第十五章「みちのく小町」

幻の花

みるめ刈る あまの行き交ふ 湊路に 勿来の関も 我は据えねど

 それから小町たち四人は那珂、高萩などを経て、三日ほどして、岩城の国、菊多の里に到着した。そこの宿で小町は無名の歌を宿の主人から受け取った。

  恋しきに 命をかふる ものならば

  死ぬはやすくぞ あるべかりける

 その歌の文字は見覚えのある文字であった。小町は、はっとした。それは隠岐の国に配流された恋人、伴中庸の文字であり、それをこの地で手にするとは、全く信じ難かった。配所からの脱走は重罪である。なのに中庸は小町を慕って、命を賭し、この地までやって来ていた。そんな無謀なことがあって良いのか。幼い息子、元孫、叔孫の二人を隠岐に残して、こんな遠国にまでやって来た中庸の気持ちを思うと、身体中が燃えた。夜になると、その中庸が、こっそり、小町の宿に忍んで来た。小町は潜んでいる中庸に、部屋の中から歌を送った。

  陸奥に 世を浮島も ありてふを

  関こゆるぎの いそがざらなむ

 小町は、中庸に歌を送りながら困惑した。中庸に抱かれてはならない。中庸に抱かれて、以前と変わってしまった片輪者であることが発覚しては困る。小町は部屋に侵入して来た中庸の求めを頑なに拒否した。

「小町。そなたは何故、この中庸の求愛を頑なに拒むのか。以前、互いに愛し合った仲ではないか。これから向かう陸奥には、世を憂く思わせる浮島が沢山あるという。だから、この勿来の関を越える間は、急がずに互いの再会を喜び、たっぷりと愛を貪ろうではないか」

「なりませぬ。私は、かっての小町ではありません。御存じのように私は神に仕える身になってしまったのです」

「小町。中庸は伊豆に流された父、善男の病気見舞いに伊豆に来て、そなたが都を下って駿河を通過したことを耳にした。そして一目散に、その後を追って来たのだ。病床の父を残して、そなたを追って来た中庸の求愛に応えて欲しい」

「なりませぬ。私は神に仕える女。かってのように貴男様を受け入れることは出来ません。もし貴男様が私を抱くようなことがあれば、貴男様は恐ろしい天罰を受けます」

 小町は、あくまでも拒み続けた。そして涙ながらに歌った。

  みるめ刈る あまの行き交ふ 湊路に

  勿来の関も 我は据えねど

 中庸は小町の心境変化を理解することが出来なかった。中庸は悩んだ。ここから危篤状態の父のいる伊豆に戻るべきか、このまま小町を追って出羽まで行くべきか、決断せねばならなかった。結果、父、善男のことは、弟、善魚たちに任せて、自らは出羽に行くことにした。

          〇

 かくて中庸を加えた小町一行、五人は菊多の里から夏井川に沿って北上し、岩城の国の小野の里に立ち寄った。ここは、かって小町の祖父、小野篁が館を築いた所で、叔母の吉子が生まれた故郷でもあった。吉子は仁明天皇の更衣になった人であるが、小町が幼い時に、仁明天皇の後を追って命を絶った為、小町は会ったことが無かった。母からは、とても美人だったと聞いていた。また雉丸も、ここの生まれだった。六歳になった吉子を都からの使者が迎えに来た時、雉丸は、吉子の御供として都に同行し、以来、小町の家に仕えているのだった。従って雉丸の母と兄弟も、この里にいたので、二日間程、ここで過ごした。それから一行は信夫の里などを経て、陸奥の国に入り、多賀城に到着した。中庸は、ここは、かって自分の一族である陸奥守兼鎮守将軍、大伴家持が任務した場所であると語った。小町は中庸の説明から、万葉歌人、大伴家持の歌を思い浮かべた。

  春の苑 紅にほふ 桃の花

  下照る道に 出で立つをとめ

  春の野に 霞たなびき うら悲し

  この夕影に 鶯 鳴くも

 尊敬する万葉歌人が、この地で没したとは、全く驚くべきことであった。小町はまた父、良実が出羽に赴任する折、姉、寵子と自分に話してくれた『玉造小町』のことを思い出し、翌日には塩釜大明神を詣でたりして、玉造小町のことを想像した。それから、名生館という所まで行き、そこで一泊した。宿の主人は、あと鳴子に泊れば、もう出羽の国であると、荒雄岳を指差して教えてくれた。途中にある鳴子の温泉は、あらゆる病気を癒してくれると語った。小町は明後日に父の墓参りが出来ると思うと、心が躍った。早く桐木田の館を尋ねたかった。そこには小野家の縁者もいれば、文屋家の縁者も暮らしていて、自分を明るく迎えてくれるに違いなかった。

