第三十一章「墨染め小町」

幻の花

 仁和二年(八八六年)初夏、都に戻った小町は、紫野の雲林院に訪問し、遍昭と素性に会った。そこは花山元慶寺の別院になっていて、遍昭親子が管理していた。遍昭は光孝天皇と若い時から親交があったので、光孝天皇から花山僧正と呼ばれ、宮廷からも重用されていた。七十歳を過ぎたというのに、全く元気だった。遍昭は小町に会うなり言った。

「小町よ。未だ髪を落とさず、俗世を捨てきれぬのか。最早、女としての自分を恋しく思う年頃でもあるまい」

「そう思い、本日、御伺いしました」

「そうか。ならば良い。素性。小町の髪を下ろしてやれ」

「畏まりました」

 素性は、その日のうちに小町の髪を下ろした。小町の髪は二十年前、斑鳩の里で抱きしめた若き頃のあのまばゆい程の艶やかさは無く、既に白髪が混じっていた。髪を下ろした小町は、小野の里に帰らず、鞍馬山の麓にある小野家の所領に小さな天台宗の寺を構え、如意山青蓮寺とした。そして、そこの尼僧、月心として、俗世と縁を絶ち、墨染めの衣をまとい、日夜、仏道に専念した。小町の相手は、仏と経典と自然と村人たちであった。小町は山寺、青蓮寺で朝日を迎え、昼間、読経し、夕月を見て眠るといった毎日を過ごした。仏に祈り、経典を読み、花や草や雨や風を楽しみ、蝶や小鳥と戯れた。世間とは全く無関係であった。だからといって普通の人とは違うので、世間から忘れられるなどということは無かった。

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 仁和三年(八八七年)八月二十四日、病気がちであった光孝天皇が危篤状態に陥った。関白太政大臣、藤原基経は慌てた。基経は、かって姓を賜った者が帝位についたことが無いと源融に言っておきながら、その翌日、光孝天皇の子、源定省を親王に復帰させ、二十六日に立太子させた。何と強引であることか。後継者を得た光孝天皇は安心し、同日、五十八歳で崩御した。そして基経の指示に従い定省親王が後を継ぎ、宇多天皇として即位した。この基経の遣り口に不満はあっても、もう老齢の源融らには反対する気力が無かった。引退した陽成帝は、一旦、臣籍降下したにもかかわらず、父、光孝天皇の後を受け即位した宇多天皇のことを笑った。

「あいつは、かって私に仕えていた元侍従ではないか。何故、あいつを天皇にしたのか?可笑しいことが起こるものだ」

 全く世の中というものは理想通りなならないものである。予期せぬことばかりが起こった。小町は話を耳にして、納得出来なかったが、最早、仏門に入った身、誰が皇位を継承しようと関係無いことであった。

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 太政大臣、藤原基経は光孝天皇の後を異母妹、藤原淑子の養子である宇多天皇に践祚させ、一安心した。しかし、この宇多天皇は陽成帝と同じく若過ぎるが故に、論理的学者たちの意見を多く採用した。宇多天皇は即位して間もない十一月二十一日、基経宛てに関白を頼むとの詔勅を出した。基経は先例により、一旦、それを辞退した。宇多天皇は、左大弁、橘広相に命じて二度目の詔勅を出した。その文章を読んだ基経の家司、式部少輔、藤原佐世は基経に進言した。

「これは万機巨細、百官己に総べ、皆太政大臣に関わり白せという詔とまるで異なります。宜しく阿衡の任をもって卿の任となすべしとは、関白を頼むとの文章では御座いません。阿衡というのは職掌の無い位であって、政治に関与すべきでない位に任命するという意味です」

「何と。阿衡と関白とは意味が違うのか」

「はい。阿衡はより高い名誉の位ですが、職務の無い地位に御座います」

「ということは、このわしに名誉職を与えるから、政務には関与するなということか」

「はい。そうかとも」

「くそっ。わしが天皇にさせてやったというのに」

 基経は佐世の進言を聞き、激怒した。陽成帝の時と同様、自宅に引き籠もり、政務を拒否することにした。その為、政務は渋滞し、宇多天皇の政治は初めから捗らず、困ったことになったが、庶民には関係ないことであった。

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 仁和五年(八八九年)四月二十七日、改元があり、寛平元年となった。だが基経が立腹したままで、宇多天皇は朝政が思うように進まず、苦悩した。宇多天皇は自分より年下の基経の息子、蔵人頭の藤原時平に直接、相談してみた。

