桜田に散る

2021年1月28日
桜田に散る

 第一部 北条氏の関東制覇

 戦国に散った武将の一人に大道寺政繫がいる。その政繁を語るには、先ず大道寺家について語らなければならない。大道寺家は北条早雲(伊勢新九郎盛時)と共に東国に夢を託してやって来た周防の住人、大道寺重時に始まる。重時は政繁の祖父で、母方の親戚、備中伊勢氏の当主、伊勢盛定の次男、伊勢新九郎盛時と京で巡り合った遊び仲間で、秘かに城持ちの大名になりたいと、仲間同士、何時も相談し合っていた。そんな遊び仲間にとって幸運だったのは、その時代背景であった。室町幕府の二大実力者、山名宗全と細川勝元の抗争で始まった『応仁の乱』を皮切りに、諸大名を巻き込む戦火が地方に広まり、幕府の権威は落ち、室町幕府は全国を支配する実力を失ってしまった。このことは夢に燃える若き暴走仲間にとって、城持ちになる絶好の機会であった。彼らにとって、幕府、身分などといった古い考え方や秩序などは、全く無関係であった。若い新しい力によって、勝ち組になり、地域を治めることが、実力者の証明であると信じていた。大道寺重時らは先ず、伊勢新九郎を頭領として、新九郎の姉の嫁ぎ先、今川義忠の本拠地、駿河国に向かった。そして今川氏に仕えながら、駿河の興国寺城に入った。延徳五年(1491年)伊勢新九郎率いる軍団は、堀越公方、足利茶々丸を滅ぼし、伊豆の韮山城を領有し、伊豆地点での支配を不動のものとした。伊豆で力を蓄積した一団は、文亀元年(1501年)相模の大名、大森藤頼から小田原城を奪い取り、関東に進出した。これらの戦闘で、新九郎の従弟の大道寺重時が、活躍したことは言うまでもない。重時は野心家、新九郎と共に大志を胸にして東国を目指した仲間、荒木兵庫、山中才四郎、荒川又次郎、多目権平、佐竹兵衛ら六人の中で、背丈の高い武勇の士であると共に、智略にたけた美男子であったという。しかし、こういった家伝による記述というものは、すこぶる実際と異なるものである。むしろ重時は、いかつい荒武者であったと推測される。それ故に、心の弱いところもあり、新九郎が入道になり、早雲と号すると、自らもそれに従い出家し、慈雲と名乗った。重時の後の大道寺家は賢明な盛昌が相続した。盛昌は父、重時が早雲に忠実に仕えたと同様、早雲とその子、北条氏綱、孫の氏康に仕えた。学問を好み、内政手腕に長じていたことから、鎌倉代官や川越城代を任せられた。その後は堅実な重興によって引き継がれた。重興は父、盛昌と同様、早雲の孫、氏康によく仕えた。彼は建築技師としての才能があり、城郭の整備は勿論のこと、浅草観音堂や鎌倉八幡宮の大鳥居の建立に際し、その指揮を執るなど、相当な功績を残した。そして、その後に登場するのが、この物語の主人公、大道寺重興の子、政繁である。

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 天文元年(1532年)大道寺孫九郎政繁は、相模国小田原城の家老、大道寺重興の子として、小田原で生まれた。幼い時より、武技に熱中し、まさに戦国武士たるに相応しく成長した。天文十四年(1545年)、十三歳の政繁は、九年前に北条氏綱が、扇谷上杉朝興が死去して、若年の上杉朝定から奪取した河越城で、父、重興と共に城代、北条網成に従い、城を守っていた。稲の収穫の終わった十月末のことだった。二十代に成長した上杉朝定が態勢を立て直して、河越城を取り戻そうと、攻めて来た。朝定の軍勢は、古河公方、足利晴氏と山内上杉憲政と連合を組み、八万余騎の大軍をもって、河越城を包囲した。足利晴氏は自分の妻が、五年前に亡くなった北条氏綱の娘であるのにも関わらず、上杉方に味方した。それは自分を守る旧勢力の上杉氏との同盟の為であった。このことは彗星のように現れた北条氏の新勢力を恐れてのことであり、厳しい戦国の世にあって是非もないことであった。この為、四千未満の河越北条軍は窮地に立たされた。だが、戦いごとに勝って来た北条軍の戦闘意欲は、大軍を前にしても驚くことは無かった。城将、北条綱成はもと遠江土方城主、福島正成の子であったが、父が今川義元に殺されたので、小田原に逃れ、北条氏綱に仕え、多くの武功を立てたので、娘婿として北条を名乗らせた程の剛勇であった。その綱成は何時も黄染めの練絹に、『八幡』の字を大書した旗を背標とし、戦いごとに勝ったので、『黄地八幡』と呼ばれ、鬼神のように人々から恐れられていた。綱成は、こんなこともあろうかと、家老、大道寺重興の進言に従い、あらかじめ兵糧の蓄えをしておいたので、敵の攻撃にも屈することなく、防戦に努めた。天文十五年(1546年)四月、小田原の北条氏康は、駿河の今川と対戦していたが、河越城が苦戦し、落城寸前の状態であることを知るや、自ら手兵を率いて河越城救援に向かった。ところが敵の本陣とする河越南方に近づき、敵勢が余りにも多くいるのを見て、驚愕した。賢明な氏康は、このままでは味方に勝算が無いと悟り、和議を乞うことにした。先ずは叔母の夫である足利晴氏に使者を送り、和親を求めた。そして敵の主翼、山内上杉憲政には、家臣、菅谷晴範を使者に立て、これまで奪った領土をお返しするとの書状を届けた。また一方の敵、扇谷上杉朝定には、河越城にいる北条兵の命を許してくれるなら、河越城を引き渡しても良いと、和平交渉に当たらせた。だが、足利晴氏と上杉憲政は、氏康弱しと見て、ともに和議を一蹴し、北条氏の息の根を絶とうとした。そこで進退窮まった北条氏康は、同盟関係にあった甲斐の武田晴信に相談した。すると駿河に野心のある晴信は、こう返事を寄越した。

〈駿河のことは武田に任せよ。河越を死守しなければ、北条の生き残る道無し。火となって上杉勢を攻めよ〉

 最早、北条軍に残された道は、玉砕を覚悟した敵との戦闘でしかなかった。氏康は一夜、沈思黙考し、起死回生の策を練った。それは奇襲であった。氏康は、まず密使として、河越城代、綱成の弟、福島勝広を河越城中に送り込み、内外呼応して、四月二十日の夜、月が上がる頃、敵陣めがけて奇襲するよう命じ、自らは約八千の相模兵を率いて河越に向かい、自軍を四隊に分けた。そのうちの一隊を多目元忠に指揮させ、高台に待機して、そこから一歩も動かず、戦況を監視するよう命じた。そして子の刻、氏康は他の三隊の兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にし、山内、扇谷の両上杉陣に突撃をかけた。それと同時に河越城内に風魔忍者、曲輪猪助を送り、敵陣の配備を教え、多目元忠からの合図の法螺貝が鳴ったら、城内から打って出よとの命令を伝えた。その時がついに来た。河越城内にいた十四歳の少年、大道寺政繁は、父、重興の家来と一緒に、この戦に参戦した。夜になるのに松明も持たず、槍に北条の印をつけ、合言葉をつぶやきながら、上杉軍のいる砂窪の本陣に向かった。北条早雲以来、百戦錬磨の大道寺、印浪、荒川、諏方などの北条の兵士軍は、四方から本陣めがけて、一気に斬り込んだ。長期戦で油断していた上杉軍は、突然の夜襲に慌てふためいた。この時、政繁は、先輩、吉田広方らと一緒に、黄八幡の旗を翻し、決死の覚悟で、父、重興の後に続いた。狙ったのは、城に最も近い扇谷上杉朝定の本陣であった。大道寺重興が陣幕を切り払い陣中に踏み込むと、酒食を楽しんでいた上杉兵は周章狼狽した。しかし、河越城奪還を目指す上杉朝定は、阿修羅のように暴れて抗戦した。河越の夜は、矢籟雄叫の交差する修羅場と化した。扇谷上杉の驍将、難波田憲重はじめ、その家来たちが、主人、朝定を守ろうと防戦に努めたが、北条軍の勢いは、盛り上がる津波のように襲い掛かり、上杉軍を押し潰した。難波田憲重は大道寺重興を切り殺そうと迫ったが、重興の息子、政繁と吉田広方に攻め立てられ、ついには刀が折れ、東明寺口の古井戸に落ちて死んだ。この戦いで、難波田憲重の子、隼人佐をはじめ、扇谷上杉軍三千余騎が枕を並べて討死にした。また北条氏康率いる大軍に突然、背後から攻められた足利晴氏、上杉憲政の両軍も大打撃を受けた。上杉憲政の重鎮、本間江州、親衛隊の倉賀野三河守、原内匠助らが討死にし、当の憲政もやっとの思いで命をつなぎ、平井城に逃げ帰った。両上杉軍が敗走するのを見て、政繁たち北条軍の若者たちは、大声を上げて叫んだ。

「勝った。勝った。上杉に勝ったぞ!」

 それを聞いて、公方、足利晴氏も慌てて古河に退いた。この戦いで上杉管領軍の戦死者、一万三千人、北条方は戦死者、三百人ほどを失った。結果、河越城奪還に執念を燃やした扇谷上杉朝定は、家老の太田資頼と共に斬首され、武蔵野の露と消えた。朝定二十二歳。かくして扇谷上杉家は滅亡した。

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 主君、北条氏康の奇策『河越夜戦』により、扇谷上杉氏は断絶し、北条打倒を企てた山内上杉憲政や古河公方、足利晴氏は、自分の本拠地を引き上げた。この大逆転勝利により、北条氏の武蔵支配が決定的なものとなった。上杉方に属していた松山城、鉢形城など、付近の城は北条氏のものとなった。多摩滝山城の大石定久や秩父大神山城の藤田康邦も機を見て、北条氏に従属して来た。この合戦の後、北条氏康は半年余りの籠城戦に耐えた北条綱成を、鎌倉の玉縄城に戻し、政繁の祖父、大道寺盛昌を河越城代とした。また松山城には塀和刑部少輔を城代に置き、上杉軍の反抗に備えた。ところが、その松山城は八月二十八日夜、岩槻城主、太田資時とその配下、上田政広の不意討ちに遭い、攻め落とされた。松山城代、塀和刑部少輔は命からがら、河越城に逃れて来た。この時、大道寺政繁は鎌倉代官となった父、重興と共に鎌倉に在ったが、祖父、盛昌の危急を知り、家来二百人を引き連れ、河越城に走った。しかし、敵は松山城の本丸に広沢忠信を置き、二の丸に上田政広を据えて、その守りを固めはしたが、河越城まで攻めて来る力は無かった。政繁の祖父、盛昌は心配ないから鎌倉に戻るよう孫の政繁に言ったが、政繁はそのまま河越に残った。翌天文十六年(1547年)岩槻城主、太田資時の弟、資正は兄が病気で気弱になっているのを見計らい、自分がもと松山城主であった難波田憲重の婿養子であることを理由に、松山城の城主となった。これに不服を抱いた太田資正の武将、上原出羽守ら数人が北条に走った。十月九日、太田資時が死去するや、資正は当主の決まらぬ岩槻城を攻め、武力で家督を継いだ。その悪逆非道の資正に松山城代、広沢忠信を支援するようにと任ぜられた上田政広の子、朝直は資正のやり方に納得が行かず、城代、広沢忠信を裏切った。かって北条方の塀和刑部少輔に仕えたこともある上田朝直は、松山城を北条の城にすべきは今であると、塀和刑部少輔に内応した。北条方は、これを絶好の機会ととらえ、塀和、笠原、多目を侍大将として、毛呂、浅羽、宿屋、横山、真野、牛込などの武者を動員して、松山城を攻略させた。この折、大道寺政繁は、吉田正則、広方親子の後について参戦した。結果、松山城は城代、広沢忠信が討死し、再び北条方のものとなった。北条氏康は、上田朝直の忠義を褒め称え、朝直に城を預けた。そして氏康は、これを契機に、太田資正のいる岩槻城を包囲し、天文十七年(1548年)一月、太田資正を降伏させた。

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 北条氏康の夢は、先祖、北条早雲の願った関東制覇の実現だった。その為には、残る関東管領、山内上杉氏を北関東から排除せねばならなかった。氏康は尚も北上計画を進め、行田忍城の成田長泰を説得し、更に上野、下野方面をうかがった。平井城を居城とする上杉憲政は、北条方の侵攻を恐れ、信濃に勢威を拡大しようと努めた。ところが甲斐の武田信玄も、信濃の守護、小笠原長時を攻め立て、中信濃に北上して来た。その為、上杉憲政は、それに対抗すべく、信濃小県の村上義清や佐久の太井貞清を味方にしたが、太井貞清が武田軍に降伏したので、上杉軍は更に味方兵力を失った。そんなであるから、上杉憲政配下であった甘楽の国峰城主、小幡憲重や今村城主、那波宗俊が北条方に結び付き、如何にすれば上杉憲政のいる平井城を陥落させることが出来るかという、河越城代、大道寺盛昌の相談に乗った。そして天文二十年(1551年)三月、北条氏康は大道寺盛昌に平井城の上杉憲政攻撃を命じた。その命に従い、河越の大道寺盛昌を総大将として、多目、青木、毛呂、浅羽、横山などの兵が平井城の攻撃を開始すると、上杉軍は、それを抑えきず困惑した。関東管領、上杉憲政は何処に逃げるべきか悩んだ。信州に逃げようかと考えたが、北条とつながりのある武田の勢力圏に向かうのは危険だと思われた。そこで上杉憲政は平井城を放棄し、領国、上野国から常陸国の佐竹氏のもとに向かい、その保護を求めた。憲政はその代償として、佐竹義昭に関東管領職と上杉氏の家名を継承させることを約束した。しかし、佐竹義昭は、これを拒否した。このことにより上杉憲政は行き場を失い、天文二十一年(1552年)四月、越後の長尾景虎のもとに逃れた。平井城に留まった憲政の嫡男、龍若丸は、最後まで抵抗し、処刑された。

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 関東管領、上杉憲政が関東から敗走した後も北条氏にとって、すっきりしなかった。その理由は、氏康の妹を妻にしながら、河越城を攻めた古河公方、足利晴氏にあった。晴氏は自分が朝廷から認められた公方職であると、義兄である北条氏康を見下し、氏康は自分の配下であるべき存在であるとの態度を変えようとしなかった。そんな晴氏であるから岩槻にいる智将、太田資正を使って、何時、反撃して来るか分からぬ存在であった。その為、氏康は晴氏に公方の座を、子の梅千代丸に譲るよう迫った。当時、梅千代丸は母の実家、小田原北条家で養育されていたのである。ところが晴氏の長男、足利藤氏が、自分が晴氏の後を継ぐ正統な古河公方であるべきだと主張するので、晴氏は困惑し、氏康の要請を了承しなかった。北条氏康はそれを理由に、天文二十三年(1554年)、古河城を攻め、晴氏を捕らえて、相模国秦野の蓑毛に幽閉した。そして北条氏の血縁にあたる晴氏の子、梅千代丸に家督を譲らせた。十月には駿甲相の三国同盟が成立し、関東一帯は総て北条色に統一され、平穏になった。翌弘治元年(1555年)十一月、古河公方、梅千代丸の元服の式が行われた。その式が行われたのは古河御所では無く、葛西城であった。この折、梅千代丸は室町将軍、足利義輝から、足利将軍家の通字である『義』の字を偏諱として貰い受け、足利義氏と名乗ることとなった。仮冠役は外伯父に当たる北条氏康が務めた。こうして大道寺政繁の暮らす関東の地に、ようやく平和な時代が訪れた。それに安心してか、弘治二年(1556年)七月十二日、政繁の祖父、盛昌が享年六十二歳で亡くなられた。盛昌は孫の政繁に伝えた。

「我亡き後も、重興と共に北条家の為に身命を尽くせ。武士の本分は、一切の是非を管ずること無く、我心を存すること無く、主家の為に尽くすことなり。さらば我が家も安泰なり」

 それは北条早雲以来、北条家に仕えて来た大道寺家の家訓ともいえた。政繁は戦さに明け暮れ、人生を終えた祖父の死に涙した。猛将、大道寺盛昌の死を知った上杉憲政は、関東を攻略するのは今であると、越後の長尾景虎に進言した。だが景虎は甲斐の武田晴信と川中島で対峙していた為、関東どころでは無かった。お陰で関東には一時ではあるが、平穏な時がやって来た。賢明な北条氏康は関東領内の民衆が如何にすれば平和に暮らせるかを考えた。永禄元年(1558年)、氏康は代官の下に郷村支配者として、小代官と名主を設置することを定めた。これは北条氏自らが、領土を直接的に支配する必要性から生じた対策であった。まずは郷村の下級武士や豪農を小代官に任命して、名主と共に村落の人口把握、年貢の徴収、諸役の割当などの役務を担わせた。このことにより、百姓の逃亡を防ぎ、永楽銭を統一貨幣として、領内の市場経済を活性化させることが出来た。家臣団や領民の統制が明確になって、関東で暮らそうと願う百姓や商人たちが増加した。関東はこうして、多くの人たちが集まる豊かで平和な地となった。

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 ところが関東の平和な年月は、そう長く続かなかった。永禄三年(1560年)五月、駿甲相の三国同盟により、勢力を増した駿河の今川義元が、三河、尾張方面を駿河の支配下に治めようと侵略を実行した。その侵攻を尾張の大名、織田信長が、桶狭間で破るという、大逆転劇が起こった。この戦いで今川義元は敗死。今川の当主は氏真に交代し、今川領国の松平元康が、徳川家康と名乗り、独立した。これらを契機に再び、日本国内の混乱が再び始まった。上杉憲政は今川義元が死去して、三国同盟が弱体化したのを機に、関東に進出するのは今であると、長尾景虎を説得した。上杉憲政は、長尾景虎が自分の養子として上杉を名乗れば、関東にいる旧上杉の家臣たちは、北条を見放し、景虎に味方するであろうという勝利の策を提案した。それを受けて景虎は、その年の八月、上杉憲政を擁し、関東に出陣を決意した。上杉軍は三国峠から宮野城に入り、沼田城を攻撃し、沼田顕泰等をまるめこみ、北条綱成の次男、北条康元を追放し、長尾家臣、河田長親を城主とした。関東管領の名分を持つ上杉軍は、更に関東の地侍を一人一人説得し、厩橋城、那波城、舘林城などを攻め落とした。この戦さで、厩橋城の城主、長野賢忠は、その子、彦太郎と一緒に殺された。かくして北条氏に従い、西上野を支配していた長野業正の支城、厩橋城は、上杉軍に奪われ、上野国における上杉勢力の拠点となってしまった。これを知った岩槻城主、太田資正も上杉軍に呼応して、上杉勢力の挽回に努めた。その為、北条方にあった忍城、松山城なども、上杉方のものになってしまった。この上杉軍の侵攻に対し、北条氏康は大道寺重興らが攻勢に出ようとするのを我慢させ、こう命じた。

「慌てることは無い。我が北条は今、同盟者、今川を失い、苦しい状況にある。冷静に考えれば、上杉から奪った城を取り戻されただけのことである。慌てず、焦らず、持久戦に持ち込もう。そして遠征して来た彼らの兵糧が尽きるところを見計らい、一気に叩き潰すのじゃ。兎に角、今はじっとしておれ」

 北条氏康の命令による覇気のない北条軍の動きによって、上杉軍は、勢いを増し、南下した。永禄四年(1561年)三月、上杉軍は関東の中心、古河御所を制圧し、足利義氏を追い払い、正統な古河公方として、足利藤氏を御所に迎えた。また江戸城などを攻略し、相模国まで侵入して来た。長尾景虎は北条氏康のいる小田原城を包囲し、攻撃しようと考えたものの、その段になって、ふと不安に襲われた。この不安を家臣の直江兼続に話すと、兼続は、こう語った。

「言われてみれば、何事も上手く進んでおります。しかし、図に乗ってはなりません。機謀に富む北条氏康には、何か機略があるに違いありません。我らの目を誤魔化し、我らを引きつけ、その間に武田信玄に信濃、越後の諸城を奪わせる策かも・・・」

「何と不吉なことを」

「不吉なことを言って申し訳ありません。しかし、不動明王に化そうと剃髪し信玄になった武田晴信が、越後を狙っている事は確かです。信玄の決意は尋常ではありません。前方の北条だけを見ていては大禍を招きます」

 直江兼続の言葉に景虎は、はっとした。武田晴信と北条氏康は同盟を結んでいる。こうしている間に越後が奪われてしまうかも。流石の景虎も慌てた。そして上杉憲政に不安を伝えた。

「落ち着き払った北条の様子を怪しいと感じませんか。これは我々を捕らえようとする罠かも知れません」

「罠?」

「兼続が申すには、我々が小田原攻めをしている間に、武田が越後を奪う計略だと言うのです。北条には智将、大道寺重興がいて、我々を小田原におびき寄せ、我々が兵糧不足になった頃を見計らって、同盟国の武田と我々を挟み撃ちにしようという魂胆だとか・・・」

「そう言われれば、我々に寝返った城主や在郷の武士たちの様子にも、怪しいところがある」

「どうしましょうか?」

「ならば囲みを解いて、退却することにしよう。でないと袋の鼠。一網打尽となる」

 上杉憲政は景虎の指示に従った。それと共に相模国に侵攻した理由を正当化させる為に、鎌倉に立ち寄ることを景虎に勧めた。閏三月十六日、長尾景虎は上杉憲政と共に鎌倉入りし、鶴岡八幡宮の社前で、上杉憲政から関東管領職を譲り受け、上杉政虎と改名する儀式を挙行した。ここにおいて、長尾景虎は山内上杉家の家督と関東管領の地位を相続し、名目上の関東の統率者となった。その上杉軍を壊滅させようと、北条軍が一気に追撃に出た。大道寺政繁はその先鋒をかって出、真っ先に敵の中に斬り込み、たちまち五、六人の首を討ち落とした。その鬼神のような狂暴さに上杉軍は恐れをなし、命からがら、相模の国から上野国へと逃げ帰った。この戦さで多くの者が戦死した。その上杉軍を待っていたのは、案の定、上杉軍を挟み撃ちにしようとしていた武田軍であった。上杉、武田両軍は戦場を上野国から信濃国に移し、八月には川中島で四度目の対戦を行った。この戦いは、一連の対決の中で、最大規模の合戦となった。世に言う『川中島の戦い』である。この戦いで上杉方は、敵、武田信玄の実弟、武田信繁、軍師、山本勘助らを討ち取ったが、上杉軍の死傷者も多く、結局、痛み分けとなった。その間、北条氏康は、再び関東の諸城を奪取したが、北毛を中心とした上杉勢力と西毛を中心とした武田勢力下になってしまった諸城を取り戻すことは難しかった。

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 関東管領、上杉政虎により、関東甲信越に拡大した戦乱の波は、再び上野国に拡大し、次第に武蔵国まで南下して来た。永禄六年(1563年)正月、北条氏康は同盟していた武田信玄と共謀し、上杉軍の手にあった松山城奪還を実行した。この時の松山城主、太田資正は、上杉軍が小田原城に侵攻した際、上杉軍の先鋒を務めるなどして、以後、北条氏と明確に敵対していた為、氏康はその報復を河越城主、大道寺重興に命じた。大道寺重興は武田軍と呼応し、抵抗する松山城代、上杉憲勝に猛攻撃を加え、二月に松山城を奪還した。そして再び上田政広を城主に戻した。この時、上杉政虎は松山城救援の為に武蔵国まで出陣して来たが、石戸城に到着し、既に松山城代、上杉憲勝が降伏したと聞いて激怒し、人質に取っていた上杉憲勝の子を斬り殺した。また忍城の成田氏の属城であった騎西城を攻めるなどして、北条領に打撃を与えようとした。それを知った北条氏康は、大道寺重興に対し、武蔵に進出して来た政虎を追撃し、捕らえるよう指示した。また鉢形城主、北条氏邦に鉢形、秩父の兵を率いて、上杉の家臣、毛利高広の子、景広のいる石戸城を攻め落とすよう命じた。氏康に忠実な重興は息子、政繁に河越城を守らせ、自らは厩橋城に引き上げようとする上杉政虎を騎馬隊にて追撃した。それに従ったのは吉田正則、神宮大学、細谷弥平らの大道寺の勇将たちであった。一方、武田信玄は小幡氏、安中氏、後閑氏などを使い、上杉方に従う箕輪城主、長野氏業を封じ込め、厩橋城を攻める大道寺軍に援軍を送った。これにより上杉政虎の関東の拠点、厩橋城守備兵は、北条、武田の連合軍と激突することとなった。上杉政虎は、この激戦で命を失っては元も子も無いと、厩橋城を毛利高広に一任し、越後に後退した。北条方は、この戦さで、上杉政虎を捕り逃しすと共に、河越城主、大道寺重興や、智将、吉田正則等を失うという大打撃を受けた。このことにより、重興の子、大道寺政繁は北条氏康から河越の所領を安堵され、若干、三十歳で河越城主と鎌倉代官を兼務することになった。

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 その後も戦国の三傑、上杉政虎、武田信玄、北条氏康の対決は各地で行われた。この三者の争いの為、多くの血が流された。信濃、越後は勿論のこと、関東諸国も、甚大な戦禍を被った。上杉政虎の戦法は、越後が雪に閉ざされる前の年末に、関東に入って来て、雪の少ない関東で越年し、翌春、雪が解けてから越後に帰るという繰り返しだった。それを読んだ武田信玄は上野国を手中にするのは、梅雨以降と決め、北条氏康もまた、それに同調し、武蔵や安房を同じ時期に攻略した。永禄七年(1564年)のことであった。江戸城で北条氏に仕えていた氏康の娘婿、太田氏資は、実父、資正が最近、上杉方に接近し、家督を弟、政景に譲ろうとしているのを恨み、氏康にそのことを内通した。それを知った氏康は怒り、太田資正を攻めることにした。これに対し、岩槻城主、太田資正は、江戸城で息子、氏資に仕える同族の太田康資から、この動きを聞き、上杉方と相談した。そして安房の里見義堯、義弘親子と呼応し、一月四日、国府台に兵を集めて、北条軍と合戦することを決めた。北条軍の先鋒、千葉胤富は敵の数、一万二千と聞き、単独での迎撃は無理と判断し、氏康に早急なる援軍を求めた。その知らせを受けた江戸城の遠山綱景、富永直勝は、仲間の太田康資の離反を察知出来なかった責任を感じ、北条綱成率いる本隊より先に江戸川を越え、一月七日、江戸軍だけで国府台に突入してしまった。これにより、松戸の小金城主、高城胤辰等との連携作戦で、里見軍を挟撃する作戦は大きく狂い、江戸城の重臣、遠山綱景、富永直等が討死した。綱景の子、秀景も、これに参戦し、討死した。遠山親子にとって、江戸城を共に守っていた仲間であり、裏切り者の太田康資は、遠山綱景の娘婿であり、残念であったに違いない。また同じ戦いで、戦死した舎人城主、舎人経忠も遠山綱景の娘婿であり、遠山家にとって、この国府台合戦は、残酷そのものであった。城将たちを失った北条軍は、あっという間に退却した。この勝利で気を良くした里見義弘は、正月早々といこともあって、兵士たちに酒を振る舞い、目出た目出たと深夜まで、酒宴を催した。翌八日未明、北条綱成率いる二万の軍兵は、再度、江戸川を渡り、里見軍を急襲した。酒宴の後の里見軍は大混乱に陥った。里見軍の若き勇将、正木信茂は押し寄せる北条兵を相手に、正面立って奮戦したが、余りもの敵の多さに応戦しきれず戦死した。享年二十五歳。更に里見軍の主力であるべき土岐為頼が、北条側に寝返った為、里見義弘は秋元義久等と一緒に窮地に立たされた。その義弘は戦いの最中、敵に馬を射られて落馬した。それを見た義弘の家臣、安西実元は、徒歩立ちの主人を自分の馬に乗せ、北条に離反し里見軍の救援に遅れてやって来た土気城主、酒井胤治に、主人、義弘を戦場から脱出させてくれるよう依頼した。そして自らは再び戦場に向かい、北条軍に豪語した。

「我こそは里見の大将、義弘なり!」

 その安西実元に、手柄を上げようとする北条兵が一斉に襲いかかった。実元はその北条兵を斬って、斬って、斬りまくって討死した。里見軍、太田軍は、この北条軍の攻撃により、散々に打ちのめされ、里見軍は上総へ、太田軍は岩槻に後退した。この戦いは里見、太田方が五千三百人、北条方が三千七百人の死者を出す激戦であった。国府台合戦に勝利した北条軍は、その勢いで、太田資正のいる岩槻城に向かった。北条氏康は、この攻撃を江戸城の太田資正の嫡男、氏資と河越から出陣した大道寺政繁に指揮させた。岩槻兵は主人、資正の嫡男、氏資が北条軍の先頭にいた為、強く出ることが出来なかった。その為、本格的戦闘も出来ず、太田軍が惨敗することは目に見えていた。勝利を目前にした太田氏資は苦悩した。実父、資正の処遇を如何にすべきか困り果てた。

「このまま父、資正を捕らえたなら、父は斬首されるのであろうか?」

 その苦悩する氏資を見かねた大道寺政繁は、氏資と相談し、資正と政景を逃がすことを画策した。氏資はそんな人情味ある政繁に涙して感謝し、秘かに父と弟を岩槻城から追放し、父の家督を継いだ。このことにより、関東管領の権威に洗脳されて来た太田資正は帰城不可能となり、常陸国へと逃亡した。かくして北条氏に執拗に抵抗し続けて来た太田資正派は武蔵国から消え去った。北条氏康にとって、この戦いで太田資正を関東から排除出来たことは嬉しかったが、重臣、遠山綱景、富永直勝、舎人恒忠等を失ったことは辛かった。氏康は遠山綱景のことを哀れと思い、夫、舎人恒忠を失った綱景の娘、おきしを大道寺政繁と再婚させることにした。政繁は氏康の命に従い、綱景の娘、おきしを妻にすると共に、舎人恒忠の息子、直英を養子として、河越に迎えた。また氏康は僧籍にあった遠山綱景の三男、正景を還俗させ、遠山氏の家督と江戸城代、さらに古河公方、足利義氏との交渉役を継承させ、江戸を安定させることにした。

        〇

 この間、ずる賢い武田信玄は、政虎から改名して輝虎になった上杉輝虎の領土、西上州全体を掌握することを企み、榛名山麓に位置する箕輪城攻撃を開始した。箕輪城は五年前、武勇に優れた長野業正が亡くなり、まだ十八歳の若き業盛が城を引き継いでいた。信玄はまず手始めに、長野氏とつながりが深く、場所も近い安中城に武田勢の小宮山丹後、飯富兵部、浅利式部等、名だたる武将を送り込み、安中氏を攻略させた。安中城主、安中忠政の嫡子、忠成は木幡氏とも関係があり、武田の一万の兵を目前にして、簡単に降伏した。そして信玄から本領安堵の上、甘利信忠の妹婿になるよう命ぜられ、了承した。しかし頑固な忠成の父、忠政は、松井田城に籠って防戦し、息子の取りなしをも斥け、奮戦した。だが平尾次助の内応により、松井田城の城兵は総崩れとなり、力尽きて開城した。信玄は安中忠政の武勇を惜しんで、臣下の列に加えようと説得したが、忠政は断固それを拒否した。

「我、二君に仕えること、潔しとせず」

 信玄は忠政の悔恨の心中を察し、忠政を出家させた。そして小宮山丹後守昌友に松井田城代を命じた。また翌年永禄八年(1565年)には箕輪の長野氏に従う倉賀野城主、倉賀野尚行を攻めた。これに対し、倉賀野勢は和田城の和田業繁からの懐柔もあり、金井秀景等が武田方に与した為、内部分裂し、落城した。城主、倉賀野尚行は上杉輝虎を頼って越後に逃れた。かくして箕輪城は完全に孤立してしまった。永禄九年(1566年)九月、武田信玄は難攻不落の名城、箕輪城を二万の大軍で攻略させた。武田勢の先鋒、那波宗安は雉ヶ尾峠を越え、高浜砦を急襲し、これを奪取した。しかし、箕輪城から救援に駈けつけた長野氏の勇将、安藤勝道、青柳忠家等により、直ぐに砦を奪回されてしまうなど、長野勢は手強かった。ところが松井田城代、小宮山昌友等が、里見城、雉郷城を陥落させ、主城、箕輪城と副城、鷹留城との間の連携を断絶させてしまうという作戦に成功した。その為、孫子の兵法でいう『龍の頭尾』の関係にある一心同体の箕輪城と鷹留城の連携は分断され、作戦の連絡が遮断されてしまった。鷹留城を守っていた長野業道は、弟、業勝、業固等をはじめとする数百の手勢で、武田勢に応戦し、武田に味方する小幡信貞等の一隊を、烏川南岸に押し戻すなど、善戦はしたが、業勝は討死した。弟を失った業道は激怒し、無謀にも城を出て、寄せ来る山県昌景隊に突入した。その為、武田方の内藤昌豊、馬場信房隊に囲まれて苦戦し、絶対絶命の窮地に立たされた。それを箕輪城からの利根木大蔵率いる救援部隊が突破し、業道を救った。しかし業道が戻ろうとした鷹留城は、この時、既に内応者、男蟹谷直光等によって火が放たれ、業道はやむを得ず、鷹留城を捨て、吾妻方面へ落ち延びた。これを知った箕輪城主、在原業平の子孫、長野業盛は持仏堂で辞世の句を残して自害した。

  春風に 梅も桜も散り果てて

  名のみぞ残る 三輪の山里

 主人を失った家臣、一族郎党も、その後を追って自害した。ここに上毛の名族、長野氏は滅亡し、武田信玄は、西上野を完全に手中に収めることになった。この箕輪城陥落により、奇妙な事が起こった。新田金山城の由良成繁等、東上野の諸将が武田方の攻勢を恐れ、上杉方から離反して、北条方に寝返ったのである。彼らにとって、その時々の情勢を観ながら、強大な勢力に従属して自らの生き残りを図るしか方法がなかったのであろう。この戦わずして、味方を得られたことは、北条氏康にとって、まさに幸運であった。

        〇

 こうなって心細くなったのは、上杉輝虎から厩橋城を任されている城代、毛利高広であった。彼は新田金山城の由良成繁等、周囲の状況に同調し、諸将と行動を共にし、北条氏の要求に従うことにした。この毛利高広の北条氏に傾いた離反行為は、上杉輝虎にとって、大打撃だった。長年、苦労を重ねて作り上げて来た上野の支配体制を、毛利の裏切りにより、一気に壊されてしまった。山内上杉氏の名跡を継ぎ、上野国をはじめとする関東守護職となったというのに、その領国への道を絶たれてしまったことは、輝虎にとって反省すべきことが、多々、あった。君子型である輝虎はそれを冷静に分析しようとした。それに較べ、輝虎と性格の異なる武田信玄は、人望の有る北条氏康に嫉妬した。上野国の諸将が北条氏康を信頼し、北条氏の領国が飛躍的に増大して行くことに納得出来なかった。信玄は北条氏の領土拡大を不満に思うと共に、その強大化を危惧し、同盟国であるというのに、北条氏を敵対視するようになった。かかる信玄の性格を見抜いていた北条氏康は、武蔵や上野の情勢に明るい大道寺政繁に相談し、もと武蔵守護代、大石定久の娘、比佐の婿になった氏康の三男、北条氏照を滝山城に置き、八王子方面の守備を強化させた。また秩父方面については、天神山城主、藤田康邦の娘婿となった氏康の四男、北条氏邦に寄居の鉢形城と花園城を守らせ、北関東支配の拠点とした。こうした氏康の実子を直接、領地の前面に押出した統治方法は、地域住民にとって、自分たちが今、どこの勢力下にあり、何処に向かって貢献すべきかを明確にしてくれた為、安心して暮らすことが出来た。その頃、帝のいる京では、将軍、足利義輝が家臣の松永久秀、三好義継等に殺され、将軍、義輝の弟、義昭は京を逃れ、越前の朝倉義景のもとに身を寄せ、上杉輝虎を初めとする諸国の大名に、幕府再興の助力を求める御内書を送った。しかし、将軍家と交流の深かった上杉氏も、自分の領地を守るのが精いっぱいで、力を失った室町幕府に加勢する余力など無かった。ところが、その途方に暮れていた足利義昭を何とか助けたいと思っていた男がいた。男の名は明智光秀。彼は尾張、美濃を支配下に置く織田信長の妻、濃姫が自分の従妹だったことから、日の出の勢いの信長に相談をもちかけた。天下統一を夢見ていた信長は、これを良き機会と捉え、義昭を美濃に迎え入れた。そして永禄十一年(1568年)九月、織田信長は足利義輝の弟、義昭を擁立して、近江の六角承禎などを破り、上洛した。信長軍の強さを恐れた戦国の梟雄、松永久秀は直ちに降伏し、足利義昭に恭順を誓った。義昭は兄、義輝の仇である松永久秀等を斬首しようとしたが、信長は、久秀等が義輝を排除してくれたが故に、義昭が将軍になれたのだと義昭を説得し、久秀等を殺させなかった。そして足利義昭は織田信長を後見人として、第十五代将軍になることが叶った。義昭は信長の功績を誉め称え、信長を管領にしようと伝えたが、信長は、それを断った。そこで義昭は、信長を副将軍にまでしようと考えた。