           〇

 小町は名生館の主人にすすめられた鳴子の温泉に泊まると、温泉に浸かり、その美しい身体を清め、傷口を癒した。何故か塞がれている陰門が少し開いたようで、気持ち良かった。その温泉の心地良さにうっとりしている、その時であった。突然、三人の男が露天風呂に現れ、小町を裸のまま布袋に押し込めた。小町が助けを求めたが、それは声にならなかった。男たちは、あっと言う間に小町をさらって、漆黒の闇の中に消えた。騒がしくなったのは、それからであった。夕食の準備が整ったというのに、小町が部屋に現れないので、一同、辺りを捜したが、小町の姿は何処にも無かった。やがて宿の主人が、血相を変えて走って来て、中庸に告げた。

「姫様が、さらわれました」

 中庸はただならぬ報告に大声を上げた。

「な、何じゃと!」

「村人が、女の声を耳にして、道に出ると、男が三人、人を袋に入れて担いで行くところだったそうです」

「それは確かか?」

「は、はい。一人が紅い天女の衣のようなものを手にしていたそうで、多分、蝦夷鬼の鬼武丸らの仕業だろうと」

 何ということか。亡父、良実の墓参り寸前に、蝦夷の悪党に拉致されようとは、何と不幸なことか。中庸は怒りに燃えた。主人と中庸の会話を聞きつけ、小町の従者三人が姿を見せ、二人に訊いた。

「小町様が、どうされたじゃと?」

「悪党どもにさらわれた。助け出さねば」

「その悪党どもの住処は何処じゃ?」

 石川長綱が主人に確認すると、主人は恐る恐る答えた。

「地獄谷の青鬼館に住み付いております」

「なら、直ぐに案内してくれ」

 中庸らに案内を依頼されると、主人はうろたえた。

「と、とんでもない。相手は狂暴な獣と同じです。こんな夜中に、そんな所へ乗り込んで行くのは無茶です。私はお止め申します」

「だからと言って、小町様をそのような者たちの為すに任せておいて良い筈がない」

 雉丸が火を吐くような勢いで叫んだ。主人は戦慄した。すると冷静を取り戻した中庸が言った。

「相手は只者で無い悪党どもだ。多くの村人を連れて出かけては気づかれる。案内人を一人にして、私どもだけで青鬼館に行こう。その前に腹ごしらえして策略を考えよう」

 一同は夕食をしながら、それぞれの役割を決めた。先ず首領の相手は、剛力の石川長綱が務め、その配下は伴中庸と平岡馬足が相手をして、雉丸が小町を救出して逃げることにした。四人で打ち合わせしている間、主人が青鬼館に詳しい案内人を二人、連れて来た。村人が、一人で案内するのを断った為、二人連れて来たという。中庸らは案内人に地獄谷の地形、青鬼館の間取りなど、こと細かに教えてもらった。そんな所に、同宿していた舜光、滋念という山伏が参加し、悪党退治に加勢してくれることになった。結果、合計八人で地獄谷に行くことになり、中庸たちは勇気百倍となった。

          〇

 八人は武器などを取り揃え、荒雄岳の麓にある地獄谷に向かった。案内人二人は、夜道を先に立って幅の狭い谷川沿いの道を親切に誘導してくれた。途中、案内人は蝦夷鬼たちの恐ろしさについて、中庸たちに話した。

「奴らは獣です。さらった若い娘たちを回して遊んだ後、それを殺し、その血をしぼって飲み、肉を切って食べるそうです。急ぎませんと、大変なことになります」

 それを聞いて、雉丸は足がすくんだ。しかし責任は重い。八人が険しい山道を川に沿って登って行くと、暗い谷間の奥に灯りが見えた。そこが青鬼館であると伝えると、案内人は逃げ帰った。残った六人は、それから秘かに館に近づいた。館の庭に忍び込み、屋敷の縁側に上がり、部屋の障子に小さな穴をあけて、中を覗くと、部屋の中は酒宴の最中だった。中央に首領の鬼武丸と弟、熊武丸が座り、子分を前に小町に舞いを踊らせ、酒宴を楽しんでいた。蝦夷鬼たちは盗んで来た食べ物をたらふく食べ、酒をがぶがぶ飲み、さらって来た村人の娘や蝦夷の女たちを相手に、乱痴気騒ぎをして無我夢中だった。そこへ中庸たち六人が踏み込んだ。

「動くな!」

「な、何だ。てめえらは?」

 突然だったので、流石の鬼武丸もびっくりして叫んだ。中庸は落ち着き払って鬼武丸を睨みつけた。

「我は右衛門少将、伴中庸である。そこの姫君を返してもらいに来た」

「何だと。この女は俺の女だ。返すものか」

 鬼武丸は弟、熊武丸に目配せして、逃げようとする小町を摑まえようとした。それを馬足と雉丸が、そうはさせぬと遮った。すると鬼武丸が激昂した。髪を炎のように逆立て、裂けるような口から長い両歯をのぞかせ、毛むくじゃらな熊のような手で太刀を握った。その姿は、まさに鬼のようであった。鬼武丸は中庸たち侵入者に向かって大音声を上げた。

