元慶三年(八七九年)正月三日、清和帝の護持僧、真雅が遷化した。真雅は内裏に宿直し、幼年からの清和帝を護持し続けて来た。清和帝は自分を教育してくれた真雅を失って悲しみに暮れた。同じ正月七日、真雅同様、清和帝の教育指導に当たっていたことのある菅原道真が従五位上に昇格した。清和帝は自分を可愛がってくれた道真の昇進を、自分の事のように喜んだ。一方で、真雅や道真に禁じられていた小町との恋を後悔していた。赤鬼を庇った小町は、どう考えても、鬼女であった。かって真雅や道真らが言っていた彼女の神霊力とは、鬼道に違いなかった。その小町が、新年になるや、また歌を送って寄越した。
若菜つむ 春の岡辺に 出てみれば
君はまだかと 鶯の声
春霞 我をあはれと 思ふらむ
花咲く里にて 待つ夕べかな
あやめ草 人に寝たゆと思ひしは
わが身のうきに おふるなりけり
清和帝は悩んだ。小町との愛欲の日々は忘れ難く、どうしたら良いのか、分らなかった。中断している恋を、復活するべきであるか。諦めるべきであるか。だが小町は邪悪な恐ろしい鬼女だ。これ以上、彼女に翻弄され、その毒牙に身を投じることは出来ない。清和帝は昼夜、苦悩し、日々、痩せ細って行った。そして突然、出家すると言い出した。愛欲に溺れた自己を反省し、仏に救いを求めるというのだ。清和帝は五月八日、宮廷を出て、藤原基経の山荘である加茂川の東、粟田院にて頭髪をおろし、俗界を離れた。その原因は、異母兄、惟喬親王など三兄をさしおいて皇位についた苦悩、在原業平と秘事を重ねて来たしたたかな后、高子に対する悔恨、小町との乱交による疲労、僧侶、真雅によって知った仏教への帰依など、数多くのことが噂された。清和帝は法名を素真と号し、頭髪をおろすと、托鉢修行して仏道を極める頭陀の計画を立てた。
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そんな清和帝のことを知ると、小町はいても立ってもいられなくなった。六月の中旬、小町は加茂川の東、粟田院を訪問した。御寵愛いただいた清和帝に是非とも、お会いしたいとお願いするが、清和帝と同時に出家入道した顔見知りのもと殿上人が現れ、面会を拒絶した。落髪された清和帝は仏道に帰依し、朝夕の膳は蔬菜のみとし、女色を絶っているという。小町は折角、粟田院まで訪ねたのに、愛しい清和帝に会うことも叶わず、落胆して山科の屋敷に帰った。もっとも真雅に代わって護持僧になった宗叡を戒師として落髪入道したばかりの清和帝にお会いしようと、陽成天皇が行幸しようとするのを、清和帝が断った程であるから、清和帝の仏教に対する信仰心は強固厳然として、何人たりとも、それを揺るがすことが出来なかった。その一徹な清和帝の頭陀の計画は秋になって実行された。十月二十三日、清和帝は粟田院を出発し、粟田寺に泊り、翌朝、牛車に乗り、参議、在原行平、藤原山蔭らを従え、大和国へ向かった。陽成天皇はそれを知り、清和帝の兄であり、参議である、源能有と六衛府の兵、十人を、その護衛に遣わした。ところが清和帝は、その総てを不要と言って帰した。そして気の合った参議、在原行平、藤原山蔭らと共に、真雅の為に建立した山城国の貞観寺から、大和国東大寺、竜門寺などの諸寺、さらに摂津国勝尾寺を巡礼し、山城国海印寺に立ち返り、再び丹波国水尾山に入って、その山を終焉の地と定め、仏家としての行いに心身を捧げる生活に入った。かかる知らせを聞くたびに、小町は溜息をついた。
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元慶四年(八八〇年)正月、在原業平は蔵人頭兼美濃權守になった。年老いた業平は現地には行かず、都にとどまり、美濃国の政治を自分の従者たちに任せっきりだった。二月になると業平の体調が急に悪化し、業平の息子、棟梁をはじめ、滋春は、それを心配した。恬子内親王も業平の傍らにいて、その看病に尽くした。四月になると、陽成天皇の母、高子までもが、人の噂など気にせずに見舞いに訪れた。彼女は陽成天皇と業平を面会させられぬことを、辛いと涙した。五月五日になると、業平は全く衰弱した。兄、行平は典薬寮から倭薬を取り寄せ、名医を呼んで、業平の病気を払う為のあらゆることをさせた。だが、それは効き目が無かった。勿論、陰陽師や修験者などの修法や方術など、お話にならなかった。高子が唐薬を取り寄せて、業平に与えても駄目だった。そんな風であるから、何時か何時かと、多くの人が心配して、在原家にやって来た。豊前国の宮司、秦文勝の妻となった後、自分の愚かさを恥じ、尼になった棟梁の母、則子も、業平の容態を知ると、在原家に戻って来て、業平に取りすがって泣いた。業平は自分の死を見届けようと思って集まって来た人たちに触れ、自分はついに胡蝶となって天へ昇って行けるのだと思った。彼は胡蝶に転化する夢のくるめきの中で歌った。
