ました。その時、お招きした長坂先生の『地租軽減論』を聞いて感動した農家を回って、減税願いと併せて自由党員になるよう勧めますと、ほとんどの連中が、署名してくれました。誰もが、長坂先生の貧農救済理論に感銘したのです。長坂先生の『地租軽減論』は最高です」

 桃之助は、のぼせて言い寄って来た若者を見て、危険だと思った。十七歳の若者を百姓たちが本当に信頼して署名したのだろうか?

「村上君。確かに長坂先生の話は立派だ。だが、それを聞いた村人たちが署名してくれたからといって、彼らが本当に租税軽減願いの目的、あるいは自由思想なるものを充分、理解しているかは疑問だぜ。百姓たちのことだから、目先のことしか考えていない可能性が高い。署名については、自分の負債の利子をまけてもらう為の勘弁願いに署名したんだとしか、考えていないと思うよ」

「それはあり得る話だ」

 光明院、小林安兵衛は腕組みして頷いた。その桃之助の言葉に安兵衛が同感する態度を見せたので、村上泰治は焦った。

「でも、長沢先生の『地租軽減論』は素晴らしいです」

 桃之助は情熱的な若者を、じっと見詰めて言った。

「俺は長沢先生の『地租軽減論』が素晴らしく無いと言っているのでは無い。それ程、素晴らしいものなら、何故、今日、秩父の村人たちに話したと同じように、甘楽の百姓たちに同じ事を話してやらなかったのだ。聴衆が聞きたいと期待していた『地租軽減論』を語らず、『学術一般について』を何故、演題にしたのか。越前から来た杉田定一先生と話が重なると思ってか?このことに対して、君は疑問を持たないのか?」

「疑問?」

「そうだ。疑問だ。長沢先生が『地租軽減論』を喋らなかったのには、何か理由がある筈だ」

「それは何故でしょう?」

 村上泰治には分からぬことであった。桃之助は興奮した。この若者は何も分かっちゃあいない。

「質問しているのは俺だ」

 イラつく桃之助の興奮を抑える為、泰治に代わって小林安兵衛が答えた。

「それは監視の警察官が、富岡署長の小島金八郎だったからだよ。小島署長は、宮部先生が、県の警保課長をしていた時代の部下だったからな。あらかじめ小島署長が、宮部先生や長沢先生、照山先生に会って、集会条例に違反しないような演説会にしておくよう注意しておいたのさ。勿論、長沢先生も、宮部先生に過激な演説は慎むよう言われて、演題を、『学術一般について』に変更したのだと思うよ」

「そうでしたか」

 村上泰治は、安兵衛の理由付けに感嘆した。ところが桃之助は小林安兵衛の答えに対し、首を横に振った。

「そうでは無い。問題は長沢先生の腰巾着、照山俊三だ。彼はもと群馬の三等巡査だったが、巡査を辞めて新聞記者気取りで、あちこち徘徊している。茨城では、彼が自由党員であることに疑問を持つ者もいた。下館の『有為館』の富松正安先生は、彼のような男は、警視庁の回し者かも知れんから、注意するよう、俺たちに教えてくれた。照山は、長沢先生を隠れ蓑にしている政府の密偵の可能性が高い。彼にとって、今回の演説会で隠れ蓑を失う訳にはいかなかった。それで演題を変更した」

「照山先生に限って!」

 桃之助から照山俊三の話を聞いて、小林安兵衛や村上泰治は信じられぬと言う顔をした。上原亀吉は無言だった。桃之助は、自由党員にのぼせている泰治に念押しした。

「俺にも本当の事は分からん。しかし、村上君、秩父で活動するのにも、用心には用心を重ねた方が良いと思うよ」

 小林安兵衛は、話の進展を恐れた。桃之助の話が、照山俊三本人に聞こえでもしたら、とんでもないことになる。安兵衛は周囲を気遣い、桃之助と泰治の会話を制した。

「桃之助。長沢先生も照山先生も、この懇親会場にいるんだ。聞こえたらどうするのだ。二人の悪口を言って、何も分からぬ秩父の若者をからかうのは止めた方が良いぞ」

「そうだな。俺も期待していた『地租軽減論』を聞けなかったもので、ついムカムカして、長沢先生を汚すようなことを言ってしまい申し訳無かった。遠い秩父から甘楽の演説会を聞きに来てくれた村上君の若さと情熱に乾杯するよ。これからは君たちの時代だからな」

 桃之助はそう言って、安兵衛や亀吉と一緒になって泰治に乾杯した。周囲にいた者たちが、何事かと驚いた顔をした。それは不思議な出会いの光景であった。

          〇

 甘楽一之宮の光明院での大演説会以後、自由党員加盟者が続々と増えた。この頃の農民は地租改正により、秣場、炭焼き場としていた共有林を政府に取り上げられたり、麦畑を桑畑に変更させられたり、不満が激化していた。特に国際不況の為、輸出生糸が引き取られず、農民は生活に困窮した。農民の中には地租改正により、折角、自己所有となった土地を担保に借金を重ね、ついには大事な土地を高利貸に手渡してしまう者も出るような状態になっていた。こういった状況下で救世主的演説を行う自由党員に対する農民たちの盛り上がりは、最高潮に達しようとしていた。その農民たちの暴発を予感した新政府樹立思想家、吉田政造は、革命を起こすのは今だと思った。彼は上原亀吉を呼んだ。

「亀吉。新政府決起の時は今だ。まず試みとして、どの程度、反政府思想の連中が集まるか試してみろ。八城村に自由党員を集め、それに賛同する百姓たちを集結させて、その数を読むのだ」

「政造先生は、俺たちに一揆を勧めるのですか?」

「勧めるのでは無い。何時も自由党、自由党と言って走り回っている原動力を、もっと具体的に発散させてみたら、どうかと言っているのだ。自由党を中心にした新政府を樹立しようと思うなら、目に見える行動をせよと言っているのだ。行動せずして何故、薩長政府から離脱した独立政府を築くことが出来るというのか。じっとしていて何が変異変転するというのか・・」

 そう言われても、亀吉には自信が無かった。甘楽一之宮の大演説会は三浦桃之助の力を借りて成功させることが出来たが、八城村に甘楽や碓氷の連中を集結させるなんて。

「政造先生。俺たちには、まだそんなに人集めする力がありません」

 政造は、自信の無い亀吉を勇気づけなければならないと思った。

「力が無いだと。力などというものは、団結すれば、何十倍、何百倍にもなるものだ。それにお前の近所には、山田城之助という強い味方がいるではないか」

「山田城之助は博徒です。政府から睨まれている博徒です」

「博徒であろうと、人は人。貴奴には沢山の子分衆がいる。貴様らが真剣に応援を求めるなら、儂と一緒に小栗先生に仕えたことのある男だ。良き助っ人となろう」

「あの城之助が?」

 上原亀吉には信じられ無かった。柏木義円らと教鞭を執る吉田政造が新井組の親分、山田城之助と関係があったなどと聞いたことが無かった。山田城之助は、何時も関綱吉たち子分衆を集めて酒を飲み、女たちをからかっている。そんな博徒の親分が、自分たちに力を貸してくれるなんて、有り得ることだろうか。しかし以前、亀吉が松井田宿で博打に負けた時、城之助は、もう博打は止めろと忠告してくれた。本当は優しい男なのかも知れない。きょとんとしている亀吉に、政造は尚も城之助の偉大さを語った。

「左様。山田城之助には長岡忠治を信奉する義侠心がある。民衆の苦しみを見捨てておく筈が無い。お前と行動を共にしている三浦桃之助とて、城之助の友じゃ」

「はい。それは知っております」

「また貴奴には最後の切り札がある。それは荒くれ男、二千人のことでは無い。もっと恐るべき、儂のみが知る切り札が貴奴にはあるのだ」

「その切り札は、そんなに効力のあるものなのですか?」

「ある。日本の歴史を変える程の偉大な力を有する切り札じゃ。板垣退助の弁説など問題ではない。大衆を動かす力じゃ。儂はお前たち自由党員と共に、日本国民の恒久平和を希求し、貴奴、山田城之助に賭けてみたい。自由民権。それは山田城之助が立ってこそ初めて実現されるものなのだ」

「城之助が立ってくれるでしょうか?」

 亀吉は半信半疑だった。しかし政造には自信があった。

「貴奴は要請があれば、きっと立つ。博徒とはいえ、儂と同じ岩井学校の門下生。必ずや民衆のことを思い、立ち上がる。その時こそが、日本の真の夜明けだ。板垣の如き弁説のみでは、世の中を変革することは出来ぬ。自由党の代表者を立て、早急に城之助に協力を求むべきだ」

「分かりました。早速、甘楽に戻り、村々の者と相談してみます。博徒の参加を好まぬ者もおりましょうが、その者らを説得し、城之助と共に反旗を掲げましょう」

 亀吉は政造の術中に嵌まっていた。彼は一之宮町の光明院にいる三浦桃之助や小林安兵衛と相談し、八城村で大演説集会を開催し、その場で決起の旗揚げをすることを心に決めた。政造は念には念を入れ、亀吉を盲信させた。

「亀吉。力こそ正義だ。このことは思い立ったら緊急を要する。儂からも城之助に亀吉に援助するよう依頼しておこう」

「お願いします。政造先生からの依頼を受ければ、城之助も応援してくれるに違いありません」

「兎に角、自由党員を八城村に集結させてみてくれ。伊賀我何人らを招き、演説会を開けば、直ぐに集結の様子が分かる。そこに集まった力に城之助の率いる新井組の力が加わったものが、独立革命軍の力だ」

「分かりました。その力を知る為に、甘楽と碓氷の自由党員を八城村に集めましょう」

 亀吉は政造に煽動され、妙義山麓の八城村で決起集会を実行することを決心した。

          〇

 翌日、上原亀吉は一之宮の光明院に行き、小林安兵衛と三浦桃之助に自由党甘楽、碓井合同決起集会の開催について相談した。二人は、酒を飲んで、ムズムズしていたので、決起集会開催について待ってましたと賛同した。直ぐに清水永三郎、湯浅理平らを集め、密議をこらした。亀吉は、それと無く、薩長政府を打倒し、大統領制を行うべきだとほのめかした。すると湯浅理平が、亀吉の話に共感した。

「確かに亀吉さんの言う通りだ。今の俺たちは板垣退助に感化され、口を開けば、自由民権を叫ぶが、それは皮相の空論に過ぎない。孔孟の教えも、釈迦の教えも、今日の貴族中心政治の情勢では何の益も無い。今や、亀吉さんが言うように、実力闘争に訴えるしか方法は無い。深山窮谷の農民は頑冥であるが、一度、勇猛を奮えば、虎をも凌ぐ。有識者に頼るよりも、困窮している農民たちを誘い、一揆を行う方が得策である」

「私は、それに反対だ。政府は自由党員の目論見を既に察知している。兎に角、今は自由党員を増やすことだ。武力は国民を不幸にするだけだ」

 湯浅理平の一揆論に清水永三郎が反対した。意見は二分したが、困窮者たちの不穏な集合事件が全国各地で多発している現状を鑑み、大暴動を起こすのには絶好の機会であるという意見が採用された。そし即日、手分けして自由党員に声をかけることになった。上原亀吉は翌々日、諸戸村の山田米吉宅を訪ねた。まずは八城村での決起集会について語り、その後、博徒、山田城之助の協力について、どう思うか米吉の意見を訊いた。

「米さん。碓氷の自由党の連中に、新井組の山田城之助が加勢しても良いと言っているらしいが、奴は博徒だ。山田城之助に手を借りることについて、米さんは、どう思う?」

「儂は博打うちは嫌いだ。山田城之助は博打を禁止した男だ。博打うちとは違う。それに今は、そんな事を言っている時じゃあねえ。一人でも頭数が必要な時だ。亀吉さん。儂は正直言って、新井組の子分衆、九百人の加勢が欲しい」

「そうは言っても、米さんたちの仲間が、新井組の加勢を快く受け入れてくれるかどうか?」

 亀吉にとって、城之助の子分衆を加えることによって、折角、集めた甘楽の自由党員たちが、分裂するのではないかと恐れた。それを察するかのように、米吉が言った。

「それは儂が何とか話をつける。皆だって説明すれば分かってくる筈だ。綺麗ごとを言っちゃあいられない。一揆を始めたら生きるか死ぬかのどちらかなのだ。戦さなんだ。亀吉さん。仲間は儂が説得する。どうか城之助親分に加勢をお願いしてくれ」

「分かった。帰りに城之助に当たってみる。ある人の助言で、城之助もその気になりかけているに違いない。必ず同意してくれる筈だ」

「ある人の助言とは、どなたの助言です?」

 亀吉は、米吉に問われて、しまったと思った。いけないことを口にしてしまった。亀吉は喋ってはならぬと思った。

「それは言えぬ。兎に角、城之助の事は引き受けた。一之宮、丹生、下仁田、富岡の方は光明寺さんにお頼みしてありますので、米さん、諸戸近隣のことを頼みますよ」

「任せておくんなせえ。菅原の吉五郎さんはじめ、重平、源吉といった連中は、必ず賛成してくれますので、安心して下さい。田畑を失ったら、百姓は終わりです。誰も彼もが必死なんです。きっと新井組の加勢を喜ぶに決まっています」

「そうだと有難いのだが・・・」

 亀吉は不安だった。心配で心配でならなかった。営々と築いて来た自由党員集めが無法者集団、新井組の参加によって、水泡に帰してしまっては困る。また一から遣り直さなければならない事になりかねない。しかし悩んだところでどうにもならない。今はただ、甘楽、碓井合同決起集会を八城村で開催する為の党員集めが優先だった。

「ところで米さん。その後、党員は増えましたか?」

「はい。増えました。諸戸では佐藤新造、田村市五郎、石山松五郎、佐藤竹次郎らが、仲間に入ると言って来ました」

「それは凄い。菅原では、どうですか?」

「菅原は堅物が多く、諸戸のように上手く行きません。土屋倉吉や阿倍久蔵を説得しているのですが、中々、思うように言う事を聞いてくれません」

「ま、頑張ってみて下さい。俺たちの熱意が、いつの日にか、彼らにも分ってもらえる筈です」

「そうだと良いのですが・・・」

 山田米吉は菅原村での人集めに苦労している風だった。しかし時は待ってくれない。亀吉は小林安兵衛、三浦桃之助や吉田政造と、決起日時を決めてしまっていた。

「いずれにせよ、さっき話したように、三月三十日の正午過ぎ、伊賀我何人先生を招き、八城村で決起集会を開きます。可能な限り、沢山の仲間を集めて参加して下さい」

「分かりあんした。竹やりと莚旗を準備して皆と八城村に参ります」

 すると亀吉は米吉の肩をポンと叩いた。

「じゃあ、頼みましたよ」

 それに米吉が頷くと、亀吉は逃げるように闇の中に消え去って行った。

          〇

 上原亀吉ら自由党の決起に無法者集団、新井組を参加させることを亀吉と約束した吉田政造は、半年ぶりに土塩村の山田城之助の屋敷に出かけた。何時もだと松井田宿に出かける城之助が新井村の政造のところに立ち寄るのだが、今回は城之助に一肌脱いでまらわねばならぬので、政造の方から城之助の屋敷に出向いた。城之助に会うなり、政造は言った。

「城之助さん。いよいよ革命の機会が訪れましたぞ。それで、お願いにやって来ました」

「どうしてもやるのか?」

 城之助は再確認した。政造は恐ろしい形相で城之助を見た。その顔は国を憂い新政府樹立を呼びかけた小栗忠順の話に同調した時の政造の顔であった。

「やらねばなりません。異国の侵略から日本国を守る為には、平安貴族社会を目指す薩長の連中に左右されない、万民自由平等の世界を目指す政府を作らねばなりません」

「政造。桃之助はお前の事を〈政造は板垣先生を捨てた!〉と嘆いていたぞ」

「桃之助の信奉する板垣先生の思想は間違ってはいない。小栗先生の思想に近づきつつある。だが根本が違います」

「その根本とは?」

「日本国の国家元首は天皇でもなければ征夷大将軍でも無い。自由平等を約束された主権者たる国民一人一人の投票によって選ばれた者が国家元首であるべきです。その国家元首選挙は五年ごとに行われることを理想とします。これが小栗先生の国家政治の根本思想です。従って、板垣先生の考えは、まだまだ生温い。今、日本国は尊王軍と幕府軍との内戦による国民の被害と疲弊を救済することを急がれています。一時も早く、王朝政治を目指す薩長政府を倒し、理想的政府を樹立させる必要があります。その為には革命しかありません」

「薩長政府を敵に回して戦さを始めるというのか。そこまでしなくても・・・」

 城之助は革命に気が進まぬ態度を示した。今の新井組の首領の生き方に満足しているのか。政造はそんな城之助の態度を無視して、自分の考えを城之助に押し付けた。

「城之助さん。私は真剣です。今、日本は一等、大事な時期に立っている。あれ程、民衆が崩壊を夢想した徳川幕府が、いざ崩壊してしまうと、民衆は明治新政府に対して、新しい夢を描く。しかし、結果は新しい身分制度が生まれ、自由平等が抑制されている。それで民衆は、その夢を実現することは出来ると思いますか。出来はしません。だから板垣先生は、全国、津々浦々をめぐり、自由民権を叫んでいるのです。されど、それは空しい。言葉ほど空しくて頼りないものはない。小栗先生の夢を実現させる為には、武力闘争を行うしか方法がありません。城之助さん、力を持った貴男がが立たなければならないのです」

「この俺がか?」

「そうです。力こそ正義なのです。力を示してこそ初めて、夢は可能となり得ます。そしてその力を民衆の力に置換する時、城之助さん、貴男は真の男となり得る」

 滅多に称賛しない政造に称賛され、その気にさせられそうになり、城之助は慌てた。江戸の内村宣之の革命論に触発された政造に迫られ、城之助はしどろもどろになった。

「政造。おだてないでくれ。俺は博徒だ。博徒が何故、民衆の上に立てるのだ。何故、政治を変えることが出来るのだ」

「城之助さん。貴男は私と違う。貴男には子分九百人と地回り、数千人がいる。貴男はは既に彼らの上に立っています。彼らは貴男を『日本一の大親分』と信頼し、貴男の子分衆になっているのです。自分たちを守ってくれる貴男の力を信頼しているからです。彼らは決して博打うちの貴男を信頼しているのではありません。男、上州城之助を信頼し、自分たちの生活の平穏と繁栄を願っているのです。借金取りが来ても、城之助さんがいてくれれば怖く無い。官兵が来ても、城之助さんがいてくれれば怖く無い。明日の飯に窮しても、城之助さんがいてくれれば助けてくれる。人の出来ぬことを城之助がやってくれる。子分たちにとって貴男は救いの神なのです。その子分たちが今、求めているのは何か。それは自由平等です。城之助さん。貴男は今、農民決起と共に、自分の子分たちのことも考え、立つべきなのです。上原亀吉は、それを貴男に求めている。自由民権を旗印に・・・」

 政造の説得には迫力があった。

「政造。おだてるのは止めてくれ。城之助は、もう血を見るのは嫌だ。小栗上野介を襲う奴を殺したり、味方であった者を殺した悪夢は、夜毎、俺を苦しめる。城之助はこれ以上、悪夢に悩まされたくない」

「城之助さん。それが私たちの宿命なのだ。生誕と同時に与えられた運命なのだ。そして、このことを遣り遂げられる男は、今、この日本に、貴男、一人しかいません」

「そんなことは無い。内村先生や襄先生やお前のように立派に学問を修められた方々が沢山いるではないか?」

 その城之助の言葉に政造は首を横に振った。

「いざという時、学問が何になります。川に溺れた時、学問が何になります。頼りになるのは川を泳ぎ切る腕力であり、脚力である筈です。今、民衆が求めているのは、そういった剛健強固な力です。政府に真正面から対峙出来る力です。かの大前田栄五郎亡き今、この上州で、それが出来るのは城之助さん、貴男一人だ。亀吉の話では、菅原や諸戸などで、沢山の農民たちが、貴男の協力を求めているという。亀吉と相談して、直ちに行って助けてやって下さい。それが貴男の天から与えられた使命です」