        〇

 京の状況を知った武田信玄は、上杉輝虎が関東管領に任命され、織田信長が副将軍になるという噂を耳にして、大いに怒った。元来、清和源氏の流れを汲む武田氏の頭領である自分が、将軍職に就いても、何ら可笑しくないと思っていた信玄は、今や向かうのは、関東で無く、京であると悟った。今まで自分は上杉輝虎と関東や北の領地を拡大しようと、戦闘を繰り返して来たが、その間、尾張の小大名、織田信長が、美濃、近江、伊賀、山城まで占領し、大大名となり、副将軍までなろうとしている。その上、足利義昭を擁護していた朝倉義景まで攻め落とそうとしているという。この道理をわきまえぬ信長の傍若無人の行動は如何に下剋上の世とはいえ、許されることではない。今では将軍、義昭も、将軍を無視した信長の暴挙に困り果て、この信玄に支援を求める密使を送って来ている。この将軍の要請に応えるには、北条氏が支援する今川氏を破り、駿河から京へ向かうしか方法は無い。その為、北条氏との同盟を破棄し、今川義元亡き後を引き継いだ今川氏真と戦うわねばならぬ。この信玄の狙いを察知した北条氏康は、今まで敵対関係にあった上杉氏と『越相同盟』を締結し、武田勢の侵攻に備えた。永禄十二年(1569年)八月、武田信玄は予想通り、二万の軍勢を率いて関東に進出して来た。昨日の友は今日の敵。まさに栄枯盛衰を地で行く戦国の世。この時、北条の智将、大道寺政繁は、滝山城や鉢形城には籠城を指示し、武田軍の関東南下を許した。そして小田原城を包囲させ、小田原城から精鋭軍を送り出し、武田軍を挟撃しようと考えた。ところが河越城の大道寺政繁率いる追撃軍や、玉縄城の北条綱成や小机城の笠原隊が押し寄せる事を知ると、武田軍は小田原城下に火を放ち、慌てて退却した。それを北条軍が追撃し、三増峠で戦った。猛将、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により、武田の武将、浅利信種や浦野重秀が討死した。しかし、幸いな事に娘婿である北条氏政が、わざと出撃を遅らせた為、志田峠に機動していた山形昌景率いる武田の別動隊が奇襲に出て、信玄は無事、甲斐に逃げ帰ることが出来た。もし、この時、北条氏政軍が、もっと早く進撃していたなら、信玄は大敗していたに違いない。武田軍との戦さが終わると、北条氏康は、息子、氏政に対し、情け無用と叱責すると反対に、信玄の小田原城攻略を失敗に終わらせた大道寺政繁と北条綱成の武勲を褒め称えた。

        〇

 永禄十三年(1570年)四月、正親町天皇は、戦乱の凶事を断ち切る為と将軍が代わったことを天下に知らせる為、改元を行った。元号は元亀と改められた。これを機会に武田信玄は本格的な上洛を計画した。先ずは駿河を経由し、遠江に攻め入ることを企てた。これを知った遠江の徳川家康は、駿河今川氏を援護する北条氏康に、万一の時の援軍を要請した。しかし当の北条氏康は病を得て、援軍など出せる状況では無かった。かかる北条氏の事情を、信玄が知らない訳が無かった。狡猾な信玄は、北条氏繁が守る駿河御殿場の深沢城を突破し、駿河への侵入を実行した。元亀二年(1571年)正月、信玄は抵抗する北条氏繁を攻め、相模国に退却させようとした。それを知った氏繁の父、北条綱成は、松田憲秀等と共に氏繁救援の為に出兵して、深沢城に籠城し、信玄の攻撃に耐えた。この状況を見て、北条氏康の息子、氏政が、武田軍と対決すべく興国城から援軍を出そうとすると、氏康は、それを制止させた。氏康は北条氏の将来を見据え、氏政の武田氏との抗争を好まなかった。理由は氏政が武田信玄の娘婿であったからであった。氏康は己の死期が近いことを悟り、後継者、氏政をはじめとする一族、重臣を集めて遺言した。

「我の死を機に上杉との同盟を破棄し、武田と同盟を結ぶよう計画せよ」

 そして暑い夏が過ぎ、秋が訪れた十月三日、北条氏康は小田原城にて五十七歳の生涯を終えた。かって南禅寺の僧、東嶺市智旺に、当代無双の覇王と評された戦国の名将、北条氏康は、勇気をもって民衆を守り、善政をもって民衆に慕われながら、この世を去った。重臣、大道寺政繁は、氏康の死を知ると、小田原城に駈けつけ、松田憲秀ら家臣たちと共に涙に暮れた。その氏康の死が、氏政から領民に伝えられると、北条氏に治安を守られていた民衆は泣き崩れ、その死を惜しんだ。氏康の後を継いだ武田信玄の娘婿、北条氏政は、父の遺言に従い、十二月に信玄との『甲相同盟』を復活させた。また同時に去年十二月、法号を不識庵謙信と称するようになった上杉輝虎との『越相同盟』を破棄した。神仏を崇める上杉謙信は、この人間の変化を嘆いた。実弟、氏景を上杉の養子に出しながらの氏政の行為が許せなかった。そこで謙信は北条氏康の七男、氏景に自分の以前の名、景虎を与え、上杉一門として厚遇した。そして自分の名を法号、謙信に改め、部下には自分の事を謙信と呼ばせた。

        〇

 元亀三年(1572年)北条氏と再び同盟を結び、関東の憂いの無くなった武田信玄は、駿河を通らず、直接、甲斐から天竜川を下り、遠江に南下し、織田信長と同盟を結んでいる徳川家康の支城を次々と攻め落とし、二万七千の兵を率いて浜松城へと迫った。これに対し、家康は、籠城作戦を進言する家臣の意見を無視し、浜松城から打って出て、三方ヶ原で武田軍と戦った。しかし一万の兵で武田軍に勝てる筈が無かった。家康はかろうじて浜松城に逃げ帰った。勢いに乗った信玄は三方ヶ原から気賀に出て、菅沼定幸の守る刑部城を攻め落とし、そこで越年した。今まで暮らした事の無い厳しい冬の荒れ果てた刑部城での越年は、激戦を重ねて来た信玄にとって、辛く苦痛だと思われた。信玄が時々、喀血するので、重臣、山形昌景、小笠原信嶺たちが、甲斐に戻るよう信玄に勧めたが、信玄はこのまま京へ進むと言って拒否した。そして元亀四年(1573年)一月、三河に攻め入った。二月十日、菅沼定盈の居城、野田城を落とし、三月には恵那の岩村城の女城主、遠山景任の未亡人、おつやを秋山虎繁に攻めさせ、彼女を虎繁の妻に迎えることを条件に開城させた。その折、織田信長の叔母、おつやの養子になっていた信長の五男、信房は甲斐に送られた。信長は信房を武田の人質い出し、身内を裏切ったおつやの行為に、周囲の者が驚く程、激怒した。信玄は信長方との戦勝に喜びはするものの、この頃から喀血が激しくなり、病状は悪化を増す一方だった。信玄はその後、武田軍が勝ち取った長篠城で療養しながら、指揮に当たっていたが、ついに四月初旬、甲斐に帰国することを決めた。そして四月十二日、帰国途中の伊奈駒場で没した。信玄は息子、諏訪勝頼に、こう遺言した。

「我、死にし後は、我の死たるを三年間隠し、喪に服せ」

 その信玄の後は、信玄の息子、高遠城主、勝頼が家督を継いだ。勝頼は信玄の遺言を守り、軍事的行動を控えた。

        〇

 しかし、人の口を封じるのは、川の水を止めるよりも難しい。武田信玄の死は、直ちに織田信長の知るところとなった。信長にとって、信玄不在となったこの世で、恐れる者は何も無かった。ここにおいて信長は、信玄に支援を要請していた浅井、朝倉と手を組み、自分に反抗しようとしていた将軍、足利義昭を京から追放し、京の実権を我が物とした。かくして二百三十年以上続いた室町幕府もついに滅びたといえよう。信長はこれを機に朝廷に改元するよう奏請し、七月に十三日、元号が『天正』と改められた。あとは神仏も恐れぬ信長が、天下統一に向かって突き進むだけであった。信長は、この後、越前の一乗谷城を攻撃し、朝倉義景を攻め滅ぼし、続いて近江の小谷城の浅井久政、長政親子を滅ぼした。そして天正三年(1575年)四月には、強敵、武田信玄の後を継いで甲斐、信濃を領する武田勝頼を徹底的に傷めつけることにした。それに対し武田勝頼は、信玄の喪に服してる間に、三河の徳川家康に奪われた長篠城を奪還すべく、大軍を率いて三河に侵攻した。この時、武田の一万五千の大軍に対し、迎える長篠城の兵は、たったの五百に過ぎなかった。だが織田、徳川方の長篠城は、二百丁の鉄砲や大砲を所有しており、攻め寄せる武田軍に激しく反撃を加えた。ところが兵糧蔵の焼失により、城主、奥平定昌は、数日で落城という窮地に追い詰められ、秘かに家臣、鳥居強右衛門を岡崎城にいる徳川家康のもとに送り、援軍要請した。岡崎城の家康は、既に武田軍の侵攻に備え、信長に援軍を要請していたので、鳥居強右衛門に伝えた。

「主人、貞昌殿に伝えよ。予め家康から援軍要請していた三万の織田の軍勢が、十五日には岡崎城に到着する。到着次第、信長様と作戦を打合わせして、直ぐに長篠城に駈けつけるから、それまで籠城して、城を守れと」

「は、はーっ」

 織田と徳川の援軍の確約を受け、強右衛門は狂喜した。この朗報を一時も早く主人、奥平貞昌に伝えるべく強右衛門は、もと来た道を長篠城に向かって引き返した。だが、余りにも慌てていたので、長篠城に入る直前で、武田兵に見つかり、捕らえられてしまった。強右衛門は武田勝頼の前に引きずり出され、偽りの情報を城に伝えれば助命すると持ちかけられた。

「城に戻り、城門の前で、援軍は来ない。諦めて早く城を明け渡すよう伝えよ」

 強右衛門は、それに同意した。彼は武田兵に城門近くまで連れて行かれ、仲間のいる城に向かって大声で叫んだ。

「援軍が城に向かって来ている。もう直ぐだ。それまで頑張れ!」

 強右衛門は正しい情報を大声で城に伝えた。怒った武田勝頼は長篠城の連中が見下ろす前で、強右衛門を磔にして殺した。それを見た長篠城の城兵たちは、勇敢な鳥居強右衛門の死を無駄にしてはならぬと、援軍が到着するのを信じ、城を守り通した。これにより、長篠、設楽原における武田軍と織田、徳川連合軍の戦いがはじまった。織田軍三万と徳川軍八千は、五月十八日に長篠城手前の設楽原に着陣した。これに対し武田軍は、長篠城の牽制に三千程を置き、残り一万二千で設楽原に向かった。ところが無敵と言われていた武田の騎馬隊も、鉄砲を使った織田、徳川軍の戦術によって、見事に打ち砕かれてしまった。世に言う『長篠の戦い』は、織田、徳川連合軍の勝利で終わった。武田勢の弱体化を機に、信長は武田勢に奪われた城を取り戻すべく行動した。まずは恵那の岩村城を、長男、信忠に奪還させた。そして許しを請う武田の家臣、秋山虎景と叔母、おつやの方等、五名を長良川の河川敷で、逆さの刑に処した。信長にとって、可愛い自分の子を武田に差し出し、武田に寝返るなど、許せることでは無かった。武田に勝利した信長の怒りは今度は越前に向かった。延暦寺の僧兵が、浅井、朝倉と手を結んで、反抗した時のことが、比叡山を焼き討ちしたことだけでは鎮静していなかった。八月、信長は越前の一乗谷城を攻撃し、朝倉景健を討伐し、越前八郡を柴田勝家に与えた。人々は信長の向かう所、敵無しと言って、信長を恐れた。正親町天皇も信長に気を使い、信長を大納言に任じ、将軍と同じ扱いの儀礼を挙行させた。北条氏政は、そんな信長が何時の日か、関東に進出して来ることを危惧しながらも、上杉勢力を武蔵から排除し、更に下総の梁田晴助のいる関宿城や小山秀綱の守る下野祇園城を攻め落とすなどして、関東全域における北条勢力の強化と平和に努めた。天正五年(1577年)には、嫡男、氏直を上総国に初陣させ、上杉方の残る勢力、里見義弘を攻撃した。久留里城にいた里見義弘は上杉方の下総関宿城が陥落して、上杉方の支援が全く得られなくなったことから、態度を一転し、北条方と和睦することを約束した。これらの従属によって北条氏政は父、氏康時代に勝る関東広域を掌握することになり、関東に平和をもたらし、織田信長が京に目を向けている間、関東の偉大な覇者となった。

        〇

 天正六年(1578年)三月十三日、越後の上杉謙信が死去した。すると、その後継を巡って謙信の甥、上杉景勝と謙信の養子である北条氏政の実弟、上杉景虎の間で、相続争いが起こった。この時、景勝は武田信玄の後を継いだ武田勝頼に支援を頼んだ。北条氏政もまた、義弟、勝頼に、実弟、景虎の支援を要請した。両方から支援を頼まれ、武田勝頼は苦慮した。思案の挙句、勝頼は景虎支援の為、北信濃に出兵した。ところが上杉景勝から、北信濃の上杉領や上野国の沼田領の割譲などの条件に出されると、織田信長の為に失った勢力を取り戻す為に、北条を裏切り、景勝の申し出に応じ、景勝と和睦した。そして景勝と景虎の調停に当たった。しかし、相続争いは、どちらかを選ばなければならなかった。翌天正七年(1579年)雪で北条の援軍を望めない中、景虎は上杉憲政の御館にいたところを、景勝の兵に攻められ逃亡した。後に残った景虎の妻は、実弟、景勝による降伏勧告を拒否し、自害した。また上杉憲政は二人を和睦させる為、景虎の嫡男、道満丸を連れて景勝のいる春日山城に向かったが、途中、景勝の兵によって殺害されてしまった。元関東管領、上杉憲政の無残な最期であった。無縁となった上杉景虎は、北国街道を信濃から上野国に向かうが、妙高にある鮫ヶ尾城の堀江宗親が信濃飯山城主、安田顕元からの寝返り工作に応じて、裏切った為、三月二十四日、そこで妻子共々自刃して果てた。景虎の兄、北条氏邦は弟、景虎を関東に迎え入れる為、大道寺政繁等と碓井峠を越え、信濃に出向いたが、景虎無念の知らせを聞き、止む無く関東に引き返した。弟、上杉景虎の敗死により、北条氏政は『甲相同盟』を破棄し、三河国の徳川家康と同盟を結び、駿河の武田領を挟撃することにした。これに困った武田勝頼は、妹、菊姫を上杉景勝に嫁がせ、『甲越同盟』を結び、北条氏政に対抗しようと考えた。また佐竹義重を介して、織田との和睦を模索した。しかし、天下取りを考えている織田信長が、それに応じる筈が無かった。天下統一を目指す信長は、中国、近畿、高野山などの平定に努め、近江の安土城に新しく城を構え、その安土城で、日本国内だけでなく、世界の国々に目を向け、西洋人宣教師等と交流するなどして、弱体化した武田攻撃に直ぐに派兵をする考えは無かった。従って、その間、武田勝頼は関東では北条氏と、駿河、遠江では徳川と対決し、失地回復を強行するしか無かった。良識を尊ぶ北条氏政は、この勝頼や自分を含む戦国武士の仁義無き行為を嘆き、天正八年(1580年)八月十九日、突然、家督を嫡男、氏直に譲り隠居した。松田憲秀、大道寺政繁等、重臣たちは、これに驚き、疑問を訴えたが、氏政は早雲公以来の慣例であると笑って過ごした。

        〇

 ところが天正九年(1581年)三月、武田の駿遠支配の前身基地として重視していた掛川の高天神城の城主、岡部元信が、北条氏と同盟を結んでいた徳川の攻撃に遭い、元信自ら敵陣に斬り込み、大久保忠世の家臣に討たれるという、不測の事態が起こった。その為、高天神城は落城し、それを助けられなかった武田勝頼への信頼は失墜し、状況が大きく変化した。これにより、織田信長の武田氏征伐の意欲は高まった。安土城に近況報告に伺った家康に、信長は、こう言った。

「家康。遠江、駿河での働き、御苦労で御座った。お陰で、儂の望む天下統一も、あと一歩じゃ」

「誠に御座います。これも信長様の御威光によるものです」

「とはいえ、まだ安心出来ぬ。まだ各地に従わぬ者がいる。その為、有能な家臣を、四方に送っている。北陸の上杉景勝に対しては、織田家の筆頭家老、柴田勝家に、その攻略を命じている。また中国の強敵、毛利輝元に対しては、羽柴秀吉を総大将として、毛利の諸城を攻略させている。四国の長曾我部元親攻めには、我が子、信孝と丹羽長秀を派遣している。そして憎き武田勝頼には、貴殿の他、滝川一益の派遣を考えている」

 家康は信長の野望を知り、膝が震えた。

「それは有難きことです。家康、心強い限りです」

 そう答えたものの、家康には不安が過ぎった。何故、甲賀武士、滝川一益を、東海、甲信に派遣するのか。その真意が読めなかった。家康は三河に戻り、家臣に相談すると、家臣の一人、本多正信が答えた。

「信長様は、武田と北条の親戚縁者関係による長き歴史を配慮し、滝川殿を我らの援軍に加えられるのだと思われます」

「成程」

 家康は、その家臣の推測を理解すると共に、信長の用意周到さに感服した。北条氏政は、昵懇の徳川の家臣から、織田の家臣、滝川一益が、東海、甲信に配備されると知らされ、いよいよ関東も、信長に狙われかも知れないと用心を深めた。勿論、武田勝頼も織田方の襲来を恐れ、北条氏の戸倉城を奪ったりして、味方の増強に努めた。また信玄の養子になっていた信長の五男、信房を安土に送還するなどして、織田方との和睦を模索した。

        〇

 天正十年(1582年)武田勝頼は、躑躅ヶ崎館から真田昌幸に防衛強化構造に改修させた韮崎の新府城に移り、織田信長対策を考え、木曽福島城主、木曽義昌に美濃口防衛の先鋒を命じた。これに対し、新府城の賦役や武田の重税に不満を持っていた木曽義昌は、織田方の美濃苗木城主、遠山友忠に、このことをぼやいた。遠山友忠は、それを美濃を守る信長の嫡男、織田信忠に内応した。それを知り激怒した武田勝頼は、二月二日、人質として預かっていた木曽義昌の七十歳の母と十三歳の嫡男、千太郎、十七歳の長女、岩姫を新府城で処刑し、翌日、従弟の武田信豊を大将とする討伐軍を木曽谷に向けて出発させた。しかし雪に阻まれ、進軍は困難を極め、地理に詳しい木曽義昌の戦術に翻弄され、武田勢は鳥居峠まで進軍して引き返した。嫡男、信忠から情報を受けた織田信長は、好機到来とばかり、諸将に命じて、甲州征伐を開始させた。織田信忠が伊奈方面から、金森長近が飛騨側から、徳川家康が駿河から侵攻した。この戦いで織田四天王の一人である甲賀武士、滝川一益は、毛利秀頼、河尻鎮吉等と共に、織田信忠の先鋒として活躍した。飯田城、高遠城などを次々に攻略する織田軍の進撃の早さに、武田軍は体勢を立て直すことが出来ず、諏訪から撤退した。更に二月十四日、浅間山が噴火し、織田軍侵攻と重なり、『朝敵武田』の印象が強まると、徳川家康が駿府に入り、持船城の朝比奈信置を石川数正等に攻略させ、更に清水の江尻城にいた穴山梅雪を降伏させ、富士川沿いに甲州に入って、市川郷の一条信龍がたてこもる上野城を一万の兵で落城させた。更に徳川家康が躑躅ヶ崎館のある甲府に侵攻すると、武田の将兵は疑心暗鬼に苛まれ、主君、勝頼を見捨てて、次々と逃亡した。その逃亡兵から甲斐の状況を聞いた北条氏政は、息子、氏直を駿河の武田領に侵攻させ、戸倉城などを攻撃させた。家康は上諏訪にて信長が来るのを待った。三月、進退窮まった武田勝頼は新府城に放火し、小山田信茂の居城、岩殿城に向かった。ところが小山田信茂が、織田軍に投降した為、勝頼は逃げ場を失った。勝頼は滝川一益の追手に追われ、万事休すと悟ると、武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。しかし、その途上で捕まり、三月十一日、勝頼は北条氏政の妹である正室、佐代姫や嫡男、信勝と共に自刃した。ここに甲斐武田氏は滅亡した。四月三日、甲府に入った信長は、躑躅ヶ崎館で論功行賞を行った。この時、信長は徳川家康に駿河国、江尻秀隆に甲斐国、滝川一益に上野国と信濃国の一部を与えた。また恵林寺の快川和尚が佐々木承賢の息子、六角義弼を匿っているとして、その焼き討ちを命じた。快川和尚は前年、朝廷から円常国師の称号をもらった名僧で、明智光秀の学問の恩師でもあった。その恩師以下百五十余人の僧侶が、楼門の上に追い上げられ、下で薪を燃やして焼き殺されようとするのを見て、光秀は信長に、焼き討ちを中止するよう諫言したが、寺院を聖域と考えぬ信長は、それを聞き入れなかった。快川和尚は信長を睨みつけながら、治世の詩を詠んだ。

「安禅、必ずしも山水を用いず。心頭滅却すれば、火もまた涼し」

 明智光秀は一山の僧と共に焼け死んで行く恩師を見ながら涙すると共に、信長の残虐さに対する怒りを胸に封じ込めた。こんなことがあって良いのか。北条氏政もまた、妹,佐代姫の死を嘆きはしたが、信長の勢威を恐れ、それを隠し、息子、氏直に織田家から姫を迎えて婚姻をすることを条件に、織田の分国として、北条氏の関東一括統治を願い出た。しかし信長からは明確な回答が得られなかった。信長は家康に案内され、駿府、浜松を通って安土へと戻って行った。

        〇

 天正十年(1582年)四月、織田信長から関東管領職をいただき、関東及び奥州諸州の征伐を任ぜられた滝川一益は、兵八千を率いて、甲州から信濃の佐久、熊倉を経て上野国下仁田に入り、松井田城にいた小宮山勢を追い払い、織田の家臣、津田小平次に城を任せた。そして自らは箕輪城の内藤昌月に城を明け渡させ、そこを居城とし、西上野の諸将と対面し、自分が関東管領になったことを認識させて、西上野の領民を手なずけてから厩橋城に移った。一益は厩橋城主として着任するや、関東管領職にあることを公表し、ここに上野国の大名を集め、その帰属を呼びかけた。その滝川一益に従った上野国の大名は、小幡信貞、鷹巣信尚、安中久繁、毛利高広、由良国繁、長尾憲景、渋川景勝、金井秀景、白倉重家、内藤秋宜、高山重成、後閑信久、富岡秀長、大戸直光、木部真利、和田信業、那波宗元、山上道友、浦野重次といった城主たちであった。そればかりか、下野国の大名、宇都宮国綱、長尾顕長、皆川広照、武蔵の大名、成田氏長、上田長則、深谷氏憲までもが、一益に伺候した。得意絶頂になった滝川一益は、この時、酒宴を催し、能を興行、嫡男、一忠、次男、一時を伴い、自ら玉葛を舞った。これを知った北条氏政親子や松田憲秀、大道寺政繁は、今まで北条に従っていながら、武田が滅びた途端、織田に従う戦国大名の不甲斐無さに憤りを感じた。最早、織田氏と北条氏の対決は目に見えていた。世の中の動きを見るに、正に北条氏は信長に睨まれ、危機存亡の淵に立たされているといえた。しかし、この時点において滝川一益は、南の北条領に手を出さなかった。北条領を南関東と呼び、北条氏直に織田氏の関東支配への協力を要請し、北条氏との友好関係を保った。一益にとって、北条攻略より先にやるべきことは、敵対する越後上杉を滅ぼし、関東管領の地位を確実に奪取し、奥羽の諸大名を織田政権に従属させることであった。五月十二日、滝川一益は、甥の滝川益氏を先鋒として、越後討伐の出兵を実行した。益氏は三国峠を越え、秋山郷を抜け、上杉景勝、栗林政頼等の越後勢と戦い、それを後退させると、千曲川を遡り、海津城を居城とする織田の武将、森長可を援護する為、善光寺地侍一揆の大将として蜂起した芋川親正の占拠した飯山城、若宮城を攻撃し、森長可軍を側面から助けた。この助けを受け、森長可は滝川一益に倣い、国衆の妻子を海津城に住まわせることを義務付けると共に、所領安堵を伝え、上杉勢への出兵を要請した。五月二十三日、森長可は上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城に向かったという知らせを受けて、五千の兵を率いて越後に進撃し、上杉景勝を越中から後退させることに成功した。この滝川一益と森長可の連合軍は、この勢いをもって、奥羽の鎮撫に向かおうとした。その為には、下野のみならず、総州からの派兵も必要であった。その為、一益は総州の勇将、千葉良胤に使者を送り、信長の書状と縦髪の長い馬を届けさせた。書状の内容は簡単なものであった。

《この度、織田家臣、滝川一益を関東管領に任命した事、了承され度し。貴殿に於かれては、今後、一益とよしみを通じ、一益と力を合わせ、関東の統治及び奥羽の鎮撫を成功させるべく働いてもらい度し。右大臣 信長》

 この書状を読んで、千葉良胤は大いに怒った。

「この良胤、分限微少なりといえども、征夷大将軍、源頼朝公以来、いずれの列候が当家の上席に立つとも、その武威に媚を求めることをせず。それを行うことは末代の恥。子孫の不面目であると存ずる。よって、この書状、受け付け難し。かく、一益に伝えよ」

 千葉良胤は使者に、そう言うと返事の書状も書かず、一益の使者の頭髪を剃り、馬の縦髪を切って、厩橋城へ追い返した。この千葉良胤の振る舞いは、関東管領の地位をほぼ手中に入れて幸運に酔っている一益にとって、突然、冷水を浴びせられたような不吉を感じさせるものであった。

        〇

 六月七日、その不吉を示す凶報が厩橋城主、滝川一益のところに届いた。その知らせとは、近江瀬田城主、山岡景隆の家臣、杉山小助が早馬を乗り継いでもたらした密伝であった。

「去る六月二日、早暁、主君、織田信長様と中将、信忠様親子が、備中に向かう途中、京にて、明智光秀に襲撃され、父子共に自刃なされましたことを、お伝え申し上げます。信長様は本能寺にて、信忠様は新二条御所にて自刃なされたとのことです」

 それは本能寺の変の報告であった。

「何と、あの明智殿が信長様を」

 一益は、そう言ったまま、二の句が出なかった。あの聡明で、何事においても隠忍自重していた明智光秀が、主人を急襲して自刃させるなどとは、全くもって信じられ無かった。とはいえ、あの甲斐の恵林寺で、恩師、快川和尚が焼き殺された時の光秀の嘆きを、近くで見ていた一益にとって、信長親子を、同じ運命に遭わせたかった光秀の憎しみが、分からないでも無かった。一益は山岡景隆からの書信を受取り、本能寺での信長と森蘭丸の最期を想像し、袖が濡れる程、男泣きに泣いた。明智殿は何故、我慢出来なかったのか?他にも理由があったのか?一益は一泣きすると冷静さを取り戻し、老臣、篠岡平右衛門、津田秀重、滝川益重、津田小平次、牧長勝等、重臣を集めて、知らせの書信を読んで聞かせてから、言った。

「わしは信長公の威を借りて、関東管領の号を受けたが、信長公が他界せられたからには、新しく加わった上野の武将たちの去就も計り難い。上杉、北条の虜にならぬとも限らぬ。わしの浮沈の運命、この時にありじゃ。ここは上野の諸将を招集し、凶事を正直に説明し、一旦、この城を諸将の代表に任せ、わしは上洛して、信長公の弔い合戦をしようと考える。直ぐに諸将の招集と出兵の準備をしてくれ」

 すると家老の篠岡平右衛門が首を横に振り、それを制した。

「かかる一大事を上野の諸将に簡単に打ち明けることは、考えもので御座います。昔から義に勇むは関東武士の気質ですが、近頃の人心は計り難いところがあります。ひとまず、信長公の不幸を伏せ隠し、信長公のお召しにより、上洛するとの御布令を出されたら如何でしょうか。さすれば不肖、篠岡平右衛門が諸氏の人質を預かり、当城を守り、殿の帰城をお待ち致します」

 滝川一益の甥、益重も、篠岡平右衛門と同じ考えだった。

「それがしも、篠岡様の意見に賛成です。このような凶事は内密にすべきです。明智様の心が分からなかったように、人の心は分かりません。伯父上様の入国により、やっと治安を取り戻した上野国は、我らが居なくなったら、再び上杉と北条の騒乱の地となりましょう。ここは凶事を内密にし、我らを残し、上洛願います」

 だが一益は家老たちの意見を受け入れなかった。

「そのような考えもあろうが、悪事千里を走るという諺もある。こういう大事は、隠そうとしても、直ぐに人の耳に入る。もし嘘が露見すれば、わしを信じて従って来た国衆たちは、自分たちから離反し、如何なる挙に出るか分からない。それよりも運を天に任せ、国の諸将を招いて、真実を語り、進退の有無を確認した方が良い。そして留守中のことは、総て毛利高広、真田昌幸等、国衆に任せ、我ら織田勢全員、伊勢に戻ることにする。直ちに上野の諸将に書状を送り、十日に国衆を城に集めよ」

 一益の決意は固かった。逆臣、明智光秀を討ち取り、主君、信長の仇を取らねばならぬという悲憤の方が、関東管領の立場を守ることよりも、勝っていた。一益は新属の上野、下野、武蔵の武将のもとに、招集の書状を持った使者を走らせた。六月十日、関東の織田に仕える諸将たちは、何事かと、我も我もと、厩橋城に集まって来た。一益は自分に従ってくれた諸将たちを広間に集めて、信長父子の最期を涙ながらに報告した。

「突然のことで驚愕するであろうが、六月二日早朝、天下統一を目指した織田信長公が逆臣、明智光秀により、本能寺にて襲撃された。信長公は護衛の者、数名にて、一万の兵に防戦するも適わず、ついには寺に火を放たせ、自刃なされたという。実に残念でならない。信長公は天下統一により、戦国争乱の世を無くし、関所を廃止し、誰もが争うことなく、天下を自由に往来出来、平穏に暮らせる世を実現しようと奮闘なされて来た。その夢は逆臣、明智光秀により、夢半ばで断ち切られてしまった。わしは、その信長公の夢を、織田信雄様等に実現させてもらう為に、急遽、上洛せねばならぬ身となった」

 これを聞いた武将たちは吃驚した。天下無敵の織田信長が逆臣に殺されるなどとは信じ難かった。一益は、そんな一人一人を見詰めながら次のことを伝えた。

「このような事は隠すべきとの意見もあったが、わしは、この滝川一益を信じて、ここ数ヶ月、行動を共にしてくれた御一同に、京で起きたありのままを話した。いずれにせよ、我等、織田勢の者全員、信長公重恩の身ゆえ、この際、逆臣、明智光秀と一戦に及び、信長公の次男、信雄様、三男、信孝様の安泰を計らねばならぬ。関東のことを打ち捨てて上洛すること、本意では無いが、許してもらいたい。従って、貴公らから預かっている人たちも、全員、お返しする。信長公という強大な後ろ盾を失った一益の価値を決めるのは貴公らである。もし、この機に乗じて、一益の首を取って、次の主人への手土産にせんと思うなら、それも良し。また今の安寧の持続を願い、一益が戻るまで自分の城を守るも良し。以後の事は、貴公らの勝手である。とはいえ、上洛する我らに邪魔する者は当然、払い除ける。その為、一戦致すも願うところである。その一戦により、勝とうが負けけようが、我等は京へ向かう。以上、お伝え申す」

 一益が、こう伝えると、流石、関東武士だけあって、一益の誠実さに感服する者が多かった。倉賀野城主、金井秀景は一益の説明を聞き、感激して答えた。

「まだ数ヶ月の御付き合いであるのに、我等を信頼し、驚きたる一大事と腹蔵無き真意を明らかにしていただき、我等一同、感激致しました。我等は亡き信長公の天下布武による平和の実現と自領の繁栄の為に、管領、滝川様の教えに従って働きます。上洛されると伺いましたので、我等、道中、安全の地まで、お見送りつかまつります。もし、その途上、上杉家あるいは北条家との一戦、生じなば、我等、その先陣を務めます。このこと嘘で御座いません。弓矢とる身の習い。義を守り、節を重んじることを、誰が知らぬと申せましょう。我等、一旦、随順と定めたからには、この時節に臨み、約束を変ずることはありません。運を共にし、生死を共にせんとする心に仔細など御座いません。お気遣いなど召されず、何なりとお申し付け下さい」

 一益は金井秀景の言葉に、真実を語って正解だと思った。一益は感涙し、一同に向かい、深く頭を下げて言った。

「御一同の我等へに芳志、須弥山よりも高く、滄海よりも深し。我等、謝するに余りあり。この上は、何分の御協力をお頼み申す。後のことは御一同にて御相談くだされ。次に会う時は、我等が出立致す、和田城に、お集まり下されば幸いです」

 一益は武将たちに、ことの事実を説明し、ほっとした。後は正に運命に任せるしか方法が無かった。

        〇

 織田信長が本能寺で討たれたことを知ると、関東の状況は一転した。本能寺の変の情報を入手した北条氏政は、そのことが事実であるかどうか確認する為、小泉城主、富岡秀長に、その事実を確認した。富岡秀長からの返事は、〈京の状況に別状無し〉との報告であった。氏政は更に追求する為、厩橋城の毛利高広に密使を送り、信長の安否を探った。すると高広はこう伝えて来た。

「信長死すの知らせは偽りで、上野諸将の真意を量る謀略かも知れません」

 氏政は、ことの真実を掴みかね、徳川家康がどうしているか、風魔忍者、風祭弥七と雲取甚兵衛を三河国へ送った。ところが慎重な氏政と異なり、越後の上杉景勝は、十一日、沼須城主、藤田信吉と結託し、滝川麾下となった真田昌幸の兵、四千が守る沼田城を、五千の上杉勢で攻め立てさせ、水曲輪の一つを奪い取った。それに対し、滝川一益は小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾、内藤等からなる二万の兵を即時に北上させた。その大軍の多さに驚いた藤田信吉は、真田昌幸の守る沼田城攻略を諦め、六月十三日の夜、一族を引き連れ、泣く泣く越後へと落ちのびて行った。この状況から、一益は、家老、篠岡平右衛門の忠告通り、織田勢全員の上洛は不可能と考え、上洛する織田勢の数を半分の三千名に縮小する旨を、織田の重臣たちに伝えた。

「残念なことに、一夜にして上杉と通じ、上野国を我がものにせんとする愚か者が出てしまった。これでは折角、信長公が安穏を願って治めることになった上野国が、再び戦乱の地と化してしまう。そんなことはあってはならない。それ故、わしは三千名を連れて上洛する。また北条方については、先手を打ち、信長公が亡くなられたことの事実を伝え、織田家のその後に変化は無いと報告しよう。そして我等は今まで同様、上野国を治め、北条方と戦う意思の無いことを告げ、一部の者のみ、主君、信長公の仇を討つ為、上洛するので、邪魔立てせぬようお願いしよう。この考え、如何であろうか?」

「その方が良かろうと存じます。信長公が上野国を一益様に、お与えになる時に仰せられた御言葉を忘れてはなりません」

 側に座る篠岡平右衛門が直ぐに応答した。

「そうであったな。関東管領は今は亡き上杉謙信公の跡を継ぐ要職なるぞと・・・」

 一益は、その時のことを思い出し、涙を滲ませた。そして重臣たちと次の三ヶ条の約束をした。

 その一、

 嫡子、一忠と三千の兵は、このまま当厩橋城に在城し、上野国の守備を行う。一益と三千の兵は京へ向かう。一益軍、不遇にして敵の白刃のもとに屍をさらすと聞かば、直ちにその仇、明智光秀を討つべく、策をめぐらすべし。

