第十六章「桐木田小町」

2021年1月10日
幻の花

 翌日、小町一行は、囚われていた陸奥の里に帰る人たちと別れ、出羽に帰る人たちと一緒に、恐ろしい地獄谷を出て、出羽に向かった。鬼首峠を越え、高松岳と神室山の谷間を越えると、そこは紫の桐の花咲く出羽の横堀であった。小町はそこで、一緒にいた出羽の人たちに父、良実がいた館は何処かと尋ねた。すると、小町の素性を知って、出羽の人たちは、びっくりした。小町が三年前に亡くなった郡司の娘と知って、直ぐに郡司の館、雄勝城に連れて行ってくれた。出羽郡司、小野葛絵は姪の小町の来訪を大いに喜び、歓迎すると共に、鬼武丸退治の褒美として、一行に衣服などの恩賞を与えた。小町は伯父、葛絵に夏が終わるまで、この出羽に滞在させて欲しいと依頼し、了解を得た。そして父、良実について都から出羽にやって来て、そのまま出羽で暮らしている衛門の命婦、茂子の住む桐木田館に雉丸と一緒に滞在することになった。伴中庸、石川長綱、平岡馬足の三人は深草の長鮮寺に逗留させてもらうことに決まった。こうして出羽に辿り着いた小町は、茂子に案内してもらい、父、良実の墓参りをしたり、小野の縁者の家や文屋の縁者の家を訪問したりした。そんな小町の姿は、その容姿の美しさから、出羽中の評判になり、都にいた時と同様、男の憧れの的となった。そんな男たちに混じって、かの恋人、伴中庸が小町に逢引を申し込んで来ても、小町は中庸を全く相手にしようとしなかった。彼女は中納言、源融から依頼を受けた仮名文『竹取物語』の創作に夢中になった。この出羽に現れた絶世の美女の噂は、あっという間に、都にまで知れ渡った。  

         〇  

  一方、都にいた在原業平は、精神的に滅入っていた。六月に紀長谷雄の妹が、服毒自殺を図り、染殿の内侍、多恵子が交際の継続を拒否し、また高子からは懐妊したとの報告があった。そんな憂鬱から逃れる為、業平は出羽を含めた東国への旅を朝廷に申し出た。主な理由は、惟彦親王の領地、常陸の国を始めとする周辺諸国の視察であった。朝廷は地方政治の巡察を名目に、業平の旅を許可した。業平はかって高子を奪い、罰せられ、陸奥へ旅した時のことを思い出し、まずは常陸の国へと向かった。従者二人を連れての気侭旅であった。途中、武蔵の国の入間家麻呂や大野広耳などの所に立ち寄り、常陸の国には、二十日足らずで到着した。常陸の国府に着くや、常陸介、藤原時長と面談し、国守が惟高親王から惟彦親王に変わったことによる不都合は無いかなどの確認を行った。時長は、こう話した。

「常陸の国は親王任国なので、国守が赴任して来ることが無く、現場を預かる者としては、責任重大です。開墾による耕作地の拡大、犯罪の取締まり、災害防止、疫病注意など、やることがいっぱいです。若くして父、高房が亡くなった後を引き継ぎ、最近、漸く落ち着きを取り戻したところです」  

それを聞くと業平は微笑んだ。

「任地を預かる御苦労、良く分かります。都で毬蹴りをしたり、和歌に興じている自分らを反省せねばなりません」

「我ら藤原一族は、帝を中心とした律令制を確立させる為に粉骨砕身、努力しております。昨年の終わり、まだ残っている蝦夷の盗賊などが襲って来るという情報をいち早く掴み、親族、藤原村雄に応援を依頼し、盗賊を捕えました」

 時長の説明に、業平は、まだ律令制の行き届いていない陸奥の国との接点にある常陸の国を守っている時長を立派であると思った。

「聞けば聞く程、厳しい任務に頭が下がります」

「異国との交渉に都の方々に較べれば、私のしていることなど、それ程ではありません。私はただ民衆を安心させ、穏やかな生活をしてもらうのが、自分の役目と考えております」  

