第二章「南国小町」

2020年7月31日
幻の花

肥後の国の 男に都より 宮仕への便りあり その男よろこびて 妻むすめと共に 都に向ひけり

 『古今和歌集』仮名序に於いて、紀貫之は小野小町をこう評している。

   小野小町は、古への衣通姫の流れなり。

   あはれなるようにて強からず、

   いはば美き女の悩めるところあるに似たり。

   強からぬは女の歌なればなるべし。

  この小野小町の出生と状況について、今回、語ることにしよう。

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  小野小町は承和十二年(八四五年)十月二十四日、肥後国山本郡小野の里で生まれた。このことは配所から都にいる父、篁宛てに、小野良実が出した次女出生の手紙から確認出来る。小町の母は文屋秋津の娘、妙子で、かの太政大臣、藤原良房が彼女に横恋慕したという話は、余りにも有名である。小町はその文屋秋津の娘、妙子と小野良実との間に生まれた。ここで私は小野良実と秋津の娘、妙子について語らねばならない。小野良実は小野家の生まれではなく、征夷大将軍従二位大納言兼右大将、坂上田村麻呂の曽孫で、兄は従五位上、左近衛少将、陸奥守鎮守府将軍、坂上高道である。良実は生来の英才を小野篁に認められ、成人するや、坂上氏より小野氏に入り、藤原氏の勢力に対抗する才知優れた者として成長したが、承和五年(八三八年)父、篁が遣唐使としての任務を拒否するや、当時の縁座の法に問われ、父の罪に準じて、肥後国山本郡小野の地に配流された。この時妙子は良実との熱烈な恋愛の結果、良実の妻室者となっていたが、良実の短期間の配流ということで、肥後国には同行しなかった。承和七年(八四〇年)篁が許され都に召還され、良実も近く赦免され、帰洛することになっていたが、承和九年(八四二年)七月、時の皇太子、惟貞親王を擁立しようと、春宮亮帯刀、伴建岑、但馬権守橘速逸勢、参議文屋秋津等が企んだ天皇擁立計画が露見し、秋津が都から追放されるや、その罪は一門ことごとくに波及し、良実も秋津の娘婿という理由により、同地での拘留期間を延長された。このことを知ると、文屋秋津の娘、妙子は良実を慕い、泣きながら遠い肥後まで、恐ろしさも忘れ、良実恋しと下向した。かくして小野良実と秋津の娘、妙子は、南の極みで結ばれた。そして承和十年(八四三年)十月、長女、寵子が生まれた。次の子は承和十二年(八四五年)十月二十四日に生まれた。良実は生まれたばかりの珠玉のような次女を見て驚いた。その天成の美貌は祖父、坂上田村麻呂が塩釜明神に詣でた折、拾って育てたという玉造小町かと疑う程の美しさだった。良実は玉造小町を見たことは無かったが、兄、高道らから、その妖艶ぶりを聞いていたので、生まれた時の玉造小町はこんなだっただろうなと思った。そしてその玉造小町にあやかり、自分の可愛い次女に小町と命名した。こうして、小野小町の人生が始まった。

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  南国生まれの小野小町が上京したのは仁寿二年(八五二年)のことである。理由は祖父の従二位東宮学士、左中弁参議、小野篁が病床に伏したからである。朝廷は篁の容態が悪化すると、承和五年(八三八年)十二月に篁の罪に準じ、肥後国山本郡小野の地に配流した小野良実を直ちに赦免し、小野良実に即刻、帰京を命じた。小野良実は父、篁の安否を気遣いながら都に向かった。季節は秋であった。肥後国からの旅は大変なものであった。摂津国菟原郡に着くと、小野良実召還の迎として、在原業平が、小野良実の一行を迎えに来ていた。良実は妻子及び従者数名を伴い、遠い旅をして来たのであるが、幼い頃、一緒に遊んだ年下の業平の顔を見ると、今までの疲労も、一度に吹き飛んだ。名門坂上家に生まれ、小野家の養子になり、参議、文屋秋津の娘と恋仲になった良実。反藤原勢力側に生まれたが故に、生来の英才を持ちながらも、長年、地方に追放されたままであった良実。その不遇の良実は、旧友、業平に会えた嬉しさに涙ぐんだ。良実は業平と再会を喜び合ってから、業平に文屋秋津の娘である妻と長女、寵子及び次女、小町を紹介した。その女たちを見て、プレイボーイの業平は、美しい女たちだなと思った。しかし寵子は十歳、小町は八歳。恋の戯れには二人ともまだ余りに幼過ぎた。

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 夜になると良実と業平は祝杯を上げた。そしていろんなことを語り合った。

「まこと今は右大臣、藤原良房殿の天下じゃ。左大臣、源融殿も人気はありはするが、政治的力量というものは、余り御座らんように見受けられる」

「それにしても藤原良房殿は男らしくない。卑怯な男じゃ。業平殿は、どのようにお考えか知らんが、それがしは彼の為に、紅涙の思いを重ねて来たこと十数年。父、篁を理由に良房殿は、朝廷から信任も厚く衆望も担っていた坂上氏の血統を引くそれがしを、肥後国まで配流したのじゃ。彼は藤原氏の勢力を確固不動とする為に、始終、他氏を敵視し、その排斥を企ててばかりしている。他人の秀才賢明を妬み、その為の犠牲を何とも思わない。全く鬼のような男じゃ。承和九年の政変の時もそうじゃ。妻の父、文屋秋津は春宮亮帯刀伴健岑や但馬権守橘逸勢らと計りもしないのに、その一味同心として巻き添えを食い、罰せられたじゃ。また事件を良いことに、それがしが秋津の娘を妻としていることから、彼は父、篁に続いて、それがしを帰洛させようとしていた朝廷の意向をまた変更し、それがしを以後十年間も肥後国山本郡に留置させることにしたのじゃ。いかに恋慕していた女が、それがしの妻になったからとて、余りにも酷過ぎるとは思わぬか。余りにも酷過ぎると・・・・」