 その二、

 松井田城は関東を守る重要な信濃国との境界地であるから、一益に劣らぬ武将を配置せよとの信長公の御命令であった。よって津田小平次に引き続き在城警備させ、更に稲田九蔵を差し添えて、当城を守るべし。

 その三、

 諸士の人質百余人は滝川忠征に預ける。もし一益、落命の際は城に籠り、忠死を宗とし、城の防衛に力を注ぎ、力尽きたる時は自害すべし。

 一益は以上、重臣たちとの覚悟を確かめ合うと、六月十五日、豪傑、牧野成良、倉田小次郎の二人を滝川の使者として、武蔵鉢形城にいる北条氏邦のもとに送り、次のように伝えさせた。

「既に御承知のこととは存ずるが、主君、織田信長公が明智光秀により、他界せられ、一益、慚愧に堪えない。故に一益、部下を上野国に残したまま、その弔い合戦に上洛致す。一益、留守中に御所望の件あれば、厩橋城に人を差し向け相談されたし。かく北条氏政父子殿にお伝えあれ」

 これを受けた北条氏邦は、その日のうちに、大道寺政繁等と小田原城に駈けつけ、滝川一益の言上を、こう曲解して伝えた。

「本日、滝川一益が、鉢形城に使者を寄越し、こう伝えて参りました。使者の言うには、信長公の弔い合戦をする為、上洛するので、厩橋城が欲しいなら、何時でも兵を差し向けられても構わぬ。そう北条親子に伝えよとの沙汰でした」

 それを聞いて、氏政、氏直父子は、直ちに重臣たちを集め、結論をまとめた。北条氏政は決断した。

「滝川一益は義父、武田信玄の領国を奪った敵である。また我が妹、佐代姫や義弟、武田勝頼の仇でもある。その仇敵を京へ帰してはならぬ。氏直の指揮に従い、氏照、氏邦、政繁等、武蔵勢、総動員して、一益を攻めよ」

 その指示に対し、氏直は躊躇して、父、氏政に反論した。

「とは申しましても、武田攻略については、織田、徳川と友好を約束した間柄。主君の弔い合戦に出兵する為、関東を南下する滝川勢を攻撃するのは、卑怯では御座いませんか?」

 氏政は嫡男、氏直の言葉に激昂した。

「何を言うか。お前のその意見、北条の当主の発言とは思えぬ。一益は、お前の母の一族を滅亡させた悪人ぞ。だが、お前の言う事にも一理ある。取敢えず、〈信長公が亡くなられても、互いの友好関係を継続するので、御安心召されよ〉との書状を出して、一益を安心させよ。但し、乱暴狼藉の行軍の南下を許してはならぬ。中仙道から帰るよう厳しく伝えよ。そうでない時は、容赦無く攻めると伝えよ」

 氏直は納得し、その旨を綴った書状を早馬にて、滝川一益に届けさせた。しかし、一時も早く上方に駈けつけなければならぬ一益は、その書状を無視した。かくして、上野国から武蔵、相模、駿河経由で、徳川領に入り、美濃にて織田信雄、信孝と合流しようとする滝川一益と、武蔵、相模の通過を阻止しようとする北条勢の戦いが始まることとなった。

        〇

 六月十五日、大道寺政繁は河越城に戻り、重臣、山口玄蕃、神宮宗形、吉田広方、松本大学、大道寺直繁等と滝川勢の南下に対応する為の出陣の準備を開始した。翌十六日の早朝、滝川一益は、厩橋城を守る息子、一忠、篠岡平右衛門や沼田城主、真田昌幸等に上杉勢対策を細かく指示した。その後、箕輪城主、内藤昌月、新田城主、由良国繁、松山城主、上田長則、忍城主、成田氏長、小幡城主、小幡信貞、倉賀野城主、金井秀景、深谷城主、深谷忠秀等、関東勢一万余騎、それに上方から率いて来た諸城の八千余騎を加え、合計一万八千余騎で、厩橋城を出発した。十六日午後には和田信繁のいる和田城に陣を敷き、そこで再度、松井田城主、津田小平次、安中城主、安中久繁、後閑城主、後閑信久、大戸城主、浦野重成、白倉城主、白倉重家等を同席させ、軍議を行った。まず一益が基本方針を伝えた。

「小田原の北条氏直から、上洛するなら、中仙道経由にて帰られよ。武蔵、相模を通過するなら、容赦なく攻めると云って来ている。だが一時を争う大事。上洛を急ぐ為には、陸路でも海路でも西に向かいやすい相模を通過するのが一番である。故に我等は東海道にて京へ向かう。北条がさしたる抵抗をしなければ、そのまま武蔵、相模を突破し、駿河、三河を経て、美濃にて御次男、信雄様、御三男、信孝様と合流し、信長公の仇を討つ。もし北条が我等の上洛を邪魔するような事があれば、一戦致すより、仕方あるまい。その場合のことを考え、再度、軍議確認する」

 軍議では、いずれにせよ、武蔵と上野の国境付近で北条との小競り合いがあると推測された。その小競り合いが拡大し、有利となった場合は東海道を、不利になった場合は中仙道で上方に向かう事にし、その場合、場合の諸将の役割を決定した。軍議の後、兵士たちに酒が振る舞われ、一益もその中に入って、篠岡平右衛門の鼓で能を舞い、兵士の士気を高めた。そして翌十七日、夜明けに滝川軍、上野軍は和田城を出て、金井秀景率いる倉賀野衆を先頭に、倉賀野を経て、神流川を渡り、武蔵上里へと進行した。北条方の金窪城主、斎藤定利は、あらかじめ密偵を送り、上野国の状況を探っていたので、直ぐにこのことを鉢形城主、北条氏邦に報告した。それを知った氏邦は激怒した。

「おのれ一益。あれ程、忠告しておいたのに。我等北条の忠告を無視して、東海道から上洛するつもりだな。このこと、河越、大道寺殿に伝え、急ぎ小田原に知らせよ」

 北条氏邦は、直ちに先発隊、石山大学助、保坂大炊助等を金窪城に派遣した。続いて北条の諸将に出陣せよと回文し、鉢形城の兵を率いて金窪城に急行した。このことは、一益の斥候により、直ちに一益に知らされた。一益はこれを受けて進軍を停止し、金窪城の北に本陣を置き、小田原から北条本隊が来る前に、明朝、一番で戦さを仕掛けるとの命令を出した。そして今夜は充分、睡眠をとるようにと指示した。一方、氏邦から知らせを受けた大道寺政繁は、河越城を養子、直繁に守らせ、自らは河越城の山口玄蕃、吉田広方等の寄騎と共に、二千の兵を出し、金窪城に出陣した。政繁が金窪城に到着すると、北条氏邦をはじめ、金窪城主、斎藤定利や雉岡城主、横地忠晴等は、大いに喜んだ。大道寺政繁に続いて、滝山城主、北条氏照や岩槻城主、北条氏増、葛西城主、遠山直景等の援軍が駆けつけると、あっという間に、六千の北条兵が終結した。それを知って、深谷城の深谷氏憲、松山城の上田長則、行田忍城の成田氏長、加須私市城の成田長忠などが、織田方から北条方に寝返った。ここにおいて北条方の決戦準備は整った。

        〇

 十八日早暁、金窪城の北に本陣を置いた滝川一益軍は、鉄砲隊二百を正面に据え、右翼に牧野伝蔵、左翼には一益の甥、益重を置き、それぞれ六百の兵を並べ、その後に津田秀重の弟、秀信の千百を備え、中央を津田秀重に守らせて、進軍を開始した。後陣の備えは高崎城主、和田信繁の五千の兵が務めた。また万一に備え、倉賀野城主、金井秀景を大将とする鉄砲隊百人を含む三千の上野衆を、神流川沿いに配置して、同時進行するよう命じた。この時期、関東は雨がほとんど降らず、烏川も神流川も、徒歩で渡れる程、水嵩が低かったので、行軍は容易だった。川を渡り切ると、北条氏邦の使者がやって来て伝えた。

「何故、我等北条の忠告を無視して、武蔵国に入ろうとするのか。直ちに川を渡り、ここから引き返せとの氏政公の御命令である。去らずんば、一戦致すとのことである。その応えや如何に?」

 それを伝え聞いた一益は、こう返答するよう使者に伝えた。

「この一益、亡き信長公より命を受けし関東管領なり。この危急に臨み、何ぞ北条が、関東管領の下知に従わぬのか。我を遮る者は容赦無く葬ってやると、一益が申していると伝えよ」

 かくして滝川軍と北条軍の神流川の戦いの火蓋は切られた。滝川軍が金窪城の北から、上野軍が西から同時に金窪城に攻撃を開始した。金窪城にいた北条氏邦は一旦、城から出て、陣を城の南方に移し、一益本陣を狙おうと考えた。ところが篠岡平右衛門率いる一団が、太光寺の西から氏邦軍の側面に攻撃して来たので、北条方の反町幸定や武藤修理亮等の豪傑が、それを迎え撃った。だが敵の数が多く、氏邦は退却を余儀なくされた。その間、金窪城を守っていた斎藤定利の弟、光透、光房、甥の光吉は迫り来る滝川、上野軍に、たった三百の兵で斬り込んだ為、全滅した。その後、滝川家臣、牧野伝蔵が金窪城に侵入し、斎藤定利を斬り殺し、金窪城に火を放ち、金窪城は落城した。また烏川を挟んで金窪城の北にあった支城、川井城も定利の弟、基盛が守っていたが、滝川軍によって壊滅させられてしまった。この初戦で勝利した滝川と上野の兵たちは、猛暑の中での戦いが終わると、神流川で水浴したり、馬に水を飲ませたりして、一息ついた。手柄を上げた武将たちは和田城に引き返し、一益に、斎藤定利兄弟、大石大学、保坂大炊介等、討ち取った首、二百余の実検をしてもらった。一方、敗れた北条方は疲労困憊し、本庄に集結し、小田原からやって来た北条氏直、松田憲秀を中心に軍議を行った。氏直は、今日一日の細部にわたる出来事を確認した後、強い口調で言った。

「かかる敗北を喫したことは、北条軍の恥辱である。明日は何としても、敵を壊滅せねばならぬ。上野衆に知り合いもいようが、これは生きるか死ぬかの運命を決する戦いである。知友とて従わぬ者は、容赦なく成敗せよ。滝川は北条の仇であるぞ」

 北条当主、氏直が、叔父、氏照、氏邦や大道寺政繁等の不甲斐なさに対して、激昂しているのが、誰にも分かった。大道寺政繁も、戦意無い氏邦に従った為、大事な金窪城や支城を焼かれ、多くの兵を失うという悲惨な結果になってしまったことを後悔した。氏直は武将たちの戦意を高揚させるべく尚も語った。

「推測するに敵の数は滝川勢八千、上野勢一万二千、合計二万である。気にかけていた甲斐の河尻秀隆も武田の旧臣に攻められ全滅寸前とのことである。故に我等北条は、安心して敵方の倍の兵、四万を注ぎ込み上野に侵攻する。既に相模から松田勢が、下総から千葉勢が、下野から芳賀勢が駈けつけて来ている。本日の初戦では敗退したが、明日は大軍をもって敵を壊滅させる。以下、戦略を指示する」

 そして北条氏直は本庄の本陣、冨田、石神の布陣軍が、明日、それぞれ何を成すべきかを説明し、大道寺政繁に、その戦術を指示させた。諸将は、援軍の到来と戦略戦術を聞いて、大いに鼓舞され、明日に備えた。

        〇

 六月十九日、北条氏直の本隊が小田原から戦場に到着するのは、今日の昼頃であると読んだ滝川一益は、早朝、鉄砲隊を前面に押し出し、氏邦軍に先制攻撃を仕掛けた。これに対し、氏邦軍は大道寺政繁の戦術に従い、騎馬の達者な者、三十騎ばかりを神流川に送り出し、滝川勢に挑戦の態度を示した。それを見た篠岡平右衛門が北条勢に向かって叫んだ。

「北条の馬鹿者ども、我等、滝川軍に勝てると思ってか!」

 篠岡平右衛門は、そう言い切るとひょいと愛馬にまたがり、向かって来る北条の騎馬隊に向かって馬を走らせた。津田秀重もそれに従い馬を走らせた。

「命知らずの田舎侍。首取って今日の暑さを忘れん」

 当然のことながら、滝川軍の騎馬隊二百騎が、滝川の重臣、篠岡、津田に続いて出馬した。篠岡平右衛門等の騎馬は、大道寺軍の神保内匠、小板橋帯刀等三十騎の兵を、長槍を使い追い回した。如何に勇猛な大道寺の騎馬兵も敵の数に太刀打ち出来ず、左に右に避けながら、退却した。この戦況を見て、金井秀景が一益に提案した。

「小田原からの援軍が来る前に、氏邦軍を前後から攻撃し、氏邦を討ち取ってしまいましょう」

 一益は秀景の提案を受け入れ、背後攻撃を指示した。この迂回攻撃を引き受けたのは新田城主、由良国繁であった。新田軍は氏邦軍の背後に回り込むと、一気に敵陣を蹴散らし、氏邦軍を退散させた。そして新田軍と滝川軍の先陣は合流して勝利を喜び合った。

「おうっ。敵が逃げて行くぞ。我らの勝ちじゃ!」

そう喜び合っている時、突如、東南西の三方から、松田、大道寺、遠山の三千の騎馬隊が現れ、鬨の声を上げ、滝川、新田軍をあっという間に取り囲んだ。篠岡平右衛門は吃驚して叫んだ。

「しまった。深追いし過ぎしたようだ。敵に謀られたぞ」

 この危機に如何に対処すべきか頭の混乱する篠岡平右衛門に、粟田右衛門が言った。

「篠岡様。今はこれまで。急いでここから脱出しましょう。篠岡、津田様の五百騎と粟田、太田の五百騎、合わせて千騎で、囲みを突破しましょう」

「むむっ、この有様、如何にも口惜しきかな。止むを得まい。一旦、引き返して、もう一度、合戦しよう」

「はい。何としても一益様を上洛させねばなりません」

 滝川勢、新田勢は、そう申し合わせると、千騎一団となって、脇目もふらず上野側に逃げ帰った。その逃げる一団を松田康郷が追い、部下に向かって叫んだ。

「あいつらを逃がすな。追いかけて皆殺しにせよ!」

 その有様を神流川の上野側の川っ渕で見ていた一益はいきり立って、大刀を振り上げ、部下と川向うの北条勢に向かって叫んだ。

「何と情けなや。今度は一益、自ら滝川の精兵を率いて先頭に立ち、突撃する。この戦いは正義の戦いであるぞ。滝川の強馬精兵の怖さを思い知らせてやる。上野衆は我等が後に続け!」

 一益は篠岡平右衛門等と入れ替わりに、滝川益氏他、滝川一門、津田、牧野、岩田、富田、谷崎、壁野、稲田等、三千の兵を率いて先頭に立って敵軍に突進した。滝川勢の屈強な壮士たちと北条勢の剛勇たちとの戦いが再び始まった。数に劣る滝川、上野軍の奮戦もあり、一進一退の戦いが続いた。両軍がぶつかり合う鉄砲の音、矢の風を切る音、槍を振り回す音、太刀での鍔競り合いの音、怒鳴り声、悲鳴、馬の嘶きが、大音響となって天地を揺るがした。滝川勢の危急を知って駆けつけた松井田城主、津田小平次に、篠岡平右衛門は、滝川軍の劣勢を伝え、最早、これまでと、小平次に後事を託した。

「殿には上洛という大きな仕事があります。我々が少しでも敵を食い止めている間に、厩橋城に戻って、一時も早く中仙道にて上方に向かうよう、殿にお伝え下さい」

 息絶え絶えの篠岡平右衛門から、その言葉を聞いた津田小平次は、向かい来る敵を斬り倒し、一益のいる場所に辿り着くと、一益を強引に滝川陣地に連れ戻した。戦いはどう見ても兵力を半分しか持たない滝川、上野勢が不利だった。大道寺政繁は、これ以上、戦さを拡大させたく無かった。敵には知り合いの上野の諸将たちが沢山いた。尊い人命を失うことは、互いにとって不幸であった。政繁は思うところがあって、河越の勇将、山口玄蕃、吉田広方等、二十騎ばかりで、上野衆の大将、倉賀野城主、金井秀景の陣地に攻め入った。騎馬に乗った大道寺の荒武者の働きは凄まじかった。上野軍の大将、金井秀景も負けてはいなかった。葦毛の馬に乗り長刀を振り上げ、政繁に迫って来た。政繫と秀景の馬は、ぴったり並んで、神流川土手を走った。政繁は敵将、秀景に言った。

「つまらん戦さをするな。北条を相手にせず、信濃から上方へ行け。わしの言う事を聞いて、生きよ」

 秀景は、政繁の目を見て、この一言を伝える為に、疾風のように襲って来た政繁の本心を知った。秀景はかって何度か会話したことのある河越城主、大道寺政繁の命懸けの忠告が身に沁みた。秀景は涙をぬぐい、上野衆に退却を命じた。それから苦笑いし、屍山血河の神流川を越えて、上野国に逃亡した。政繁は明日、秀景が神流川に現れぬことを、夕陽に向かって願った。

        〇

 退却した金井秀景は、神流川を越えると、総大将、滝川一益の安否を心配した。その一益は肩に負傷したが、無事、こちらに向かっているとの情報であった。秀景は炎熱の戦場で、先頭に立って北条軍と戦った一益の勇猛さに感服すると共に、敵将、大道寺政繁の勇気と心遣いに頭が下がった。辺りが暗くなり始めた半時後、北条方の松田、山角、依田、南条等の敵陣を、津田小平次と潜り抜けた一益が、見るも無残な姿で現れた。秀景は一益に走り寄り、自分と待機していた五騎に一益等を乗せ、自分の居城、倉賀野城へ、一益を迎え入れた。秀景は先ず、一益に風呂に入ってもらい、新しい着物に着替えてもらい、妻の妙に茶を点てさせた。秀景はこの戦さで、息子の五郎太、六弥太、それに七十四人の家臣を失っていた。一益は秀景の妻、妙に、自分の力が足りなかった所為で、大事な子供を失わせてしまったことを深く詫びた。それから秀景に懇請した。

「今日の敗北は全くもって情け無し。多くの命を失った事、誠に残念である。落命した者の為にも、一益、このまま引き下がる訳にはいかぬ。故に明日も、なお残党を集め、北条と十死一生の合戦を行う。一益、命の限り戦うので、上野衆にも、いま一戦、力を合わせて戦って欲しい。一益、伏して、お頼み申す」

 頭を床に着けて依頼する一益に対し、秀景は涙ぐんで答えた。

「返す返す残念ですが、北条との合戦は、どう考えても不利と思われます。このまま北条と戦さをしていては、反って上洛が遅れます。一益様のお気持ちは痛い程、分かりますが、ここは北条を相手にせず、信濃から上方へ向かうべきかと存じます」

 津田小平次も同意見だった。

「倉賀野殿の申す通りです。この戦さで落命された篠岡様は、小平次にこう申されました。殿には上洛という大きな仕事がある。自分等が敵を食い止めている間に、殿には厩橋城にお戻りいただき、一時も早く中仙道にて、上方へ向かっていただくよう伝えよと・・・」

 小平次は敵に斬り殺された篠岡平右衛門のことを語った。

「平右衛門が、そんなことを・・・」

「篠岡様の死を、無駄死にさせてはなりません。北条との一戦は諦め、北条との後始末は、倉賀野殿と、この小平次に任せて、殿は上方に向かって下さい」

「分かった。ならば猶予は無い。これから厩橋城に引き上げる」

 一益は、金井秀景と津田小平次の説得を受けると、それから直ぐに、嫡子、一忠が守備する厩橋城に秀景等と向かった。厩橋城に到着すると、一益は上野衆を城に集め、今回の合戦での戦死者名を書き出させた。滝川家臣では、頼みにしていた篠岡平右衛門をはじめ、津田益重、津田秀信、岩田市右衛門、粟田金右衛門、太田五右衛門等、七百余名が戦死し、上野衆では倉賀野城の金井一族の者、長根城の小笠原一族の者、和田城の和田の家臣等、二千名近くが戦死していた。一益の次男、一時は敵に捕らわれ、敵三人に連行されようとしたが、一益の家臣、古市九郎兵衛が見つけ、すかさず追いかけ、敵一人を斬り、一人に深手を負わせて、一人が逃げたので、無事、解放され、厩橋城に戻ることが出来た。一益は一同に伝えた。

「本日の働き御苦労であった。この炎天下での戦さで、多くの戦死者を出させてしまった事、誠に申し訳無く、御一同に深くお詫び申し上げる。人馬共に疲れているが、明日、残る兵卒をまとめ、もう一戦と考えたが、わしは一時も早く上洛し、信長公の後継ぎを決めねばならぬ。従って、わしは明日、北条との一戦はせず、中仙道にて上方に向かう。それ故、明日、上野の諸将は神流川を渡らず、上野側で待機し、休戦とせよ。その後の北条との話し合いは、一忠と倉賀野殿に一任する。ともあれ、本日は御苦労で御座った。御一同に心より感謝申し上げる。今後、諸将と再会出来るかどうかは分からない。これが今生の別れと思い、『別離の宴』を催すので、大いに飲み食いして楽しんでくれ」

 一益の挨拶の後、大広間で酒宴が開かれた。一益は鼓を打ち、謡曲『羅生門』の一節を唄った。

「伴い語らう諸人に、御酒を勧めて盃を。とりどりなれや、梓弓。弥猛心の一つなる。強者の交わり、頼みある中の酒宴かな」

 すると上野国の大将、金井秀景が拍子を取り、謡曲『源氏供養』の一説を唄い返した。

「げに面白や舞い人の、名残今はと鳴く鳥の夢をも返す袂かな」

 二人が唄うのを聞きながら、滝川衆と上野衆は盃を差し交し、涙を流し、しばしの別れを惜しんだ。宴の最後、一益は涙ながらに言った。

「宴の最後になるが、一益、もう一度、御一同に感謝申し上げる。信長公より、関東管領の命を受けての三ヶ月、諸将には誠にお世話になったままで申し訳ござらんが、先刻、申した通り、わしは明日、上野を去る。今まで預かったものは総てお返しする。幸いにして再び一益、この地に戻ることあらば、その時、また御一同に力を貸していただきたい。わしが戻って来ることが無いと思う者は、遠慮なく北条に従っても構わぬ。いずれにせよ、誠にお世話になり申した。その感謝の意を表す為、記念品を贈呈するので、各人、受けられよ」

 一益は言い終わると金井秀景に吉光の脇差を、その他の諸将には太刀、長刀、槍、掛物、壺などの秘蔵の品々を与えた。諸将は一益と別れの言葉を交わし、その品を賜った。上州のその夜の空は隈なく晴れ渡り、厩橋城を照らす月光は、何時もに無く弱々しく、吹く風と共に、とても涼しく寂しく感じられた。二十日の早朝、一益は厩橋城に嫡子、一忠等を残し、神流川へ向かう金井秀景と別れ、箕輪城に立ち寄った。そこで禅師の長老を呼んで、戦死者名簿と共に百金を渡し、神流川の戦いで戦死した人々の供養を依頼した。そして金井秀景の忠告に従い、用心の為、人質数名を連れ、松井田城まで行き、そこで見送りの上野衆と別れた。松井田城で休息した一益は家臣、津田小平次や稲田九蔵等と今後の行動計画について打合せした。津田小平次は松井田にて人馬を休めゆっくり碓氷峠越えを考えていた一益を叱った。

「何を悠長なことを。関東に在国の望み少なくなった上は、油断はなりません。一日も早く、上野から離れ、信濃を突破し、本国、伊勢に戻らねば、永久に滝川の栄光は掴めません」

 一益は小平次の諫言を最もだと思い、同席していた安中城主、安中久繁に松井田城支援を要請した。翌日、一益は松井田城を守っていた津田小平次等、滝川勢と碓氷峠の地理に詳しい小栗喜内、坂本五郎右衛門等に道案内してもらい、見送りに駈けつけた金井秀景、後閑信久等と碓氷峠を越え、人質全員を釈放し、津田小平次に後事を託し、上野国を去った。熊野神社を経て信濃追分に入ると真田昌幸が待っていた。昌幸は沼田城代、滝川益氏が上洛するに当たり、沼田城をそのまま昌幸に安堵されたことから、これに感謝し、その恩返しに、信濃通過の援軍の役目を果たそうと待っていたのであった。金井秀景と後閑信久は一益や滝川勢との別れを惜しみ、真田昌幸、依田信蕃等と共に、木曽谷まで、一益の警護を申し出た。一益は上野勢のこの恩情に涙して感謝した。

        〇

 本能寺の変により、天下は大きく乱れた。京では毛利攻略から逸早く引き返した羽柴秀吉が山崎の合戦で、天王山を占拠し、明智光秀軍を打ち破った。六月十三日深夜、態勢を立て直そうと坂本を目指した光秀は、逃げる途中、武者狩りの百姓に竹槍で刺し殺されてしまった。本能寺の変から、たった十一日後のことであった。それ以後、逆臣、明智光秀を討ち取った羽柴秀吉と織田の重臣、柴田勝家の対立が始まり、上方は混乱を極めた。甲斐では河尻秀隆が一揆により戦死し、北信濃にいた森長可も美濃に後退し、関東管領の滝川一益も上野から撤退し、甲斐、信濃、上野は一気に支配者の定まらぬ空白状態に陥った。これら周囲の状況を察知した上野の諸将は、金井秀景が一益の見送りの為、不在であるのを良い事に、打ち揃って、北条氏政、氏直親子に服従を申し出た。これに気づいた松井田城主、津田小平次は、馬で厩橋城に駈けつけ、滝川一忠に進言した。

「一忠様。人の心とは分からぬものです。先日の酒宴で忠誠を誓った上野衆が、徐々に北条に屈服しているとのことです。こうなっては関東に在国の望みありません。油断していると、寝首を掻かれます。一日も逗留していることは禁物です。我等一同、一益様に追いつくよう、急いで上野から離れましょう」

 一忠は小平次の言う事、最もであると思い、直ちに箕輪城の滝川忠征に連絡を取り、松井田城で合流し、碓氷峠を越え、逃げるように上方に向かった。北条氏直は、この滝川衆の全員逃亡を知ると、上野国に攻め入った。北条の軍勢は、氏邦を先鋒として、河越から大道寺政繁、松山から上田長則、江戸から遠山照忠等が出陣した。政繁は倉賀野城の金井秀景のもとへ吉田広方を送り、北条に仕えるよう説得し、秀景を上野攻略計画に参加させた。秀景が北条方に味方することになって、総てが有利に動いた。北条勢は和田城、厩橋城、箕輪城、安中城、大戸城、松井田城などを次々と攻め落とし、沼田城も攻略した。これに対し、沼田城の真田昌幸も周囲の状況から、北条方に従属することが得策と考え、それに従った。従って上野国を始めとする滝川領のほとんどが北条傘下となった。用心深い氏政は東海道から関東への入り口の駿河、箱根の守備を固めると共に、中仙道からの関東への入り口、碓氷峠の近くにある松井田城を、河越の大道寺政繁に守らせることにした。その命を受けた政繁は、本拠地である河越八万石を、養子、直英に任せ、自らは次男、直昌を連れて、国境に近い松井田城に居を移し、西上州及び信州沓掛の十万石を守ることとなった。松井田城主に着任した政繁は、戦禍で荒れた松井田城の防衛強化の為の大改修に着手した。城郭を戦闘に備え、整備改築し、水の不便を改善する為、遠く土塩村の不動の滝から城内まで、水を引き、水車で揚水するなど、今まで以上に堅牢な城にした。また河越で商人を集め、『陸の堺』と言われる町づくりをしたと同様、城下である高梨村に、山口、吉田、武井、岩井、大石といった河越の家臣たちや、下野佐野の住人や、倉賀野の金井、黛、板鼻の福田、大戸の浦野といった上野衆を移住させ、人口を増やし、町づくりを始めた。更に碓氷峠の防衛を考え、津田小平次が重要視していなかった愛宕山の支城、笛吹城の改修も行い、碓氷峠から信濃に進出し易くした。これを機に大道寺政繁は、信濃の地理人脈に詳しい真田昌幸、諏訪頼忠、木曽義昌などを取り込み、徳川家康と縁のある佐久の依田信蕃等を攻め、七月中旬には、小諸城を占拠し、小諸城の城代となり、信濃東部から中部にかけての地域を、北条氏の占領下に置いた。そして上杉の重臣、直江兼続率いる北信濃衆に対し、睨みを利かせた。

        〇

 この頃、甲斐ではこの機に乗じ甲斐を併合しようとする徳川家康の家臣、本多信俊が甲斐国主、河尻秀隆に殺害されるという事件が起こった。ところが、その河尻秀隆が、その後、徳川方に心を寄せていた武田家の遺臣たちによって六月十八日、惨殺され、甲斐は国主不在となり、混沌状態に陥った。その甲斐に、この時とばかり、徳川家康の軍勢が侵攻し、甲府を抑え、甲斐国の大半を占領した。七月十九日には徳川軍の先鋒が甲斐から北上し、信濃の諏訪頼忠の高島城に攻め入つた。高島城主、諏訪頼忠から支援の要請を受けた北条氏直は、直ちに小諸にいた大道寺政繁はじめ、真田昌幸等を南下させ、信濃に侵入して来た徳川勢に圧力を加えた。これを受けて徳川勢は信濃から甲斐に後退したが、北条勢は、これを追って甲斐に進撃した。北条氏直は、徳川勢の甲斐侵入を違反であると非難し、徳川方の暴挙を容認出来ないとし、北条の甲斐入国の理由を正当化し、徳川方に厳しく抗議した。

「甲斐は我が祖父、武田信玄公の領国であり、血縁の無い者の入国を許さず」

 この為、それを認めぬ徳川と北条の間で、甲斐の領有をめぐる抗争が激化した。八月十日、家康は北条勢に対抗する為、甲府から韮崎に進出し、十一日には、八ヶ岳山麓に出城を築き、防衛体制を固め、北条軍と対峙した。この時の軍勢は北条勢が二万、徳川勢が一万程度であったが、要害の地に布陣する徳川勢を目前にしながらも、信濃から侵攻して来た大道寺、真田、小幡、諏訪等の北条勢は、その堅固さに攻めあぐねた。信濃からの攻略に時間がかかっているのを知ると、氏直の父、氏政は、韮崎にいる家康の背後を突くべく、八王子を守る弟、滝山城主、北条氏照に韮崎攻めを命じた。それを受けた北条氏照は、武蔵新城の北条氏忠や小机城の北条氏光等の兵を加えて、八千の軍勢で、小仏峠を越え、甲斐の都留から甲府盆地に侵入した。家康もそれを知り、甲府から軍勢を派遣し、黒駒で合戦となった。この合戦は徳川勢が、平岩親吉の活躍により、武蔵の北条勢三百余を討ち取って勝利した。このことにより、停滞していた戦況が変化した。八月下旬に至り、先月まで北条方に属していた信濃の木曽義昌が、徳川方に通じた。それは強大になった北条勢力による徳川包囲網を突き破る為の美濃の織田信孝の作戦であった。更に九月中旬、信濃の小県郡や上野の吾妻郡に勢力を張る真田昌幸が、徳川の家臣となった昵懇の依田信蕃に徳川方に引き入れられた。この木曽と真田の離反により、北条方の大道寺政繁は、上野と信濃の広範囲を守備せねばならなくなった。こうした事態を受け、十月中旬、北条氏政は小諸城にいた大道寺政繁に北条綱成の兵、五千を派遣し、小諸付近の確保を図った。十月二十四日、北条軍は徳川方に寝返った真田昌幸、依田信蕃と戦ったが、もと仲間であった真田軍との戦いは好むところでは無かった。従って信濃の事情は、実に複雑になった。北信濃に上杉が介入し、中部信濃に北条が入り、南信濃に徳川が侵攻し、信濃の国人は、どうしたら良いのか分からなかった。この信濃、甲斐をめぐる北条勢の苦戦を知り、かねてより北条氏と敵対関係にあった常陸国の佐竹義重が下野国の宇都宮国綱、下総の結城晴朝等と手を組んで、下総の古河や栗橋に軍勢を出し、北条領に侵攻する気配を見せた。このような状況から、北条氏政は、徳川家康と和睦することにした。十月二十七日、北条氏と徳川氏の和議が結ばれた。和議の条件は、旧織田領である甲斐、信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が統治するとし、家康の娘を氏直の正室として迎えるという婚姻政策が盛り込まれたものであった。これによって、北条と徳川の抗争は単なる和睦では無く、姻戚関係が結ばれ、強い同盟関係を築くに至った。ここに北条氏直は関東管領に匹敵する関東支配を確実なものとし、徳川家康もまた三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヶ国を支配する大大名となった。

        〇

 天正十一年(1583年)一月二十一日、古河公方、足利義氏が四十七歳で逝去した。古河公方の家臣団は、義氏の嫡男が早死して、男子の後継者がいなかったことから、義氏の長女、氏姫を古河城主に据えた。このことにより、北条氏政は官途補任の立場から、その権力を掌握し、関東に於ける身分上での頂点に立った。この上ない権威を得た氏政は、関東統治に本格的に取り組んだ。領土拡大による検地確認、人口調査、産物の生産量調査等の実態を把握すると共に、各地の城郭の整備、河川の修理保全などを行うよう指示した。その中で、問題が起こったのは、徳川方になった真田昌幸が、信濃に移動すべきであったのに、沼田城をはじめとする利根、吾妻の領土返還に従わない事であった。真田昌幸は、前年の徳川、北条の和睦条件について、納得していなかった。昌幸の領地である沼田領を、北条氏が制圧した信濃佐久と交換するという約束は、所有者を無視した約束事であった。真田昌幸は自力で沼田氏と戦い獲得した沼田領を、徳川方に加わったが為に、簡単に北条方に割譲されるということが、納得出来なかった。その上、信濃の代替地も不明確であったことから、立腹憤懣やるかた無かった。そこで昌幸は、北信濃の旧武田領を接取し、信濃衆との折衝の窓口である直江兼続を通じ、徳川、北条の悪行を訴え、越後の上杉景勝に従属すべく方向転換しようと態度を変えた。そして北条、徳川連合軍の攻撃に備え、千曲川を南に臨む尼ヶ淵で、上田城の築城を開始した。それを知った大道寺政繁は、一時、徳川攻めの折、行動を共にした真田昌幸に、上田城など築かず、沼田城を明け渡せば、自分は小諸城を真田に渡し、上野国に戻るからと書状を送った。しかし、昌幸は、降雪の少ない上野の領地を欲して、政繁の忠告に従わなかった。その為、政繁は、松井田の代官を務める息子、直昌に万一のことを考え、小諸城の為の兵糧と武具などを届けるよう要請した。松井田城の重臣、山口玄蕃、神宮宗形、小宮山甚八郎、横田八兵衛、下久三郎等は直昌の指示に従い、それらの荷物を調達し、碓氷峠を越え、小諸城まで即日、送り届けた。一方、北条氏邦も白井まで出陣したりしたが、徳川家康の考えがはっきりしなかったので、沼田への進軍は控えた。真田昌幸は何時、北条方と開戦になるのか、気が気でなかった。北条氏が手にした信濃領から沼田や吾妻の上野領を巡る北条の動きを、じっと観察した。そんな八月十五日、家康の娘、督姫が北条氏直に嫁いだ。このことにより、徳川、北条の和睦条件のほとんどが実行された。後に残るのは上野の真田の領地と信濃佐久の大道寺の領地の交換だけとなった。真田昌幸がこのまま、ずるずるしていると、北条だけでなく、徳川家康までもが昌幸を逆臣と判断すると思った政繁は、秘かに昌幸を小諸城に呼び、その説得に当たった。

「昌幸殿。貴公とは知らぬ間柄で無いので言っておくが、徳川殿の命令に従い、沼田城を一時も早く、北条に引き渡すべきではないかと思う。貴公が沼田城を手放せば、政繁も、この信濃の地を貴公に、お渡しして、松井田に帰る。信玄公が亡くなり、信長公も誅殺され、徳川と北条は強大になった。その両者に逆らって何の利が得られよう。政繁は、このことで、貴公と無駄な争いをしたくない」

 その政繁の説得に対し、昌幸は苦渋の顔をして答えた。

「そうは言っても沼田は、わしの一族と家来たちが、血を流し、命と引き換えに獲得した領地であり、織田や徳川からいただいた領地では無い。それ故、誰に言われても、自分が獲得した沼田の地を、おいそれと他人に渡すつもりはない」