「政造。俺は今も鎮台に監視されている博徒だ。その俺に百姓と共に暴れまくれと言うのか?」

「苦しんでいる民衆の為です。それに鎮台や警察は、貴男を恐れて、土塩村や新井村、増田村に姿を現さぬではないですか。貴男が現れれば彼らの方が逃げて行きます。城之助さん。貴男の近所に住む亀吉は必死になって頑張っている。亀吉や亀吉を信じる民衆の為に協力してやって下さい。私も無力を振り絞って協力するつもりです」

 政造の真剣さに城之助は政造が小栗忠順の『革命論』を実践しようと決断したのだと気付いた。こうなっては、もう逃げ場が無かった。

「かくも明確にお前から協力を求められるとは思わなかった。総てが、お前の絵空事かと思っていた。幼少の頃よりお前の親父、重吉と机を並べて学問を共にし、小栗先生に仕えた重吉の息子、政造の依頼とあっては、この城之助、断る理由が見つからねえ。大いに協力しよう。そして日本国に本当の自由が到来する日を期待しよう」

「有難うございます。城之助さん。私は嬉しい。強き良き先輩を持ったことは仕合せです。貴男の賛同に私は心より感謝します。政府からの重税、物価の高騰、鉄道敷設の負担金、農地の耕作変更など、苦しみに苦しめられている農民たちが、城之助さんの支援を知ったら、どんなに喜ぶことでありましょう。私はは喜ぶ農民たちの顔が見たい。そして城之助さんが加勢してくれることを、真っ先に亀吉に伝えてやりたい。亀吉と行動を共にしている桃之助だって、跳び上がって喜ぶに違いない」

 政造は、そう言って城之助の両の手を握った。城之助も両の手を握り返して、二人はしっかりと互いを見詰め合った。ついに革命に足を踏み入れる時がやって来た。

          〇

 明治十七年(1884年)三月三十日、自由党員、上原亀吉の呼びかけにより、自由党員とそれに賛同する農民たちは妙義山麓の八城村で決起集会を行った。集まった農民たちは、竹槍と莚旗を持って行動した。光明院の小林安兵衛に、この日の演説を頼まれた伊賀我何人は、八城村の演壇に立ち、得意顔で自由党の素晴らしさを弁じた。

「現政府は国民同志の争いを回避しようとした徳川幕府から、武力で政権を奪い取り、今では、その主導権を巡って薩長土肥で内部抗争を繰り返している。王制を復古させはしたが、やっていることは平安時代への逆戻りだ。こんな政府が長続きする筈がない。これからは自由党の時代である。我ら日本国民は自由で平等でなければならない。本日、我ら自由党を信奉する者がここに集まり、皆さんの多くが今、速やかに自由党に加入されれば、徴兵は免除となり、租税は減ぜられる。従って私は、まだ入党していない人たちに一時も早く、自由党に入党することを勧める・・・」

 と、突然、集まっている農民たちの中から警棒が上がった。伊賀我何人はびっくりした。小林安兵衛も上原亀吉も慌てた。警棒を持った男は叫んだ。

「その演説、待った。その内容、国家安全法を妨害する演説と認める」

 男は集会を知り、派遣された臨監の警察官で、演説内容に問題ありと判断し、待ったをかけたのである。ところが熱弁を振るっていた伊賀我何人は、自分の演説にちゃちを入れる男の事を洒落臭いと思い、怒鳴り返した。

「何を言うか。お前は一体、何者だ!」

「私は松井田分署の署長、吉川迪である。政治に関する演説会は、三日前に警察署に届けて、認可を受けることになっている」

 吉川署長は落ち着いていた。その目は尋常で無かった。伊賀我何人は身の危険を感じた。逃げなければと思った。

「儂は講演を頼まれ、演壇に立ったまでだ。届け出については知らない。届け出は当然、成されていた筈じゃ」

「届け出だけでは無い。貴様の演説内容は、正しく無い。政府を誹謗する間違った演説である。公衆の安寧に妨害ありと認むる愚かなる内容である」

 伊賀我何人は、自分の演説を愚かなる演説とけなされ、カッとなった。

「お前ら犬に、儂の演説内容の真意が分かってたまるか!」

 大勢の前で、『犬』と言われて、吉川署長は激怒した。

「兎に角、演説を中止しなさい。演壇から降りなさい!」

 吉川署長が怒鳴っても、伊賀我何人は演壇から降りなかった。更に大声で聴衆に叫び訴えた。

「皆さん。見て下さい。この犬たちを。この犬たちは言論の自由を阻止する現政府の手先です。臭い物には蓋をしろ。これが現政府のやり方だ。こいつら犬の言う事を聞いていたら、それこそ昔に戻ってしまう。言論の自由が無くなってしまう」

「止めろと言ったら止めんか!止めないと、ひっ捕まえるぞ!」

「ひっ捕まえられているのはどっちの方だ。政府に首輪を付けられ、ワンワンワンか!」

 聴衆が、ドッと笑った。

「もう許せん。お前ら、伊賀我何人を取り押さえろ!」

 吉川署長が激昂し、連れて来ていた部下に、伊賀我何人の逮捕を命じた。そして吉川署長は演壇の上にいる伊賀我何人を引き摺り降ろそうと、伊賀我何人の袖を引っ張った。すると我何人が怒鳴った。

「この唐茄子野郎!」

 我何人の鉄拳が、吉川署長の頭上に落下した。

「痛てえ!殴ったな、伊賀我何人。もう許さん。徹底的に傷めつけてやる!」

 吉川署長が部下と一緒に伊賀我何人に猛然と襲いかかった。小林安兵衛も上原亀吉も、このままでは我何人が逮捕されてしまうと思った。安兵衛は側にいた中沢丈八に命じた。

「伊賀先生が危ない!丈八。先生を助けろ!」

「丈八。何をしているのだ。先生、先生。こっちへ来て下さい」

 中沢丈八が吉川署長とその部下たちと取っ組み合いをしている間に、機敏な町田鶴五郎が、伊賀我何人を助け出した。しかし、そうは問屋が卸さなかった。伊賀我何人と鶴五郎の前に、大男の刑事、藤田錠吉が立ちはだかった。

「鶴五郎。伊賀を離せ。伊賀は罪人だぞ。こちらへ大人しく渡せ!」

「渡せぬ!」

「渡せぬなら、お前から捕まえてやる」

 藤田錠吉が伊賀我何人を庇う鶴五郎に迫っているのを見て、吉川署長が叫んだ。

「良いぞ、錠吉。鶴五郎を叩き潰せ!」

 中沢丈八を取り押さえながら、警察の力を示すのは、この時とばかり、吉川署長は、部下に鶴五郎を攻撃させた。錠吉の殴る蹴るの連続に、鶴五郎は血だらけになり卒倒した。警察の余りもの乱暴を目にして、竹槍を持った農民たちは攻撃を恐れ、その恐ろしさにガタガタ震え上がった。吉川署長は農民たちへの見せしめの為、気を失った鶴五郎を錠吉に強引に突っ立たせた。そしてサーベルを抜き、冷たい刃を鶴五郎の頬に当てた。鶴五郎がかすかに目を開けた。小林安兵衛は竹槍を握り締めた。桃之助も胸の匕首に手をやった。その時であった。吉川署長と鶴五郎の正面の人だかりがパッと割れた。

「錠吉。手を放せ。鶴五郎から手を放せ!」

 錠吉が声の方角に目をやると、そこには関綱吉ら子分衆を引き連れた山田城之助が立っていた。黄色いドテラを着た城之助を見ると藤田錠吉は身の毛が弥立った。

「上州城之助。何時の間に・・・」

「鶴、安心しろ!俺が来たからには、お前を警察には渡さない」

 その城之助の面構えを見て、鶴五郎は血まみれになった顔を歪ませて笑った。吉川署長は慌てた。乱闘になるのではないかと危惧した。乱闘になり、自分たち警官が袋叩きになるのを恐れた。

「城之助親分。親分は今、自分が何をしているのか分かっているのですか?」

「分かっている。喧嘩の仲裁に参ったのじゃ。この中には俺の可愛い子分が沢山いる。こいつらを罪人にする訳にはいかねえ。吉川署長、ここは大人しく引いておくんなせえ」

 城之助の言葉に吉川署長は胸をほっと撫で下ろした。

「分かった。城之助の顔に免じて、今日の事は勘弁するが、二度とこんなことを起こさぬよう、親分からも皆に注意してくれ」

「申し訳ありません」

 城之助は、サーベルを元に戻した吉川署長に深々と頭を下げた。それから子分衆に言った。

「てめえらも頭を下げぬか」

 子分衆は慌てて吉川署長に頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

 農民たちもそろって頭を下げた。

「解散!解散!」

 吉川署長はサーベルを振り上げ、自分を励ますように大声で叫んだ。

「みんな、解散だ!」

 関綱吉が散ろうとしない農民や子分たちに解散を命じた。山田城之助は三浦桃之助に近寄り、今回の決起集会は準備不足であったなと伝えた。吉田政造は、この有様を松井田城の城址の上から、望遠鏡で眺めていた。そして、これだけの人数を集められれば、集会ごとに、二千人が二万人、二万人が二十万人、二十万人が二百万人と十倍に増加し、革命は成功すると確信した。

          〇

 伊賀我何人と吉川署長との騒ぎは、新井組の親分、山田城之助の仲裁により治まったが、それは一時のことであった。松井田分署の鬼刑事、藤田錠吉は伊賀我何人を逮捕する寸前に、邪魔に入った町田鶴五郎たちを、許すことが出来なかった。錠吉は我慢しきれず、新堀村の町田鶴五郎ら数名を二日後に逮捕した。それを知った城之助の子分、関綱吉が、松井田分署に鶴五郎らを貰い下げに駈けつけると、吉川迪署長が、綱吉に言った。

「この中の誰かが自首すれば、総てが丸く収まる。これ以上、逮捕者を増やしたく無い。誰かに自首を勧めてくれ」

 関綱吉は、捕まっている連中、一人一人のことを思った。この連中には年老いた父母や女房や幼い子供がいる。鶴五郎の母親は病気で寝込みがちだし、女房は足が弱っている。幼い子供は補陀寺の仕事を手伝い、何とか食い繫いでいるが、鶴五郎が捕まったらどうなるのか?綱吉は鶴五郎たちの兄貴分として、どうすれば良いのか思案した。その結果、綱吉は自分が自首するのが一等良い方法であると考えた。

「誰か一人と言っても、演説決起集会を開いたのは俺たち与太じゃあねえ。自由党の連中だ。鶴五郎たちを捕まえたのは、お門違いも甚だしいんじゃあねえのかい?」

「何を言うか。あの現場で、うちの藤田錠吉と町田鶴五郎の格闘を見たであろう。鶴五郎たちが、警察の邪魔をしたことは誰が何と言おうと明白である。誰か一人、自首すれば他の者は許してやる」

「分かった。じゃあ、俺が自首する」

「何でお前が?」

「牢にぶち込まれている連中には罪はねえ。子分の行動に気づかなかった俺の監督不行き届きだ。あいつらには家族がいる。俺が牢に入るから、あいつらを解放してくれ」

「そうか。分かった」

 吉川署長は、関綱吉の申し出を受け付け、町田鶴五郎らを解放した。替わって関綱吉が獄中の人となった。そして、関綱吉は、禁錮十年を言い渡された。四月三日、町田鶴五郎と神宮茂十郎は警察の汚いやり方に激怒した。罪人でも無い関綱吉兄貴が自分たちの身替りになって獄中にいるかと思うと我慢ならなかった。二人は夜になるのを待った。横川村に住む鬼刑事、藤田錠吉が帰宅したのを見計らい、藤田錠吉宅を襲った。錠吉の家に放火し、錠吉と斬り合いの格闘をした。二対一なので、錠吉に沢山、傷を負わせることが出来た。ところが、火事を見つけて近所の人たちが大騒ぎし始めたので、鶴五郎と茂十郎は裏藪に逃げ込んだ。二人とも錠吉同様、かなり負傷していた。

「大丈夫か、鶴ちゃん?」

「下っ腹を刺された。痛くてしょうがねえ。これじゃあ、捕まっちゃう。早く横川から逃げねえと・・・」

「そうだな」

「早く俺んちに行くべえ。あっ、いててて」

「鶴ちゃん、大丈夫か?」

「茂ちゃん。俺はもう駄目だ。先に一人で逃げてくれ。俺は動けねえ」

「何、言っているんだ。かかあの居る所に行くんだ」

 そう言い合っている時、追いかけて来た連中の声が聞こえて来た。茂十郎は慌てて鶴五郎を背負って立ち上がった。鶴五郎は必死になって茂十郎の首にしがみついた。茂十郎は走った。走って走って走った。やっとのことで新堀の鶴五郎の家に着いた。だが既にその時、鶴五郎は茂十郎の背中で死んでいた。逃走中に息絶えたのだった。鶴五郎の家の戸を叩き、家に入れてもらうと、鶴五郎の妻と娘が、鶴五郎の死体に取りすがって泣いた。鶴五郎の母親がオロオロしている茂十郎の頬を、思いきり、殴った。

「だから言った事じゃあねえ。お前さんも傷だらけじゃあないか。良く見せろ!」

「平気だよ。大丈夫だよ」

「大丈夫じゃ無いよ。手当してやるから、横になりな」

 茂十郎は上がり框に横になって、鶴五郎の母が傷の手当てをしてくれている間、しばらく目を閉じた。追っ手の足音が聞こえて来るような気がする。こうしてはいられない。茂十郎は鶴五郎の死体を鶴五郎の家に届けると、天神山を越え、新井組の親分、山田城之助のもとへ逃げようと思った。しかし、城之助の怒った顔が目に浮かび、城之助のところへ行くのを止めた。ふと高瀬に住む清水永三郎の優しい顔が目に浮かび、高瀬に向かった。ようやく高瀬に辿り着き、清水永三郎の屋敷の戸を敲いた。こんな夜遅くに誰かと、永三郎が蝋燭に火を点けて現れた。血相を変えている茂十郎を見て、永三郎は驚いた。

「どうした、茂十郎?」

「綱吉兄いの仇を取って来た」

「何だと!」

 永三郎が灯りを近づけ良く見ると、茂十郎は血だらけだった。その血に染まった顔で、茂十郎は唸るように言った。

「横川へ行って、藤田錠吉を半殺しにして来た」

「ええっ?それは本当か。お前、一人でか?」

「新堀の鶴五郎と一緒でした」

「鶴五郎はどうした?」

 永三郎が訊くと、茂十郎は震えながら答えた。

「錠吉にやられた。背負って逃げたが、高墓村で息を引き取った。遺体は何とか鶴五郎の家まで、送り届けた」

 主人、永三郎が誰かと話しているのを耳にして永三郎の妻が起きて来た。彼女は事情を直ぐに察知し、素早く動いた。彼女が差し出した水をガブ飲みすると、茂十郎は、傷口に手をやった。それを見て永三郎が心配した。

「傷は大丈夫か?」

「鶴五郎の家で手当てを受けた。鶴五郎のお袋にぶん殴られたが、少しも痛く無かった」

「何で相談もせずに藤田錠吉を襲った?」

 清水永三郎にとって、何故、茂十郎たちが、錠吉を襲ったのか分からなかった。その問いに茂十郎は答えた。

「鶴五郎も俺も、綱吉兄いが禁錮十年を喰らうなんて思っていなかったんだ。錠吉の野郎が、俺たちを捕まえたのが、そもそもの始まりだ。その俺たちの貰い下げに来てくれた綱吉兄いに、松井田の吉川署長が嘘をついたんだ。〈代表者一人が自首すれば、入牢者も親分も先生たちも、百姓も、皆んなが救われ、綱吉兄いの罪も軽くて済む〉と言ったもんだから、綱吉兄いは、俺たちを救う為に代表して、自首したんだ。ところが警察の連中の言う事は総て嘘っぱちで、綱吉兄いは十年もの間、牢屋にぶち込まれることになっちまったんだ。あの日、城之助親分が来て、無事解散となったのに、錠吉の奴が、俺たちを捕まえたものだから、綱吉兄いが禁錮十年を喰らうことになったのだと思うと、俺も鶴五郎も悔しくて悔しくて、錠吉を許せねえと思った。それで、錠吉の家に放火し、あいつを刺した」

「何という馬鹿なことをしてくれたのだ。お前たちの兄貴、関綱吉は、親分、山田城之助のことを思い、自首したのだ。梅久保の藤田錠吉が嘘を言った訳では無い。八城村での警察との乱闘は、まさに反逆罪だ。お前らの親分、山田城之助は勿論のこと、あの場にいた伊賀我何人先生をはじめとする我々自由党員は、皆、死刑にされても不思議で無い状況だったのじゃ。それを関綱吉が一人で罪を被ろうと買って出たのだ。自分の親分や子分、我々、自由党員を救うが為に・・」

「綱吉兄いが・・」

「それなのにお前たちは火に油を注ぐような事をしてくれた。お前たちは大馬鹿者だ」

 何時も優しい清水永三郎に怒鳴られ、茂十郎は愕然とした。

「申し訳御座いません。そうとは知らず、俺たちは何という馬鹿な事をしちまったんだ。清水先生。俺はどうしたら良いのです?」

「逃げるしか方法はあるまい。お前だけでは無い。我々、党員も危ない」

 清水永三郎は神宮茂十郎に大変な事をしてくれたものだと説教しながら、こんな博徒たちと一緒にいたら、自分自身も危ないと思った。茂十郎はまだ気が動転していた。

「何処へ、何処へ逃げたら良いのでしょう?」

「そう慌てるな。松井田の吉川署長も、部下を襲われ、気が動転していることであろう。先ずは晩飯を食べ、私の家で一泊してから考えれば良い。夜中にジタバタしたって、何にもならねえ。まずは酒でも飲もう」

「申し訳ありません」

 神宮茂十郎は、永三郎のことを勇気の有る大きな男であると感じた。永三郎の妻が用意した着物に着替え、晩飯をいただき、永三郎と酒を交わし、茂十郎は泣いた。何と優しい先生なのだろう。茂十郎が落ち着きを取り戻したのを見計らってから、永三郎は茂十郎に訊いた。

「それにしても茂十郎。お前は何故、儂の家に来た?城之助の所へ、何故、行かなかったのだ?」

「鶴五郎がやられちまったので、どうしても新堀に寄らなければならなかったんです。それに城之助親分と相談もしねえでやったことだから、清水先生の所しか来る所が無かったんです。勘弁しておくんなせえ」

「頼りにされるのも有難いことだが、困ったものだ。儂は県会議員だぞ。その儂の家で殺人犯を匿ったとなると大問題だ。今夜、儂の家に泊った事は誰にも言うな。そして明朝、暗いうちに逃亡することだ」

 茂十郎は頷いた。茂十郎は県会議員の永三郎が、自分の事を迷惑がっているが、致し方なく一泊させてくれる事を決めた気持ちが身に染みて分かった。有難かった。

「迷惑をかけて申し訳ありません。朝一番で失礼させていただきます。本当に申し訳ありません」

「なあに気にしなくて良いさ。儂はお前たちの味方だ。困っている連中を助けるのが、儂の役目だ」

「先生!」

 茂十郎はまた涙を流した。

「儂は明日、東京へ出発する。宮部先生に会う。茂十郎。お前は妙義山中に隠れ、当分、じっとしているんだな」

「はい」

 こうして逃亡者、神宮茂十郎は、県会議員、清水永三郎の屋敷に一泊し、翌朝、まだ明けやらぬうちに、永三郎と別れた。永三郎は東京へ、茂十郎は妙義山中へと向かった。茂十郎と鶴五郎に刺された藤田錠吉は、苦しんだ挙句、四月六日、吉川署長らに看取られながらこの世を去った。

          〇

 藤田錠吉殺害事件を吉川署長が中央に報告したことにより、群馬自由党員の取り締まりが一層、強化されることになった。この事件を由々しきことと判断した警視庁は、このまま放置しておいては政府への反抗が拡大するのではないかと判断し、具体的に群馬の逮捕予定者を列挙し、四月十五日、中堅自由党員を一斉逮捕することを決定した。四月十日、群馬各地の警察署に国事探偵が配置された。その知らせが山田城之助の耳に届いたのは前日、四月十四日、ぎりぎりのことであった。知らせは上原亀吉が持って来た。