ついに行く 道とはかねて 聞きしかど
昨日 今日とは 思はざりしを
それはまさに業平、今はの歌であった。五月二十八日、子の刻、在原業平は、五十六歳をして、永遠に帰らざる人になった。業平の死を知るや、小野小町は、業平の屋敷に駈けつけた。業平の棺のもとに沢山の女たちが、花のように集まっていた。業平の妻、則子、恬子内親王、中宮、高子、源能有の妻、多恵子、藤原多美子、在原文子。その名を上げればきりが無かった。小町は、その沢山の女たちに混じって、業平の死を悼んだ。豊かな才能を風流の世界にのばし、生を愛し、歳月を惜しみ、愛情の美しさを、ひたすら求め続けた在原業平の死に、小野小町は、自分を陰で支えてくれた大樹を失ったような衝撃を受けた。互いに当代随一の歌を愛する美男美女と騒がれた間柄でありながら、一つとして恋愛的関係を持たなかった業平と自分。この二人の和歌道によってつながっていた堅い信頼と敬愛は、ここにいる他の女たちには分からない二人だけの心の花であった。その美しい花は業平の死によって、王朝の栄華の中に気づかれぬ愛として儚くも散ってしまった。かって業平は小町に言った。
「男の友情は共に美しく死ぬことである。もし男女の友情というものがあるとするなら、それは共に美しく生きることである」
小町は業平が逝った今になって、その真実を知った。艶麗な女たちと共に生息し、王朝の政治的男の世界を堂々と闊歩し、華麗に死んで行った業平の生涯を懐旧して、心の中で歌った。
頼まじと 思はむとても いかがせむ
夢よりほかに 逢ふ夜 なければ
まさに業平の死は夢であった。だが、その夢は絶望的夢であって、かって業平との未来を考えた時のような、これから到来するであろう夢では無かった。小町にとって、父の友、業平は、男の魅力と人間的深みをたたえた憧れの人であった。その人と、この世で再び会うことは最早、実現不可能な夢となってしまった。そして、その現実から遊離した夢の世界こそが、小町にとって、今、信じられる世界であり、この世での唯一の休息所のような気がした。
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小町は、頼りとする清和帝が仏門に入り、幼い時より、自分たち家族のことを陰ながら援助してくれて来た父の友、在原業平を失い、茫然自失の溜息の日々を過ごした。それでも何とか清和帝に近づこうと、菅原道真や雉丸を水尾山寺に出かけさせて、交渉を試みたが、全く相手にされなかった。八月になると、清和帝は水尾山寺の仏堂造営の為、左大臣、源融の山荘、棲霞館に移った。その時も源融を通じて、訪ねようとしたが、断られた。仏道を究めようとする清和帝の強固厳然たる生活は、女色は勿論のこと、酒、酢、塩も絶ち、二日に一度、昼食を取るだけの厳しいものであった。常に苦業を行い、身を削るかのように罪業を絶ち、己の身を厭い、寺僧がすすめる膳もとらずに、捨てようとさえした。そんなであるから、清和帝はたちまちにして重病になり、十一月二十五日、棲霞館を離れて、藤原基経の粟田山荘を改装し寺院にした円覚寺に移ることになった。朝廷は清和帝の病気回復の為、あらゆる祈祷を行わせたが、その効果は無かった。清和帝は十二月四日の寒い夕刻、春秋三十一歳という若さで、円覚寺にて崩御した。最後の御姿は、近侍の僧らに命じて、金剛輪陀羅尼経を読ませ、自らは西方を向いて、結跏趺坐し、その手に定印をつくっての崩御であった。その念珠を手にかけて祈る最期の御姿は、動くことなく、厳然として、生きているかのようであったという。御遺体は十二月七日、円覚寺に近い粟田山で火葬され、その亡骸は水尾山の山中に葬られた。かくして小町の栄光の夢は消え去った。小町は立て続けに大事な人を失い、涙が枯れ果てる程、嘆き悲しんだ。
頼まじと 思はむとても いかがせむ 夢よりほかに 逢ふ夜なければ