「だが、貴公がそう言う沼田の地も、もともとは沼田氏のものであった筈。それを貴公が城代の金子泰清を丸め込み、沼田氏から奪ったものではないか。それを知る沼田衆が、果たして沼田の地を、素直に真田の所領と思っていてくれるであろうか」

「思っていようがいまいが、そんな事、関係ない。我が真田一族が生き延びる為には、沼田という上野の肥沃な土地が、必要なのじゃ」

 真田昌幸の意思は固かった。何時も周囲の状況に絶えず揺れ動いて行動する昌幸が、何故、沼田に固執するのか、政繁には理解出来なかった。

「わしは貴公の考えが分からぬ。武田が滅びれば織田につき、織田がいなくなれば、北条につき、北条が不利と思えば徳川につき、徳川が気に喰わなければ上杉につく。そして自分の先祖の地でも無いのに、沼田に拘る。その一貫せぬ生き方は、武士らしく無く、ふしだらとは思わぬか」

「お笑い下され、政繁殿。これが真田の生き方でござる。乱世に生きるには、見栄外聞は捨てねばならぬ。何と言われようと、わしは沼田を手放さぬ」

 昌幸は、そう答えながらも不安を滲ませ、小諸城から去って行った。政繁は、今後、真田に対して如何にすべきか悩んだ。

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 そんな関東の領有権争いの間、上方では明智光秀を討った羽柴秀吉が、織田信長の次男、信雄を擁立し、信長の三男、信孝を推す柴田勝家と近江琵琶湖北岸の賤ケ岳で対決した。この戦いで秀吉は、北へ逃れる柴田軍を追って越前に入り、敵の前田利家を味方に引き入れ、北ノ庄城に籠る柴田勝家を自害させた。この時、勝家の妻であった信長の妹、お市も勝家と共に自害した。信長の三男、信孝も、尾張国野間で自害させられた。柴田軍に味方した滝川一益も籠城戦の末、秀吉に降伏した。この勝利により、大阪の地は秀吉が接取し、秀吉は三年前に焼失した石山本願寺の跡地に、大阪城の築城を開始した。また織田信雄は尾張、北伊勢、伊賀を領し、信長の後継、信忠の子、三法師秀信の後見役として安土城に入城した。ところが何を思ってであろうか、信雄は直ぐに秀吉によって安土城から退去させられてしまった。これにより、秀吉と信雄の関係は険悪化した。怒った信雄は妹、徳姫の縁を頼り、徳川家康に接近し、家康と同盟関係を結ぼうと考えた。この同盟を信雄の重臣、津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三家老は、危険であると反対した。徳川方では本多正信が秀吉を倒す絶好の機会であると、家康に進言した。

「秀吉は己の身分素性も弁えず、天下取りを考えている事、明白です。只今の殿は、五ヶ国を治める大大名。それにいざとなれば同盟する北条氏がついております。信雄様との同盟を結び、信雄様に、お味方しましょう」

「うむ。正信の言う通りかも知れぬ。秀吉を叩き潰す絶好の機会が到来するかも知れぬ。ひたすら先手を打って時を待とう」

 狡猾な家康は、亡き長男、信康の妻であり、また織田信長の長女である徳姫の仲介により、徳姫の兄、信雄と同盟を結ぶことを腹に決めた。この時、家康は、本多正信に口にしなかったが、秀吉同様、天下取りを夢想していた。

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 天正十二年(1584年)三月六日、尾張清洲城の織田信雄は、家臣、津川義冬、岡田重孝、浅井長時が、自分と徳川との関係を秀吉に内通したとして、その三名を処刑し、徳川家康と同盟を結んだ。そして三月七日、家康は八千の兵を率いて浜松城から出陣し、清州城で信雄と合流し、三月十四日、織田、徳川連合軍として挙兵を実行した。信長亡き後、勢力を拡大した秀吉と家康の両雄は、いずれ戦わねばならぬ運命にあった。清洲城から向かった織田、徳川連合軍と岐阜城から出発した羽柴軍は、尾張の小牧山で激突した。この時、紀州の雑賀衆、根来衆や四国の長曾我部、北陸の佐々、関東の北条等が、織田、徳川軍に味方し、秀吉包囲網を形成したので、羽柴軍は、睨み合いを続けたまま、動くことが出来なかった。そこで秀吉は四月六日、一部の兵を家康の本拠地、三河国岡崎城に進軍させ、裏をかこうとした。しかし、そのような動きは伊賀衆や近隣の農民たちからも情報が入り、直ぐに家康に伝えられた。その羽柴軍の動きを察知するや、地理に詳しい家康は、後陣の羽柴秀次勢の後方に水野忠重、丹羽氏次勢を、側面に榊原康政勢を迂回させ、攻撃させた。そして自らは長久手に先回りして、羽柴の先鋒隊を待ち伏せした。この長久手の戦いで三河攻めの羽柴勢は完敗し、大垣城主、池田恒興親子や金山城主、森長可等が戦死した。戦況不利と覚った秀吉の甥、秀次や堀秀政等は、命からがら戦地から逃げ帰った。これを知った秀吉は秀次等を激しく叱責した。この戦いの後も、両軍は各地で戦い続けた。戦況は織田信雄、徳川家康側に有利に移行したが、戦いが長引くことを嫌った秀吉は、信雄の領地、伊賀や伊勢を侵攻し、信雄側に講和を申し入れた。気弱い信雄は、この為、十一月十一日、家康に相談もせずに、秀吉と単独講和を結んだ。信雄を擁していた家康は、信雄が秀吉と和睦した以上、羽柴軍と戦う大義名分が無くなった為、やむなく撤兵した。北条氏政親子は、そんな家康を、信雄同様、弱気過ぎると思うと共に、いずれ羽柴秀吉との対戦の時が到来すると予想した。その為、北条氏政は、関東の広範な支配地域を守る為に、小代官を増やし、郷村上層部に苗字を持たせ、軍役組織に参加させる体制を確立するよう指示した。当然、これらのことは大道寺政繁等にも通達され、政繁は自分が関与する河越、松井田、小諸等の城兵は勿論のこと、それに従う百姓たちにも、武器を増産して与えた。幸い松井田には津田小平次が残して行った鍛冶職人たちが、鍛冶屋村を構成していたので、鉄砲や刀剣や槍の製造に苦慮することは無かった。また移動兵が緊急時に宿泊する坂戸などの不適切な宿場位置を、適正な街道位置に変更させ、いざという時に備えた。

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 天正十三年(1585年)、北条氏政、氏直親子は、関東を完全に制覇する為、上野、武蔵を北条氏邦や大道寺政繁に任せ、下野、常陸への勢力拡大に努めた。下野の北条方に属する壬生城主、壬生義雄や烏山城主、那須資晴が、佐竹義重や宇都宮国綱に攻められたと聞くと、氏直は直ちに岩槻城にいる弟、北条氏房に、祇園城の小山秀綱等と協力し、壬生氏、那須氏を援助し、対抗勢力を撃破するよう命じ、自らも下野に出陣し、下野の半分を支配下に治めた。また常陸南部の江戸崎城主、土岐治や牛久城主、岡見宗治を支援し、常陸南部をも、北条氏の勢力下に置くことに成功した。こうして北条氏の領国は相模、伊豆、武蔵、上総、下総、上野、下野及び常陸、駿河の一部を含める過去最大の範囲となった。その中で、未だはっきりしないのが、上野国の沼田領や吾妻領であった。氏政は、羽柴秀吉と織田信雄が講和したことによって一安心した家康に、『徳川、北条同盟』の和睦条件の一つである沼田領が真田昌幸の造反によって、その交換が実行されていないことを指摘した。それを受けた家康は、先年の羽柴勢との戦いにおいて、伊豆、駿河の北条勢に支援してもらったこともあり、徳川傘下である真田昌幸に、沼田、吾妻領を北条氏へ即刻、引き渡すよう命じた。しかし真田昌幸は、沼田は徳川氏から与えられた領地では無いと、その命令を拒否し、上野、信濃での独立を宣言した。また上杉景勝の支援を得る為に、次男、幸村を人質として上杉氏のもとに送り、万一の時に備えた。この昌幸の逆心的態度に怒りを持った家康は、直ちに北条氏と真田討伐について相談した。甲斐で行われた真田討伐会議で、北条方は沼田、吾妻を攻略し、徳川方は信濃を攻略することとなった。その為、大道寺政繁は、徳川方の依田康国と後見人、大久保忠世に小諸城を引き渡し、上野国に戻り、松井田城から吾妻方面を攻略する役目を仰せつかった。八月、徳川家康は、小諸城の大久保忠世、甲斐城の平岩親吉、谷村城の鳥居元忠等、約七千の兵を、真田昌幸が完成させたばかりの居城、上田城に進軍させた。これに呼応するように北条氏政は、沼田方面に北条氏邦を出動させ、白井城主、長尾輝景を先陣として、沼田城を守る真田昌幸の伯父、矢沢頼綱を攻撃した。また吾妻方面には大道寺政繁、和田信業を出動させ、吾妻の岩櫃城の矢沢頼康を攻略し、上田城と沼田城の連携を分断させるよう命じた。この命令を受け、松井田城の大道寺政繁は、松井田城を次男、直昌に守らせ、地蔵峠を越え、斎藤定盛が守る大戸城に、山口、吉田、神宮といった大道寺の武将の他、安中、後閑、内藤、富永、小幡などの諸将を集め、岩櫃城攻撃作戦を計画した。そして先ずは我妻に知り合いの多い、大戸直光を使い、浅間山北側の鎌原城、柳沢城、羽田城や榛名山北側の植栗城の武将たちを懐柔し、無血で従わせることを考え、信濃からの真田、上杉の侵攻を阻止することにした。大戸直光は、早速、その懐柔に奔走した。しかし、このことは内報者により、即刻、上田城の支城、戸石城にいた真田昌幸の長男、信幸に伝わった。慌てた信幸は密使を上田城の昌幸に送り、その対策を求めた。すると直ぐに、父、昌幸から次の指示があった。

「徳川勢はわしの築いた要害と真田勇士の頑強な抵抗に苦戦している。そして幸村率いる上杉援軍が、間もなく海津城からやって来て、徳川勢を攻撃することになっている。上田城のことは心配せず、お前は直ちに岩櫃城に向かい、矢沢親子を助けよ」

 信濃の好転を知らされた信幸は、北条勢の二方面同時進攻を許してはならぬと、戸石城の将兵二百騎を引き連れ、浅間山麓から吾妻の原野を突貫し、岩櫃城に入った。そして、真田親族、矢沢頼綱の守る沼田城に上杉軍の援軍を要請し、自らは頼綱の嫡子、頼康と共に岩櫃城に籠城し、信濃からの別動隊を駆使し、巧みな戦法で、大道寺勢を困らせた。北条勢は猪俣範直、大道寺政繁、吉田真重等を使い、数回にわたって、沼田城と岩櫃城に攻撃をしかけたが、この真田信幸と矢沢親子の活躍により、戦況は好転しなかった。その上、徳川勢が上田から撤退したことも重なり、勢いづいた真田勢を北条勢は上野国から追放することが出来なかった。このことが後年、北条氏にとって、大きな禍根を残す原因となったが、北条氏の関東制覇は、ほぼ完了した。

 第二部 北条氏と豊臣氏の合戦

 天正十三年(1585年)東国で北条氏、徳川氏、上杉氏、伊達氏などが領地争いを繰り拡げている間、上方では、羽柴秀吉が諸大名を服従させ、七月には関白となり、その権威を全国に知らしめた。そんな中で、九州では、薩摩の島津義久が、日向の伊藤氏、肥後の阿蘇氏、備前の龍造寺氏などを傘下に収め、豊後の大友氏を攻略し、九州を平定しようとしていた。この島津氏の横暴な圧力を回避する為、豊後の大友宗麟は、関白になったばかりの羽柴秀吉に助けを求めた。これを受けた関白、秀吉は、朝廷の権威をもって九州諸将に、朝廷の命令の無い戦闘を禁じ、停戦命令を出した。そんな時、十一月二十九日、若狭湾から三河湾に及ぶ広大な地域で大地震が起こった。この地震により飛騨の帰雲城が埋没したり、美濃の大垣城が全壊焼失したり、尾張の清洲城が破損したり、伊勢の長島城が倒壊したり、近江の安土城、長浜城が全壊したりした。また多くの人たちが亡くなり、家屋を失ったり、各地での被害が続出した。人々は、これに続き、今までに無い恐ろしいことが起こるのではないかと噂し合った。それが現実となった。天正十四年(1586年)一月、薩摩の島津義久は、秀吉の停戦命令に対し、年賀に集まった九州の諸将に表明した。

「我が島津家は源頼朝公以来の名門であり、羽柴秀吉如き、成り上がり者を関白として礼遇し、その命令に従うつもりは無い。よって九州の諸将は我に従え」

 このことを伝え聞いた関白、秀吉は激怒し、後陽成天皇に、薩摩の島津氏が朝廷を軽んじ、狼藉を繰り返していると奏上し、公家衆に如何にすべきか相談した。結果、九月九日、秀吉は後陽成天皇から、豊臣の姓を賜り、年末には太政大臣になり、大納言、徳川家康をも臣下とする尊い地位に就いた。豊臣秀吉はこれを機会に天皇を尊び、諸大名に関白の命令に従うよう誓わせ、天下統一の実現を考えた。九州では島津氏、東国では北条氏、伊達氏などが、未だに領地拡大の為の戦闘を繰り返しており、秀吉にとって、彼らの勢力拡大は、徳川氏同様、頭痛の種であった。その為、秀吉は私戦を禁じる『惣無事令』なるものを全国に発令し、それに逆らう者は天皇の名において討伐するという号令を発行した。そして、それに背く九州の島津義久討伐を、毛利、小早川、黒田、吉川等に命じ、天正十五年(1587年)元旦、九州侵攻の軍令を下した。秀吉は二月十日、弟、豊臣秀長を総大将とし、まずは日向に向かわせ、三月一日、秀吉自らも肥後に向かって出陣した。この二十万を越える圧倒的豊臣軍の襲来に、島津義久は肝を潰し、九州北部を放棄し、領国へと逃亡した。だが豊臣軍の侵攻は尚も続き、敗北を悟った義久は、伊集院で剃髪出家し、薩摩泰平寺に本陣を置く秀吉のもとに出向き、秀吉に降伏した。黒染姿で秀吉のもとに現れた義久を見て、秀吉は感激して言った。

「一命を捨てて、走り入って来た汝の姿勢に感服し、赦免してやる」

 この寛大な秀吉の措置に、九州の大名たちの中にも、秀吉を信奉する者が現れ、秀吉は満悦だった。しかし用心深い秀吉は、賑やかな博多で南蛮船を見て、優秀な武器を持つバテレンと九州の大名たちが結託して、何時、反攻して来るかも知れないと考えた。そこで秀吉は、バテレン追放令を出し、九州から引き上げた。かくて秀吉は、見事、九州の平定を果たして、名実ともに天下の実力者と呼ばれるようになった。

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 九州征伐を終えて大阪に戻った豊臣秀吉は、大阪城から、政庁兼邸宅として建設した京の『聚楽第』に移り、そこで政務を行うことにした。それは天下を治める自分の政庁と天皇がいる御所との往来を円滑に行うが為であった。その『聚楽第』は金箔瓦が用いられ、庶民が仰天する程の豪華絢爛な城閤だった。天正十六年(1588年)四月、秀吉は、その『聚楽第』に、後陽成天皇をお招きすることにした。秀吉は、その際、全国の大名たちを『聚楽第』に集め、天皇と自分の前に大名たちをひれ伏させようと計画した。そして徳川家康はじめ、北条氏政、伊達政宗等、諸大名に『聚楽第』披露に列席するよう要求した。しかし、北条氏政はこれを私邸での宴として列席を拒否した。四月十四日から十八日の五日間に及ぶ『聚楽第』での盛大な催しは、秀吉の力を天下に示すこととなったが、そんな中で、宴に列席しなかった北条氏に対する悪い風聞が京の市中に流れた。秀吉の北条討伐。この噂は直ちに北条氏政のもとに届き、関東の覇者、北条氏政は即刻、臨戦態勢を整えた。五月、秀吉は、そんな北条氏に対し、冨田智信、津田信勝を小田原に送り、上洛するよう促した。その使者の言上が高飛車な命令口調だったので、北条の筆頭家老、松田憲秀が怒った。

「関東管領である我が殿に向かって、直ちに上洛し、羽柴に臣従せよとは、口が過ぎはしないか。『聚楽第』招待の言葉とは思えぬ!」

 この状況を耳にした北条氏と深い同盟関係にあった徳川家康は、危機が自分の身に降りかかることを恐れ、氏政に起請文を提出し、秀吉に従うよう説得した。起請文には次の三項目が記されてあった。

 一、家康は北条親子のことを讒言せず、北条氏の領国を望もうなどと、一切、考えていない。

 二、今月中に、貴公の兄弟衆を豊臣家に派遣すべきである。

 三、これ以上、豊臣家への出仕を拒否する場合は、督姫を離別させる。

 この家康からの忠告を厳しく受け取った氏政は、八月、弟、北条氏規を名代として上洛させ、秀吉との関係悪化を回避しようとした。氏規は京に詳しい板部岡江雪斎を伴い、急遽、上洛した。八月二十二日、氏規は『聚楽第』で秀吉に謁見した。秀吉をはじめとするその時の参会者の装束は、総て皆、衣冠束帯の公家姿であったのに対し、氏規の装束は、肩衣に袴姿の武家装束であった為、氏規はとても恥ずかしい思いをした。氏規は無位無官の者として末席に座し、毛利輝元等の発する屈辱の言葉に耐えた。板部岡江雪斎は、かかる氏規を、徳川の家臣、榊原康政と共に側面から支援した。江雪斎は、その夜、秘かに秀吉を氏規の宿舎に招き、氏規と面談させた。秀吉はこの謁見の結果を知り、秀吉の心内を氏規に把握させようと願う江雪斎の計らいに感心した。秀吉は、天皇を中心とした天下統一が如何に大切かを氏規に切々と説明し、この考えに北条氏が協力することが、天下泰平の道であると語った。かくて京の『聚楽第』と宿舎で秀吉と面談した氏規は、小田原に戻ると、兄、氏政に、京の繁栄ぶりと豊臣秀吉の権勢の強大なることを報告した。

「兄上、京に移った豊臣秀吉公の勢いは織田信長公以上であり、今節は徳川氏同様、豊臣氏に従属姿勢を示すことが、我が北条にとって賢明であると考えます。秀吉公は天皇を中心とした天下泰平を願っておられます」

「左様であるか」

 これを聞いた氏政は、弟、氏規の言う事が本当であるかを確かめる為、以後、政務について一切、口出しをすることを止め、実質的に隠居することを宣言した。このことにより、北条氏と豊臣氏の関係は安定し、親徳川派の氏直が、北条氏の当主として、その実権を握った。穏健を好む氏直は、叔父、氏規が駿府で今川時代、ともに人質であった家康とも親しかったこともあり、人との交渉に於いても下手に出るなど、外交面に秀でていた為、京との取次などは、氏規に頼ることが多かった。しかし、伊豆韮山城の城主である氏規は、頻繁に京に出かけることも出来ないので、秀吉とも面識のある板部岡江雪斎を、時々、京に派遣した。秀吉は何時も丁重な態度で接して来る同年配の江雪斎の人柄と才能を気に入り、自ら茶を与えたりして、江雪斎との談話を楽しんだ。そんな中、天正十七年(1589年)二月、江雪斎は秀吉に、北条、徳川両氏が、沼田城の件で、真田昌幸と関係が悪化したままであるので、何とか解決して欲しいと要請した。その願いに対し、秀吉は次の裁定を下した。

 一、上野国沼田領を三っに分け、沼田城を含む三分の二を北条氏の領有とする。

 二、真田氏先祖の墳墓のある名胡桃等の残り三分の一は真田氏に遺す。

 三、真田氏が失った二万石については、徳川氏が北条氏と相談し、代替地を与える。

 四、これを以って氏政、氏直親子の内、いずれか一方、速やかに上洛する事。

 この裁定は、北条氏の豊臣に対する臣従を約束させる為の条件でもあった。これを受けて北条氏政、氏直親子は勿論のこと、北条の守り神と言われる北条幻庵も大いに喜んだ。氏直は六月六日、今年の十二月上旬に父、氏政を上洛させるとの御礼の一書を秀吉に送った。これに対し、真田昌幸は不服であったが、秀吉に逆らうことが出来ず、沼田城を泣く泣く北条に還付した。七月、沼田城は北条方に引き渡され、氏直は鉢形城の北条氏邦に、その管理を命じた。氏邦は今まで箕輪城代であった家臣、猪俣邦憲を沼田城代に任じ、領地の守備に当たらせた。一方、真田昌幸は、上野の代替地として、信州伊那の箕輪の地と上野国の真田家の墓所があった名胡桃城を含む利根、沼田の三分の一を、そのまま真田領として安堵され、名胡桃城を鈴木重則に守らせた。この秀吉の裁定は北条氏は勿論の事、秀吉に真田昌幸ありと名を印象付けた真田氏にも喜ばれた。北条氏の隠居をしていた氏政も、沼田城が戻ると、これを喜び、御礼に京を見がてら、上洛したいなどと言い出した。ところが十月、思わぬ事件が起こった。北条氏邦の家臣、猪俣邦憲と吾妻中山城主一族による名胡桃城奪取事件である。それは真田昌幸の偽手紙によって、名胡桃城から城代、鈴木重則を城外に誘い出し、その間に、中山実光が城を乗っ取ると言う謀略であった。沼田城代となった猪俣邦憲は、名胡桃城主の妻の弟、中山実光が、沼田城に挨拶に参上した際にこう言った。

「中山殿は、世が世なら名胡桃城主たる身である。もし、貴殿が義兄、鈴木重則を討って北条に忠節を尽くせば、名胡桃は勿論のこと、中山、小川の地も総て与えられるであろう」

 この誘惑に乗った中山実光は、謀計を実行した。真田昌幸からの〈上田に来るように〉との偽の書状を作り、鈴木重則に渡した。

「急いで上田に参れとは、何事であろう」

「多分、関白、秀吉様からの御褒美のことでありましょう」

「殿は京から戻られたのであろうか?」

「そうに違いありません。兄上が留守の間は、私がこの城を守りますので、兄上は安心して、上田に向かって下さい」

 この甘言に乗せられた鈴木重則は、京の話を楽しみに上田へと向かった。途中、岩櫃城に立ち寄った重則に、城代、矢沢頼綱が、首を傾げて言った。

「昌幸様は、まだ京におられる筈だが?」

「でも、この書状が・・・」

 その書状を見て矢沢頼綱は顔色を変えた。

「こ、これは偽の書状じゃ。殿の筆跡では無い。これは謀略である。直ぐに名胡桃城に引き返せ!」

 名胡桃城の異変に気付いた矢沢頼綱は、兵百騎を付けて、重則を名胡桃に引き返させた。欺かれたと知った重則は、顔を蒼白にして、慌てて名胡桃城に引き返した。しかし、時、既に遅し。今まで自分がいた城は、北条方の猪俣、中山勢に取り囲まれ、重則が入城する余地は無かった。名胡桃城主、鈴木重則は歯軋りして悔しがったが、後の祭り。主君、真田昌幸から任せられた大切な名胡桃城は、義弟、中山実光に、まんまと奪われてしまった。こうなっては主君に申し訳が立たない。腹を切って詫びるしか無い。鈴木重則は自分の不甲斐なさを恥じ、途中、正覚寺に行き、自害して果てた。切腹は坐ってするのが常であるが、重則は忠義を誇示する為、立ったまま切腹した。こうして、名胡桃城、中山城は、北条方に組み入れられることになった。猪俣邦憲は、関東の真田の城を手に入れ、氏直に褒められると思って大喜びした。だが、反対に氏直から厳しく叱責された。事件を知った氏政と幻庵は、この猪俣邦憲の愚行に激怒した。激怒したのは氏政たちだけでは無かった。矢沢頼綱から、名胡桃城を奪取されたとの報告を受け、上田を守っていた真田信幸は、父、昌幸の上洛中に、名胡桃城を奪われたとあって、激昂した。若くて血気盛んな信幸は、すぐさま兵を出し、名胡桃城を奪還しようとした。しかし、一族重臣たちは、まずは岩櫃城に援兵を送り、京に使者を送ることにした。この知らせを京で受け取った昌幸は、即刻、秀吉にことの次第を報告した。これを聞いた豊臣秀吉は、烈火の如く怒り、氏政の上洛を断り、氏直の上洛を要求した。氏直は即刻、上洛しようとしたが、氏政、氏邦に危険だと言って止められた。また大御所、北条幻庵が、十一月一日に死去した為、更に上洛しにくくなり、真田との一戦の備えに入った。

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 豊臣秀吉は、板部岡江雪斎を通じ、数度、北条氏直の上洛を促した。しかし北条氏直が上洛を渋って、何の対応もしなかったので、秀吉は北条氏への不信を深めた。秀吉は朝廷に服従しない北条氏討伐を検討するとして、上杉景勝等、諸大名を京に集め、相談することにした。このことは徳川家康にとって、重要問題であった。北条氏直は家康にとって、督姫を嫁がせた外舅であり、その立場は微妙であった。家康は秀吉から、無益な疑いを受けることを避ける為、北条氏討伐の会議に出席した。この状況を憂慮した氏直は、叔父、氏規と江雪斎等に次の事を秀吉に願い出るよう指示した。

 一、名胡桃城事件は北条が城を乗っ取ったのでは無く、真田氏の内紛である。

 二、名胡桃城は事実、真田の家臣、中山実光が城主となり、真田に返還されている。

 三、真田方の名胡桃城主と思われる中山実光の書付を進上致しますので、真理を究明して欲しい。

 氏規と江雪斎は即刻、秀吉の側近、津田盛月、富田一白に対し、このことを弁明するとともに、徳川家康に対しても、同様に取り成しを依頼することにした。しかし家康は既に、秀吉との小田原征伐に関する軍議に出席しており、氏規や江雪斎の相手をすることなど不可能であった。従って氏規や江雪斎の請願は実を結ぶことが無かった。この結果、北条氏は、急遽、防衛の為の準備を開始した。防衛会議は籠城に決定し、諸城主は妻子を小田原に預け、守備城の兵糧等の準備に専念した。大道寺政繁は、防衛会議が終わるや、武蔵河越城の直英といざという時の対処の仕方について打合せし、上野国松井田城に戻った。そして西部上野を守る武将たちを集め、それぞれの守備位置を決めた。大戸城に斎藤定盛、倉渕城に下久三郎、三之倉城に小笠原長範、笛吹城に金井秀景、安中城に安中久繁、後閑城に後閑信久、名山城に大戸直光、磯部城に大野六郎、人見城に上原図書等を配置した。また侍大将、神宮大学には高田城と連絡を密に取り、国峰城の小幡氏との情報交換を正確に行うよう指示した。侍大将、吉田広方には、権現山城の従兄、吉田真重と連絡を密にし、沼田城の状況を、逐次、報告するよう命じた。また城代家老、山口玄蕃には、鍛冶屋村での鉄砲増産と鉄砲玉を含む、その管理供給を命じた。家老、小板橋主膳には、信濃からの忍者の侵入を防ぐ為、忍組『碓氷風魔』を各砦に配置し、昼夜に亘る監視を指示した。更に自分が小田原や川越に出張した時は、政繁の次男、直昌が総指揮を執り行うよう定めた。

        〇

 天正十八年(1590年)一月、豊臣秀吉が名胡桃城奪取事件は、秀吉の発布した『惣無事令』違反であるとして、使者、津田盛月、冨田一白を小田原城に派遣して来た。

「北条殿におかれましては、名胡桃城事件の首謀者を処罰して、即刻、上洛するようにとの、関白様からの御命令に御座います」

 これを受け、北条氏直は、この際、名胡桃城の中山実光を処罰し、上洛しようと覚悟を決めた。しかし、氏政、氏照が氏直の上洛を止めた。

「たとえ上洛して、名胡桃城主、中山実光が独断で北条方に寝返ったと申し立てても、それは北条氏の臣下になった者の犯行であり、猪俣邦憲や氏邦が迎え入れたからだと言われるであろう。そして北条の管理不行き届きとして、氏邦、邦憲を差し出すよう言われるであろう」

「上洛しようが、しまいが災難はやって来る。秀吉は氏邦を罰し、我々には人質を求め、国替えを要求するであろう」

「そんな」

「九州での結果を見れば、子供でも分かる事。秀吉は、そういう男じゃ」

 氏政は怒りを露わにして、氏直の上洛を阻止した。そして更に迎撃態勢を強化するよう、多方面に指示した。氏規から秀吉の天下泰平論を聞いて隠居して静かにしているつもりであった氏政が、身内を守らんが為に、突如、秀吉に対して、正面から牙を見せることになった。流石の家老、松田憲秀も、この状態を押しとどめることは不可能だった。最早、豊臣との衝突は回避出来る状態では無かった。一月十五日、氏政は関東の諸将に小田原城守備の為の参陣を要請した。この命を受けた大道寺政繁は、河越城主、直英と共に河越を守っていた長男、直繁と四男、直次を小田原城に参陣させた。そして三男、直高を河越に残し、自らは次男、直昌と一緒に、碓氷、吾妻の守備に専念した。一月末、秀吉から全国の諸大名に北条征伐の陣触れが発せられた。東海道を進む豊臣本隊の先鋒は、当然のことながら、無情にも駿河に家臣を持つ、徳川家康が務めることになった。中仙道を進む北国勢からなる北方隊の先鋒は、名胡桃城を奪われた真田昌幸が務め、それに前田利家、上杉景勝等が追従することとなった。また海路から攻撃する水軍隊は長宗我部、九鬼、加藤、脇坂等、約一万と決定した。これにより、運命の決戦の火蓋は切られた。

        〇

 二月初め、大道寺政繁の守備する西部上野の碓氷峠や須賀尾峠から、真田配下の甲賀忍者が侵入して来た。その甲賀忍者を碓氷風魔、霧積隼人と鼻曲松太郎が捕縛したので、如何しましょうかと、笛吹城の金井秀景、大戸城の斎藤定盛から知らせがあった。政繁は即刻、それらの者に会い、敵方の情報を白状させた。情報によれば、数日後、真田勢と越後の上杉勢は、上田で合流するとのことであった。敵との小競り合いは既に開始されていた。敵の出方は小田原での軍議で予想した通り、北国勢からなる北方隊を編成し、松井田に差し向けて来た。戦略に秀でた秀吉にとって、松井田城攻撃は三方攻撃の重要事項であった。駿河方面は秀吉率いる豊臣本隊で攻め、房総方面は水軍隊で攻め、上野、武蔵方面は北方隊で攻める三方攻撃。そして常陸や会津を逃げ口にしてやる。それが秀吉の作戦であった。従って、その三方の一つ、松井田城を陥落させない限り、北条氏との戦いに勝算が無いと秀吉は読んだ。南の小田原に呼応し、西の要衝を固めている松井田城の大道寺政繁こそ、北条氏の要といえた。その大道寺政繁を攻略する為、秀吉は真田昌幸を先鋒として、前田利家、上杉景勝等に、三万五千の兵で松井田城攻撃に当たるよう指示した。北方隊の総大将、前田利家は二月十六日、息子、前田利長と一緒に加賀の居城から出発した。雪の飛騨高山から野麦峠を越え、深志城に立ち寄り、和田峠から佐久に出るといった経路を取った。ここで利家は、碓氷峠から松井田にかけての土地の事情に詳しい徳川家康の家臣、小諸城主、依田康国を自分の攻撃隊に加えて欲しいと家康に申し込んだ。これを受けた家康は、大久保忠隣を介し、依田康国に、その旨を伝えた。すると先の小諸城主、大道寺政繁を知る依田康国は、大久保忠隣に、こう答えた。

「徳川軍の先発なら良いが、恩義無き前田軍の先発については、御免こうむります」

「そこを何とか」

 忠隣が何度、説得しても、康国はきかず、わざわざ駿河の家康のところまで出向いて、これを拒否した。しかしながら家康の懇願により、康国は真田勢と一緒なら同意するという条件を出し、渋々、これを承知した。この頃、越後の上杉景勝は、既に上田の真田昌幸と合流し、碓氷峠まで出陣していた。上杉景勝の軍勢は、都合、一万五千余騎であった。景勝は、この戦さの先鋒を上野国出身の藤田信吉に命じ、副将に佐藤一甫斎、甘粕清長、組下に黒川、相川、黒部、加志、松本、竹股等を選んだ。更に景勝は、この藤田信吉の備え、三千ハ百余騎の中から、勇まし気な顔立ちの夏目定吉を指名し、こう命じた。

「去る天正十五年、柴田滅亡の折、忠節、優れし、汝なれば、この度の北条討伐においても、更に忠勤を励むと思い、加増及び五十貫の地を与える。故をもって、汝に藤田の先陣を命ずる」

 この指令を賜るや、夏目定吉は小躍りして喜んだ。かくて上杉軍の先陣は夏目定吉に決まり、脇備は増尾但馬守、小頭は斉田源太左衛門が勤めることになった。一方、遅れて到着した北方隊の総大将、前田利家は先陣を真田昌幸等、信州三組衆に仰せつけた。以上、三万五千余騎にて、三月十日、碓氷峠に陣を張ったものであるから、その姿は壮観。碓氷の堂峰より権現堂まで、その軍勢でいっぱいになり、旗差物が裸の山肌を流れ過ぎる寒風に翻り、それはそれは、またと無い、物珍しい光景であった。これに対し、北条方の大道寺政繁は、この三万五千の連合軍を迎え討たんが為に、松井田城に大量の武器と剛健の武士、三千余騎を配備した。豊臣方、三万五千に対しての、この三千余騎という兵力では、到底、大道寺方に勝ち目は無かった。しかし、大道寺政繁には巧妙な戦国の策士、吉田大炊助広方という強い味方がいた。広方は権現山城主、吉田真重の従弟で、政繁の戦法に助言を与え、窮地に立った時、必ずや名案を企て、政繁を救って来た。広方の先祖は藤原秀郷で、治承四年(1180年)、吉田俊宗の時代に、相模国吉田に住み、以後、吉田を名乗り、応永の頃より、扇谷上杉管領家に仕え、康正二年(1456年)、上杉持朝が河越に城を築くと共に河越に移り、その一部を領した。明応四年(1495年)、北条早雲が小田原城主になると、時の末裔、吉田広則は、早雲の嫡子、北条氏綱に、その武勇才幹を認められ、上杉家を離れ、氏綱と手を握った。以後、三代、実頼、正則、広方が北条に仕え、吉田広方に於いては、北条氏の家老の一人、大道寺駿河守政繁の側近として、河越、松井田の守備に当たって来た。政繁は、敵三万五千が碓氷峠に押し寄せて来ていると、笛吹城の伝令から聞き、その対策について、広方に相談した。

「碓氷峠、熊野神社の神官、佐藤織部丞からの連絡によれば、敵は既に碓氷峠口まで出陣の由。大炊助、如何、致せしものか」

 すると広方は小田原での軍議で籠城戦と決まっていたので、慌てることなく答えた。

「御心配に及びません。ただ黙って敵が攻めて来るのを待つのみです。それより重要なのは、万が一、この松井田城が陥落した時、鉢形、松山、河越の城が、如何に抵抗出来るかです。河越城は御三男、直高様と南条頼母殿がお守りしておられるので、心配ご無用にしても、北条氏邦様、上田憲定様、お守りの鉢形城、松山城は、余程、フンドシを締め改めないと、守り切れるものでは御座いません」

「鉢形、松山は、そんなに心配か?」

「いささか心配です。両城には気骨のある者が少のう御座います。武士が城を守るには、死の覚悟が必要です」

「とはいえ、大炊助。敵が上州に雪崩れ込むのを黙って待つことが、何故、最良なのか?」

 政繁の問いに広方は笑って答えた。

「天嶮、碓氷峠山中には、笛吹城の金井秀景の配下及び碓氷風魔、松井田の忍びの者、三百余名が潜み隠れております。また峠の中程には、座頭ころばしなる馬では通れぬ急坂があり、その真下に、堀切を設けさせております」

「そんな山中に堀切を・・・」

「はい。その堀の中には竹槍を沢山、突き立てております。北国勢が進軍して来た場合、彼らは皆、その堀に落下して死ぬでしょう。大軍の多くは、急斜面を走って来て、急に止まれず、堀切に落下して死ぬこと必定です。また、そこを逃れたる者といえども、昼なお暗き谷間の中で、妙義山で鍛錬された我らが忍び『碓氷風魔』の者に、その命を奪われましょう」