「城之助先生。大変です」

「何が大変なのだ?そんなに蒼い顔をして」

「照山俊三は矢張り、政府の密偵でした。三浦先生の言う通りでした。照山は鬼石の自由党演説会で長沢先生の『学問一般について』の講演を行い、長沢先生や新井愧三郎らの演説と共に集会条令に違反すると、警察に逮捕されそうになりました。その照山を三浦先生が秘かに逃亡させ、秩父の村上泰治の家に連れて行きました。そして村上泰治の家で、照山俊三、村上泰治、中庭蘭渓、若林真十郎、三浦先生、それに俺の六人で酒を飲みました。その時、三浦先生は照山に誘導尋問をかけたのです」 

「桃之助のやりそうなことだ」

 城之助は笑った。だが亀吉は真剣だった。

「そうなのです。三浦先生は、鬼石で長沢先生や新井愧三郎、高津仲次郎がひどい目に遭遇しているであろうに、照山を煽てたんです。長沢先生の『地租軽減論』や照山先生の『学問一般について』の演説を褒め称え、中沢先生と照山が政府側に立ち、新政党を立ち上げれば、立派な政治家として中央で通用するに違いないと・・・」

 すると城之助は更に笑って言った。

「調子に乗った照山は、桃之助に乗せられて、尚も余分な事を喋ったというのだな」

「その通りです。照山は酒に酔って、宮部先生をはじめとする同志をののしりました。板垣退助の自由民権は薩長による維新政府に対抗しても、何の益も無いと。そして照山の友人である警視庁差回しの国事探偵によれば、群馬自由党決死派の逮捕は、四月十五日に決行されるのだとほのめかしました。だから秩父の自由党員諸君は、大隈重信に取り入って、うまくやっている渋沢栄一のように鞍替えすべきだと言い出したのです」

 亀吉の、その話を聞いて、流石の城之助も慌てた。

「四月十五日といえば明日ではないか!」

 まずい。余りにも早すぎる。用心していたことだが、藤田錠吉殺害事件が、思わぬ方向へ発展してしまったようだ。

「はい。逮捕決行日は明日です。更に照山は喋りました。群馬の主な逮捕予定者は、山崎重五郎、久野初太郎、深沢寛一郎、新井愧三郎、吉田文蔵、長沢八郎、清水永三郎だと・・・」

「吉田文蔵とは誰だろう?」

 城之助には吉田文蔵の名が気にかかった。亀吉も吉田文蔵の名前を聞いた時、もしやと思ったらしい。

「俺も聞いたことの無い名なので、もしや政造先生のことではないかと照山に、〈吉田文蔵とは何処の誰か〉と質問しました。すると照山は〈私も知らない人物だ。私の聞き違いかも知れない。下田文蔵だったか、吉田政蔵だったか、はっきり覚えていない〉と言うのです」

「まさか、政造の名が・・・」

 二人とも不安な顔をした。しかし政造は自由党員では無い。別人であろう。心配したところで、どうなるものでも無い。

「それで桃之助はどうした?」

「三浦先生は照山が国事探偵に加担していることを確認するや、中庭蘭渓と若林真十郎を家に帰し、俺と泰治の妻、おはんさんに照山の御酌をさせておいて、照山を殺そうかと泰治に持ち掛けました」

「それで桃之助は、照山を殺したのか?」

 亀吉は首を横に振った。

「いいえ。泰治は言いました。〈照山は俺と南関蔵、岩井丑五郎の三人でやるから、三浦先生は早く甘楽に戻って、仲間を逃亡させて下さい〉と・・」

「そうか」

「三浦先生は泰治の意見に納得すると、翌朝、俺と一緒に甘楽に戻ることにして、俺と富岡で別れました。三浦先生は自由党員に声かけした後、一之宮の光明院に寄って、仲間と逃亡すると言っていました。俺は三浦先生の命令に従い、安中経由で、ここに戻って参りました」

「ご苦労であった」

 城之助は、亀吉からの報告を聞いて、今は動かないで、じっとしていることだと思った。警察の動向を的確に把握し、臨機応変に対処するのが賢明であると考えた。亀吉は城之助から、何か指示があるかと思ったが、指示が無いので訊いた。

「城之助先生。これから同志に連絡したいと思いますが、どう致しゃしょうか?」

「連絡の必要はない。お前がちょこちょこ動けば、怪しまれる」

「でも清水永三郎先生や吉田政造先生に、このことを・・・」

「清水永三郎は江戸へ行ってしまった。吉田政造は自由党員じゃあ無い。俺は博徒。警察が来ようが、何しようが、俺たちは自由党とは全く無関係だ。何も慌てる必要は無い。誰にも知らせるな。亀吉。お前が逃げたいと思っているなら、信州依田の信五郎親分のところへ行け。光明院の安兵衛たちも、そっちへ逃げるだろうから・・・」

「でも・・」

「分からぬ奴じゃな。何をぐずぐずしている。早く行け!」

 城之助に言われ、亀吉は急いで自宅に戻ると、家族にことの次第を告げ、直ぐに村を出た。翌十五日、甘楽の小林安兵衛、三浦桃之助、神宮茂十郎ら十七名の自由党員は身の危険を感じ、下仁田から秩父に向かって逃亡した。ところが秩父に入ろうとする十八日、秩父の若き党員、村上泰治が、密偵、照山俊三を杉の木峠で殺害したとの情報が入り、警察が秩父に殺到しているということから、慌てて進路を変更した。一行は神流川沿いに白石から十石峠を越え、佐久へと逃れた。

          〇

 政府の密偵、照山俊三を杉の木峠で射殺した村上泰治は、秩父大宮郷に住む侠客、田代栄助宅に逃れた。田代栄助は今年の一月、上州の山田城之助が自由党と親密であると耳にし、泰治のもとに、入党を申し込んで来た侠客で、子分が二百人以上、三百人近くいた。村上泰治は群馬の自由党と任侠との繋がりが頭にあったので、即日、彼を自由党に加盟させていた。泰治が屋敷に転がり込んで来た時、田代栄助は、村上泰治が照山俊三を殺したことを既に知っていた。泰治が息も絶え絶えに言った。

「田代親分。俺を匿ってくれ。お願いです」

「泰治君。何という馬鹿なことをしてしまったんだ。兎に角、家に入んな。細かいことは中で聞こう」

 田代栄助は、直ぐに村上泰治を家の中に入れた。奥の六畳間に泰治を通し泰治を休ませた。泰治は部屋の柱に背をつけて、もたれかかっあまま、しばらく動かなかった。栄助は泰治の動悸が鎮まったのを見計らってから、泰治と向き合った。ちょっと呆れ顔で、泰治に説教じみたことを言った。

「泰治君。何故、仲間を殺したりしたんだ?あんたは秩父自由党の星だ。そのあんたが殺人を犯したとあっては、折角、集まった自由党員が離散し、自由党が崩壊してしまうと考え無かったのか。何故、儂に相談してくれなかった。相談してくれたら、儂が対処して上げていたのに、どんな理由があって、奴を殺した」

「照山俊三は警視庁からの密偵でした。そして彼らが我ら自由党員を一網打尽にしようと画策しているのを知り、殺したのです」

「理由は分かった。だが、あんたが捕まって、秩父に居なくなったら、秩父自由党は終わりだ。あんたの身替りに、儂の子分の誰かを自首させようか」

「そん事はならねえ。俺は逃げる。革命は近いのだ」

「革命だって?」

「そうだ。革命が起こるんだ」

「秩父自由党の中庭蘭渓先生が決起するというのか?」

 田代栄助は、ついに中庭蘭渓率いる秩父自由党が革命に踏み切る時が来たのだと思った。五十歳になった田代栄助は任侠として、格差、貧困に怒りに抱く民衆の為に、死に花を咲かせる時は今であると確信した。しかし、泰治の答えは違っていた。革命を考えているのは秩父自由党では無かった。

「そうではありません。革命を起こすのは甘楽自由党です」

「あの甘楽自由党が?そんなことは無いだろう。噂によれば光明院の日比遜をはじめとする彼ら一行は、秩父に来ずに、信州佐久に逃げたと聞いているが。敵に背を向けて逃亡している連中に、革命を起こせるような力が有る筈が無い」

「それが、あるのです。彼らは宮部襄先生を通じ、関東の自由党員組織に革命の為の決起を呼びかけているのです。清水永三郎先生が、宮部襄先生を通じて、所沢の斎藤与惣次、町田の石阪昌孝、伊勢原の山口佐七郎たちと既に密約を交わしています。それに甘楽自由党には、山田城之助という強い助っ人がいます」

 そう説明した村上泰治の目は先程、転がり込んで来た時の目と違って、希望に輝いていた。田代栄助は驚いた。

「あの新井組の上州城之助親分が決起に加わるというのか?」

「そうです。山田城之助は今、着々と革命の準備をしています。三浦桃之助が俺に話してくれた秘密中の秘密です。俺がこうなってしまった今、秩父自由党も、彼らと同時蜂起するより仕方ありません。そう若林真十郎に伝えてあります。革命が成功すれば、俺も救われるし、自由党の理想社会も実現します。俺が危険を犯して田代親分に会いに来たのは、この秩父蜂起の指揮者として、新井組の親分同様、田代親分に一肌、脱いでもらいからです」

「儂に革命の指揮を執れというのか?」

「そうです。指揮を執るのは田代親分しかおりません」

 村上泰治は、ことを成功させるには、噂に聞く、上州城之助同様、荒々しく強引である田代栄助が指揮を執るのが最適である思ってやって来たのだった。革命とは戦争なのだ。戦争するからには必ず勝たねばならない。勝つ為には決断力が必要である。その為には田代栄助のような迷いの無い男が最高なのだ。村上泰治に秩父自由党の指揮を頼まれた田代栄助は腕組みした。ふと若い時分、江戸の小栗家に向かう山田城之助と出会い、江戸に行って生活した時のことを思い浮かべた。今は互いに博徒の親分になっているが、あの頃は、別の夢があった。だが明治維新により、総てをひっくり返されてしまった。あの頃の薩長の勢いは只事では無かった。

「泰治君。君は秩父の麒麟児などと呼ばれて、自分の力を過信しているが、革命蜂起は、そう簡単なものでは無いぞ。革命は一命を捨てる覚悟が無ければ成就するものではない。博徒が子分や百姓を集めて指揮する俄か軍隊で、警官隊に勝てる筈が無い。上州や信州、甲州、相模の連中と余程、うまく連携しないと警官隊には、とても勝てないと思うが・・・」

「信州には松沢求策、菊地貫平、井出為吉らがいる。上州には小柏常次郎、清水永三郎らがいる。甲州には小田切謙明らがいる。相模には山口佐七郎ら沢山の仲間がいる。彼らと一緒になって蜂起すれば革命は必ず成功します。俺は今、追われている身なので、何も出来ませんが、田代親分、どうか中庭蘭渓先生や若林真十郎、加藤織平、高岸善吉、井上伝蔵らと協力し合って、是非、甘楽自由党との同時蜂起をお願いします。革命が成功すれば、総ての者が救われるのです」

 田代栄助は命を懸けて訴える村上泰治の熱意に動かされ、懐かしい山田城之助と一暴れしてみようかと思った。

「君の願いは分かった。この田代栄助、一肌脱ごう」

「有難う御座います。田代親分!」

 泰治はほっとした。栄助に同時蜂起を断られたらどうしようかと思案していた。しかし泰治の目に狂いは無かった。田代栄助は男の中の男であった。

「で、まず誰に会ったら良いのだ?」

「まず土塩村の上原亀吉を訪ねてから、山田城之助親分に会って下さい。会って、三浦桃之助先生と俺の約束を伝えて下さい。城之助親分は必ず、田代親分の申し出に賛成してくれる筈です」

「では早速、明日にでも、懐かしい山田城之助に会いに行こう。そして甘楽自由党と同時蜂起致す日時を決めよう」

 田代栄助は懐かしい山田城之助に一時も早く会いたいと思った。城之助はどのような男になっているのであろうか。

        〇

 四月二十五日、田代栄助は土塩村に行き、山田城之助に会った。二人はかって神田駿河台で小栗忠順の用心棒として働いていた時のことを回想し、談笑した後、本題に入った。

「ところで城之助。この度の自由党との蜂起の決意、秩父の村上泰治から聞いた。この田代栄助も、明治政府の経済政策の無能さに憤慨している。物価高騰、地租をはじめとする重税、国民の格差など、問題点ばかりだ。薩長の連中がやっている事は徳川幕府がやって来た事を、ちょっと変えただけではないか。否、それよりも、もっと悪い。豪農、豪商までもが苦しみ始めている。この貴族社会復活による身分の格差、貧困の怒りは今、大爆発の時を迎えている。この現状を村上泰治から聞いて、儂も城之助と一緒に蜂起することを決意し、詳細打ち合わせにやって来た」

 田代栄助の話を聞いて、城之助は驚いた。小栗忠順の江戸屋敷で一緒だった田代栄助が、味方をしてくれると言いにやって来るとは予想もしていなかったことであった。だが、果たして栄助を巻き込んで良いものだろうか。

「栄助。お前の話は有難てえが、早まっては困る。薩長政府に反旗を掲げるのは、この城之助一人で沢山だ。万が一、失敗した時のことを考えてくれ。お前たち、自由党の有能な人たちがいなくなったなら、これからの日本国はどうなるのか。死ぬのは博徒、上州城之助一人で沢山だ」

「いや。城之助、お前一人に任せる訳にはいかない。我ら自由党は今現在、自由を得るか、死滅するかのいずれかの境界線の上に立っている。この生きるか死ぬかの勝負に儂たちは負ける訳にはいかないのだ。勝負は一回勝負なのだ!」

 田代栄助は真剣だった。しかし城之助は田代栄助の熱情を、そのまま受け入れることは危険だと思った。

「しかし、そう簡単に革命が果たせるとは限らない。革命が失敗すれば反逆罪となる。もし、そうなった時、俺と子分だけであるなら、それは一博徒の暴動ということで、終わるであろうが、栄助たちを始めとする豪農たちが集まった反逆行為なら、それこそ国家の一大事。ただ事では済まされんぞ」

「そんな事は分かっている。儂は板垣退助先生の説く、議会政治を開設させ、自由党の活躍により、国民が自由平等になるなら、自分は死しても構わないと思っている。慶應義塾の福沢諭吉先生は〈天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず〉と言った。誠、人は自由平等であるべきである。現今の政治は平安時代の政治と何ら変わりが無い。人の上に天皇や貴族がいて、その下に儂ら百姓たちや商人たちがいるのだ。これから欧米の国々が更にアジアへの進出を強化しようとしている時、日本国は、このままで良いのか。薩長の誤った数人の意見で、日本国の方向が決定してしまうということが、あって良いのか。それは是が非でも食い止めなければならない。その為には国民の代表が集まり討議する議会が必要なのだ。国民全体の意見を訊いて、日本国の方向を決めるのが国家の本来の姿なのだ。儂たち自由党員は、そういった時代の到来を夢み、生きている。議会政治の行われない国家。その未来は真っ暗闇だ。儂ら自由党は、その暗黒から国民を救う為、生死を賭けて、同時蜂起するのだ!」

「しかし相手は富国強兵を目指す明治政府。武器を取り上げられた俺たちは、どう考えても旗色が悪い」

 栄助は城之助の敗色を予見している答えに焦燥を覚えた。期待してやって来たのに、城之助が臆病風を吹かせているように思えて、その怒りで自分の顔がカッカと赤くなるなが分かった。

「だから、儂ら秩父困民党は人を集め、竹槍や刀剣類をあちこちから秘かに調達している。その数は日に日に増えている。何ヶ月も経たぬうちに、きつと城之助が驚くような数になる。儂らは甘楽自由党に負けぬよう、毎日毎日、戦闘訓練をしている。自由招来の為なら、儂ら秩父困民党はどんな苦難にも耐える!」

 城之助は腕組みして言った。

「ところで、栄助。秩父困民党には鉄砲を持っているのかい?」

「あるにはあるが、十二丁しかない」

 田代栄助は城之助から鉄砲保有数の質問を受け、急に元気を失くした。痛い所を突かれたからである。

「十二丁。それは寂しいな。これからの闘争は、会津戦争の時と同じように、必ず鉄砲中心の戦さとなる。政府軍に勝つ為には、もっと沢山の鉄砲が要る。その対策について何か考えているか?」

「実は、そのこともあり、お前に相談に来たんだ。噂によれば、この近くに鉄砲刀剣類を造る鍛冶職人の村があったとか。それが安中藩亡き今、その技術者たちは近隣に四散し、百姓になっているとか。儂は、その技術者たちを秩父の山中に集め、鉄砲を造らせようと思うのだが、如何だろう?」

 栄助は考えていたことを恐る恐る話した。すると城之助の鋭い目が光った。城之助の怖さを知っている栄助は、ゾッとした。

「確かにこの土塩村には安中藩主、板倉勝昭公所有の鍛冶屋村があった。しかし、そこにいた者は皆、江戸に行ったり、百姓になったりで、鉄砲造りを依頼しようとしても、依頼しようが無え。だが、栄助。安心しろ。こんなこともあろうかと、俺が準備しておいた鉄砲が沢山ある。そのうちの三百丁を栄助にやろう。勿論、無償でだ」

「鉄砲三百丁を無償で?」

「勿論!否、日本国に自由民権社会を実現させるという約束でだ」

「城之助。それは真実か?」

 栄助は城之助の話を聞いて、びっくりした。城之助は頷いた。そして栄助の両の手をしっかりと掴むと、更に強く握り締めた。

「真実だ。俺と同じ境涯に生きる男として、お前を信じ、鉄砲三百丁を譲ってやる。また軍資金も出そう」

「軍資金まで?どういうことだ。城之助。お前はどうやって鉄砲や軍資金を集めたのだ?」

「不思議と思われるかも知れんが、簡単なことさ。何故、城之助が、こんなに大量の武器や大金を持っているのか?種を明かせば何のことは無い。この城之助が人から掠め取った物だ」

「掠め取っただと?誰からだ?」

 真剣な顔をして聞き出そうとする栄助を見て、城之助は笑った。

「小栗先生からだ。掠め取ったというより、譲り受けたと言った方が、良いのかも知れない。栄助も御存知の通り、小栗先生は最後に残された徳川の英傑であった。フランスと手を組み、薩長に対抗しようとした。最後の最後まで、徳川幕府のことを考え、幕府政権を守ろうと、幕府に溺れた男であった。彼は将軍、徳川慶喜に罷免されても尚、幕府を愛した。幕府の為に大量の武器を集め。想像出来ないような軍資金を用意した。そしてそれらを妙義山中に埋蔵しようと考え、安中藩の侍大将、半田富七を説得し、新井信五郎を使い、それを実行に移した。俺はその用心棒として雇われた。新井信五郎の集めた人足たちは、俺をただの用心棒と思っていた。ところが信五郎親分と俺の役目は、武器や軍資金の運搬埋蔵に関わる守備役だけでは無かった」

「まさか・・・」

 田代栄助の顔色が変わった。栄助は聞いてはならぬことを聞いてしまった恐ろしさに、ゾッとした。

「その通り。俺と信五郎親分と亀吉は、武器や軍資金を埋蔵し終えた人足たちを皆殺しにする殺し屋だったのさ。俺と信五郎親分と亀吉は妙義山中の風穴に武器や軍資金を格納し終えたばかりの人足たちを、約束通り、皆殺しにした。彼らは俺たちより、仕事の総依頼人、小栗先生を恨んで死んで行った。小栗先生にそのことを話すと、小栗先生は大いに嘆かれ、〈これも大義の為だ〉と、しみじみ呟かれた。小栗先生はそれから、こう言った。〈これらの武器や軍資金は、徳川幕府が崩壊し、日本国が外国の植民地になった時、国民が総動員して、国民の自由を求めて決起する時、必要な物だ。大政奉還によって、王政復古したことを憎んで、徳川武士復活の為に使うものでは無い。日本国民の自由の為に使う物だ〉と。小栗先生は徳川幕府に忠実であったが、結局は自分を排斥した徳川幕府を捨て、新しい日本国を夢見たのだ。小栗先生の亡き今、これらの武器、軍資金の在処を知っているのは信五郎親分と俺と亀吉だけだ」

「それで、その一部を儂の率いる秩父困民党の為に譲ってくれるというのか」

「左様。小栗先生の言う通り、日本国は外国の植民地にならなかったが、国民は身分格差の無い、自由を求めている。俺はこの時にこそ、小栗先生の遺志を継いで、これらの物を国民解放の為に活用すべきでなないかと考えている。また活用すべきだと、ある人物から教えられた」