業平は時長の常陸介としての熱心な態度に感心し、その夜は、二人で種々、語り合った。           

         〇  

 常陸の国での仕事を終えると、業平は勿来の関を越え、岩城の国に入った。海岸を北上し、浪江を過ぎ、栗原あたりから左に折れて、岩代の国、信夫の里に向かった。中納言、源融から預かって来た手紙を、信夫の里の杉野目長者の娘、虎女に渡す為であった。虎女は業平の歌人仲間の源融が陸奥按察使として、この地に赴いた時に、融と恋仲になった女であった。業平と同じ遊び人の融は都に帰る時、虎女に必ず迎えに来ると、調子の良いことを言い残して都に帰ったのだった。しかし何時までたっても、都に帰った融からの迎えの便りは無く、虎女は毎日、観音様に祈り、やがては重い病の床に臥す身となった。その噂は都にも届き、それを聞いた中納言、源融は出羽に行く友人、業平に絹織物を添えて恋歌を届けるよう委託した。業平が従者と共に杉野目長者の屋敷を尋ねると、長者は妻と共に業平を虎女の枕元に案内した。業平は絹織物に添えた源融の歌を虎女に渡した。

   みちのくの しのぶもちずり 誰ゆえに   

  乱れそめにし 我ならなくに  

虎女は中納言、源融の自分を想う気持ちが嘘でなかったのを知ると、安心して深い眠りに入った。業平は融のことを罪な男と思った。自分も融と同じような罪を犯しているであろうというのに。

         〇  

 信夫の里で滞在している散歩の時、業平は、ちょっぴり可愛い娘を目にした。そして、これといって取り立てていう程でもない平凡な人を父に持つ、その娘の許へ、秘かに通って行った。娘を盗み見て業平は驚いた。不思議なことに良く見ると、その娘の様子は、身分の無い人のところにいるような女の雰囲気では無く、田舎者でない由緒ありげな眺めだった。それで業平は歌を送った。   

 忍ぶ山 しのびて通う 道もがな

 人の心の 奥もみるべく  

娘は、その〈こっそりと、貴女の胸の中に忍び込んで行く道は無いのだろうか。貴女の心の奥の奥まで、すっかり見極める為に〉という意味の相手の心中を掴みかねている男の歌に心動かされた。彼女は限りなく男の人柄を歌同様、立派であると思った。しかし彼女は、都の女と違って、こんな粗野な田舎住まいの身には、どうすることも出来ないと、つつましく返歌もしなかった。業平は実に思慮深く、つつましやかな女であると思った。そう思うと業平は、居ても立ってもいられなくなり、彼女を欲しいと感じた。欲望を抑えられぬ業平は、二日後、強引にも彼女の所に忍んで行って、彼女から貞操を奪ってしまった。  

         〇

 無責任男、在原業平は、多くの田舎女たちと戯れながら、尚も北へ向かった。岩代の国から陸奥の国、多賀城に行き、鳴子に宿泊すると、宿の主人から、鬼首峠を越えて出羽の国に入るのは危険だと言われた。途中、蝦夷の山賊がいるというので、そこを通る道を避けた。その為、業平たちは鳴子から最上に出て、長者原経由で真室川を上り雄勝峠を越えた。そして無事、小町のいる雄勝の桐木田に到着した。業平の来訪を、小町は勿論のこと、出羽郡司、小野葛絵は喜んだ。あの有名な在原業平が、まさかこんな山奥にまでやって来るとは信じられなかった。

「在原業平様が、雄勝まで来られたと聞き、腰を抜かす程に驚きました。この地は、父祖の代より、小野一族が朝廷より、治安を任じられている美しい山河の地であり、海辺にある国府の城輪や秋田城と連携し、出羽の平和を守っております。現在、この地は、小町の亡き父、良実の善政により、蝦夷人との関係も良く、律令制が徐々に浸透しつつあります」

「それは大いに喜ぶべきことです」

「その上、この度のように高貴な方々の来訪がありますと、この地は活況を呈し、出羽に於いて益々、繁栄するでありましょう。どうか、この地に一日でも多く逗留して行って下さい」

 出羽郡司、小野葛絵の歓迎ぶりには、業平も驚いてしまった。業平は、小野葛絵から、出羽と陸奥の状況を教えてもらった。葛絵の話によれば、まだ大和朝廷に抵抗する蝦夷人がいるが、長年、蝦夷平定に当たって来た陸奥の坂上氏や出羽の小野氏は蝦夷人を公民と同じ扱いにして、族長を地域の役人に取り立てたりして、融和を深めているという。しかし、時折、派遣されて来る藤原氏の者が、無理難題を言ったりするので、絶えず用心せねばならないということであった。また小町からは、こちらに来てから、ゆっくり眠れるようになったなど、生活の有様について、種々、語ってもらった。そんな小町の話を聞いて、業平は小町を姉の寵子よりも、優しい女であると思った。業平は出羽の小野氏の歓待を受け、雄勝から国府、城輪にいる小野春枝の所に行ったりして、出羽の旅を楽しんだ。