「何時の間に、そんな策を・・・」

「昨年末から、金井殿と秘かに準備して参りました。しかし、かかる効果は一時のこと。最終的には計画した通りの籠城戦となりましょう」

 大道寺政繁は、この説明を聞き、安心したものの、三万五千の敵を如何にしたら、退散させることが出来るか思案した。

        〇

 三月十五日、北方隊の先鋒、真田昌幸は、総大将、前田利家から、本日、正午、松井田城に向かって進軍するよう命ぜられた。昌幸は、かって北条氏に従っていた時、旧武田の家臣であった自分に対し、とても親切にしてくれた先輩、大道寺政繁のいる松井田城を攻撃することは、実に心苦しかったが、命令とあっては仕方なかった。そこで、若き依田康国や夏目定吉を前面に押出して、碓氷峠を上野国に向かって進軍させた。しかし、笛吹城に到達する手前で、金井秀景、吉田広方の策略にかかり、碓氷峠の堀切に先鋒隊が落下し、多くの負傷者や死者を出した。この為、北方隊は一時、後退を余儀なくされた。これを知って怒った昌幸の息子、信幸、幸村の二人は、翌日、手勢百三十人程を引き連れ、碓氷峠を通らず、入山峠から坂本村に入り、兵力の少ない笛吹城を、あっという間に落城させてしまった。そして、その夜は坂本宿に一泊することにした。笛吹城が落城したとの知らせを聞くと、大道寺直昌は激怒した。

「何をしているのか、金井秀景の奴め!」

 そう言って息子が怒るのを見て、大道寺政繁は、その場で直昌に命令した。

「ならば直昌、その方が行って真田を撃退して見せよ」

「ははーっ。承知しました」

 直昌は、父の命令を受けると、直ちに山口主馬、吉田尚武等、若者数人を引き連れ、馬に跨り、横川まで後退して来ている金井秀景等と会った。

「かような事になってしまい、誠に恥ずかしい次第です」

「そう気にするな。たとえ敵の軍勢多くとも、我らの知略をもってすれば、何ほどのこともあろうや。上野に侵入せし敵、断じて返すべからず」

 直昌は、そう言って秀景を励まし、依良宗源等に風魔忍者隊を加え、反撃の作戦を練った。そして勝利に喜ぶ真田勢が坂本宿に留まるのを見て、直昌と金井秀景は、依良宗源、秋山五郎兵衛、星彦左衛門、霧積隼人等からなる風魔忍者隊を使って、早暁に攻撃をしかけた。戦い終えて風呂に入り、酒を飲み、ぐっすり寝入っていた真田勢は、皆、武装を解いて眠っていたので、突然の来襲に慌てた。槍は廊下に立てかけ、弓、鉄砲などは箱に仕舞っており、武器といえば、傍らにある太刀や小刀だけであった。これでは全く勝ち目が無かった。真田兄弟は不意を突かれ、周囲の兵も散々に逃げ去り、自らも後退せざるを得なかった。兄弟は太刀を振り回しながら、家来たちと一緒に碓氷峠に向かって無我夢中で走った。それを依良宗源や秋山五郎兵衛等が騎馬で追った。信幸は迫り来る敵影を振り返り見て、幸村に言った。

「我等が命運、今やこれ迄か」

 そう覚悟した二人の前を依良宗源の騎馬隊が手勢十人程を引き連れて通り過ぎた。と思う間もなく、前方の民家から火の手が上がった。逃げようとする真田勢を阻止する為に火を放ったのだ。だが、そこを突破しないことには、助かる手立ては無かった。真田兄弟は火を避けながら、依良宗源等に立ち向かった。まさに絶体絶命であった。その時であった。昨夜から徹夜で碓氷峠入口で、物見をさせておいた信幸の家来、吉田庄介が、主君の危機に気づき、十文字の槍を掲げて、坂道を騎馬で駈け下りて来た。彼は長槍を回転させ、風魔忍者隊を蹴散らした。また昌幸が心配して送り出した鉄砲組が、碓氷峠を甲賀忍者と救援に降りて来た。その中の一人、富沢主水助が、近くにあった桑の木を台にして、松井田の勇将、依良宗源を鉄砲で撃った。弾は見事命中、依良宗源は馬上より落下し、忽ち首を討ち取られた。これにより真田勢、勢いを盛り返し、信幸、下知して、碓氷峠を熊之平まで引き上げた。いずれにせよ、この碓氷峠での真田、前田に対しての勝利の吉報を聞いた北条氏政は、大いに喜び、駿河、伊豆の諸将にも頑張るようにと檄を飛ばした。また政繁には次の書簡を送った。

 去十五日、碓氷峠敵打上候処、乗向、則追崩、敵数多討、捕分取無際限由、大軍先之仕合、前代未聞、無比類感悦候、弥竭粉骨可走廻儀、肝要候。 謹言

 天正十八年三月十八日  氏直

 大道寺駿河守政繁殿

 この書簡が語るように、北方隊は初戦において惨敗を喫した。この勝利により、松井田勢は血気と自信に燃えた。

        〇

 前田利家等北方隊は、急斜面や堀切や竹槍の並ぶ深い峡谷の碓氷峠を一度に下ることが出来ず、日数がかかり、苦戦を重ね、兵糧不足に陥った。従って支援米が入荷するまで、信濃軽井沢から身動き出来なかった。だが徐々にではあるが、上野国に侵入する段取りは出来ていた。真田昌幸は、この状況を、秀吉の参謀、石田三成、浅野長政に都合よく書いて送った。

〈北陸道の大将軍として、筑前守利家、上杉景勝、并に我等父子、関東の案内者として、今度、先陣を仰せつけられ候。三月上旬、信濃国小県郡を進発致し、残雪踏み分け、去る十二日、同国軽井沢に参陣仕候。然る所、愚息、伊豆守、松枝城の順見として、近習の士、百三十余人を召し連れ、碓氷峠より乗り下りし町口の処に宿る。城代、大道寺駿河守、敵の少数なるを見済まし、早暁、昆甲七、八百騎にて城より乗り出で、三方より取り詰め、既に一戦に及び候。当方は伊豆守をはじめとして、軍兵、何れも皆、真裸にて、弓、鉄砲一挺も之無く、頼む所の兵具は、太刀、長刀、槍などばかりを以って責め合い、難儀に及び候処、あまつさえ信州佐久郡住人、依良入道宗源と申す者、手勢十人引き分け、坂本の民家に放火を致し、後を切り取る可き様子を見るに及び、家来、吉田庄介、富沢主水助、懸合い、ようやく伐り払い、依良宗源を馬上より、撞き落とす。忽ち首討取候。その勢を以って盛返し、向う敵、八十余人、討捕え、勝利を得候に付、残党、ようやく敗軍に及び候。押付け門外迄、責め詰め、勝鬨を執り行い、北陸道の通を平均申付候。云々〉

 この文面からも分かるように、碓氷峠を越えて上野国に進軍して来た北方隊を、松井田の大道寺勢が、惨々に打ち破り、物凄い遭遇戦が繰り返されたのであった。これに苦慮した北方隊は、松井田城攻略を、碓氷峠の一本だけでなく、和美峠と地蔵峠経由の三方から攻めようと作戦変更をした。結果、前田利家軍は村井勢を先頭に、予定通り碓氷峠から笛吹城を攻め、横川方面に進軍し、上杉軍は依田康国が先鋒となり、和美峠から西牧城の多米長定を攻め、妙義山麓に布陣し、吾妻に領地を持つ真田昌幸軍は、岩櫃城の矢沢頼綱に大戸城を攻めさせ、自らは浅間山の麓より、倉渕村に入り、倉渕城、三之倉城を攻める事となった。三月十八日、再び戦闘が開始された。依田康国は、藤田信吉、木戸玄斎等と共に和美峠を越え、五千余騎で西牧城攻略にかかった。これに対し、西牧城主、多米元忠は二千程で奮戦したが、押し寄せる敵の猛攻に合い、矢尽き、刀折れ、家来たちは散り散りになり、果ては自分も負傷し、家来一人の肩に掴まり、物語山へと逃亡した。ところが運悪く、逃げ込んだのは岸壁に立ち塞がれた行き止まりの場所であった。茫然として岸壁を見上げると、何と岸壁の上から藤蔓が目の前まで垂れ下がっているではないか。元忠は、その蔓に跳び付き、岸壁の上まで登った。家来の一人も、それに伝わって岸壁によじ登った。そして追手が登って来られぬよう、その藤蔓を直ぐに切った。負傷した二人は、岸壁の頂上に隠れ、一夜を明かした。ところが、その翌朝、そこから降りようとしたが、下までの高さが相当あり、伝わる藤蔓は無く、そこから降りることは不可能であった。二人は助かる手立てが無いことを知り、お互いに腹を切って果てようと決めた。二人は元忠の妻たちのいる小田原城の方向を見やってから切腹した。当主の逃亡した西牧城は、二日もせずに陥落した。籠城していた元忠の息子、左近と粟田一族は、城中で自決した。その知らせは、大道寺政繁が甘楽の偵察に派遣した山口主馬により、松井田城に直ぐに届いた。西牧城を陥落させて勝ち誇った依田康国軍率いる軍勢は、途中、南蛇井から妙義山麓の碓氷川の畔、松井田城の対岸へと向かった。一方、真田昌幸率いる真田軍は、大戸城の斎藤定盛を破った矢沢軍と倉渕城、三之倉城を攻め、地蔵峠を抜けて、松井田城の北方、細野ヶ原に集結した。また碓氷峠を越えた前田利家軍は、村井長頼軍を先頭に笛吹城を破り、松井田城の西方、横川村に本陣を置いた。上杉軍は依田康国軍と共に松井田城の南方、碓氷川の対岸、八城に陣を敷いた。豊臣方、三万五千の軍勢は、松井田城の周囲の支城等を攻略したものの、大道寺政繁の守る松井田城の堅牢な防備体制に攻めあぐねた。しかし、松井田城の軍兵は支城から逃げ込んで来た負傷兵なども加わり、七千人程に膨れ上がっており、持久戦にも限界があると政繁は判断した。その為、政繁は一緒に松井田城を守っていた次男、直昌を秘かに城から脱出させ、援軍を要請する為、河越に走らせることにした。直昌は、碓氷風魔の忍者、鷹戸谷幻雲と霧積隼人を護衛に付けてもらい、高梨村から河越に向かって馬を走らせた。途中、鉢形城に寄り、北条氏邦の家臣、田口帯刀に松井田城の苦戦状況を報告し援軍を要請した。それから河越城に行き、弟、直重や家老、南条頼母に松井田城の実状を説明した。河越城主、直高は松井田城の危急を知り、直ちに武蔵からの援軍、千五百を松井田に送り、兄、直昌には、このまま小田原に赴いて、北条氏直の指示を仰ぐようお願いした。直昌は、河越の援軍と共に松井田に引き返したかったが、弟、直高の言う通り小田原に行き、北条氏政、氏直に松井田城の窮状を報告することにした。

        〇

 大道寺直昌から上野国松井田城の戦況を聞いて、北条氏政も氏直も苦悩した。本日、二十七日に、豊臣秀吉が沼津三枚橋城に着陣したという状況の中、相模に支援に来ている武蔵や上野の強力部隊を、上野に戻すことは不可能であった。悩む氏直に代わって氏政が、直昌に返事した。

「上野と同様、敵の本隊は、駿河に攻撃を仕掛けて来ており、小田原は十七万の敵を相手に戦っている。それを阻止する為に、上野への援軍は出せぬ。よって上野の事は上野の諸将で協力し合い、敵を追い払うよう、駿河守政繁に伝えよ」

 氏政の激しい口調に、直昌は反論することが出来なかった。直昌は小田原城の箱根口の守備に当たっている兄、直繁と弟、直次に会って、二人の部隊だけでも、松井田に戻せないかと相談した。それに対し、兄、直繁の言葉は、氏政同様、厳しかった。

「今、小田原は、そのような余裕のある状況では無い。豊臣秀次勢と徳川家康勢が、七万の兵で駿河の山中城の攻撃にかかり、我が北条勢は、城主、松田康長様はじめ間宮康俊兄弟、一柳直末などの諸将で防戦している。北条氏勝様や上野箕輪城主、多米長定様の援軍が、今日、山中城へ向かった。我等部隊にも何時、駿河への進軍命令が下るか分からぬ状態じゃ。そんな時に、松井田城に行けるか」

「では、どうすれば良いのですか。援軍が無ければ、松井田城は落城してしまいます」

「父上は、それを覚悟で、お前を小田原に寄越したのだ。武士たるもの、私情を捨て、主君の為に尽くせ」

「父上は死を覚悟で私を・・・」

 直昌は兄の言葉を聞いて、大粒の涙を流した。最早、豊臣に味方する大軍の前に、父が助かる手立ては無いのか。その時であった。傍らにいた直次が口を開いた。

「兄上たちに申し上げます。この新四郎が松井田に参ります。父上、お一人を見殺しにする訳には参りません。四男の私が、お伴をさせていただきます。兄上たちは小田原で頑張って下さい」

 おの直次の発言に、二人の兄は吃驚した。まさか甘えん坊の直次が、苦戦を強いられている松井田城に馳せ参じようとは、全くの予想外であった。直繁は、この弟の申し出を了解し、二十人程の兵を付けて松井田に向かわせた。新四郎直次は、鷹戸谷幻雲、霧積隼人を道案内人として、河越に寄らず八王子から青梅、秩父、倉賀野、箕輪、白井を経て、榛名山の北東にある権現山城に立ち寄った。北部上野の状況を把握する為の立ち寄りであった。

        〇

 大道寺直次は権現山城に着いてから、兵を休ませ、城主、吉田真重に西部上野の現況を詳しく教えてもらった。吉田真重は直次にこう説明した。

「上野国は今や四方の間道から敵兵が続々と侵入し、激しい戦場となり、先般、沼田城の猪俣邦憲様も真田軍に攻め立てられ、それがしが兵を率いて馳せ参じようとした時には、既に戦わずして城を捨て、この城に逃げ込んで来る有様。従って、沼田城は只今、真田信之と矢沢頼綱に占拠され、北条の手から離れてしまって御座る。それ故、それがしは、猪俣様を箕輪城に送り届け、今はこの地域の防戦をしながら、白井城の長尾政影殿の支援をしているところで御座る。またご存知とは思いますが、多米元忠様の西牧城は既に落城し、元忠様は松井田に逃れる途中、自刃。美和姫様は火炎の中に消えたとの事で御座います」

 吉田真重は、残酷であると思ったが、直次の許嫁である美和姫の死を告げた。直次が小田原に行く時、戦いが終わるまで、安全な河越に連れて行こうとしたが、彼女は、あの時、こう答えた。

「私は父上と一緒にここにいます。武功を立て戻られる日を、お待ちしております」

 その美和姫の死を知り、直次は床に頭を打ち付け、血を流さんばかりに泣きたかったが、涙を堪えた。真重は尚も続けた。

「また直次様の御父上様がお守りする松井田城は、目下、前田、上杉、真田軍などが、三方に陣を構え、長期戦を考えているようです。松井田城が不壊鉄壁の構え故、北方隊は鮮費人力の消耗と疲弊に苦慮している筈です。この際、戦うと見せて戦わず、延長を旨として敵を観望していれば、禍は敵を襲うでありましょう」

 直次は真重から有難い情報を教えて貰い、自分の従者二十人の他に、真重の家来五十人を預かり、権現山城から白井、箕輪、後閑を経て、高梨子口より、松井田城二の丸に入った。

        〇

 大道寺新四郎直次は松井田城に入るや、父、政繁や山口玄蕃、小板橋主膳等重臣に会い、小田原城や川越城、権現山城などの戦況を報告した。そして我ら大道寺勢の戦略技法を駆使すれば、前田利家率いる北方隊を破ることが出来ると力説した。次男、直昌が城を出てから、一進一退の戦闘を繰り返していた大道寺政繁は勿論のこと、松井田城の城兵たちは、この四男、直次の来援と説得に勇気づけられ、豊臣打倒に燃え上がった。その頑強に抵抗する松井田勢に対し、北方隊は戦おうともせず、三方に陣を構えたまま、松井田城の要害を窺い続けた。北方隊は包囲作戦による長期戦を考えているのだと、直次から聞いた大道寺政繁は、諸将を集め、攻撃に打って出ることを告げた。

「我、今、この城に兵を引き受け、安閑と敵の侵攻を只待つこと、拙きと思う。よって半途まで出陣を行い、敵と一戦し、味方の威勢あることを示し、敵の豪弱を探ろうと思う。結果、もし敵強くして、我等の力では到底、適わぬ時は、城を堅固に守り、敵が退却するまで、籠城することにする。諸将の考えは如何にや?」

「異議なし」

「ならば先ず、細野ヶ原の真田衆と一戦を試みよ」

「お-っ!」

 この命令に従い、先ず跳び出したのは、大道寺新四郎直次の率いる騎馬隊であった。若き武将に相従ったのは、小玉利久、山住勝正、山口主馬、猪俣五郎、鈴木高安、吉田尚武、三保崎九郎右衛門、早川六左衛門、木部官兵衛等であった。直次は太く逞しい黒馬に、金覆輪の鞍を置き、赤地の錦の狩衣に、緋縅の鎧を着け、星白の兜の緒をしっかり締め付けると、兵庫鎖のついたいか物作りの大太刀を抜き、高梨子村から増田村の細野ヶ原へと、一気に駆け上がった。血気盛んな大道寺の騎馬隊は、油断していた真田陣に容赦なく斬り込んだ。これを迎えた真田軍の先陣は、伊勢崎藤右衛門、望月宇左衛門、大塚清兵衛、海野四郎兵衛、穴山小左衛門等であった。彼らは大道寺直次の突然の襲撃に、吃驚して、あれよあれよと跳び出して来た。その前で直次は鐙を強く踏んで、馬上に立ち上がるや、大音声を上げて告げた。

「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見よ。我こそは大道寺政繁の息子、大道寺新四郎直次なるぞ。成年十八歳なり。かの秀吉も我を知れり。我と思わん者は、我を討ち取り、我が首を秀吉に見せよ」

それは凛々しい若武者姿であった。直次は言い終わるや、目の前に押し寄せた足軽たちを叩き斬ると、六文銭の旗印の真田陣に向かった。山住勝正等がそれに続いた。山住勝正は四尺五寸の太刀を振り上げると、向かい来る敵兵を相手に、滅茶苦茶に暴れ回った。伊勢崎藤右衛門をはじめとする真田勢は、この勝正をはじめとする勇敢な松井田勢に斬り立てられ、散り散りになり敗走した。山住勝正は得意になり、勇を奮い、尚も敵陣に斬り込み、敵を蹴散らした。直次はこれを見て、味方の勝利、ここぞとばかり、旗本勢を押出し、近くにあった依田陣にも突入し、鬼神の如く暴れ回った。山住勝正、小玉利久、鈴木高安、山口主馬、猪俣五郎、吉田尚武、三保九郎右衛門等、いずれも抜群の豪傑なので、依田陣内も大いに混乱し、真田勢を追うように逃走した。その時、突然、横合いから、小笠原貞慶率いる前田勢が横川方面から、鬨の声を上げ攻め込んで来た。前田勢に不意を突かれた松井田勢は一旦、城に引き返すことにした。直次が細野ヶ原から引き上げるのを見て、上杉景勝の精兵、藤田信吉、安田利兼が、逃げて来た依田兵と共に、敵がひるんだと見て、郷原方面から打って出て、松井田勢と激しく火花を散らした。松井田勢は、寄せ来る上杉勢の数に押され、ついには後退し始めた。これを見た直次は,馬鞍に立ち上がるや、家来たちに向かって叫んだ。

「愚か者。退がるで無い。退がるは拙き振舞いなるぞ。戦場は武士の命の捨て所なり。返せ。返せ!」

 その九尺五寸の鉄筋入りの槍を抱え込み、乗馬した直次の怒りの様は、さながら怒れる阿修羅にも似て、あっという間に、向かう敵、四、五十人を突破した。そこに権現山城の兵や風魔忍者、霧積隼人、流れ星光吉、つむじ風来馬等が後閑方面から助けに入り、二十八騎を討ち取った。この助勢をもって松井田勢は、戦力を盛り返し、敵を散々、打ち破り、上杉勢を後退させ、一息ついた。直次は敵の大軍に包囲される前に、全員に引き上げを指示した。この時の味方の死者は無く、負傷者がたったの四人であった。大道寺政繁は、末っ子の活躍を喜ぶと共に、それに従った者たちを称賛した。

        〇

 この一戦により、直次の加わった松井田勢の威勢は、活気を増した。近くの安中城や箕輪城からの援軍も加わり、一旦、上杉方に占拠された名山、郷原の地を取り戻し、そこに新しく北条方の陣を設け、敵との対戦姿勢を強めた。直次は、郷原本陣に出っ張り、援軍諸将と、その日、その日に作戦会議を実施した。今日の直次の出立は、黒を基調にした鎧に、星白の兜をかぶり、愛馬に黒塗りの鞍を置き、何時もの九尺五寸の槍を備えていた。一方、大戸から地蔵峠を下って来た真田昌幸の次男、幸村は、細野ヶ原まで進軍しながら、停滞している味方の負傷者などを見て回り、伊勢崎藤右衛門等に戦況を確認した。彼らの説明では、小田原から大道寺政繁の息子をはじめとする精鋭部隊が応援に駈けつけ、更には榛名山麓の箕輪城や安中城からの援軍が布陣し、苦戦を強いられているとのことであった。幸村は、自分と同年輩の大道寺直次に振り回されている部下に腹が立った。まずは自ら一戦し、相手の手応えを知ろうと考えた。幸村は紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧を着て、頭上に烏帽子形の兜を着けると、部下に向かって叫んだ。

「敵に新手が加わりなば、一大事なり。我、向かいて確かめん。続けや、者ども!」

「お、おーっ!」

 幸村は黒鞍を置いた栗毛の駒にうち跨ると、十文字の槍を引掲げ、細野ヶ原から小日向を突き抜け、真一文字に郷原の大道寺本陣めがけ、突っ込んだ。この幸村の謀事は孫呉を欺き、その勇敢さは范會も恥じるといった暴挙であった。幸村は浅間山の麓で育ったこともあり、馬術は達者であった。その幸村に続いたのは、穴山小助、望月宇左衛門、百合鎌之助、三好青蓋等の屈強なる面々であった。騎馬の到来に気づいた大道寺本陣の兵が馬に飛び乗って、相手を確かめに向かうと、幸村は問答無用、その者らが接近するや否や、十文字の槍を上げたかと思うと、たちまちにして大道寺兵、三騎を突き落とした。幸村は慌てて駈け出して来る大道寺勢の中から、敵の大将を探した。その大将、大道寺直次は黒馬に跨り、幸村を待っていた。

「天晴れ。上田の山猿。なれど、この新四郎直次の首は、汝には討ち取れぬ。早々に上田に帰られるのが身の為ぞ」

「何を言うか大道寺。相手にとって不足無し。いざ勝負を決すべし」

「心得たり」

 両雄は槍を合わせると一対一、火花を散らして戦った。その迫力は、一人が風を起こし、一人が竜の波に伏すが如くで、いずれが勝つか、全く予想がつかなかった。勝負は時の運。やがて直次が幸村の槍を受け損じて、肩先を突きかけられ、馬から下に、ドッと落ちた。幸村の二の槍が直次を襲った。直次は寝ころび回転しながら、その十字の槍先を、鎧の縁金具で受け止めると、その槍首をしっかと掴み、それを頼りに起き上がり、今度は逆に、幸村を馬上より、引き落とそうと、力任せに槍を引っ張った。もとより鞍技の素早い幸村は、そんな手にひっかからなかった。手の槍をゆるめて太刀を抜き、直次の頭めがけて打ち下ろした。直次は幸村から奪った槍を防ぎにして、その太刀を受け止めると、自分の腰の太刀を抜き放ち、片手撃ちにて、幸村が乗る馬の脚を切り払った。太刀で脚を斬られた馬は跳ね上がり、流石の幸村も、馬から振り落とされた。早技の幸村、馬から素早く飛び降りると、ひらりと丘の上に立ち、次の瞬間、もう太刀を構えていた。人間業とは思えない互いの動きであった。これを見て双方の家来たちが駆け寄った。

「若君を救え!」

「主君を討たせてなるものか!」

 大道寺直次の家来、山住勝正は、四尺五寸の太刀を振り上げ、幸村の家来の群れに跳び込んだ。そして恐ろしい形相で幸村を睨みつけた。

「この者、それがしに給うべし」

 山住勝正は幸村に襲い掛かった。幸村は、その大男、勝正から体を躱し、家来が取り戻した自分の槍を穴山小助から受け取ると、大道寺直次を見やった。直次は肩先に傷を受けて、血を滲ませたまま馬に乗り、堂々として、一歩も退く気配が無かった。その直次の雄姿を見て、幸村は燃えた。幸村は己の前を妨げる山住勝正を睨み飛ばして叫んだ。

「我、一念にかけた敵将なるに、それを妨げるとは何奴。主君より先に殺してくれるわ!」

 幸村は、そう言い終わるや、十文字の槍で山住正勝の太刀をひっかけ、山住勝正を引き寄せると、むんずと組み合った。山住正勝は北条方で、怪力無双の名をほしいままにした豪傑であった。幸村はその正勝の鎧の上帯に手を掛けると、勝正の身体を目より高く差し上げ、一振り振って、大道寺本陣に投げ込んだ。勝正は頭から石の上に落下して、声も立てずに即死した。それを見て幸村の家来の一人が大音声を上げた。

「関東にて剛力の聞こえありし、山住郷右衛門を、我が主、真田源次郎幸村様が見事、投げ殺したり。同じ目に遭いたく無くば、大人しく降参せよ」

 真田勢は、この時とばかり、鬨の声を上げ、尚も突っ込もうとしたが、幸村が、それを制した。

「今日の一戦、これまでなり。大道寺という敵、まさに恐ろしき強敵であるかな。深攻めは禁物なり。全員、直ちに引き上げよ」

それを耳にするや、大道寺直次は太刀を抜き払い、愛馬の手綱をむんずと掴んだ。真田幸村を捕らえ、山住勝正の仇を討とうというのだ。それを小玉利久が、直次の馬の轡を掴み引き留めた。

「新四郎様。敵は他の者が追っております。傷を負われた新四郎様が、このまま敵を追っては、敵の思う壺です」

「家来を討たれ、このまま見過ごすことは情けなし。馬を進めて、勝正の仇を討たん」

「焦りは禁物。仇は何時でも討てるもの。命あることこそ肝要ですぞ。ご堪忍下され」

 小玉利久は敵を追跡しようとする直次の馬の手綱を奪い取ると、そこに集まっていた味方に退去を命じた。家来一同、それに従い、郷原の本陣に引き上げた。夕刻、直次は松井田城に入り、父、政繁に山住勝正を失ったことを報告した。政繁は今まで数々の武勲を上げてくれた勝正の死を惜しんだ。直次は、その夜、城内で休息しながらも眠れなかった。真夜中になるや、政繁父子は櫓に昇り、敵の様子を窺い、話し合った。そして睡眠前の諸将に向かって、政繁が言った。

「こうして見るに、上杉勢の寄手、甚だ油断の風情なり、明日、早朝、上杉、真田の両陣に奇襲を加え、勝正の弔い合戦とする。従って、今宵は武具を備え、ぐっすり眠るよう、各陣に伝えよ」

 これを受けた諸将は、郷原や名山や後閑の陣営に伝令を出し、明日の早朝戦に備えた。

        〇

 翌朝、七ッ時、大道寺新四郎直次は、城内の兵と共に密かに郷原の陣に着陣し、本日の主目的を伝えた。

「今日の攻撃は碓氷川を越えて、五料、酒盛に陣取りしている上杉方の直江、藤田勢を、川向うに追い返すことに主眼を置く。よって攻撃は碓氷川方面とする。戦闘が開始されれば、当然のことながら、真田勢が九十九川を渡って来ようとするであろうが、それは上原組、田村組、吉田組が、後閑勢と一緒になって防げ。一番鶏が鳴き次第、出陣する」

 今朝の直次の出立は連銭葦毛なる馬に鋳懸地の鞍を置き、赤地の錦の狩衣に、緋縅の鎧を着け、星白の五枚しころの兜を被った凛々しい姿であった。天神山の鳥が、その姿を見て驚いたのか、半時も過ぎぬうちに暁の到来を告げた。それと同時に、上原組、田村組、吉田組が後閑方面に向かった。直次は彼らに九十九川側の守備を頼むや、連銭葦毛の馬に跳び乗り、星白の兜の緒を締め、九尺五寸の槍を抱え込み、まだ眠っている直江、藤田陣めがけて馬を走らせた。春雨煙る早暁の中に従うのは、小玉利久、山口主馬、荒岡岸右衛門、猪俣五郎、利根川亀之助、鈴木高安等、都合三百の面々であった。春眠暁を覚えず。眠っていた北国勢は、突然の敵襲に吃驚して、真っ裸のまま跳び出して来た。山口主馬は鉄砲隊、木部官兵衛に命じ、先手、藤田信吉の陣へ、五十挺の鉄砲を使い、つるべがけに、ドンドン撃ち込ませた。不意の銃撃に敵陣は上を下への大騒動。裸の北国勢は顔面蒼白になって逃げ惑った。続いて猪俣五郎が陣屋に押し入り、火を放ったから堪らない。藤田勢は防戦しきれず、散々に逃亡した。また村上、柿崎、直江の陣も、この奇襲に慌てた。太刀よ、鎧よ、兜よと騒動している中に、松井田の精兵たちが雪崩れ込んだ。松井田城の大将、大道寺直次は件の雄々しい騎馬姿で、颯爽と登場するや、九尺五寸の長槍で、馬上より当たるを幸い、片っ端から敵兵を突いて回った。敵は手負い、死人、数知れず、血相を変え、四散した。松井田勢は、直江、藤田陣等を破壊し、彼らを碓氷川の反対側に追いやると、鉄砲隊を残し、踵を返し、今度は細野ヶ原に布陣する真田、依田の陣に突入しようとした。ところが真田陣は落ち着いたもので、鉄砲隊は鉄砲に火縄を挟み、槍隊は槍を構え、弓隊は弓弦を張って、厳重に且つ、静かに相手を待っていた。直次は、この真田軍の油断ないのを見て、感心した。

「さてさて、真田の構え万全なり。流石、真田幸村、天晴れの大将なり。今日の攻撃はこれまでとする」

 直次は、そう言うと、速やかに攻撃隊を各々の持ち場に引き上げさせた。この戦いで上杉方が失った兵は、藤田勢の討死二百余人、手負五十余人、直江勢の討死八十余人、手負三十余人、その他の兵、討死、手負の数知れずといった無残な有様となった。一方、この時、松井田勢は討死、猪俣五郎以下、十八人、手負、三十六人といった少数であった。しかしながら、猛将、猪俣五郎を失ったことは、大道寺政繁、直次親子は勿論のこと、松井田勢にとって、大きな痛手となった。政繁、直次には最早、小田原を守る直英、直繁、直昌や河越城を守る直重のことを考える余裕が無かった。

        〇

 こうして一進一退の戦闘が続いたが、何しろ北方隊は松井田城の西部に前田利家の一万八千、南部に上杉景勝の一万、北部に真田昌幸の七千、総計三万五千余騎にて三方から松井田城を攻め立てたものであるから、流石の松井田勢も徐々に押されて、郷原や名山、後閑の陣を閉じて、ついには松井田城内に引き上げざるを得なくなった。まさに籠城戦に入ったといえよう。その松井田城を北国勢が交替交代で執拗に攻め立てた。真田昌幸は四月七日の石田三成宛ての手紙にこう書いた。

〈上野国中、悉く放火し、其上、松枝城下、新堀の地にある根小屋城なる出城を撃破、其処に布陣致候。此の事、太閤殿に御伝言候はむ。云々〉

 その内容は、四月になり、細野ヶ原に布陣した真田軍の一部の者が、土塩村の中嶺を通り、雨乞山から御所平に出て、松井田城の西方に回り込み、五料村に布陣し、横川に布陣する前田利家、利長軍と合流出来たという報告であった。これに続き、上杉軍の一部も五料村に入り、北方隊は団結を深めた。北方隊の総大将、前田利家は、久しぶりに諸将と作戦会議を開いた。利家は主力、豊臣本隊が北条方の駿河山中城の城主、松田康長以下城兵を悉く殺害し、既に山中城、足柄城を陥落させ、水軍が伊豆衆、清水康英が守る下田城を落城寸前に追い込んでいる事を伝え、北方隊も一時も早く、松井田城を陥落させねばならぬと、叱咤激励した。その後、北國諸将は充分な作戦会議を行い、一挙に松井田城を攻め落とすことを決めた。その松井田城は、碓氷川と九十九川に挟まれた青竜山の尾根伝いに築城されており、南方に聳える妙義山の奇峰に較べれば、青竜山は高く無く、遠くから望むと、さながら霧の中に臥竜が休んでいるように延々と続いて見えて、一見、登りやすく思えた。前田利家は、この山城の正面である九十九川方面を、今まで通り、真田軍に攻めさせ、搦め手である碓氷川方面を上杉軍に攻撃させることにした。攻撃を命じられた両軍は城に近づき恐れを成した。特に上杉軍にとって、見上げる城郭は絶壁の上に乗り出すようにして見えた。この大岩の急斜面を如何にして攻略せよというのか。だが命令とあっては登らねばならぬ。上杉兵は命ぜられるまま、その急傾斜を這い上がった。そして岩山の中腹まで登った所で、城を囲った板塀に突き当たった。この板塀囲は、豊臣軍が攻めてくる前に、吉田広方の信奉する『楠木政成之兵法』に従い、大道寺政繁が、広方に備えさせて置いたものである。大道寺の策士、吉田広方は、今まで何も無かった青竜山の中腹に頑丈な板塀を三段、少し下向き加減に構えさせて、何千という兵が、その板塀を越えようと、その板塀にしがみついた瞬間、松の大樹で板塀を吊っていた綱を切断し、敵を落下させるという奇策を考えた板塀を備えさせていたのであった。ことは策略通りに進んだ。武器を持った敵が崖下から登って来て、密に集まる蟻のように板塀にしがみ付いたのを見計らい、大道寺政繁は号令した。

「綱を切れ!」

「おおーっ!」

 政繁の号令に従い、政繁の部下が一斉に吊り縄を切り放ったから、たまらない。板塀に取り着いていた上杉兵は、板塀と共にドドッと山の急斜面から落下し、血みどろになって、転がり落ちて行く者、板塀の下敷きになって即死する者、落下者の下敷きになって、もがく者など、沢山の死者や負傷者を出してしまった。それを助けようと前田利家は上杉軍に援軍を出し、板塀の無くなった松井田城の攻撃にかかった。ところが大道寺軍は岩山を登って来る前田軍に対し、山上から、巨石や丸太を転がり落とした。その雨の降るように落下して来る巨石や丸太に当たり、九百余人、忽ち、前田利家、上杉景勝の見ている前で、踏みつぶされた蛙の如く圧死した。第一の板塀囲だけで九百余人もの兵を失い、前田、上杉勢は、大道寺政繁の奇計の前に惨敗した。松井田城には、まだ二段目、三段目の板塀囲が残っていた。結果、流石の前田、上杉勢も五、六日、城から遠ざかり、遠攻めするより、仕方なかった。兵糧は少なくなる一方で、北方隊の中には逃亡する者も出始めた。

        〇

 精鋭、天下に鳴った前田、上杉両軍が、ほんの小さな山城を恐れて、遠攻めしているのを聞いて、秀吉の驍将、山内一豊は激憤した。己が松井田城に向かえ無いのが口惜しかった。一豊は石田三成を通じ、秀吉の使者を派遣し、前田利家に次の作戦を伝えた。

〈兵、多く見て、あと二千人失いたれば、第二、第三の板塀を破る事、易しと推察するなり。近郷の百姓らを集め、強引に攻撃せよ〉

 この一豊の意見に従い、前田、上杉軍は、妙義山麓の行田、八城、磯部といった近郷の百姓らを集めると、彼らに竹槍を持たせ、北国勢と共に松井田城を攻撃させた。その第二、第三の板塀破りで、前田、上杉軍は、兵士、百姓、合せて二千四百余人の死傷者を出した。更に大道寺兵は、山上から巨石や丸太を落下させた。このことは先日の戦闘経験から、分かっていたことなので、前田、上杉軍は、それが尽きて止むまで、岩山の麓から城を見上げていた。そして巨石、丸太の落下が無くなると、前田、上杉軍は、一斉に青竜山によじ登った。数千人の兵が、牛革を張った盾を手にして、弓矢を防ぎながら、太刀や槍を持って城郭めがけて、山上に攻め上がった。それを見下ろしていた大道寺政繁は、山口玄蕃、吉田広方に合図し、攻め登って来る敵兵に対し、今度は石垣の上から、長柄の柄杓で、沸き返る熱湯や人糞を、タラタラと流しかけた。これでは、いくら牛革の楯が丈夫でも、役に立たない。甲冑の隙間に人糞や熱湯が流れ込み、前田、上杉軍は、火傷する者、臭くて息苦しくなる者が続出して、またまた退却せざるを得なかった。前田、上杉軍は苦戦に苦戦を重ね、松井田城を陥落させることが出来ず、総大将、前田利家と上杉景勝等は焦った。二人は真田昌幸と再度、作戦会議を行った。その席に徳川の家臣、依田康国も同席させ、真田、依田軍に、もっと積極的に敵を攻撃するよう要請した。これを受けた依田康国は、命令に逆らう訳に行かず、松井田城を攻撃した。その時のことは、後日、『寛政重修諸家譜』の依田康国の項に、こう記されている。