「ある人物って誰のことか?」

 城之助は自分の失言に戸惑った。栄助の問いに対して答えるべきか躊躇した。だが思い切って告白した。

「それは岩井学校で俺と同門であった吉田重吉という男の息子、吉田政造だ。栄助もこの機会に、吉田政造と会ってみるが良い。若いが、中々の思想家だ。彼に会って、これからの日本国の在り方への関心をより深くするに違いない。吉田政造。彼は、これから日本国の政界に浮上する男かも知れない」

「上州には斎藤壬生雄や真下珂十郎以外に、そんな人物がいるのか?」

「彼は今、この上州に新政府を築こうとしている。そして彼の夢の為に、この城之助は、巨万の資金と大量の武器弾薬と自分や子分たちの命を惜しげも無く捧げようとしている」

 城之助の告白を聞いて、栄助は感動した。今、日本国中に自由民権の嵐が吹き荒れている。若い秩父の麒麟児、村上泰治が自分に言った通り、自分が城之助と立つのは今かも知れない。

「城之助。良くぞ真実を語ってくれた。この田代栄助、自由民権社会、新政府樹立の為に是非、協力させてくれ。城之助決起の時は秩父困民党を総動員して駈けつける」

 栄助の思わぬ言葉に城之助は心打たれた。涙が出そうになって、畳に平伏してから、栄助を見上げて言った。

「先程、反旗を掲げるのは俺一人で沢山だと言ったが、栄助が同じ思いであるなら、逆に城之助から同時蜂起の協力をお願いする。そして群馬自由党と共に立って欲しい」

「うん。立とう。必要あらば武州のみならず、相模の連中にも助っ人を頼もう」

「そうしてくれ。城之助、心よりお願いする。吉田政造も喜ぶであろう。明日、政造に会わせてやる」

 栄助は懐かしい城之助に会いに来て良かった思った。村上泰治の言葉は本当であった。城之助は、それから巴菜に酒の支度をさせ、栄助と深夜まで飲んだ。かって武州胄山村の根岸友山先生の屋敷で初めて出会った時から、小栗忠順先生の江戸屋敷で、再会した時の思い出など話すことは沢山あった。

          〇

 翌朝、田代栄助は山田城之助に連れられ、土塩村の隣の新井村の吉田政造の屋敷を訪ねた。政造の屋敷は背後に杉山があり、屋敷の東側に谷川の流れのある旧家であった。長い石段を登って行くと、長屋門前で、政造が出迎えてくれた。

「お早う。お待ちしてました」

「お早うさん」

「お早う御座います」

 互いに朝の挨拶をしたところで、城之助が政造に言った。

「この男が、前から話していた田代栄助だ。俺と同じ稼業で、死に花を咲かせたいと言っている。俺はこれから松井田の仕事場に行くんで、彼に日本国の将来について話してやってくれ」

「そうですか。城之助さんは仕事場に行くんですか。分かりました」

 政造との立ち話が終わると、城之助は直ぐに立ち去って行った。その城之助を見送ってから二人は家に入り、客間で政造の妻、安喜が淹れてくれた茶を飲みながら話した。

「城之助さんが、どの程度まで、お話したかは分かりませんが、城之助さんが、信頼出来る友と言われた田代さんにお会い出来て、吉田政造、とても嬉しいです」

「この儂も、城之助が若き指導者として仰がれる吉田先生にお会い出来て光栄です。上州碓氷にやって来た甲斐がありました」

「会談が終わらぬうちに、やって来た甲斐があったとは、また早計な」

「吉田先生の目を見れば分かります。博徒は、その目の輝きで相手を見分けることが出来るのです」

「城之助さんのようなことを仰られますな」

 政造は無邪気な顔をして笑った。栄助は若い、このもの柔らかな政造の何処に、荒くれ男を統率する城之助のような人間を牽引魅了する力があるのだろうかと思った。栄助は質問した。

「ところで吉田先生。先生は新政府の立ち上げを何時頃と考えておられるのですか?」

「それは分かりません。ことはそう簡単に進められるものではありません。国民の多くが同じ心を持って行動してこそ、初めて新政府樹立が実現可能となるのです。田代さんは小栗先生のお知り合いだったと城之助さんから伺っていますが・・・」

「はい。江戸幕府の勘定奉行だった小栗上野介先生のことですよね。知っていますよ。その昔、城之助と下っ働きしたことがあります。将軍様から叱責罷免され、江戸から退散し、この地で官軍に捕まり、斬首され、お気の毒な最期であったとか・・・」

 栄助の脳裏に江戸での思い出が浮かんだ。政造は、その亡くなった小栗忠順のことを口にした。

「私は、少年時代、その小栗先生に権田村東善寺にて教育を受けたものです。先生は何時も世界を見ていました。国王のいないアメリカやフランスの繁栄、ロシアでの王権否定思想の湧き起りに興味を示されておられました。薩摩や長州の連中以上に世界の中の日本国の立場を理解していました。しかし、裏切り者、勝海舟の為に、徳川政府を転覆させられてしまいました。それでも小栗先生は夢を失わなかった。国民が選んだ人物を国家元首とした新政府を、この上州に構築するのだと、私たち少年や青年たちに講義されました」

「小栗先生も若かったのですね。情熱が、まだまだいっぱい・・・」

 政造は頷いた。栄助の言葉に身を震わせた。小栗忠順を回想しているに違いなかった。と、突然、政造は急に立ち上がった。さながら演檀に立った講師のように立って喋った。

「小栗先生は四十二歳だった。まだまだ情熱を失う先生では無かった。勝海舟が差し向けた鬼金、鬼定を首領とする二千の暴徒を前にして、先生はびくともしなかった。江戸から運んで来ていたフランス式大砲で、暴徒を粉砕し、城之助さんの率いる新井組の連中を使い、あっという間に、鬼金、鬼定を斬殺してしまった」

「城之助は、帰郷しても、小栗先生のお守り役だったのですか?」

「いや違います。岩井学校から小栗先生の講義を聞きに行っていた私たちの年上の仲間と言うべきでしよう。しかし、その時から、城之助さんは小栗先生の用心棒気分になったみたいです」

「その用心棒がいながら、何故、小栗先生は捕えられ、殺されてしまったのです」

 立って池を見やっていた政造が振り返って答えた。

「東山道総督、岩倉具定より、高崎、安中、吉井の三藩に小栗先生追補の命令が下ったのです。危険を知った小栗先生は先生の御母堂及び奥様や子供たちを脱出させる為、城之助さんに、その護衛を頼んだのです。そして城之助さんが中島三左衛門らと先生の御家族を逃亡させようとして出かけている間に、小栗先生は捕えられ、処刑されてしまったのです」

「そうでしたか」

 栄助は話を聞いて溜息をついた。怒りに高鳴る城之助や政造の気持ちが胸に響いて来た。政造は、その時の城之助の悔しがりようを語った。

「城之助さんは小栗先生が処刑されたことを知って悔しがった。私から、その話を聞くと、あの裏山に駈け上って行って、竹藪の竹を刀で斬り飛ばした。斬って斬って斬りまくった。城之助さんが先生の名を呼べど叫べど、先生はもう戻って来ない。城之助さんと私は約束した。小栗先生の夢を叶えよう。この上州に新政府を構築しようと・・・」

「小栗先生は上州の何処に新政府を設置する計画でいたんですか?」

 田代栄助の問いに政造は直ぐに答えなかった。しばらく考え、再び座り込み、お茶を一服、飲んでから答えた。

「沼田です。小栗先生、健在当時、沼田は会津と越後に接する上州の重要地点に位置しており、日本列島の臍とも言われ、薩長勢力に対抗する新政府を設置するのに最適の地だったのです。会津藩、仙台藩らを中心とする奥州列藩同盟軍は勿論のこと、河井継之助が実権を握る長岡藩らを背にした沼田こそ、小栗先生が夢に見た新政府の設置場所として最適地だったのです」

「吉田先生が新政府を設置するとなると、何処になるのでしょうか?」

「高崎です。高崎に新政府を設けます。内村宣之先生をはじめ、斎藤壬生雄、深井寛八、伊賀我何人、清水永三郎ら『有信社』の連中とも、高崎にしようと話し合っています」

「何故、高崎なのです?」

「それは安政の横浜開港以来、上州の座繰生糸が日本国の重要輸出商品になっており、官営富岡製糸場などが出来、今や高崎周辺が外貨獲得の源泉となっているからです。新政府を確固たるものにするには、兎に角、金が要ります。第二に、日本近代化の先駆けとなる鉄道が上野から高崎まで開通する目途が立ったことです。これを利用し、高崎を日本国の首都にして、四方八方に鉄道を敷設し、国の中心にするのです。第三は廃城とされた高崎城を国民の為の政治を行う国会議事堂として活用出来るからです」

「話をお聞きすればする程、羨ましい限りです。小栗先生の遺志を継いで事を起こす時は、この田代栄助に一言、お伝え下さい。城之助と共に子分衆を集結させ、全面的に加勢致します。そして必ずや上州の皆さんの夢を実現させてみせます」

「有難う御座います。城之助さんから聞いていると思いますが、その日は、もう近いです。準備を即刻、開始しておいて下さい。事を起こす時は、真っ先にお知らせしますので、よろしく、よろしく、お願いします」

 政造は、そう言って、何度も何度も、頭を下げた。田代栄助は城之助の紹介とはいえ、初対面の吉田政造と、こんなにも打ち解けて話せるとは思っていなかった。栄助はこういった日本国を思う若い連中の未来の為なら、死んでも良いと思った。この気持ちを一時も早く、村上泰治に知らせたかった。栄助は政造に再会を約束すると、その日の午後、秩父へ向かった。

          〇

 田代栄助が帰った後、吉田政造は、親友、岩井喜四郎の塩沢の自宅に呼ばれた。病身の喜四郎が怒っているらしい。政造は、喜四郎が何を考えているのか予想出来た。政造は、今日は一歩も退けぬと心に決めた。応接間に通され待っていると、青白い顔をした喜四郎が現れて、まず言った。

「久しぶりだな、政造。お前に文句を言いたくないが、お前の行動は薄々、感ずかれている。山田城之助のような男と何故、付き合っている。彼らと付き合うのは止めろ」

「何故、城之助親分と付き合ってはいけないのだ」

「だって、そうではないか。政造。良く聞け。お前が今日、在るのは誰のお陰と思うか?」

「死に往きし御先祖様のお陰だと思っている」

「左様。ならば、そのお前の御先祖様は誰と心得る?」

「藤原鎌足を始祖とする藤原北家の人々です」

「それら藤原家の血を引く吉田家の人々がして来たことは何であるか?」

 喜四郎が何時も使う誘導尋問である。政造は素直に乗ってやろうと思った。

「吉田家は別にして御先祖、藤原家の人たちは、天皇家と共に日本国を繁栄させ、多くの苦難から国民を救い、守って来たと思うが・・・」

「それに較べ、現在、お前が考えていることは何か。新島襄や柏木義円に感化され、欧米型の政治改革を考えているのではあるまいな。やっと戻って来た天皇制を崩壊させ、大統領制を施行しようとしているのではあるまいな?」

「それは悪いことか?」

「それは天皇家を中心とする日本国を破滅しようとしている悪い事だ」

「日本国を破滅しようとしているだと。それはあんまりだ。日本国民の恒久平和を念願し、貴族たちだけの為で無い、国民による国民の為の政治を夢想する若者たちの萌芽を、そのような偏見で理解しては、可哀想すぎる」

 そう反論して喜四郎を睨みつける政造の鋭い視線は、何時ものものでは無かった。喜四郎は政造の決意が固いのを知った。しかし、やっと走り出した明治政府に対する親友の暴走は何としても阻止せねばならぬと思った。

「政造。お前が一揆暴動を起こしてみい。困るのは誰か。やっと殺し合いが治まって平静を取り戻して明るく暮らす国民や天皇が困るのだ。一揆の為に費やされる資財と失われる労働力や時間は、そのまま国家の損失となるのだ。もしお前が天皇家と共に日本国を繁栄させた藤原氏の流れに生まれ育った者であるなら、些事に関与せず、天皇家の事、国家全体の事を第一に考えよ。一揆などとんでもない事だぞ」

「喜四郎。お前は小栗先生の『理想国家論』を忘れたのか。今、自分たちの周囲にいる農民たちが、どんなに苦しんでいるか分からないのか。彼らは食う物も口に出来ず、飢えに飢えて、今にも死にそうな状況にある。働いても働いても借金が嵩むばかりで、中には夜逃げしたり、首をくくった者さえいるんだ。それをお前は戸長であり、教師でありながら、見て見ぬ振りをするというのか」

「かかることは天明の飢饉の時に比較すれば、爪の垢ほどのこと。何時の世でも、人の一人や二人は同じようにして死んでいるのさ。この私だって苦しい」

 喜四郎は、政造の激しく燃え上がる気持ちを冷たく突き放すような言い方をした。しかし政造は、引き下がらず、喜四郎に喰いついた。

「喜四郎。もしお前が、そのような境遇に置かれたらどうするのだ。人、一人の命は尊いものだ。人間は一人では生きて行けない。国家はその一人一人の個人の総体の上に形成されているものだ。国民が滅失して行く国。最早、そんな国は国家と呼ぶに値しない。喜四郎。私はお前に反対されようと、自由民権を叫ぶ農民たちの為に協力する。このまま黙って薩長政府の悪政に耐え続けることは、私には出来ない」

 喜四郎は、もう救いようが無いと思った。こうなったら、政造との関係を薄くし、政造の自由にさせるしか無い。

「ならば、申し訳ないが、お前には岩井学校の教壇から降りてもらう。岩井学校に国賊として迷惑を掛けられては困る。お前はお前自身の道を行け。明日から勝手気ままに自由とかいうやつを弁説して、あちこち回るが良い」

「そうか、分かったよ。明日からは教壇を離れ、弁説だけで無く、武器も準備して回らないとな。正義と言う名の腕ずくをもって自由民権を実現させ、議会政治の開設は勿論のこと、新政府を、この上州に築く。風光明媚、山紫水明のこの上州こそ、日本国の中心であり、まほろばである」

「気が狂ったか?政造!」

 喜四郎は政造が本気なのを知り、恐ろしくなった。政造は自分とこれまで、竹馬の友として学問を共にして来た喜四郎に、自分の思いの総てを告白するのは今であると、自分の考えを明確に喋った。

「気など狂っていない。お前だから話しておこう。これが政造の行く道なのだ。幸い五月一日、高崎で高崎線の開通式が行われる。そこに天皇陛下をはじめとする諸大臣が臨席するという。私はこの機会を狙い、そこを急進派国民と共に襲撃し、新しい時代の到来を実現させる。日本国に貴族を中心とする天皇制など必要ない。日本国は日本国を愛する日本国民の日本国であり、国民から選ばれた者が国家元首となるべきなのだ」

「何を言っているのだ。日本国に天皇無くして、日本を統合出来ると思っているのか。日本国の過去二千年の歴史を見てみい。どの時代に天皇が不要であったというのか。どの時代においても、天皇は必要であったではないか。確かに政権の表面に現れなかった時代もある。そのような時代でも、実権者は他国に対する最終決断は、天皇に相談し、天皇の承認をいただいて来たではないか。議会政治などと言っても、結局は天皇の承認を必要とするのだ」

「その通りになっているだろうか。喜四郎。お前は五か条の御誓文を覚えているか?」

「覚えているとも」

「その初めから、御誓文は日本国民に嘘をついている。〈広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スベシ〉と誓いながら、それを実行していない。日本国の代表者が約束を破っている。日本国民全員を愚弄している。もし愚弄していないなら、直ちに議会政治を実行すべきである。しかし、天皇も、天皇をとりまく貴族たちも、議会政治を実行しようとしていない。国民が要求しても議会を開こうとしない。それは専制国家そのものである。私たちは、自由党員と共にかかる薩長政府の古き王朝政治に対し憤然と反旗を掲げる」

 政造は自分の発する言葉に酔っていた。余りにも激しすぎる。青白かった喜四郎の顔が紅潮した。

「止めろ、政造。その早合点がいけないのだ。明治政府の欠点は天皇一人の責任では無い。天皇をとりまく成り上がり者たちの政策が間違っているのだ。政造。今こそお前の言論の手腕を振るう時ではないか。かの藤原家の流れを引く吉田政造が、真の政治的手腕を発揮し、国政に関与し、政造らしい働きを成すのは、天皇制を悠久不動のものにすることだ。その為には、革命などという愚かな暴力沙汰を起こしてはならない。正に堂々たる言論をして、政治を正すべきだ。喜四郎が、お前を呼んで伝えたかったのはこのことだ」

 そう言って決起を止めさせようと、説得する喜四郎の気持ちが政造には良く分かった。政造は喜四郎の前に平伏し、涙を流して言った。

「許してくれ。喜四郎。お前は、私のことなど心配せず、身体に養生してくれ。私は私の道を行く」

「私はもうこれ以上、お前に忠告はせん。お前の人生だ。お前の勝手にするが良い。今日からお前は、岩井学校の教師でもなければ、私の親友でもない。残念だが、お別れだ」

「有難う、喜四郎。私もこれですっきりした。さらばじゃ」

 政造は立ち上がった。涙を堪え、岩井喜四郎の塩沢の家を跳び出した。通いなれた道だった。親友との間柄とはこんな脆いものなのか・・・。

         〇

 山田城之助が諏訪神社で由紀に会ったのは雨の日だった。境内の脇には黄色い山吹の花が咲き初めていた。

「城之助様。兄上の話ですと、一揆を起こされるとか?それは本当の事ですか?」

 何故、武井家に嫁いでいる由紀に、そんな質問を受けなければならないのか?由紀の兄、岩井喜四郎が、吉田政造との密約に気づき、城之助の暴走を止めさせようと、妹を差し向けたに違い無かった。

「この城之助が一揆を?一体、どんな一揆を起こすというのです?」

「新政府を、この上州に持って来ようというお考えとか」

 由紀は、兄、喜四郎から聞いて、何もかも知っているという顔付きだった。城之助は空っとぼけた。

「新政府だって。この無頼の男、城之助が新政府などと滅相も無い。この城之助に、新政府を構想するような脳力があると、由紀さんはお思いなのか?」

「兄上は仰有られました。〈城之助親分には人を先導して行く不思議な力がある。また岩井学校門下生だけあって、知らない素振りをしているが、どうしてどうして、学識も高く、青天の霹靂を起こすかも知れない〉と・・・」

「もし、岩井先生の仰有られる一揆計画が事実、起こり得るしても、岩井先生は、この城之助が立つという噂を、何処から耳にしたのだろうか?」

 城之助が質問すると、由紀は蛇の目傘をくるりと回し、娘のような微笑を見せて言った。

「岩井学校には沢山の生徒がおります。ちょっとした噂でも耳に入ります。その一揆に吉田政造先生も加わろうとしているとか?」

「吉田政造が?」

「はい。兄上は昨日、私の実家の奥の間で吉田先生を説教しておられました。でも意見が合わず、吉田先生は破門され、跳び出して行きました。今日から吉田先生は学校に出ないとのことです。兄上は惜しい男を失ったと嘆いておられました」

「吉田政造が破門された・・」

 城之助は驚いた。予想していた事であるが、事が現実になってみると大変な事であった。城之助の曇った顔を見て、由紀はちょっと溜息をついて言った。

「名門、岩井学校から国賊が出たとあっては、塾名を汚されます。その前に危険分子を破門しようという、兄上の考えで、破門しのでしょう」

「それで、政造は、納得されたのですか?」

「納得するもしないも無いでしょう。破門されたのですから」

「気の毒なことだ。それで政造はどうしているんだろう」

 城之助は岩井学校を破門された政造のことが気になった。由紀に訊ねるのもおかしな話だが、つい質問してしまった。

「気になるのですか。やはり城之助様は、吉田先生と同じ仲間なのですね」

「俺は博徒だ。政造と同じ仲間である筈が無い。だが彼の父親、吉田重吉は俺の親友だ。俺にしたら、政造は息子のように可愛い。彼は自由を求める情熱に燃えて、激しく生きたいと言っている。俺はその情熱に感動し、政造の夢の応援の為なら、死んでも良いと思っている」