「どうすれば基経殿が政務に復帰してくれるか教えてくれぬか」

 すると時平はこう答えた。

「父が申すには、この紛糾を解決するには、起草した左大弁、橘広相を島流しに処するしか方法が無いとのことです」

 それを聞いて、宇多天皇は更に苦悩した。宇多天皇は橘広相の娘、義子を女御にしており、悩んだ末、うっかり、そのことを義子に話してしまった。父の危急を知った義子は兄、橘公廉に父の危急を救うよう伝えた。公廉は慌てた。どうすれば良いのか、思案した。そして公廉は父と昵懇であった菅原道真のことを思い浮かべた。しかし、その道真は遠い讃岐国にいて、都に不在だった。公廉は、昨年、讃岐国から帰ったという小野小町のことを耳にしていたので、秘かに鞍馬山の麓、如意山青蓮寺に小町を訪ねて相談することにした。小町は訪ねて来た若い公廉に訊いた。

「こんな山奥まで、何事かあったのですか」

「実は父、広相が罷免されそうなのです」

「まあっ、それは大変なこと」

「父は要領が悪く、同じ文章を書けば良かったものを、文人として二度、同じ文章を用いるのを嫌って、違う文章を起草したのがいけなかったのです。私が思うに、この問題を解決していただくには、道真様のお力を借りる以外に方法がありません」

「そうかも知れませんね。それで私に何かせよと?」

「はい。私自ら讃岐に赴き、道真様に父を救っていただくよう、お願い致します。そこで讃岐から帰られた小町様に、如何にすれば一時も早く讃岐に行けるか教えていただきに参ったのです」

「なら私と讃岐に同行した鴨丸に案内させましょう。道真様は広相様を学問の兄と尊敬しておられます。必ず名案を教えてくれるでしょう」

 小町は、その場で道真への手紙を書き、鴨丸に公廉と一緒に讃岐に行くよう指示した。橘公廉は涙を流し、小町に感謝し、鴨丸と共に急いで讃岐に向かった。

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 橘公廉の訪問を受けた讃岐の国司、菅原道真は、父、菅原是善に学んだ橘広相が窮地に立たされていることを知り驚いた。道真は藤原基経に直接、会って意見を伝えるしか方法が無いと思った。道真は急遽、公廉らと従者を連れて都に戻った。ところが時、既に遅く、道真が都に到着した時には、橘広相は罷免されていた。道真は怒りを覚えたが、怒りを抑え対策を考えた。まず学問を教えたことのある基経の息子、時平に会って相談した。賢明な時平は道真と会い、如何にすれば問題が解決するか道真と議論した。そこで二人が画策したことは、道真が書いた意見書を基経に提出することと、基経の娘、温子を女御に昇格させるという具申であった。道真は基経を説得する意見書をまとめ、時平に提出した。その趣意は次のようであった。

〈畏れ多い太政大臣様宛に、田舎国司である自分が意見書を書く無礼をお許し下さい。この意見書を書くに至ったのは、次の二つの理由によるものです。第一は己の業の為です。己の業とは、菅家に生まれた自分の学者、文人としての職業のことです。文章を作る者は必ずしも経史の全説を取るものではありません。たまたま、その一部の文章を採用し、義となすものです。左大弁、橘広相殿が伊尹の旧儀を取って典職にあてたのは、本義に背くかも知れませんが、けれど、典職無しとして、文章を作ったのでは御座いません。詔勅に同じ文章を二度、書くことは慣例として許されないことから、広相殿は別の文章にされたのです。もしこれによって、広相殿を罰するようなことがあれば、この後、文章を作る者は、皆、罪科を負わなければなりません。そんなことになったら我が国に文人はいなくなります。我が国の書物は廃滅してしまうでありましょう。我が国の文業を消滅させない為にも、阿衡などという文言に拘ることなく、文業を擁護し、関白として、政務に邁進されますよう、お願い申し上げます。そして第二の理由は、太政大臣様ご自身のことを思っての意見です。基経様は忠仁公、良房様の後を引き継ぎ、諸天皇から大政を委ねられ、その功績は藤原氏の古来からの血を引く者として御立派であることは、万民の知るところで御座います。その基経様が、共に帝の擁立に功績があり、その娘を帝に幸せられている広相様を罪することは、決して藤原氏の為にも、取るべきことでは御座いません。基経様の優れた徳により、先祖の不朽の名を落とさないことが、何より肝要です。万尋の堤防も一蟻の為に崩れる恐れがあります。どうか心を広く持ち、この道真の具申をお聞き届け下さいますよう伏して申し上げます〉