〈四月、康国、康真、兵四千余を従へ、小諸を発し、上野国に到り、利家に先立ちて、碓氷峠の山路を登る。北条、予め大道寺駿河守政繁に松枝の城を守らしむ。九日、進みて城北の地、打越平に陣し、直ちに城を攻めむとす。利家も歩兵三十余人を従へ、松枝城を巡見し、康国の陣に来る。上杉景勝、真田昌幸も来会す。互いに軍事を議し、各攻口を定め、利家は城西に陣し、景勝は城南、昌幸は城東、康国、康真は城北に軍を張るべしと約す。十日、諸手、竹槍を持って頻りに進む。しかれども城兵、厳しく、鉄砲をもって、これを防ぐ。諸勢、敢えて進む事、あたはず。日を経る事、十日ばかり。時に康国、康真等、諸手に先立ち、自ら竹槍を持って城に迫る。こと僅かに六、七歩、砲玉、飛び来たりて、康国の袖を貫く。しかれども肌を犯さず。利家、これを見て、軍役を馳せ、かくの如く一遍に進めば、多くの士卒を損なうべしと云はしむ。云々〉

 この『寛政重修諸家譜』の内容からも分かるように、依田康国、康真の積極的参加により、大道寺軍が四方から包囲されることとなり、不利になったのは事実であった。それでも尚、大道寺軍は、河越城から持って来た多くの弾薬兵器により、頑強に抵抗し続けた。依田康国は自分の兵が殺されるのを目にすると、冷静さを失い、激怒し、執念深く城北から松井田城を攻めた。この戦闘で、依田康国軍は多くの兵士を失った。依田康国の無策による敗北を見て、前田利家は、一方的な依田康国の攻撃を中止するよう忠告した。

「独断での攻撃は軍議違反である。直ちにそちらの攻撃を止め、退却願いたい。約束通り、同じ日に松枝城を葬ろう」

 しかし依田康国は、その制止を聞かなかった。七、八度、伝えたが、康国は尚、承知しなかった。利家はやむなく太閤秀吉からの命令書を示し、康国に冷静になるよう促すと、康国はようやく退却した。兎にも角にも、大道寺軍に、このような奇手百出の防戦を行われては、天下にその名を轟かせた武将たちも、成す術が無かった。彼らは力攻めを止め、長囲いの計に切り替えざるを得なかった。利家は不甲斐ない事であるが、事実を秀吉に報告した。

        〇

 実際、小田原城を攻めている豊臣秀吉も、小田原城は勿論のこと、伊豆の北条氏規が守る韮山城が、十倍の戦力で攻めても落ちないので、長期戦を考え、箱根湯本で、温泉につかり、悠々と構えていたから、苦戦している前田利家に対し、こう指示した。

〈松枝攻めも手間取ると思いけるに、焦らず、ゆるゆると、攻撃せよ〉

 秀吉は、北条の難敵が大道寺政繁であることを、滝川一益から聞いて分かっていた。従って味方が、命知らずの北条勢を敵に回して、無謀な戦いを行い、多大の損失を受けることを、極力、避けたいと考えていた。その為、各地の味方の長期戦を容認した。そんな訳で、自らも千利休を箱根に迎え、茶室を設けるなどして、余裕を見せた。四月十四日の真田昌幸宛ての手紙には、こう記した。

〈上野国中在之松枝、根小屋悉焼払、則取巻有之由尤候。(略)景勝、利家、今相談弥不可有油断、義肝要候〉

 そこには先般の報告の返事が書かれており、秀吉が真田を頼りにしていることが綴られていた。昌幸は秀吉からの信頼に応える為、知友、大道寺政繁との一戦を避け、長期戦で、政繁を説得し、降伏させるには如何したら良いかを考えた。秀吉のいう長囲の計を成功させるには、四方を囲む北方隊の団結が必要であった。その為、昌幸は前田利家と仲が悪い徳川家康の家臣、依田康国と上杉軍の藤田信吉の連携を親密にさせるべく、細野ヶ原寄りに布陣していた依田軍の本陣を、城東、郷原に移動させ、このことにより、四方の布陣を明確にさせた。城東、郷原の依田本陣、城南、八城の上杉本陣、城西、五料の前田本陣、城北、細野の真田本陣、まさに水も漏らさぬ陣容が出来上がった。そうして北方隊は、自分たちも兵糧不足であるが、ひたすら城内の食料が尽き、大道寺政繁が降参して来るのを待った。だが、大道寺側は、このような籠城戦になることは予想していた事なので、松井田城内や城下に、まだ備蓄米が沢山あった。様子見ということで、時々、各所で戦いが行われたが、小さな攻防戦が繰り返される程度で、一向に進展は見られなかった。北方隊の諸将は何度も集まり、どうしたものかと評議した。総大将、前田利家は、兵糧も少なくなり、日増しに焦り始めた。

「松枝陥落の目途も立たず、殿下も、さぞ御立腹のことであろう」

「御立腹とて仕方なし。大道寺が強すぎるのじゃ」

 真田昌幸は落ち着いて答えた。その昌幸の言葉に、上杉景勝は頷いた。前田利家は仕方なく、この西部上野の戦況のありのままを、包み隠さず書きとめ、箱根早雲寺に本陣を置く、秀吉のもとに報告した。それに対し、秀吉は気楽な返事を寄越した。

〈松枝城、既に九手まで取詰め候由、最の儀に候。いよいよ堅固に取廻し、悉く干殺さるべく候。この兵に人数要する事、無之候間、そのもと仕置大夫に申付られ候はば、十騎ばかりにて、道を回り、見物に相越され候べく候。引払ひ当方へ参陣の儀は一切、無用に候。如何にも如何にも、ゆるゆると申付らるべく候。油断あるべからず候。

 天正十八年四月十二日    秀吉

 羽柴加賀宰相殿

 羽柴越後宰相殿          〉

 それは油断せず、じっくり松井田城の周囲を固く部下に守らせ、小田原見物にでも来ないかという、永陣指令であった。利家と景勝は、この手紙を受け取り、大道寺政繁が如何に強敵であるかを把握している秀吉の天眼通に舌をまいた。利家は、この秀吉の手紙を、そのまま鵜呑みにして良いものか、諸将を集め質問した。

「殿下の仰有る通り、大道寺攻略は時をかけ、遠攻めするより仕方なしと思いはするが、貴殿等の御高見や如何に?」

 利家の問いに武将たちの中で、答える者はいなかった。それを見て、真田昌幸の次男、幸村が進み出て己の意見を述べた。

「我が軍、大道寺と交戦するも、かって今まで完勝したこと無し。大道寺政繁、正に北条の片腕、知略の将なり。故に我等、一時、怒りて一時、攻めなば、大道寺の思う壺なり。いよいよ敵に勇気を得させ給うなり。さりながら、全軍、一挙に攻めなば、大道寺の勇、必ずや相討ちとなり、敵、味方、共倒れにならむ。その上、最近、味方の勢、余りにも討死、手負、多かる故、この度は無念を抑え、周囲に砦を築き、備えを厳重に設け置き、永陣の策を取りて、敵の勇猛心を疲れさせるべきなり」

「それは分かっていることじゃ」

「拙者の意見具申は、この後で御座る。この難敵、大道寺を松枝城に封じ込めて置けば、上野に怖い敵無し。各軍、半数の家臣らに松枝城を厳重に包囲させておいて、その間、他の安中、箕輪、国峰、和田、厩橋などの城を、一つ一つ攻め落としては如何かと存ずる。かくして周囲の城を降伏させなば、流石の松枝城も孤立無援となり、刃物に血を塗らずとも、御手に入るべし。この儀、如何?」

「成程、幸い人数に不足無き故、その余力をもって先に近傍の城に取り掛かるのも、道を開く名案なり」

 上杉景勝は、若き真田幸村の意見に感心した。父の昌幸も、我が子の積極的な提案に吃驚すると共に、もっともな事だと思った。前田利家も幸村の意見に感心し、諸将に賛否を求めた。

「これは中々の名案なり。松枝城は当分、長囲の計を取るのみとし、近傍の城を、一つ一つ攻め落とす事、諸将の考えや如何に?」

「異議なし!」

 皆、この議に一致賛同した。これにより、四月十五日、北方隊は、直ちに近傍の城の攻撃を開始した。前田、上杉軍は、安中城、和田城、厩橋城に向かい、真田、依田軍は後閑城、鷹留城、箕輪城、石倉城に向かい、直江、藤田軍は国峰城、宮崎城に向かった。その国峰城及び宮崎城の城主、小幡信貞と昌高兄弟は、先月より、小田原方面に参陣しており、両城は若き小幡吉秀と則信が守っていた。その為、藤田信吉と木戸玄斎等に攻め立てられると、ただ防戦するだけで、あっという間に降参してしまった。前田、上杉軍は松井田城に籠城する安中久繁のいない廃墟同然の安中城を簡単に奪い、板鼻城を焼打ちにして、和田城へと侵攻した。和田城主、和田信繁は豊臣軍と戦う為、小田原に参陣しており、和田城は、信繁の子、兼業が城を守っていたが、前田、上杉連合軍に包囲されると、四月十七日に落城した。両軍は更に、そのまま厩橋城に向かおうとしたが、鉢形城主、北条氏邦率いる倉賀野、花園、深谷、赤堀、今井、金山の北条勢が攻撃して来たので、一旦、和田城に留まった。一方、真田、依田軍は、先ずは最初に後閑城を攻めた。後閑城の城主、後閑信久は小田原に参陣しており、家老、萩原図書等が城を守っていたが、真田、依田軍に攻め立てられると、直ぐに降参した。その後、真田、依田軍は鷹留城を攻撃した。鷹留城では、真田軍が大戸城から追放した斎藤定盛が守備していたが、彼は真田軍の六文銭の旗印を見ると、慌てて、箕輪方面に逃亡した。真田、依田軍は、それを追って箕輪方面に向かった。すると、前田、上杉軍が、和田城を占拠したものの、北条氏邦軍に攻め立てられ、後退しているとの知らせが入り、急遽、方向転換し、和田城に向かった。和田城に真田勢が救援に来ると知ると、武蔵の北条勢は上野国から後退した。これを機に北方隊は厩橋城まで進軍した。厩橋城を守っていた、毛利高広は、もともと上杉の臣下であったことから、直ぐに開城した。しかし、箕輪城の垪和氏続や内藤昌定、石倉城の石倉治部が頑強に抵抗する為、北方隊は、近傍の城攻めを一旦、休止し、再び松井田城の本陣に戻り、松井田城を攻略することにした。

        〇

 近傍の城を落とした北方隊は、機熟したりと、鬨の声を上げて凱旋して来た。城攻めの旗指物は春の山風に翻り、鬨の声は天地に木霊し、四方から、降伏兵を引き連れた大軍が、松井田城を包囲した。物見櫓から見下ろすと、前田軍は、碓氷川の畔を通り、五料村に入り、碓氷峠方面から、再び城攻めの準備を開始した。上杉軍は、南方、妙義山の前方、八城村から酒盛に入り、搦め手からの攻撃の準備をした。依田軍は石倉城の攻撃に手間取り、戻ることが出来ず、代わりに直江軍が郷原の陣に入り、柿崎軍が北条の小田原からの援軍を、原市で塞ぐという布陣を取った。また真田軍は小笠原軍と共に北の谷を塞ぎ、土塩村方面の狭間をわざと開き、松原に伏兵を忍ばせ、敵が後詰めに来たら、これをもって抑えさせ、城中より、落人あらば、これを生け捕りにしようという策略を巡らせた。しかし、松井田城を十重、二十重に取り囲んだ北方隊も、長期戦により食糧などが無くなり、近隣の百姓から食糧を強奪する有様であった。だからといって、大道寺軍の恐ろしさを知る諸将は、我一番に城攻めしようとはせず、戦いに変化は見られなかった。流石の前田利家も考えあぐね、講和条約を諸将に提案した。

「太閤から、小田原への発向の合図がある前に、この城、攻め落とさざれば、敵の勇気、盛んにして、西毛は再び、北条に蘇る恐れあり。殊に関東の北辺は北条の重要地なれば、兵糧の運送、自由ならず、我等は窮地に陥れられるであろう。そこで我等は大道寺に営利を与え、大道寺を味方にせんと考える。大道寺を我等の味方に致しなば、城も我等が北方隊の城となり、是を根城として、兵糧の運搬も安定し、上野の残る諸城も攻め易し。更に武蔵、相模と南方に攻め立てなば、関東制覇も安からん。この策略や如何に?」

 すると直ぐに真田昌幸が答えた。

「流石、利家様。大道寺が味方となれば、北条など、一溜まりもありません。大道寺に営利を与え、我等が味方に組み入れましょう」

 大道寺政繁と戦いたくない真田昌幸が賛同すると、上杉景勝をはじめとする諸大名が、この意見に賛成した。結果、北方隊は、前田方より、長連竜、上杉方より、甘粕清長を使者として、大道寺に差し向けることにした。使者二人は、使者旗を掲げ、馬にて、高梨川に沿って松井田城の大手門に到ると、馬上より叫んだ。

「我等、両名、大道寺駿河守殿に直接、御相伝し度き儀、候へば、開門あれ」

 門兵はこれを聞くや、つぶさに三保崎九郎左衛門に、事の次第を伝言した。三保崎九郎右衛門は、大手門の狭間を開き、使者に訊ねた。

「何事で御座るか?」

「駿河守殿へ、前田利家様からの申し入れの儀あり。是非、駿河守殿に、御面会願い度し」

 九郎右衛門は、両名の趣を承ると、大道寺政繁に事を伝え、了解を得た。そして大手門を開き、馬を城内に繋ぎ、両名の武器を預かり、二人を二の丸の『使者の間』に案内した。大道寺政繁は、その両名を二の丸の大広間に招いた。両名が大広間に通されると、正面に城主、大道寺政繁、左方に大道寺直次、小板橋主膳、松本大学、吉田広方、金井佐渡、上原図書、新井隼人、佐藤監物、茂木重郎左衛門、石尾平次、石川主水、小玉利久等が座り、右方に細谷丹下、山口玄蕃、今川源次左衛門、小日向但馬、萩原伊賀、木部官兵衛、神宮大学、田村伊織、山口主馬、鈴木高安、三保崎九郎右衛門他、諸士一同が居並んで迎えた。使者二人は戻れぬかも知れぬと覚悟した。大道寺政繁は、震えている二人に向かうや、優しく声をかけた。

「前田、上杉御使者、御苦労。何事の使いか?」

 その問いに髭面の長連竜が返事した。

「それがしは前田の家臣、長連竜と申す者。こちらは上杉家臣、甘粕清長と申す者。二人して太守に直接、親書を届けるべき参ったり。それ故、かかる大勢の前で親書をお渡しすることは、出来かねまする。個室での御面談を・・・」

 すると政繁は大いに嘲笑い、委縮している二人に言った。

「この大道寺政繁、臣下と一体にて、何事も公明正大なり。よって密談など出来ぬ。それを拒むなら、とっとと帰られるが良い」

「分かりました。ならば、この親書を・・・」

 前田方の使者、長連竜は懐中より、おもむろに書状を取り出すと、傍らに控えていた三保崎九郎右衛門に、それを渡した。政繁は九郎右衛門から、細谷丹下を経て、その書状を受け取り、それを読んだ。読み終えると政繁は、それを息子、直次に読ませた。

〈今般、関白秀吉公、北条左京大夫、暴悪を憎んで、御発番に付、諸大名、従うなり。然る処に駿河守殿、暴悪なる北条の幕下に是有るより、早く太閤に従がはば、所領十八万石、安堵たるべし也。

 天正十八年四月十八日

    関白秀吉名代 加賀宰相利家

           上杉宰相景勝

  大道寺駿河守殿        〉

 直次がそれを読み終えたのを確かめてから、政繁は大声で笑った。

「このようなことで、北条を裏切ったなら、領民たちに臆病者と末代まで笑われよう。従って、軍旅を知らぬ武士に返答致すに及ばず、さりながら、もし北条方に降参致すと云うならば、足元近く押寄せる前に降参すべしと伝えよ。それとも、元より討死と定めしならば、直ぐにでも、この城に攻め寄せ給へと伝えよ。松枝城中の武士は御覧の通り、骨もあれば、また腕もある者揃いなり。大軍を頼りに致す権威の自慢は、御無用に御座る。たとえ百万騎をもって攻めて来ようと、大軍を恐れる我等にあらず。甘言に乗り、城を開き、降参するが如き腰抜け武士、関東には一人も無し。上方の気風とは大いに相違致す処なり。この事、大将等にしかと伝えよ」

 政繁は、そう言い切るや、使者二人を物凄い形相で睨みつけ、その書状を使者に叩き返した。甘粕清長は、震え上がって、書状を拾い上げた。長連竜は、書状の無礼を怒り、大広間から退去する政繁に向かって、命懸けで言った。

「その返答、舌長なり。さらば一時に攻め破るよう進上申す」

「何だと!こいつ」

 暴言を吐いた長連竜を山口主馬が、拳骨で殴った。それを見た主馬の父、山口玄蕃が、主馬を叱った。

「使者を痛めつけて何になる。その怒りは戦場にて発散せよ」

 父の言葉に主馬は項垂れた。三保崎九郎右衛門は、使者二人を庇うようにして大広間から連れ出し、大手門前で、武器と馬を返し、馬上の二人に挨拶した。

「命懸けの御役目、御苦労で御座った」

「こちらこそ、御世話になった。では戦場にて、また会おう」

 使者二人は、そう言い捨てると、大手門から、郷原方面へ向かって土煙を上げて走り去って行った。長連竜と甘粕清長は、北方隊の待つ両陣営に戻り、政繁の返答を速やかに両宰相に伝えた。両宰相は、この返答を聞き、大いに発憤した。

        〇

 使者が伝えた大道寺政繁の返答に怒った前田利家は、面目丸潰れとなり、松井田城を徹底的に攻撃することを、腹に決めた。早速、北方隊の諸将を集めると、己の意見を述べた。

「大道寺に営利を与え、味方にしようと画策したが、貴奴は我等の提案を受け入れぬ。この大軍と武器を擁しながら、これ以上、日々を無駄に過ごす事、限界なり。この松枝城に我等が手間取る間に小田原が落城せば、何の面目かあらん。この上は死を一挙に極め、一時に松枝城を乗っ取らん」

 兵糧不足、兵士の疲労等を考えると、諸将は、この利家の一決に、誰も有無を言わず、同意せざるを得なかった。かくして諸将、持ち場を定め、北国勢は、攻撃活動を再開した。前田軍は先陣、長連竜、山崎成儀の三千余騎、第二陣、里村久盛、不破政国の二千余騎、第参陣、前田利金、村井宗清の三千余騎、後陣、遠山政綱、篠原家定の四千余騎、それに前田利長の四千余騎、前田御本陣、八千余騎という編成を組んだ。上杉軍は先陣、甘粕清長、藤田信吉の四千余騎、第二陣、村上国清、夏目定吉の四千余騎、第三陣、佐藤一甫斎、鬼小島弥三郎の三千余騎、中陣、直江兼続の五千余騎、上杉御本陣、八千余騎という構えを敷いた。それに石倉城攻撃を中断して松井田に引き返して来た依田軍、三千余騎及び真田軍、四千余騎、小笠原軍、二千余騎を加え、総勢五万八千余騎にて、四月十九日、卯の刻、戦闘を開始した。北方隊は先ず鉄砲を使い、松井田城の四方八方から、雷電の如く総攻撃を加えた。しかし、城中、少しも動ぜず、大道寺父子は士卒に下知して、山上から鉄砲を雨の如く打ち返した。当然のことながら、下から撃つ鉄砲玉より、上から撃つ鉄砲玉の方が距離も飛び、威力があった。その為、流石の大軍も恐れを成し、猶予後退した。その間、物見櫓から城下を見下ろしていた大道寺政繁は、突然、物見櫓から駈け降り、黒馬に黒鞍置いて、うち跨ると、二の丸の東門をサッと開き、敵中めがけて、天神山を駆け下った。紺色縅の大鎧に同色五枚しころ繋ぎの兜をかぶり、前竪を鹿の角で飾り、白羅紗の陣羽織を風に靡かせ、長光の陣刀を腰にしっかりと括りつけ、穂先三尺二寸の大身槍を跨る黒馬の長首に引き添えて、真一文字に乗り出した。その政繁の姿は、まさに戦国武士の雄姿に他ならなかった。その政繁に、吉田広方、山口主馬、上原図書、加藤平馬、猪俣小平次等、五十騎程の騎馬兵が追従した。政繁は脇目も振らず、上杉陣に乗り込むや、忽ち敵兵、数十人を斬り殺した。敵兵は突然、襲って来た黒い風のような騎馬隊に、仲間が斬り殺されるのを見て、脅威に震え、それを防ぐこともせず、四方八方へと逃げ惑った。政繁は間髪を入れず、家来を前進させ、左右に道を広げ、敵を殺させた。この突撃に甘粕勢は取り巻くことも出来ず、大山の崩れる如く、慄き叫び、狂乱し、多くの兵を失った。大道寺政繁は、この突撃により、難無く、上杉の先陣を打ち破り、北方隊に猛威を現し、戦勝を叫んだ。この様を見て、上杉軍の藤田信吉が激怒した。

「憎き敵の振舞いかな。大道寺とて鬼神にあらず。かかれ!かかれ!」

 この藤田信吉の指示により、甘粕勢に代わって、横合いから藤田勢が突入して来ると、新手勢の出現に、大道寺政繁も、一瞬、後退した。これを機に、前田軍の先陣、長連竜、山崎成儀、里村久盛、不破政国等の兵、数千人が、大道寺政繁を揉み立てにかかった。さしもの政繁も、この敵兵を見て、不利と悟り、家来に下知した。

「退け!退け!」

 そうは命じたものの敵が多く、政繁自身も退却に難儀した。そんな政繁めがけて、前田の猛将、山崎成儀が長槍を持って突進して来た。

「大道寺駿河守、この山崎長門守が御命頂戴つかまつる!」

 それに気づいた政繁は、くるりと素早く馬を回転させ、成儀が突き出した長槍をよけると、鋭い眼光で睨めつけ、振り返って怒鳴った。

「無礼者!」

 同時に政繁は自分の長槍を、山崎成儀の腰の草摺に突き立てた。成儀は、ドッと馬から落ちかけたが、山崎の郎党が駈けつけ、それを救った。政繁たちが、引き上げにもたつく間、敵が潮の如く押寄せ、城中に攻め入ろうとするのを見て、政繁は、心はやれども、大勢の敵を防ぎかね、二の丸指して引き上げにかかった。その大道寺勢を敵が尚も追いにかかった。政繁は掘割を越えると、二重橋に馬を立て、掘割の向こうに群がる敵を、はっと睨むや、冷ややかな笑みを浮かべて豪語した。

「貴様等の何と憎き勇猛さかな。なれど貴様等如きに、この政繁が守る屈強、松枝城は落とせぬ」

 その政繁の威圧的様は『三国志』の烏江の戦、項羽の勇ましさ、さながらといったところであった。それを見て、敵、味方一同、天晴れの城主であると、ドッと感激の声を上げた。その時、突如、本丸より、大道寺新四郎直次が、田村伊織、浅田采女、早川六左衛門、吉田尚武、南条右衛門等の精鋭三百余騎を引き連れ、鬨を作って場外に押出し、敵勢に鉄砲を撃ちかけ、長連竜めがけ、脇目も振らず攻めかかり、父、政繁を救出した。そして前田、上杉勢を散々、傷めつけ本丸へと引き上げた。

        〇

 さる程に北条の智将、大道寺政繁は、城を堅固に守り、息子、新四郎直次は夜討ち,朝懸け等、千変万化し、寄手を悩まし、降参のことなど、全くする様子が無かった。北方隊は悩んだ。そんな折、前田軍の武将、前田利金は、部下の内山半左衛門が、松井田生まれなのを思い出し、数日前、その半左衛門を陣中に招き、松井田城を落城させる良い手立てはないかと訊ねていた。

「その方、この辺りの出生と聞き及んでいるが、松枝城の構造について何か知っておろう。松枝城の泣き処を存ぜぬか?」

 その問いに対し、内山半左衛門は首を横に振った。

「内山半左、確かにこの松枝の出生なりしが、幼くして父と共に能登に移り住み、かの地にて育ちし故、松枝城にことについては、全く無知の者に御座います」

「そうであったか。期待したのに、それは残念じゃ」

「されど我が甥に相州小田原の生まれにして、藤三郎と申す者あり。大道寺入城の節、町造りとして付従いて、松枝に来たりし医者なり。この者に秘かに相尋ねん」

「それは有り難や。さらば直ぐに藤三郎を訪ねよ」

「かしこまりました」

 前田利金に依頼を受けた内山半左衛門は、夕刻になるや、早速、藤三郎の家に行き、松井田城の泣き処について教えて欲しいと懇願した。しかし、藤三郎は、知らないとの一点張りであった。そこで半左衛門は甥を脅した。

「お前が教えてくれないと、前田の殿は、お前たちが苦心して築いた松枝の城下町を焼き払うというのだ。何でも良いから、教えてくれないか」

 藤三郎は悩んだ。河越に倣って、市場を開設し、商人を集め、町家を増やし、中仙道の新しい町造りをしたというのに、それを焼き払われてはかなわない。藤三郎は仕方なく、思いついたことを、叔父、半左衛門に喋った。

「城内の泣き処は分かりませんが、水の手は遠く不動の滝と申す処より引けると伺っております。この滝上からの水を切り落とさば、松枝城は見ての通りの山城故、高梨川からの汲み上げ水だけでは、城内、水が欠乏致す事、推して知るべし。この水を絶ち切り、英気を疲らかせば、攻め落とす事、易しと存じます」

 半左衛門は、それを聞いて、大喜びした。

「それは本当か。でかしたぞ、藤三郎。それこそ良策なり。明日、そこへ案内してくれ」

「そうは言われましても、藤三郎は小田原生まれ。山奥の地理には全く疎う御座います」

「しからば山の案内、存じし者一人、差し向けよ。松枝落城の暁には、必ずや恩賞致す」

「ならば枇杷久保という所に、十郎左衛門と申す者がおります。この者、近傍の地理に詳しく、細かく案内致すと存じます」

 内山半左衛門は吃驚した。甥の藤三郎から松井田城引水の秘密を教えて貰うや、直ちに自分の大将、前田利金に、この秘密を伝えた。この引水の秘密漏洩により、事態は急転回することになった。前田利金は山上の松井田城のの命脈を知り、驚喜した。

「何、それは真実なるか」

「真実に御座いまする。甥、藤三郎の話によれば、九十九川の上流、不動の滝より、松枝城内への水路あり。その水路を断ち切りなば、城中、水に欠乏し、大道寺も落ちんとの良策を受けまして御座る」

「うむ。確かに良策じゃ。して半左衛門。その水路、何処から取り入れたるか知り給うか?」

 前田利金が質すと、部下の内山半左衛門は、主人の顔を仰ぎ見て、ニヤリと笑い、こう答えた。

「甥の藤三郎の調べによれば、枇杷之久保の十郎左衛門と申す者、その水道工事に従事せし作業者なり」

「半左衛門。よくぞ調べた。天晴れなり」

「これは甥の藤三郎の手柄です。藤三郎の事、よしなに御取り計らい願います」

「よう分かった。ならばその方、その藤三郎と十郎左衛門に案内させ、足軽、百人ばかりを引き連れ、その水路を破壊して参れ。松枝城落城の暁には、その方を侍大将に取り立てよう」

「ははーっ。有難き仕合せ」

 主人、前田利金から侍大将に任じる約束を得ると、半左衛門は得意顔して藤三郎を連れ、枇杷之久保の十郎左衛門の家に行った。藤三郎が用件を申し込むと、十郎左衛門は、日頃、藤三郎に世話になっていた為、大それた事であるけれど、文句無しに案内役を引き受けた。内山半左衛門は十八日の早朝、藤三郎、十郎左衛門を先頭に、足軽百人を引き連れ、横川から小根山嶺の岩道を越えて、土塩村不動の滝に向かった。目指す引水口は不動の滝の上流、一町程の所にあった。半左衛門は、その滝上の引水口を塞ぐよう、十郎左衛門に命じた。十郎左衛門は、足軽たちと共に、引水口に土俵を並べ、水を遮断し、更にその復旧が容易に出来ぬよう、その水路の途中途中の数か所を、山を崩して埋めた。こうして、松井田城の城内への水路は断たれた。

        〇

 不動の滝からの飲料水を絶たれた松井田城は、籠城兵が増えていることもあり、高梨川の汲み上げ水だけでは、水が足りなくなり、城内、水の欠乏に苦しむこととなった。山上の大道寺軍にとって、水はなくてはならぬ命脈であった。その水路を前田軍に切り取られ、流石の城内も、ざわめき立った。それを知った大道寺直次は、直ちに事態を父、政繁に知らせた。

「父上。裏切り者の為、不動の滝よりの水路が断たれました。そして今、揚水にに備えし水車小屋も焼かれておりまする」

「何、水路を断たれたと」

「はい。これでは如何に兵糧があろうとも、長持ち致しません。この上は我等全員、城下に駆け下り、敵を木端微塵にするしか方法がありません」

 直次は血気に逸り、敵陣突入を父に進言した。政繁は、この一大事を知り、如何にすべきか考えた。直次の言う通りに敵陣に斬り込もうとも、大軍を相手に勝てる筈がない。政繁は感情を内に抑え、激することなく、直次に言い返した。

「慌てるな、直次。武士たる者、何時、如何なる時でも、冷静でなければならぬ」

「なれど父上、この山城に水が無くなりなば、家来一同、自滅するなり」

 この直次の言葉に政繁の顔が痙攣した。直次は、その父の顔に、敗北者の憂いの色を見た。そこへ小柴半兵衛が駆けつけて来た。彼は今にも息が絶えんばかりであった。彼は一通の書状を持っていた。それは前田利家からの書状であった。

〈当今、戦乱の世に在って、駿河守の智、勇、徳、策を聞及候。されど、時、君に利あらず候。いたずらに抵抗するは、忠義の者を疲労困憊させるのみに御座候。水の欠乏したる城内の苦しみを察し、降参を促し申候。謹みて君が聖断を偏に願上候。 利家

 大道寺駿河守殿       〉

 その書状を見て、大道寺政繁はじめ、誰もが涙した。城門を開いて、敵の下に跪くしか、助かる道はないのか。大道寺の家来たちは、うろたえた。誰の顔にも生気が無い。ただ一人、吉田広方のみが、歯軋りして、城下の敵軍を見やった。広方は、城主、政繁から利家の書状を奪うと、本丸の石垣の上に、仁王立ちになり、城下の敵兵に向かって叫んだ。

「我こそは大道寺駿河守政繁なり。前田筑前殿の書状、確かに受け取ったり。なれど大道寺は、まだまだ降参するに及ばず。松枝城には不動の滝以外に、沢山の引水路あり。疑うなら眼をかっ開いて見るが良い。松枝城内には、このように、馬の背に浴びせる程の水があるなり」

 そう叫ぶや吉田広方は、白米を桶に入れて、黒馬の背に、ザザッと懸け流した。周囲にいた者も、それを真似た。黒馬の背に流した白米は、城下から見上げていた前田勢の目に、溢れ流れる水に見えた。それを家来たちと一緒に目にした前田利家は、降参を一笑に付し、大言壮語して、これを拒否した大道寺政繁を目の当たりにして、恐怖に慄いた。

        〇

 なれど北方隊総大将、前田利家にとって、猶予は許されなかった。四月十七日付けで、前田利家と上杉景勝宛てに、秀吉から催促の書状が届いた。

 〈上州松枝城、是非とも攻取るべき由・・〉

 秀吉にとって、関東の入り口である碓氷峠下にある松井田城占拠は、実に重要な意味を持っていた。このことは東海道の入口である箱根、足柄同様、重要であることは北条氏政親子も、十分に分かっている事であった。それ故、北条氏政は北条氏邦、大道寺直英、垪和氏続、内藤昌定等の援軍を松井田へ向かわせた。ところが総勢五万八千余騎の大軍に厳しく道を遮られ、北条勢は武蔵から先へ全く進軍することが出来ず、止むを得ず、それぞれの持ち場を守るしか方法が無かった。利家は、深夜、松井田城内から、水汲みに行くと言って逃亡して来た兵を捕まえ、渇水に苦しむ城内の窮状を知ると、全軍に号令を下した。

「時分良し。四方から総攻撃にかかれ!」

 この号令に北国勢の諸将は、勇みに勇んだ。その総攻撃に大道寺政繁は驚かなかった。既に予想し、覚悟していたことであった。政繁は受手、受手に兵士を的確に配置させ、自ら四方に走り回り、状況を見ては下知し、山上より弓矢、鉄砲を撃ち出させた。また岩石、丸太、糞尿等を投げ落とした。だが流石の大道寺軍も、引水路を断たれ、最早、致命的であった。前田利家に褒美を賜った内山半左衛門は、戦況が有利になるのを目の当たりにして、いよいよ得意になり、夕方、例の十郎左衛門に案内させ、松井田城の角櫓の大潜りから、城内に忍び込み、夜中になって戦闘が沈静化するのを待った。そして辺りに風が吹き出した頃を見計らって、兵糧倉に火を点けた。西風が激しく吹いて火を煽り、兵糧倉が燃え上がり始めたのを見て、前田利金、藤田信吉、依田康国、真田幸村が、四方から下知を下した。

「火の手が上がったぞ。全軍、一挙に攻撃せよ!」

「おおーっ!」

 松井田城を包囲する前田、上杉、依田、真田等、総勢五万八千余の兵から、ドッと鬨の声が上がった。仮眠していた政繁は、その喚声を耳に跳び起きた。

「何事か?」

 政繁がそう発して天守閣から外を見ると、前方に兵糧倉から火が上がり、その燃え上がる火炎が、天を真っ赤に染めていた。その灯りの下を敵の大軍が、城壁目掛けて駈け登って来るのが目に入った。だが政繁は慌てなかった。少しも動ぜず、四方の守備兵に適切に指示し、弓矢、鉄砲を撃ち続けさせ、城を守った。しかし、夜も暁に変わり、火の手が更に炎々と空に黒煙をと共に立ち昇り、その火が二の丸にまで燃え広がると、前田、上杉と信州勢は大挙して城に進撃した。前田軍の鉄砲大将、長田五左衛門は横山長知と共に、木部官兵衛、矢野七郎左衛門等が、城内より撃ちだ出す鉄砲玉を恐れず、大きな竹束を持ち、それに隠れて、矢玉の中を突進し、松井田城の城壁に接近した。この勇気ある進撃を見て、長連竜が号令した。

「長田を撃たしてならぬべし。横山、死なしてならぬべし。続け!続け!」

 広瀬藤右衛門、河合五右衛門、堀江造酒丞の三人が、その声に挺身し、城壁に梯子を掛け、城壁を踊り越え、二の丸御門の番兵を斬り捨て、城内に入り、門を開いた。これにより、寄手の兵は雪崩となって城中に乱入した。それを待っていたかのように、大道寺直次、山口主馬、鈴木高安、吉田尚武、早川六左、玉置伊兵衛等が長槍を持って待っていた。この若き大道寺の勇者たちは、雪崩れ込む敵兵を、当たるを幸い、長槍で、片っ端から突いて、突いて、突きまくった。その奮迅の様は、さながら何人もの阿修羅王が荒れ狂う如く激しく、向かう敵、生きて帰さずといった勢いだった。中でも荒武者、山口主馬は、大道寺直次の傍を離れず、恐ろしい程の働きぶりを見せた。直次もまた、これに力を得て、猛々しく奮戦した。早川六左は長田の強卒、関右衛門と槍を合わせ、しばらく戦い、見事な突き槍を演じた。この突き槍を受け損じ、関右衛門が腹を突かれて、ドッと伏した。兄が腹をかかえて苦しみもがくのを見て、その弟、関又八郎が形相を変え、早川六左に襲い掛かった。