「おのれ。この鬼武丸様に逆らうというのか!」

「お前らは自分たちがしている悪事が分からぬのか」

「それは、こっちの台詞だ。てめえらは我ら蝦夷人の土地を奪取する為、それに抵抗した我らが曽祖父、大武丸の首を、この地獄谷で刎ねたではないか」

「だからといって、徒党を組み、物を盗んだり、人さらいして良いというのか」

「うるせえ。そんなこと分かるものか。てめえら大和兵の悪事こそ、許されるものではない。我らのしていることは、御先祖様の仇討ちだ。子分ども、こやつら全員、ぶっ殺してしまえ」

「おおっ!」

 鬼武丸の子分たちは、手に手に太刀や鎌や槍などの武器を持ち、六人に向かって、どっと襲い掛かって来た。剛力、石川長綱は長刀を握り締め、鬼武丸の子分を払い除け、鬼武丸を狙った。それに気づくと鬼武丸は、かっと目を開いて、長綱の頭めがけて切り付けて来た。

「てめえら全員、血祭りにしてやる!」

「そうはいかぬ」

 長綱は、それをひょいとかわし、長刀で、鬼武丸の片目を突いた。瞬間、鬼武丸の片目から血が噴き上がった。片目を突き刺されて、鬼武丸が絶叫した。

「うわーっ!」

 その吠えるような叫び声を聞いて、鬼武丸の弟、熊武丸が長綱に跳びかかった。長綱は背後から首を絞められ、引き倒されそうになった。

「首領を殺そうとする奴は、だだでおくものか」

 それを目にした中庸が、後ろから熊武丸の肩を切り付けた。熊武丸は長綱から手を離し、大声を張り上げ、子分たちに命じた。

「何をぐずぐずしている。早く、こやつらをやっちまえ!」

 しかし子分たちは、馬足、舜光、滋念に傷めつけられ、それに応えられる子分は一人もいなかった。小町と雉丸は部屋の片隅で、その激闘の様を奮えながら見ていた。片目を失った鬼武丸は刀を振り回し、子分の名を呼んだが、鬼武丸に声をかける子分は一人もいなかった。状況不利と察した鬼武丸は庭に逃げ出そうとした。ところが片目が見えず、縁側から庭に転げ落ちた。それを見て、長綱が躍り出て、縁側から舞い降りながら、鬼武丸の片口から右手を切り落とした。太刀を握ったままの鬼武丸の片腕が、庭に転がった。

「くそっ」

 鬼武丸は、もう駄目だと思ったのであろう。血の気を失い、歯を食いしばって悔しがった。首領がやられたのを見た子分たちは戦意を失い、そろって、かき消すように逃げ去った。鬼武丸と熊武丸と子分一人の三人だけが、庭に伏して、哀願した。

「命だけは、お助け下さい」

「中庸様。こやつらの首を刎ねてしまいましょう」

「そうだな。生かしておいても、良いことは無かろう」

 その言葉に鬼武丸らは小刻みに震え、斬首されることを覚悟した。中庸の前に三人を並ばせ、長綱が、その首を刎ねようとすると、小町がそれを制した。

「それは、なりませぬ。貴男たちは先程、この鬼武丸が言ったことを聞いていたでしょう。この鬼武丸の曽祖父、大武丸は私たち大和人に殺されたのです。鬼武丸のかかる恨みは、私たち先祖への恨みです。ここで私たちが、また同じことをしたなら、逃げた鬼武丸たちの子供たちが、再びまた同じ事をするでしょう。恨みは何処かで断ち切らねばなりません。この者たちの首を刎ねてはなりません」

「そうとはいえ、生かしておいては」

「ならば中庸様、この者たちを殺す前に、私の首を刎ねて下さい」

「な、何と」

「中庸様。この鬼武丸は蝦夷人とはいえ、私たちと同じ、生身の人間です。天帝より生かされて、この世にいる者です。私たちと同じ人間なのです。その天帝に生かされている私たちが、その天帝に生かされている鬼武丸らの命を奪うことは、あってはならない悪行です。この者たちをどうか助けてやって下さい」

 小町は中庸らに涙ながらに訴えた。それを聞いて鬼武丸らは号泣した。小町に諫められた中庸は、三人の斬首を取り止め、三人をその場から追放した。三人は、小町に深く頭を下げると、暗闇の中に消えて行った。小町は中庸たちに救い出され、安堵した。そこへ鬼武丸らに囚われていた人たちが、ほうぼうから出て来て跪き、小町たちに手を合わせて礼を言った。囚われていた長老が、助けられた者たちに命令し、青鬼館に灯りを点け、六人に感謝する宴を催した。その夜、小町を含む七人は青鬼館に泊り、鬼首温泉に浸かり、ほっとした。小町は蝦夷人と向き合いながら平和を願い出羽で死んだ亡き父、良実の労苦に思いを馳せた。