「城之助様。貴男はそんなに吉田先生のことを信頼しているのですか?」

 由紀は城之助の発言にびっくりした。信じられ無かった。あの煮え切らない気狂い教師の為に、かって愛した山田城之助が、死んでも良いなどと発言するとは愚かなことを。城之助は境内の片隅の祭り舞台に入り、降り込む雨に顔を濡らしながら尚も喋った。

「俺は政造を信頼している。政造は世界を見ている。俺たちのような狭い範囲で無く、世界全体の動向を見ている。その上で、日本国は、かくあるべきだと構想を練っている。政造の描く自由主義社会。それは夢で無く、実現可能な世界だと思う」

「しかし城之助様。その自由世界とやらに陶酔して天皇中心政府に反抗することは、貴男にとって、とても危険なことです。貴男自身、本当に命を失うことになります」

「命を失っても良い。貴方たち日本国民が平等になり、平和を享受することが出来る世が来るなら。城之助は自分個人のことは考えていない。沢山の人を殺して来た罪滅ぼしとして、万民の為に生きたい。万民の為に死にたい」

「貴男を死なせたくない、貴男を愛しく思っている人がいてもですか?」

 由紀は泣きそうな顔をして訴えた。城之助の暴走を止めるよう、兄、喜四郎に言われて来たに違いなかった。

「そんな人がいる筈が無い。城之助の肉体は沢山の流血の汚毒に染まり、今や死臭が漂っている。そんな男を誰が愛しく思ってくれるというのか」

 由紀は真剣だった。

「貴男は何と阿呆なの。父、岩井重遠の門弟で、若き三羽烏と唱われていたのをお忘れになったのでしょうか。吉田重吉、岩井延次郎、山田城之助。この三名は、少なくとも塾内では、これから期待出来る学者として、噂にのぼった男であった筈。その三人のうちの一人の貴男が、剣術にも秀で、若い時、江戸に行き、小栗上野介様と知り合い、その後、勘定奉行になった小栗上野介様の用心棒に召し抱えられたのが、そもそもの誤り。私は口惜しい。貴男が学問を捨て、武術に走り、沢山の人を殺め、博徒の頭に成り下がってしまったことが、とても残念でなりません」

「それが俺の宿命だったのだ。知っての通り、俺は博徒、国定忠治の子分、山田勇吉の倅。いずれは博徒になる宿命だったのさ」

「そんな筈はありません。私は貴男が兄たちと共に学問の道に戻ると信じておりました。しかし、今の貴男は学問を捨て、政治に走り、ただ捨て鉢になり、死ぬことばかりを考えておられる。それはなりません」

 由紀は泣いていた。城之助には、かって愛し合った由紀の気持ちが分からぬ訳では無かった。この女は賢い女だ。素晴らしい女だ。だが由紀は人妻となり、自分とは生きる世界が違う。

「由紀さん。申し訳ない。城之助の過去の総ては貴男の言う通り、間違っていたようだ。しかし、今、城之助が進もうとしている道は、城之助自ら納得し選んだ道なのだ。俺の信念を止めないでくれ。勝手を言わせてもらえば、俺が死んでから、俺の墓に線香の一本くらい挿してまらえれば有難い」

「城之助様。何と寂しいことを。今からでも遅くはありません。昔の城之助様に戻って下さい」

「もう矢は放たれた。私はもう引き返すことは出来ない。目的に向かって只一途、邁進するのみだ。私は今、平安貴族政治をあやかる強力な薩長支配体制をくつがえそうとしている若者たちが、自由を求めて決起するのを待っている。彼らは城之助の加勢を切望している。もし彼らが決起した時、この城之助が呼応しなかったなら、城之助はこの世に存在する理由も価値も無かったことになるのだ。城之助は決起する。そして万民を救う」

 城之助は義賊風を吹かせ、明治政府を真向から否定し、転覆させる情熱に燃えていた。由紀は、これ以上説得しても駄目だと気付くと溜息をつき、諏訪神社から傘を斜めにさして帰って行った。これが城之助と由紀との最後の別れとなった。

         〇

 四月も終わりの日、山田城之助は上原亀吉に指示し、秩父の田代栄助に鉄砲三百丁を藤岡で渡し、高崎鎮台を襲う準備に身を固め、子分衆を引き連れ、少林山に隠れ、時を待った。そこへ亀吉が駆けて来た。

「どうした亀吉。血相を変えて?」

 城之助の言葉に駆けて来た亀吉は陣屋の庭にしゃがみ込んだ。息も絶え絶えに、亀吉が何か言おうとしていた。

「六助。亀吉に水をやれ」

「へい」

 六助は直ぐに水を用意した。六助から水を受け取り飲み干すと、亀吉が報告した。

「城之助先生。明日の鉄道開通式が、五日に延期されたとのことでやんす」

「何だと。それは本当か」

 亀吉の報告を受け、城之助は驚いた。城之助は、こんなこともあろうかと、吉田政造の指示に従い、亀吉を富岡の小金八郎の所へ走らせていたのだ。それにしても、明日の国家行事が突然、変更されるとは。政造は、その可能性を読んでいたのか?

「はい。先生の命令を受け、富岡の小金八郎を経由して、小島署長に確認したところ、五日に延期されたとの情報でやんした」

「このことを安兵衛や桃之助は知っているのか?」

「知らないと思いやす」

「ならば直ぐに本庄に向かえ。新井泰十郎、塚本治平治、白石杢太郎を先導につけるので、明朝までに、必ず安兵衛に、このことを伝えよ」

 城之助の隣りにいた深井寛八も、亀吉が持って来た知らせを受け、心を取り乱した。

「血気盛んな安兵衛のことだ。早合点して本庄警察や、本庄駅を襲撃してしまうかも知れん。ことが露見すれば、我々の計画は水の泡となる。そして二度と革命を起こせなくなってしまう。我々が今まで苦労して計画して来たことの総てが、全くの無意味となってしまう。そうなってしまったら、我々が願う日本国民に自由を招来する夢は消えてしまう」

「深井先生の言う通りだ。安兵衛たちに先行されてはまずい。亀吉。お前には申し訳ないが、本庄へ突っ走ってくれ」

「承知しました。決起日変更について、これから馬を走らせ、明朝までに本庄組に知らせます。それから先の指示については、如何、致しやしょう?」

 亀吉は城之助と深井寛八の指示を待った。ところが深井寛八は何も答えなかった。こういった時、学者や教師は何も答えを出さないものだ。城之助は自分が指示すべきだと思った。

「今、先のことについては詳細が分からず、判断出来ぬ。ただじっと我慢して、城之助から指示があるまで、八幡山に隠れているよう伝えよ」

 と言われても、本庄組がその指示に従ってくれるか、亀吉は不安だった。

「もし彼らが解散すると言ったら、どう致しやしょう?」

「警察や官憲の警戒が厳重であることを伝えよ。下手な挙動を行い怪しまれれば、直ぐに逮捕される。兎に角、八幡山で、じっとしているよう伝えよ。万一、逮捕された時には、計画について口を割るなと言え。拷問を受け、口を割りそうになったら、自ら舌を噛んで死ねと城之助が言っていたと伝えよ。我々の計画する薩長政府転覆の為の武力革命は、何が何でも成功させねばならぬ」

 その指示を受けると上原亀吉は起立し、新井、塚本、白石の三名に〈行くぞ!〉と目で合図し、深井寛八と城之助に出発を告げた。

「上原亀吉、本庄へ向かいます!」

「頼んだぞ、亀吉!」

「はい」

 上原亀吉は三人の仲間を引き連れ、山を下ると、柳瀬にある新井組の馬小屋から馬を引き出し、それに跨ると勇ましく月夜の中を本庄へと向かった。

         〇

 翌日、夜明け前、上原亀吉たちは児玉郡蛭川村の上野文平宅を訪ね、文平の案内で、八幡山の本庄組の隠れ家に行った。本庄組は今日の戦さに備え、大隊長、小林安兵衛以下、全員が武装していた。上原亀吉が鉄道開通式が延期になったことを伝えると、本庄組の連中は動揺した。亀吉が高崎組からの指示があるまで、八幡山に潜んでいるように深井寛八大隊長から言いつかって来たと説明すると、本庄組は直ちに臨時会議を開催した。亀吉たちも、その会議に臨席した。副隊長の三浦桃之助が、亀吉に質問した。

「亀吉さん。鉄道開通式が延期になったというが、何時に延期になったのか分かっているのですか?」

「富岡の小島署長から五月五日に延期されたと、小島署長と親しい者が聞いたという話です。しかし高崎組の隊長、深井寛八先生によれば、その五日も疑わしいということです」

 亀吉の言葉に本庄組の大隊長、小林安兵衛は腕組みして、目を瞑り、呟くように言った。

「深井先生の言うように、政府は用心に用心を重ねている。この分だと、不穏な状況が払拭され、周辺の農民たちが鎮まり、世情が安定する時まで、政府は鉄道開通式を延期するだろうな」

 その安兵衛の予想を聞いて、湯浅理平の顔色が変わった。理平はこの日の決起実行の為に、大勢の仲間を甘楽から引率して来ているのだ。

「すると我らはどうなるのです。何日も何日も蛭川村に潜伏し続けるのですか?」

「何日もここにいたら野良仕事は、どうなるんだんべえ。お蚕様だって始まる頃だ」

 数日間、ここに潜伏すると聞いて、山田米吉たち百姓が慌て騒ぎ出した。野中弥八は米吉たちの動揺を抑えなければならないと、発言した。

「お蚕様のことは考えるな。新しい世の中にならなければ、お蚕様だって、俺たちに幸福を与えることは出来ねえんだ。じっと機会の到来を待つのだ」

「野中さんの言う通りです。高崎組から指示があるまで、ここで待てという命令です」

 亀吉のその言葉に湯浅理平が目の色を変えて、亀吉を睨んだ。

「命令だと?」

 亀吉はここで血気に逸る湯浅理平の視線に後退してはならないと思った。

「命令です!」

 すると理平が目を吊り上げた。

「革命隊の本部は光明院総長のいるこの本庄組だ。高崎の博徒組に命令される理由は何処にも無い」

「高崎組の大隊長は深井寛八先生です。宮部襄先生のいる自由党本部と直結しているのは高崎組です。ですから本部の指示があるまで、じっとしていろと、副隊長、山田城之助先生に言われ、上原亀吉、ここへ知らせに参ったのです」

 亀吉の強固な態度を前にして理平は本庄組の大隊長、小林安兵衛に泣きついた。

「光明院総長、博徒組の命令を聞くことはありません。これだけの仲間が集まっているのです。我々は明日にでも、本庄警察を襲い、計画を実行しましょう」

 湯浅理平に泣きつかれても、小林安兵衛は、そう簡単に答えを出すことが出来なかった。

「とは言うが、本庄警察を襲撃したところで何にもならない。天皇や政府の官僚たちを捕虜にすることが出来て、はじめて革命が成功するのだ」

「本庄でなくても、本庄から始まった暴動が拡大すれば、革命軍は全国に広がり、天皇や政府の官僚を捕虜にすることが出来ます。光明院総長、貴男は口惜しくないのですか。自由民権も分からぬ博徒に命令されて、その通りに動くというのですか?」

「そういう訳では無い・・・」

 強硬派の湯浅理平に痛い所を突かれ、安兵衛は困惑した。しかし、山田城之助が待てと言っているのを無視して、ことを強行し、成功する可能性があるのだろうか。大隊長、小林安兵衛の困惑する様を見て、蛭川村の上野文平が、仲裁に入った。

「光明院さん。ここは、この上野文平にお任せ下さい。決起延期論と即時決起論のどちらが正しいかは誰にも判断出来ません。しかし、折角、集まった本庄組を解散させるのは、今しばらく待ってみては如何でしょう。私が当分の間、本庄組の皆さんの面倒を見させていただきますので、その間、一旦、幹部の方や、甘楽に戻りたい方だけ、地元にお戻りになり、高崎組と今後について、相談なさっては如何でしょうか。本庄組だけで今後を決めるのは危険なことです」

「有難う御座います。貴男の言葉に救われました。明日、数名で高崎組の幹部に会いに行きます。そしてまた戻って来ます」

 安兵衛はそう言って、胸を撫で下ろした。大隊長、小林安兵衛たちが去る事を知ると百姓たちが騒ぎ始めた。それを見て、三浦桃之助が一喝した。

「騒ぐな。俺たち幹部が高崎から戻って来るまで、一同の身柄を、この文平さんに預ける。俺たちが帰って来るまで、じっと待ってろ。逃亡者は俺が許さぬ。分かったな!」

 桃之助の威嚇に百姓たちはうなだれた。その為、甘楽の百姓たちもそのまま八幡山に残留することとなった。かくして本庄組の幹部たちは一之宮に戻った。

         〇

 五月二日、自由革命軍の高崎組と本庄組は一之宮の光明院で密議を行なった。結果、高崎組、本庄組、秩父組だけではなく、全国的規模で実行しないと革命は成功しないという結論に達した。そこで、鉄道開通式が延期になったこともあり、東京にいる宮部襄、清水永三郎を高崎に呼び戻し、天下に革命の宣言を行い、全国の自由党員の革命への参加を促し、革命を成功させようということになった。その使命を受けて、三浦桃之助が東京の宮部襄を訪ねた。五月五日のことである。清水永三郎にも同席してもらった。

「宮部先生。清水先生。革命は起こります。今、深井寛八先生と山田城之助先生の指示で、総てが待機状態になっておりますが、天皇が高崎へ行幸する時、革命は起こります。その時、宮部先生や清水先生にいてもらわないと、革命が盛り上がりません。革命政府宣言時、宮部先生と清水先生に是非、いてもらいたいのです。高崎に戻って下さい。そして革命の指揮を執って下さい」

 その桃之助の依頼に宮部襄は沈黙しているだけだった。代わりに清水永三郎が答えた。

「我々は暴力で政権を得ようとは思わない。我々の時代が来るまで、じっと待つ」

「今、高崎では山田城之助が子分、二千五百人を集め武装し、本庄には小林安兵衛以下、三千人が武装し、秩父困民党の田代栄助や東信州組の早川權弥と連絡を取りながら待機しております。高崎線鉄道開通式に行幸する天皇と、それに従う政府高官を急襲し、一挙に薩長政府を転覆させるという計画です。この革命に、先生方がいないと、自由党が何処かへ吹っ飛んでしまう恐れがあります。どうか高崎に戻って下さい」

 桃之助の熱心な説得に、清水永三郎が質問した。

「その革命は吉田政造の計画ではあるまいの?」

 清水永三郎の質問に、桃之助はドキリとした。政造の計画であることは隠さねばならない。

「いえ。我々は自由党同志、日比遜、小林安兵衛総長の指示のもとに行動しております。勿論、日比総長は深井寛八先生や長坂八郎先生とも相談しております。吉田政造とは何ら関係ありません」

「大勢の子分を抱えている山田城之助が自由党に加勢する本心が読めぬ。山田城之助と吉田政造の父、重吉は竹馬の友。城之助のこの積極姿勢の背後には、吉田政造の入知恵が働いているように思えてならないのだが・・・」

 流石、城之助の近郷に住む清水永三郎。城之助の義侠心を知っている。桃之助は思わず、こう答えた。

「吉田政造は見かけによらず臆病者で、自分のことしか考えない男です。理論派でありますが、実践派ではありません。彼は肝心な時に何時も逃避してしまう男です。革命の仲間に値しません。我々、自由革命軍に必要なのは、宮部先生や清水先生なのです」

 すると今まで黙っていた宮部襄が口を開いた。

「君たちの逸る気持ちは分かる。しかし軽挙妄動はならぬ。清水君が言ったように、時機を待つのだ」

「もう待てる状況ではありません」

「そこを何とか我慢するのだ。私たちはこれから関西有志同盟会に出席する為、大阪へ行く。革命はそれからだ。蜂起するのはまだ早すぎる」

 宮部襄は、事を起こすのはまだ早いというが、群馬、埼玉、信州では、もう革命隊の武装集団が待機しているのだ。それを思うと桃之助は苛立った。

「もう我々は待てません。農民たちは生きるか死ぬかの瀬戸際です。桃之助はもうこれ以上、何も言いません。高崎に戻って欲しいという自由党員と集まっている農民たちの願いだけは、伝えました。宮部先生たちが大阪から戻らぬうちに、我ら自由革命軍は蜂起し、高崎の兵営を襲い、上州に革命政府を築くこととなりましょう」

 桃之助の強い言葉に清水永三郎は慌てた。桃之助を何とか宥めようとした。

「桃之助。私達は君たち甘楽自由党を見捨てた訳では無い。軽挙を制し、時機を待てと言っているのだ。実行の機会は必ず来る。それまで何とか我慢してくれ」

「この計画は甘楽自由党だけで計画しているものではありません。両先生の意見は、高崎に帰って、そのまま伝えます。しかし、これからのお二人の立場については、この桃之助、責任を持てません。どうぞ、大阪へ行って下さい」

「嚇しても駄目だ。百姓たちに革命が出来るものか。清水君、私たちは大阪へ行こう」

 宮部襄は三浦桃之助が伝えた高崎組と本庄が協議した自分たちへの要請を振り捨て、関西有志同盟会に参加することを決意した。そして翌日、大阪へと出発して行った。桃之助は二人と別れ、これで思いきり戦えると本庄へ向かった。

        〇

 三浦桃之助の帰りを待つ本庄組に、土屋六助が顔を出した。六助は上原亀吉に会いに来たのだ。亀吉は久しぶりに六助の顔を見ると、六助の肩をポンと叩いた。

「おう。六助ではないか」

「亀吉さん。城之助親分から言伝を言いつかって来た。光明院さんをはじめとする本庄組を解散し、皆、自分地へ帰れっちゅう話だ」

「自分地へ帰れだと!まだ何もしてねえじゃあねえか」

「悪事を沢山なさっているじゃあ有りませんか」

「俺たちが何をしたって言うんだ?」

 亀吉は悪事を行ったと聞いて、六助を睨んだ。六助は亀吉が自分たちが行った悪事を空っとぼけようとしているなと思った。そこで六助は言ってやった。

「光明院さんらと、本庄に来る時、相野田の大河原泰助の屋敷を襲っただんべえ。城之助親分は、亀吉がいながら、ひでえことをしたもんだと、怒っていたよ。亀吉らしくねえ仕業だってさ。あれは盗人のやることだと、嘆かれておられた・・・」

「城之助親分が、そんなことを・・・」

「軍資金が欲しけりゃあ、親分の所に言って来いと言ってやした。甘楽の連中のようなやり方が重なると、自由党員の名が廃るばかりか、一揆に参加している百姓たちが自由党の為すことに疑問を持ち、革命も失敗に終わるとも嘆いておられやんした」

 六助の言葉に亀吉は赤面した。自分たちのやった事を正当化しようと言い訳をした。

「俺たちは大河原泰助を襲ったのでは無い。自由党員を苦しめているという戸長を自由党に加盟させる為に、本庄へ向かう途中、ちょっと彼の家に寄っただけだ」

「噂によれば、蔵に押し入り、銭をゆすったちゅう話だが?」

「それは誤解だ。俺と三浦先生は外の芝生のところで、光明院さんらが出て来るのを待っていた。誰もゆすりなんかしていねえ」

「でも大河原泰助は、甘楽の自由党員に九円十銭、取られたなどと、あっちこっち言いふらしているぜ」

 六助の言葉を聞くと亀吉は不愉快な顔をした。

「あの金は三浦先生が東京の自由党本部に行って、宮部先生たちに会う為の旅費を、入党会費として寄付してもらっただけだ。もともと自由党嫌いな大河原の奴、本当は入党したくなかったのかも知れねえ。武装した連中が押し掛けたので、恐ろしくなって金を出したのかも知れねえ。そうで無ければ、そんなこと言う筈がねえ」

 亀吉の弁解めいた話を聞いていても埒があかないので、六助は話を元に戻し、城之助の伝言を、そそくさと伝えた。

「ま、それはそれで分かった。先程言った、本庄組を解散し、自分地へ帰れといった話だが、その訳は、城之助親分の手元に鉄砲五百挺と刀剣六百本が整ったからだと言う話だ。だから本庄組を一旦、解散し、甘楽で会おうという理由だ。光明院さんや、湯浅さんに、そう伝えてくんな。じゃあ、儂は帰るぜ」

 六助は城之助からの伝言を喋り終えると、もう走り出していた。亀吉はもっと六助と喋りたかったが、六助は、あっという間に小さな点になっていた。亀吉は、六助の知らせを、小林安兵衛らに話す前に考えた。城之助はどうやって、あの鉄砲と刀剣を人に気づかれず、運び出すことが出来たのであろうか。