          〇

 しかし、女心は分からぬもの。業平の感じた小町と現実の小町は違っていた。小町にすれば、少女時代、あんなに恋しく思っていたすげない男、業平が、こんな辺鄙な草深い出羽の国まで自分を訪ねて来てくれたのであるから、親切にするのは当然のことであった。だが小町は自分の美貌と肉体を求めて近づいて来る者に対しては厳しかった。ある面、気の強い女であった。彼女は、隠岐の国から伊豆に来て、都を下って出羽に向かう小町を追って来た伴中庸が、桐木田館を訪ね、再び交際を申し込んでも、全くその相手をしようとしなかった。勿論、小町の美貌に思いを寄せ、都から後を慕ってやって来た数知れぬ公達や近隣の長者たちにも目をくれなかった。そんな雨の降るように集まって来る恋情に一向に見向きもしない小町の冷酷さにもめげず、伴中庸という男は毎日、毎日、小町に胸の思いを告白し続けた。流石の小町も、深草の少将、伴中庸の純情に心を動かされた。交野での思い出が蘇った。されど、一度、中庸と別れ、片輪者にされ、人の心の移ろいやすい世の中を眺めて来た小町には、男心を、そう易々と信用することが出来なかった。それで小町は、秘かに股間のひきつれ状態を確認してから、中庸に言った。

「中庸様。もし貴男が、夜毎、夜毎に一本ずつ百種の芍薬を百夜、通って届けて下さいましたら、貴男の御心に従いましょう」

 百日も経過すれば肉体の憂鬱も完治すると、小町は判断したのであろう。小町は磯前神社の清水で身体を洗い清め、陰部の傷跡が早く治るよう毎日、祈った。一方、伴中庸は毎夜、毎夜、月の夜も、闇の夜も、雨の夜も、風の夜も、芍薬を持って、桐木田館に通いつめた。業平は、そんな中庸が、あちらこちら芍薬を探し求めて、さまよい歩く姿を見て、気の毒に思った。そして自分もまた中庸に真似て、毎夜、毎夜、菊の花を届けたら面白かろうと思い、それを実行した。かくして二人の男から毎夜、毎夜、通いつめられると、小町は自惚れ、もしかして自分は世界一の美女なのではないかと思うようになった。そして何時の間にか再び心が奢り昂って、矢張り、清和天皇の后になろうかなどという野心まで抱くようになった。業平はそんな小町をいつの間に、かくも自惚れの高い女になってしまったのだろうかと思った。反対に、恋ゆえに花の都に帰る志を捨て、配流された隠岐の国から、掟を破り、出羽の国までやって来て、野山の藪陰に百種の芍薬を探し求めて、さまよい歩く狩衣姿の伴中庸の心情を哀れに思った。そうこうしているうちに桐木田館の庭に植えられた芍薬と菊は、十本、二十本、三十本、四十本、五十本、六十本と、その数を日々、増やして行った。季節は何時の間にか秋になろうとしていた。これでいよいよ芍薬が百本目という日のことであった。小野小町は伴中庸の妻になりたく無かったので、夜にこっそりと人をやって、伴中庸の通って来る恋の通い路である寺田川の谷間にかかる板橋を取り外させ、その寺田川に取り外した板橋の代わりに、一幅の白い布を端から端まで張らせた。そしてその白い布が夜目にもしらじらと橋と見えるように仕向けておいて、夕立で水かさの増した寺田川の流れの中に中庸を落し入れ、殺そうかと、恐ろしいことを考えた。そんな罠を仕掛けられているとも知らず、愚かな恋に狂わされた男、伴中庸は、まだ陽射しの中に、わずかな残暑を感じながら、女郎花、竜胆、葛の花の咲き乱れる野辺で、最後の一本の芍薬の新種を探し求めて、さまよっていた。そんな時であった。今まで晴れ渡っていた青空の一角より、ものすごい黒雲がむくむくと湧き上がり、見る見るうちに広がって、ザーッという激しい音を立て、豪雨となった。突然の烈風豪雨に中庸は近くにあった掘立小屋に逃げ込もうと一目散に走った。次の瞬間、逃げる中庸の上に、金色の稲妻が閃いたかと思うと、凄まじい雷鳴が起こった。それは大地をつんざくような強烈な落雷であった。数時間して雷雨は過ぎ去った。雨後の雲の切れ間からは、遠く夢見るような青空が覗かれた。西空には美しい夕映えに染まった千切れ雲が浮かんでいた。雨後のきらきら光り輝く野辺には、何と落雷に打たれて焦げ死んだ、伴中庸の死体が転がっていた。その為、中庸は、その夜、百夜目だというのに小町のいる桐木田館に行くことが出来なかった。小町はてっきり中庸が激流に流されて死んだものと思い、人に隠れて泣いた。伴中庸の死体は翌日になって、村人に発見された。小町は、その伴中庸が、自分に捧げる為の芍薬を手にしたまま、落雷に遭って死んだことを知ると、人目をはばからず号泣した。嫌だ嫌だと思っていながらも、自分を死ぬ程に愛してくれていた伴中庸が、いざ居なくなってしまうと、いかに多くの男たちに言い寄られている小町といえども、中庸の悲惨な最後に胸を突かれ、泣きじゃくった。