「兄の仇!」

 その六左に襲い掛かる又八郎を、新四郎直次が長槍で吊り上げ回転させると、力いっぱい遠くへ放り投げた。又八郎は絶叫し、堀の中へ真っ逆さまに落下した。このように激しく防戦されては堪らない。長田の先兵、大いに乱れ、あっという間に、三十余人、討死した。これを知った前田の豪傑、長連竜は大いに怒り、自ら長槍を振り回し、群がる大道寺兵に突入した。暴れまくる長連竜の槍さばきに玉置伊兵衛をはじめ、大道寺兵、十四人が突き倒され、負傷した。これにより城内は大いに乱れ、弱腰の者は、敵を恐れて逃げ惑った。その時、本丸からやって来た吉田広方率いる鉄砲隊、須藤内蔵、木部官兵衛以下、二十人の鉄砲が、火を噴いたから堪らない。二の丸に攻め込んだ敵兵たちは、バッタ、バッタと即死した。これを機に、危なかった直次たちは本丸へ引き上げた。しかしながら、昼夜、手負、討死、その数を知らず、最早、ここに至って、流石の松井田城も落城の様子が見えて来た。

        〇

 繰り返す戦闘の中で、山上にある松井田城の困憊の様子は、敵、味方共に明確に分かるようになった。大道寺兵の中には、深夜、山を降りて、北国勢に投降する者も現われた。政繁は沈痛な面持ちで、如何に対処すべきか考えた。降伏すべきか否か、山口玄蕃、小板橋主膳等と迷っている政繁に、重臣、吉田広方が己の意見を述べた。

「上様。この吉田大炊助、武士たる者、最後の最後、命尽きるまで戦うのが、武士の本分かと存じまする。さりながら、水攻め、火攻めを受け、このまま籠城致すことは、敗北を招くこと必定。火を見るより明らかな事です。このままでは犬死と同じ事です。延徳より百年、子孫、相受け入れて五代、栄耀を誇り続けて来た北条の息は、是が非でも、我等の力をして守り抜かねばならぬ者です。故に上様には一時、松枝城より御退却願い、河越の城を、御守りいただくことが、最良かと存じます。それがしは、河越与力ですが、この松枝城に最後の最後まで留まり、前田、上杉、真田等、北国勢を抑えつけ、味方が馳せ参ずる日を、お待ち申し上げます。それがしの命が、一日でも長ければ長い程、敵の兵糧も途絶え、その兵、疲労困憊し、その勢い、日々、脱落し、必ずや我等に勝機が訪れるものと信じております。どうか上様、それがし等のことは忘れ、一時も早く、この城より御退却なされますよう、お願い申し上げます」

 この大炊助広方の言葉に、政繁は涙した。しかし、山口玄蕃、小板橋主膳、吉田広方等に、この城を委任して退却することは、誇り高き政繁にとって、余りにも耐え難いことであった。政繁は降伏を拒否し、この城と共に果てるべきだと覚悟した。

「大炊助。それは成らぬことじゃ。そなた等、負傷者を残し、城を捨てたとあっては、この駿河守、百代の後も、人のそしりを受けよう。また己の矜持が、それを許さぬ。これを天命と諦め、政繁、敵陣に乗り込みて、斬死せんと思う」

「お待ち下され」

 そう言って進み出たのは、政繁の四男、新四郎直次であった。直次は、今や初陣を勝利で飾った雄々しき武将であった。彼は美麗な面輪に似合わぬ強い口調で、父、政繁に申し出た。

「父上。この新四郎もまた大炊助と同じく、この城に留まり、北国勢をこの地に停滞させようと存じます。合戦は勝つこと肝心なり。勝つ為に、人のそしりを受けることを気にするなど、愚の骨頂なり。後事は我等に任せ、心配せず、兄、直英殿や直重殿のいる河越に御戻り下さい。我は父上に代わり、山口玄蕃や大炊助等と共に身命を賭して、この松枝城を御守り致す。それ故、父上は一時も早く河越に戻り、小田原との連携を強化し、我等に勝利のあらん事をお祈り下さい」

 若き武将、直次の声は最早、泣き声に近かった。たとえ我が身は八つ裂きにされようとも、大道寺衆の活路だけは、父や兄によって見出して欲しかった。その直次と広方の言葉に動かされて、政繁もついに決意した。

「北条家の高恩に報いようと、我々、父子、そなたらと共に力の及ぶ限り戦いたれど、圧倒的敵の兵力の前に、多くの死傷者を壁下に積み、水を絶たれ、兵糧倉を焼かれてしまった。これを反撃せんと、心や猛けに逸れども、今や我が兵、勢い尽き、これ以上、無駄な戦闘を繰り返す事、得策にあらず。よって政繁、遺憾ながら、そんたらの申すに従い、一時、この城から退去するが、降参は、わしの本心にあらず。主君の為、部下の為、身を捨てる事こそ、勇士の道と思いなば、即刻、河越に戻り、味方の兵を集め、大軍を引き連れ、必ずや、この松枝に戻って参る。それまで新四郎と共に城を守ってくれ」

 かくして政繁は、松本大学、細谷丹下等、六十七騎の兵を引き連れ、夜陰に紛れて、松井田城を抜け出し、河越に向かった。

        〇

 天正十八年(1590年)四月二十日、今まで長囲の計を取っていた前田、上杉、真田、依田の四軍は、突如、四方から総攻撃を開始した。これを物見櫓の上から、駿河守の衣装を纏い、白羅紗の陣羽織を風に靡かせ、見下ろしていた吉田広方は、呵々と大笑し、政繁に代わって叫んだ。

「大道寺駿河、ここにあり。来れる者あらば名を名乗れ!」

 敵兵は駿河守と聞いて、その首を頂戴しようと、我先に城壁に迫って来た。だが、その鬼のような形相を仰ぎ見ると、敵兵は恐れ慄き、近づけなかった。それでも北国勢五万八千の大軍は、山津波のように山上に向かって襲い掛かって来た。大道寺勢は、何時ものように、敵兵めがけて、大石、丸太、糞尿などを落下させた。更に鉄砲、弓矢で、勇敢に登って来る敵兵を撃ち殺した。四方の谷間から撃ち落され、負傷し、落下物に潰された敵兵の阿鼻叫喚が轟いた。戦闘は熾烈を極めた。玉砕を覚悟した大道寺勢の狂暴さは手に負えず、北国勢は、夕陽と共に撤退した。ところが夜中になるや、依田康国率いる依田軍が、木曽義仲の故事にならって、百頭の牛の角に松明を結び付け、松井田城の大手門めがけて、猛牛を突入させた。現在、牛が坂と呼ばれている坂の出来事である。押し寄せて来る松明の火を見て、大道寺兵が、火牛めがけて、鉄砲を撃ったが、間に合わなかった。猛牛は大手門を突き破り、山城に駆け登った。大道寺勢は山城の上から火牛に向かって巨岩を落下したが、火に狂った猛牛には、最早、巨岩など、関係無かった。百頭に近い猛牛が、一挙に城内の一角にまで駆け登って来た。その猛牛の群れは城門を破り、明るい城内に突進した。そして、その火を受けて、まだ残っていた兵糧倉や武器庫が燃え上がった。依田軍を先鋒とする前田軍は、この火災を機に、松井田側の城山と民家に火を放った。大道寺政繁が夢に描いて設けた松井田の城下町が、夜空に黒煙を上げて燃え上がった。これに仰天し、直次等が城下を見下ろした時には、既に夜空を焦がす程の夥しい数の松明が、右往左往、城に向かって上がって来ていた。凄まじい鬨の声が押し寄せて来た。山口玄蕃、小板橋主膳、吉田広方、上原図書等が四方に回り、防戦を始めたが、敵は後退しなかった。

「最早、これまで」

 大道寺直次は、三歳になる兄、直昌の子、長松丸を殺すに忍びず、子守役、早川六左を呼んだ。

「六左、六左!」

「如何、成されましたか?」

「長松丸は何処じゃ。長松丸をここに呼べ。長松丸をここへ」

 六左は直次の何時もに無い焦燥と動揺を目にした。六左が長松丸を探しに走り出そうとした、その時であった。

「若子は、ここに居られまする」

 そう言って長松丸を直次に示したのは、兄、直昌の妻、千姫であった。彼女は混乱渦巻く城中にあって、大道寺政繁の妻、喜志に代わり、城中の婦女子を監督し、今まで敵と戦って来た男勝りの女将であった。その千姫も戦況を察し、憂いの目で義弟、直次の顔を見た。直次は何も分からず微笑する長松丸を抱き上げると、涙をボロボロと流して言った。

「許せ、長松丸。三歳の幼きそなたを手放す叔父の苦しみを哀れとぞ思え。そなたも武士の子、これを自分の運命と泣け」

 直次は無心に笑う長松丸に頬擦りして泣いた。千姫も長松丸に縋り付いて泣いた。

「若殿!」

 甥子、長松丸と別れを惜しむ直次を見て、六左も泣いた。

「泣くな、六左。汝に申しつける儀あり」

「ははっ。何事で御座いましょうか」

「当家の運、今日限りと思うなり。よって新四郎、これより城将等と共に暴れ回った後、切腹致す。汝、何卒、兄が子、長松丸を盛り育て、大道寺家を再興してくれ。六左、汝に長松丸を頼みおったぞ」

 直次は六左に長光の短刀、大道寺家累代の系図、それに金三百両を添えて渡した。すると早川六左は顔面蒼白になり、その依頼を拒否した。

「若殿以下、城将一同、御切腹と聞きて、この六左、どうして落ち行くことが出来ましょうや。六左も追腹仕るべし。この儀、お許し願います」

 すると直次は、六左を激しく𠮟りつけた。

「愚か者。殉死、追腹を計るばかりが忠義では無い。後々、再び家名を立てる事こそ肝要なり。是非にも何処ぞに落ちのび、必ずや、大道寺の再興を計ってくれ。これらの品々を持って、直ちに落ち行くべし」

「若殿!」

「早くせよ。姉君、千姫も頼みおったぞ」

「ははっ。早川六左、身命を賭けて、無事、脱出、お見せ申す。脱出成功の折は、天神の社にて狼煙を上げまする。また長松丸様をして、必ずや大道寺家の再興を計ります」

 早川六左は、そう言い終わるや、長松丸を背負い、暗闇に紛れ、千姫と共に遁走した。やがて本丸にも火が放たれた。その火の中で家老、山口玄蕃は息子、山口主馬を呼んだ。

「千姫、長松丸様を抱きて、城中より脱出す。されど真田昌幸が新井村、小日向村に布陣し、小笠原貞慶、依田康国が土塩村に布陣致す限りに於いて、まさに袋の鼠なり。故に汝が行って助けよ。千姫は我が娘、また汝が妹、足手まといになりし時は、殺しても構わぬ。今生にて、汝の顔を見ん事、これを限りと思うなり。早川六左と共に、何としても長松丸様をお救い申し、大道寺家の再興を計れ。また同じく我が山口家の弥栄を託さん」

 山口玄蕃と同様、吉田広方も息子、尚武を呼んで、同じことを言った。

「玄蕃殿の話によれば、長松丸様、千姫様、主馬様、城中より逃れしとのこと。三郎も行って、主馬様と共に長松丸様を御守り致せ。また大道寺家再興の暁には、その家臣として堂々と仕えよ。汝の幸運を祈る。父は新四郎様と最後の最後まで戦う」

「父上。父上は何故、お逃げ申さぬ?」

 尚武が、父、広方に問うと、広方は、はかなく笑って答えた。

「年老いて、美しく生き、美しく死なんと欲す時、生に執着致しなば、それは必ずや、美を見苦しくするなり。故をもって父は逃げぬなり。老将、命を惜しんで逃げるは恥。わしはこれぞ天運と思い、堂々、美をもって死なんと欲す。見よ、この城の山桜を。この散り行ける桜の無常迅速なるを。桜の花の咲き際、散り際、実に潔し。華麗にして、いささかの未練も無し。わしは三郎に自分の総てを託し、この松枝の城で死なんと欲す。人間一生、真実、わずかの事なり」

「父上!」

 吉田尚武は、声を放って泣いた。広方は泣きじゃくる尚武に、早く行くよう手で合図した。

        〇

 炎上する松井田城を振り返りながら、山口主馬と吉田尚武は、遁走する千姫たちの後を追った。若い二人の足は、たちまちにして闇夜を行く千姫たちに追いついたが、二人は千姫たちとの合流を避けた。人が増えれば会話も増え、敵に気づかれる危険が増すからであった。千姫は誰かに追われているのに気づき、一瞬、立ち止まり、また急いで歩き始めた。

「千姫様。如何、なされましたか?」

「先程より、千たちを追って来ている者がおります」

「何と」

 六左は吃驚して振り返った。しかし、夜の暗い深い森の中、逃げ出して来た城の上空が、赤く染まっているだけで、何も見えはしない。六左と千姫は感で、山中の道を、千姫の生家のある土塩村へと向かった。天神山から峰伝いに、三ッ室山へ移動し、乾窓寺に至ろうとする所で、再び六左が後を振り返った。千姫が、それを制した。

「六左。後を向いては成りませぬ。敵より上手く逃げる方法を考えましょう」

「何か良き方法、御座いまするか?」

「先ずは乾窓寺に行き、そこで考えましょう」

 六左と千姫は、空が白み始めた頃、乾窓寺に辿り着いた。その前方、九十九川の対岸には真田軍の六文銭旗が、沢山、風に翻っていた。それを見て千姫が、六左に言った。

「六左。これから千が言う事を良く聞いておくれ。千は女。到底、逃げ延びる自信がありません。千に長松丸の着物を一組、渡しておくれ。千は、その長松丸の着物を抱いて土塩道を通り、山口の実家に逃げ込みます。でもそこは既に敵に占拠されているでしょう。千はそこへ行って長松丸の着物を抱いて、母と死ぬつもりです」

「千姫様!」

「六左は百姓に変装し、長松丸を抱いて、秋間に逃げておくれ。丁度、そこに藁小屋がある。その藁を使って長松丸を隠し、村の百姓だと言って、九十九川を渡り、増田村から後閑村へと逃げよ。幸い無事でありしなば、秋間村、小林重兵衛の屋敷で巡り合いましょう。千のことは考えず、ひたすら長松丸のことを思い、一目散に逃げておくれ」

 そう言うと千姫は、直ぐに長松丸の身体を沢山の藁で包み隠し、六左の背に括り付け、長松丸と最後の別れをした。と、その時であった。突然、乾窓寺下から松明を持った百人程の真田兵が山門の石段を駆け上がって来た。千姫と六左は慌てて寺の陰に逃げ込んだが、既に遅し。万事休す。真田兵が寺に入り、本堂に向かって叫んだ。

「乾窓寺道逸。大道寺の兵を匿っていると耳にしたが、直ちに敗残兵を差し出せ!」

 すると乾窓寺の正面、本堂の扉が開き、体格の良い、寺僧の道逸が、ゆっくりと現れ、烈火の如く怒った。

「こんな時分に何を言うか。いやしくもこの寺は、道元禅師法系の寺にて、国内の安定と民心の平穏、死者の安息を祈る重要な場所であるぞ。そこに刃物を持って雪崩れ込むとは、武士とは思えぬ。強盗、盗人かと疑うなり。よって汝等、退散せねば、僧兵をもって対戦致す」

 しかし真田兵は引き下がらなかった。横谷重氏が、道逸に怒鳴り返した。

「何を言うか、糞坊主!構わぬ。寺中を捜せ!」

 真田兵は、土足のまま本堂に突入した。その兵を僧兵、数人が防ごうとしたが、どうにもならなかった。すると乾窓寺に匿われていた大道寺の負傷兵、秋山茂兵衛、中島幸次右衛門、一色金大夫等が現れ、それに加わって、奮戦した。更に、千姫を追って来た山口主馬と吉田尚武がそこに乱入した。予想外の反撃に驚いた真田兵は寺に火を放ち、暴れ回った。その隙を見て、早川六左と千姫は、本堂の脇から、裏山に逃走した。千姫は長松丸の着物を持って、栗谷方面に向かって走り、六左は藁で隠した長松丸を背負い、反対方向の小僧貝戸の方面へ走った。六左は千姫のことが心配になり、時々、乾窓寺の方を見ながら走った。乾窓寺は小高い山腹に炎々と燃え上がり、戦闘する兵士たちの叫び声などが、絶え間なく聞こえた。六左は長松丸をしっかと背に押さえると、明け方の薄暗い中を涙を流しながら、一目散に小僧貝戸に到り、そこから坊地を経て蟹沢の谷間を増田方面に走った。その増田村へ向かって走る六左を真田兵が発見し、百姓らしからぬ動きであると怪しんだ。真田兵は早川六左が大道寺軍の落人と知るや、四方八方から六左を取り囲んだ。真田兵は六左を捕まえ、手柄を立てようと、数十人、太刀や槍を構え、六左を威嚇した。朝っぱらから百姓姿の男を捕まえようと、家来たちが騒いでいるのを聞きつけ、真田幸村がやって来ると、家来の一人、海野小平太が六左に跳び付き六左を取り押さえた。

「若殿。この者、大道寺の落武者です。如何成されしや?」

「斬り捨てましょうか?」

 六左は何もかも終わりであると覚悟した。すると幸村が太刀を振り上げ六左を斬り殺そうとする小平太を制した。

「今、その男の抱かえている藁の中より、稚児の泣く声が聞こえた。藁を解き、中を確かめよ」

 海野小平太は、抵抗する六左から藁包みを取り上げ、その中身を確認した。何と幸村の言う通り、可愛い稚児が、藁の包みの中で、ケタケタ笑っているではないか。

「な、何と。若殿の申される通り、稚児に御座います」

「そうであろう。男が大事に隠し抱かえて来たこの稚児は、憎き敵の若大将、大道寺新四郎の子に相違なし。貴奴と我とは、この戦乱の世に在って、互いに憎み合し敵なれど、冥土にて懐古の友となるならば、貴奴の如き勇士の子孫は残したきもの故、この武者諸共、見逃してやれ」

「は、はーっ」

 海野小平太は、幸村の命令に従い、藁に包まれた長松丸を早川六左の腕の中に戻した。六左は長松丸を抱きしめ、幸村に深く頭を下げると、真田兵の前から、脱兎のごとく走り去った。早川六左は、増田村に近い天神の社にて、乾窓寺から逃走して来た吉田尚武と合流した。尚武の話では千姫は無事、脱出したが、千姫の兄、山口主馬は、乾窓寺の火炎の中で、討死したとの報告であった。かくして六左は、直次と約束した通り、天神の社にて、無事、脱出の狼煙を上げ、吉田尚武と共に長松丸をお守りして、秋間村へと落ち延びて行った。大道寺直次は、天神の森に狼煙が上がったのを見て、早川六左たちが、無事、逃亡したことを知って安堵した。後は命の限り死力を尽くして戦うのみであった。

        〇

 松井田城の壮絶な決死戦は、翌四月二十一日まで続いた。五万八千余騎の大軍に襲われた松井田城内の混乱ぶりは一方では無かった。討死した者や、焼け死んだ者や、負傷して倒れている者の上で、猛り狂った荒武者たちが、真紅の血飛沫を上げて戦った。結果、数に劣る大道寺勢は、奮戦空しく、ついに力尽きるに到った。大道寺直次は四面楚歌の中、涙ながら、長連竜方へ、使者、小玉利久を派遣した。

〈只今、駿河守父子、切腹仕り候間、御検使下さるべし〉

 これを聞いた長連竜は、前田の検視役として、堀権之丞を、甘粕景継は、上杉の検視役として、斉田団右衛門を派遣した。大道寺政繁を装った吉田広方は、山口玄蕃、小板橋主膳等と共に、大広間に居並び、検視役を迎え、恭しく低頭すると、言上した。

「我等、五万八千の兵に攻め立てられ、今や防戦の意思無し。これも定まれる天命と存ずる。然るに駿河守父子、並びにその妻子、重臣、この場にて自刃致し、以って武士の鑑と致さん。とは言え、我が臣下には誠心賢明、忠義胆大、才気煥発の者、多し。駿河守、この者等を道連れにするのは、耐え難し。故に、これら残兵の助命を給わり、願わくば、良く用い、重く扱うことを切望する。我を信じて、我が臣下、重責に当たらすとも、決して憂うること無し。駿河守、伏して臣下の助命を御願い申し上げる」

 その後、準備させておいた大盃にて、妻子や家臣と別れの酒を酌み交わして、妻や一同を見て、臨終の言葉を伝えた。

「見苦しき事、無きように」

 そして、敵の検視役の面前において、己が妻子を刺し殺し、諸肌を脱いで、自らの腹を、十文字にかっ切った。介錯、森半九郎も、その介錯を済ますと、自らの腹を一文字にかっ切った。大道寺直次の介錯は長谷川九郎次郎が相勤め、これまた追腹した。駿河守の妻、お喜志の方も、これを見て、懐剣を抜き放ち、自害して果てた。山口玄蕃、小板橋主膳、神宮大学、田村伊織等も、また、それを追った。時に直次、十八歳、吉田広方、六十三歳。その時、果てた三名の辞世の歌を並べる。

 散りて行く死出の山路に 花あらば

 折りて手向けむ 君と父とに

      大道寺新四郎直次

 恨むべき方こそ無けれ 花ゆへに

 散るこそ花の 定めなるかな

      山口治部玄蕃

 過ぎし日も来る日も戦に 明け暮れて

 覚むれば虚し 夢のたはぶれ

      吉田大炊助広方

 検視役二人、堀権之丞、斉田団左衛門等は、大道寺政繁等の切腹を見届けると、燃え残る城に火を点け、吉田広方、大道寺直次、山口玄蕃、小板橋主膳等、重臣の首を持って、城外に退却し、代わって長連竜と甘粕景継が兵を引き連れ、城内に入り、松井田城を開城させた。前田、上杉両宰相は、検視役等が持ち帰った大道寺父子等の首級を見て、大いに喜び、直ちに松井田落城の事を、箱根本陣にいる関白秀吉に報告した。その書状を受け取った秀吉は、恐るべき北条の智将、大道寺政繁が守る碓氷の入口、松井田城を北方隊が落城させたと知り、見世物猿のように、家来の前で、小躍りして喜んだ。大道寺を破れば、後は恐れる者無し。秀吉は心躍らせ、徳川家康と共に笠懸山に登り、小田原城下を見下ろし、一句、詠んだ。

 啼きたつよ 北条山の郭公

 それから小田原城に向かって小便をした。品行の良い家康も、恥ずかしながら、それに従い並んで小便をした。

        〇

 同二十一日、長松丸の着物を抱いて土塩村に逃げ込んだ千姫は、実家に戻ろうとして、当時、土塩村萩貝戸に本陣を置いていた小笠原軍の兵士に発見されてしまった。川伝いに移動したのが、失敗だった。

「怪しき女、川伝いに移動中との知らせあり。発見者の話によれば、女は稚児を抱きたる様子。百姓女とは思えず、如何しましょうや」

 それを聞いた小笠原貞慶は家来に、こう伝えた。

「それは大道寺家中の女に相違なし。直ちに数名にて追跡せよ。捕え、検分の上、処罰致さん。戦乱の世に、女、子供とて、情け無用じゃ」

 小笠原貞慶の命令により、数人の兵士が川を渡り、千姫を追った。千姫の足、気づかれてから、そう遠くへは逃げきれなかった。それでも、千姫は山間の細道を長松丸の着物を抱きながら、息、急き切って、無我夢中で走った。そして、やっと不動の滝に辿りり着いた。良く見ると、千姫の白く美しい足も、逃げる途中の草木の棘や茨に傷つけられ、血だらけになっていた。小笠原兵が、その千姫を追って滝下まで行くと、不動の滝上から、千姫が追跡兵を見降ろして待っていた。小笠原兵が見上げると、憎しみに燃えた千姫の長い黒髪が、風に激しくうねり、普段、優しかったと思われる双眸は、さながら狂った化け猫の瞳孔のように恐ろしく吊り上がり、追跡兵たちを睨みつけ、今にも牙をむいて、襲いかかって来そうであった。最早、これまでと思ったのであろうか、千姫は、その滝上に立ち止まったまま、滝下にいる小笠原兵に向かって大声で叫んだ。

「これ以上、追わぬでも良し。最早、千姫、逃れようとは思わぬ。松枝城若殿、大道寺蔵次郎直昌の御子、長松丸様を抱きて、千姫、潔く、ここにて死なん。心あらば、この千姫の最後を、我が夫、直昌及び我が父、山口玄蕃に、立派であったと伝えてたもれ」

 千姫は、そう言い終わるや我が子、長松丸の着物をしっかと抱いて、高さ五丈、幅七尺の滝上から、真下にある滝壺深く身を投げた。その様は、まるで滝上の雲間から現れた白蛇が、水中にある宝玉めがけて没入するかの如く、一瞬の事であった。小笠原兵は、その千姫と長松丸の死にざまを、小笠原貞慶と前田利家に伝えた。爾来、この不動の滝は、村人たちから千ヶ滝(千が仇)と呼ばれるようになった。

第三部 北条氏と共に散る

 一方、大道寺政繁は、松本大学、細谷丹下他、六十七騎の兵を引き連れ河越に向かった。ところが途中、上杉景勝の兵に発見され、逃げながら尚、戦った。行く手の和田城をはじめとする上野国の城々は、ほとんど北国勢に占拠され、頼りにすることが出来なかった。金井秀景の本拠地、倉賀野までは、上手く進行することが出来たのであるが、四月二十一日、皮肉にも、かって滝川一益と屍山血河の激戦を演じた神流川の畔で敵に見つかり、一戦に及んだだが、如何に天下に鳴らした剛勇も、わずかな味方では用を成さなかった。太刀は折れ、駒は疲れ、身は傷つき、大道寺勢はついに上杉兵に敗れ、大道寺政繁は、上杉軍の捕虜となってしまった。政繁は、ここにおいて、短刀にて切腹しようとしたが、敵将、甘粕清長が、それをさせなかった。

「本物の駿河守を捕らえたり。駿河守を死なせてなるものか」

 清長のこの言葉に、上杉兵は吃驚した。清長は松井田城に北方隊の使者として派遣された時、直接、政繁に会っていたので、捕らえた人物が、大道寺政繁であると直ぐに分かったのである。最も驚いたのは、この知らせを和田城で聞いた上杉景勝であった。松井田城で切腹した筈の大道寺政繁が生きていようとは、どういうことか。ならば斉田団右衛門等が持ち帰った駿河守の首は誰のものか。景勝には、全く信じられぬ事であった。景勝は前田利家に相談した。

「太閤殿に、駿河守、松枝城にて切腹の報告を致せしかども、この件、如何に致すべきや」

「構わぬなり。大道寺も命惜しかるべし。助けて、鉢形、松山、河越、八王子の城を攻めさせし後、斬り捨てん。今、ここにて駿河守を斬首致しなば、武州勢、何の躊躇も無く、死に物狂い、刃向かうて来るなり」

「されど駿河守の命あれるを太閤殿、知りしなば、我等、さぞかし、お怒りを受けなん」

「もし後日、太閤殿より、お咎めあらば、この利家が、お詫び致す。利家、駿河守、切腹の誤報を流して、敵の闘志を衰弱させしとな。ウッハハハ・・・」

 そんな所へ、豊臣秀吉からの書状が送られて来た。難攻不落の松井田城を陥落させた戦功を褒め称えた文面であった。利家は景勝に大言壮語したものの、影武者に振り回されたことを、秀吉に叱責されることを恐れた。その為には、先ず、大道寺政繁を含む捕虜兵を活用し、彼らを先鋒に並べて、自分たち北国勢は後方から、丸腰の捕虜兵を厳しく追い立て、北条氏邦が守る荒川の断崖上の要害、鉢形城を落城させることであった。北方隊総大将、前田利家は、箕輪城、石倉城等の上野の城は、真田昌幸、依田康国に任せ、自らは上杉、直江等の連合軍、三万二千余騎にて、鉢形城を攻撃した。それに対し、北条氏邦、黒田上野介等は、向かって来る敵を断崖の上から睨みながら、あの手、この手で防戦した。先鋒隊に組み込まれた大道寺政繁が、隙を見て、氏邦側に合図するので、北方隊の作戦は全く無駄であった。この政繁の事は直ぐに北条方に伝えられた。

〈大道寺駿河守、未だ生きてあり。北国勢の手中にあり〉

 この知らせは、直ちに氏政、氏直に届き、『北条記』には、政繁父子が、未練にも前田利家の捕虜になったことを、氏直が憎んだと記されている。現在と異なり、情報が伝わりにくい時代といえども、この状況は、秀吉の耳に届いた。秀吉は、どの情報が真実なのか確認する為、急遽、利家に自ら箱根に来るよう命じた。

        〇

 前田利家は悩んだ。上野国に近い鉢形から秀吉のいる箱根に行くには、北条の支配地、武蔵、相模を抜けて行かねばならぬ。秀吉の命令だからといって、一挙に大軍を移動させる訳にはいかない。占拠した各城に、北国勢の兵を配置しなければならないし、上野国には未だ降伏していない城がある。どうすれば良いのか。利家は思案した。その悩みを家臣に話すと、奥村永福が言った。

「大道寺駿河守なら、良い手立てを教えてくれましょう」

 利家の家臣は、それを聞き、政繁が教えてくれる筈が無いと、永福のことを笑った。利家はその通りであろうと思ったが、試しに捕虜小屋に行き、政繁に訊ねてみた。

「急遽、箱根に馳せ参じたいのだが、北条方に襲われぬ良い抜け道を教えて下さらんか?」

 すると政繁は、すんなり答えた。

「何処の道とて大丈夫で御座る」

「そんな事はあるまい。ど、何処の道を通れば良いのじゃ」

「それがしを連れて行けば良い事じゃ。大道寺の大文字旗と金提灯の馬印を付けて走れば、誰も頭を下げても、手出しはしない」

 利家は成程と思った。そして、その日のうちに、前田兵、五十騎、及び大道寺政繁等五騎を引き連れ、鉢形から小田原方面へ向かった。大道寺旗を掲げ、鉢形城の近くを走り抜け、毛呂山を通り、八王子から津久井に入り、道志を経て、御殿場から箱根山を越えて、翌日、二十二日には、箱根湯本に到着した。秀吉は、敵将、大道寺政繁を連れて伺候した利家に不服であった。だが熱心に自分に仕えようとする馴染みの利家の顔を見ると、懐かしくて、怒る気にならなかった。そして政繁と面談すると、和議に備えて、政繁に依頼した。

「駿河守、この度の加賀宰相の道案内、御苦労で御座った。今後の北条との道案内の儀についても、くれぐれもよろしく頼むぞ」

 そして利家が直ぐに上野国に引き返そうとすると、秀吉は利家を引き止め、茶を点てたり、京の天皇家からの沙汰などを、得意になって語った。政繁もそれに同席した。千利休の点てた茶を味わいながら、政繁は、小田原で、北条幻庵や山上宗二と茶を楽しんだ時の事を回想した。平和だった。その幻庵は昨年十一月に亡くなり、宗二も、幻庵と親密であったことから、秀吉に耳と鼻を削がれ、四月十一日、討ち首にされ、もうこの世にはいなかった。

        〇

 この頃、松井田城を焼き打ち落城させた北方隊の真田、依田軍は、先般、落城させられなかった箕輪城、石倉城の攻撃に取り掛かっていた。真田軍は垪和氏続が守る箕輪城を攻撃し、信濃衆、保科正直の活躍により、城将、垪和氏続を追放し、前田軍に城を渡した。前田利長が、その城を受け取り、前田の本陣とした。依田軍は寺尾左馬助が守る石倉城を攻撃し、井野川で石倉勢と戦った。城代、寺尾左馬助は、奮戦したものの、依田軍に圧倒され、戦い利あらずと降参を申し込んだ。そして四月二十六日、依田康国は、弟、康貞と宮地神前の陣営にて、左馬助と、その重臣、数名を引見した。左馬助は、恭しく重臣と共に、地べたに両手をついて恭順を誓った。

「石倉治部、今後、殿下に対し、一途の忠勤に励み、以後、決して違背の無き事、御約束申し上げます」

 と、その時であった。依田軍の前方から、うわーっという凄まじい鬨の声が上がり、それと同時に依田の騎馬が、陣幕内に走り込んで来た。左馬助は慌てて立ち上がるや、依田康国に向かって叫んだ。

「恭順を誓いし我等を殺すというのか。許せぬ!」

 左馬助は叫びざま、康国を袈裟懸けに斬った。康国は血飛沫を上げて、崩れ落ちた。

「ゲーッ!」

「おのれ、何たることを!」

康国を斬り殺して逃げる左馬助を、康国の弟、康貞が追った。陣幕の外で開城の沙汰を待っていた左馬助の家臣たちは血相を変えて陣幕内から逃げ出して来た主人と重臣たちを見て、何が何だか分からず、慌てふためいた。それを依田勢が取り囲み、討ちつ討たれつの戦闘となった。依田康貞は無我夢中、左馬助を追いかけて捕まえると、容赦なく一刀を浴びせた。

「兄の仇!」

 更に康国の家臣、依田信政が、よろける左馬助に襲い掛かった。

「主の仇!」

 信政は躍り上がると、豪快に左馬助の首を斬り落とした。康貞は兄の仇を討ちはしたが、怒りは治まらず、怒号した。

「全員、討ち取れ。一人も逃してはならぬぞ!」

 康貞の怒りの下知に、依田勢の弓矢、長槍、白刃が、四方から石倉勢を攻撃した。それでも逃げ帰った石倉城の重臣たちは、城内にて、依田勢を相手に、死力を尽くして戦った。そして最後には城に火を放ち、共に相果て、石倉城は落城した。後で調べたところによると、陣営前に休ませてあった依田軍の騎馬が、来客中であるのに、突然、その一頭が暴れ出し、それを依田兵が取り鎮めようとしたのが、騒動の発端と分かった。真田昌幸から、この知らせを手にし、徳川家康は大事な武将を失ったと、依田康国の死を惜しんだ。当時、和田城に入っていた上杉景勝も、これから、この依田康国の変事と同じような失敗が起こり得るかも知れないと、諸将に用心するよう指示した。

        〇

 前田利家は、依田康国の訃報を聞き、四月二十七日、大道寺政繁を連れて箕輪城に入った。箕輪城に連れて行かれた政繁は、世の流れから判断し、無益な戦さを止め、太閤秀吉に従うよう、箕輪兵や四散した松井田兵に己rれの考えを伝えた。その後、再び、前田、上杉、真田三軍の先鋒を命ぜられ、武蔵の国の松山城を攻めた。城主、上田憲定は小田原城の援軍として出向いており、城を守るのは、山田直安以下二千三百騎程度で、大道寺政繁が先鋒と聞くと、四月末、直ぐに開城した。五月になると政繁は、自ら河越城に向かい、自分の三男である大道寺直高に降伏を要請した。城代、直高は堅固に城を守っていたが、松井田城を焼き払われた父、政繁が捕虜となってやって来て、大道寺配下の安寧を諭すと、素直に無血開城した。前田利家は、政繁のこの措置により、五月五日、箕輪城から河越城に入城した。そして上野国の上杉軍と武蔵の地侍を使い、鉢形城を挟撃させることにした。これに対し、北条氏邦は、真田昌幸に追い立てられ、沼田城から伊勢崎経由で武蔵に逃げ帰って来た猪俣邦憲等を加え、籠城戦にて抵抗した。利家は、この難攻不落の鉢形城を落とすには、どうしたら良いか、政繁に相談した。政繁は自分の臣下、河越衆を守るには、相矛盾することであるが、利家に従うしかないと判断し、鉢形城の武将を懐柔することを提案した。

「おお、それは良い。やってみてくれ」

 それを受けた政繁は、敏捷な諜者、碓氷風魔の霧積隼人と名雲宙飛を北条氏邦の家臣、町田康忠の所に派遣した。町田康忠は政繁からの密書の内容を読み、小前田信国と共謀し、主君、氏邦の奥方と、若君、光福丸を西の丸から秘かに脱出させ、守護することを画策した。二人は、それを実行に移し、城外に逃亡したまでは良かったが、天神山城までに行く途中、山賊に遭遇してしまった。町田康忠と小前田信国は夢中になって山賊と戦ったが、主君の奥方と小前田信国は、討死してしまった。町田康忠と光福丸は、碓氷風魔の霧積隼人等に助けられ、無事、河越に送り届けられ、五月十五日、前田利家に助命を懇願した。利家は大道寺政繁の手前、これを許した。利家は、このように政繁と共に作戦行動を進めるうちに、敗軍の将、政繁の内心を知ろうと努めたが、それを読むことは難しかった。そこで利家は、十七日、政繁に岩槻城を攻める浅野長政、本多忠勝の先導役として、河越から岩槻に移動するよう命じた。そこで政繁が徳川勢に、どう対処するか知りたかった。その政繁は、北条氏房が小田原に従軍して不在の岩槻城に詳しく、宿老、伊達房実等が籠城する二千の兵を攻め立て、予想通りの活躍を見せた。強風の二十二日、徳川勢は城外から岩槻城に火を点けた。これにより、岩槻城は城兵の半分、一千余を犠牲にして落城した。翌々日、政繁は河越に戻った。すると利家は、政繁に鉢形城に行き、大人しく前田軍に降参し、北国勢の加勢をすすめるよう説得せよと命じた。政繁は、それを断った。