         〇

 五月九日、三浦桃之助が東京から戻ると、直ぐに一之宮の光明院で決起についての最終会議が行われた。桃之助は宮部襄と清水永三郎が決起に参加せず、関西に行ったと説明した。当然のことながら、この会議に深井寛八、山田城之助も出席していた。会議は宮部襄や清水永三郎が応じなかったことから、自重を考える者と、集められた農民や大衆を落胆させたら、二度と人は集まらないという意見が飛びかった。その決行についての延期と即日決行の意見は二分したが、湯浅理平ら過激派の意見の方が強かった。

「折角、集めた同志を解散させてどうするのです。そんなことをしたら、参加してくれている同志を欺くことになります。そしたら後日、同じ事を挙行しようとしても、再び人は集まってくれません。この際、断行する以外に道はありません」

「湯浅君の意見に私も賛成だ。決行が失敗するという事は無い。秩父の田代栄助や村上泰治、佐久の早川權弥、立川雲平たちと連絡をとり合っている。彼らと呼応して立てば革命は必ず成功する」

「そうだ。そうだ。我ら群馬側は妙義山麓の陣場ヶ原に集合し、富岡、松井田、前橋の三警察署を一挙に襲撃し、高崎鎮台を攻略占領すれば良い」

 結局、この過激派の意見が支持され、最終的に小林安兵衛が答えを出した。

「では多数意見をもって、計画を五月十五日に決行することにする」

 決起の日程が決まると会議の席に一瞬、沈黙が流れた。いざ決行となると誰もが恐怖心に襲われるものだ。その沈黙を破るかのように、三浦桃之助が一同に言った。

「今回のこの決行は、宮部先生をはじめ清水先生にも反対されたことなので、前橋や碓氷の連中には、秘密にしておかねばならぬ。それ故、最初の計画に参加してもらう農民たちも甘楽の連中にしぼる。五月十四日、運動会を開くという名目で、甘楽の自由党員をはじめとする農民たちを陣場ヶ原に招集してくれ」

 その指示に山田城之助が口を挟んだ。

「甘楽の連中だけでは足りんだろう。近郷の俺の子分は九百人はいるものの、二、三日では連絡がつかぬ者もいて、集まっても五百人が良いところだ。信州佐久からの応援を呼ぼうか?」

 この城之助の発言に小林安兵衛は、自分が決断した日が早すぎたと思ったが、城之助が日程の変更を要請しなかったので、日程の変更はしなかった。

「城之助さんは何人くらいが必要だとお考えですか?」

「高崎組で三千人、本庄組で三千人だ」

「そんなに大勢必要なんですか?」

 小林安兵衛も湯浅理平も目を丸くした。二十人といない警察署を襲うのに、三千人とはどういうことか。

「何をびっくりしているんだい。事は政府転覆にあるのだ。戦さなんだよ。吉良上野介の首を頂戴するんなら、四十七士で良かろうが、政府転覆とは、そんな生易しいものでは無い。高崎鎮台を破った後、長い戦闘が続くのだ。それには一人でも多くの仲間が必要なのだ」

「城之助親分の仰有る通りだ。最低三千人を集めなければ・・・」

 野中弥八は博徒、山田城之助の言葉に共感していた。この人はただの博徒では無い。用意周到な軍人そのものだ。この人について行けば間違いは無い。城之助の豪胆無比な態度に弥八は惚れていた。

「あと千人集めれば良いのですね」

「そうだ」

「あと千人か。どうしよう」

 湯浅理平は悩んだ。どうすれば、もっと人を集められるだろうか。

「茂十郎さん。重平さん。これ以上、人を集められますか?」

「う、うん。これ以上はな・・・」

 神宮茂十郎も東間重平も答えに苦慮した。すると安兵衛は何時もに無い鋭い目を仲間に向けて言った。

「集められる。運動会のビラを配布する時、〈この運動会に参加しないと、家に火を点けられる〉と言って回らせるのだ。酷な事だが、これも団結の為だ」

 安兵衛大総長の指示に、理平らは納得した。

「成程。俺たちが、そう言って回れば、反対派の連中だって、仲間に加わるっていう訳だ」

 城之助は更に提案した。

「その他、武州からの応援も頼もう」

「武州からの?」

 安兵衛たちが、首を傾げると、三浦桃之助は、前もって城之助から聞いていた案を思い出し、慌てて発言した。

「そうだ。城之助親分と親しい田代栄助殿の子分たちをお借りしよう。十二日に、秩父連絡員の横田周作に会うことになっている。彼を通じ、その時、応援を依頼しよう」

「田代殿は、以前、私と面談した時、困っている人たちの為なら、この城之助と共に立つと約束した。城之助に依頼されたと言って訪ねて行けば、間違いなく、二千人くらいの応援をよこしてくれるだろう」

「それは鬼に金棒。成功、間違い無しじゃ」

 小林安兵衛はじめ湯浅理平、野中弥八らは大喜びした。城之助は完全に会議の中心人物になっていた。城之助は、安兵衛に代わって作戦を伝えた。

「攻略は三方より行う。甘楽組は日比遜総長のもと、甘楽方面より富岡を経て、高崎鎮台を攻撃する。高崎組は深井寛八総長のもと、碓氷松井田より安中を経て、高崎鎮台を攻撃する。組内部の指揮についてはそれぞれ相談してくれ。そして本庄組からは上野文平総長と田代栄助が高崎にやって来る。これで万全じゃ」

 その会議は深更になって終了した。

        〇

 五月十日、山田城之助は前日の一之宮会議の結果報告に新井村の吉田政造宅を訪問し、決行日の報告をした。

「政造。決起は五月十五日と決定した。総て計画通りだ」

「城之助さん。有難う御座います。計画実行の為の城之助さんの奔走に心から感謝しております」

「政造に礼を言われる覚えは無い。お互い、小栗先生の遺志を継ごうと誓った間柄ではないか。問題はこれからだ」

 城之助の政造を見詰める目は闘志に燃えていた。政造も燃えた。

「そうです。この決起により、自由党主流派の板垣退助や星亨が、どうに出るか。大井憲太郎を中心とする急進派、関東決死隊が、どう出て来るか。会津や越後の士族会の連中が、どう動き出すかです」

「それだけでは無い。秩父困民党の田代栄助も暴れまくる。村上泰治が石坂昌孝ら三多摩自由党の連中、更には相州の山口佐七郎らと手をつなぎ、一段と勢力をつけるに違いない。だが彼らの思想の総てが、俺たちの計画と一致している訳では無いぞ」

 城之助の言う通りであった。小栗上野介の遺志と薩長の藩閥専制支配に反抗する自由党員の考えが、どうして一致しよう。それは初めから政造にも分っていることであった。

「はい。分かっています。いずれにせよ、計画通り高崎城址を新政府の本拠地としましょう。そして上州新政府が、国民が選んだ大統領を元首とする自由民権政府であることを、天下に宣言しましょう。その為にはまず薩長軍との戦闘に勝つことです」

「戦闘は俺に任せてくれ。その代わり、お前は内村先生と良く相談し、新政府機関に必要な優秀な人物を、至急、高崎に招集してくれ。この機会に何としても、新政府を、俺たちの力によって、この上州に開設するのだ」

 城之助の言葉に政造は頷いた。そして城之助に言った。

「私は決起と同時に東京へ行きます。内村先生にお会いして、新政府機関に必要な人物を選択すると共に、河野広躰らと連絡をとり、内務卿、山県有朋を襲撃するつもりです。陸海軍の頭領、山県有朋を襲えば、政府は軍隊を上州へ派遣する余裕が無くなります。そうすれば、この上州革命は成功します」

 城之助は、政造らしい奇抜な作戦であると思った。だが安心は出来なかった。

「それは良い考えだ。しかし、薩長の軍事体制は俺たちの想像以上に強化されているぞ。用心には用心を重ねないと・・・」

「分かっています。お互い注意しましょう。革命がどんな方向に発展するか分からないが、私たちの考えは一つです。三浦桃之助と話し合ったように小栗先生の遺志を継ぎ、日本国を東洋の一等国にすることです。自由民権思想を通じ、国民に日本人の素晴らしさを自覚させ、国力の充実を計り、世界に堂々と進出することです」

 政造は一揆決行の知らせを聞いて、興奮していた。このまま政造に一途に走り出されたら危険だと、城之助は政造に注意した。

「政造。当分、会えなくなるが、東京へ行って危険なことはやめろよ。お前は俺や桃之助のような暴れん坊と違うのだ。君子、危うきに近寄らずで行け」

「ご忠告、有難う御座います。そう心得ます。それより城之助さんたちこそ自分の腕を過信しないで下さい。命は一度、失ったら終わりです」

「そうだな。じゃあ、俺は帰るぜ。今度は高崎で会おう。内村先生によろしくな」

 城之助はそう言い残すと、何かを思い出したように、急ぎ足で松井田方面へ向かって行った。吉田家の前の石畳を降りて、川を渡り、遠ざかって行く城之助を見送りながら、政造は呟いた。

「城之助。頼んだぞ」

        〇

 山田城之助は吉田政造と別れてから、松井田に出て、碓氷川を渡り、八城村の内田兼吉の家に行った。緑の森に囲まれた兼吉の家では主人の兼吉の他、懐かしい武井多吉が待っていた。

「久しぶり」

「ご苦労だったな、多吉さん。信五郎親分は元気か」

「ああ、小野山でのんびりしてまさあ」

「まあ、上がってくんなせえ」

 兼吉が、座敷に上がるよう、城之助を招くと、兼吉の女房の駒が直ぐに茶を淹れた。ひとしきり世間話をした後で、城之助は多吉に確認した。

「ところで、カテタクヤは揃ったか?」

「へい。昨夜、多吉さんに運んでもらい、家の蔵に箱ごと入れてありますので、後で御覧下さい」

 兼吉は煙管を叩きながら答えた。カテタクヤとは、刀、鉄砲、玉、薬、槍のことである。

「そうか。後で見させてもらう」

 城之助が、そう言って湯呑を口にすると、今度は多吉が城之助に言った。

「山口の御屋敷分は小根山経由で、今夜、運んでおく。数が多いので、二日がかりになるかも知れねえが・・・」

「まあ、焦らず、そっと頼むよ」

「任せておけ」

 そんな会話の後、三人は内田家の土蔵の中に運び込まれている鉄砲や刀剣の入った箱を確認した。㋕、㋢、㋟、㋗、㋳の印の付いた木箱が並んでいるのを見て、城之助は、これらの武器を隠す為に自分が行った残酷な行為を思い出して足が震えた。あの時、死んだ者の為にも、薩長政府を壊滅させねばならぬと、思った。一方、小林安兵衛、湯浅理平、野中弥八の三人は、城之助に会おうと城之助を捜したが、城之助に会えなかった。その為、妙義山麓の諸戸村の佐藤織治の家に逗留し、近くの菅原村や八木連村に出かけ、五月十四日、陣場ヶ原にて運動会を催すことを演説して回った。農民たちは、この自由党の呼びかけに応じ、十三日から陣場ヶ原に集まり始めた。

         〇

 その十三日、三浦桃之助は、秩父から来た連絡員の横田周作と安中の湯浅家の離れで会っていた。桃之助は陣場ヶ原の様子を上原亀吉から聞いていたので、少し焦り気味だった。

「周作。上州の百姓たちは、既に陣場ヶ原に集結し始めている。この事を、田代栄助殿に一時も早く、お伝え願いたい。我々は武州からの援軍、三千人が倉賀野に来るのを待って、決起しようとしている。時は迫っている。直ぐに三千人を倉賀野に向けてくれ」

 桃之助の要請に対し、横田周作が物憂い声で答えた。

「三浦様。私は城之助様に直接、お会いして指示をいただくよう、田代から言われて参りました。いかに親しい三浦様のお言葉でも、三千人の命がかかっているのです。城之助様にお会いして、この耳で直に城之助様の指示をいただいてからでないと、秩父に戻れません」

「そんな事を言っている場合では無いのだ。事は急を要する」

 桃之助は直ぐに秩父に戻ろうとしない周作を張り倒したくなった。だが周作は落ち着いていた。

「いいえ。武州から三千人を連れて来るには、追加の鉄砲二百挺と刀剣二百本が、揃っているか?兵糧や軍資金は大丈夫か?この目で確かめる必要があるんです。三浦様を信じない訳ではありませんが、田代親分からくれぐれも直に確かめろと言われて来ているのです」

「分かった。なら即刻、土塩に行こう。そして武器兵糧が整っているのを確かめたら、今夜のうちに、早馬で秩父に帰ってくれ。百姓たちは、この養蚕の糞忙しい時期に、長時間、待っていられないのだ。もし百姓たちが、ことを急いて武州からの来援がある前に暴挙に出るような事があれば、計画は水の泡だ」

 桃之助の真剣な顔を見て、周作は、これは大変なことになったと顔色を変えた。

「三浦様。急ぎましょう。城之助様のお屋敷は、ここから遠いのですか?」

「ああ、遠い。ここ安中からは徒歩で相当かかる。馬を走らせよう」

「はい」

 二人は打ち合わせを終えると、湯浅治郎に挨拶した。

「悪かったな、部屋を借りて。これから土塩村へ行って来る」

「そうか。気を付けてな」

「有難う。じゃあ、また」

 桃之助と周作は、それから新井組の安中詰所に行き、馬を借りると、山田城之助の屋敷に向かった。二人が土塩村の山口に到着したのは日暮れ前であった。城之助は庭に出て、考え事をしていた。側にいた上原亀吉が馬に乗ってやって来た二人を発見した。

「城之助先生。三浦先生と田代親分のところの周作さんが馬に乗ってやって来ます」

「うむ。そのようだな」

 亀吉の言う通り、桃之助と周作が長屋門の前の楓の木に馬をつなぎ庭に入って来た。城之助は桃之助に目でご苦労さんの合図をすると、周作に言った。

「周作さん。遠くまで足を運ばせて申し訳ない。兵糧は見ての通りだ。この庭だけでは無い。陣場ヶ原に行けば、ここ以上の兵糧と百姓たちが集まっている」

 成程、そう言われて周作が城之助の屋敷内の庭を眺めると、米俵を積んだ荷車が何台も並んでいた。

「どうだ。周作さん。何もかも、私と田代殿と約束した通り、準備完了している」

 桃之助は安中から周作を連れて来て、互いに兵糧が準備されているのを確認して良かったと思った。周作はぬかり無かった。

「鉄砲二百挺は?」

「亀吉。土蔵を開けて見せてやれ」

 亀吉は手下の半次郎と一緒に土蔵の扉を開けた。そして龕燈ちょうちんで、中を照らした。沢山の鉄砲や槍が木箱の中なら顔を出している。

「御覧下さい。こうして直ぐにでも運び出せるよう、我らの分と一緒に、武州組の分が箱詰めされています」

 現物を見させてもらっての城之助の説明に、周作は納得感動し、更に質問した。

「軍資金は?」

 その質問に城之助は冷ややかに答えた。

「軍資金はたやすく見せる訳には行かぬ。小栗上野介の魂が籠もっている。田代殿の率いる武州軍隊と我ら上州の軍隊が決起に成功し、日本全土を統一しようとする時に使用する資金だ。如何に田代殿に可愛がられている周作さんでも、見せる訳には行かぬ」

「分かりました」

 周作は納得した。決起は本物だ。城之助は周作に質問した。

「ところで周作さん。武州での人集めはどうなっている。予定通り、上手く行っているか?」

「勿論です。農民たちが各地で続々と団結を始めました」

「ならば援軍は直ぐにでも依頼出来るのだな」

「はい。その日を確認する為に、私が派遣されたのです」

「では田代殿にお伝え願いたい。決起は五月十六日の夕刻。妙義山の麓、陣場ヶ原から出発すると・・・」

 それを聞いて桃之助と周作はびっくりした。

「一日、延びたのですか?」

 決起日が十六日に延期になったのは桃之助たちにとって初耳であった。てっきり十五日に決起すると思っていたのに。

「人が集まらなければ戦さに負ける。武州からの援軍の到着を計算に入れ、一日、延期する」

 何ということか。桃之助は慌てた。城之助の魂胆が桃之助には良く分かった。しかし、文句を言ってはいられる状況では無かった。

「周作。申し訳ないが、一時も早く田代殿に、十六日、決起のことを伝えてくれ」

「分かりました。横田周作、直ちに秩父へ帰ります。馬をこのまま貸して下さい」

「良いとも。新井組の安中詰所まで、その馬で行け。その後は別の馬に乗り継いで行け」

 城之助が、そう答えると、桃之助も頷いた。

「じゃあ、城之助親分、俺もこのまま一之宮に参ります」

「そうしてくれ。一之宮には運動会は雨でも降らない限り、予定通り行えと伝えよ」

「分かりました」

 桃之助と周作は、城之助の家のお手伝い、巴菜が作ってくれた握り飯を亀吉から受け取ると、馬に跨り、鞭を入れた。二人が騎乗した二頭の馬は競走馬のように月光の中を駆け出して行くのを城之助たちは見送った。

        〇

 十六日に決起を延期したのは城之助の独断であった。十四日、三浦桃之助は十五日、城之助と共に予定通り決行すると一之宮の小林安兵衛らに嘘を伝え、多胡郡日野の小柏常次郎、法久村の新井愧三郎と共に雨の中、秩父に向かった。十五日正午、小林安兵衛ら甘楽組は陣場ヶ原に出かけ、碓氷組からの連絡を待った。十四日に大運動会を開き、その翌日、決起という計画は、十四日が雨になった為、自然と人が集まらず流れはしたが、碓氷組の連絡無しで、そのまま十五日に一揆を決行するかどうか、危険が心配された。朝から碓氷組の連絡を待ったが碓氷組からの連絡は無かった。甘楽組にとって碓氷組を含む高崎組との同時蜂起が、革命成功への必須条件であった。小林安兵衛、湯浅理平、野中弥八たちは、自分たちが招集した農民たちが陣場ヶ原に設営した広場に続々と集まって来るのを目にして興奮した。借金返済の督促を逃れ、行方不明になっていた連中も集まって来て、仲間に加わった。安兵衛たち幹部は焦った。そこへ城之助の子分、六助がやって来た。桑畑の向こうからやって来る六助を見つけ、東間代吉が野中弥八に伝えた。

「野中さん。あれは城之助親分の子分、六助ですよ」

 野中弥八は代吉の言う通り、駈けて来るのが六助であると確認すると、大声で叫んだ。

「待っていたぞ、六助!良い知らせを持って来たんだろうな」

 すると六助は息も絶え絶えに駈け込んで来て言った。

「申し訳ねえ。十六日にならなければ人数が揃わないので、一日だけ、日延べして欲しいと親分が・・・」

「そんな事だろうと思ったよ。親分に伝えろ。俺たちは何時までも待つとな」

「へい。何しろ、信州や武州の子分衆も動員しますんで」

 六助は弥八や集まって来た安兵衛や理平たちにペコペコ頭を下げた。

「おーい。皆、聞いてくれ。新井組が子分衆や武器の調達に手間取っているらしい。今しばらく我慢して待ってくんな。遅くとも明日には城之助親分が、武器を持って子分衆とやって来るから」

 弥八が集まっている連中に、このまま待機するよう伝えると、農民たちが騒ぎ始めた。運動会で無い自由党の集まりと想像はしていたが、一体、何が始まるのか。その農民たちの騒ぎを目にして山田米吉が叫んだ。

「光明院さん。野中さん。俺たちはもう、これ以上、待てねえ。皆が騒ぎ始めている。決起すべえ!」

 光明院、小林安兵衛は腰に差した大刀の柄に手を置いて、米吉に答えた。

「速まるで無い。我らの目的は政府転覆にあるのだ。苛酷な租税の取り立て、私利私欲を欲しいままにする官吏たちの横暴、勝手な身分制度などを中止させる為には、まず警察署をはじめとする政府鎮台との戦闘に勝つことが必須である。その為には、多くの武器と兵士が必要だ。城之助さんから次の連絡があるまで、機を待とう」

 安兵衛が米吉の気持ちを制すると、弥八が、それに加えた。

「その通りだ。我らは、その武器と味方を充分、備えた上で、高崎鎮台を乗っ取り、高崎城に籠るつもりだ。そして、そこを我らの本営とする。その機会の到来を、城之助さんの子分衆が来るまで待とう」

