第三十三章「関寺小町」

幻の花

 寛平七年(八九五年)七月七日、七夕の日のことであった。宇治の僧が歌の上手な老婆がいるという噂を聞いて、小坊主たちを連れて関寺近くにやって来た。村人に訊きながら老婆がいるという山陰の里を訪ねると、辺りには飄々たる冷風が吹いていて、夏草も花を揺らし、松風までも、辺りの情景に相応しい吹き具合だった。七夕ということで、遠くから祭の楽器の音色などが流れて来て、何とも情趣ある夕べであった。僧たちが歌の上手な老婆は何処にいるのだろうと、噂を頼りに辺りを捜していると、山麓の柴の庵の中から、こんな歌が漏れて来た。

  朝に一鉢を得ざれども、

  求むるにあたわず。

  草衣、夕べのはだへも隠さざれども、

  おぎなうように便り無し。

  花は雨の過ぐるによって、

  紅ひ、まさに老ひたり。

  柳は風にあざむかれて、

  緑やうやく垂れり。

  人、更に若きこと無し。

  終には老の鶯の

  ももさえずりの春は来れども、

  昔のかへる秋は無し。

  あら来しかた、恋ひしや。

  あら来しかた、恋ひしや。

 宇治の僧は不思議に思い、もしやと、そのあばら家を訪ねた。あばら家の戸を開け、中を覗くと、暗闇の中に老婆が座っていた。僧が老婆に近づき声をかけようとすると、老婆が先に言った。

「どなた様でしょうか。黙って家に入って来られたお人は。私は目も霞み、頭も呆けてしまっているので、どなた様か分かりませんが」

「愚僧は、ここからそれほど遠くない宇治山に住む僧ですが、関寺近くに歌の上手な貴女様が住まわれていると聞き、貴女様に歌の詠み方など御教示していただこうかと、稚児たちを連れて、ここまでやって参りました。どうか大和歌の詠み方などを御教示願いたいのですが」

「これは思いもよらぬことを。私は埋もれ木の人知れぬ身となり、今やものの表に出るような者では御座いませんのに。しかし貴僧の仰せられる大和歌は、実に素晴らしいものと思っております。人の心を種とした詞の花。その色香に染まったなら、大和歌の風流を知りたくなるのは当然のことです。優しい幼き者を風流の道に心寄せさせようとする貴僧の心がけは感心なことです」

「およそ人が説教するのは〈難波津に咲くやこの花、冬ごもり、今を春べと咲くやこの花〉の歌からであろうかと存じますが、如何でしょうか」

「その通りですね。大和歌は遠い昔より始まったとはいえ、千早振る神代には、まだ歌の文字数も定まらず、心を素直に歌に表現したかったものの、その真意が歌に上手く詠み込めなかったようです。しかし人の世になって、仁徳天皇様が目出度く御即位なされた際、その治世の繁栄を願って詠んだ『難波津の歌』の調べが誠に心地良かったことから、歌の文字数が三十一文字と定まり、以後、歌を手習う初めに『難波津の歌』がもてあそばれるようになったとのことです」

 老婆は歌の話を始めると、小坊主たちがびっくりする程、良く喋った。それに合わせて、宇治の僧が合いの手を入れた。

「また『浅香山の歌』は女が詠んだ秀歌と聞いていますが、本当に女の歌なのでしょうか?」

「はい。それは葛城王が巡行の折、地方の国司の接待が悪かったので、大君が不満そうでいたら、その地の采女が、大君の心を和らげる為に唄った歌とのことです。大君は、その歌を聞いて御機嫌を直したとのことです。男って女に弱いですわね」

「浅香山、影さへ見ゆる山の井の、浅くは人を思ふものかわ」

「そうです。その女心をこめた歌に、大君は機嫌を直し、采女の歌の素晴らしさを、お誉めになったそうです。貴方様は宇治山の僧侶とのことですが、歌のことを全く詳しく知っていますね」

「これら二つの歌については少しばかり」

 老婆は宇治の僧が次々と喋るので、この僧が、もしや歌心のある素性法師ではないかと疑ってみたが、素性法師の声では無かった。そこで老婆は小坊主たちを驚かせようと、二人の話のテンポを速めた。