「それがし、大文字の旗印を掲げ、鉢形城に行くことは出来ぬ。前田の手中に光福丸あるに、何故、大道寺が尚、攻めに行かねばならぬ。大道寺、加わらずば陥落出来ぬとあっては、太閤に叱られ、北条に笑われまするぞ」

 この言葉に、利家は最もだと頷いた。利家は大道寺の指揮無しに、どのようにしたら鉢形城を陥落させることが出来るか思案した。

        〇

 前田利家は、この際、奥州の小豪族を攻め立て、北関東まで領地を広げようとしている二十四歳の豪傑、伊達政宗を活用してみることを考えた。利家は早速、政宗に書状を送り、豊臣軍に加勢し、常陸、那須等の守備に協力するよう依頼した。そして下野に駐留する北国勢を、武蔵に移動させ、鉢形城を攻撃しようと画策した。しかし政宗は直ぐには動かなかった。狡智に優れる政宗は用心した。今は北条が勝つか、豊臣が勝つか見極める必要があった。そこへ、今度は徳川家康から、浅野長政経由で、政宗宛ての書状が届いた。政宗は、てっきり、家康の娘を妻にしている北条氏直を支援して欲しいとの内容であると心躍らせた。ところが何と、思いもよらぬ文面であった。

〈 豊臣陣に伺候の事

 今般、関東惣無事の儀に付、関白殿より、再び申し来たりし候。その趣き、先書にて申し入れ候間、月日経ち、只今、朝比奈弥太郎に持ち為され、御披露の為、これを進言せし候。好く好く御勘弁を遂げられ、御報に示し、預かるべく候。此の通り、氏直にも申し達すべく候処、御在陣の儀に候の条。様子御陣へ付け届けられ、然るべく候様、専要に候。委細、弥太郎口上にて申し上げ含め候。

               恐々謹言

 天正十八年五月二十七日 徳川宰相家康

  伊達政宗殿            〉

 それは豊臣への帰順を促し、前田利家同様、小田原攻めの加勢を要請する内容であった。書状を持参した朝比奈弥太郎は、北条軍は豊臣軍、二十五万の兵に包囲され、滅亡が近いと報告した。そして、主人、家康からの口上は、天下の形勢は豊臣にあり、逆らったなら、氏直と同じ苦難に遭遇することになるので、今は秀吉の番頭である家康の忠告に従うのが賢明であると伝えた。政宗は、弥太郎と面談し、自分に迫っている危機に身震いした。彼は即刻、家臣を引き連れ、朝比奈弥太郎に案内を願い、越後、信濃、甲斐を経由し、箱根へ急行した。その箱根では、秀吉が淀君を呼び寄せ、諸将の妻妾を集め、連日、酒宴、茶の湯、湯治などを楽しんでいた。政宗は六月五日、箱根に到着した。その政宗を徳川家康が最初に迎えた。家康は政宗を石田三成に会わせ、豊臣軍への加勢を申し出させ、秀吉との謁見を願い出た。三成が席を外すと、政宗は温和そうな家康に訊いた。

「徳川様。それがしはこの度、咎を受けることになるのでしょうか?」

「そのような事にはなりますまい」

「それがしは死に装束を用意して参っております」

「何と大袈裟な。安心せよ。関白殿は心の大きい御人じゃ」

 家康の言葉に、片目の政宗は安心した。秀吉は数日後、その片目の政宗に会って、その眼光に惚れた。漲る若さは、信長に似ているところがあった。

「やあ、御苦労、御苦労。遠路、大変であったであろう。よくぞ、箱根まで来てくれたな」

 金糸で刺繍した羽織を着て、下品に笑う秀吉に謁見し、政宗は、何と泥臭い男であろうかと、秀吉のことを思った。そう感じると、伺候することの遅かったことの言い訳、陳謝、忠誠の言葉が、次から次へと溢れ出た。秀吉は、この政宗の戸惑いの無い態度が気に入った。

「貴公の言い分、良く分かった。今までの事は水に流そう」

「有難き仕合せに御座います」

「ところで貴公に、お見せしたいものがある。ついて参れ」

 秀吉は、そう言って、政宗を笠懸山の頂上に案内した。その山腹では大勢の人足たちが、汗水流し、石垣を築いていた。政宗には築城途中であると、直ぐに理解出来た。頂上に立つと秀吉が言った。

「田舎での小競り合いが身上の貴公には、この小田原包囲の陣立てが分かるかな?」

「さては、眼下のあれが、信玄公、謙信公の攻めあぐねた天下の名城、小田原城に御座いまするか?」

「そうじゃ。この山城より、伊豆、箱根方面を塞ぎ、海辺は見ての通り、既に浮かんでいる水軍で固めている。前方に見える足柄、丹沢、曽我の山頂は、やがて上州兵を先鋒として、北国勢が居並ぶことになっている。故に後日、奥州管領になる貴公には、この秀吉の二十六万となる陣立を覚えておいて欲しいのじゃ。ウッハハハ」

「政宗、良く良く頭に入れて置きまする」

 政宗は身震いした。隣に立つ、猿人形のような小男が、突然、自分より、大きく揺れて見えた。かくて政宗は秀吉に恭順の意を表し、豊臣軍の支援に当たることとなった。家康は数日後、前田利家と相談し、大道寺政繁と岩槻城を落とした浅野長政、本多忠勝、鳥居元忠等の徳川勢に伊達政宗勢を加え、北国勢に加勢させることにしてた。そして鉢形城攻略を拒む大道寺政繁を、内藤清成、青山忠成と共に、遠山犬千代が治めていた江戸城に派遣し、治安状況を安定させることにした。こうして鉢形城は、大道寺政繁の関与無しに、徳川、伊達を加えた北国勢に総攻撃を加えられた。この時の鉢形城は、丁度、北条氏邦が軍議の為、小田原に出張中で、猪俣邦憲以下、三千五百の城兵が、これに良く防戦した。ところが攻撃軍が、南方の車山から石火矢で城内に砲撃を加えると、それを支えきれず、六月十四日、鉢形勢はついに降伏した。この時、城中に残った婦女子多数が、荒川の断崖から身を投じて、命を絶った。この悲惨な結果は、直ちに小田原にいる北条氏邦のもとに届いた。氏邦は自分が不在であったが為に士気が削がれ、落城させてしまったと、深く後悔した。氏邦は、軍議を放り出し、鉢形城に戻った。ところが不運にも、途中、前田勢に捕らえられ、利家の捕虜となってしまった。

        〇

 豊臣の策士、黒田如水は、鉢形城が落城して衝撃を受けている小田原城内に矢文を送り、追い打ちをかけた。北条に味方すると思われた伊達政宗が豊臣軍に参加したことを北条方に伝え、更に井上平兵衛を使者に立て、氏政に慰問の酒などの品を贈った。氏政は、その返礼として、鉛と火薬を届けた。それは城中に武器弾薬が豊富にあるという、強硬姿勢を意味するものであった。そこで如水は堀秀治等を使い、板橋口で松田憲秀に誘いをかけた。それは現状説明による小田原不利の知らせであり、旭日昇る如き勢いの豊臣に反抗しても、無駄であり、玉縄の北条氏や大道寺氏のように豊臣方に服従することが、松田氏にとっても賢明であるとの説得であった。松田憲秀は、想像以上の豊臣勢が押し寄せて来ている実情を把握し、先月、亡くなった堀秀政等の懐柔を退けて来たが、この際、長男、政堯と共に、豊臣方に内応しようと考えた。そこで箱根風魔、風祭弥七を堀秀政の息子、秀治のもとに送ると、堀秀治から直ぐに返事が届いた。

〈貴殿の御書状並びに御使者の口上、太閤殿下に御報告致せし処、尤も忠節の段、悦び思し召し候。然れば、伊豆、相模の所領を安堵扶助されるべき旨に候。よって一時も早く御分別を決断され、誓約書等の儀、取り揃え、直ちに仰せ越さるべく候。 恐々謹言

  天正十八年六月八日 堀秀治

 松田尾張守憲秀殿       〉

 憲秀は堀秀治から書状を受け取り、数日、悩んだが、六月十四日の夜、弟、康光と息子三兄弟、政堯、直秀、直也と娘婿、内藤左近を呼んで、この書状を示し、豊臣方に服従する覚悟を伝えた。しかし、この父の行動を、憲秀の次男、直秀が氏直に注進した為、憲秀は監禁、政堯は殺された。このことにより、北条の軍議は乱れ、和議の方向に傾きかけたが、氏政、氏照は、まだまだ八王子城などが奮闘しているのに何事だと言って、氏直等と意見が真っ向から対立した。四十名程の重臣たちは、この北条親子の喧嘩を黙って見ているだけで、結論が出なかった。重臣たちは、もし、ここに北条幻庵や大道寺政繁がいてくれたらと思った。かかる状況であるから、黒田如水の和議工作は、中々、進展しなかった。悪戯好きの秀吉は、思案する如水を笠懸山に誘った。足の悪い如水にとって、山登りは辛かったが、それが秀吉の鬱憤晴らしと思えば、何の気にもならなかった。それに笠懸城の石垣の進捗状況も目にすることが出来ると思った。やっと頂上に辿り着いた如水に秀吉が訊いた。

「氏政からの返事はまだか?」

「はい。中々、しぶとう御座います」

「そうか」

 その時、青葉繁れる林の中を、一羽の鳥が羽ばたき横切って鋭く鳴いた。それを見て秀吉が得意顔になって言った。

「如水。この秀吉、句を作ったぞ」

「えっ。関白様が?」

「そうだ。鳴かぬなら、鳴かせてみようぞ、時鳥」

 秀吉は自分の行吟句に酔った。如水は、その快感に心躍らせる秀吉を見て、一時も早く、北条との決着を付けねばならぬと思った。その為には、前田利家の率いる北方隊が、早く武蔵の諸城を落とし、この相模に到着してくれなければならなかった。

        〇

 その北方隊が次に向かったのは、八王子城であった。大道寺政繁は、八王子城を攻撃する前に、自分が先鋒として、八王子城の支城、滝之城に出向き、城代、中山家範を説得すると、前田利家に願い出たが、利家は、それを機に、政繁が逃亡するのではないかと用心して、それを許さなかった。六月二十日、前田利家率いる北国勢は、徳川勢と一緒になり、柳瀬川の北岸の断崖の上にある滝之城を襲撃した。城代、中山家範は、大軍を前にして、家来、全員を引き連れ、即刻、八王子城に逃げ去った。前田利家たち豊臣軍は、ここで数日、休養した後、八王子城を一挙に攻撃した。八王子城は、城主、氏照が小田原評定に出かけていて不在で、城代、横地吉信が、伊達政宗とも接触のあった榎本城主、近藤綱秀と重臣、狩野泰光、中山家範等と共に領民を加え、三千の兵で守っていた。豊臣軍、一万五千は、前夜の内に霧をぬって大手口と北側搦め手の二方向より、侵攻し、早朝には、大軍をもって、八王子の守備隊を城内に追い込んだ。城を守る北条勢は決死の覚悟で抵抗し、激戦となり、千人以上の死傷者を出した。この戦いで、狩野泰光、近藤綱秀、近藤助実、金子家重、島崎次郎等が討死し、氏照正室、比佐をはじめとする城内の婦女子は、中山家範等と共に自刃した。また若君を抱いて、城中の滝に身を投じた側室、お豊の方のような者もいて、その滝は、三日三晩、血に染まり続けたという。城代の横地吉信は落城前に、近藤綱秀に説得され、檜原城に向かって脱出していて助かった。かくして豊臣軍は、六月二十三日、一日で、八王子城を陥落させた。後は途中の津久井城や岡崎城などを開城させながら、小田原に向かうだけであった。

        〇

 その頃、小田原では、小田原城に参陣していた忍城の成田氏長が、蒲生氏郷と太田三楽斎の説得を受けて、六月二十日、小田原城を出奔し、箱根湯本、早雲寺の豊臣本営に参上し、豊臣秀吉に降伏していた。だが当の忍城は、成田氏長の妹、甲斐姫が指揮して籠城をし続け、頑張っていると石田三成から知らされ、関東の女は強いなと秀吉は大いに笑った。その秀吉は、八王子城が落城したと聞くと、養子、秀次と徳川家康を呼んで、こう言った。

「そろそろ良かろう。ここらで降参するよう促せ」

 すると秀次は織田信雄の家臣、土方雄久に、かって北条家臣であった瀬田正忠を付けて、その交渉に向かわせることにした。それを受けた織田信雄は、先ず、このことを韮山城を守る北条氏規に持ち込んだ。氏規は今まで、四ヶ月以上も城に立て籠もり抗戦して来たが、流石に疲労しており、最終的には家康の説得を受けて、韮山城を開城し、小田原に出向いて、北条氏政、氏直親子に降伏を勧めることを約束した。だが六月二十四日以降になっても、北条方からの降伏の返事は無かった。秀吉は我慢した。豊臣軍は、その間、尚、残っている北条の幾つかの城を攻撃した。八王子城代、横地吉信の逃げた檜原城は、八王子城の敗残兵を収容し、平山氏重が守っていたが、敵の数に圧倒され、落城した。平山氏重は、城下の千足の岩陰で自刃し、横地吉信は、蛇沢という所まで逃げて、最早これまでと、切腹して果てた。高尾山に近い城山に築かれた津久井城は、内藤綱秀が甲斐と小田原を結ぶ要所として守備していた。だが、その津久井城は、徳川の武将、本多忠勝、平岩親吉等、一万余の兵が攻め立てられ、城代家老、馬場佐渡等が積極的に戦ったものの、多勢に無勢、六月二十六日、空しく開城した。同じ頃、大道寺政繁を先鋒とする前田勢は、地元の船頭に命じ、相模川の船着場から、八王子城の死者を船で、小田原に送り終え、内藤綱秀の弟、内藤豊景が守る、岡崎城を攻撃した。これまた重要な城主、豊景が小田原城に赴いており、岡崎城におらず、千名程度の守備兵で守っていたので、これでは押寄せる豊臣軍の大軍に応戦する力は全く無く、直ぐに開城した。北国勢は、これらの城に守備兵を置きながら、二十六日、北条の本拠地を見下ろす、松田山から曽我山にかけての山頂に、それぞれ布陣した。同じくこの日、四月初めから約八十余日をかけて笠懸山に石垣を築き、建設を進めて来た笠懸城が完成した。これを機に、秀吉は周辺の松の木や雑木を、一斉に切り払わせた。そして石垣の上に、城郭の板絵を置き、その周りに杉原紙を廻らせて、城の塀に見せかけた。この突然に浮かび上がった一夜城を目にして、北条勢も北国勢も驚いた。秀吉は満悦だった。

「ウッハハハハ。どうじゃ小田原北条。この一夜城を見て、さぞ慌てておろう。気の強い氏政はどうしておる。気の弱い氏直、お前は蒼くなっておろう」

「きっと、そうで御座いましょう」

「如水。また句を作ったぞ」

「今度は、どのような句を」

「鳴き喚け、北条山の時鳥」

 この一夜城の完成により、今まで、降伏か、決戦かで、長引いていた小田原城内の軍議は、一気に和議の方向へと傾いた。それを加速させるべく、伊勢、伊予、土佐などの水軍が、小田原の袖ヶ浜に集結し、小田原城に向かって砲撃を加えたから堪らない。城内は、和議か抗戦かで、更に紛糾した。黒田如水は、その時を見計らって、単身、小田原城に乗り込み、氏政、氏直に会い、降伏を促した。

「御存じの通り、この小田原城は、豊臣に従う二十二万の兵に包囲されております。天下の大勢は全国統一を目指す、秀吉公の計画通り、滔々たる大流になっております。その大流に逆らうことは愚の骨頂と存じます。秀吉公は、昔から和交を以って第一とするお考えの方です。ここは和議に応じ、祖先の祭祀を絶やさぬことが、賢明かと存じます。和平交渉の実行については、この如水が監視し、極力、北条の提案に不利にならぬよう協力するので、北条一族の為、家臣の為、領民の為、和議を進められるよう進言申し上げます」

 如水は討たれることを覚悟で、北条親子を説得した。その真心溢れる熱弁は、追い詰められた氏政の心を揺るがした。氏政は如水の北条を思う厚情に惻々と胸を打たれ、涙ぐみそうになった。氏政は、その如水の説得に対する即答を避け、如水の勇気を称え、名刀、日光一文字と東鑑一部を贈り、如水の労をねぎらい、後日、返答致すと伝えて、如水を帰した。

        〇

 如水から、北条降伏の兆しありと聞いた秀吉は、大いに喜んだ。そこで秀吉は、松田山に布陣する前田利家に、大道寺政繁を帯同し、笠懸城に来るよう命じた。その為、政繁は前田利家と共に松田山を出発し、大雄山から久野を通り、塔の峰を越え、早川を渡り、笠懸山の一夜城に連れて行かれた。政繁は驚いた。誰が、何時の間に、これだけの石垣城を築いたのか?政繁は、その素早さと見事さに感心した。豊臣にも、直英と似たような優秀な築城者がいることを知った。政繁は利家と共に、豊臣の家臣の居並ぶ天幕の大広間に召し出された。秀吉は今回、北国勢の道案内役を務めた政繁を一同の前に披露すると、畏まる政繁を褒め称えた。

「駿河守よ。汝は松枝城では加賀宰相をてこずらせたそうであるが、その後、加賀宰相に従ってからの活躍は、家康公の仰せの通りで、真に見事なり。秀吉、褒めて遣わす。後は北条が降りたる時の検視役を頼むぞ。さらば大道寺家は安堵されん。ウッハハハハ」

 秀吉は、そう言って、大広間の一同の前で、猿回りをした。それから扇子を突きつけ、政繁に質問した。

「ところで駿河守。只今の北条の憐れなる原因は、何処にあると思うや」

 政繁は言葉に窮した。答えるべきか、答えないで置くべきか、状況が読めなかった。迂闊に答えて不利となる事があろうかと、考え迷っている政繁の前に秀吉はしゃがみ込み、ニタリと笑った。

「遠慮無く申うせ」

 そこで政繁は、次の事が原因であると、一同の前で答えた。

「先ずは関白様の全国平定の御意向を解することが出来ず、関東管領という自負が招いた誤りによるものと存じます。二つ目は、徳川様の御忠告を軽々しく扱われた為です。三っ目は、愚かにも天下の大勢に逆らい、反抗を試みた事です。のみならず、藤田安房守や政繁の四方守備体制の意見を汲み入れず、諸城主とその兵を自分の周りに集めて、自らの戦力を小田原に集中させたが為です。今となっては救いようがありません」

 それは北条氏政親子の大勢判断が出来なかったことによる必然的過程であるという解説であった。その明瞭な分析を、家臣一同の前で語ってもらい、秀吉は大いに満足し、その慰労として、政繁を根府川の茶室に招待した。そこは清い谷川の水を誘い入れた桔梗の花咲く小さな庭をもった茶室で、他にいるのは利休と下女だけであった。ここでも秀吉は政繁の事を褒めた。

「駿河守、先程は一同の前で、御苦労で御座った。お陰で秀吉も家臣を前にして、鼻が高かったぞ」

「それは、結構なことで」

「汝の武勇伝、前田、上杉の者より、充分、聞かされた。その知略に長けた力量、珍重すべきと思う」

「勿体無き、お褒めの御言葉」

「よって汝を、わしの家臣にしようと思うが、如何か?」

 突然、そう問われて政繁は、ムッと唇を噛み締めた。このような侮辱があろうか。直ぐに答えぬ政繁に、秀吉は確認した。

「どうした?駿河守」

 政繁は討首を覚悟で秀吉を睨んだ。

「有難き御言葉ですが、この駿河守、北条より恩顧を受けたる者故、恩義無き人に、お仕え致す心算は御座いません」

「恩義はこれから生じようぞ」

「とは言われましても、関白様には、黒田如水殿という立派な軍師がおられるでは御座いませんか。軍師を何人もお抱えになる事は誤りの種になります」

「この秀吉の言う事が承知出来ぬか?」

「誠に申し訳御座いません。お許しいただければ、河越、松枝に戻り、亡き者の冥福を祈ろうかと考えております」

「左様か、左様か。分かった、分かった。ワッハハハ」

 秀吉は言う事を利かぬ政繁に立腹したが、何時ものように笑って誤魔化した。秀吉は平伏する政繁を茶室に残して、城に戻った。

        〇

 根府川の江の浦の茶室の中は、利休と政繁の二人だけになった。利休は膝を近づけて、親しく政繁に話しかけた。

「駿河守殿。利休、驚きました」

「何をでしょうか?」

「折角のお召し抱えを御断りになるとは・・・」

 すると政繁は、今まで眺めていた茶器から目を放し、まともに利休を見て言った。

「関白様のようなお方に対しては、言うべきことは、はっきり言うことが必要ではないかと思いまして」

「でも何故、御断りを?」

「駿河守、卑怯者のまま、生きとう御座いません。それがしが致して来た事は、主家に対する裏切りであり、領民に対する慈愛で御座る。この相矛盾する行為は、罰せられてしかるべきであります。それが豊臣の軍門に下ったとなっては、卑怯者と末代まで、誹り笑われまする。この駿河守、卑怯者で無く、裏切り者のまま死にたいので御座る」

 それを聞いて、利休は胸が裂かれる思いがした。領民への慈愛と主家に対する忠義の狭間の中で、死を選ぼうとする政繁の揺ぎ無き心理は、利休にとって、余りにも美し過ぎた。それに比較し、宗二の身近に在りながら、秀吉に宗二が殺されるのを止められなかった己は、卑怯者でありはしないか。耳と鼻を削がれ、血達磨になった宗二を見た時の衝撃が蘇った。

「そう言われると、この利休、恥ずかしゅう御座います。日頃、自分は関白様の茶の師匠として、三千石の禄を食んでいるのに、それは茶の道に仕えているのであって、関白様に仕えているのでは無いなどと、偉そうな事をうそぶいて来ましたが、他人からすれば、それは欺瞞と取られましょう。それが証拠に、利休は、幻庵殿や駿河守殿に親切にしてもらった弟子の宗二を救ってやることが、出来なかったので御座る」

「それは致し方のない事で御座る。宗二殿は関白様が茶道の流れを、華美なる方向へ変えようとしていることを嫌い、小田原に下向して来たので御座る。宗二殿は、小田原の海や箱根の山河や風に触れ、ここぞ己の在処と定め、小田原にて侘び茶の本道を究めようと日々、精進しておられました。それが不運にも、関白様と再会することになってしまったが為、殺されてしまったのです」

「だから悔しいのじゃ。そんな宗二を、わしは見殺しにしてしまったのじゃ。この怒りをどうしたら良いのじゃ。利休は道を誤ったのではないか」

「利休殿。御自分を責めなさるな。関白様の茶道に対する非道、堪えて下され。御身体をくれぐれもおいといなされて、真の茶道の奥義を次の者へと繋げて下され」

 政繁は、秀吉の茶の師匠である利休の苦悩を知りはしたが、それを告白されたところで、どうすることも出来なかった。秀吉に仕えるか、茶道を極めるか、その曖昧さの中に生きる利休に、同じ身の自分が、自裁を勧める訳にはいかない。それは自分とて、同じことなのだ。この生き恥から逃れる為に、自裁するか、誰かに決裁される時を待つか、政繁は曖昧さの中で、利休が入れてくれた茶を味わった。暗くなり始めた茶室の庭では、桔梗の小さな花が、そんな二人の様子を覗き見しながら、灰色にうるんで、風に揺れていた。

「本日は時候に適った素晴らしい茶道具を楽しませていただき、誠に有難とう御座った」

 政繁がお礼を述べると、利休は政繁との一座建立に満足し、政繁に答えた。

「こちらこそ、宗二を可愛がってくれた駿河守殿に、充分、茶を楽しんでいただき満足です。では仕舞いに致しましょう」

 利休はそう言って茶席を片付けると、政繁と共に茶室を出て、豊臣本陣に向かった。その二人を根府川の夕霧が、ゆるやかに優しく包み込んだ。

        〇

 七月に入ると、北条氏房と氏規が、徳川家康と織田信雄の家臣、滝川雄利を窓口にして、和平交渉を開始した。内容は黒田如水が提案した相模、武蔵、伊豆三国の存続と家臣一同の助命を認める条件であった。それを基に北条氏直は、七月五日の雨降る中、弟、氏房と共に、義父、徳川家康の陣に出向いて、己の切腹と引き換えに、籠城者の助命を懇願した。家康は、その哀れな娘婿、氏直を、先ず滝川雄利の所に連れて行き、次いで織田信雄の元へ護送し、秀吉に氏直の降伏を伝えた。それを聞いた秀吉は大喜びした。

「ウッハハハハ。ついに北条も落ちたか。それにしても氏直の申し出、真に神妙である。流石、徳川殿の娘婿。切腹させるのは惜しい。氏政や氏照は許し難いが、氏直は追放することで、許して上げよう。お気の毒だが、どうであろうか」

 その秀吉の言葉に、家康は不服であったが、同意せざるを得なかった。秀吉の北条に対する処置は、今まで黒田如水や滝川雄利と北条方が話し合って来た講和の約定と違っていた。全くの約束無視であった。しかし家康は本心を隠し、秀吉に礼を言った。

「その御厚情、誠に有難く承りまする。思えば関白様の御招請を三年以上も無視し、上洛せぬばかりか、四方に兵を差し向け、領地拡大に走り、遂に御成敗を被るは自業自得で御座います。誰に恨むところも御座いません。娘婿、氏直が生きながらえる事のお許しは、家康にとって、正に厚恩、誠に有難く、深く感謝申し上げます」

「そう受け取って貰えると、この秀吉、心休まる。その代わりと言う訳ではないが、徳川殿には、この関東を治めて貰いたい」

「何と、有難き仕合せ」

「だが関東を治めるには、こんな小田原のような、関東の片隅におっては、立派な統治は出来ぬ。大阪に似た江戸にて関東を鎮撫されてはどうかな?」

「それは名案に御座います。家康、関白様の御指示に従い、江戸に喜んで参ります」

 かくして徳川家康は、北条が安堵されるべき、相模、武蔵、伊豆に加え、上野、下野、房総等、関八州までをも手中するに至った。

        〇 

 七月六日、北条氏直が義父、徳川家康に連れられ秀吉に降伏すると、秀吉は、翌七日から九日にかけて、家臣、片桐且元、脇坂安治と家康の家臣、榊原康政を検視役に選び、大道寺政繁を同道させ、小田原城受け取りに当たらせた。政繁にとって、この役目は恥辱そのものであったが、北条家臣や大道寺家臣の助命を願うには、自分がその役目を負うしか無かった。七日、籠城する諸城主を引見し、記帳し、城外に出させた。八日には、その北条の武将たちの家来衆を城外に出した。そして七月九日、政繁は主戦派であった北条氏政と、その弟、氏照、及び松田憲秀等と共に、大罪人として、城下の医者、田村安栖の屋敷に移された。十一日、秀吉は、北条氏政、氏照と宿老、松田憲秀に切腹を命じた。松田憲秀は秀吉の自分への処罰について不服を申し立てた。

「関白様からの御声掛かりにより、一働きしょうとして小田原城の牢獄に捕らえられていた尾張守憲秀を、関白様は容赦助命するのでは無く、首をはねると申されるのか?」

 それを処刑係から聞いた秀吉は、怒鳴った。

「今更、何を言うか。武士ならば主君を信じ、主君と行を共にし、主君に従うのが道なるを、主君を裏切るとは何事ぞ。不忠者、憲秀、許すべからず。さっさと片付けよ!」

 かくて北条の代表者三名の切腹刑は、秀吉の家臣、石川貞清、蒔田広定、佐々行政が付き、陪席人として、徳川家康、井伊直政、榊原康政が立ち会った。介錯役は北条氏規が務めさせられた。三名は陪席人が見守る中、見事、自害した。兄たちが自刃したのを確認するや、氏規は直ぐに追腹を切ろうとしたが、井伊直政が、それに気付き、刀を奪い取り、自害させなかった。翌十二日、その氏規は当主、氏直と共に紀伊国高野山に追放されることに決まった。尚、秘密であるが氏直と督姫の間に生まれたばかしの男子、梅寿丸は、督姫の侍女、浅岡登与によって伊豆土肥に潜み隠れ、難を逃れたという。こうして百年、関東に名をほしいままにして来た戦国の雄、北条氏も、天下統一を成し遂げんとする豊臣秀吉の為に、滅ぼされてしまった。このことにより豊臣秀吉は、名実ともに、日本全土に君臨し、この時代の覇者となった。十三日、秀吉は小田原城に入り、論功行賞を行った。その席で、徳川家康が関東の主になったことが発表された。そういった行事の間、大道寺政繁は捨て置かれたままであった。本来なら、切腹を命じられるべきであったが、前田利家に素直に従ったということもあってか、処分の沙汰が無かった。十五日、秀吉は鎌倉の鶴岡八幡宮に詣でた。その折、この地と縁のある政繁に同行を命じた。何故なら、政繁が鎌倉代官の家柄であることを知っていたからであった。秀吉は八幡宮の白旗社の源頼朝廟に参詣し、頼朝の木像に近づくと、そこにいた家臣たちを前に、木像に向かって言った。

「我と頼朝は天下の友であるが、身分の賎しいところから身を起こし、天下を取ったのは、この秀吉だけじゃ。恐れ入ったであろう。なあ、頼朝よ」

 それから秀吉は、頼朝の木像の肩をポンと叩いて、胸を張った。それを見て、政繁は呆れ返った。その夜、秀吉は玉縄城に泊り、鎌倉の事を教えて貰おうと、政繁を宴席に招いた。そして鎌倉の歴史を教えて貰った後、政繁にまた訊ねた。

「駿河守。この秀吉、汝の知識賢才に再び感心したぞ。しかるに再び尋ねるが、以後、秀吉の家臣として仕えようとは思わぬか?」

「関白様。有難き御言葉では御座いますが、先日も申し上げました通り、駿河守、生きるも死ぬも、この関東と思っておりまする。故に、その忠勇を捧げるとすれば、この後、関東を治められる徳川様に、お仕えしとう御座います」

「何と。何故、秀吉の望みに快諾しないのか。天下人、秀吉に誠を尽くすのであれば、大道寺の誉れとなろう」

「申し訳御座いません。先日、申し上げました通り、この駿河守の為に命を落とした者の冥福を、彼らの眠る関東の地で、祈り続けてやりたいのです」

「いかにも駿河守らしや。ウッハハハ。残念である」

 政繁の頑なな態度に秀吉は立腹した。秀吉の皺だらけの顔が、猿のお尻のように真っ赤になり、癇癪の青筋が走ったのを見て、諸大名は吃驚した。秀吉がその実力を恐れ、関東に遠ざけた家康に政繁が仕えたいとは。

        〇

 七月十九日、秀吉は伊達政宗を案内人として、鎌倉から奥州に向かって出発した。それは鎌倉幕府を樹立した源頼朝が、文治五年(1189年)七月十九日に奥州征伐に向かったのに倣っての出発であった。一行が先ず向かったのは江戸城であった。その江戸城では、家康の家臣、戸田忠次が秀吉の来城を待っていた。忠治が、秀吉一行を桜田に出迎えると、突然、何を思ったのか、秀吉が、大道寺政繁を指さし、忠次に向かって命令した。

「戸田忠次。この者を江戸城に入れるな。此奴は北条の裏切り者なり。この桜田門前で誅せよ」

 誰もが秀吉の言葉を疑った。戸惑う忠次に秀吉が追い打ちをかけた。

「何をしている、早くせよ」

 周囲の狼狽はただならぬものであった。だが政繁はこの時を予感していた。秀吉という男は、こういう奴だ。あの山上宗二も同様に、秀吉の勘気に触れ、大勢の面前で血達磨にされた。政繁は慌てるところが全く無かった。その死を素直に受け入れることにした。政繁は、桜田門外の道端に正座すると、戸田忠次に静かに言った。

「戸田殿。慌てる事は御座らん。この駿河守、自ら割腹致すので、後始末をお願い申す。人生、生きるは難し、死は易し。どうせ何時かは死ぬる身。人非人の前で人とは何かを示し、割腹して御覧に入れまする」

「何を戯けた事を。黙れ、黙れ、黙らぬか!」

 秀吉はカンカンになり、怒りに震えて叫んだ。政繁は予め準備しておいたのであろう、直衣の胸から白紙を取り出し、早速、筆を取り、辞世の歌を三首、走り書きした。

 後の世の限りぞ遠き 弓取りの

 いまはのきはに 残す言の葉

 桔梗咲く死出の旅路を 追ひたれば

 江戸紫に 染まり行くなり

 余所ごとに唱ふるやふに 思ひしが

 南無阿弥陀仏と いふべかりける

 政繁は辞世の歌を書き終えると、南無阿弥陀仏と唱えた。彼は自分のこの死は、非業の死ではあるけれど、南無阿弥陀仏と唱和すれば、再び西方極楽浄土にて、生まれ変わることが出来るのだと信じた。そして脇差で自分の髪を切ると、それを辞世の歌を書き記した和紙に包み、縁者に渡すよう、従者、桃井佐兵衛に伝えた。佐兵衛は涙を拭い、それを受け取った。政繁は、それを見届けると、直衣を脱ぎ、上半身をはだけ、歯を食い縛り、鍛冶屋十兵衛の脇差『夕月』を用い、腹大文字にかき切った。その切り様は、真に大道寺の旗印そのものと同じであった。次の瞬間、秀吉の家臣、石川定清の白刃が一閃した。政繁の首は胴を離れ、宙に舞うと、草群の中にすっ飛んだ。石川定清の顔は熱湯のような政繁の血飛沫を浴びて、真紅に染まった。それを見て、異様な沈黙が流れた。誰も彼もが身震いした。

「この秀吉に仕えれば良かったものを。望み通り、ここで眠るが良い・・・」

 秀吉は、そう呟くと、その場から逃げるように、大軍を連れて江戸城に入って行った。桃井佐兵衛、高木源大夫等、政繫の従者が、主人の遺体に取りすがり、夕空に向かって慟哭した。仰ぐ夕空では、宵待月が、政繁の最期を悲しそうに見降ろしていた。時に政繁、享年五十八歳。その死体は、従者、桃井佐兵衛等により、江戸から松井田に運ばれた。その政繁の切腹の報せは、翌日、小田原にいた息子、直繁、直昌、直高、養子、直英等に知らされたが、いずれも捕虜の身であり、その遺体と会うことは許可されなかった。兄弟は涙を堪え、翌二十一日、主人、北条氏直に従い、北条一門及び松田直秀等、家臣一同と共に、紀伊高野山に向かって出立した。

        〇

 大道寺駿河守政繁の遺体が松井田に到着すると、領民は皆、号泣した。その死体は松井田城下の補陀寺の荊室廣琳和尚に安位諷経の供養をしてもらい、寺の裏の墓地に埋葬された。政繁の墓は今も補陀寺の裏山の森の中にある。江戸時代、加賀前田候の参勤交代の行列が中仙道の補陀寺の門前を通ると、その政繁の墓石が、必ず、涙し、汗をかいたという。この祟りを恐れた前田候は、その霊を鎮める為、加賀国能美郡大道寺村に、大道寺大明神の宮を建て、大道寺政繁の勧進供養に勤めたという。尚、直昌の子、長松丸は早川六左、吉田尚武等と秋間山中に身を潜め、長松丸が成長するや、駿河を指して出立し、徳川家康の計らいで、駿府城に出仕する父、直昌の元に行き、直重と名乗り、その後、尾張徳川家に仕え、大道寺家の家名を上げたという。また松井田城の古井戸には、千姫の化身である白蛇が棲むという伝説がある。戦いが終わり、秀吉の天下となり、松井田城の引水路を密告した町医者、藤三郎は、蛇に纏わりつかれて、狂い死にしたという。そればかりか、松井田城を陥落に導いた裏切り者の後裔が、不動の滝のお祭りなどで、不動の滝に近づこうとすると、途中、必ず白蛇が出現し、その道を遮るという。それ故、その縁者が、現在においても、祭りに参加しないという現実もあるので、不思議と思わざるを得ない。いずれにせよ、戦国に生き、江戸桜田で散った大道寺政繁という勇ましい北条の武将の最期は、哀れというしか記しようがない。

       『桜田に散る』終わり