「しかし、城之助のことは当てに出来ぬ。またこれだけの人数では、高崎鎮台を襲っても、鉄砲等の武器が無くては、成功は無理だ。米吉さんの言うように直ぐにでも決起し、まず富岡の警察署を襲ってみてはどうだろう」

 この湯浅理平の言葉に東間代吉が同調した。

「そうだ。そうだ。それに俺たちの多くが借金している上丹生の岡部為作の家は富岡に行く途中だ。まずは為作の家を襲撃し、兵糧や金を奪おう。敵の弱い所を徐々に攻略して行けば、きっと道は開ける」

 東間代吉の発言に、野中弥八が怒った。

「ここで忍耐出来なくては総てが水泡に帰す。耐えるのだ。耐えるのだ!」

「そうは言っても野中さん。こんな野っ原で、当てに出来ねえ城之助を幾日も待つことはねえ。集まっている者の腹はへり、食い物が無くなり、風邪でもこじらせてみろ。それこそ、どうしようも無くなるぜ」

「黙れ、米吉!そもそも城之助さんを仲間に組み入れる話を持って来たのは、貴様ではないか。この野中、一旦、うんと言ったことは、必ず信じる。城之助さんが来るまで待とう」

 弥八に叱られ、くしゅんとしている米吉の代わりに代吉が言った。

「しかし、城之助親分は博徒。そんなに信じて良いのでしょうか。俺たちは集結してしまったのです。三浦さんたちは、秩父に向かったのです。矢は放たれたのです。今、城之助親分からの吉報を待つ間、ここで一時、バラバラ解散が始まったら、次の集結力は、今より、弱まります。ここで一気に富岡を経由して高崎に突撃すべきです」

 東間代吉は米吉の気持ちを察し、強硬論をぶちまけた。米吉は代吉の言葉に意を強くした。

「確かに城之助を仲間に入れようとしたのは、この俺だ。しかし俺たちは、代吉君の言う通り、もう走り出してしまったのだ。急に止まる訳には行かない。大勢で岡部生産会社などを襲い、武器兵糧を徐々に手に入れ、俺たち集団を自らより強力なものとして行くべきだ。最早、博徒の力など無くとも、俺たちの自力で突進して行くべきだ」

 米吉の言葉に普段、無口な須貝源吉も煽動の声を上げた。

「そうだ、そうだ。死ぬ気になれば何だって出来る。皆で岡部為作の屋敷を襲おう」

 それに乗じて、激情派の湯浅理平が言った。

「光明院さんに野中さん。運動会を名目に我らがこの陣場ヶ原に集まってから、既に二日。武州や信州からの援軍、三千人など待っていたら、高崎鎮台にばれて、それこそ一巻の終わりだ。農民たちの言う通り、岡部、富岡、高崎と、行動を進めましょう」

 理平は出撃に迷う甘楽組の総長、小林安兵衛や野中弥八に決起を促した。小川村の年寄、深沢孝三郎も若い力に押されて叫んだ。

「その通り。ここで血の雨降らさねば、自由の土台が固まらぬ。集まっている皆様に収まりがつきません。光明院さん。野中さん。お願い致しやす」

 年寄の訴えを聞いて、安兵衛は心動かされた。

「分かった。皆の言う通り、決起しよう。孝三郎爺さんでは無いが、ここらで血の雨降らさねば、自由の土台が固まらぬ。自由党の革命歌にあるように、その昔、亜米利加が独立したのも莚旗。野中よ。我らも決起しよう。莚旗をはためかせて」

「待ってくれ。もう少し待ってくれ」

「怖気づいたか野中。皆がこう騒いでしまったからには決起するしか方法は無い。上州城之助も田代栄助も、最早、当てに出来ぬ。今夜、出発するぞ」

 安兵衛がそう勇み声を上げた時、夕霞のかかり始めた陣場ヶ原に、二台の荷馬車が忽然と現れた。集まっていた連中は驚いた。湯浅理平が大声を上げた。

「誰だ?何しに来た?」

「八城の内田兼吉です。城之助親分から、ここに届けるよう仰せつかった鉄砲三百挺と刀剣を運んで参りました」

「おおっ、それは本当か。有難てえ!」

 安兵衛が内田兼吉に礼を言うと、すかさず理平が、兼吉に追求した。

「城之助さんは来ないのか?」

「城之助親分は、こちらには参りません。あっしと同様、武器を運んで、夜中に届けるのだと言って、高崎、本庄へ向かいました」

「そうか。そうか。よくぞ来てくれた」

 野中弥八が、兼吉の手を取って、泣きそうな顔をして喜んだ。兼吉は、安兵衛に言った。

「申し訳ありませんが、あっしは荷物を下ろしてもらったら、空箱を積んで帰りますので、皆さんで、箱から取り出して下さい」

「分かった。有難う」

 安兵衛は荷馬車に近寄り、中味を確認した。確かに城之助と約束し武器が箱詰めされていた。安兵衛は歓喜し、皆に向かって叫んだ。

「皆な急いで好きな武器を箱から取り出せ!」

「おうっ!」

 安兵衛の指示を受けると、皆、荷車に跳び乗り、鉄砲や刀や槍を手に手に取って狂喜した。あっという間に、荷車の上の木箱は空になった。木箱が空になったのを確かめると内田兼吉は安兵衛たちの健闘を願い、二台の荷馬車と共に去って行った。同志全員が武器を手にすると、全員、勢いづいた。そこで総勢二千人は三隊に編成された。

 第一隊(先鋒)東間代吉、東間重平

 第二隊(中陣)神宮茂十郎、野中弥八

 第三隊(後備)小林安兵衛、湯浅理平

こうして甘楽組、総勢二千人は先鋒、中隊、本隊に分かれ、腹ごしらえした後、松明をかざし、深夜、陣場ヶ原から上丹生村に向かった。

         〇

 一方、山田城之助は、その夜、高崎組の深井寛八の簗瀬の倉庫に鉄砲四百挺等を送り届けた。寛八は荷馬車に乗った武器弾薬を確認し、感激した。

「流石、城之助先生。これほどの鉄砲を準備されるとは。明日、午後一時、我ら高崎士族の指揮のもと、約束通り、高崎鎮台への攻撃を決行しますので、助っ人の程、よろしくお願い致します」

「安心して下さい。高崎近隣の農民は勿論のこと、私の子分衆の手配も整っております。私は明日、朝一番で本庄組に鉄砲を届けに行きます。鉄砲を渡したら直ぐに高崎に引き返して参ります。また甘楽や佐久からの応援も参りますので、頑張って下さい」

「そうですか。内村先生も、私に書簡を寄越し、〈この機会を失わず、事を計れ。ことが拡大すれば、東京でも蜂起する〉と言って来ています。頑張りましょう」

 二人はそう言って互いを励まし合った。そして城之助は、その夜、深井家に一泊すると、翌朝、まだ暗いうちに子分衆と共に二台の荷馬車で本庄へと向かった。城之助たちが倉賀野を経て本庄に着くと、小鳥が鳴きだし、朝日が眩しく新井組の連中を照らした。上野文平の家に行き、しばらくすると、三浦桃之助が秩父困民党の田代栄助、加藤織平、村上泰治、新井愧三郎らと現れ、城之助と本日の作戦会議を実施した。それから八幡山に武器を運んで移動すると、そこには高岸善吉、落合寅市、井上伝三らによって集められた自由党員や農民たち二千人近くが赤い鉢巻きをして集まっていた。その状況を山田城之助と共に確認するや田代栄助は高台に上り、一同に伝えた。

「よしっ。本日、この赤い旗のもとに集まった諸君の勇気を、田代栄助、心から誉め称える。目指すは高崎鎮台。ここに準備した武器を手に、四部隊、部隊長の案内に従い、只今より、進軍する!」

 その下知に従い、四部隊の部隊長は勝利の再会を約して、各五百名の民兵を率き連れ、四方に分かれ、それぞれ出発した。城之助は村上泰治率いる第一部隊に加わり、神流川を渡り、落合で上原亀吉と合流し、高崎の状況を確認した。計画はほぼ予定通りであるとの報告を受け、烏川を渡り佐野で一旦、待機し、高崎や甘楽からの知らせを待った。

        〇

 その甘楽組は五月十五日の深夜、妙義山麓、陣場ヶ原を出発し、大松明に火を点して、まず上丹生の高利貸、岡部為作の家に向かった。途中、下仁田方面から大桁山まで進軍して来た信州組の新井多吉、中沢吉五郎、菊池貫平、立川雲平らと菅原村で合流し気勢を上げた。そして十六日午前二時、上丹生村生産会社、岡部為作の家に到着。その居宅を襲撃し、土蔵に放火し暴れまくった。燃え上がる炎を見て、借金していた農民たちは喊声を上げた。甘楽組の一行は半時程、高利貸の家が焼け落ちるのを見て、諸戸村、菅原村の農民、数人に後始末を命じた。その後一之宮の光明院に移動し、本堂や庭先で、ひと眠り休息した。その明け方、光明院の近くの民家の女衆に炊き出しを依頼し、それを食べて元気をつけてから、富岡警察署に向かった。出勤して間もなく、のんびりしていた富岡警察署の署員は突然の暴徒の襲来に狼狽した。自分たちの武器の在処にも戸惑い、大混乱を起こし、みじめにも遁走した。この警察署襲撃破壊に成功した甘楽組は更に気勢を上げ、いよいよ高崎鎮台を占領すべく前進した。富岡から吉井方面に向かい、途中、鏑川を渡り、新井太六郎の案内で、上奥平を経て、綿貫山の山頂に至った。ところがそこに集まった甘楽組の人数を数えれば、富岡警察署を襲った後、来る道々、潜伏したり、逃げ帰ったりして、半分に人数が減少していたので、小林安兵衛たち幹部は、愕然とした。だが信州組の新井多吉たちの手前、そんな素振りは出来なかった。そこへ高崎組からの使いがやって来た。午後一時に高崎鎮台を三方から襲うので、それに合わせて綿貫山を下山し、烏川を渡れとの知らせだった。それを聞いて、小林安兵衛は甘楽組隊員に白い鉢巻きをさせて、昼食を早めに済ますよう命じた。

         〇

 定刻午後一時半、十分前、山田城之助は、上原亀吉と高崎組に戻り、黄色い鉢巻きをした深井寛八に会った。そして秩父組が佐野の渡しを過ぎて、こちらに向かっている報告をした。更に深井寛八総長に高崎組の誰か二名をまず突入させるよう申言した。だが、寛八は躊躇した。

「まだ甘楽組が来ていないし、それに誰を真っ先に突入させるか」

 する城之助は高崎組の隊長、深井寛八を叱り飛ばした。

「そんなことを言っていられる場合かい。なら俺が行ってやる」

 そう言うと、城之助は、民家の陰に隠れている高崎組から一人抜け出し、つかつかと高崎鎮台の正門に向かった。門衛が二人、手に鉄砲を持ち、右を見たり、左を見たりしている所へ、城之助は背中に刀を隠し近づくと門衛に言った。

「吉屋信近隊長に会いに来たのですが、入れて貰えますか?」

「面会予約はしていますか?」

「はい」

「お名前は?」

「吉屋正近です」

「どれどれ」

 一人の門衛が面会名簿を見ようと受付窓口に向かって背を向けた。と同時に、城之助が背中に隠していた大刀で、門衛を斬りつけた。一瞬、大刀が煌めいた。

「御免!」

「ぎゃーっ!」

 門衛は悲鳴を上げた。不意の出来事に、もう一人の門衛が驚き、城之助に向けて鉄砲を構え、発砲しようとした。それを亀吉が背後から斬った。それを見て、深井寛八総長が突撃命令を下した。すると高崎組から鬨の声が上がり、黄色い鉢巻きをした革命軍の一隊が、高崎鎮台に流れ込んだ。それを確認し、城之助は深井寛八総長に伝えた。

「後は、任せた。私の役目は済んだ。一休みしたら、また戻って来るから頑張ってくれ」

「有難う御座います。城之助先生のお陰で、うまい運びとなりました。後は四方八方から集まって来る革命軍と力を合わせ、高崎鎮台を占拠するだけです」

「気を許すで無いぞ」

「かしこまりました」

 深く頭を下げる深井寛八総長と城之助は、二言三言喋ると、一人、高崎を離れた。

          〇

 高崎鎮台軍と上州、武州の革命連合軍は真正面から、ぶつかり合った。高崎鎮台に配属されていた部隊兵たちはすこぶる勇猛な隊員の筈だったが、昼休み後の気のゆるんだところを急襲されたものであるから、慌てふためき兵舎内に逃げ込んだり、門外に逃亡した。高崎鎮台に侵入した赤、白、黄の鉢巻きをした革命軍の兵士は、ひるむ鎮台兵を容赦無く、槍や刀、鉄砲で威嚇した。そして革命軍はついに高崎鎮台を占拠した。この革命軍の蜂起は、革命軍を突破し逃亡した鎮台兵によって、前橋県庁にいる群馬県令、楫取素彦のもとに報告された。楫取県令は事態の大きさに驚き、前橋地区の警察官を総動員して、高崎に急行させ、高崎鎮台の奪還に当たらせた。また内務卿、山県有朋に、軍隊の派遣を要請した。高崎鎮台が占拠されたことを聞き、山県有朋は激怒した。

「おのれ。あれだけ油断するなと言っておいたのに・・・」

 彼は直ぐに東京鎮台の兵、六千人を高崎に差し向けた。西南戦争以来の戦闘に負ければ、血を流して折角、手に入れた明治政府が転覆してしまうと思った。有朋は思い切って、異国との戦争の為に準備しておいた新式銃を政府軍に使用させることを決断した。内務卿からの指示を受けた東京鎮台は隈元実道少尉らに、日頃、訓練している新式村田銃を携帯させ、その日のうちに高崎へ急行するよう命じた。高崎に到着した政府軍の大将、隈元実道は革命軍に占領された高崎の現状を把握すると、前橋に行き、楫取素彦県令や避難していた高崎鎮台の本城大尉、吉屋大尉、江口少尉らを集め相談した。集まった面々は口角泡を飛ばし、政府軍の憲兵と鎮台兵と警察隊で高崎鎮台を奪還する為の具体的打合せを行った。そして五月十九日の早朝、政府軍の憲兵、高崎鎮台兵、警察隊が三位一体となって、赤白黄色の革命軍旗がはためく高崎鎮台に総攻撃を加えた。革命軍もそのことは予想していたのであろう、ひるむこと無く、政府軍に対抗し、激戦となった。しかし火縄銃と刀槍の革命軍は日本陸軍の最新武器、村田銃を装備した政府軍には歯が立たなかった。深井寛八総長は、この銃撃戦で、占拠した高崎鎮台内にいることは不利と考え、甘楽組の小林安兵衛と秩父組の田代栄助に伝えた。

「このままここに籠城していたのでは、弾薬も食糧も無くなり、壊滅するだけだ。皆ちりじりに自分たちの本拠に戻り、出直そう。どんな苦難が待ち構えているかも知れないが、粘り強く持ち場で頑張れば、道は開ける。しばらくの間、分散して戦おう」

「何故ですか。折角、高崎城を手にしたというのに?」

 側で話を聞いていた湯浅理平が不服を口にした。すると深井総長は理平を諭すように言った。

「敵の武器は新式銃だ。ここにいては敵の銃の的にされるだけだ。我らは生きて戦い続けなければならない。その為には分散して戦うのが得策なのだ」

「ご最もでござる」

 その意見に秩父組の田代総長が同意した。かくて革命軍は手にした高崎城址を捨てて各地方に散乱して戦うことになった。そして高崎組は榛名山方面へ、甘楽組は妙義山方面へ、秩父組は城峯山方面へと逃走した。

         〇

 高崎鎮台を革命軍に襲われた内務卿、山県有朋は民衆の不満を抑えられず、重大な事件に発展させたてしまった楫取素彦県令、大書記官、岸良俊介らに、徹底的に犯人たちを追及逮捕するよう指示した。それに伴い、憲兵や、鎮台兵、警察官が、犯人たちを夢中になって追った。革命軍の主導者、深井寛八、小林安兵衛、田代栄助たち革命軍は残余の兵を連れて、上州、信州、秩父の山中を逃げ回った。結果、革命軍に参加した農民たちには不平士族階級を中心とした明治政府に対抗する基幹思想など全く無く、帰農し、革命は失敗に終わった。五月一日の上野ー高崎間の鉄道開通式に明治天皇の行幸を仰ぎ、その途上を襲撃し、天皇及び政府高官を捕え、勢いに乗じ、高崎鎮台を乗っ取り、高崎城址において、天下に新政府成立の大号令を発するという計画は、事前に発覚し、その後、一部の強力な過激派集団が高崎鎮台を襲ったが、東京鎮台の出動を経て沈静化し、鉄道開通式を行えそうな状況になった。だが政府は慎重に慎重を重ね、高崎に東京鎮台兵と佐倉鎮台兵を派遣し、六月二十五日、水曜日、明治天皇の行幸を得て、盛大な鉄道開業式を挙行することにした。その二十五日、明治天皇は午前六時三十分、皇居から馬車にて上野駅に向かった。御陪乗は徳大寺侍従長。供奉は伊藤博文宮内卿、井上馨参議、寺島宮内省出仕、杉宮内省出仕ら他、約二百七十人。全員上野駅に集まり、高崎行き列車に乗り、定刻御前八時、汽笛一声、勇ましく上野駅を出発。列車は十四輌編成。蒸気汽罐車の次の第一輌目には憲兵、二十人。第二輌目には楽隊、二十四人。第三輌目には主唱発起人及び日本鉄道株式会社役員、二十四人。第四輌目には奏任官、十八人。第五輌目にも奏任官、十五人。第六輌目には大臣及び各国大使、二十人。第七輌目には皇族、二十一人。第八輌目には天皇と侍従及び鳳輩、五人。第九輌目には供奉任官及び参議、二十四人。第十輌目には各国大使、二十三人。第十一輌目には勅任官、二十五人。第十二輌目には千株以上の株主及び供奉判任官、二十人。第十三輌目には新聞記者及び接待客、二十二人。第十四輌目には車掌ら数人。列車は川口、浦和、上尾、鴻巣、熊谷、本庄と進み、正午十二時、高崎の停車場に到着。楫取素彦県令ら県民が天皇をお迎えして、祝賀の御言葉を頂戴し、午後三時、明治天皇御一行は再び汽車に乗り高崎を出発。高崎から四時間、午後七時、上野駅に到着。祝賀式を上野精養軒にて催しした。伊藤博文、山県有明、楫取素彦をはじめ、政府高官、憲兵隊、鉄道関係者は無事、開通式が終了して、ほっとした。

            〇

 それから数日後の六月三十日、決起に失敗した山田城之助は自宅で酒を飲み、次の一手を思考していた。薩長官僚中心の専制政府に反抗して決起した勇敢な連中たちが、次々に捕まり、これからどうなって行くのか心配しながら、ひとり孤独の中にいた。お手伝いの巴菜は既に家に帰って、全くの一人酒だった。そこへ賭場周りの与音がやって来た。

「城之助親分さん。今日は馬鹿に静かですね」

「うん。今日は月末で子分衆を家に帰したからな」

 それを聞いて、与音は嬉しそうに笑った。相変わらず、周囲の細かいところを観察する女だ。流石、壺振りの仕事をしているだけのことはある。

「そう言えば、今日は月末でしたわね」

「うん。ところで今日は何の用事があって来たんだ?」

「何を仰有るんですよう。親分さん。あたいは壺振りお与音。鉄火場回りは、あたいの仕事。安中の賭場から松井田の賭場に来たら、親分さんが見えないので、ここに来たんですよ」

 与音は、溜息をつくように甘えた声で答えた。

「何もこんなに遅い時刻に、こんな所まで来ることはないではないか?」

 そう城之助が言うと、与音は悲しそうな顔をして、城之助に告白した。

「そんな冷たいことを言わないで下さいな。あたいの気持ちも察しておくんなさいよ。あたいだって、もう二十八。何時までも宿無しでいる訳に行かないでしょう。入りの湯で親分さんに抱かれた時の事が忘られずに、こうしてか弱い足を痛めながら、遠く安中から歩いて来たのですから。それを何しに来たなんて、よく、そんな冷たいことが言えるわね」