「いや。全く酷い冷酷非情なお話じゃ。それに較べ、小野篁先生は立派なお人だ。朝廷に召還されてより、不遇な貴方様たちの身の上を案じ暮らしたその悩みの程といったら、並々ならぬものだったでしょう。病床に伏すや、先ず貴方様のことを考え、貴方様赦免の嘆願文徳天皇に直接、ぶつけられた。『臣、齢、老年に及び、多病にして朝議に仕え難し。願わくば良実をして朝廷に仕え奉らんことを・・・・云々』の文章は、理を尽くし、情に訴え、切々と天皇をはじめとする廷臣の心を動かし、即日、勅許の宣旨を下さしめたということです。私も幾度か小野篁先生にお会いして論議したものですが、先生のような立派な方は、滅多いるものではありません。貴方様やお孫さんのお顔をご覧なされたら、さぞかし先生もお喜びのことでしょう。兎に角、貴方様の帰洛は実に目出度く、私たちにとって喜ばしきことであります」

 小野良実と在原業平の話は長く続いた。旅の疲労の為か、良実の長女、寵子はもうとっくに眠ってしまっていたが、都一の色男、在原業平の美しさに魅かれて次女の小町は、一向に眠ろうとしなかった。小野小町の初恋の人。それは、あの伊勢物語』の主人公、在原業平であったかも知れない。

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 小野篁の嘆願書により、ようやく赦免された小野良実一家は、仁寿二年(八五二年)秋も終わりの時、山城国山科郡小野の里に到着した。その小野良実一家を、小野篁の死が待っていた。十二月二十二日になると、博学にして詩文に長じた左大弁参議、小野篁は薬石効無く、享年五十一歳をもって逝去した。この小野篁の死を、文徳天皇をはじめ、多くの人々が悲しんだ。だが幼い小町には、その悲しみが何であるか分からなかった。それにしても小野篁という人は男らしい立派な人であった延暦二十年(八百一年)敏達天皇の苗裔、正四位下、参議、小野岑守の長男として生まれ、弘仁十三年(八二二年)文章生となり、天長五年(八二八年)に大内記となった。それから蔵人、式部少丞を経て、仁明天皇が即位し、淳和上皇の皇子、恒貞親王が皇太子に立てられた天長(八三三年)に東宮学士に任ぜられた。だが世は思うようにうまくばかり運ばれるものでは無かった。承和三年(八三六年)春三月、小野篁は遣唐副使を仰せつけられ、四月、正使、藤原常継と一緒に紫宸殿にて別離歓送の宴に招かれ、天盃、御衣、砂金、絹布等を賜った。そして七月、大宰府より四隻の船で出航したのであるが、途中、暴風雨に襲われ、止む無く大宰府に戻った。承和四年(八三七年)三月、再び篁に勅命が下り、翌年七月、出航の間際に、大使、藤原常継と頑丈な船の奪い合いとなり、衝突した。命がけの渡海であるから、頑丈な船に乗りたいのは理解出来るが、副使であるなら、大使に従うべきである。ところが篁は仮病を使って乗船を拒んだ上に『西道謡』という詩を作って、遣唐使、藤原常継を誹謗中傷して、胸中の鬱憤をぶちまけた。勿論、嵯峨上皇の逆鱗に触れたが、流石、博学大才、詩歌筆幹、弁舌兼備の小野篁、罪一等を減ぜられ、十二月に、隠岐国に流された。篁は流される時に、都にひとのもとに歌を送った。

   わたのはら 八十島かけて 漕ぎ出でぬ

   人には告げよ 海人のつり舟

   おもひきや ひなの別れに おとろへて

   海人のなはたき 漁りせんとは

 この時、篁の養子、小野良実も縁座の法に問われ、肥後国に配流されたのだ。承和七年(八四〇年)二月、流人、小野篁は、父、参議、小野岑守が病になった為天皇より赦免され、都に帰った。しかし、篁の養子であり、坂上広野麻呂の遺児である小野良実は赦免されなかった。篁が都に帰ってから二ヶ月後、篁の父、岑守は死去した。翌年、承和八年(八四一年)篁はもとの位に復帰し、それ以後、蔵人頭に、承和九年(八四二年)六月、陸奥の太守、同八月、東宮学士、式部少輔を兼ねるなど、官途順調となった。承和十二年(八四五年)正月には従四位下を授かり、左中弁の要職を経て、承和十四年(八四七年)正月には参議となった。更に嘉祥元年(八四八年)信濃守を兼任し、仁寿元年(八五一年)近江守、その後、従三位二位と、朝廷からの信任による、その昇進ぶりは目覚ましいものであった。それは篁という人物が、物事に対して、誠実で男らしかったからであろうか。その偉大な人物を失い、息子、小野良実をはじめ、多くの人々が嘆き悲しんだ。文人、官人が小野家に参集し、篁の墓前に沢山の花を飾った。小町にとって、この祖父の死は全く夢の出来事のようであった。