「以上の二つを『歌の父母』として」

「貴き人も賎しき人も、分け隔てなく」

「都鄙遠国のひな人や私たちのような庶民までもが、分け隔てなく」

「大和歌に寄せる心は」

「近江の海のさざなみや、浜の真砂は尽きるとも、その歌う言葉を尽きさせることはありません。青柳の糸が絶えず、松葉が散り失せぬように、大和歌に寄せる歌人の心の種は生き続けます。それにしても、歌詠みが多いという中で、まだまだ女の歌詠みの数が少ないのは残念で御座います」

「ましてや老女の例は全く少ないですが、この歌は女の歌なのでしょうか」

 宇治山の僧は、そう老婆に訊ね、口に出して歌った。

  わが背子が 来べき宵なり ささがにの

  蜘蛛のふるまで 今宵、著しも

 それは允恭天皇の皇后、忍坂大中姫の妹、衣通姫の歌であった。衣通姫は容姿端麗で、まばゆいばかりの肌の細やかさから、その身体の美しさが衣を通して光り輝いて見えたことから、衣通姫と呼ばれた。允恭天皇はこの衣通姫を秘かに寵愛された。衣通姫もまた姉に忍んで、允恭天皇を恋慕したという薄幸の歌人で、その歌の意味はこんなだった。

〈蜘蛛が衣の上に着くと、恋しい人が訪ねて来ると昔から言われていますが、今宵は恋する人が、御出でになりそうです。何故かというと、蜘蛛があんなにせっせと巣を張っているのですもの〉

 何と優艶な歌風であろうか。流石の允恭天皇も、この歌を聞いて、衣通姫に夢中になってしまった。そんなであるから当然、二人の関係は衣通姫の姉に知れることになり、彼女は皇后から嫉妬されることになった。衣通姫は姉の嫉妬に耐えられず、和泉国へ逃亡した。しかし彼女に首ったけであった允恭天皇は、彼女を忘れることが出来なかった。允恭天皇は衣通姫を探し出し、狩猟にかこつけ、和泉国の彼女のもとへ通った。それを知った皇后は一層、妹を憎み、自分は自殺すると言って、二人の恋の邪魔をした。允恭天皇は慌てて出産間近かの皇后に平身低頭、謝った。そんな恨みをかった恋であるから、二人の恋はついに実らずに終わった。その衣通姫の歌について僧から質問され、小町はこう答えた。

「これは衣通姫様の御歌です。衣通姫様は允恭天皇様の御妃であった御方です。私も衣通姫様の歌の形から、女の歌風を学ばせていただきました」

「貴女様も衣通姫の流れにて、歌をお詠みになられるのですか」

「はい、そうです」

「あの有名な小野小町様の歌も、衣通姫の流れと承っておりますが」

 僧は、そのように喋ってから、小野小町の歌を口にした。

  侘びぬれば 身を浮草の 根をたえて

  誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ

 それはかって、大江惟章が心変わりして、世の中を憂く思っていた時に、文屋康秀が、三河国の大掾になって下るのによせて、田舎にて心を癒したらと誘ってくれた時の小町の返歌であった。それは全く忘れてしまっていた二十年前の歌であった。もしあの時、康秀と共に三河国に同行していたら、今頃、子供たちが成長し、都で楽しい暮らしをしていたかも知れない。老婆はその歌を聞き、涙を滲ませた。忘れていた古い昔のことが、長い年月を経て、再び思い出され、深い思いに沈んだ。僧は老婆に確認した。

「この歌は小野小町様の歌ですよね」

「忘れていましたが、その歌は小野小町の歌のようです」

 僧は歌に詳しい老婆の答え方が、何故かぎこちなく、はっきりせず、困惑した様子なのを察知して、老婆に訊ねた。

「不思議なことです。小町様の歌物語をするうちに、『侘びぬれば』は小町様の歌とは言いきれず、涙にむせぶ御様子、また衣通姫様の流れとも言う。げに年月の経過を考えても、小町様が、この世に生きながらえて、ここにいても何の不思議は御座いません。今や不審も何も御座いません。貴女様は小野小町様ですよね」