 基経は時平から道真の意見書を受け取り、それを読んだ。基経は橘広相の弁護だけでなく、藤原氏の前途を思っての道真の意見書を成程と思って読んだが、心動かされることは無かった。時平は父に訊いた。

「如何でしょう。道真様の御意見は?」

「文業の仲間を思う道真の気持ちは分かるが、わしを排除しようと考える広相は許せぬ」

「道真様は、この意見書を私に託しながら、広相様を復帰させ、私の妹、温子を早く女御にさせることが、賢明だと仰有っておられました。私は道真様の言う通り、妹、温子を早く女御にするべきだと思います」

 基経は時平の熱心な説得についに折れて、橘広相を復帰させ、自らも再び国政に参加することにした。そして事態は終息し、十月初め、基経の娘、温子は目出度く女御となった。

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 翌寛平二年(八九〇年)一月十九日、花山僧正、遍昭が七十四歳で遷化した。遍昭は小町にとって在原業平同様、人生の恩人であった。初めて交野で出会った時、小町を見て落馬した遍昭や、『お歌合せ』で再会した時の遍昭、左大臣、源融の六条河原院の宴や石山寺などの寺院での行事の折、目にした遍昭など、数々の出会いが思い出された。仁明天皇の崩御により出家した遍昭は、業平ほど、放縦不拘ではないが、僧にしては色気があり、業平らと歌道を楽しみ、多くの宮廷人の和歌の師として仰がれる存在であった。その遍昭が、まるで巨木が突然、倒れるように音も無く亡くなったと聞き、小町は嘆き悲しんだ。親しくしていただいた人たちが、次々にこの世から去って行く。人生とは何と辛く空しいことか。小町は紫野の雲林院に駈けつけ、素性法師に弔慰を伝えた。

  天つ風 雲の通い路 吹きとじよ

  をとめの姿 しばしとどめむ

  花の色は 霞にこめて 見せずとも

  香をだに盗め 春の山風

  よそに見て かへらむ人に 藤の花

  はいまつわれよ 枝は折るとも

  山風に 桜ふきまき 乱れなむ

  花のまぎれに 立ちとまるべく

 遍昭の歌には学ぶところが、沢山あった。これから、歌の道の他、仏の道など、まだまだ御指導いただかねばならぬ事があったのに、残念でならなかった。小町は、それから数日間、何もする気になれなかった。そんな小町の所に、明るい知らせが入って来た。讃岐国の国司の任期を終了した菅原道真が、都に戻って来た。宇多天皇にとって、御意見番、遍昭が亡くなり、落胆していた時だけに、藤原基経親子に意見出来る菅原道真の帰京は、何とも心強く嬉しかった。京官に戻った道真は『阿衡事件』の折、基経を説得したとして、宇多天皇に重用されるとともに、太政大臣、基経からも信頼された。かかる状況から、道真の日常は多忙であったが、それでも暇を作り、鞍馬山の麓の尼寺、青蓮寺に小町の様子伺いにやって来た。老いたる小町にとって、左大臣、源融同様、菅原道真らが、時々、この侘び住まいにやって来て、文学を語り、談笑し、寺の援助をしてくれることは有難かった。

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 寛平三年(八九一年)一月十三日、関白、藤原基経が没した。基経の長男、時平はまだ若く、左大臣、源融も大納言、藤原良世も共に七十歳の高齢であったことから、若き宇多天皇は、青年天子としての自覚に立ち、理想政治を実現しようという熱意に燃えた。それに従い、優秀な藤原保則、菅原道真、紀長谷雄らを昇進させた。道真はこれに伴い、急に多忙になり、小町のことなど気にしていられなくなった。道真からの使者は来ても、本人とお会いすることが出来ず、小町は寂しくてならなかった。

  おぼつかな 野辺の細道 来む人を

  待ちわぶ心 千々に乱れて

  けふもまた 憂き世の人を なぐさめむ

  墨染め着たる 如意の山寺

 小町は心を落ち着かせる為、尼寺の庭掃除や部屋掃除などの雑事を行い、肉体を使い、その後、読経や経典を読んで信仰を深め、寂しさを紛らわせて、山寺の日々を過ごした。

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けふもまた うき世の人を なぐさめむ 墨染め着たる 如意の山寺