第三十五章「随心院小町」

幻の花

 延喜四年(九〇四年)春、小野小町は小町は鞍馬山の尼寺、如意山青蓮寺から都の南、山科の小野の里に戻った。理由は、鞍馬の尼寺では悲しい知らせばかりで、耐えきれなかったからであった。父母や姉と一緒に暮らした小野の里での楽しい日々が忘れられず、この思い出の里の屋敷に戻って来たのであった。しかし、かって暮らしていた屋敷は朽ち果てて、仕えていた雉丸の家族も別の所に移り住み、見る影も無かった。多くの男たちが求婚しにやって来た華やかなりし時代の屋敷とは打って変わって、そこは見るに堪えない廃屋そのものであった。小町は愕然とした。その姿は美しかった自分の容貌が、やつれ果て、今や誰にも見向きされなくなっているのと同じだった。もしかして、あの三原永益と姉、寵子夫婦が常陸国から戻って来ているのではないかと期待したが、二人は行方不明のままだった。近所の村人たちに訊いても、寵子のことは知らないと言った。小町は、かって暮らした屋敷に住むことが出来ず、あの蓮恵が入山していた随心院を訪ねた。まずは父母の墓にお参りし、寺の近くに草庵を結ぶことの許可を住職からいただき、朝な夕な念仏することにした。小町はそこで自分の過去の罪業を懺悔し、永遠の苦の循環である輪廻の輪から脱出して、全く無になろうと祈願した。

        〇

 延喜六年(九〇六年)、旱魃と疫病により、多くの死者が出た。また七月二日、大納言、藤原定国が死去した。定国は昌泰の変で、藤原菅根と共に醍醐天皇に対して「天下之世務以非為理」と奏上し、菅原道真を失脚させるきっかけを作った男であった。このことから定国は生前、道真の怨霊に悩まされていたという。それが原因で狂い死にしたという噂が世間に流れた。続いて延喜八年(九〇八年)十月七日、参議、藤原菅根が雷に打たれて死んだ。人々は、これらの災難は菅原道真の恨みによるものであると、噂し合った。そういえば藤原菅根は菅原道真の左遷を中止させようとした宇多上皇の参内を阻止した者として、人々に知られていた。彼が雷に打たれて死んだのは、その祟りだということになった。この噂は当然、左大臣、藤原時平の耳にも入った。時平は道真を恐れた。時平は配所で死ぬ時の道真の無念さを思った。

「道真は死の床にある間、この時平を呪い続けていたに違いない。いや、死んでからも、わしや三善清行を呪い続けているに違いない。恐ろしや、恐ろしや。どうすれば良いのじゃ」

 時平は南海の果てで倒れた筈の恐るべき敵、菅原道真が怨霊となって自分を狙っているのを感じ、その呪いに苦しめられた。蛇に化身した道真が夢に現れた。時平は怨霊を鎮める為、各地の神社仏閣に人を派遣し、平癒を祈願させた。しかし、天は時平の味方をしてくれなかった。延喜九年(九〇九年)四月四日、左大臣、藤原時平は、三十九歳の若さで死去した。その早すぎる死は、定国や菅根同様、怨霊となった道真の祟りと噂された。この道真の怨霊に対する恐れは年と共に強まった。醍醐天皇も、その怨霊に怯えた。

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 そんな世間の愚かしいことは、無に近づきつつある小町には、今や無関係であった。南の肥後国に生まれ、その肥後から幼くして上京し、宮中に仕え、多くの人たちと巡り合い、沢山の恋を繰り返し、焦燥や挫折を乗り越えて自分の夢を追い続けて来た人生は、もう、ここらで終わりにしたかった。もう、若い頃のような強さ、しなやかさは、小町の体内から湧き上がって来なかった。それ故に親しかった人たちのいるあの世に行って、安らぎを求めたかった。そして、この世の平安を祈った。

  世の中の 過ぐる月日は 望月の

  光りみつごと 静やかであれ

 かく願った小野小町は、延喜十三年(九一三年)三月十八日に卒去した。行年六十九歳であった。小野の随心院には、現在、小町の姿見の井戸、供養塔、化粧桜、小町が艶書で下張をしたといわれている地蔵尊等、小町ゆかりの遺跡や遺物があるが、ここが小町の終焉の地であるか、定かではない。美人薄命というが、長生きした小野小町の一生は例外なのだろうか。必ずしも、そうとは思えないような気がする。ここで小町の歌を二つ載せておこう。

  あはれなり わが身のはてや 浅みどり

  つひには野辺の 霞と思えば

  世の中は 夢かうつつか うつつとも

  夢とも知らず ありて無ければ

 何とも無残で哀感の籠った歌であろうか。絢爛と花開き、年齢と共に老いという枯れ行く宿命に抗いながら葛藤して来た小町の孤独と哀しみは、実に遣る瀬無くて辛い。これが人の一生というものなのかも知れない。

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あはれなり わが身のはてや 浅みどり ついには野辺の 露と思えば