 僧の言葉に老婆は慌てた。僧の視線を恐れた。この哀れな姿が恥ずかしかった。老婆は僧に答えた。

「恥ずかしいことです。私が小町とは」

「貴女様は、あの小町様です」

 すると老婆はこう返答した。

「あの『色見えで』の歌は知っていますが・・・」

 そう言ってから老婆が歌を唄い出した。僧はその歌を小坊主たちと一緒になって聞いた。

  移ろうものか世の中の

  移ろうものか世の中の

  人の心の花みゆる。

  恥ずかしや侘びぬれば 

  身を浮草の根を絶えて

  さそふ水あらば今も 

  いなんぞと思ふ恥ずかしや。

  げにやつつめど 袖にたまらぬ 白玉は

  人をみぬめの涙雨。

  花しをれたる身の果てまで

  何、白露の名残ならむ。

  げにや思ひつつ、

  ぬればや人の見えつらむと読みしも

  今、いにしへに、ながらへ来ぬる年月を

  送り迎えて春秋の露けき霜きたって

  草葉変じ、虫の音もかれり。

  生命すでに限りとなって、

  只、槿花一日の栄に同じ。

  有るはなく、なきはかずそふ世の中に

  哀れいづれの日まで歎かんと

  詠ぜしことも我ながら、

  何時までも草のはなさんじ。

  葉、落ちても残りけるは、

  露の命なりけるぞ。

  恋しの昔や、あしのばしの

  いにしえの身やと思ひし時だにも、

  又ふることに成りゆく身の

  せめて今は又、はじめの老ぞ恋しき。

  哀れげに、いにしへは、

  一夜とまりし宿までも、玳瑁を飾り、

  かきに金花をかけ、

  ときには水精をつらねつつ、

  鶯輿、飾車の玉ぎぬの、

  色をかざりて、しきたへの

  枕づくつまやの内にしては、

  花のにしきのしとねの

  起臥なりし身なれども、

  今ははにふのこや玉を

  敷きし床ならん。

  関寺の鐘の声、諸行無常と聞くなれども

  老耳には益もなし。

  逢坂の山かぜの是生滅法の理、

  思えばこそ。

  飛花落葉の折々は、

  すける道とて草の戸に

  硯をならしつつ、筆を染めて藻しほ草

  かくや言の葉もかれがれに、

  哀れなる様にて、つよからず、

  強からぬは女の歌なれば

  いとどしく老の身の

  弱り行く果て悲しき。

 宇治山の僧は、老婆が今の身を恥じ、小町であるのに小町であると答えられない矜持を知り、可哀想になった。そこへ関寺の住僧が宇治山の僧たちを迎えにやって来た。宇治山の僧は、これは良い機会であるとばかりに老婆を誘った。

「丁度良い。貴女様も関寺で催される七夕祭に参加してみませんか」

「思いもよらぬ事で御座います」

「もし良かったら御参加下さい」

 関寺の住僧も顔見知りの老婆に声をかけた。躊躇っている老婆に宇治山の僧が言った。

「遠慮されることはありません。稚児たちよ、ただただ御手を引き申せ」

 こうして一同は老婆の暮らすあばら家から関寺の住僧に招かれて寺に赴いた。寺では今宵、織姫の祭ということで、村人たちが集まり、糸竹管弦を催し、童舞などを披露して楽しんでいた。その演奏者の中に盲目の琵琶法師、蝉丸もいた。それに宇治山の僧たちが加わった。宇治山の僧が興を添える為に唄った。

  たなばたの織る糸竹の手向草

  織る糸竹の手向草。

  いく年へてか かげろふの

  小野小町が百歳に 及ぶや天津星合の

  雲の上人になれなれし。

  袖も今はあさ衣の

  あさましや 痛はしや。

  目も当てられぬあり様。

  とても今宵は七夕の、

  とても今宵は七夕の

  手向の数も色々の あるひは糸竹に

  かけて廻らす さかづきの

  雲をめぐらす童舞の袖ぞ面白き。

  星まつるなり。

  呉竹の年待ちて逢うとすれど

  七夕のぬる夜の数ぞ少なかりける。

 老婆は、その唄の面白さに何時しか心も昔に返って、楽しくなり、宇治山の僧に言った。

「全く面白い童舞の袖ですこと。伝え聞く五節舞では、舞の袖は五返し五返し致します。今宵は七夕祭なれば、舞の袖は七返し七返しして躍るべきでしょう。百年は百年の花になれ来し胡蝶の舞い、とくと御覧下され」