          〇

 在原業平は深草少将、伴中庸が亡くなられた悲しみの小町のもとへ、その後も菊の花を持って通い続けた。そして、かって小町の姉、寵子に、その肉体を求めたように、小町にもまた、それを求めようとした。ところが小町は拒み拒んで、業平にそれを許さなかった。そこで業平はずうずうしく質問した。

「小町。そなたは男を近づけておきながら、陰門が開かない訳でもあるまいに、一体、どうしたことか。もう傷は治っていように」

「私は真実、心から愛してくれる男でなければ、決して操を許さぬ主義なのです」

「それは本当かな。そなたは私が姉の寵子と関係があったから、私の本意を叶えさせてくれないのであろう」   

 業平が嫌味を言うと、小町はそれを否定することもなく、何か思わせぶりな風を装った。業平が、では許して欲しいと言うと、矢張り小町は業平をじらして、簡単にその総てを許るしてはくれなかった。業平は、それでこんな歌を送って、小町のことを恨んだ。

  秋の野の 笹わけて朝の 袖よりも

  逢わで寝る夜ぞ 濡れまさりける

 その〈露深い秋の野の笹を踏み分けて来た朝の着物の袖よりも、あなたに逢えないで、独り泣き寝する夜の袖の方が、涙でしとど濡れていることです〉という歌を手に取ると、小町は業平にこんな返事を書いて送った。  〈業平様。貴男様は毎夜、毎夜、逢い難い私の身も御存知にならないで、無駄足を踏んでおいでになります。それは海松布もない海に、絶えず海人たちが足のだるくなる程、やって来るのに似ております。多くの女性に思われながら、私のような見処の無い女のもとに、嫌とも思わず、中絶えもせず、その逢瀬を求めて、足のだるくなる程、しきりに通って来る貴男様のお気持ちは、重々、お分かりになるのですが、詰まらない私を知らぬ今のうちに、お諦めになられた方が、賢明かと思われます。どうか私のことは、お考えにならないで下さい。〉

 業平は、その小町の自惚れの程に、いささか憤慨せずにはいられなかった。その奢り昂った人の情を情とも思わぬ冷たい心に、業平はとうとう立腹し、或る日のこと、菊の花を投げ捨て、都に帰ると小町に言った。小町はそれをとても悲しんだ。そして業平が帰京するにあたって、自分が出羽に来る時、逢坂の関まで業平に送ってもらったように、可能な限り遠くまで業平を送って行って見送ろうと思った。

         〇

 小町は陸奥の国の国府のある多賀城まで業平を見送りに行くことにした。多賀城まで遠い事から、出羽郡司、小野葛絵らも業平の見送りに同行してくれることとなった。一行は雄勝峠を越え、真室川から長者原、最上、鳴子、色麻を経て、三日程して多賀城に到着した。業平たちは陸奥の国府で、御春峰能らに歓迎され、東北地方の和平について、論議し合った。それから、いよいよ業平と別れる時になり、小町はせめて心ばかりの餞別をしようと、業平を近くの桔梗の名所、沖の井、都島に誘った。業平と小町は薄紫の桔梗の花咲く岩場で、種々、語り合った。業平にこのようにして酒を振る舞うのは、もう今を限りであろうかと思うと、小町は悲しくなった。いざ別れようとする時に小町は歌った。