「そう怒るな。お与音も飲むか。ぐい呑みはそこの戸棚に入っている。まあ、酒の酌でもしてくれ」

「ええ、飲まさせていただきますよ。城之助親分さんと二人きり、相向かいで、お酒を飲めるなんて夢のよう。本当に・・・」

 与音は上がり框から草履を脱いで、目の前の部屋に入ると、戸棚からぐい呑みを取り出し、城之助の隣に絡み着くようにして座った。

「親分さん。お巴菜さんはどうしたの?」

「もう、家に帰った」

「すると今夜は、お与音ひとりの親分さん」

「そうだ」

 それを確かめ、与音は喜んだ。城之助は優しい声で与音に訊いた。

「ところで、お与音。今、高崎や安中では、この間の高崎鎮台襲撃事件で、騒々しいことだろうな」

「ええ、それはそれは騒々しいですよ。再び急進党員が高崎鎮台や県庁を襲撃するのではないかという噂が飛び交って、兎に角、憲兵隊や警察官が集まって来ていて、巡回警察官が昔の倍に増えたようです。ですから、高崎や豊岡あたりは、やばくって、賭場など開けません。そんな状況ですから、壺振りお与音の足も、自然、親分さんの所へ向いたって訳」

「そうか。安中あたりは、どうなっている?」

 城之助は高崎、安中周辺で賭場生活をしている与音との会話の中で、敵の動静がどうなっているか読もうとした。与音は城之助の胸元に顔を押し付けて答えた。

「安中には憲兵隊はいなかったわ。ただ高崎からの鉄道延長の件で、お金の負担があるとか、何とかで、百姓たちが、わいわいやっておりました。中には陸蒸気の煙で、火事になると困るから、安中城下から離れた所に鉄道を通して欲しいと叫んでいる者もおりました。それを警察官が暴動に発展しないよう監視していました」

「左様か。俺は鉄道延長には賛成だな。火事になるとか、汽車の煤煙で、桑が駄目になり、養蚕が出来なくなるとか、騒音で鶏が卵を産まなくなるとか、愚かなことを言う者もいるようだが、鉄道は既に西洋で実施されて活躍していることであり、何ら心配は無い。それに俺たちにとってはとても便利なことだ。生糸の輸送についても、一度に大量に運べるし、横浜まで一直線だ。便利になるではねえか」

「へえっ。城之助親分さんが賛成ねえ。高崎や安中では、土塩にいる恐ろしい城之助親分さんが、きっと反対するだろうから、原市村経由土塩村の架線計画は、多分、磯部村経由横川村に変更されるだろうと言っている人がいましたよ」

「馬鹿な。何の相談も無しに一方的に城之助が反対しているなどと決めつけるとは。まあ仕方あるまい。何時の世でも博徒は誤解されるものだ。だが、今度ばかりは違うぞ。この博徒、上州城之助の切っ掛けで、日本国が大きく変わるのだ」

「日本国が大きく変わるのですか?」

 与音は城之助の顔をじっと見詰めた。その城之助は酔っていた。夢と酒に酔っていた。

「そうだ。日本国が大きく変わるのだ。城之助は自分がけしかけた自由革命軍が薩長政府を倒し、新政府を高崎に樹立すると信じている。その為に沢山の百姓や博徒に招集をかけた。沢山の武器弾薬も供給した。政府軍と革命軍の戦さはそうして始まった。今はその結果を待つだけだ。これから、どんな風が吹くか、俺はその風を待っている」

「でも高崎での暴動は旧士族の首謀者たちや百姓たちの多くが警察隊に逮捕され、もう鎮圧されてしまっていますよ。一体、これからどんな風が吹くというのです?」

「この城之助には、もう恐れるものは何ひとつ無い。革命軍の様子を見て、再び子分衆を集め、大砲を使用して、政府軍を攻撃するつもりだ。今度は会津甲信越からも助っ人が来てくれる手筈になっているので、俺はその風を待っている」

「それは本当ですか?大砲を使うのですか?」

 与音はびっくりした。大砲を使った戦さなど城之助たちに本当に出来るのだろうか?

「そうだ。俺たちは幾つもの大砲を隠している。その為に、明日、子分という子分を、大砲の準備に遠くに向かわせる」

「そうでしたの。どうりで子分衆が、すっからかんなのね。では今日は、その前祝い。このお与音のお酌でたっぷり、お酒を飲んで下さいよ。親分さん」

 与音は一層、城之助に張り付いた。

「有難い。子分たちは、久しぶりに女や女房のいる所に戻り、俺とお与音のように、相向かいで、酒を飲んでいることだろうよ。子分たちにとっては、今度の第二攻撃は薩長政府が相手だけに、普段の出入りと違い、多分、人生最大の賭けとなろう。今度の決起は生きるか死ぬかの大博打なのだ」

 城之助は、そう言って酒を飲んだ。飲んで飲んで飲んだ。そして今、自分の側にいる女が、与音でなく、由紀であったらと、酔いの中で願っていた。

         〇 

 城之助の酔いが深まらぬうちに与音は城之助を二階の部屋に誘い、二人で一つの布団に潜り込んで、いちゃついた。与音は色っぽかった。城之助の手管に煽られ、与音は喜悦の声を上げた。城之助もそれにつられ興奮し、褌を脱いで暗闇の中で攻め立てた。ことが終わると城之助は与音に抱かれて眠った。ここ数日間の疲れと酒と女の所為で、城之助は布団の中でぐっすりと眠った。それからどのくらいしてだろう、城之助は夢の中に迷い込み、誰かが自分の名前を呼ぶ声を聞いた。

「出て来い。山田城之助!」

 与音が城之助を揺り起こした。何時もなら鎖帷子を着て寝ている城之助であったが、気づいてみれば、夜中、与音と同衾中だったので、浴衣一枚、真っ裸、同然だった。城之助は慌てて枕元の直ぐ近くに置いてある太刀を手に取り、更に床の間の刀掛けの太刀、鍛冶屋重兵衛を手にすると、二階の障子を開けて、怒鳴った。

「俺を呼び捨てにするとは無礼な。名を名乗れ!」

「我れは高崎鎮台の隊長、𠮷屋信近だ。山田城之助を高崎鎮台襲撃の一味として捕まえに来た。無駄な抵抗は止めて、大人しく縛につけ!」

 城之助が下を見下ろすと高崎鎮台の隊長、𠮷屋信近大尉が百人程の憲兵たちを従え、庭から二階を見上げていた。城之助はその様子を確かめると、二階の欄干に足をかけ、庭に集まっている憲兵たちに唾をかけて罵った。

「うるせえ。てめえらにこの城之助が捕まってたまるか!」

 すると吉屋隊長が激しく叫んだ。

「貴様らの計画は総て我らに明白になった。大人しく出て来い!」

「じたばた騒ぐな。言われなくとも出てゆかあ」

 城之助はそう言うと二階から庭に、ひょいっと跳び降りた。一同が驚きの声を上げた。城之助は不気味な顔をして、敵の顔、ひとつひとつを睨んだ。憲兵たちは後ずさりした。城之助がどいつから斬ってやろうかと、人選びしていると、二階の階段から降りて来た裸足の与音が、城之助の腕にすがりついた。

「親分さん。逃げましょう!」

「これっぽっちの人数で、逃げてたまるか。上州城之助の名がすたる」

 そう言い合っている二人を龕燈が照らし出し、そこに与音がいるのを発見すると、江口少尉が声を発した。

「城之助と一緒にいるのは壺振りのお与音だな。お前も賭博取締法違反で逮捕する」

「あたいも逮捕するだって。おふざけで無いよ。顔を良く洗って出直して来な!」

 与音も足を広げ、赤い裾をちらつかせて、威勢の良いところを見せた。太刀を両手に持った城之助は、自ら招いた油断の中で、夥しい憲兵を前にして戦うしか方法が無かった。吉屋隊長に代わって、江口少尉が怒鳴った。

「城之助。無駄な抵抗は止めろ。お与音と共に大人しく縛につけ!」

「本当にうるせえ奴等だ。てめえら、そんなに死にてえか。死にたけりゃあ、叩っ切ってやる!」

 城之助の威嚇に憲兵たちは、また数歩、後ずさりした。

「皆、注意しろ。城之助が怒ったぞ。一時、麦畑に後退しろ。鉄砲を持っているかもしれない。ずっと後退だ!」

「そんな大勢で逃げるのか。この腰抜け連中め。勇気ある奴は、この城之助に立ち向かって来い!」

 城之助は両手の太刀を振りかざし、与音を連れて前進した。憲兵たちは城之助の屋敷から外の麦畑に後退した。城之助は庭から長屋門の前に進み、誰が襲って来るかを待った。だが高崎鎮台の隊長、𠮷屋信近は冷静だった。

「近づくな。近づくな。遠く円陣を作れ。遠囲いして、城之助とお与音を捕まえるのだ」

「てめえら、向かって来ないのか?何を理由に、この城之助を捕えんとするのか?」

「先程も言ったであろう。貴様らの計画が明白になったのだ。高崎での鉄道開通式で天皇陛下を襲撃しようした貴様らの陰謀は、今や政府中央にまで伝達され、高崎鎮台は、政府から厳しいお叱りを受けている。その為、高崎鎮台は、今夜、首謀者の一人、山田城之助を捕えに来たのだ」

 城之助は計画の総てが露見してしまった今、ここで戦い抜いて、逃亡するより仕方が無いと思った。この騒ぎが近くの農民たちに知れて、やがて子分衆が集まって来ることに期待した。城之助は激昂した。

「確かにこの俺は政府転覆計画の首謀者だ。最早、逃げも隠れもしない。手柄を立てんと思う者は、この城之助の刃を受けて見よ。片っ端から、ぶっ殺してやる!」

 城之助は手にしていた両手の太刀を振り上げた。ところが、どうしたことか、その一刀だけが、柄だけ残って、憲兵隊に向かって飛んで行った。

「ややっ。城之助の刀が宙に飛んだぞ。どうしたんだ!」

 すると与音が城之助から跳び離れて城之助に言った。

「別に驚くことは無いよ。この壺振りお与音が、約束通り、太刀の目釘を夜中に抜いておいたのさ」

 城之助は仰天した。城之助の顔色が変わった。

「何だと、お与音!このあまあ、城之助を騙しおったな!」

「そうさ。どうせあんたとあたいは結ばれぬ仲。ならば惚れた男を殺してしまえ。そうすりゃあ、諦めもつくだろうって、高崎鎮台の少尉さんが、あたいに優しく教えてくれたのさ」

 与音は城之助から更に跳び退いて、悪態をついた。

「畜生!お与音。お前までもが裏切るとは。我慢ならぬ。死ねっ!」

 城之助は、あっという間に、逃げようとする与音に襲い掛かり、与音の背を袈裟懸けに斬った。

「ああっ」

 与音は振り返り、気味悪く笑うと、血飛沫を上げ、城之助に凭れかかって死んだ。憲兵たちは震え上がった。

「お与音が城之助に斬られたぞ。城之助の刀を取り上げろ!」

 江口少尉が声高に叫んだ。城之助は鬼の形相になっていた。もうこうなったら斬り死にだ。死ぬしか無い。

「てめえら、俺に近づくな。死にたい者、以外は近づくな。てめえらの手を借りなくても、城之助は自分で自分の始末をすらあ」

「む、むっ。城之助が腹を切ろうとしているぞ。腹を切らせてはならぬ。生け捕るのだ。誰か取り抑えろ。誰か取り抑えろ!」

 吉屋隊長が叫べど、誰も怖くて近づくことが出来ない。憲兵たちは恐ろしさに足がすくんで、前に動くことが出来なかった。

「城之助の死は城之助が選択する。この世で一等大切な己の命を自ら絶つ。このことは永遠の自由だ。俺の自由だ」

 そう言うと、城之助は自ら腹をかっ捌いて見せた。

「ああっ。城之助が腹を切ったぞ!信じられぬ。無抵抗のまま、上州城之助が腹を切るなんて・・・」

 城之助は高崎憲兵隊の目前で、血に染まってうずくまった。そこへ一人の男が駆け寄った。

「城之助親分。しっかりして下さい。三浦桃之助が助けに参りました。しっかりして下さい」

「おおっ、桃之助か。田代は来るのだろうな・・・」

「必ず来ます。周作が早馬で知らせに行きました」

「後は頼んだぞ、桃之助」

 城之助はその言葉を最期に、首を項垂れた。桃之助は城之助の両肩に手をやり、叫んだ。

「城之助親分。死んではならねえ。死んではならねえ」

 城之助が、ガクンとなったのを目にして、憲兵隊員が気勢を上げた。

「城之助が死んだぞ。城之助が死んだぞ!」

 その憲兵隊員の喜ぶ様を見て、桃之助は激怒した。

「畜生!もう許せねえ。てめえら束になってかかって来い。この桃之助が片っ端から、ぶっ殺してやる」

 桃之助は荒れ狂った。上州に新政府を築こうと誓った先輩同志の死を目の当たりにして、桃之助は泣いた。涙がボロボロ溢れ出た。そこへ城之助の子分衆が集まって来た。そして憲兵隊と博徒たちとの熾烈な攻防戦が始まった。

        〇

 憲兵隊と博徒たちの戦いは憲兵隊の勝利に終わった。その戦いで、山田城之助が死亡し、三浦桃之助、上原亀吉、関綱吉ら博徒組の連中が逮捕されたことを、吉田政造が知ったのは、七月一日の明け方であった。その知らせは政造の妻、安喜が城之助の子分、六助から聞いた内容だった。

「あなた。先程、六助が来ました。城之助さんが昨夜、高崎鎮台の役人に捕まり、亡くなったと言い残して、すっとんで行きました。三浦桃之助様や亀吉さんも逮捕されたとか・・・」

「えっ。それは本当か?」

「今、庄吉を土塩に走らせました」

 政造の妻、安喜は落ち着いていた。政造は布団から身を起こし、腕組みした。

「そうか。これはまずい事になったな」

 政造の妻、安喜は驚きの顔をして悩んでいる夫に訊いた。

「あなたは動かなくて良いのですか?」

 安喜の言葉に政造は戸惑った。やはり失敗したか。政造はしばし考え、決断した。

「動く必要は無い。儂が動かなくても人は動く」

「でも、城之助さんや亀吉さんや桃之助さんや甘楽の百姓さんたちは、あなた考えを信じて・・・」

「甘楽のお百姓たちは、儂のこと知らない。一之宮の光明院や城之助さんのことを信じて活動しているのだ。ここで儂が出て行ってはおかしな事になる」

 その政造の言葉を聞いて、安喜の顔が引き攣った。

「あなたは城之助さんを犬死で終わらせようというのですか?」

「城之助さんの死は決して犬死ではない。彼の死を知り、民衆は一層、燃え上がる。庄吉が戻ったら、儂に報告せよ。儂は、もう一寝入りする」

「何と無情な。それでは城之助さんが余りにも可哀想です」

「静かにしてくれ。儂はまだ眠いのだ」

 政造は、そう答えて布団を被った。安喜は知っていた。政造が布団を被って、中で泣いていることを。

         〇

 侠客、山田城之助の死は、城之助の子分、六助から秩父の横田周作に伝えられた。秩父困民党の総長、田代栄助は城之助の死を周作から聞いたが、直ぐに、それが信じられなかった。

「何、城之助親分が死んだだと?」

「はい。土塩村の麦畑で、不覚にも高崎鎮台の憲兵たちに囲まれて、これが最期と思ったのでしょう、懐に隠しておいた脇差にて、割腹死したとの連絡です」

「信じられぬ。あの不死身の城之助親分が、ここまで来て、割腹死を選ぼうとは・・・」

 すると隣りにいた加藤織平が言った。

「死を選ぶなどということが人間に出来るのでしょうか。出来る筈がありません。城之助親分は追い詰められ、総てに絶望し、割腹死したのです」

 その織平の言葉に、栄助は遠く上州の山々を見やりながら、異論を唱えた。

「いや。本庄から信州上田までの運送を取り仕切っていた城之助親分は、明治五年に助郷制度が廃止され、子分や農民たちが困窮しているのを、何とかしなければならないと苦悩していたのだ。そんな矢先に発生した自由民権運動による農民蜂起に乗じ、城之助親分は、我ら、民衆に加担する決心をしたのだ。そして城之助親分は我らに勇気と結束と武器とを与え、自己の満足を追って、死に場所を選んだのだ」

「何故、死に場所を選ぶ必要があったのでしょう」

「彼は任侠であると自負しているのに、世間からは博徒としての烙印を最後まで押され、それを何とか払拭したかったに違いない。それ故、民衆の為に蜂起し、その美しい使命の中で死にたかったのだと思う。国定忠治のような博徒では無く、民衆の為に立ち上がった平将門のような気分で、恍惚のうちに死にたかったのだ」

 田代栄助は小栗上野介の近代化の夢を語ってくれた城之助を思い出しながら、加藤織平らに話した。しかし、加藤織平や菊池貫平には、城之助の割腹死は理解し難い行為だった。

「しかし、城之助親分には、少なくとも最後の最後まで、儂らと行動を共にし、政府軍と真正面から戦う使命があった筈です。高崎鎮台兵を蹴散らし、生き延びる方法があった筈です。それを忘れ、自分勝手に死んだというのですか」

「人、それぞれに考えがある。城之助親分とて、我らと共に華々しく政府軍と戦い、勝利という結果を見て、死にたかったであろう。しかし、土塩村の麦畑で捕らえられたら、多分、山田城之助親分は、博徒、上州城之助として入牢させられ、一生を終えたに違いない。城之助親分には、それが頭にあって、割腹という形をとって、死を急いだのだ。焦り過ぎかも知れない。死に急ぎ過ぎかも知れない。しかし城之助親分にとっての自分の死は、誰にも侵害することの出来ない唯一無二の自ら選んだ自由なる死であったに違いない。城之助親分の奴、最後まで恰好をつけやがった。自殺という誰にも束縛されない死。それが城之助親分の夢であったのかも知れない」

「惜しい人を失くされました」

 横田周作が強力な親友を失って落胆している田代栄助を慰めるように言った。その言葉を聞いて田代栄助は一層、山田城之助の死を哀れに思った。

「本当に残念なことだ。これから、城之助親分の計画していた第二攻撃に、秩父困民党も続いて決起しようと考えていたのに、あのように雄々しく勇気ある男が、我ら革命軍の同志の中から消え去ってしまうとは・・・」

「しかし、城之助親分の死によって、その子分や百姓たちは、激怒し、一致団結して反撃の準備を始めたとのことです。新井愧三郎、武井多吉、中沢吉五郎らが中心になり、信州、甲州、越後、会津にも誘い掛けを行うとのことです。多分、一ヶ月後には今までと違い、大砲を持ち出し、再び高崎鎮台を襲撃する大戦争となることでしょう」

「そうか。城之助親分の子分衆や自由党員が中心となり、農民たちと共に再度立ち上がるというのか」

 横田周作の情報を耳にして、田代栄助の目が輝いた。再び農民たちが立ち上がってくれる。それも近県の自由党員を巻き込んだ一大決起革命だ。革命は必ず成功する。

「はい。主導権は急進党の連中ですが、城之助親分の子分衆が大砲を準備しているとかで、百姓たちは、それに期待しています。百姓たちは再び立ち上がります」

「ならば我らも速やかに第二攻撃の準備に入ろう。そして農民と一緒になって、政府軍と戦おう。あゝ、城之助よ。辛かったであろう。悔しかったであろう。この仇は、この仇は、田代栄助が必ず取ってみせる」

 秩父困民党の総長、田代栄助は、目に涙をにじませ、火の如き情念を吐いた。

        〇

 城之助は死んだ。田代栄助をはじめとする多くの人たちが、彼の死を悲しんだが、それは如何んともし難い事であった。政府はこの農民や博徒を巻き込んだ自由党過激派の武蜂起事件が日本全国に拡大するのを恐れ、事件を公表せず、秘密裏に始末した。民衆に甘かった楫取素彦県令は、莫大な犠牲と被害を発生させたとして、七月三十日をもって、元老院に移動となり、その後を佐藤與三が引き継ぐこととなった。かくて侠客、上州城之助の名は歴史書に、その名をとどめることも無く、空しく消えた。土塩村のかの麦畑に訪れて、その近隣の人たちに聞いてみたが、今や彼に関して、誰ももう知る者はいない。彼は今や『まぼろしの侠客』となってしまった。

          (完)