 老婆は、そう言って立ち上がると、突然、舞いを踊り始めた。盲目の琵琶法師、蝉丸が、それに琵琶の演奏を合わせた。思わぬ老婆の跳び込み参加に、寺僧を始め、村人たちもびっくりした。

  あはれなり あはれなり。

  老木の花の枝

  さす袖もた忘れ 裳裾も足弱く

  ただよふ浪の 立ちまふたもとは

  ひるがえせども

  昔にかへす 袖はあらばこそ。

  恋しの いにしへやな。

 老婆は舞いの手も、返す袖も時々忘れ、その上、足腰もヨロヨロであったが、それでも昔を偲び、憧れ、舞いを踊り続けた。老婆の七返しの舞いが終わるや、寺僧や宇治山の僧や村人たちは一斉に拍手喝采して、老婆の舞いを褒め称えた。その後も村人たちが代わる代わる唄ったり踊ったりして夜は更けて行った。

        〇

 翌朝、関寺の鐘が鳴った。小鳥たちも朝がやって来たぞと、しきりに鳴いた。それを耳にすると、老婆は関寺の本堂の廊下で目を覚ました。恥ずかしいことに、踊り疲れた老婆は、昨夜からそこで眠ってしまっていたのだ。その疲れきった老婆の顔は百年の老婆と言われても仕方ない哀れな姿だった。起き上がった老婆を見て笑っている宇治山の僧に、老婆は訊ねた。

「貴方様は一体、どなた様なのでしょう。歌の心得のある有名な御方と存じますが?」

 すると宇治山の僧は自分の詠んだ歌を披露した。

  わが庵は 都のたつみ 塵ぞ住む

  世を宇治山と 人はいふなり

 小町は、この歌を聴いて、この僧こそ、あの素性法師の弟子の喜撰法師であると気付いた。その通りで、喜撰法師は素性法師に依頼され、小町の様子を知りに、関寺に訪問したのであった。

        〇

 八月の末、小町は鞍馬の如意山青蓮寺の住持、信法尼から八月二十五日、左大臣、源融が死去したとの知らせを受けた。小町は自分を可愛がってくれた『竹取物語』の作者、河原左大臣、源融が亡くなったことを知るや、都に引き返した。二十八日、以前に訪れたことのある嵯峨野の棲霞観に行き、融の冥福を祈った。

  みな人は 山の霞と消えはてむ

  君と別れの 時ぞ悲しき

 その折、小町は菅原道真と再会することが出来た。道真は何と参議に出世していた。

「私は朝議により、遣唐使に選ばれましたが、唐の政情不安と我が国が財政逼迫時であることを考え、遣唐使派遣を一時、停止することにしました。貴女の祖父、小野篁様が、遣唐使派遣についての出費に頭を悩まされていたのが良く分かります」

「そうですね。財政の苦しい時に、古い船を使っての渡海は危険です」

「それに近頃は唐からの商船も多く、唐の文化も容易に入手出来ます。また唐に頼らない我が国独自の大和歌のような独立した文化や技術も育っております」

「そう言って大和歌のことを大事に思っていただけることは、大和歌の愛好者として、とても仕合せです」

 小町は久しぶりに道真と語ることが出来て嬉しかった。しかし、親切に歌の指導をしてくれた源融たちが亡くなると、急に都から離れていることが不安になった。五十歳を過ぎると、月日の去るのは早い。時は川の流れのように次から次へと、流れ去って行く。小町には道真のような身近な知り合いが必要であった。小町は、これを機に近江国の関寺から鞍馬山の尼寺、如意山青蓮寺に戻ることにした。

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あはれなり あはれなり 立ち舞ふたもとは 

ひるがえせども 昔にかへす 袖はあらばこそ 

恋しの いにしへやな