  浅からぬ 玉造江に こぐ舟の

  音こそたてね 君と別るる

  おきの火で 身を焼くよりも 悲しきは

  みやこしまべの 別れなりけり

 業平は自分が都に帰り、小町が出羽に残る、その別離の悲しみの歌に感心したが、帰るのを止めて、この地に留まろうとは思わなかった。このような辺境の地で、一生、埋もれてしまいたく無かった。出来得れば、この美貌の小町を、再び都に呼び戻したかった。業平は小町に、早く都に戻って来るようにと言ってから、また会う日までの形見であると、自分の鏡を小町に渡し、歌を詠んだ。

  みちのくの つらき別れと おもへども

  また都にて 逢ふ瀬ありなむ

 業平の返歌に、小町は心動かされた。このまま業平について行きたかった。しかし今更、そんなことは言えなかった。業平はもと来た時と同じ従者を引き連れて都へ帰って行った。

          〇

 小町は数日後、小野葛絵らと共に、再び出羽に戻った。途中、鳴子の温泉に浸かり、陰門の傷が、わずかにひきつれはあるものの、すっかり治っているのに気付いた。すると小町は、急に都が恋しくなった。このまま、出羽の縁者に囲まれ、大切にされ、この地で一生を過ごすのも良いが、母のいる都の生活にも未練があった。そしてとうとう帰京することを決意した。早速、その旨を出羽郡司、小野葛絵に申し出ると、葛絵は、ほっとした顔をした。

「私も何時、小町が帰京するのか、心配していた。しかしこちらから帰京を勧めるのも、何故か追い出すようで、帰京の事を口にするのを、躊躇していた。帰京する決心が出来たか?」

「はい。葛絵様には、本当に長い間、多人数でお世話になり、申し訳ありませんでした。また伴中庸様の埋葬までしていただき、何とも感謝の申し上げようが御座いません。心より深く深く御礼申し上げます」

「気にすることはない。同じ小野氏の血を引く、小町のことを思えば、私のしたことなど、当然のことだ」

 小町は誠実な伯父、小野葛絵の言葉に涙ぐんだ。そしてこの地で晩年を終えた父、良実と葛絵の姿を重ねてみた。彼はこの過酷な出羽の任務を朝廷から命令され、拒みたくとも拒むことが出来ないで、赴任して来たに違いない。小町は葛絵に帰京することを納得してもらってから、桐木田の衛門の命婦、茂子に同じことを伝えた。すると衛門の命婦は、折角、親しくなった小町と別れることを残念がった。

「この日の来ることは覚悟していましたが、いざ、この日が来たかと思うと、辛く悲しい気持ちでいっぱいです。でも雪の降らないうちに出羽を離れることは正解です。この雄勝は豪雪地帯で、冬の極寒の厳しさは、都育ちの小町様には耐えられるものでは御座いません。お父様にも、冬の間、陸奥の多賀城に移動することを、お勧めしたのですが、任地を離れてはならぬと、頑なに言い張り、無理をなされ、結果、帰らぬ人になってしまわれました」

 茂子は、良実を亡くした時のことを思い出し、目にいっぱい涙をためて、愛する良実の死を口惜しがった。小町は雪国の豪雪の恐ろしさを知り、悲しさに震える茂子を労わるが如く、やさしく声をかけた。

「茂子様。この積雪の地は、茂子様のお身体にも良く御座いません。これを機会に、小町と一緒に都に帰りましょう。この地は宮廷にお仕えして来た茂子様の暮らす所ではありません。まだ沢山の危険が潜んでおります。この地でのことは、男たち武人にお任せして、私と一緒に都に帰りましょう」

「それは出来ません。私は良実様と出羽に来る時、この地で骨を埋めることを約束して参った身です。良実様を裏切ることは出来ません。私はここで良実様の墓守りをして、一生を終えますので、安心して、お帰り下さい」

「茂子様・・・」

 小町は衛門の命婦、茂子と抱き合って泣いた。かくして小町は桐木田館を茂子に任せ、深草の長鮮寺に逗留している三人を連れ、業平を追うようにして、都へ帰ることとなった。

おきの火で 身を焼くよりも かなしきは 都島べの 別れなりけ